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2012年8月13日月曜日

265 自由意思の尊重 8/11

エレイソン・コメンツ 第265回 (2012年8月11日)

霊魂たちが地獄へ落ちるドラマについて(多くの霊魂がその道を選びます - 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13節,22章14節),読者は以下のように簡潔に言い表しうる古典的な問題を提起するでしょう.神は霊魂が呪われるのをお望み( "wants souls to be damned" ) なのか,それともそうではないのだろうか? もし神が確かにそうお望みなら神は無慈悲 (むじひ, "is cruel" )ということになる.もし神がそうお望みでないとしても,霊魂が地獄に落ちることは起こりうる.それだと神は(全知)全能( "not omnipotent" )でないということになる.それでは神は無慈悲なのか,それとも全能でないのか? そのいずれなのだろうか?(訳注後記)

まず最初に神が霊魂を地獄に落とすことは決してないことをはっきり(確証,立証)させましょう.多くの呪(のろ)われた霊魂たちのいずれもすべてまだ地上(=この世)に生活している間に(あらゆる機会ごとにその都度〈つど〉)自(みずか)らの自由意思で選び取った一連の諸々の選択(せんたく)によって自らを地獄に送り込みそこに落ちたのです( "Every one of the many souls damned sent itself to Hell by the series of choices that it made freely during its time on earth. " ).神は各々(おのおの)の霊魂に生命,時間そして自由意思,さらにそれらとともに各自が天国へ上る道を選び取るよう数多くの自然的な助けと超自然の恩寵(おんちょう)とを,各々の霊魂が必要とする限りいくらでも制限することなく,お与えになりました.だが,ある霊魂がそれを拒(こば)んだときには,神はその霊魂が望んだとおりのものを得るようにしました.そのものとはすなわち,神なしの(=神の存在しない)永遠です( "God gave to it life, time and free-will, and also any number of natural helps and supernatural graces to persuade it to choose to go to Heaven, but if it refused, then God let it have what it wanted, namely an eternity without him. ").そうして得ることとなった神の喪失(そうしつ, "loss of God" )という結果・状態は,どの霊魂もひとつ残らず本来ただ神を持つ(=所有する)という目的のためだけに神によって造(つく)られたものなわけですから,(当然)その霊魂にとって地獄に落ちてもそれは断然圧倒的に最もひどい苦痛となります( "And that loss of God, for a soul made by God only to possess God, is by far its cruellest suffering in Hell. " ).そこで,神はその霊魂が天国を選び取ってくれるようにと願われました. (神はすべての者を救いたまう - 新約聖書・ティモテオへの第1の手紙:第2章4節)( "Thus God wished that the soul might choose Heaven ("He will have all men to be saved" – I Tim. II, 4),…" )(訳注後記).だが,神はその霊魂が地獄という悪を選び取ることもお許しになり,その悪からより大きな善を導き出そうと望まれました("…but he wanted to allow the evil of its choosing Hell in order to bring out of that evil a greater good. ").

ここで( "wish" )と( "want" )という二つの英語を使い分けた点にご注目ください.何かを「(欲しいと)望む」( "want" )ことは単にそれを「願う」( "wish" )よりはるかに強い(=より完全な, "more full-blooded" )意味を持ちます.ですから家庭の父親は自分の息子が人生でつらい経験をしないようにと願う( "wish" )でしょう.だが,父親はあらゆる状況を考え(考慮して),あえて息子がつらい経験をするよう望む(=つらい経験もしてほしいと望む)( "want" )ことがあり得ます.それが息子が人生で学ぶ唯一の方法だと知っているからです( "Thus a family father may well not wish his son to suffer harsh experience in life, but in view of all the circumstances he can want to let him suffer because he knows that that is the only way his son will learn. " ).同じように,放蕩(ほうとう)息子の寓話(ぐうわ)でも,父親は下の息子(次男)が家を出て自分の遺産を食いつぶさないでほしいと願いましたが,その息子がそうすることを望み,実際にはそうしました.それが良い結果を生みました - 次男息子は家に帰り,今や後悔に打ちひしがれ,前より惨(みじ)めながらも賢(かしこ)い若者になりました.("Similarly in the parable of the Prodigal Son, the father did not wish to let his younger son leave home and squander his heritage, but he wanted to let him do so because that is what the father in fact did, and good did come of it – the return home of the son, now repentant, a sadder but wiser young man. ")(訳注後記)

これと同じように,神は一方であらゆる霊魂が救われるよう願って( "wishes" )おられます.神は人々がそうなるようお造りになられたからであり,人々のために十字架上での(処刑による)死を選ばれたからです.十字架上での神の苦痛の大きな部分は,多くの霊魂が救われるために贖罪(しょくざい)による恩恵を受ける道を選ばないだろうと知っていたことでした( "In the same way God wishes on the one hand all souls to be saved, because that is what he created them for, and that is why he died for all of them on the Cross, where one large part of his suffering lay precisely in his knowing how many souls would not choose to profit by their Redemption to be saved. " ).そのような神を無慈悲だなどけっして言えません! ( "Such a God can in no way be considered or called cruel !" ) 他方で神はあらゆる霊魂が望みもしないのに救われることなど望んで( "does not want" )おられません.もし神がそうお望みなら,神が全能だからあらゆる霊魂が救われることになるからです( "On the other hand God does not want all souls to be saved unless they also want it, because if he did, they would all be saved, because he is all-powerful, or omnipotent. ". )だが,あらゆる状況を考えれば,すべての霊魂が救われるというのは,どうぞご勝手にと言われれば,救いを選ばないような人々の自由選択を実質的に否定することを意味しますし,彼らの自由意思を踏みにじることになります( "But, given all the circumstances, that would mean in effect overriding the free choice of those who, left to themselves, would choose not to be saved, and that would mean trampling on their free-will. ". )人々が自由意思をいかに大切と考えているかは他人の命令を嫌い自立するのを好むことを見ればお分かりでしょう.人はみな自由意思こそが自分が動物でもロボットでもないことの証しだと知っています( "Now just see how passionately men themselves value their free-will, when you see how they dislike being given orders or like being independent. They know that their free-will is the proof that they are not just animals or robots. ". )神もまた自らの天国に動物やロボットでなく人間が住むようになるのをお望みです.だから,あらゆる人が望みもしないのに救われるのをお望みではない("do not want")のです( "So God too prefers his Heaven to be populated with men and not just with animals or robots, and that is why he does not want all men to be saved unless they also want it. " ). )

それでも神は霊魂が呪われるのをお望みではありません( "does not want" ).なぜならそれはやはり神にとってみれば(神の側からは)無慈悲なことだと知っておられるからです
( "Yet God does not want souls to be damned, because that again would be cruelty on his part. " ).神が霊魂たちの呪われることをお許しになろうと望まれる( "wants to allow them to be damned" )ときの理由はひとえに,そうすることで霊魂たちが自ら選び取った永遠を持てるようになる状況をお考えになって(=考慮されて)のことなのです( "He only wants to allow them to be damned, in view of the circumstances that souls will thus have the eternity of their own choice, …").そうして神はただ単に(選択の自由意思を持たない)諸々の動物たちやロボットばかりではない,(自ら選び取る自由意思を持つ)人間たちの天国を所有されるおつもりなのです( "… and he will have a Heaven of human beings and not just animals or robots. " ).

このようにあらゆる霊魂を救いたいという神の願いは神がけっして無慈悲ではないことを意味します( "Thus his wish to save all souls means that he is by no means cruel,…" ).多くの霊魂が呪われるのは神が全能でないからではなく,神が自ら創造された人間の自由意思を尊重されるからであり( "…while the damnation of many souls proves on his part not a lack of omnipotence, but a choice to value his creatures’ free-will, …" ),地上(=この世)で神を愛する道を選び取った霊魂たちに,神が天国をもって報いようとされるとき無限の喜びをお感じになるからです( "…and the infinite delight that he takes in rewarding with Heaven souls that have chosen to love him on earth." ).

神の御母(聖母マリア)よ,今も私の臨終(りんじゅう)のとき(=死に際〈ぎわ〉に)も,私があなたの御子(神なるイエズス・キリスト)を愛し天国を選ぶようお助けくださいますよう!( "Mother of God, now and in the hour of my death, help me to love your Son and to choose Heaven ! " )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW
VII, 13; XXII, 14
(English)
EVANGELIEM SECUNDUM MATTHAEUM
VII, 13; XXII, 14
(Latine)

* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ティモテオへの第1の手紙:第2章4節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO TIMOTHY II, 4
(English)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD TIMOTHEUM PRIMA II, 4 (Latine)

『*すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)

* 〈新約〉ローマ人への手紙(9:18,21)解釈を助ける神学的に重要なことば.

* * *

"Who will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth. "

* * *

"qui omnes homines vult salvos fieri, et ad agnitionem veritatis venire."

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第3パラグラフの訳注:
「放蕩息子の寓話」 "the parable of the Prodigal Son" について.

* * *
訳注を追補いたします.
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2012年6月24日日曜日

258 花々は教える 6/23

エレイソン・コメンツ 第258回 (2012年6月23日)

花々が語(かた)れるとすれば(「エレイソン・コメンツ第255回参照),時間の価値,神の正義,恩寵と自然の調和( “the value of time, the justice of God, the harmony of grace and nature” )などについて私たちに教えることができるでしょう.
たとえば,もし神が存在され,人がたとえ90年生きるにしてもその束の間(つかのま)の生涯(しょうがい)のあいだに過ごすすべての瞬間ごとに自(みずか)ら取った一つひとつの選択肢しだいで,その霊魂の行方(ゆくえ)が永遠に決まってしまうように神が仕向(しむ)けることが理不尽(りふじん)でないとすれば,その生涯のあらゆる瞬間に価値があるということ,そしてあらゆる瞬間に神が私たちに神と永遠に交(まじ)わるよう呼びかけられ(訳注・私たちの注意を喚起〈かんき〉され)(いつも同じ強さでそうされているとは限らないにしても)ということは理にかなったことです.だからこそ,神が花々や自ら創造されたほかのあらゆる贈り物を通して私たちに語りかけておられるはずだというのもうなずけます.なぜかといえば,現世で自分には愛すべきものや人などなにもないと正直に言える人がはたしているでしょうか?過激(猛烈)な「無神論者 “atheist” 」でさえも,たとえば,自分の好みの犬やタバコを持っているものです.そして犬やタバコの葉を創(つく)り出し,私たちの時代までそれを生き続けさせた(世の創造主たる)御方(“ And Who… ”)は誰でしょうか?

その「無神論者」は死の直前になっても自分は神から語りかけられたことなど一度もないと言い張るかもしれません.だが,死を迎(むか)えたとたんに,彼は(自分がまだ生きていたとき)目覚めているあいだあらゆる瞬間瞬間に,いつも神が身の回りの何らかの生き物を通して自分に呼びかけて(訳注・霊魂の関心を呼び覚まそうとして)おられた( “…for every moment of his waking life God has been appealing to him through some creature or other around him.” )ことを瞬時(しゅんじ)に理解する( “grasp in a flash” )でしょう.「もし私が,あなたが生涯を通していつも私を拒(こば)んできたことを,私の残りの生涯でことあるごとに咎(とが)めるとしたら,私は理不尽でしょうか?」と神は彼にお尋(たず)ねになるでしょう.そして「あなたが選んだものを持ちなさい.私から離れなさい」と,神は彼に告げるかもしれません(新約聖書・マテオ聖福音:第25章41節)(訳注後記).

これとは反対に,生涯のあらゆる瞬間を通していつも自分が楽しんできたあらゆる良いことの陰(かげ)に存在する偉大で善良な神を愛する恩恵を受けた人,( “…has profited by every moment of its life to love the great and good God behind all the good things it has enjoyed,…” ),さらに自分が楽しいと思わなかったあらゆる悪いことの陰に存在する(訳注・災難や苦難の起こることをあえて許可〈=承認,同意〉される)神意(=摂理,神の導き・思慮・配慮)にさえも気づいた( “…that has even recognized the permission of his Providence behind all the bad things it has not enjoyed.” )人のことを考えてみてください.それならば(=訳注・人生が瞬間から瞬間まですべて神意の下にあるものなら)誰が自分の人生に意味を与えるため,人に認めてもらいたい,有名になりたい,メディアの前に出たい,引出しを休暇の写真で埋め尽くしたいなどと望む必要があるでしょうか?過去の時代で,有能な人々が生涯にわたって神への愛にすっかりその身を捧(ささ)げるためその才能を人里を離れ世間から隔離(かくり)された修道院に埋(う)めたのもさして驚(おどろ)くことではありません.私たちの時間の一刻一刻には計りしれない価値があります.なぜなら,その一刻一刻に良かれ悪しかれ霊魂の計りしれない永遠性がかかっているからです.

さらに,花が話せるとすれば,私たちがもう一つよく知られた疑問を理解するのに役立ちます.その疑問とは,非カトリック教徒の人々の霊魂がカトリック教の布教者たち(=宣教師たち)と接する機会がまったくなかったために,カトリック信仰を持たなかったとしたら非難できるだろうか,というものです.人間的な言い方をするなら,花々を創造しカトリック教会を設立されたのはまさしく同一の神であることを思い起こせば,この疑問の少なくとも一部は解かれるかもしれません.神のお導き(=神慮〈しんりょ〉 “God’s Providence” )がカトリックの真理がある霊魂の耳に届くのを許さなかったとしても,その霊魂は真の神のことなど何も知らなかったとは言えません.その霊魂はたとえば(訳注・日々様々に移り変わる)無数の雲景(画),日の出,夕焼けの美しさ( “the beauty of cloudscapes, of sunrises and sunsets” )といった自らが知っていたものによって裁きを受けうるでしょう.それらの美しさを見て,その霊魂は異教徒ヨブ(旧約聖書・ヨブの書:19・25)と一緒になって「私は私の救い主が生きておられることを知る( “I know that my Redeemer liveth” )」と言ったでしょうか,それとも「ええまあ,そうですね,確かにすばらしい.でも,隣の奥さんを訪ねさせてくれ - 」と言ったでしょうか?(訳注後記)

実際のところ,人々が彼らの創造主たる神( “their Creator ”)に対して抱(いだ)く多くの不平不満はカトリック信徒たちでさえ感じています.カトリック信徒たちの多くは,現代のほかの人たち同様,都会やその郊外での生活によって多かれ少なかれ自然界から切り離されており,それ相応にその「精神性 “spirituality” 」が人工的になっているからです.どなたかが「動物一匹(いっぴき)愛したことがない人は可哀(かわい)そう」と言ったことがあります( ““Woe to anybody who has never loved an animal,” somebody has said.” ).子供たちは神と親密です.子供たちがいかに生まれながらにして動物たちが好きなことかを観察してください( “Children are close to God. Watch how naturally children love animals.” ).

偉大にして善良なる神よ,あなたがあらゆるもの,あらゆる人の奥深くに,いつも(=絶えず)おられるのを私たちに見させ給え( “Great and good God, grant us to see you where you are, deep down everything and everybody, at every moment.” ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章41節(太字).(25章全章を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW XXV, 41.
The parable of the ten virgins, and of the talents; the description of the last judgement.

十人の乙女のたとえ
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.

そのうちの五人は愚か者(おろかもの)で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしびを持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器(うつわ)に入れた油も持っていた.花婿が遅かったので,一同は居眠(いねむ)りをし,やがて眠(ねむ)りこんでしまった.夜半(やはん)に,〈さあ,花婿だ.出迎(でむか)えよ〉と声がかかった.

乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かなほうは賢いほうに,〈油を分(わ)けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢いほうは,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足(た)りません.商人(しょうにん)のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.
やがて,ほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.

*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』

(注釈)

十人の乙女のたとえ(25・1-13)
*¹ 1-13節 花婿はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨(らいりん)までの期間,婚宴(こんえん)の席(せき)は天国である.その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.

*² ある写本(ブルガタ訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.

*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練(しれん)の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りをすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ12・35-38,13・25).

* * *

タレントのたとえ
『*¹また,天の国は遠(とお)くに旅立(たびた)つ人がしもべたちを呼び,*²自分の持ち物を預けるのにたとえてよい.

おのおの能力(のうりょく)に応じて,一人には五*³タレント,一人にはニタレント,一人には一タレントをわたして,その人は旅立った.
五タレントをわたされた人は,それを用いてもうけ,ほかに五タレントの収入(しゅうにゅう)を得(え),ニタレントをわたされた人も,同じようにほかにニタレントの収入を得たが,一タレントをわたされた人は,土地を掘(ほ)りに行き主人の金を埋(う)めておいた.

しばらく経(た)って主人が帰ってきてしもべたちと精算(せいさん)した.
五タレントを預かった人は別に五タレントを差し出し,〈主よ,私は五タレントを預かりましたが,ごらんください,ほかに五タレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実(ちゅうじつ)なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.ニタレントを預かった人も来て,〈主よ,私はニタレントを預かりましたが,ごらんください,別にニタレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.

また一タレントを受けた人が来て,〈主よ,あなたは厳(きび)しい方で,まかない所から刈(か)り,散(ち)らさない所から集められると知っていた私は,恐(こわ)くてあなたのタレントを地下に隠(かく)しに行きました.あなたに預かったのはこれです〉と言った.
主人は答えた,〈悪い怠(なま)け者のしもべだ.おまえは私がまかない所から刈り取り散らさない所から集めると知っていたのか.それなら私の金を貯金(ちょきん)しておけばよかった.そうすれば私は帰ってきて自分のものと利子(りし)を手に入れたのに.さあ,彼からそのタレントを取り上げ,十タレントを持っている者にやれ.

*⁴持っている者は,与えられてなお多くのものを持ち,持たない者からは,持っているわずかなものさえ取り上げられる.この役たたずのしもべを外のやみに投げ出せ.そこには嘆(なげ)きと歯(は)ぎしりがあろう〉.』

(注釈)

タレントのたとえ(25・14-30)
*¹ 14-30節 旅立つ主人は,近く天国に行くイエズスであり,将来天国からまた最後の審判のために来るであろう.しもべはキリスト信者,タレントは神からの自然的・超自然的たまものを意味する.これを善業のために使わねばならぬ.

*² このたとえも,先のと同じく,キリスト信者の個人個人の最後をたとえている.

*³ 18・24の注参照.(注・18章24節の注から転載→「神殿ではユダヤの貨幣(かへい)だけが用(もち)いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は、次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマは二ドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四二・五三三キロに相当する.
ローマ貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.」)

*⁴ 神のたまものを有益に使う者は,その上にまたもらい,持っている少ないものをないがしろにする者は,それさえも失う(マテオ聖福音13・12).

* * *

最後の審判
『*¹人の子は,その栄光のうちに,多くの天使を引き連れて光栄の座につく.
そして,諸国(しょこく)の人々を前に集め,ちょうど牧者(ぼくしゃ)が羊(ひつじ)と雄(お)やぎを分けるように,羊を右に雄やぎを左におく.

そのとき*²王は右にいる人々に向かい,〈父に祝(しゅく)せられた者よ,来て,*³世の始めからあなたたちに備(そな)えられていた国を受けよ.あなたたちは,私が飢(う)えていたときに食べさせ,渇(かわ)いているときに飲(の)ませ,旅にいたときに宿(やど)らせ,裸(はだか)だったときに服(ふく)をくれ,病気だったときに見舞(みま)い,牢(ろう)にいたときに訪(おとず)れてくれた〉と言う.
すると義人(ぎじん)たちは答えて,〈主よ,いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ,渇いているときに飲ませ,旅のときに宿らせ,裸のときに服をあげ,病気のときや牢に入られたときに見舞ったのでしょうか〉と言う.
*⁴王は答える,〈まことに私は言う.あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは,つまり私にしてくれたことである〉.

また王は左にいる人々に向かって言う,〈のろわれた者よ,私を離(はな)れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ.あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず,渇いていたのに飲ませず,旅にあったときに宿らせず,裸だったのに服をくれず,病気のときや牢にいたときに見舞いに来なかった〉.
そのとき彼らは言う,〈主よ,あなたが飢え,渇き,旅に出,裸になり,病気になり,牢に入られたとき,いつ私たちが助けませんでしたか〉.
王は言う,〈まことに私は言う.これらの小さな人々の一人にしなかったことは,つまり私にしてくれなかったことだ〉.

そして,これらの人は永遠の刑罰を受け,義人は永遠の生命に入るであろう」.』

(注釈)

最後の審判(25・31-46)
*¹ 審判(しんぱん)において,特に隣人(りんじん)への愛の実行が重視されている.この愛は,神に対する愛から出るものである.はたして,律法と預言者を,神と人間に対する愛に帰(き)する.

*² 王たるメシア(=救世主),キリストのこと.

*³ 神が人をつくられたのは,永遠の幸福のためである(〈新約〉エフェゾ人への手紙1・4).

*⁴ すべての人のうちにキリストを見るということは,確かにキリスト教の重大な教えの一つである.これによってすべての人,特に貧(まず)しい者は「聖なるもの」となる.
審判の時,愛以外の徳の実行を尋(たず)ねられるであろうが,貧しい人を助けることは,キリストを助けることだと心得(こころえ)るほどの愛をもつものは,この愛の中に他のすべての徳を含(ふく)んでいるはずである.

* * *

第4パラグラフの訳注:

旧約聖書・ヨブの書「解説」

ヨブの書:19章25節(太字)
THE BOOK OF JOB XIX, 25.

This book takes its name from the holy man of whom it treats: who, according to the more probable opinion, was of the race of Esau; and the same as Jobab, king of Edom, mentioned Genesis 36:33. It is uncertain who was the writer of it. Some attribute it to Job himself; others to Moses, or some one of the prophets. In the Hebrew it is written in verse, from the beginning of the third chapter to the forty-second chapter.

(CHAPTER 19) Job complains of the cruelty of his friends; hedescribes his own sufferings: and his belief of a future resurrection.

①「ヨブの書解説」( フェデリコ・バルバロ神父訳「旧約聖書」より)

主人公の名をとってヨブの書と称されるこの本は初めの2章と終わりのことばを除外すれば,全篇詩の形でなり立っている.ここで取り上げているのは人間の苦しみの問題であって,この問題を扱った詩としては世界でもっともすぐれたものの一つである.

正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如(とつじょ)として大きな不幸が襲(おそ)いかかった.これが全篇の論争の始まりである(1-3章).

ヨブの不幸を慰(なぐさ)めにきた三人の友人がいた.その三人が一人ずつ話しかけるたびにヨブがそれに答える.ただし三人めの場合は友人が話さずにヨブが長く話す(4-31章).この論争ののち,不意にエリフという男が口を入れる(32-37章).ついに嵐(あらし)の中から神自身が現れてヨブに話す(33章1節-42章6節).最後にヨブはその大きな不幸に耐えた報(むく)いを豊(ゆた)かに受けたことが語られる.

論争した人々の態度は次のようである.三人の友人は「善悪はこの世で報いを受ける」という古来の教えを守っているヨブが不幸になったのは,何かの悪事をしたからであると推理する.自分では正しいと思っていても神の目にとって正しくなかったのかもしれない.ヨブが「私は正しい生活をした」と主張するので,三人はいよいよかたくなに自分のいい分を守る.
ヨブは三人のいい分に対して,自分自身の苦しみとこの世にあふれている不正をもって答える.しがしこのことを語るたびに,「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問につき当たる.

エリフは,「神に対していい過ぎた」とヨブを非難してのち,三人の友人をも非難する.そして,神の行為を弁護して,「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べる.

次に神が話されるがヨブに直接答えず,宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.

ついにヨブは自分の無思慮(むしりょ)を認める.

この本の主人公ヨブは太祖(たいそ)のころの人(〈旧約〉エゼキエルの書14・14,20)で,アラピアとエドムの国境の地に住んでいたと思われる.
ユダヤの伝統では試練の中で神への忠実を保った人としてヨブを尊(とうと)んでいる.この本の作者はそういう古い話からこの一篇の詩を創(つく)ったのであろう.

作者の名は不詳(ふしょう)である.確実なのは,預言書と知恵の書をよく学んだユダヤ人だということだけである.この人はパレスチナに住んでいたのだろうが,特にエジプトをよく知っていたようである.

この本はエレミアの書,エゼキエルの書より後に出たもので,表現と思想の上でその二つに似たところがある.おそらくは西暦前五世紀ごろの作であろう.

作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.これは「人はその行いの善悪によって,この世で良いあるいは悪い報いを受ける」というユダヤ古来の考え方からは矛盾(むじゅん)しているようであるが,ヨブは,「正しい生活をしていても災難(さいなん)を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタンからのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブもその友人もこのことは知らない.

ヨブは苦しみのなかにあっても,神は慈悲(じひ)であり正義であるという希望にすがりついている.神が干渉されたのは人知を絶するみずからの計画を示し,ヨブを沈黙(ちんもく)させるためである.

この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみの中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ』ということである.

天の示しも不完全であったこの時代の作者としてはこれ以上いえなかっただろう.「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰(しょうばつ)の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.

ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.

「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(〈新約〉ローマ人への手紙8・18).

「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(コロサイ人への手紙1・24).

* * *

② ヨブの書:第19章(全章)/ THE BOOK OF JOB, CHAPTER XIX

ヨブは答えて言った,
1 Then Job answered , and said:

「いつまで私の魂(たましい)を苦しめ,
その話で私を押しつぶすのか.
2 How long do you afflict my soul,
and break me in pieces with words?

あなたたちはもう十度も私を侮辱(ぶじょく)し,
恥知(はじし)らずにも私を責(せ)めている.
3 Behold, these ten times you confound me,
and are not ashamed to oppress me.

あやまったのがたとえ事実(じじつ)でも,
また私がかたくなに迷(まよ)いにとどまっても,
4 For if I have been ignorant,
my ignorance shall be with me.

あなたたちが勝(か)って,
私に罪があると証明(しょうめい)できたとしても,
5 But you have set yourselves up against me,
and reprove me with my reproaches.

*私をおさえつけ,
網(あみ)で私をとりまいたのは神であると知れ.
6 At least now understand, that God hath not afflicted me with an equal judgment,
and compassed me with his scourges.

〈これは暴力(ぼうりょく)だ〉と叫(さけ)んでも答えはなく,
呼びかけても正義はこない.
7 Behold I cry suffering violence, and no one will hear:
I shall cry aloud, and there is none to judge.

神が小道をふさがれたので,私は通れない,
神は私の道に闇(やみ)をおき,
8 He hath hedged in my path round about, and I cannot pass,
and in my way he hath set darkness.

光栄をはぎとり,
頭の冠(かんむり)を奪(うば)われた.
9 He hath stripped me of my glory,
and hath taken the crown from my head.

神が四方から壊(こわ)されたので、私は滅(ほろ)びる.
神は私の希望を木のように引き抜(ぬ)き,
10 He hath destroyed me on every side, and I am lost,
and he hath taken away my hope, as from a tree that is plucked up.

その怒りは私に向かって燃えあがり,
私を敵(てき)のようにみなされた.
11 His wrath is kindled against me,
and he hath counted me as his enemy.

神の軍は押しよせ,
私に向かって進路(しんろ)を開き,
私の幕屋(まくや)のまわりに陣(じん)を張(は)った.
12 His troops have come together,
and have made themselves a way by me,
and have besieged my tabernacle round about.

私は兄弟たちののけ者となり,
知人たちも私にとって見知らぬ人となった.
13 He hath put my brethren far from me,
and my acquaintance like strangers have departed from me.

親戚(しんせき)と親しい人々は姿(すがた)を消(け)し,
家の者は私を忘れ,
14 My kinsmen have forsaken me,
and they that knew me, have forgotten me.

下女(げじょ)は私を他人のように思う.
私は彼らにとって赤の他人になった.
15 They that dwelt in my house, and my maidservants have counted me a stranger,
and I have been like an alien in their eyes.

下男(げなん)を呼んでも答えないので,
私はこの口で彼にこいねがわねばならぬ.
16 I called my servant, and he gave me no answer,
I entreated him with my own mouth.

私の息は妻にいとわれ,
兄弟たちもそのにおいに顔を背(そむ)け,
17 My wife hath abhorred my breath,
and I entreated the children of my womb.

小さな子らも侮(あなど)り,
立ち上がると私をからかう.
18 Even fools despise me;
and when I gone from them, they spoke against me.

親(した)しい者はみな私を忌(い)みきらい,
愛する者は逆(さか)らった.
19 They that were sometime my counsellors, have abhorred me:
and he whom I love most is turned against me.

この皮膚(ひふ)の下で肉は腐(くさ)り,
骨は歯のようにむき出しになった.
20 The flesh being consumed.
My bone hath cleaved to my skin, and nothing but lips are left about my teeth.

あわれんでくれ,あわれんでくれ,ああ,友よ.
神の御手(おんて)が私を打(う)ったのだ。
21 Have pity on me, have pity on me, at least you my friends,
because the hand of the Lord hath touched me.

なぜ,あなたたちも神がなさるように,私を責(せ)めるのか.
私の肉にまだ飽(あ)き足らずに.
22 Why do you persecute me as God,
and glut yourselves with my flesh?

ああ,私のことばを書きとめ,
書物に刻(きざ)んでくれ,
23 Who will grant me that my words may be written?
Who will grant me that they may be marked down in a book?

鉄(てつ)ののみと鉛(なまり)で,
永久(えいきゅう)に岩(いわ)に刻みつけてくれ.
24 With an iron pen and in a plate of lead,
or else be graven with an instrument in flint stone.

〈*私を守るものは生きておられ,
仇討(あだう)つものはちりの上に立ち上がるのだと私は知る

25 For I know that my Redeemer liveth,
and in the last day I shall rise out of the earth
.

皮膚がこのようにきれぎれになっても,
私はこの肉で神をながめるだろう〉.
26 And I shall be clothed again with my skin,
and in my flesh I will see my God.

ああ,幸せな私よ,この私自身が,他人ではなく私自身の目で見るだろう.
腎(じん)は絶(た)えなんばかりにあこがれる.
27 Whom I myself shall see, and my eyes shall behold, and not another:
this my hope is laid up in my bosom.

あなたたちが〈彼をいじめてやろう〉〈あの*ことの根を見つけ出そう〉と叫ぶとき,
28 Why then do you say now: Let us persecute him, and let us find occasion of word against him?

そのときこそ、自分の身に下る剣(つるぎ)を恐(おそ)れよ,
それは剣を受けるべき罪なのだ.
そしてあなたたちは〈さばく者〉のあることを知るだろう」.
29 Flee then from the face of the sword,
for the sword is the revenger of iniquities:
and know ye that there is judgment.

(注釈)

神と人に捨てられても保ったヨブの信仰(19・1-29)
6 ヨブは友人のいったことを結論する,「もしあなたたちのいったことが本当だとしたら,この場合神は私に対して不正を行われたことになる.私は自分に罪のないことをよく知っているのだから.あなたたちのいうことを認めたら神は不正だと結論せざるをえなくなるから,それは認められない」.ヒエロニムスとトマス・アクィナスもこの解釈をとった.

25-26 この2節はヨブが岩に刻みつけたいと願うことばで,教義上たいへん大切な箇所であると同時にいろいろ議論されている.訳も多いが,本訳はほとんどヘブライ語本のままである.
この訳では次のような意味になる,「私を守るものはいま姿を見せては下さらぬが,たえず生きておられ正義を証(あかし)するものとして,私の墓(はか)にこられるだろうと私は信じる(25節).私の体が分解しつくしても,なおかつ私はこの体をもって神を眺めるにちがいない(26節)」.
昔のラテン教会教父たちはこのことばを「肉身(にくしん)のよみがえり」の意味にとった.しかし東方教会の教父たちはその意味でほとんど引用していない.それは彼らの用いていた七十人訳ギリシア語本が不十分な訳だったからである.現代のカトリック聖書学者も,「肉身のよみがえり」についてのヨブの信仰を示すものかどうか断定(だんてい)するのをはばかっている.これは「肉身のよみがえり」についての霊的なひらめきだったろうか,あるいはそれの明白な示しの前奏曲であったかもしれない(〈旧約〉マカバイの書下7・9).
ただ,このことばが復活を暗示しているという説に対していいたいのはもしヨブがそれを信じていたとしたら,はじめから友人たちをいい伏(ふ)せることができたろうと思われる.

28 ヘブライ語では「ことば」.ヨブを襲(おそ)った不幸のこと.ヨブが不幸になったのはヨブ自身罪を隠(かく)しているからだと友人たちは考えていた.

* * *

2012年6月3日日曜日

255 花々は語る 6/2

エレイソン・コメンツ 第255回 (2012年6月2日)

神は無限の存在(訳注・ “infinite Being”. 「全存在の大本〈おおもと〉,源〈みなもと〉,始まりとしての無限の存在」 という意味),無限の真実( “Truth” ),無限の善であり( “Goodness” ),無限に正しく( “just” ),無限に慈悲深い( “merciful” ).神の教会( “Church” )はそう教えています.この考えは雄大かつ素晴らしいもので,それについて私に異論はありません.だが,私は神の教会がそれと同時にまた人の霊魂はたった一回大罪を犯しただけで( “for just one mortal sin” )想像を絶するほどの手厳しくむごい永遠の苦しみに導かれる( “…be damned for all eternity to sufferings harsh and cruel…” )と教えていることも知っています.それについては素晴らしいことなどと言えません.この点について私は異論を差しはさみたくなります.

例を挙(あ)げてみます.私は両親が私に生(せい)を授(さず)けると決める前に相談など受けませんでしたし,私の存在についての,いわば,契約条件についても相談されませんでした.もし前もって相談されていたら,私は教会が教えるような,どちらの場合も共に果てしなく続く,想像もできないほどの至福 “bliss” か想像できないほどの苦痛 “torment” のいずれかを取るといった極端な二者択一( “such an extreme alternative” )に異論を唱えたでしょう.その代わり,私は天国にいる期間が短いのと引き換えに短期間だけ地獄に陥(おちい)るリスク( 訳注・ “only an abbreviated Hell”,=短縮された地獄滞在期間さえ耐えれば済む)を伴(ともな)うもっと穏当(おんとう)な「契約」( “a rather more moderate “contract”” )を受け入れたでしょう.だが,私は事前の相談を受けませんでした.至福と苦痛のいずれも果てしなく続くというのは,私のこの世での( “on earth”,=地上での )短い人生,10年,20年,50年かせいぜい90年ていどの間に今日は在り明日には逝(い)くという束(つか)の間の人生にはとても釣り合わないように思えます.生きとし生けるもの(=人間)は草のごとし( “All flesh is like grass” )ー「人は朝に花開き…夕べに倒(たお)れ,渇(かわ)き,枯(か)れる」(詩編・第90篇6節)( ““In the morning man shall flourish… in the evening he shall fall, grow dry and wither” (Ps. LXXXIX, 6). ” )というわけです.この考え方に立てば,神はとても不公平であるように思え,私は神が本当に存在するのかどうか真面目に疑いたくなります.(訳注後記) 

この問題は私たちに真剣な内省を求めます.次のようなことがらを仮に考えてみましょう; すなわち,神が存在されること,神はその教会が言うように正しい方であること,誰に対してもその人の同意なしに重荷を押し付け負わせるのは不当・不公平であること,この世の人生ははかなく,永遠に比べれば煙草の煙のようなものであること,人は誰しもひどい罪を犯していると自覚しない限りひどい罰を受けるはずがないことなどについて,考えてみましょう.こう考えた場合,存在されるはずの神がどうして正しいと言えるのでしょうか? もし神が正しいとすれば,論理必然的にもの心ついた人は誰しも自分が永遠なるものを選んだこと,そしてその選択がどういう意味を持つのかが分かる年齢まで生き続けなければならないはずです.だが,そのようなことは,たとえば神がいたるところで無視され,個々人,家庭,国家の日常で未知のものである今日の世界で果たして可能でしょうか? 

その答えは,神は個々人,家庭,国家よりも先におられた(存在される)上位の存在であり( “God comes before individuals, families and States” ),神はあらゆる人間に先立ちどんな人間とも一切かかわることなく無関係に( “prior to all human beings and independently of them all” ),一人ひとりの人の心・霊魂の内部に「語りかける」のであり( “he “speaks” within every soul” ),したがって宗教教育が役に立っていないような霊魂(=人)でも自分が日々選択をしていること,自分だけが自らのために選択していること,そしてその選択が重要な意味を持つことを分かっている( “…still aware that it is making a choice each day of its life, that it alone is making that choice for itself, and that the choice has enormous consequences.” )と考える中でしか見いだせないでしょう.だが,もう一度繰り返しますが,今日私たちが身の周りに見る世界のような神のいない世界( “the godlessness of a world” )で,そのようなことが果たして可能でしょうか?

(それは可能です.)なぜなら,(人々の)心・霊魂への神の「語りかけ」は,いかなる人間による語りかけあるいは世に存在しうるその他のいかなるものによる語りかけよりも,はるかに深く,より絶え間なく続き(=持続し),存在感があり,訴えるものが強い(=〈人の〉心を動かす力が強い)からです.神のみが私たちの霊魂を創造されました.神は無限に存在し続け,その永遠の時空(じくう)の瞬間瞬間に( “for every moment of its never ending existence” )霊魂を創造し続けるでしょう.それゆえに神は一つひとつの瞬間ごとに人の霊魂にとってより親密で近しい存在です.たとえその霊魂の人としての両親と比べたとしても,すなわち単に(肉身を生み出して)霊魂に身体(=肉身) ---身体というものは唯一神のみがその存続を支えられる物質的要素から作り出され(生まれ)るもの( “…body – out of material elements being sustained in existence by God alone.” )ですが--- を合体させ一つに組み立てただけの両親と比べても,神はその両親よりずっと霊魂のより側近(そばちか)くにおられる存在です.同じように,神の善(=善良さ)は魂がその生涯に享受(きょうじゅ)するあらゆる善い物事の背後や内部またそのすぐ下(底)に潜(ひそ)んでおり,霊魂はそれが神の無限なる善(善良さ)( “the infinite goodness of God” )から生じた(=派生〈はせい〉した)副産物にすぎないことを心の奥底で気づいています.「お黙りなさい.私はあなたが誰のことを話しているのか分かっています」と,ロヨラの聖イグナチオ( “St. Ignatius of Loyola” )が小さな花に語りかけました.幼児の笑い声,日々刻々うつろう自然の輝き,音楽,天空の隅々,芸術の傑作(けっさく)などなど --- なおいっそう深い愛情の対象ともなるこのような物事は,それらを愛する人の心(霊魂)に,そのような愛をはるかに超越(ちょうえつ)するより深くて偉大な何ものかが,あるいは --- 何方(どなた)かが --- 存在することを教えてくれます( “even loved with a deep love, these things tell the soul that there is something much more, or – someone.” ).

「おお神よ,私はあなたに望みを託(たく)ました.どうぞ私を狼狽(ろうばい,うろたえ,)させないでください」(詩編・第31篇2節)( “In thee, O God, have I hoped, let me never be confounded” (Ps. XXX, 2). ” )(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


*     *     *


第2パラグラフの訳注:
旧約聖書・詩編:第90篇6節 
BOOK OF PSALMS, PSALM LXXXIX
“Domine, refugium.”
A prayer for the mercy of God: 
recounting the shortness and miseries of the days of man. 
89:6

『朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.』
“In the morning man shall grow up like grass;
in the morning he shall flourish and pass away:
in the evening he shall fall, grow dry, and wither.”

*   *   *

1 第90篇 *神の人モーゼの祈り.
主よ,あなたは代々に,われらの逃れ場だった.
1 PSALM 89 A prayer of Moses the man of God.
Lord, thou hast been our refuge from generation to generation.

2 山々が生まれるより早く,地と世を生むより早く,
神よ,永遠から永遠へとあなたは存在する.
2 Before the mountains were made, or the earth and the world was formed;
from eternity and to eternity thou art God.

3 あなたは人をちりに返らせ,
そしてこう言われる,「人の子らよ,*返れ」.
3 Turn not man away to be brought low:
and thou hast said: Be converted, O ye sons of men.

4 御目には千年すら,過ぎ去った昨日のごとく,
夜の一刻のごとくである.
4 For a thousand years in thy sight are as yesterday, which is past.
And as a watch in the night,

5 *あなたは朝の夢のように,
もえ出る草のように彼らを消し去る.
5 things that are counted nothing,
shall their years be.

6 朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.
6 In the morning man shall grow up like grass; 
in the morning he shall flourish and pass away: 
in the evening he shall fall, grow dry, and wither. 

7 われらは御怒(おんいか)りによって衰(おとろ)え,
憤(いきどお)りによっておじ恐れる.
7 For in thy wrath we have fainted away:
and are troubled in thy indignation.

8 あなたはわれらのとがを御目の前に,
われらのひそかごとをみ顔の光に置かれた.
8 Thou hast set our iniquities before thy eyes:
our life in the light of thy countenance.

9 *われらの日々は御怒りによって過ぎ,
われらの年を一息のように消された.
9 For all our days are spent; and in thy wrath we have fainted away.
Our years shall be considered spider:

10 われらのよわいの日々は七十年,
頑健な人にとっては八十年だが,
その長き間は労苦とむなしさであり,
またたく間にすぎ去り,飛び去っていく.
10 the days of our years in them are threescore and ten years.
But if in the strong they be fourscore years:
and what is more of them is labour and sorrow.
For mildness is come upon us: and we shall be corrected.

11 だれがあなたの御怒りの力を,
あなたの御憤りの恐れを知っていようか.
11 Who knoweth the power of thy anger,
and for thy fear

12 *日々を数えることをわれらに教え,
心を知恵に向かわせ,
12 can number thy wrath? So make thy right hand known:
and men learned in heart, in wisdom.

13 立ちもどり,
あなたのしもべたちをあわれみたまえ.
13 Return, O Lord, how long?
and be entreated in favour of thy servants.

14 *朝はあなたの愛に飽(あ)かせ,
われらの日々をふるい立たせて喜ばせ,
14 We are filled in the morning with thy mercy:
and we have rejoiced, and are delighted all our days.

15 苦しめられた日々,
災いにあわせた年々とてらし合わせて,われらを喜ばせ,
15 We have rejoiced for the days in which thou hast humbled us:
for the years in which we have seen evils.

16 み業(わざ)をしもべたちの上に,
み力をその子らにあらわし,
16 Look upon thy servants and upon their works:
and direct their children.

17 神なる主の慈(いつく)しみを下し,
われらのために手の業(わざ)に力をかし,
われらの手の業を助けたまえ.
17 And let the brightness of the Lord our God be upon us:
and direct thou the works of our hands over us;
yea, the work of our hands do thou direct.

(注釈)

人間のはかなさ

1 人の世のはかなさについて知恵ある者が黙想する歌.人の生は罪によって短くされた
(〈旧約〉創世の書3章).

3 ちりに返ること(創世の書3・19,ヨブの書10・9,34・15,マカバイの書〈上〉2・63).

5 原典に手が入っているらしい.原文,「あなたは彼らを眠りで満たす」とある.眠りは死のこと(エレミア51・39,57).

9 一つの考えが過ぎ去るように,早くも青春は過ぎた.

12 人間のはかなさを知ることから知識が生まれる.すなわち,「神を恐れること」を知る.

13-17 これは全イスラエルに思いをひろげる.


*     *     *     *     *


最後のパラグラフの訳注:
詩編:第31篇2節
PSALM XXX
“In te, Domine, speravi.”
A prayer of a just man under affliction.
30:2

『主よ,私はあなたのうちに逃れる,永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.』
“In thee, O Lord, have I hoped, let me never be confounded:
deliver me in thy justice.”

*   *   *

1 第31篇 歌の指揮者に.ダビドの詩.
1 Psalm 30 Unto the end, a psalm for David, in an ecstasy.

2 主よ,私はあなたのうちに逃れる,
永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.
2 In thee, O Lord, have I hoped, 
let me never be confounded: 
deliver me in thy justice. 

3 御耳を私に向け,私を救いに急ぎ,
私の身を隠す岩となり,
逃(のが)れの固き城となられよ.
3 Bow down thy ear to me: make haste to deliver me.
Be thou unto me a God, a protector,
and a house of refuge, to save me.

4 あなたは私の岩,私の砦(とりで)である,
み名のために私を導き,引き連れ,
4 For thou art my strength and my refuge;
and for thy name's sake thou wilt lead me, and nourish me.

5 私に張られた網(あみ)を破(やぶ)りたまえ.
あなたは私の避難所.
5 Thou wilt bring me out of this snare, which they have hidden for me:
for thou art my protector.

6 私は御手に魂をゆだねる.
真実の神よ,あなたはすでに私を救われた.
6 Into thy hands I commend my spirit:
thou hast redeemed me, O Lord, the God of truth.

7 あなたはむなしい偶像のしもべを憎まれるが,
私は主に身をゆだね,
7 Thou hast hated them that regard vanities, to no purpose.
But I have hoped in the Lord:

8 あなたの愛に喜びおどる.
みじめな私を見下(みお)ろし,
私の魂の悩みを知ったあなたは,
8 I will be glad and rejoice in thy mercy.
For thou best regarded my humility,
thou hast saved my soul out of distresses.

9 私を仇(あだ)の手にまかせず,
私の足を広いところに立たせられた.
9 And thou hast not shut me up in the hands of the enemy:
thou hast set my feet in a spacious place.

10 主よ、私をあわれみたまえ,
私は苦悩の中にいる,
涙が私の目と,
のどとはらわたをむしばむ.
10 Have mercy on me, O Lord,
for I am afflicted:
my eye is troubled with wrath,
my soul, and my belly:

11 私の命は悲しみのうちに消え,
年は嘆(なげ)きのうちに去った.
力は悲惨(ひさん)のうちにしぼみ,
骨はとけていった.
11 For my life is wasted with grief:
and my years in sighs.
My strength is weakened through poverty
and my bones are disturbed.

12 私は敵に汚名(おめい)を着せられ,
近くの人には恐れられ,
知人には恐怖となり,
外で私を見た人は逃げだした.
12 I am become a reproach among all my enemies,
and very much to my neighbours;
and a fear to my acquaintance.
They that saw me without fled from me.

13 私は死人のように人の心から忘れられ,
捨てられる瓦礫(がれき)のようになった.
13 I am forgotten as one dead from the heart.
I am become as a vessel that is destroyed.

14 私は他人の讒言(ざんげん)を耳にした,いたるところから私に恐怖が襲(おそ)った.
彼らは私に逆らって謀(はか)り,私の命を奪(うば)おうとした.
14 For I have heard the blame of many that dwell round about.
While they assembled together against me, they consulted to take away my life.

15 だが,主よ,私はあなたによりたのみ,
「あなたは私の神」と言う.
15 But I have put my trust in thee, O Lord:
I said: Thou art my God.

16 私の運命はあなたの御手にある,私を解放し,
敵としいたげる者の手から救いたまえ.
16 My lots are in thy hands. Deliver me
out of the hands of my enemies; and from them that persecute me.

17 あなたのしもべの上にみ顔を輝かし,
愛によって私を救い,
17 Make thy face to shine upon thy servant;
save me in thy mercy.

18 あなたにこいねがう私を辱(はずかし)めたもうな,
罪人は恥辱を受けよ,彼らを黄泉(よみ)で硬(こわ)ばらせ,
18 Let me not be confounded, O Lord, for I have called upon thee.
Let the wicked be ashamed, and be brought down to hell.

19 いつわりのくちびるを,
高慢と侮蔑(ぶべつ)で無礼な口をきく者を黙らせよ.
19 Let deceitful lips
be made dumb. Which speak iniquity against the just, with pride and abuse.

20 あなたの慈しみは深い.
あなたを恐れる人々のためにそれを備え,
あなたによりたのむ人々のために,
人の子らの前でそれを蓄(たくわ)えたもう.
20 O how great is the multitude of thy sweetness, O Lord,
which thou hast hidden for them that fear thee!
Which thou hast wrought for them that hope in thee,
in the sight of the sons of men.

21 あなたは彼らを,み顔の隠れ場に隠し,
人の密謀(みつぼう)から遠ざからせ,
幕屋(まくや)の下におおい隠して,
かむ舌に近づけなかった.
21 Thou shalt hide them in the secret of thy face,
from the disturbance of men.
Thou shalt protect them in thy tabernacle
from the contradiction of tongues.

22 守りの固い町で,
私に豊かにあわれみを示された主を賛美しよう.
22 Blessed be the Lord, for he hath shewn his wonderful mercy to me
in a fortified city.

23 私は不安のうちに,
「あなたの御目の前から断ち切られた」と言ったが,
それなのにあなたは,
私があなたに向かって叫んだとき,
私の願う声を聞かれた.
23 But I said in the excess of my mind:
I am cast away from before thy eyes.
Therefore thou hast heard the voice of my prayer,
when I cried to thee.

24 主を愛せよ,敬虔な者たちよ,
主は忠実な者を守り,
高慢な者にはひときわ厳しく報いられる.
24 O love the Lord, all ye his saints:
for the Lord will require truth,
and will repay them abundantly that act proudly.

25 勇ましくあれ,心を強くもて,
主に希望をおく者たちよ.
25 Do ye manfully, and let your heart be strengthened,
all ye that hope in the Lord.

(注釈)

試練の時の祈り

6 神への信頼は救いによって報いられる.
キリストが十字架上でとなえた祈りの一つがこれである(ルカ聖福音23・46).

16 ヘブライ語では「私のとき」,これは財産や経験なども含む.

*     *     *

2011年10月1日土曜日

永遠の危険

エレイソン・コメンツ 第218回 (2011年9月17日)

「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」

こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?

確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).

だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」

これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.

そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

○第2パラグラフの先の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14

狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』

(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.


○第2パラグラフの後の訳注:

マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)

(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)

ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.

主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.

日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.

すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.

このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』

(注釈)

*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.

ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である

しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ

*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.

* * *

○第3パラグラフの訳注:

旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)

『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.

私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.

そのことについては,昔から話を聞いたこともない
あなた以外の神が
自分によりたのむ者のために
これほどのことをされたと
耳に聞いたこともなく
目で見たこともない

主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる

見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,

みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.

だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.

それでも,主は私たちの父
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった

私たちはみな,御手によってつくられた

主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.

主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.

先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.

主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』

* * *

○第4パラグラフの先の訳注:

新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)

(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)

第17章

イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.

私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.

この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.

私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません

彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.

*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.

あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』

(注釈)
イエズスの祈り

新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.

*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.

*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).

しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).

父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).

*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り

*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.

*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).

*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた

*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).

* * *

○第4パラグラフの後の訳注:

新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)

イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.

これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.

立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』

(注釈)
イスラエルの罰

*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.

*² 脱出の書14・22参照.

*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.

*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)

→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)

*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).

*⁶ 荒野の書14・16参照.

*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.

*⁸ 荒野の書32・6参照.

*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.

*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.

*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.

*¹² メシアの時代.

*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.


実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.

私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.

*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.

〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.

食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.

(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである

*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.

*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.

*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」

*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.

* * *

○第5パラグラフの訳注:

コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9

書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』

(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.


* * *

2011年2月20日日曜日

信じ難い不遜

エレイソン・コメンツ 第188回 (2011年2月19日)

運命の予言者は自分の評判を取ろうとはしませんが,もし彼らが神の使者だとしたら,真実を告げなければなりません.現在,そのような使者は政治や経済に関わりを持つべきではないと考える人々もいます.だがもし,政治が宗教にとって代わり,人間を神の場に置くことで必然的に誤った宗教と化してしまっていると仮定すればどうでしょうか?そして経済(あるいは金融)がまさに多くの人々を飢えさせようとしているのだと仮定したならどうでしょうか?神の使者たちが,アリストテレスとともに,もし人々が基本的な生活必需品に事欠く状態でどうやって道徳に適(かな)った人生を送れるのか,と尋(たず)ねることは許されないことでしょうか?有徳な人生など彼ら神の使者と無関係なことでしょうか?

そういうわけで,ここで権威ある米ウォール・ストリート・ジャーナル紙の一記者の書いた注目すべき一節を引用したとしても私は間違っていないと思います.その記者は,ホワイト・ハウスの前主席報道官に批判的な記事を書いたことで,2006年夏,時のブッシュ大統領の上級顧問役から厳しく非難されたことについて語っています.記者は当時,その上級顧問役が自分に何を言おうとしているのか良く理解できなかったが,後になって,それがブッシュ大統領体制の核心に触れることだと分かった,と述べています.記者が引用した顧問役自身の言葉をここにご紹介します:--

その顧問は記者にこう言ったそうです.新聞記者のような人々は,「私たちが言う現実に基づいた社会の中にいるのです.その社会とは,つまりあなたのように,いかなる解決策も目に見える現実についての思慮分別ある学習から現れてくると信じる人たちのことですよ.」 顧問は,記者は昨日まで通じた現実の尊重という原則を忘れるべきだと言い,次のように付言したそうです.「世界はもはやそのような考え方では動いていないのです.私たちは今や一つの帝国であり,私たちが行動することで私たち固有の現実を創り出しているのです- あなたのなさるように思慮深く - そして私たちは再び行動し,別の新しい現実を創り出すのです.それをあなたたちも学習できるし,そうやって物事が解決していくのです.私たちは歴史の役者を演じているのです…そしてあなたは,あなた方はみな,私たちが演じる役をただ学習するだけにすぎないのですよ.」(キャサリン・フィッツの「2月2日付『私たちは金融クーデターの犠牲者』www. 321 gold をご覧ください.)(訳注・原文 “See www.321 gold, Feb 2, "We are Victims of a Financial Coup d'Etat", by Catherine Fitts”.)

現代世界がいかに幻想の上に動かされているかを道徳的に説いているこの話をしているのは私ではありません.話しているのは,ワシントンのインサイダー中のインサイダーです.彼はいかに現代世界が幻想の上に運営されているかを肯定的に誇っているのです.彼の言葉は,当時の政府のでっち上げ,例えば,9・11事件やサダム・フセインの「大量破壊兵器」などとまさに一致するのではないでしょうか.(それらのでっち上げは)政策を正当化するために「創り出した」ものであり,そうしなければ正当化は不可能だったのではないでしょうか?現実や現実を重んじる人々をこれほどまで軽んじるその傲慢(ごうまん)さは息を飲むばかりです.

古典ギリシャ人たちは顕現(けんげん)された神についての知識が何もない異教徒でしたが,神の世界の道徳的な骨組みたる現実が,彼らが見た通り,神々により統治されているとを明確に理解していました.どんな人間でも,たとえ英雄であろうと,そのような神の骨組みをこのブッシュの顧問のように否定する者はみな「傲慢」の罪を犯し,人間相応の身分を超えて頭を高くもたげていることになり,神々によりその罪に応じて粉々(こなごな)に粉砕(ふんさい)されるでしょう.

カトリック信徒のみなさん,もし神の恩寵が人間性を見捨てているとお考えなら,今日ますます必要とされている自然の様々な教訓について古代の異教徒たちから学び直すのが最良です.アイスキュロス作悲劇「ペルシャ人」に登場するクセルクセス( “Xerxes in Aeschylus' Persae” ),ソフォクレス作悲劇「アンティゴネ」に登場するクレオン( “Creon in Sophocles' Antigone” ),エウリピデス作悲劇「バッカスの信女」に登場するペンテウス( “Pentheus in Euripides' Bacchae” )に学びなさい(訳注後記).聖なるロザリオの祈りを確実に唱えるだけでなく,ほら,古典名作も読み,芋(いも)も植えて(=畑を耕〈たがや〉して),負債も支払うんですよ!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(最後のパラグラフの訳注・「ギリシャ悲劇」について)

クセルクセス
・=クセルクセス一世.アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位前486年-前465年).ダレイオス一世の子.前480年父の遺志を継いでギリシア遠征(ペルシア戦争)を行ったが,サラミスの海戦に敗れた.治世後半から側近の権力闘争が激化.謀殺された.

* * *

クレオン
・テーバイの王ライオスの妃イオカステの兄弟.オイディプスが追放された後、テーバイ王となる.
・(テーバイ)
〈=テーベ,“Thebae”.〉古代ギリシャの重要都市.現シベ.テーベ伝説上のオイディプス王の首都で,古代ギリシャ悲劇の舞台として知られる.
・(解説)
悲劇「アンティゴネ」の作者ソフォクレスは,神の法(自然法)と人間の法ではどちらがより重要かを,多神教を信仰するアテネ市民(=ギリシャ人)に問うた.ソフォクレスは神の法を選んだ.彼はギリシャ国中にまん延しつつあった道徳の破壊が国家没落の原因となり得ることを認識していたことからギリシャ国民の傲慢(=ギリシャ語でhubris )さを警告した.「アンティゴネ」では最終的にテーベ王となったクレオンの傲慢が露呈(ろてい)している.この悲劇の前編「オイディプス王」(前430年頃)では,オイディプス王の傲慢が詳述されている.

* * *

ペンテウス
・ギリシャ神話の人物.カドモスの娘アガウェがスパルトイの一人エキオンと結婚して生んだ子で,老齢のカドモスから譲位され,二代目のテーベ王になったが,ディオニュソス(=バッカス.ギリシャ神話の酒神,豊穣神)の信仰がテーベに広がるのを妨げようとして,従兄弟にあたるこの神を怒らせ,神罰によって八つ裂きにされて死んだ.このとき,彼の母や伯母たちが,信女たちの先頭に立って彼を害したという.

(ブリタニカ国際大百科事典,百科事典マイペディア他参照)

2011年1月30日日曜日

伝統派の感染

エレイソン・コメンツ 第185回 (2011年1月29日)

リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--

「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.

伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.

このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。

私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)

では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:

新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』

(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)

***

- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:

新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』

(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)

(バルバロ神父による注釈)

罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).

***

- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:

原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.

2010年10月18日月曜日

祝福された洞窟

エレイソン・コメンツ 第170回 (2010年10月16日)

神の慈愛( “grace” 「恩寵(おんちょう),恩恵」)を人間性( “nature” )から切り離して区別してしまうことはなんと不条理なことでしょうか!この二つは互いのために作られているのです!(訳注・原文 “The two are made for one another!” 「恩寵と人間性とは親密な関係にある」.)恩寵について,それがあたかも人間性そのものに戦いをいどむものであるかのように考えることは,それにもましてなんと不条理なことでしょうか!恩寵は,私たちの堕落した人間性( “fallen nature” )について,その堕落の状態そのもの( “fallen-ness” 「堕落状態」)(訳注・「原罪」あるいは「原罪をもっている状態」を指す.初めの人アダムとエワが神に背いて堕落したことにより,それ以後に生まれたすべての人間は生来(=生まれつき,生まれながらに)「原罪」をもつ運命に陥った.)と戦うことはあっても,その堕落状態の根底にある( “underlies that fallen-ness” ),神に由来する人間性と戦うものではありません.それとは逆に,恩寵は,かかる堕落状態の根底にある人間性を,その原罪による生来の堕落状態と(生れた後で犯す)罪の汚れから救って( “…to heal that underlying nature from its fallen-ness and falls,” )神の高みにまで引き上げ,神の本質にあずからせるために存在するのです(使徒ペトロの第二の手紙・第1章4節を参照.)(訳注・バルバロ神父訳による新約聖書の該当箇所…「(キリストの神としての力は…命と敬虔を助けるすべてのものをくださり,)またそれによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた.それは,欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ,神の本性にあずからせるためであった.」).

さて,恩寵なしの人間性は革命に通じ得ますが,人間性を軽視した恩寵は,たとえば同様に革命に通じるジャンセニズム “Jansenism” (訳注後記・1)のように誤った「霊性(精神性)」につながります.この誤ったプロテスタント化の過ちの重大性は,恩寵を,罪の代わりに人間性と対立するものとして配置しているところにあります.私は七日間のイタリア旅行で四つの山岳域を訪れ,神に近づくため自然界に逃れた(原文 “fled…in Nature” )四人の偉大な中世の聖人たちのことを思い出していました.彼らについては四人とも聖務日課書とミサ典書の中に記されています.それらの四人の聖人とは,年代順に挙げると,聖ベネディクト “St. Benedict” (祝日3月21日,聖地:スビアコ “Subiaco” ),聖ロムアルド “St. Romuald” (祝日2月7日,聖地:カマルドリ “Camaldoli” ),聖ヨハネ・グアルベルト “St. John Gualbert” (祝日7月12日,聖地:ヴァッロンブローザ “Vallumbrosa” ),そしてアッシジの聖フランチェスコ “St. Francis of Assisi” (祝日10月4日,聖地:ラ・ヴェルナ “la Verna” )です.

カマルドリとヴァッロンブローザは,フィレンツェ “Florence (Firenze) ” を囲む丘陵地帯の高地にある地域の地名で,11世紀にそれらの地からそれぞれの地名をとった二つの修道会が起こりました.トスカーナ州のアペニン山脈 “Tuscan Apennines” の高地の山奥にあるラ・ヴェルナは,聖フランチェスコが1224年に聖痕(訳注後記・2)を受けた場所です.これらの三つの場所へはすべて,現在ではバスか自動車で比較的容易にたどり着くことができますが,今でも依然として山深い森林地に取り囲まれており標高も十分に高いので,冬季にはきっと身を切るような厳しい寒さで凍えてしまうことでしょう.この地がこれらの聖人たちが,比較的小さい町々においてさえ十分に狂気に浸りきった俗世間(浮世の人々)と一体となっていた,その当時の町々を遠く離れ,神と心を通い合わせ親しく語り合うため出かけて行った場所なのです.

多分,私が最も感銘を受けた場所は,ローマから車で一時間ほど東に向かったスビアコでした.そこは聖ベネディクトが若い頃,山腹の洞窟(どうくつ)で三年間を過ごしたところです.紀元580年に生れ,若い学生だったとき,彼は崩壊したローマ帝国を脱出しその丘陵へと逃れたのです.その時彼は20才,あるいは人によっては14才だったと言う人もいます! - もしそうだとしたら,なんというティーンエイジャー(十代)でしょうか!紀元1200年頃から,その場所の周囲の山腹に本格的な男子修道会が形成され始め,スビアコはこの若い男性によって神聖な場所となったのですが,神を探し求めた彼がそこで何を見出したのか,誰でも(その場所を訪れてみれば)今もなお想像することができるでしょう.見上げれば上には雲々と空があり,はるか下方の渓谷(けいこく)では急流が音を立ててほとばしり,向こう側の山の斜面には荒れた森林のほか何もなく,道連れ(みちづれ)はただ切り立った断崖(だんがい)を行き来する鳥たちだけで,ただ独りで自然界とともに・・・神の自然界と・・・ただ独りで神と向き合えるのです!

三年間,ただ独り神と向き合う・・・その三年間は一人の若いカトリック信者に,(創造主たる神が創造された)自然の中で自分の霊魂をキリストと共有することを可能にしたのです.そして彼の著(あらわ)した有名なベネディクトの戒律が,崩壊したローマ帝国を高邁(こうまい)なキリスト教世界へと新しく形を変えたのです.その世界はいまや「西洋文明」として崩壊しつつあります.キリストと共に自らの人間性を取り戻すことで己の霊魂を取り戻し,そうしてキリスト教世界を救済し得る若いカトリック信者たちは今日どこにいるのでしょうか?

神の御母よ,若者たちに霊感を与え給え!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第2パラグラフの訳注・1)

“Jansenism” 「ジャンセニズム」 (「ヤンセニズム」「ヤンセン主義」ともいう.仏語で “Jansénisme” 「ジャンセニスム」.)について.

1640年に,オランダのローマカトリック司教で神学者コルネリス・ヤンセン “Cornelis Jansen” (1585-1638) が著した大書「アウグスティヌス」が出版された(彼の死後,遺作として).17-18世紀に,その著書の中の「恩恵論」を巡りフランスを中心として欧州各地のカトリック教会で宗教論争・運動が展開された.ジャンセン主義者たちは当時のイエズス会,フランス王権,ローマ教皇と激しく対立した.拠点となったポール・ロワイヤル(Port-Royal. シトー会)女子修道院の破壊(1711年)やイエズス会の一時解散(1773年)など,長年にわたる争いの激化で信徒たちを混乱させ,ローマ教皇による弾圧や断罪が続く中で,争いは教会内にとどまらず政治の世界にまで大きな影響を及ぼしたため,後にローマ教皇により禁圧された.厳格な考え方が特徴.人間の原罪の重さと,それに対する恩寵の必要性を過度に強調し,人間性や人間の意思を軽視した.

* * *

(第3パラグラフの訳注・2)

“…St Francis received the stigmata in 1224.”の “stigmata” 「聖痕」について.

「聖痕」(せいこん)…キリストの受難の傷痕を身体に受けること.アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)はキリストと同じ五つの傷痕(手足と脇腹)を受けたことが伝えられている.身体の外部に現れず,内的な苦痛の場合もある.