2012年7月29日日曜日

263 公会議感染症 7/28

エレイソン・コメンツ 第263回 (2012年7月28日)

(カトリック)信仰を持ち続けたいと願うカトリック信徒たちが,たとえば王たるキリスト会や聖ペトロ会へ所属しているため公会議派教会の一部とみなされる司祭がとり行う(=挙行〈きょこう〉する)トレント(公会議)式ミサ聖祭に参列することは許されるでしょうか( "May Catholics who wish to keep the Faith attend a Tridentine Mass celebrated by a priest who is part of the Conciliar Church, for instance by his belonging to the Institute of Christ the King or to the Fraternity of St Peter ? " )?(訳注後記) 答えは原則として,それがたとえトレント式ミサ聖祭であり立派にとり行われるとしても,参列は許されません( "The answer has to be that, as a rule, a Catholic may not attend such a Mass, even if it is a Tridentine Mass, and even if it is worthily celebrated. " ).この一見(いっけん)厳格(げんかく)なルールを正当化するものは何でしょうか( "What can be the justification for such a seemingly strict rule ? " )?

基本的な理由はカトリック信仰の方がミサ聖祭(に参列する〈=与〈あずか〉る〉こと)よりも大切なことだからです( "The basic reason is that the Catholic Faith is more important than the Mass. " ).というのは,私がもし自(みずか)らの過失によることなく長い間ミサ聖祭に与ることができないとしても,カトリック信仰を持ち続けているなら私は自らの霊魂を救うことができますが,反対に,私がこの信仰を失いながらも何らかの理由でミサへ聖祭の参列を続けているとすれば,私は自らの霊魂を救うことができないからです.(「信仰なしに神をお喜ばせするのは不可能です」- 新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節を参照)( "…For if through no fault of my own even for a long time I cannot attend Mass but I keep the Faith, then I can still save my soul, whereas if I lose the Faith but for whatever reason go on attending Mass, I cannot save my soul (“Without faith it is impossible to please God” – Heb. XI, 6) " ).(訳注後記).したがって,私は自らの信仰を生かし続けるためミサ聖祭に与ります.そして,信じることと崇(あが)めること(=信仰と崇拝〈すうはい=礼拝〉)は一体のもの( "…belief going with worship, …" )ですから,私は真のカトリック信仰を持ち続けるためには真のミサ聖祭に与ります.ミサ聖祭に参列するためにカトリック信仰を持ち続けるのではありません( "Thus I attend Mass in order to live my Faith, and, belief going with worship, I attend the true Mass in order to keep the true Faith. I do not keep the Faith in order to attend Mass." ).

もしトレント式ミサ聖祭の挙行が私の信仰を脅(おびや)かすような状況で行われるとすれば,その度合いの深刻さによっては,私はそのようなミサ聖祭へは参列しないということです( "It follows that if the celebration of a Tridentine Mass is surrounded by circumstances that threaten to undermine my faith, then depending on the gravity of the threat, I may not attend such a Mass. " ).分離した正教会の神父たち( "schismatic Orthodox priests” )がとり行う聖体礼儀(訳注・カトリック教会のミサ聖祭に相当する.詳しくは後記)は有効かもしれません.だが,カトリック教会が信徒が大罪(だいざい)の痛み( "on pain of grave sin" )を感じながらそのミサに参列するのを本気で禁じてきたのは同じ理由によるものです( "That is why Masses celebrated by schismatic Orthodox priests may be valid, but the Church in her right mind used to forbid Catholics to attend on pain of grave sin,…" ).なぜなら,信じることと崇めること(=信仰と崇拝)が一体( "belief and worship going together" )であるからには,非カトリック宗教の形式による崇拝( "the non-Catholic worship" )はカトリック信仰を脅かすからです( "…because, belief and worship going together, the non-Catholic worship threatened the Catholics’ faith. " ).ところで,正教会は数世紀もの間にカトリック教会に多大な害をもたらしましたが,その害悪の度合いは公会議主義がわずか数十年の間にカトリック教会にもたらした荒廃(こうはい)に比べるべくもないのではないでしょうか( "…Now Orthodoxy has in the course of centuries caused huge harm to the Catholic Church, but can anything compare with the devastation wrought upon that Church within mere tens of years by Conciliarism ? " )? カトリック信徒が正教会の状況下でとり行われる(カトリック教)ミサ聖祭への参列を禁じられるなら,公会議の状況下でとり行われるトレント式ミサ聖祭への参列をカトリック教会が本気で禁止することにならないでしょうか( "If then Catholics were forbidden to attend Mass in Orthodox circumstances, would not the same Church in her right mind forbid to attend a Tridentine Mass celebrated in Conciliar circumstances ? " )?

では,公会議の状況下とは何を意味するのでしょうか? 短期間にせよ長期間にせよ,第二バチカン公会議はカトリック教会にとって必ずしも大災害と言えないのではないかと私に思わせるようなあらゆる状況というのがそれに対する答えでなければなりません( "…The answer must be, any circumstances which, over a shorter or longer period of time, are going to make me think that the Second Vatican Council was not an utter disaster for the Church.…" ).たとえば、魅力的で信心深い神父が新旧いずれのミサを執り行うことになんら問題意識を持たず,まるで当の公会議には深刻な問題などなにもないように説教をし,ふるまうような場合がそのような状況にあたるでしょう( "…Such a circumstance might be a charming and believing priest who has no problem with celebrating either the new or the old Mass, and who preaches and acts as though the Council presents no serious problem.…" ).公会議主義はきわめて危険です.なぜなら,それはあまりにもよくカトリック教に似ているように見せかけることができるため,私は全く ――あるいは,ほとんど知らない間に―― 信仰を失うことになりうるからです( "…Conciliarism is so dangerous because it can so be made to seem Catholic that I can lose the Faith without – or almost without – realizing it. " ).

むろん常識的には様々(さまざま)な特殊(とくしゅ)状況には配慮すべきかもしれません.たとえば,いま公会議派教会の罠(わな)にはまっている善良な司祭にとっては,私が彼のとり行う真のミサ聖祭に参列してあげることで,彼がそこから抜(ぬ)け出す道を歩き出すよう励ます必要があるかもしれません( "Of course common sense will take into account a variety of special circumstances. For instance a good priest trapped for now within the Conciliar church may need encouragement to start on his way out of it by my attending his first celebrations of the true Mass. " ).だが,たとえ真のミサ聖祭でも,公会議を背景にとり行われるのであれば,私はそれとかかわりを持つことはできないという原則を変えることはできません( "But the general rule must remain that I can have nothing to do with even the true Mass being celebrated in a Conciliar context. " ).このことを確かめるには,ローマ(教皇庁権威当局)が善き牧者会( "the Institute of the Good Shepherd" )に対し真のミサを行うことを独占的に認めたことに留意してみてください( "For confirmation, notice how Rome began by allowing the Institute of the Good Shepherd to celebrate exclusively the true Mass, …" ).ローマは同会がひとたび公式の針(訳注・=釣り針,"the official hook".=「実務的合意=実務協定」)を飲み込めば,最終的にはそれを公会議の(捕獲用の)網(あみ, "Conciliar net" )に取り込めると確信したからそうしたのです( "…because Rome knew that once the Institute had swallowed the official hook, eventually Rome could be sure of pulling the Institute into their Conciliar net. " ).確かにそのとおりで,ローマがその結果を得るのにわずか5年しかかかりませんでした( "Sure enough. It took only five years. " ).

聖ピオ十世会がローマ教皇庁と教理上の合意なしに実務的な合意を結んだときに起こりうる危険はまさしくここにあります( "That is the danger of any practical agreement without a doctrinal agreement between Rome and the Society of St Pius X. " ).ローマは公会議的教理を信じる限り実務的な合意を使って聖ピオ十世会を公会議へ引きずり込むはずです( "So long as Rome believes in its Conciliar doctrine, it is bound to use any such agreement to pull the SSPX in the direction of the Council, " ).そして,聖ピオ十世会のあらゆるミサ聖祭は,すぐにではなくても,少なくとも時の経過(けいか)とともに公会議的なものに変わっていくでしょう( "…and the context of every SSPX Mass would become Conciliar, if not rapidly, at least in the long run. " ).備えあれば憂(うれ)いなしです( "Forewarned is forearmed. " ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:

新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE HEBREWS XI, 6

『信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない.神に近づく者は,神が存在されること,神を求める者に報(むく)いを賜(たま)うことを信じねばならぬからである.』

“But without faith it is impossible to please God.
For he that cometh to God, must believe that he is, and is a rewarder to them that seek him.”

(6節の注釈)

旧約聖書・知恵の書:第13章1節参照.救いのためには神の存在と,報いを下す御者(おんもの)を信じなければならない.

旧約聖書・知恵の書:第13章1節→
『何はさておき,神を知らない人はだれでも,心底からの愚か者だ.
彼らは,目に見えるよいものを通して,「存在するもの」を知ろうとせず,業(わざ)に目をとめても,それをつくった方を認めない.

彼らが,この世を支える神々として認めたのは,
火とか,風とか,速やかな空気とか,天界とか,波濤(はとう)とか、天からの光とかだった.

それらのものの美に心を奪(うば)われて,それを神々だと思ったなら,
それらの主が,はるかにそれにまさるものだと知らねばならない.
それをつくったのは,美の創造主ご自身だからである.

また,それらの力と働きに感嘆したのなら,
それをつくった方が,いかに勢力あるかを推(お)しはからねばならない.

被造物の偉大さと美は,
そのつくり主を,類比(るいひ)によって推しはからせる.…

だが,彼らには対して責任がないかもしれぬ.
彼らが迷(まよ)ったのは,おそらく神を求め神を見いだそうとしたからなのだ.

み業を調べて,神を見いだそうと努力したが,
彼らは,目に見えるもののとりことなった.
それが実に美しかったので.

だが,彼らを許すわけにはいかぬ.

宇宙を探(さぐ)れるほどの
知識があったのなら,なぜもっと早く,それらのものの主を見いださなかったのか.

人間の手がつくり出したもの,
精製された金や銀,
生き物の像,
昔の人が彫(ほ)った無価値な石などを,
神々として拝(おが)んだ人々は実に不幸だ.
彼らは,死物に希望をかけたのだから.…


(訳注の続きを,後から追補いたします.)


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