2011年1月26日水曜日

神は少数しかお選びにならないか?

エレイソン・コメンツ 第184回 (2011年1月22日)

人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?

簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.

限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?

大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)

神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第1パラグラフ最初の訳注:

新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.

→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』

-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』

(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)

(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』

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第3パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』

(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).

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第4パラグラフ最初の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)

-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)

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第4パラグラフ最後の訳注:

新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)

(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」

(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.