エレイソン・コメンツ 第266回 (2012年8月18日)
「教理」の軽視( " The scorn of “doctrine” " )がいま重大な問題となっています.21世紀における「最良の」 "best" カトリック信徒たち( "The “best” of Catholics in our 21st century" )は「教理」の重要性を口先で説きます( "pay lip-service to the importance of “doctrine" )が,生まれつき近代主義に毒されている彼らは本能的に,たとえカトリック教の教理でも人の心にとってはある種の牢獄であり,心を投獄するようなことはあってはならないと考えています( "…but in their modern bones they feel instinctively that even Catholic doctrine is some kind of prison for their minds, and minds must not be imprisoned. " ).合衆国の首都ワシントン D.C. にあるジェファーソン記念館(訳注:"the Jefferson Memorial". トーマス・ジェファーソンは合衆国第3代大統領)はアメリカの自由の戦士をまつる半宗教的な( "quasi-religious" )殿堂ですが,そのドーム内に彼の半宗教的な言葉が次の通り刻(きざ)まれています.「私は神の祭壇(さいだん)上で人心(じんしん)に対するあらゆる圧政にそれがいかなる形のものであろうとも永遠に敵対することを誓う.」( "I have sworn upon the altar of God eternal hostility against every form of tyranny over the mind of man" ).この言葉を口にしたとき、ジェファーソンは他のなににもまして,カトリック教の教理を心に抱いていたに違いありません.近代人の半宗教心( "modern man's quasi-religion" )の中には確固とした教理を持たないということも含まれます( "Modern man’s quasi-religion includes having no fixed doctrine. " ).
しかし,2週間前のエレイソン・コメンツ(7月28日付け第263回)の一文で私は「教理」の性格および重要性を違う角度から取りあげました( "…gives a different angle on the nature and importance of “doctrine”. " ).(違う角度というのは)すなわち「ローマ(教皇庁)は公会議的教理を信じる限り,あらゆる機会にそのような(反教理的= "non-doctrinal" )実務的合意を用いて聖ピオ十世会を第二バチカン公会議へ引きずり込むはず」ということです( "…It ran: So long as Rome believes in its Conciliar doctrine, it is bound to use any such (“non-doctrinal”) agreement to pull the SSPX in the direction of the (Second Vatican) Council. " ).言い換えれば,ローマ教皇庁が「教理」を軽視して,なんとしても聖ピオ十世会を公会議化 "conciliarize" しようとする原動力は公会議の教理に対する自らの信念に基づいています( "…In other words what drives Rome supposedly to discount “doctrine” and at all costs to conciliarize the SSPX is their own belief in their own Conciliar doctrine. " ).伝統的なカトリック教理が聖ピオ十世会の原動力だ ― と私たちは願っていますが ― それと同じように公会議の教理がローマ教皇庁の原動力です( "As Traditional Catholic doctrine is – one hopes – the driving force of the SSPX, so Conciliar doctrine is the driving force of Rome. " ).これら二つの教理は互いに対立しますが(訳注・「聖伝〈=聖なる伝承〉のカトリック教理」対「公会議的教理」),双方のそれぞれが一つの原動力なのです( "…The two doctrines clash, but each of them is a driving force. " ).
別の言い方をするなら,「教理」は単にある人が頭に抱く一連の考え,もしくは心の牢獄( "a mental prison" )というだけではありません( " “doctrine” is not just a set of ideas in a man’s head, or a mental prison. " ).ある人がどんな考えを頭に抱こうと,その人の本当の教理は彼の生活の原動力となるその一連の考えなのです( "Whatever ideas a man chooses to hold in his head, his real doctrine is that set of ideas that drives his life. " ).人はその考えを変えることはあっても,考えを一つも持たずにすますことはできません( "Now a man may change that set of ideas, but he cannot not have one. " ).アリストテレスはこのことを次にように述べています.「哲学的に思考したければ哲学的に考えなければなりません.哲学的に思考したくなくても,哲学的に考えなくてはなりません.いすれにしても,人間は哲学的に考えなければなりません.」( "Here is how Aristotle put it: “If you want to philosophize, then you have to philosophize. If you don’t want to philosophize, you still have to philosophize. In any case a man has to philosophize." ) 同じように,自由派の人たち("liberals")がいかなる考えも圧政だと考え,それを軽視するのは構いませんが,いかなる一連の考えも圧政だと考えること自体がひとつの重要な考えであり( "Similarly, liberals may scorn any set of ideas as a tyranny, but to hold any set of ideas to be a tyranny is still a major idea, …" ),その考えが現代のおびただしい数の自由主義者たちや多くのカトリック信徒たちにとっての生活の原動力となっています( "…and it is the one idea that drives the lives of zillions of liberals today, and all too many Catholics. " ).彼らはこのことをもっと深く知るべきです.だが私たち現代人すべてにとっては,自由への崇拝が血管に脈々と流れています( "These should know better, but all of us moderns have the worship of liberty in our bloodstream. " ).
このように,本来の意味の教理は考えを束縛(そくばく)するようなものだけでなく( "Thus doctrine in its real sense is not just an imprisoning set of ideas, …" ),あらゆる生きている人間の生命を導く神,人間および生命に関する中心的な観念なのです( "…but that central notion of God, man and life that directs the life of every man alive. " ).ある人が自殺を図(はか)ろうとするのであれば,その人は自分の人生が悲惨で生き続けるに値しないという考えに駆(か)り立てられているのです( "Even if a man is committing suicide, he is being driven by the idea that life is too miserable to be worth continuing. " ).お金中心の人生観は人を金持ちになるよう駆り立てます( "A notion of life centred on money may drive a man to become rich; …" ).快楽中心ならレーキ(訳注:カジノでチップをかき集める道具)になるよう( "on pleasure to become a rake; … " ),認知中心なら有名になるよう駆り立てます( "on recognition to become famous, and so on. " ).まさに人がなに中心で人生を考えようとも,その考えがその人にとっての真の教理となります( "But however a man centrally conceives life, that concept is his real doctrine. " ).
かくして,ローマの公会議派の人たちは,公会議を拒む聖ピオ十世会を元通りにしようとする第二バチカン公会議の中心的な考えに駆り立てられて動きます( "Thus conciliar Romans are driven by Vatican II as being their central notion to undo the SSPX that rejects Vatican II, …" ).彼らはそれに成功するか,その中心的な考えが変わるまでルフェーブル大司教の聖ピオ十世会を解体しようと働き続けるでしょう( "… and until they succeed, or change that central notion, they will continue to be driven to dissolve Archbishop Lefebvre’s SSPX. " ).これに対し,聖ピオ十世会の聖職者や信者たちにとっての中心的な原動力は,天国へ導かれたいという願いであるべきです( "On the contrary the central drive of clergy and laity of the SSPX should be to get to Heaven, … " ).これは天国,地獄が存在し,イエズス・キリストとその真の教会が天国へたどり着く唯一かつ確かな道を与えてくれるという考え方です( "… the idea being that Heaven and Hell exist, and Jesus Christ and his true Church provide the one and only sure way of getting to Heaven. " ).彼らは原動力となるこの教理が自分たちの創造力で生み出したものでないことを知っています( "This driving doctrine they know to be no fanciful invention of their own, … " ).だからこそ,彼らは神,人間および生命に関する誤った考えによって行動する嫌(いや)な新教会 "Newchurch" のネオモダニストたち( "neo-modernists" )によって,自分たちの教理が蝕(むしばま)れ,壊され,堕落(だらく)させられるのを拒むのです( "… and that is why they do not want it to be undermined or subverted or corrupted by the wretched neo-modernists of the Newchurch, driven by their false conciliar notion of God, man and life. " ).ネオモダニスト(新現代主義者)たちと聖ピオ十世会との対立は全面的なものです( "The clash is total. " ).
その対立は自由派の人たちが望んでいるように避けることなどできません( "Nor can it be avoided, as liberals dream it can. " ).仮に偽(にせ)ものが勝てば,道端(みちばた)の石でさえやがて叫ぶでしょう(新約聖書・ルカ聖福音書19:40)(訳注後記).もし真実(Truth)が勝っても,悪魔(Satan)は世界が終わるまで誤りを次々に引き起こすでしょう.( "If falsehoods win, eventually even the stones of the street will cry out (Lk.XIX, 40). If Truth wins, still Satan will go on raising error after error, until the world ends. " )だが,私たちの主イエズス・キリストは「耐え続けるものは救われる」(新約聖書・マテオ聖福音書24:13)と述べておられます( "But “He that perseveres to the end will be saved”, says Our Lord (Mt.XXIV, 13). " ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
1. 最後のパラグラフの先の訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第19章40節(太字部分)(36-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE
聖週間-枝の主日(日曜日)・エルサレムに入る
『…彼ら(=イエズスと弟子たち)が通っていくと,人々は道の上に自分たちの服を敷(し)いた.オリーブ山の下り道に近づくと,喜び勇んだ多くの弟子たちは,その見たすべての奇跡について声高く神を賛美しながら言いはじめた,
「賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,王よ.
天には平和,いと高き所に栄光」.
群衆の中のあるファリサイ人は,「先生,弟子たちをしかってください」と言ったが,イエズスは,「私は言う.彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」と答えられた.』
(注)
・エルサレム入城…キリストは雌ろばの子に乗って来られた.
→マテオ聖福音書21・5とその注釈参照(太字部分)(1-5節).
→『彼ら(イエズスと弟子たち)はエルサレムに近づき,オリーブ山のほとり,ベトファゲを望むところに来た.そのときイエズスは弟子二人を使いにやるにあたって言われた,「あなたたちは向こうの村に行け.するとつないである雌(めす)ろばとその子がいるのを見つけるから,それを解いて私のところに連れてくるがよい.もしだれかが何か言えば、〈主に入り用だ.すぐ返すから〉と言え」.こうされたのは次の預言者のことばを実現するためである,
「シオンの娘に言え,〈王が来られる.雌ロバと荷を担う獣(けもの)の子の小ろばに乗る,へりくだる人〉」.…』
(注釈)
〈旧約〉ザカリアの書9・9,イザヤの書62・11参照.
王たるメシアのこの地味なやり方は,その王国の平和な質朴さを表現している.イエズスはこう行うことによって預言を実現した.したがってこの場合「柔和な人」ではなく,「謙遜な人」「へりくだる人」「地味な人」の意味が強い.
→マテオ聖福音の続きの部分(6-11節)
『…弟子たちは行って,イエズスが命じられたとおりにし,ろばとその子を連れてきて,その上にがいとうをかけた.イエズスはその上に乗られた.人々の多くは道にがいとうを敷き,ある者は木の枝を切って道に敷いた.またイエズスの先に立ち,後に従う人々は,
「ダビドの子にホサンナ.賛美されよ,主の名によって来る御者(おんもの).天のいと高き所にホサンナ」
と叫んだ.エルサレムに入ると町じゅうこぞって,「あれはだれだ」と騒いだ.人々は「あの人はガリラヤのナザレトから出た預言者イエズスだ」と言った.』
・枝=棕梠(しゅろ),かんらん(オリーブ)の枝.
イスラエルの王たる主イエズス・キリストがエルザレムで歓迎され給うたとき,ユダヤ人がよろこびのしるしとしてかざした枝.
2. 最後のパラグラフの後の訳注:
マテオによる聖福音書:第24章13節(太字部分)(1-14節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW
エルサレムの滅亡と世の終わり
『イエズスは神殿を出られた.弟子たちが近寄って神殿の構えについてイエズスの注意をうながしたので,「そのいっさいのものをあなたたちは見ている.まことに私は言う.ここには石の上に一つの石さえ残さず崩れ去る日が来る」とイエズスは答えられた.イエズスがオリーブ山に座っておられると弟子たちがそっと近づいて,「そういうことがいつ起こるか教えてください.また,あなたの来臨と世の終わりには,どんなしるしがあるでしょうか」と尋(たず)ねた.
イエズスは答えられた,「人に惑(まど)わされぬように気をつけよ.多くの人が私の名をかたり,〈私こそキリストだ〉と言って多数の人を迷わすだろう.また,戦争や戦争のうわさを聞くだろう.だが心を騒がすな.そうなってもまだ世の終わりではない.〈民は民に,国は国に逆らって立ち〉,諸方に,ききんと地震がある.だがこれらはみな生みの苦しみの始めでしかない.
そのとき人々はあなたたちをいじめ,殺し,私の名のためにすべての民が,あなたたちを憎むだろう.そのときには多くの人が滅び,互いに裏切(うらぎ)り,憎み合い,多くの偽預言者が起こって人々を惑わし,不義が増すにつれておびただしい人の愛が冷(さ)める.だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる.
天のこの福音が,全世界にのべ伝えられ,諸国の人々に向かって証明されるとき,そのとき,終わりは来る.』
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訳注の引用箇所の前後の文と注釈を追補いたします.
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