エレイソン・コメンツ 第265回 (2012年8月11日)
霊魂たちが地獄へ落ちるドラマについて(多くの霊魂がその道を選びます - 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13節,22章14節),読者は以下のように簡潔に言い表しうる古典的な問題を提起するでしょう.神は霊魂が呪われるのをお望み( "wants souls to be damned" ) なのか,それともそうではないのだろうか? もし神が確かにそうお望みなら神は無慈悲 (むじひ, "is cruel" )ということになる.もし神がそうお望みでないとしても,霊魂が地獄に落ちることは起こりうる.それだと神は(全知)全能( "not omnipotent" )でないということになる.それでは神は無慈悲なのか,それとも全能でないのか? そのいずれなのだろうか?(訳注後記)
まず最初に神が霊魂を地獄に落とすことは決してないことをはっきり(確証,立証)させましょう.多くの呪(のろ)われた霊魂たちのいずれもすべてまだ地上(=この世)に生活している間に(あらゆる機会ごとにその都度〈つど〉)自(みずか)らの自由意思で選び取った一連の諸々の選択(せんたく)によって自らを地獄に送り込みそこに落ちたのです( "Every one of the many souls damned sent itself to Hell by the series of choices that it made freely during its time on earth. " ).神は各々(おのおの)の霊魂に生命,時間そして自由意思,さらにそれらとともに各自が天国へ上る道を選び取るよう数多くの自然的な助けと超自然の恩寵(おんちょう)とを,各々の霊魂が必要とする限りいくらでも制限することなく,お与えになりました.だが,ある霊魂がそれを拒(こば)んだときには,神はその霊魂が望んだとおりのものを得るようにしました.そのものとはすなわち,神なしの(=神の存在しない)永遠です( "God gave to it life, time and free-will, and also any number of natural helps and supernatural graces to persuade it to choose to go to Heaven, but if it refused, then God let it have what it wanted, namely an eternity without him. ").そうして得ることとなった神の喪失(そうしつ, "loss of God" )という結果・状態は,どの霊魂もひとつ残らず本来ただ神を持つ(=所有する)という目的のためだけに神によって造(つく)られたものなわけですから,(当然)その霊魂にとって地獄に落ちてもそれは断然圧倒的に最もひどい苦痛となります( "And that loss of God, for a soul made by God only to possess God, is by far its cruellest suffering in Hell. " ).そこで,神はその霊魂が天国を選び取ってくれるようにと願われました. (神はすべての者を救いたまう - 新約聖書・ティモテオへの第1の手紙:第2章4節)( "Thus God wished that the soul might choose Heaven ("He will have all men to be saved" – I Tim. II, 4),…" )(訳注後記).だが,神はその霊魂が地獄という悪を選び取ることもお許しになり,その悪からより大きな善を導き出そうと望まれました("…but he wanted to allow the evil of its choosing Hell in order to bring out of that evil a greater good. ").
ここで( "wish" )と( "want" )という二つの英語を使い分けた点にご注目ください.何かを「(欲しいと)望む」( "want" )ことは単にそれを「願う」( "wish" )よりはるかに強い(=より完全な, "more full-blooded" )意味を持ちます.ですから家庭の父親は自分の息子が人生でつらい経験をしないようにと願う( "wish" )でしょう.だが,父親はあらゆる状況を考え(考慮して),あえて息子がつらい経験をするよう望む(=つらい経験もしてほしいと望む)( "want" )ことがあり得ます.それが息子が人生で学ぶ唯一の方法だと知っているからです( "Thus a family father may well not wish his son to suffer harsh experience in life, but in view of all the circumstances he can want to let him suffer because he knows that that is the only way his son will learn. " ).同じように,放蕩(ほうとう)息子の寓話(ぐうわ)でも,父親は下の息子(次男)が家を出て自分の遺産を食いつぶさないでほしいと願いましたが,その息子がそうすることを望み,実際にはそうしました.それが良い結果を生みました - 次男息子は家に帰り,今や後悔に打ちひしがれ,前より惨(みじ)めながらも賢(かしこ)い若者になりました.("Similarly in the parable of the Prodigal Son, the father did not wish to let his younger son leave home and squander his heritage, but he wanted to let him do so because that is what the father in fact did, and good did come of it – the return home of the son, now repentant, a sadder but wiser young man. ")(訳注後記)
これと同じように,神は一方であらゆる霊魂が救われるよう願って( "wishes" )おられます.神は人々がそうなるようお造りになられたからであり,人々のために十字架上での(処刑による)死を選ばれたからです.十字架上での神の苦痛の大きな部分は,多くの霊魂が救われるために贖罪(しょくざい)による恩恵を受ける道を選ばないだろうと知っていたことでした( "In the same way God wishes on the one hand all souls to be saved, because that is what he created them for, and that is why he died for all of them on the Cross, where one large part of his suffering lay precisely in his knowing how many souls would not choose to profit by their Redemption to be saved. " ).そのような神を無慈悲だなどけっして言えません! ( "Such a God can in no way be considered or called cruel !" ) 他方で神はあらゆる霊魂が望みもしないのに救われることなど望んで( "does not want" )おられません.もし神がそうお望みなら,神が全能だからあらゆる霊魂が救われることになるからです( "On the other hand God does not want all souls to be saved unless they also want it, because if he did, they would all be saved, because he is all-powerful, or omnipotent. ". )だが,あらゆる状況を考えれば,すべての霊魂が救われるというのは,どうぞご勝手にと言われれば,救いを選ばないような人々の自由選択を実質的に否定することを意味しますし,彼らの自由意思を踏みにじることになります( "But, given all the circumstances, that would mean in effect overriding the free choice of those who, left to themselves, would choose not to be saved, and that would mean trampling on their free-will. ". )人々が自由意思をいかに大切と考えているかは他人の命令を嫌い自立するのを好むことを見ればお分かりでしょう.人はみな自由意思こそが自分が動物でもロボットでもないことの証しだと知っています( "Now just see how passionately men themselves value their free-will, when you see how they dislike being given orders or like being independent. They know that their free-will is the proof that they are not just animals or robots. ". )神もまた自らの天国に動物やロボットでなく人間が住むようになるのをお望みです.だから,あらゆる人が望みもしないのに救われるのをお望みではない("do not want")のです( "So God too prefers his Heaven to be populated with men and not just with animals or robots, and that is why he does not want all men to be saved unless they also want it. " ). )
それでも神は霊魂が呪われるのをお望みではありません( "does not want" ).なぜならそれはやはり神にとってみれば(神の側からは)無慈悲なことだと知っておられるからです
( "Yet God does not want souls to be damned, because that again would be cruelty on his part. " ).神が霊魂たちの呪われることをお許しになろうと望まれる( "wants to allow them to be damned" )ときの理由はひとえに,そうすることで霊魂たちが自ら選び取った永遠を持てるようになる状況をお考えになって(=考慮されて)のことなのです( "He only wants to allow them to be damned, in view of the circumstances that souls will thus have the eternity of their own choice, …").そうして神はただ単に(選択の自由意思を持たない)諸々の動物たちやロボットばかりではない,(自ら選び取る自由意思を持つ)人間たちの天国を所有されるおつもりなのです( "… and he will have a Heaven of human beings and not just animals or robots. " ).
このようにあらゆる霊魂を救いたいという神の願いは神がけっして無慈悲ではないことを意味します( "Thus his wish to save all souls means that he is by no means cruel,…" ).多くの霊魂が呪われるのは神が全能でないからではなく,神が自ら創造された人間の自由意思を尊重されるからであり( "…while the damnation of many souls proves on his part not a lack of omnipotence, but a choice to value his creatures’ free-will, …" ),地上(=この世)で神を愛する道を選び取った霊魂たちに,神が天国をもって報いようとされるとき無限の喜びをお感じになるからです( "…and the infinite delight that he takes in rewarding with Heaven souls that have chosen to love him on earth." ).
神の御母(聖母マリア)よ,今も私の臨終(りんじゅう)のとき(=死に際〈ぎわ〉に)も,私があなたの御子(神なるイエズス・キリスト)を愛し天国を選ぶようお助けくださいますよう!( "Mother of God, now and in the hour of my death, help me to love your Son and to choose Heaven ! " )
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW
VII, 13; XXII, 14 (English)
EVANGELIEM SECUNDUM MATTHAEUM
VII, 13; XXII, 14 (Latine)
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ティモテオへの第1の手紙:第2章4節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO TIMOTHY II, 4 (English)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD TIMOTHEUM PRIMA II, 4 (Latine)
『*すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』
(注釈)
* 〈新約〉ローマ人への手紙(9:18,21)解釈を助ける神学的に重要なことば.
* * *
"Who will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth. "
* * *
"qui omnes homines vult salvos fieri, et ad agnitionem veritatis venire."
* * *
第3パラグラフの訳注:
「放蕩息子の寓話」 "the parable of the Prodigal Son" について.
* * *
訳注を追補いたします.
* * *
2012年8月13日月曜日
2011年10月1日土曜日
永遠の危険
エレイソン・コメンツ 第218回 (2011年9月17日)
「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」
こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?
確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).
だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」
これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.
そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
○第2パラグラフの先の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14
『狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.
○第2パラグラフの後の訳注:
マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)
(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)
ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.
主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.
日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.
すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.
このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』
(注釈)
*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.
ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である.
しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ.
*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.
* * *
○第3パラグラフの訳注:
旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,
これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,
目で見たこともない.
主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』
* * *
○第4パラグラフの先の訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)
(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)
第17章
イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.
私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.
この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.
私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません.
彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.
*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.
あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』
(注釈)
イエズスの祈り
*¹ 新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.
*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.
*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).
しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).
父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).
*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り.
*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.
*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).
*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた.
*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).
* * *
○第4パラグラフの後の訳注:
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)
イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.
これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.
立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』
(注釈)
イスラエルの罰
*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.
*² 脱出の書14・22参照.
*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.
*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)
→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)
*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).
*⁶ 荒野の書14・16参照.
*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.
*⁸ 荒野の書32・6参照.
*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.
*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.
*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.
*¹² メシアの時代.
*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.
実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.
私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.
*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.
〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.
食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.
(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである.
*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.
*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.
*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」
*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.
* * *
○第5パラグラフの訳注:
コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9
『書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』
(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.
* * *
「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」
こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?
確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).
だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」
これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.
そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
○第2パラグラフの先の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14
『狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.
○第2パラグラフの後の訳注:
マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)
(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)
ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.
主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.
日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.
すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.
このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』
(注釈)
*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.
ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である.
しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ.
*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.
* * *
○第3パラグラフの訳注:
旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,
これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,
目で見たこともない.
主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』
* * *
○第4パラグラフの先の訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)
(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)
第17章
イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.
私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.
この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.
私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません.
彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.
*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.
あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』
(注釈)
イエズスの祈り
*¹ 新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.
*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.
*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).
しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).
父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).
*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り.
*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.
*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).
*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた.
*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).
* * *
○第4パラグラフの後の訳注:
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)
イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.
これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.
立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』
(注釈)
イスラエルの罰
*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.
*² 脱出の書14・22参照.
*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.
*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)
→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)
*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).
*⁶ 荒野の書14・16参照.
*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.
*⁸ 荒野の書32・6参照.
*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.
*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.
*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.
*¹² メシアの時代.
*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.
実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.
私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.
*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.
〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.
食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.
(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである.
*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.
*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.
*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」
*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.
* * *
○第5パラグラフの訳注:
コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9
『書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』
(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.
* * *
2011年1月26日水曜日
神は少数しかお選びにならないか?
エレイソン・コメンツ 第184回 (2011年1月22日)
人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?
簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.
限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?
大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)
神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』
(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.
→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』
…
-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』
(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)
(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』
***
第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』
(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).
***
第4パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)
-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)
***
第4パラグラフ最後の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)
(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
「さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」
(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.
人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?
簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.
限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?
大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)
神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』
(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.
→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』
…
-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』
(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)
(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』
***
第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』
(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).
***
第4パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)
-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)
***
第4パラグラフ最後の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)
(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
「さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」
(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.
登録:
投稿 (Atom)