ラベル モダニスト の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル モダニスト の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年7月30日土曜日

472 トマス主義の本質 7/30

エレイソン・コメンツ 第472回 (2016年7月30日)

(解説無し)

本物の真実はいかなる矛盾も含みません.
誤りを認める「真実」はまがいものの真実です.
Truth which is true excludes all contradiction.
“Truth” which admits of error, is truth-fiction.

モダニズム(近現代主義)は見かけの誠意や誠実さを真実の崩壊に結びつけがちですが,そのやり方はカトリック教の真の信仰にとって極めて危険なため,詳述したり分析したりする対象としてはあまり適しません.だが,最近これについて伝統派の一平信徒が疑問を提起したので,もう一度説明,分析をしてみたいと思います.この信徒は聖ピオ十世会 "SSPX" の司祭が公会議派によるトマス主義者(訳注:「神学大全」の著者,聖トマス・アクィナスの思想ないし教説を信奉する学派)に関する評論を定期的に読むことが果たして賢明かどうか疑問を投げかけています.彼はその根拠として,SSPX が教会の偉大な哲学者で神学者である聖トマス・アクィナスの思想,信条についての定期的出版物をこれまで一切出していない点を指摘しています.SSPX の司祭はそのような評論を読む際に,少なくとも十分に慎重な心構えで臨むべきだというのが,この疑問に対する答えです.なぜなら,公会議派の唱えるトマス主義は真実の観点から見ると矛盾しているのに,モダニズム(=モダニスト)(=近現代主義者)の観点では矛盾していないように容易に見せかけることが可能であり,この点がまさしく問題だからです.
The way in which modernism can combine apparent sincerity and good faith with dissolution of the truth is so dangerous for the real faith of Catholics that it can hardly be described or analysed too often. The recent question of a Traditional layman provides another opportunity to do so. He asks whether a priest of the Society of St Pius X is wise who reads regularly a Conciliar Thomist review, on the grounds that the SSPX has not provided as of yet any such regular reading matter on the thought and doctrine of the Church's great philosopher and theologian, St Thomas Aquinas. The answer is that this priest had better, at the least, be very careful, because Conciliar Thomism is a contradiction in real terms which can, in modernist terms, easily be made to seem – and here is the problem – non-contradictory.

公会議派のトマス主義がなぜ真実の観点から矛盾しているかといえば,聖トマスの教えは私たちの心(諸々の思惑)の外(=外部)( "outside our minds" )に在る(=有る・位置している)真実の物事の中に現存しておられる唯一無二の(=正真正銘の)真実の神で在られる御方( "the one and only real God" )によって唯一無二の存在として植えつけられた(正真正銘の・真〈実〉の)秩序そのもの( "the one and only order planted in real things outside our minds" )に合致するよう懸命に努力し,そしてそれが大いに成功しているからです.これに反し,第二バチカン公会議は現代人がこの神中心で不変の秩序を危うくさせた(=弱体化させた・不安定化させた)との想定から出発し( 第二バチカン公会議公文書「現代世界憲章」“Gaudium et Spes”〈=「喜びと希望」〉 の冒頭部分を参照),(したがって)神の宗教を現代人にとって意味あるものとするためには,それを人間中心で活力に満ちたものに作り直さなければならず,トマス主義はもはやひとえに現実に忠実とはいえず,むしろ時代遅れになっているとの立場をとります.
Conciliar Thomism is a contradiction in real terms because the teaching of St Thomas strives, and in huge measure succeeds, to conform to the one and only order planted in real things outside our minds by the one and only real God. On the contrary, Vatican II proceded from the supposition that modern man has destabilised this God-centred and static order in things (see the opening section of “Gaudium et Spes”), and therefore for God's religion to make any sense to modern man, it must be re-cast in man-centred and dynamic terms which make Thomism no longer uniquely faithful to reality, but somewhat out of date.

モダニズム(=モダニスト)の観点では,トマス主義は人間の思想のなかの歴史的業績,最高の知的システムであり続け,その論理と一貫性は全面的に賞賛に値するということなのでしょう.したがって,SSPX の神学生たちはそれをあたかも電話帳のように学ぶのも結構でしょうが,彼らはひとたび第二バチカン公会議の魔力の影響下に置かれると,トマス主義を現代の誤りを正す唯一の方法とは見なくなり,世界についての他の多くの「最新の」考え方にいとも容易に魅せられ,たぶらかされてしまいます.手短に言えば,モダニストたちはトマス主義そのものを否定せず,その根底には全面的に 賛同すると言います.彼らは単に現代ではトマス主義の根底が変わったのであり,したがって,それはもはや唯一有効なものないしは,真実に到達する唯一無二の道(=真実に至る正真正銘の道そのもの)ではなくなったと主張するでしょう.このため,第二バチカン公会議の信奉者たちはトマス主義に賛同できると考えることはできるでしょうが,実際にはそれに少しも賛同していません.
In modernist terms Thomism may remain a historic monument of human thinking, a superb intellectual system, whose logic and consistency are wholly admirable. Thus SSPX seminarians, for instance, can learn it like a telephone directory, but if SSPX seminaries are being brought under the spell of Vatican II, the seminarians will no longer see Thomism as the one and only way to combat modern errors, and they will easily be charmed and seduced by many other more “up-to-date” ways of thinking about the world. In brief, modernists will not challenge Thomism on its own ground, indeed they can claim to agree with it entirely on its own ground. They will merely claim that in modern times the ground has shifted, and so Thomism is no longer uniquely valid, or is no longer the one and only way of getting at truth. Thus followers of Vatican II can really think that they agree with Thomism, but they do not agree with it at all.

初歩的な算術を使ってもう一度要点を示します.二と二の和は四(二足す二は四)です.(訳注・以下,「2プラス2は4」の様に記します.) 実生活でも,現実に,正解は4以外でありえず,3(三)でも5(五)でもありません.だが,モダニストの算術家は「2プラス2は絶対に4以外ではないというのはあまりにもしゃくし定規すぎる.2プラス2は5か6(六)になりうるという方がもっと独創的で進歩的であり,心をもっと広げれば,答えは6百万にもなりうる!」と言うかもしれません.そして,モダニストの算術家は2プラス2が4であることを排除せず,広い心でそれを喜んで受け入れるのだから,自分の計算は古い計算と矛盾しないと素直に信じられるのでしょう.だが,彼が実際には「古い」算術を台無しにしていることを見抜けない者が果たしているでしょうか?私たちの心の外にある唯一の真実に合致する古い算術は,2プラス2が4であることを包含するだけでなく,それ以外を絶対的に排除するものです.そして,この算術だけが唯一の真実に合致するものであり,言い換えれば,それだけが真実なのです.言うまでもなく,それだけが神の造られた自然および超自然的真実の秩序に合致すると信じ,考えることは聖トマス・アクィナス(1225-1274年)以前の多世紀にわたり存在しました.アクィナスは単にそのことを他に類を見ないシステムにまとめ上げただけです.それを真実にしているのは,システム自体ではありません.だが,そのシステムを真実にしているのは,それがシステムとして唯一現実に合致しているからです.
Let elementary arithmetic once more illustrate the point. Two and two are four, and in real life, in reality, they can be nothing else, neither three nor five. But a modern arithmetician might say, “To say that two and two are uniquely or exclusively four, is too narrow-minded. It is much more creative and progressive to say that they can also be five or six or – let us be open-minded – Six Million !” And because this modern arithmetician does not exclude two and two being four, but gladly includes it in his broad-mindedness, he can sincerely believe that his arithmetic does not contradict the old arithmetic. But who cannot see that in reality he is totally undermining the “old” and true arithmetic ? That arithmetic which corresponds to the one reality outside our minds not only includes two and two being four, but also absolutely excludes their being anything else. And this arithmetic alone corresponds to that one reality, or, is true. Thus the believing and thinking which alone correspond to God's one order of natural and supernatural reality existed of course for many centuries before St Thomas Aquinas (1225-1274). He merely put it all together in an incomparable system. But it is not the system that makes it true. What makes it uniquely true as a system is its unique correspondence as a system to reality.

したがって,もし先に述べたトマス主義に関する評論の著者たちが第二バチカン公会議の信奉者だと自認するなら,彼らはトマス主義がここでいう意味での比類のないものだとは決して思わないでしょう.その場合,彼らは電話帳的「トマス主義者」と呼べるとしても,決して本物のトマス主義者ではありません.上に述べた SSPX の司祭はこの違いを常に理解できるのでしょうか?彼がたった今(現在),第二バチカン公会議の方向へ導かれるまま身を委ねているなら,答えはノーです.
Therefore if the writers in this Thomistic review are also professed followers of Vatican II, they will surely not believe that Thomism is, in the sense presented here, unique. In which case they might be called telephone-book “Thomists”, but they are certainly not true Thomists. Will the priest mentioned above always be able to distinguish ? Not if he is letting himself right now be led towards Vatican II.
Kyrie eleison.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




* * *







* * *
本投稿記事・第472回エレイソン・コメンツ「トマス主義の本質」(2016年7月30日付)/ELEISON COMMENTS CDLXXII (July 30, 2016) : "AUTHENTIC THOMISM" (解説無し)は2016年8月28日午後23時38分に掲載されました.
* * *


2015年1月3日土曜日

390 大司教のコメント I 1/3

エレイソン・コメンツ 第390回 (2015年1月3日)

客観から外れた心は,悪の一途を辿ります
 (きゃっかん から はずれた こころは, あくの いっとを たどり ます.)
  ( "Unhooked from the object, minds go very bad. " )
教会も 聖ピオ十世会( =SSPX)も 共に狂っています
 (きょうかいも せい ぴお じゅっせい かいも ともに くるって います.)
  ( "Church and Society have both gone mad. " )

今日の教会当局者に取って,「確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません.全てが進化しているのです.」(こんにちの きょうかい とうきょく しゃ に とって,「かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにもなく,きょうぎも ありません.すべてが しんか している のです.」)( "For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” " )これは(此れは・是は・惟は)ルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお(御)言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照下さい)(これは るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん-せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉が せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに のべられた おことば です〈せんしゅうの えれいそん・こめんつを さんしょう ください〉)( "So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). " ).大司教はその(其の)生涯の終わりに近づいた時期,ご(御)自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで(其れ迄)以上にはっきりと悟りました(だいしきょうは その しょうがいの おわりに ちかづいた じき,ごじぶんが しんこう ようごの ために なにと たたかって きたかを,それまで いじょうに はっきりと さとりました)( "For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith." ).大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は(だいしきょうの しご まもなく せいぴお じゅっせい かいを とうしゅう した りべらる は〈=じゆう しゅぎ は〉〈みずから りべらるはと じか くしていなかった かも しれませんが〉は)( "Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, …" ),それ(其れ)以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま(儘・侭)今日に至っています(それ いらい,だいしきょうが めいかくに した もんだいの じゅうだい せいを りかい しない まま こんにちに いたって います)( "… have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. " ).従って,私は新年に当たり(当り)(したがって,わたくしは しんねんに あたり)( "Therefore let these “Comments” open the New Year …" ),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるか(有るか)をもう一度明確に提起してみたい(見たい)と思います(えれいそん・こめんつを とおして こんにちの きょうかいと せかいが かかえる ちめいしょうが なんで あるかを もう いちど めいかくに ていき して みたいと おもいます)( "… by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world." ).

〔問答 § 1 邦訳/英語原文〕(もんどう だい いっ こう ほうやく/えいご げんぶん)
今日の教会当局者にとって,「確固とした真実(=真理)は何もなく,教義も有りません.全てが進化しているのです.」これはルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照ください).大司教はその生涯の終わりに近づいた時期,ご自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで以上にはっきりと悟りました.大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は,それ以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま今日に至っています.従って,私は新年に当たり(当り),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるかをもう一度明確に提起してみたいと思います.

For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith. Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. Therefore let these “Comments” open the New Year by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world.

イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに(有りの儘〈侭〉に)知る事は出来ないと言う全く間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立した時(いまぬえる・かんとが,にんげんの こころは きゃっかんを ありの ままに しる ことは できない という まったく まちがった かんがえかたに もとづいて にんげんに よる かみの げんじつ きょひを てつがく てきに かくりつ した とき),( "When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, …" ),世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし(撒き散らし)始めました(せかいじゅうの だいがくの てつがくぶが きょうきを まちじゅうに まきちらし はじめ ました)( "… then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, …" ).人々は自由を自分達の神としたい(為たい)と望み,カントが彼等に最高の解放,すなわち(即ち)客観からの心の解放を与えたからです(ひとびとは じゆうを じぶんたちの かみと したいと のぞみ,かんとが かれらに さいこうの かいほう,すなわち きゃっかん からの こころの かいほうを あたえた から です)( "… because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object." ).

〔問答 § 2 邦訳/英語原文〕(もんどう だい に こう ほうやく/えいご げんぶん)
イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに知ることはできないというまったく間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立したとき,世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし始めました.人々は自由を自分たちの神としたいと望み,カントが彼らに最高の解放,すなわち客観からの心の解放を与えたからです.

When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object.

カントの幻想にまだ(未だ)毒されていないカトリック信徒は(かんとの げんそうに まだ どくされて いないかとりっく しんとは),神と神の天国が自分達の小さな心の外に独立した物として存在しており(かみと かみの てんごくが じぶんたちの ちいさな こころの そとに どくりつ した もの として そんざい しており)( "Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, …" ),従って自分達が永遠に幸福で在りたいと願うなら(したがって じぶんたちが えいえんに こうふくで ありたいと ねがう なら),心は主観的な幻想でなく客観的現実と係わって(=関わって)行くべきである事を知っています(こころは しゅかん てきな げんそう でなく きゃっかん てき げんじつと かかわって いくべき である ことを しって います)( "… and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. " ).そのため(其の為),一世紀半の間,神が御与えになった歴代の反リベラル派教皇達は自由主義世界がこれ以上狂い続けない様にしようと立ち上がり(そのため,いっせいき はん の あいだ,かみが おあたえに なった れきだいの はん りべらるは きょうこう たちは じゆうしゅぎ せかいが これ いじょう くるい つづけ ない ように しようと たちあがり)( "Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, …" ),教会を一流で人気を得た主観主義に影響されない様守って(=保護して)来ました(きょうかいを いちりゅうで にんきを えた しゅかん しゅぎに えいきょう されない よう まもって〈=ほごして〉きました)( "… and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism." ).しかし(然し),1950年代になると,教会の枢機卿や司教達の祈りは(しかし,せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだいに なると,きょうかいの すうききょう や しきょう たちの いのりは,),信徒達の心( "their minds and hearts" )を教会内部で「モダニズム(近・現代主義)」として知られる様になった狂気から守り続ける程十分に強くなくなってしまい(終い・仕舞い)ました(しんと たちの こころを きょうかい ないぶで「もだにずむ〈きん・げんだい しゅぎ〉」として しられる ように なった きょうき から まもり つづける ほど じゅうぶんに つよく なくなって しまい ました)( "But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, …" ).その為,1958年のコンクラーベ( "the conclave of 1958" )で彼等は自らの意思で「善良」と目された教皇ヨハネ23世を選出しました(そのため,せん きゅうひゃく ごじゅうはち ねんの こんくらーべで かれらは みずからの いしで「ぜんりょう」と もくされた きょうこう よはね にじゅうさん せいを せんしゅつ しました)( "… and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, …" ).彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうか〈如何か〉は神のみぞ知るですが)(かれは りべらるは で〈みずから そう にんしき していた かどうかは かみ のみぞ しる ですが〉),1962年にまさしく(正しく)あの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました(せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねんに まさしく あの はめつ てきな だいに ばちかん こうかいぎを たちあげ ました)( "… a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council. " ).

〔問答 § 3 邦訳/英語原文〕(もんどう だい さん こう ほうやく/えいご げんぶん)
カントの幻想にまだ毒されていないカトリック信徒は,神と神の天国が自分たちの小さな心の外に独立したものとして存在しており,したがって自分達が永遠に幸福でありたいと願うなら,心は主観的な幻想でなく客観的現実とかかわって行くべきであることを知っています.そのため,一世紀半のあいだ,神がお与えになった歴代の反リベラル派教皇たちは自由主義世界がこれ以上狂い続けないようにしようと立ち上がり,教会を一流で人気を得た主観主義に影響されないよう守ってきました.しかし,1950年代になると,教会の枢機卿や司教たちの祈りは,信徒たちの心を教会内部で「モダニズム」として知られるようになった狂気から守り続けるほど十分に強くなくなってしまいました.そのため,1958年のコンクラーベで彼らは自らの意思で「善良」と目されたヨハネ23世を教皇に選出しました.彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうかは神のみぞ知るですが),1962年にまさしくあの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました.

Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism. But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council.

第二バチカン公会議がなぜ(何故)破滅的だったのでしょうか?(だいに ばちかん こうかいぎが なぜ はめつ てき だった のでしょうか?)( "Why disastrous ? " )それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって(依って)非難される代わりに(それは,しゅかん しゅぎの きょうき〈きゃっかん てき げんじつの きょぜつ〉が きょうかいの さいこう けんりょく しゃに よって ひなん される かわりに),容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが)(ようにんされ〈いと てき か いと てき でないか かみ のみぞ しる ですが〉),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです(きょうかいの きょうり,こうどうの せいしきな きばんに されて しまった から です)( "Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action." ).これ以上深刻な問題は有りません(これ いじょう しんこくな もんだいは ありません)( "The problem could not be graver." ).救済という神の諸諸の客観的真実(=客観的真理)を守るべく任命された神の真の教会の当局者達が(きゅうさい という かみの もろもろの きゃっかん てき しんじつ〈=きゃっかん てき しんり〉を まもる べく にんめい された かみの まことの きょうかいの とうきょくしゃ たちが)( "The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, …" ),この時以降,自らの主観的な心を通してその真実(=真理)をろ過(濾過)する様になったからです(このとき いこう,みずからの しゅかん てきな こころ を とおして その しんじつ〈=しんり〉を ろか する ように なった から です)( "… were henceforth filtering these through their subjectivist minds." ).最良の葡萄酒(ワイン)を蓄えるのに,如何わしいボトル(=洋酒用瓶)しか持てなくなった状態を想像してみて下さい(さいりょうの ぶどうしゅ〈わいん〉を たくわえる のに,いかがわしい ぼとる (ようしゅ よう びん) しか もてなく なった じょうたいを そうぞう してみて ください)( "Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine." ).これでは破滅の一途を辿るだけです(これ では はめつの いっとを たどる だけ です)( "It can only be ruined." ).今日の公会議派教会当局者達は神の真実(=真理)を破滅させるだけです(こんにちの こうかいぎは きょうかい とうきょくしゃ たちは かみの しんじつ〈=しんり〉を はめつ させる だけ です)( "Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth." ).

〔問答 § 4 邦訳/英語原文〕(だい よん こう ほうやく/えいご げんぶん)
第二バチカン公会議がなぜ破滅的だったのでしょうか?それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって非難される代わりに,容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです.これ以上深刻な問題はありません.救済という神の客観的真実を守るべく任命された神の真の教会の当局者たちが,このとき以降,自らの主観的な心を通してその真実をろ過するようになったからです.最良のワインを蓄えるのに,いかがわしいボトルしか持てなくなった状態を想像してみてください.これでは破滅の一途をたどるだけです.今日の公会議派教会当局者たちは神の真実を破滅させるだけです.
Why disastrous ? Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action. The problem could not be graver. The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, were henceforth filtering these through their subjectivist minds. Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine. It can only be ruined. Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth.

1991年に(せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに)ルフェーブル大司教が以下の様に述べられたのは,正しくこの為です.(るふぇーぶる だいしきょうが いかの ように のべられた のは,まさしく このためです)( "Here is why the Archbishop said in 1991, …" ).「私達は私達と異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の諸諸の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています(わたくし たちは わたくし たちと ことなる てつがくを もち,ことなる ものの みかたを し,きんだいの もろもろの しゅかん てき てつがく しゃに えいきょう されて いる(きょうかい とっぷ の)ひとびとを あいてに して います)( " “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers." ).彼等に取って,確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません(かれらに とって,かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにも なく,きょうぎも あり ません).全てが進化していると言うのです(すべてが しんか して いると いう のです).これは正しく信仰のフリーメーソン的破壊です(これは まさしく しんこうの ふりーめーそん てき はかい です).幸いな事に,私達(伝統派)には頼るべき(真の)伝統が有ります(さいわいな ことに わたくし たち〈でんとうは〉には たよる べき〈まことの〉でんとうが あります).」

〔問答 § 5 邦訳/英語原文〕(だい ご こう ほうやく/えいご げんぶん)
1991年にルフェーブル大司教が以下のように述べられたのは,まさしくこのためです.「私たちは私たちと異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています彼らにとって,確固とした真実はなにもなく,教義もありません.すべてが進化しているというのですこれはまさしく信仰のフリーメーソン的破壊です幸いなことに,私たち(伝統派)には頼るべき(真の)伝統があります.」

Here is why the Archbishop said in 1991, “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers. For them, there is no fixed truth, no fixed dogma. Everything is evolving. This is really the Masonic destruction of the Faith. Fortunately we (Traditionalists) have Tradition to lean on.”

だが,真の伝統を導いてくれる(呉れる)大司教が亡き今,その真の伝統に何が起きているでしょうか?(だが,まことの でんとうを みちびいて くれる だいしきょうが なき いま,その まことの でんとうに なにが おきて いる でしょうか?)( "But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? " )悲しい哉(悲しいかな),40年の間客観的信仰擁護の先頭に立って来た聖ピオ十世会(= SSPX )トップの権力者達は(かなしいかな,よんじゅう ねんの あいだ きゃっかん てき しんこう ようごの せんとうに たって きた せい ぴお じゅっせい かい とっぷの けんりょく しゃ たちは)( "Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, …" ),自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません(みずからの こころが しゅかん しゅぎに おかされる のを ふせぐに じゅうぶんな ほど しんけんに いのりを ささげて いません)( "… cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism." ).彼等もまた(又・復・亦)客観的真実(=真理)の最重要性を見失っており(かれらも また きゃっかん てき しんじつ〈=しんり〉の さい じゅうよう せいを みうしなって おり)( "They too have lost the primacy of objective truth, …" ),漁師にもてあそ(弄)ばれる魚の様にローマ人達によって(依って・因って)弄ばれています(りょうしに もてあそ ばれる うおの ように ろーま じん たちに よって もてあそ ばれて います)( "… and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman." ).ルフェーブル大司教,どうぞ私達の為にお祈り下さい!(るふぇーぶる だい しきょう,どうぞ わたくし たちの ために おいのり ください!)( "Archbishop Lefebvre, pray for us ! " )

〔問答 § 6 邦訳/英語原文〕(だい ろっこう ほうやく/えいご げんぶん)
だが,伝統を導いてくれる大司教が亡きいま,伝統に何が起きているでしょうか? 悲しいかな,40年のあいだ客観的信仰擁護の先頭に立ってきたSSPXトップの権力者たちは,自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません.彼らもまた客観的真実の最重要性を見失っており,漁師にもてあそばれる魚のようにローマ人たちによってもてあそばれています.ルフェーブル大司教,どうぞ私たちのためにお祈りください!

But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism. They too have lost the primacy of objective truth, and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman. Archbishop Lefebvre, pray for us !

キリエ・エレイソン(きりえ・えれいそん)
(主よ憐れみ給え)(しゅよ あわれみ たまえ)
( "Kyrie eleison." ).

リチャード・ウィリアムソン司教
(りちゃーど・うぃりあむそん しきょう)





* * *






* * *
(注:本投稿記事〈第390回エレイソン・コメンツ「大司教のコメント I "ARCHBISHOP COMMENTED – I" 」( 2015年1月3日付)は2015年6月5日14:40に掲載されました.)

2014年4月19日土曜日

353 バランスの提案 4/19

エレイソン・コメンツ 第353回 (2014年4月19日)

     「主なる神(しゅなる かみ)があなたに命じた(めいじた)ことを成し続け(なしつづけ)なさい.そうすれば,あなたは右(みぎ)へも左(ひだり)へも道を踏み外す(みちを ふみはずす)ことは ないでしょう.」( " “Keep therefore and do the things which the Lord God hath commanded you: you shall not go aside neither to the right hand nor to the left.” " )主たる神(しゅたる かみ)のこの教訓(きょうくん)はモーゼから古代イスラエル人に伝えられた(もーぜから こだい いすらえるじんに つたえられた)もので( "旧約聖書・第二法の書〈申命〉:第5章32節"〈 "Deut.V, 32" 〉)( "This instruction from the Lord God to be passed on by Moses to the Israelites (Deut.V, 32) …" )(訳注後記1),新約聖書の神の選民(しんやく せいしょの かみの せんみん)( "God's Chosen People of the New Testament " )にとっては確かに通用(たしかに つうよう)しますが( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉)( " … is certainly valid for God’s Chosen People of the New Testament (Rom. IX, 25-26), …" )(訳注後記2),それを新約聖書の牧者(しんやく せいしょの ぼくしゃ)( "the Shepherd" )が倒(たお)れ,私たち羊が散り散り(わたくしたち ひつじが ちりぢり)になっている現代(げんだい)( "ザカリアの書:第13章7節〈 "Zech. XIII, 7" 〉" )に当(あ)てはめるのは容易(ようい)ではありません( "… but it is not so easy to apply in our own time when the Shepherd of the New Testament is struck, and we sheep are scattered (Zech.XIII, 7) " )(訳注後記3).教皇の倒れ方(きょうこうの たおれかた)はさほどひどくないので,カトリック信徒(しんと)は彼にどう従う(かれに どう したがう)かなど気にする必要(きにする ひつよう)がないのでしょうか?( "Is the Pope so lightly struck that Catholics need not take care how they obey him ? " ) それとも,彼の倒れ方(かれの たおれ かた)はあまりにもひどいので,もう教皇たりえないのでしょうか?( "Or is he so seriously struck that he cannot be Pope ? " ) いずれにしても,羊たちは散り散りで,ロシアが(聖母の)汚れなき御心(けがれなき みこころ)に奉献(ほうけん)されるまで,そのままの状態が続く(じょうたいが つづく)でしょう( "In any case the sheep are scattered and will remain so, until Russia is consecrated to the Immaculate Heart." ).(訳注後記4)

     米国(べいこく) SSPX (聖ピオ十世会)の公式機関誌(こうしき きかんし)( "the Angelus" )の最新号(さいしんごう)に掲載された書簡(けいさい された しょかん)は道を踏み外して(みちを ふみ はずして)左へ寄り(ひだりへ より)すぎています.私にはそのように見えます( "Meanwhile, as it seems to me, a letter published in the latest issue of the Angelus, official magazine of the Society of St Pius X in the USA, goes astray to the left." ). S 神父(しんぷ)( "Fr. S" )はいくつかの理由を挙げ(りゆうを あげ) SSPX は「なるべく早(はや)く教皇の手中(きょうこうの しゅちゅう)に」身を委ねる(みを ゆだねる)べきだと促し(うながし)ています( "Fr. S. has several reasons for urging the SSPX to put itself “in the hands…of the Pope as soon as possible.” " ).(これを私が左に寄りすぎていると見る理由(みる りゆう)は)第1に,ローマ教皇庁の聖職者(ろーま きょうこうちょうの せいしょくしゃ)たちが教会の意図的破壊者(きょうかいの いとてき はかいしゃ)だと考(かんが)えるのは潜在的(せんざいてき)な教皇空位論(きょうこう くうい ろん)です( "Firstly, to think that the Roman churchmen are intentional destroyers of the Church is implicit sedevacantism." ).だが,彼らの主観的意図(しゅかんてき いと)が教会に与えた(きょうかいに あたえた)客観的損害(きゃっかんてき そんがい),および SSPX が彼らの支配下に入った場合(しはいかに はいった ばあい)に受ける損害(うける そんがい)について思い起こす(おもい おこす)のに,私は潜在的,顕在的(せんざいてき,けんざいてき)な教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)のいずれにもなる必要(ひつよう)などありません( "But I need be no sedevacantist, implicit or explicit, to recall that their subjective intentions no way lessen the objective damage that they have done to the Church, and would do to the SSPX, if it came under their control." ).第2に, SSPX がローマ教皇庁の人々(ひとびと)( "the Rommans" )が完全(かんぜん)に教理を変える(きょうりを かえる)まで彼らの手中(しゅちゅう)に身を委ねる(みを ゆだねる)のを待つ(まつ)というのは非現実的(ひ げんじつ てき)です( "Secondly, for the SSPX to wait until the Romans’ full doctrinal conversion to put itself into their hands, is unrealistic." ).だが,信仰を敵に回す(しんこうを てきに まわす)のに異説(いせつ)( "heresy" )は一つだけで十分(ひとつだけで じゅうぶん)です( "But one heresy is enough to make an enemy of the Faith, …" ).そして,モダニズム(もだにずむ)(近現代主義〈きん げんだい しゅぎ〉)は一つの包括駅な異説(ひとつの ほうかつてきな いせつ)( "an all-embracing heresy" )です(教皇ピオ10世の回勅 "Pascendi" (「(主の羊の群れを)牧せよ」) 参照)(訳注後記5)( "… and modernism is an all-embracing heresy ( Pascendi, Pius X )." ). SSPX の指導者(しどうしゃ)たちはローマ教皇庁の人々とあまりにも多く接触(おおく せっしょく)しすぎたため彼らにたぶらかされています( "Too much contact with the Romans has already seduced the SSPX’s leaders." ).

     第3に, SSPX は出来るだけ早期に(できるだけ そうきに)真の信仰の教理と実践(まことの しんこうの きょうりと じっせん)をローマ教皇庁に押し返(おしかえ)さなければなりません( "Thirdly, the SSPX must give back to Rome as soon as possible the doctrine and practice of the true Faith." ).だが,ローマ教皇庁が相変(あい かわ)わらず半分(はんぶん)モダニストのままなら,それを押し戻す(おし もどす)のは豚に真珠(ぶたに しんじゅ)を投げ与える(なげ あたえる)ようなものです( 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章6節〈 "Mt. VII, 6" 〉 )( "But if Rome were still only half modernist, such a giving back would be to throw pearls before swine (Mt.VII, 6)." )(訳注後記6).第4に, SSPX はあまりにも長(なが)いあいだ,ローマ教皇庁と距離を置いて(きょりを おいて)きたため,カトリック教の序列,服従,権威の感覚(じょれつ・ふくじゅう・けんいの かんかく)をすべて失(うしな)いかねません( "Fourthly, the SSPX has for so long kept its distance from Rome that it risks losing all Catholic sense of hierarchy, obedience and authority." ).だが,真の信仰は包括的な異説(ほうかつ てきな いせつ)に犯(おか)されないよう安全(あんぜん)なところに置(お)いておかなければなりません( "But the true Faith must be kept at a safe distance from all-embracing heresy." ).もし異説が私自身(わたくし じしん)の犯した過ち(おかした あやまち)でなければ,私が神に忠実な限り(かみに ちゅうじつな かぎり),神は忠実な古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)のときと同(おな)じように,私が40年以上(よんじゅう ねん いじょう)ものあいだ砂漠(さばく)にさまよってもカトリック感覚(かとりっく かんかく)( "Catholic senses" )を持ち続(もちつづ)けられるよう面倒(めんどう)をみてくださいます(旧約聖書・脱出の書〈出エジプト〉 - 第二法の書〈申命〉〈 "Exod. - Deut. " 〉)( "If the heresy is not my fault, God can look after my Catholic senses, so long as I am faithful to him, for 40 years or more in the desert, just as he looked after the faithful Israelites (Exod. – Deut.)." )(訳注後記7).そして第5に,いわゆる「抵抗」(ていこう)( "the so-called Resistance" )が公会議派(こうかいぎ は)ローマ教皇庁に対する SSPX の真の抵抗(まことの ていこう)を分断(ぶんだん)し弱(よわ)めます( "And fifthly, the so-called “Resistance” is dividing and weakening the SSPX’s true resistance to Conciliar Rome." ).だが,教理と無縁の了解(きょうりと むえんの りょうかい)に基(もと)づくモダニストたちとの結束(けっそく)は,誤りに基づく結束(あやまりに もとづく けっそく)となり,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の SSPX にとっては致命的(ちめいてき)となるでしょう( "But unity around any non-doctrinal understanding with modernists will be unity around error, fatal for Archbishop Lefebvre’s SSPX." ).要約(ようやく)すれば, S 神父はモダニズムの間違い(まちがい)が信仰をいかに惑わし(まどわし),だめにしてしまうか,その怖さ(こわさ)を見失って(みうしなって)います( "In brief, Fr. S. has lost sight of just how seductive and deadly for the Faith is the error of modernism." ).

     他方(たほう),ミサ聖祭の典文(みさ せいさいの てんぶん)( "the Canon of the Mass" )で教皇の御名に触れる(きょうこうの みなに ふれる)ことを拒む(こばむ)司祭(しさい)は道を踏み外し(みちを ふみ はずし)右へ偏る危険(みぎへ かたよる きけん)があります.私にはそう見えます( "On the other hand, as it seems to me, a priest now refusing any longer to mention the Pope’s name in the Canon of the Mass is in danger of going astray to the right." ).もし私がモダニズムは信仰に対し(しんこうに たいし)致命的な危険を持つ(ちめいてきな きけんを もつ)と見るなら( "If I see the deadly danger of modernism to the Faith, …" ),私はむろん歴代の公会議派教皇(れきだいの こうかいぎは きょうこう)たちが教会に膨大な客観的被害(きゃっかんてき ひがい)を与えたと見ます(あたえたと みます)( "… certainly I see the enormous objective damage done to the Church by Conciliar Popes." ).だが,私は彼らの中(なか)にカトリック的な要素(かとりっくてきな ようそ)がまったく残って(のこって)いないと本心(ほんしん)から言える(いえる)でしょうか?( "But can I truthfully say that there is nothing at all still Catholic left in them ? " ) たとえば, S 神父が言うように,教皇たちは善良な主観的意図(ぜんりょうな しゅかんてき いと)を最小限(さいしょうげん)は持ち続けて(もちつづけて)いるのではないでしょうか?( "For example, as Fr. S. would say, do they not still have at least good subjective intentions ? " ) 彼らには教会に仕える(きょうかいに つかえる)つもりはまったくないのでしょうか?( "Have they not all at least meant to serve the Church ? " ) そうだとすれば,私は彼らの中に依然として残っているカトリック的なもの(いぜんとして のこっている かとりっく てきな もの)と一体(いったい)となってミサ聖祭を祝う(みさ せいさいを いわう)ことはできないのでしょうか?( "In which case can I not celebrate Mass in union with whatever is still Catholic in them ? " ) 主流派教会(しゅりゅうは きょうかい)は病で死にかけ(やまいで しにかけ)ているかもしれませんが( "The mainstream Church may be sick unto death, …" ),私としては,そこにカトリック的なことはもう何も起きない(なにも おきない)だろうとは言い切れ(いい きれ)ません( "… but I for one could not maintain that there is nothing Catholic whatsoever still happening within it." ).主流派教会はまだ完全に死んで(かんぜんに しんで)いません( "It is not yet completely dead." ).

     「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」  (ものごとが たしか なら,けっそくを.ものごとが うたがわしい なら,じゆうを.あらゆる ことに あいを)(訳注後記8)
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )

     キリエ・エレイソン.

     真の司祭(まことの しさい)たちは今日のローマ教皇庁(こんにちの ろーま きょうこうちょう)にベタベタすることも,教皇をミサ聖祭から締め出す(しめだす)こともすべきでない,と私は言います(わたしは いいます) ( "True priests should neither flirt with Rome today, Nor cut the Pope out of their Mass, I say." ) .

     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第1パラグラフの訳注

訳注1:

"旧約聖書・第二法の書(申命):第5章32節"( "Deut.V, 32" )

THE BOOK OF DEUTERONOMY V, 32 (英語)
LE DEUTÉRONOME V, 32 (仏語)
LIBER DEUTERONOMII V, 32 (ラテン語)

(33 節まで掲載)

『32 神なる主が命令されたように行うことを心がけよ.右にも左にもそれるな
33 主が命令された道を完全に守れ.そうすれば生きながらえ,れから所有する地で幸せな長い生活を送ることができるであろう.』


訳注2:

"新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉

EPISTLE OF SAINT PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IX, 25-26
ÉPÎTRE DE SAINT PAUL IX, 25-26
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS IX, 25-26

『25 すでにホゼアの書に,「私は自分の民ではない者を私の民と呼び,愛されていない者を愛された者と呼ぶであろう
26 〈あなたたちは私の民ではない〉と言われたその場所で,彼らは生きる神の子と呼ばれるであろう」とある.』


訳注3:

"ザカリアの書:第13章7節"〈 "Zech. XIII, 7" 〉

THE PROPHECY OF ZACHARIAS XIII, 7
ZACHARIE XIII, 7
PROPHETIA ZACHARIÆ XIII, 7

『*剣よ,立って,私の牧者と,
私にくみしているものを攻めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.』


訳注4:

・1917年5月13日,ポルトガルのファティマの3人の牧童に
聖母( Nossa Senhora de Fátima )がご出現になった際の預言による.


* * *

第2パラグラフの訳注

訳注5:

"Pascendi" について:

"THE ENCYCLICAL OF POPE PIUS X ON THE ERRORS OF THE MODERNISTS."

"近現代主義者たちの誤りについての教皇ピオ10世の回勅"

(きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついての きょうこう ぴお じゅっせいの かいちょく)

(フルタイトル)
"Pascendi  Domini Gregis and Lamentabili - On the Errors of the Modernists, September 8, 1907"

「* 主の羊の群れを養う - 近現代主義者たちの誤り(あやまり)について」

(しゅの ひつじの むれを やしなう - きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついて)

* "Domini Gregis" 「主の羊の群れ」=カトリック教聖職者(司教・司祭)たちのこと.

(以上,原文・大意・意訳)


* * *

第3パラグラフの訳注

訳注6:

"新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第7章6節"〈 "Mt. VII, 6" 〉
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT MATTHEW VII, 6
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT MATTHIEU VII, 6
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM VII, 6

聖なるものを犬にやってはならぬ.真珠を豚に投げ与えてはならぬ.
そうすれば相手は足で踏みつけ,向き直ってあなたをかみ裂くであろう.』


訳注7:

"旧約聖書・脱出の書(出エジプト) - 第二法の書(申命)"
( "Exod. - Deut." )

THE BOOK OF EXODUS - THE BOOK OF DEUTERONOMY
L’EXODE - LE DEUTÉRONOME
LIBER EXODUS - LIBER DEUTERONOMII


* * *

第5パラグラフの訳注

訳注8:

「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )
について:

(意訳)
「物事が真実(=確か)であれば結束した状態が保てるが,
疑わしい部分が残っていると,人々は自由奔放〈勝手気まま〉な解釈に走り各々の迷信に従って振る舞い勝ちになる.」)

(ものごとが しんじつ(=たしか)であれば けっそくした じょうたいが たもてるが,
うたがわしい ぶぶんが のこっていると,ひとびとは じゆうほんぽう〈かってきまま〉な かいしゃくに はしり おのおのの めいしんに したがって ふるまいがちに なる.)


神の御言葉の参照:

旧約聖書・主のしもべの第四の歌(イザヤの書:第52章13節 - 第53章12節)

(第53章6節)

私たちはみな,羊のようにさまよい,おのおの,自分の道を歩んでいたが,主はみなの罪を,*彼の上に負わせられた.』
*「彼」=救世主・神の御独り子イエズス・キリストを指す.
(預言者イザヤは「世の罪を除き給う(生贄〈いけにえ〉)たる神の子羊」となられた救世主・神の御独り子イエズス・キリストの受難を預言.)


* * *

訳注の追補を続けます.


* * *

2012年8月18日土曜日

266 教理を再び考える 8/18

エレイソン・コメンツ 第266回 (2012年8月18日)

「教理」の軽視( " The scorn of “doctrine” " )がいま重大な問題となっています.21世紀における「最良の」 "best" カトリック信徒たち( "The “best” of Catholics in our 21st century" )は「教理」の重要性を口先で説きます( "pay lip-service to the importance of “doctrine" )が,生まれつき近代主義に毒されている彼らは本能的に,たとえカトリック教の教理でも人の心にとってはある種の牢獄であり,心を投獄するようなことはあってはならないと考えています( "…but in their modern bones they feel instinctively that even Catholic doctrine is some kind of prison for their minds, and minds must not be imprisoned. " ).合衆国の首都ワシントン D.C. にあるジェファーソン記念館(訳注:"the Jefferson Memorial". トーマス・ジェファーソンは合衆国第3代大統領)はアメリカの自由の戦士をまつる半宗教的な( "quasi-religious" )殿堂ですが,そのドーム内に彼の半宗教的な言葉が次の通り刻(きざ)まれています.「私は神の祭壇(さいだん)上で人心(じんしん)に対するあらゆる圧政にそれがいかなる形のものであろうとも永遠に敵対することを誓う.」( "I have sworn upon the altar of God eternal hostility against every form of tyranny over the mind of man" ).この言葉を口にしたとき、ジェファーソンは他のなににもまして,カトリック教の教理を心に抱いていたに違いありません.近代人の半宗教心( "modern man's quasi-religion" )の中には確固とした教理を持たないということも含まれます( "Modern man’s quasi-religion includes having no fixed doctrine. " ).

しかし,2週間前のエレイソン・コメンツ(7月28日付け第263回)の一文で私は「教理」の性格および重要性を違う角度から取りあげました( "…gives a different angle on the nature and importance of “doctrine”. " ).(違う角度というのは)すなわち「ローマ(教皇庁)は公会議的教理を信じる限り,あらゆる機会にそのような(反教理的= "non-doctrinal" )実務的合意を用いて聖ピオ十世会を第二バチカン公会議へ引きずり込むはず」ということです( "…It ran: So long as Rome believes in its Conciliar doctrine, it is bound to use any such (“non-doctrinal”) agreement to pull the SSPX in the direction of the (Second Vatican) Council. " ).言い換えれば,ローマ教皇庁が「教理」を軽視して,なんとしても聖ピオ十世会を公会議化 "conciliarize" しようとする原動力は公会議の教理に対する自らの信念に基づいています( "…In other words what drives Rome supposedly to discount “doctrine” and at all costs to conciliarize the SSPX is their own belief in their own Conciliar doctrine. " ).伝統的なカトリック教理が聖ピオ十世会の原動力だ ― と私たちは願っていますが ― それと同じように公会議の教理がローマ教皇庁の原動力です( "As Traditional Catholic doctrine is – one hopes – the driving force of the SSPX, so Conciliar doctrine is the driving force of Rome. " ).これら二つの教理は互いに対立しますが(訳注・「聖伝〈=聖なる伝承〉のカトリック教理」対「公会議的教理」),双方のそれぞれが一つの原動力なのです( "…The two doctrines clash, but each of them is a driving force. " ).

別の言い方をするなら,「教理」は単にある人が頭に抱く一連の考え,もしくは心の牢獄( "a mental prison" )というだけではありません( " “doctrine” is not just a set of ideas in a man’s head, or a mental prison. " ).ある人がどんな考えを頭に抱こうと,その人の本当の教理は彼の生活の原動力となるその一連の考えなのです( "Whatever ideas a man chooses to hold in his head, his real doctrine is that set of ideas that drives his life. " ).人はその考えを変えることはあっても,考えを一つも持たずにすますことはできません( "Now a man may change that set of ideas, but he cannot not have one. " ).アリストテレスはこのことを次にように述べています.「哲学的に思考したければ哲学的に考えなければなりません.哲学的に思考したくなくても,哲学的に考えなくてはなりません.いすれにしても,人間は哲学的に考えなければなりません.」( "Here is how Aristotle put it: “If you want to philosophize, then you have to philosophize. If you don’t want to philosophize, you still have to philosophize. In any case a man has to philosophize." ) 同じように,自由派の人たち("liberals")がいかなる考えも圧政だと考え,それを軽視するのは構いませんが,いかなる一連の考えも圧政だと考えること自体がひとつの重要な考えであり( "Similarly, liberals may scorn any set of ideas as a tyranny, but to hold any set of ideas to be a tyranny is still a major idea, …" ),その考えが現代のおびただしい数の自由主義者たちや多くのカトリック信徒たちにとっての生活の原動力となっています( "…and it is the one idea that drives the lives of zillions of liberals today, and all too many Catholics. " ).彼らはこのことをもっと深く知るべきです.だが私たち現代人すべてにとっては,自由への崇拝が血管に脈々と流れています( "These should know better, but all of us moderns have the worship of liberty in our bloodstream. " ).

このように,本来の意味の教理は考えを束縛(そくばく)するようなものだけでなく( "Thus doctrine in its real sense is not just an imprisoning set of ideas, …" ),あらゆる生きている人間の生命を導く神,人間および生命に関する中心的な観念なのです( "…but that central notion of God, man and life that directs the life of every man alive. " ).ある人が自殺を図(はか)ろうとするのであれば,その人は自分の人生が悲惨で生き続けるに値しないという考えに駆(か)り立てられているのです( "Even if a man is committing suicide, he is being driven by the idea that life is too miserable to be worth continuing. " ).お金中心の人生観は人を金持ちになるよう駆り立てます( "A notion of life centred on money may drive a man to become rich; …" ).快楽中心ならレーキ(訳注:カジノでチップをかき集める道具)になるよう( "on pleasure to become a rake; … " ),認知中心なら有名になるよう駆り立てます( "on recognition to become famous, and so on. " ).まさに人がなに中心で人生を考えようとも,その考えがその人にとっての真の教理となります( "But however a man centrally conceives life, that concept is his real doctrine. " ).

かくして,ローマの公会議派の人たちは,公会議を拒む聖ピオ十世会を元通りにしようとする第二バチカン公会議の中心的な考えに駆り立てられて動きます( "Thus conciliar Romans are driven by Vatican II as being their central notion to undo the SSPX that rejects Vatican II, …" ).彼らはそれに成功するか,その中心的な考えが変わるまでルフェーブル大司教の聖ピオ十世会を解体しようと働き続けるでしょう( "… and until they succeed, or change that central notion, they will continue to be driven to dissolve Archbishop Lefebvre’s SSPX. " ).これに対し,聖ピオ十世会の聖職者や信者たちにとっての中心的な原動力は,天国へ導かれたいという願いであるべきです( "On the contrary the central drive of clergy and laity of the SSPX should be to get to Heaven, … " ).これは天国,地獄が存在し,イエズス・キリストとその真の教会が天国へたどり着く唯一かつ確かな道を与えてくれるという考え方です( "… the idea being that Heaven and Hell exist, and Jesus Christ and his true Church provide the one and only sure way of getting to Heaven. " ).彼らは原動力となるこの教理が自分たちの創造力で生み出したものでないことを知っています( "This driving doctrine they know to be no fanciful invention of their own, … " ).だからこそ,彼らは神,人間および生命に関する誤った考えによって行動する嫌(いや)な新教会 "Newchurch" のネオモダニストたち( "neo-modernists" )によって,自分たちの教理が蝕(むしばま)れ,壊され,堕落(だらく)させられるのを拒むのです( "… and that is why they do not want it to be undermined or subverted or corrupted by the wretched neo-modernists of the Newchurch, driven by their false conciliar notion of God, man and life. " ).ネオモダニスト(新現代主義者)たちと聖ピオ十世会との対立は全面的なものです( "The clash is total. " ).

その対立は自由派の人たちが望んでいるように避けることなどできません( "Nor can it be avoided, as liberals dream it can. " ).仮に偽(にせ)ものが勝てば,道端(みちばた)の石でさえやがて叫ぶでしょう(新約聖書・ルカ聖福音書19:40)(訳注後記).もし真実(Truth)が勝っても,悪魔(Satan)は世界が終わるまで誤りを次々に引き起こすでしょう.( "If falsehoods win, eventually even the stones of the street will cry out (Lk.XIX, 40). If Truth wins, still Satan will go on raising error after error, until the world ends. " )だが,私たちの主イエズス・キリストは「耐え続けるものは救われる」(新約聖書・マテオ聖福音書24:13)と述べておられます( "But “He that perseveres to the end will be saved”, says Our Lord (Mt.XXIV, 13). " ).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


1. 最後のパラグラフの先の訳注
新約聖書・ルカによる聖福音書:第19章40節(太字部分)(36-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE
聖週間-枝の主日(日曜日)・エルサレムに入る

『…彼ら(=イエズスと弟子たち)が通っていくと,人々は道の上に自分たちの服を敷(し)いた.オリーブ山の下り道に近づくと,喜び勇んだ多くの弟子たちは,その見たすべての奇跡について声高く神を賛美しながら言いはじめた,
「賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,王よ.
天には平和,いと高き所に栄光」.
群衆の中のあるファリサイ人は,「先生,弟子たちをしかってください」と言ったが,イエズスは,「私は言う.彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」と答えられた.』

(注)
・エルサレム入城…キリストは雌ろばの子に乗って来られた.
→マテオ聖福音書21・5とその注釈参照(太字部分)(1-5節).
→『彼ら(イエズスと弟子たち)はエルサレムに近づき,オリーブ山のほとり,ベトファゲを望むところに来た.そのときイエズスは弟子二人を使いにやるにあたって言われた,「あなたたちは向こうの村に行け.するとつないである雌(めす)ろばとその子がいるのを見つけるから,それを解いて私のところに連れてくるがよい.もしだれかが何か言えば、〈主に入り用だ.すぐ返すから〉と言え」.こうされたのは次の預言者のことばを実現するためである,
シオンの娘に言え,〈王が来られる.雌ロバと荷を担う獣(けもの)の子の小ろばに乗る,へりくだる人〉」.…』
(注釈)
〈旧約〉ザカリアの書9・9,イザヤの書62・11参照.
王たるメシアのこの地味なやり方は,その王国の平和な質朴さを表現している.イエズスはこう行うことによって預言を実現した.したがってこの場合「柔和な人」ではなく,「謙遜な人」「へりくだる人」「地味な人」の意味が強い.
→マテオ聖福音の続きの部分(6-11節)
『…弟子たちは行って,イエズスが命じられたとおりにし,ろばとその子を連れてきて,その上にがいとうをかけた.イエズスはその上に乗られた.人々の多くは道にがいとうを敷き,ある者は木の枝を切って道に敷いた.またイエズスの先に立ち,後に従う人々は,
「ダビドの子にホサンナ.賛美されよ,主の名によって来る御者(おんもの).天のいと高き所にホサンナ」
と叫んだ.エルサレムに入ると町じゅうこぞって,「あれはだれだ」と騒いだ.人々は「あの人はガリラヤのナザレトから出た預言者イエズスだ」と言った.』

・枝=棕梠(しゅろ),かんらん(オリーブ)の枝.
イスラエルの王たる主イエズス・キリストがエルザレムで歓迎され給うたとき,ユダヤ人がよろこびのしるしとしてかざした枝.

2. 最後のパラグラフの後の訳注
マテオによる聖福音書:第24章13節(太字部分)(1-14節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW
エルサレムの滅亡と世の終わり

『イエズスは神殿を出られた.弟子たちが近寄って神殿の構えについてイエズスの注意をうながしたので,「そのいっさいのものをあなたたちは見ている.まことに私は言う.ここには石の上に一つの石さえ残さず崩れ去る日が来る」とイエズスは答えられた.イエズスがオリーブ山に座っておられると弟子たちがそっと近づいて,「そういうことがいつ起こるか教えてください.また,あなたの来臨と世の終わりには,どんなしるしがあるでしょうか」と尋(たず)ねた.
イエズスは答えられた,「人に惑(まど)わされぬように気をつけよ.多くの人が私の名をかたり,〈私こそキリストだ〉と言って多数の人を迷わすだろう.また,戦争や戦争のうわさを聞くだろう.だが心を騒がすな.そうなってもまだ世の終わりではない.〈民は民に,国は国に逆らって立ち〉,諸方に,ききんと地震がある.だがこれらはみな生みの苦しみの始めでしかない.
そのとき人々はあなたたちをいじめ,殺し,私の名のためにすべての民が,あなたたちを憎むだろう.そのときには多くの人が滅び,互いに裏切(うらぎ)り,憎み合い,多くの偽預言者が起こって人々を惑わし,不義が増すにつれておびただしい人の愛が冷(さ)める.だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる
天のこの福音が,全世界にのべ伝えられ,諸国の人々に向かって証明されるとき,そのとき,終わりは来る.』

* * *
訳注の引用箇所の前後の文と注釈を追補いたします.
* * *

2012年7月8日日曜日

260 第二バチカン公会議 B 7/7

エレイソン・コメンツ 第260回 (2012年7月7日)

聖ピオ十世会内部で最近起きた一連の出来事と第二バチカン公会議との間の類似点はあまりにも際立(きわだ)っているので,その出来事を第二バチカン公会議 B ( “Vatican II B” )と呼んでもいいのではないでしょうか.これは理にかなっています.1960年代に教会聖職者たちの主流を潰(つぶ)したのと同じ近代世界の誘惑,圧力が2000年代になって聖ピオ十世会メンバーの多くを揺さぶり,同会を崩壊の一歩手前に追い込んでいます.私は最近,ある母親がその子供にベッドで次のようなおやすみ前のお話( “a bed-time story” )をしてあげているところを聞いたという場面を想像しました:--

「昔々(むかしむかし)とても栄えたカトリック教会というものがありました.でも,その教会はふしだらな悪い近代世界( “a naughty modern world” )に取り囲まれていました.そこで,教会は世界の土台(どだい)となっている近代の諸原則を間違っていると咎(とが)めました.でも,その世界は咎められるのが嫌で,教会の中に食い入ることで( “infiltrate” )その非難をやめさせようと全力を挙(あ)げました.だが,2度の恐ろしい世界大戦のような出来事が教会の正しさを証明し,世界の諸問題への真の解決を与えてくれるというので大勢の人々が教会に加(くわ)わりました.」

「ところが,そんな矢先(やさき)に大惨事(だいさんじ)が起きました!( “But then disaster struck !” ) まさに多数の人々がキリストの快(こころよ)いくびき( “the sweet yoke of Christ” . 訳注後記)の前に屈(くっ)しそれに身を任せようとしている( “surrendering” )丁度(ちょうど)そのときに,教会の指導的な立場にある聖職者たちが近代世界は結局正しいと決め,4年におよぶローマでの大会議(訳注・第二バチカン公会議のこと)で教会の諸原則を近代世界に合うように変えました.その指導者たちはあらゆる教会の古い敵たち( “all the Church's former enemies” )と仲直りし,いっさいの近代化とかかわりを持ちたくないと望む教会の本当の友人たちにとてもむごい態度をとりました.この友人たちはカトリック信徒たちのあいだではとても小さな少数派でした.なぜなら,数世紀ものあいだカトリック信徒たちは彼らの指導者たちに全面的な信頼を置いてきたので,彼らが教会を裏切(うらぎ)ろうとしても,依然(いぜん)として信頼し続けたからです.ところが,神さまはついにお慈悲(じひ)を示され,これら真の友人たちに,真に神さまに忠実なカトリック教会の大司教さま(訳注・ “a truly Catholic Archbishop”.ルフェーブル大司教のこと.)を,彼らの指導者として与えられました.彼らはこの指導者のもとに集まり,真のカトリック抵抗運動が盛(さか)んになり始めました.」

「だが、この運動はやがて始末(しまつ)におえない “新教会” (訳注・ “the naughty Newchurch”.第二バチカン公会議により創られた新しい体制下の教会を指す.)と近代主義者( “modernists” )だと非難されるのを好まない “新教会聖職者たち”( “Newchurchmen” )によって取り囲まれてしまいました.彼らは力(ちから)のおよぶ限りのことをして運動を潰(つぶ)そうとしました.でも,新教会の施設(しせつ)が次々に空(から)っぽになったり閉鎖(へいさ)されたりする出来事がいくつも起こり運動が正しいことを証明しました.それで運動に歩(あゆ)み寄(よ)る人々の数もどんどん増えていきました.というのも,この運動が,他(ほか)のやりかたでは解決できない近代世界や近代世界に身を委(ゆだ)ねてしまった新教会の諸問題に,本当の解決を与えてくれたからです.」

「ところが,そんな矢先に(また)大惨事が起きました! まさにこの運動が崩(くず)れかかった新教会からどんどん信者を集めるようになってきていた丁度そのときに,運動の指導者たちは近代世界の諸悪は誇張(こちょう)されており,したがって4年間の会議(訳注・ =第二バチカン公会議)はさほど悪いものではなかったと言い出しました.これら指導者たちは新教会聖職者たちと仲直(なかなお)りし始め,新教会とその誤(あやま)った諸原則を非難し続けるべきだと主張するおそれのある運動のメンバーたちの誰に対しても,ひどく厳しい態度を示しました.さらに始末(しまつ)の悪いことに,運動の内部にはこれら指導者たちの追従者(ついじゅうしゃ)たちがいなかったわけではありませんでした.なぜかと言えば,カトリック信徒たちは,もし彼らの指導者たちを信用(信頼)しないなら自分たちは不忠(=不誠実)だと考えることに慣れきっているからです.

「ねえ,お母(かあ)ちゃま,お話は,その後(あと)ずっとめでたしめでたしで終わったの? 」 “Ooh, Mummy, did the story end happily ever after ?” (子供)

「可愛(かわい)い子,それはお母ちゃまにも分(わ)からないのよ.お話はまだ終わっていないの.さあ,もうおやすみなさい.」 “Darling, I can’t tell you. It’s not yet over. Now go to sleep.” (母)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第3パラグラフの訳注:
「キリストの快いくびき」 “the sweet yoke of Christ”
について.

新約聖書・マテオ聖福音書:第11章30節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, XI, 28-30
に記されるイエズス・キリストの御言葉より引用されている.

『労苦する人,重荷を負う人は,すべて私(キリスト)のもとに来るがよい.私はあなたたちを休ませよう.私は心の柔和(にゅうわ)なへりくだった者であるから,くびきをとって私に習え.そうすれば霊魂は休む.私のくびきは快(こころよ)く,私の荷は軽い.』

* * *

11章全章(The whole of Chapter 11)

日本語
フェデリコ・バルバロ(Federico BARBALO)神父訳による聖書(旧約+新約)
マテオによる聖福音書

第11章

洗者の使い(11・1-6)
1 イエズスは十二人の弟子への訓戒(くんかい)を終えてのち,*彼らの町々で教えたり説教したりするためにそこを去られた.
2 さて,牢獄(ろうごく)でキリストの業(わざ)を伝え聞いたヨハネは,自分の弟子たちを送り,
3 「*来(きた)るべきお方はあなたですか,それとも他の人を待たねばなりませんか」と尋(たず)ねさせた.
4 イエズスは答えられた,「自分の目で見聞きしたことをヨハネに伝えに行け.
5 *盲人は見え,足なえは歩き,らい病人は治り,耳の聞こえぬ者は聞こえ,死人はよみがえり,貧しい人には福音が告げられている.
6 私につまずかぬ人は幸せである」.

洗者の称讃(11・7-15)
7 彼らが去ると,イエズスはヨハネについて人々に話された,「あなたたちは何を見ようとして荒れ地に行ったのか.風にゆらぐあしか.
8 何を見に行ったのか.柔(やわ)らかい服を着けた人か.柔らかい服の人なら王の宮殿にいる.
9 それなら,何をしようとして行ったのか.預言者を見にか.そうだ,私は言う,預言者よりもすぐれた人である.
10 〈*私は使いを先に送る,あなたの道を整(ととの)えさせるために>
と書かれているのはその人のことである.
11 *まことに私は言う,女から生まれた者のうちで,洗者(せんしゃ)ヨハネよりも偉大な人は出なかった.だが,天の国でいちばん小さな人も彼より偉大である.
12 洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力(ぼうりょく)で攻められ,暴力の者がそれを奪(うば)う.
13 すべての預言と律法はヨハネの時までのことを預言した.
14 *私の言うことを信じるなら,彼こそ来るべきエリアである.
15 耳をもつ者は聞け.

かたくなな心をとがめる(11・16-24)
16 現代を何にたとえようか,ちょうど広場に座っている子どもたちが友だちに呼びかけ,
17 〈*われわれはきみたちのために笛(ふえ)を吹いたが,きみたちは踊(おど)らず,悲しみの歌を歌ったのに,きみたちは胸を打たなかった〉と言うのに似ている.
18 ヨハネが来て飲み食いしないと,〈あの男は悪魔につかれていると言い,
19 人の子が来て飲み食いすれば,〈大食漢,酒飲み,税吏(ぜいり)と罪人の仲間だ〉と言う.*けれども,知恵はその業によって正しいものと証明された」.
20 イエズスは多くの奇跡を見た町が悔い改めぬのを責められた,
21 「のろわれよ,*コロザイン.のろわれよ,ベトサイダ.おまえたちの中でした奇跡をティロやシドンでしていたら,彼らはずっと前から荒布(あらぬの)を着,灰をかぶって悔い改めたことだろう.
22 私は言う.審判の日には,ティロとシドンのほうがおまえたちよりもゆるい扱いを受けるだろう.
23 カファルナウムよ.おまえは天にまで上げられると思ったのか.いや地獄にまで落とされるだろう.おまえの中でした奇跡をソドマでしていたら,ソドマは今日まで姿をとどめていただろう.
24 私は言う,審判の日には,ソドマの地のほうがおまえよりゆるい扱(あつか)いを受けるだろう」.

小さな者の幸福(11・25-30)
25 そのとき,イエズスはこう話された,「天地の主(しゅ)なる父よ,あなたに感謝いたします.あなたはこれらのことを知恵ある人,賢(かしこ)い人に隠(かく)し,*小さな人々に現(あらわ)されました.
26 父よ,そうです.あなたはそう望まれました.
27 *すべてのものは,父から私にまかされました.子が何者かを知っているのは父のほかにはなく,父が何者かを知っているのは,子と子が示しを与えた人のほかにはありません.
28 労苦する人,重荷を負う人は,すべて私のもとに来るがよい.私はあなたたちを休ませよう.
29 私は心の柔和(にゅうわ)なへりくだった者であるから,くびきをとって私に習え.
30 そうすれば霊魂は休む.私のくびきは快(こころよ)く,私の荷(に)は軽い」


(注釈)

洗者の使い(11・1-6)
1 ユダヤ人らの町のこと.

3 ヨハネはヨルダン川でもイエズスがメシア(=救世主)であることを宣言したのだから,今もそれを疑(うたが)っているわけではない.洗者が弟子を送ったのは,自分が知りたいからではなく,イエズスの返事によって,弟子たちにイエズスがメシアであることを知らせるためであった.

5 奇跡を行うのは神のみである.何かの教えに奇跡が伴(ともな)う場合,その奇跡はその教えに対して神から承認(しょうにん)があるという証拠(しょうこ)である.

洗者ヨハネへの賞賛(しょうさん)(11・7-15)
10 マラキア3・1参照.

11-13 旧約におけるもっとも尊い役〈イエズスの先駆(せんく)〉さえも,洗礼によって与えられる恵(めぐ)みに劣(おと)る.洗者が神の国の時は来たと宣言した以上,人間はその国の果実を受けるために全力を尽くすべきである.ヨハネの時をもって旧約の計画は終わった.

14 マラキア(旧約時代の預言者)(マラキアの書3・23)は,神なる審判者(しんぱんしゃ)来臨(らいりん)に人間の心を準備させるためにエリアがふたたび来ると預言した.ヨハネはその精神,その役目上,待たれたエリアである.

かたくなな心をとがめる(11・16-24)
17 子どもらは結婚式と葬式の遊びをしている.二組に分かれてするのに,一方が一方にこたえない.それと同じことで,ユダヤ人は神のあわれみを拒否(きょひ)して,ヨハネの苦行(くぎょう)にもイエズスの寛容(かんよう)にも応じようとしなかった.

19 神の知恵の計画は,人間の悪意があっても実現された.こうして計画の正しさが示されるのである.

21 コロザインはゲネサレト平原北方の村,ベトサイダは湖岸の村で,イエズス宣教の中心地であるカファルナウムに近かったから,イエズスの奇跡を見て改心しなかった責任は重い.ティロとシドンはフェニキアの商業都市であるが,堕落(だらく)の町だった.

小さな者の幸福(11・25-30)
25 小さな人々とは,神を見るであろうと約束された素直な清い心の人である.

27 神を完全に知るには,神と同じ無限の知恵がいる.すなわち,イエズスは神のまことの子であると宣言したことになる.


ENGLISH
THE HOLY BIBLE (DOUAY-RHEIMS VERSION)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW

John sends his disciples to Christ, who upbraids the Jews with their incredulity, and calls to him such as are sensible of their burdens.

CHAPTER 11

Jesus receives desciples sent by John
1 AND it came to pass, when Jesus had made an end of commanding his twelve disciples, he passed from thence, to teach and preach in their cities.
2 Now when John had heard in prison the works of Christ: sending two of his disciples he said to him: (Luke 7:18)
3 Art thou he that art to come, or look we for another?
4 And Jesus making answer said to them: Go and relate to John what you have heard and seen.
5 The blind see, the lame walk, the lepers are cleansed, the deaf hear, the dead rise again, the poor have the gospel preached to them.(Isai. 35:5; 61:1)
6 And blessed is he that shall not be scandalized in me.

Christ praises John
7 And when they went their way, Jesus began to say to the multitudes concerning John: What went you out into the desert to see? a reed shaken with the wind? (Luke 7:24)
8 But what went you out to see? a man clothed in soft garments? Behold they that are clothed in soft garments, are in the houses of kings.
9 But what went you out to see? a prophet? yea I tell you, and more than a prophet.
10 For this is he of whom it is written: Behold I send my angel before thy face, who shall prepare thy way before thee. (Mal. 3:1; Mark 1:2; Luke 7:27)
11 Amen I say to you, there hath not risen among them that are born of women a greater than John the Baptist: yet he that is the lesser in the kingdom of heaven is greater than he.
12 And from the days of John the Baptist until now, the kingdom of heaven suffereth violence, and the violent bear it away.
13 For all the prophets and the law prophesied until John:
14 And if you will receive it, he is Elias that is to come. (Mal. 4:5, 13)
15 He that hath ears to hear, let him hear.

Christ scolds the Jews
16 But whereunto shall I esteem this generation to be like? It is like to children sitting in the market place.
17 Who crying to their companions say: We have piped to you, and you have not danced: we have lamented, and you have not mourned.
18 For John came neither eating nor drinking; and they say: He hath a devil.
19 The Son of man came eating and drinking, and they say: Behold a man that is a glutton and a wine drinker, a friend of publicans and sinners. And wisdom is justified by her children.

Christ curses unbelievers
20 Then began he to upbraid the cities wherein were done the most of his miracles, for that they had not done penance.
21 Woe to thee, Corozain, woe to thee, Bethsaida: for if in Tyre and Sidon had been wrought the miracles that have been wrought in you, they had long ago done penance in sackcloth and ashes. (Luc. 10:13)
22 But I say unto you, it shall be more tolerable for Tyre and Sidon in the day of judgment, than for you.
23 And thou Capharnaum, shalt thou be exalted up to heaven? thou shalt go down even unto hell. For if in Sodom had been wrought the miracles that have been wrought in thee, perhaps it had remained unto this day.
24 But I say unto you, that it shall be more tolerable for the land of Sodom in the day of judgment, than for thee.

Christ draws the humble to Himself
25 At that time Jesus answered and said: I confess to thee, O Father, Lord of heaven and earth, because thou hast hid these things from the wise and prudent, and hast revealed them to the little ones.
26 Yea, Father; for so hath it seemed good in thy sight.
27 All things are delivered to me by my Father. And no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him. (John 4:46; 7:28; 8:19; 10:15)
28 Come to me, all you that labour, and are burdened, and I will refresh you.
29 Take up my yoke upon you, and learn of me, because I am meek, and humble of heart: and you shall find rest to your souls. (Jer. 6:16)
30 For my yoke is sweet and my burden light. (1 John 5:3)



LATIN
BIBLIA SACRA IUXTA VULGATAM CLEMENTINAM (Clementine Vulgate)
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM


CAPUT XI

Iesus recipit legationem Ioannis
1 Et factum est, cum consummasset Iesus, præcipiens duodecim discipulis suis, transiit inde ut doceret, et prædicaret in civitatibus eorum.
2 Ioannes autem cum audisset in vinculis opera Christi, mittens duos de discipulis suis, (Luc.7 :18)
3 ait illi : Tu es, qui venturus es, an alium exspectamus ?
4 Et respondens Iesus ait illis : Euntes renuntiate Ioanni quæ audistis, et vidistis.
5 Cæci vident, claudi ambulant, leprosi mundantur, surdi audiunt, mortui resurgunt, pauperes evangelizantur : (Isai. 35:5, 61:1)
6 et beatus est, qui non fuerit scandalizatus in me.

Exaltat Ioannem
7 Illis autem abeuntibus, cœpit Iesus dicere ad turbas de Ioanne : Quid existis in desertum videre ? arundinem vento agitatam ? (Luc. 7 :24)
8 Sed quid existis videre ? hominem mollibus vestitum ? Ecce qui mollibus vestiuntur, in domibus regum sunt.
9 Sed quid existis videre ? prophetam ? Etiam dico vobis, et plus quam prophetam.
10 Hic est enim de quo scriptum est : Ecce ego mitto angelum meum ante faciem tuam, qui præparabit viam tuam ante te. (Mal. 3:1 ; Marc. 1:2 ; Luc. 7:27)
11 Amen dico vobis, non surrexit inter natos mulierum maior Ioanne Baptista : qui autem minor est in regno cælorum, maior est illo.
12 A diebus autem Ioannis Baptistæ usque nunc, regnum cælorum vim patitur, et violenti rapiunt illud.
13 Omnes enim prophetæ et lex usque ad Ioannem prophetaverunt :
14 et si vultis recipere, ipse est Elias, qui venturus est. (Mal. 4:5, 13)
15 Qui habet aures audiendi, audiat.

Vituperat Iudæos
16 Cui autem similem æstimabo generationem istam ? Similis est pueris sedentibus in foro : qui clamantes coæqualibus
17 dicunt : Cecinimus vobis, et non saltastis : lamentavimus, et non planxistis.
18 Venit enim Ioannes neque manducans, neque bibens, et dicunt : Dæmonium habet.
19 Venit Filius hominis manducans, et bibens, et dicunt : Ecce homo vorax, et potator vini, publicanorum et peccatorum amicus. Et iustificata est sapientia a filiis suis.

Maledicit incredulos
20 Tunc cœpit exprobrare civitatibus, in quibus factæ sunt plurimæ virtutes eius, quia non egissent pœnitentiam :
21 Væ tibi Corozain, væ tibi Bethsaida : quia, si in Tyro et Sidone factæ essent virtutes quæ factæ sunt in vobis, olim in cilicio et cinere pœnitentiam egissent. (Luc.10:13)
22 Verumtamen dico vobis : Tyro et Sidoni remissius erit in die iudicii, quam vobis.
23 Et tu Capharnaum, numquid usque in cælum exaltaberis ? usque in infernum descendes, quia si in Sodomis factæ fuissent virtutes quæ factæ sunt in te, forte mansissent usque in hanc diem.
24 Verumtamen dico vobis, quia terræ Sodomorum remissius erit in die iudicii, quam tibi.

Humiles allicit
25 In illo tempore respondens Iesus dixit : Confiteor tibi, Pater, Domine cæli et terræ, quia abscondisti hæc a sapientibus, et prudentibus, et revelasti ea parvulis.
26 Ita Pater : quoniam sic fuit placitum ante te.
27 Omnia mihi tradita sunt a Patre meo. Et nemo novit Filium, nisi Pater : neque Patrem quis novit, nisi Filius, et cui voluerit Filius revelare. (Ioan. 4:46; 7:28; 8:19; 10:15)
28 Venite ad me omnes qui laboratis, et onerati estis, et ego reficiam vos.
29 Tollite iugum meum super vos, et discite a me, quia mitis sum, et humilis corde : et invenietis requiem animabus vestris. (Ier. 6:16)
30 Iugum enim meum suave est, et onus meum leve. (I Ioan. 5:3)



* * *

2011年1月30日日曜日

伝統派の感染

エレイソン・コメンツ 第185回 (2011年1月29日)

リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--

「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.

伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.

このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。

私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)

では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:

新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』

(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)

***

- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:

新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』

(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)

(バルバロ神父による注釈)

罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).

***

- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:

原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.