エレイソン・コメンツ 第259回 (2012年6月30日)
聖ピオ十世会が現在の厳しい試練を乗り越えられるかどうかにかかわらず,リベラリスト(自由主義者)たちは聖ピオ十世会を自殺に追い込もうと誤(あやま)った議論を仕掛け続けるでしょう.その類(たぐい)の議論を2点ご紹介します.
最初の議論は,聖ピオ十世会が第二バチカン公会議下のローマ教皇庁とのなんらかの実務的合意(教理に関しないもの)( “some practical (non-doctrinal) agreement with Conciliar Rome” )を受け入れるべきかをめぐる最近の論争に絶えず出てきます.単純な議論です.つまり,カトリック教の指導者(もしくは指導者たち)は神から生じる職責上の品格( =諸々の恩寵.“graces of state” )を備えているのだから,その人のことを批判せず自動的に信頼すべきだというのです.これに対する答え:むろん神は常に指導者たちだけでなく私たちのすべてに職責( 訳注・=すべての人間が人として生きていく上で守るべき義務.“duty of state” )を果たすのに必要な自然的援助や超自然的恩寵( “the natural assistance and/or supernatural grace” )を与え続けておられますが,私たちにはそれを受け入れるか拒(こば)むかを決める自由意思があります.もし,すべての教会指導者がその天与(てんよ)の職責を受け入れて恊働(きょうどう)してきたとすれば,どうして裏切り者ユダ( “Judas Iscariot” )が現れることなどあったでしょうか? なかったはずです.また同様に,それならどうして第二バチカン公会議などが出現していたでしょうか? そんなことがあったはずがありません.職務上の品位に基づく議論はそれが単純なのと同じくらい愚かで馬鹿(ばか)げたものです.
2番目の議論はもっと深刻です.これは先月(訳注・2012年5月を指す.)にJ.L.さんという男性が英国で発行されているカトリック伝統派の定期刊行物に寄稿した10ページの記事の中で提唱しているもので( “It was put forward last month in a ten-page article by a Mr. J.L. in a conservative Catholic periodical in England,…” ),ローマと聖ピオ十世会との間の合意に好意的な立場をとっています.以下,もちろん短縮はされていますが,論旨は曲げずにその要点をご紹介します.いまカトリック教会は外部(たとえばアメリカ政府),内部(たとえば善良な生活を愛するが神学理論など知らない司教たち),そして最上位レベルではスキャンダルや内紛(ないふん)にまみれたバチカン当局からの猛攻撃を受けています.教皇は四囲を包囲されており,たとえ第二バチカン公会議を信頼しているにしても,自分が信じる教会の過去のまっとうな影響力を再建しようと聖ピオ十世会の助けを求めています.ブクス閣下 (=モンシニョール・ブクス.“Monsignor Bux”.)(訳注・「モンシニョール」は高位の聖職にある司祭〈=神父〉に対する尊称〈そんしょう〉.) が教皇自身の呼びかけを以下のように口にしています.すなわち,もし聖ピオ十世会が実務的な合意を受け入れるなら,教会全体だけでなく聖ピオ十世会をも大いに利することになるだろうと.以前,聖ピオ十世会で高い地位にあったオラニエ神父( “Fr Aulagnier, a former high-up SSPX priest” )も明らかに同じ考えです.
J.L.様.あなたの教会への愛とその問題に対する認識,教皇へのご心配,彼を助けたいというお気持ちには満点を差し上げます( “…full marks for…” ).だが,教会の問題がどこから生じているのか,聖ピオ十世会とはどういうものなのかについてのあなたのご理解には低い点しかあげられません( “…but low marks for…” ).オラニエ神父を含め,今日の教会内や世界中のおびただしい(=膨大な,無数の)数の人たちと同じように,あなたは教理の根本的な重要性を見落としています( “Like one zillion souls in today’s Church and world, including Fr. Aulagnier, you miss the absolutely basic importance of the doctrine of the Faith.” ).
アメリカ政府がカトリック教会を攻撃するのは教会が弱体だからです.教会が弱体なのは,司祭たちのお粗末(そまつ)な行動(言動・挙行・振る舞い)が天国,地獄,罪,天罰,贖罪(しょくざい),ご加護(かご),真のミサ聖祭で捧げられる絶え間のない購(あがな)い主(=イエズス・キリスト)の犠牲などについての貧弱(ひんじゃく)な理解に基づくものだからです( “…the bishops’ poor behavior follows on their poor grasp of the doctrine of Heaven, Hell, sin, damnation, redemption, saving grace and the Redeemer’s ever-present sacrifice in the true Mass.” )(訳注後記).司教たちが,そうした諸々の世を救う真理について貧弱な理解しかしていないのは,なかんずく諸司教の中の主たる司教( “the Bishop of bishops” )(訳注・ローマ教皇のこと〈=ローマの司教〉.)がそれを半分程度しか信じていないからです.教皇ご自身は半分しか信じていません.なぜなら,ご自身の残り半分は第二バチカン公会議を信じているからです.第二バチカン公会議は(あなたもお認めのように)神の位置に人間を置く目的でその文書類に埋(う)め込んだ恐ろしいほどの曖昧(あいまい)さをもって神の真の宗教を台無しにしています( “Vatican II undermines all the true religion of God by the deadly ambiguities planted throughout its documents (as you recognize), and designed to put man in the place of God.” ).
J.L.様.誤った教理が根本的な問題なのです.神のご加護により聖ピオ十世会はこれまでイエズス・キリストの真の教えを守ってきました.だが,もし聖ピオ十世会がその教えの半分しか信じていない教会当局者たちの影響下に身を寄せるなら,彼らの過(あやま)ちに対する攻撃をやめることになるでしょう(それはすでに起きつつあります).そして聖ピオ十世会は終(つい)には過ちを推(お)し進めることになるでしょう.また過ちとともにあなたの言うあらゆる恐怖がやってくるでしょう.それはとんでもないことです!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第5パラグラフの訳注:
「真のミサ聖祭で捧げられる絶え間のない購(あがな)い主(=救世主イエズス・キリスト)の犠牲(ぎせい)」 “the Redeemer’s ever-present sacrifice in the true Mass” について.
(補足)
ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” のお言葉より
①“THE MASS OF ALL TIME” (英語)
“La messe de toujours” (フランス語)
「いつの世も変わらぬミサ聖祭」
②“The Mass of All Time Versus The Mass of Our Time”
「永遠に変わらないキリストの犠牲のミサ聖祭(聖伝)」対「私たちの新しい(現代の)時流に合わせた新しいミサ聖祭(第二バチカン公会議)」
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補足の続きを後から追加します.
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