2015年1月31日土曜日

394 エブドキュア 1/31

エレイソン・コメンツ 第394回 (2015年1月31日)


解説付


血生臭い襲撃は益々有り触れた事になる(為る・成る)でしょう,
(ち なま ぐさい しゅうげきは ますます ありふれた ことに なる でしょう.)
( "More and more common will be the bloody attacks, " )

世界が救世主(キリスト)を見失っている事に気付く迄は.
(せかいが きゅうせいしゅ〈きりすと〉を みうしなって いる ことに きづく まで は.)
( "Until the world sees, Christ is who it lacks. " )

先週のエレイソン・コメンツは,大々的に報道された1月7日のパリ市内シャルリー・エブド 社襲撃事件について(就いて)(せんしゅうの えれいそん・こめんつは,だいだい てきに ほうどう された いちがつ なのかの ぱり しない しゃるりー・えぶど しゃ しゅうげき じけんに ついて),いたって(至って)政治的に不正確な方法で,それ(其れ)がフランス(仏蘭西)に残るキリスト教文明( "Christian civilisation" )の諸諸の遺物( "the remains" )に対する攻撃だと伝えました(いたって せいじ てきに ふせいかく な ほうほう で,それが ふらんすに のこる きりすと きょう ぶんめいの もろもろの いぶつに たいする こうげき だと つたえ ました)( "Last week these “Comments,” in a most politically incorrect manner, presented the heavily publicized January 7 attack in Paris on Charlie Hebdo as an attack upon the remains of Christian civilisation in France." ).では,今週は再び風刺画家,襲撃者,政治家,共謀者の順で,キリスト教文明が問題をどう(如何)解決するかについて(就いて)触れてみます(見ます)(では,こんしゅうは ふたたび ふうし がか,しゅうげき しゃ,せいじ か,きょうぼう しゃの じゅんで,きりすと きょう ぶんめいが もんだいを どう かいけつ するか について ふれて みます)( "Then let them this week put forward how Christian civilisation would solve the problem, in the same order, for cartoonists, gunmen, politicians, peoples and conspirators." ).

諷刺画家達について(就いて)いえば(言えば・云えば・謂えば)(ふうしがかたちについていえば)( "As for the cartoonists, " ),もし(若し)フランス(仏蘭西)がまだ(未だ)カトリック教(=公教)国( "Catholic" )だとすれば(もし ふらんすが まだ かとりっく きょう〈=こうきょう〉こく だと すれば)( "if France were still Catholic, …" ),教会と国家はフランス革命以前の様に結束しており(きょうかいと こっかは ふらんす かくめい いぜんの ように けっそく しており)( "Church and State would still be united, as they were until the French Revolution, …" ),国家当局者達はシャルリー・エブド 社が全能の神を腹立たさせて(こっか とうきょく しゃ たちは しゃるりー・えぶど しゃが ぜんのうの かみを はら だたさせて),同社の風刺画家達の処刑を御許しになるほど(程)冒涜的な反キリスト教的風刺画を断固として禁じたはず(筈)です(どうしゃの ふうし がか たちの しょけいを おゆるしに なる ほど ぼうとく てきな はん きりすと きょう てき ふうし が を だんこ として きんじた はず です)( "… and State authorities would absolutely have forbidden such blasphemous anti-Christian cartoons as those by which Charlie Hebdo may well have provoked Almighty God to allow for the silencing of its cartoonists." ).それは(其れは)検閲という手段でしょうか?(それは けんえつ という しゅだん でしょうか? )( "But that would be censorship? " ) 今日,私達が検閲を一切受けていないと考える愚か者は一人もいません(こんにち,わたくし たちが けんえつを いっさい うけて いないと かんがえる おろかものは ひとりも いません)( "Only a fool can think we suffer under no censorship today." ).検閲は親キリスト教的でなく,まったく(全く)反キリスト教的です(けんえつは しん きりすと きょう てき でなく,まったく はん きりすと きょう てき です)( "The censorship is simply anti-Christian instead of Christian." ).今日,誰が自由にホロコーストとその「ガス室」を冒涜できる(出来る)でしょうか?(こんにち,だれが じゆうに ほろこーすとと その「がすしつ」を ぼうとく できる でしょうか?)( "Who today is free to blaspheme against Holocaustianity and its “gas-chambers” ? " ) (訳注3・1・「ホロコースト」=大虐殺・第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人大量殺戮.元の意義は古代ユダヤ教で生け贄の動物を祭壇で焼き,神に捧げた儀式〈犠牲の生け贄の燔祭〉)(やくちゅう・「ほろこーすと」=だい ぎゃくさつ・だいにじ せかい たいせん ちゅうの なちす による ゆだや じん たいりょう さつりく.もとの いぎは こだい ゆだや きょうで いけにえの どうぶつを さいだんで やき,かみに ささげた ぎしき〈ぎせいの いけにえの はんさい〉)

イスラム教徒の襲撃者達について(就いて)いえば(言えば・云えば・謂えば)(いすらむ きょうとの しゅうげき しゃ たちに ついて いえば)( "As for the muslim gunmen, …" ),フランス(仏蘭西)がカトリック教国家だったなら,彼等は決してフランスに来なかったでしょう(ふらんすが かとりっく きょう こっか だった なら,かれらは けっして ふらんすに こなかった でしょう)( "… to a Catholic France they might never have come." ).カトリック教国だったら,フランスの国家当局者達は自国内のイスラム教徒達を蔑んだり憎んだりしなかったでしょうし(かとりっく きょう こく だったら,ふらんすの こっか とうきょくしゃ たちは じこく ないの いすらむ きょうと たちを さげすんだり にくんだり しなかった でしょうし)( "Never would Catholic State authorities have despised or hated muslims in their own countries, …" ),同時にイスラム教とキリスト教の歴史的な対立を見失って,第二次世界大戦以来これほど(此れ程)多くのイスラム教移民を受け入れ,フランス国内に定住するのを奨励まで(迄)する様な事をしなかったでしょう(どうじに いすらむ きょうと きりすと きょうの れきし てきな たいりつを みうしなって,だいにじ せかい たいせん いらい これほど おおくの いすらむ きょう いみんを うけいれ,ふらんす こくないに ていじゅう するのを しょううれい まで する ような ことを しなかった でしょう)( "… but at the same time never would they so have lost sight of the historic clash between Islam and Christianity as to allow to settle in France such a mass of muslim immigrants as have been allowed, even encouraged, to settle in France since World War II." ).それに,彼等は自らの民族を冷笑し,自らの伝統を軽蔑したり,今日の様に自分達がそのよう(其の様)に行動する事を教えられるままに(侭に・儘に)成るままにして置かなかったでしょう(それに,かれらは みずからの みんぞくを れいしょうし,みずからの でんとうを けいべつ したり,こんにちの ように じぶんたちが そのように こうどう する ことを おしえられる ままに なる ままに して おかなかった でしょう)( "Nor would they ever have learned to scorn their own race and despise their own traditions as they have allowed themselves to be taught to do today." ).十戒の第4戒律に従えば,カトリック教徒(=公教徒)は自分の国を他の如何なる国よりも愛し,しかも(然も)他国の不運を願う事等しないでしょう(じっかいの だい よん かいりつに したがえば,かとりっく きょう と〈=こう きょう と〉は じぶんの くにを たの いかなる くに よりも あいし,しかも たこくの ふうんを ねがう こと など しない でしょう)( "By the Fourth Commandment a Catholic loves his own country above all, without wishing ill to any others." ).

最も大切な事は(もっとも たいせつな ことは)( "Most important of all, …" ),もし(若し)フランス(仏蘭西)がカトリック教国のままとどまっていた(留まって居た)なら(もし ふらんすが かとりっく きょう こくの まま とどまって いた なら)( "… if France had stayed Catholic, …" ),其の政治家達も国民も,隠れた操り人形の使い手である世界主義者達( "the Globalists" )の操り人形になど(等・抔)なって(成って・為って)いなかった(居なかった)でしょう(その せいじか たちも こくみんも,かくれた あやつり にんぎょうの つかいて である せかいしゅぎ しゃ たちの あやつり にんぎょう になど なって いなかった でしょう)( "… neither the politicians nor the people would have become the puppets that they are today of hidden puppet-masters, the Globalists." ).17世紀まで(迄)フランスは全体としてカトリック教国(公教国)でした(じゅうなな せいき まで ふらんすは ぜんたい として かとりっく きょう こく〈こう きょう こく〉でした)( "In the 17 th century France was Catholic as a whole, …" ).だが,18世紀になると,カトリック信仰(公信仰)の欠如から(だが,じゅうはっ せいき になると,かとりっく しんこう〈こう しんこう〉の けつじょ から)( "… but in the 18 th century, for lack of Catholic faith, …" ),其の支配階級は異教徒達の為の世界主義,即ちフリーメーソン組織に完全に染まる事を自らに許す様になり(成り・為り)ました(その しはい かいきゅうは いきょうと たちの ための せかいしゅぎ,すなわち ふりーめーそん そしきに かんぜんに そまる ことを みずからに ゆるす ように なりました)( "… its ruling class allowed itself to become thoroughly infected with another form of Globalism, Freemasonry." ).背教者となったイングランドで1717年に始まったフリーメーソン組織はたちまち(忽ち)フランスや北米に広がり(はいきょう しゃと なった いんぐらんどで せんななきゃくじゅうなな ねんに はじまった ふりーめーそん そしきは たちまち ふらんすや ほくべいに ひろがり)( "Launched in its modern form in apostate England in 1717, Freemasonry swiftly spread to France and North America …" ),1776年のアメリカ(亜米利加)革命,1789年のフランス(仏蘭西)革命の糸を引きました(せん ななひゃく ななじゅう ろく ねんの あめりか かくめい,せん ななひゃく はちじゅう く ねんの ふらんす かくめいの いとを ひきました)( "… where it master-minded the American and French Revolutions in 1776 and 1789 respectively." ).この二つの革命は世界主義者達(=グローバリスト達)の新世界秩序( "New World Order" )へ向けての大きな前進でした(この ふたつの かくめいは せかいしゅぎ しゃ たちの しん せかい ちつじょ へ むけての おおきな ぜんしん でした)( "Both of them were major steps towards the Globalists’ New World Order." ).

さて,カトリック教会がまだ正気でいた間は(さて,かとりっく きょうかいが まだ しょうきで いた あいだは)( "Now, for as long as the Catholic Church was still in its right mind, …" ),フリーメーソンをカトリック教を完全に弱体化させ葬り去る意図を持った秘密組織だとして非難し禁じていました(ふりーめーそんを かとりっく きょうを かんぜんに じゃくたいか させ ほうむり さる いとを もった ひみつ そしき だと して ひなん し きんじて いました)( "… it denounced and condemned Freemasonry as being a secret society designed to undermine and overthrow the Catholic religion altogether …" ).――例えば,1884年に(教皇)レオ13世が出された回勅,Humanum Genus をご覧下さい(たとえば,せん はっぴゃく はちじゅう よ ねん に (きょうこう)れお じゅうさん せい が だされた かいちょく,〈 "Humanum Genus" 〉〈うまーぬむ・じぇーぬす〉 を ごらん ください)( "… – see for instance Leo XIII’s Encyclical Letter, Humanum Genus of 1884." ).だが,フランス革命以降,国家はカトリック教会から分離され,世俗的か(且)つ民主的な基盤に置かれる様になり(成り・為り)ました(だが,ふらんす かくめい いこう,こっかは かとりっく きょうかい から ぶんり され,せぞく てき かつ みんしゅ てき な きばん に おかれる ように なりました)( "Thus from the French Revolution onwards, States have been ever more separated from the Catholic Church and have been put instead on secular and democratic foundations." ).中産(中流)階級支配者達は益々カトリック教を見捨てて,事実上の代替宗教である自由主義に走り(ちゅうさん〈ちゅうりゅう〉かいきゅうしゃ たちは ますます かとりっく きょうを みすてて,じじつ じょうの だいたい しゅうきょう である じゆうしゅぎに はしり)( "More and more the new middle-class rulers have abandoned the Catholic religion in favour of liberalism, which is in effect a substitute religion, …" ),神とその真実(真理)の代わりに人間とその(其の)自由を崇拝する様になり(成り・為り)ました(かみと その しんじつ〈しんり〉の かわりに にんげんと その じゆうを すうはい するように なりました)( "… adoring man and his liberty instead of God and his Truth." ).其の為,「自由」の名の下に,ジャーナリスト達が司祭達に取って代わり(そのため,「じゆう」の な の もとに,じゃーなりすと たちが しさい たちに とって かわり)( "So in the name of “freedom” journalists took over from priests, …" ),彼等の自由メディアが人々の考えを乗っ取ってしまい(終い・仕舞い)ました(かれらの じゆう めでぃあ が ひとびとの かんがえを のっとって しまいました)( "… and their liberal media took over the people’s thinking." ).だが,その間中,ジャーナリスト達やメディアはフリーメーソンにより密かに管理され(だが,その あいだ じゅう,じゃーなりすと たちや めでぃあは ふりーめーそん により ひそかに かんり され)( "But all the while journalists and media have been secretly directed by Freemasonry, …" ),世界主義者達の新世界秩序の為に働かされて来ました(せかい しゅぎ しゃ たちの しん せかい ちつじょ の ために はたらかされて きました)( "… working for the Globalists’ New World Order." ).これ(此れ)が「民主主義」とか「自由」の名の下に,強い動機を持つ世界主義者達が諸国民や政治家達を,自分達のメディアが作り上げた世論の操り人形になる(成る・為る)様おとしいれた(陥れた)実態です(これが「みんしゅ しゅぎ」とか「じゆう」の な の もとに,つよい どうきを もつ せかい しゅぎ しゃ たち が しょ こくみんや せいじか たちを,じぶん たちの めでぃあが つくりあげた せろん 〈よろん〉の あやつり にんぎょうに なる よう おとしいれた じったい です)( "Here is how, under cover of “democracy” and “freedom,” the highly motivated Globalists have been able to reduce peoples and politicians to puppets of public opinion, moulded by their media." ).神の真実に背を向けるのは,自らを悪魔がささやく(囁く)嘘の虜にさせるのと同じです(かみの しんじつに せを むける のは,みずからを あくまが ささやく うその とりこに させる のと おなじ です)( "To turn one’s back on God’s Truth is to enslave oneself to Satan’s lies. " ).

シャルリー・エブド 社襲撃は神の無い自由( "godless liberty" ),というより寧ろ其の免許と殺人的なイスラム対ヨーロッパ(欧州)の敵対意識を助長する為に仕組まれた一大デモンストレーションでしたしゃるりー・えぶど しゃ しゅうげきは かみの ない じゆう というより むしろ その めんきょと さつじん てきな いすらむ たい よーろっぱ〈おうしゅう〉の てきたい いしきを じょちょう する ために しくまれた いちだい でもんすとれーしょん でした)( "The Charlie Hebdo attack was designed for a huge demonstration to favour godless liberty, or rather licence, and a murderous muslim-European tension. " ).このような(此の様な)出来事は更に頻繁に続き,やがて(軈て)大量殺りく(殺戮)に至るでしょう.そうなった時,世界主義者達は自分達がうまく(上手く)ゆく(行く)だろうともくろみ(目論見),全能の神は神を拒むのは大きな問題で,根本的な問題である(有る)事を私達が理解するだろうと期待されます(このような できごとは さらに ひんぱんに つづき,やがて たいりょう さつりくに いたる でしょう.そうなった とき,せかい しゅぎ しゃ たちは じぶん たちが うまく ゆく だろうと もくろみ,ぜんのうの かみは かみを こばむ のは おおきな もんだいで,こんぽん てきな もんだいで ある ことを わたくし たちが りかい する だろうと きたい されます)( "More such events will follow, to arrive at bloodbaths from which the Globalists count on emerging supreme, from which Almighty God hopes that men will see that rejecting him is a huge problem, the basic problem." ).もし(若し),国家がそのこと(其の事)を理解しないとすれば(もし,こっかが そのことを りかい しない とすれば)( "If the States will not see this, …" ),ただ(唯・只)家庭が一日5玄義,個人が一日15玄義(あまり無理せずに出来るなら)ロザリオの祈りを捧げ(ただ かていが いちにち ご げんぎ,こじんが いちにち じゅうご げんぎ〈あまり むり せずに できる なら〉ろざりおの いのりを ささげ)( "… it remains only for families to pray the five Mysteries a day, and individuals the fifteen a day (if reasonably possible), …" ),私達の聖母に御子イエズス・キリストに取り成して(執り成して)下さる様お願いするしか無いでしょう(わたくし たちの せいぼに おんこ いえずす・きりすとに とりなして くださる よう おねがい する しか ない でしょう)( "… to beg Our Lady to intercede with her Son." ).

キリエ・エレイソン.(主よ憐れみ給え)
Kyrie eleison. (しゅよ あわれみ たまえ)

リチャード・ウィリアムソン司教



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第394回エレイソン・コメンツ「エブドキュア」 "Hebdocure" ( 2015年1月31日付)の解説付版は2015年8月31日-9月2日に掲載されました.
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血なまぐさい襲撃は益々ありふれたことになるでしょう,
世界がキリストを見失っていることに気づくまでは.
More and more common will be the bloody attacks,
Until the world sees, Christ is who it lacks.

先週のエレイソン・コメンツは,大々的に報道された1月7日のパリ市内シャルリー・エブド 社襲撃事件について,いたって政治的に不正確な方法で,それがフランスに残るキリスト教文明の遺物に対する攻撃だと伝えました.では,今週は再び風刺画家,襲撃者,政治家,共謀者の順で,キリスト文明が問題をどう解決するかについて触れてみます.
Last week these “Comments,” in a most politically incorrect manner, presented the heavily publicized January 7 attack in Paris on Charlie Hebdo as an attack upon the remains of Christian civilisation in France. Then let them this week put forward how Christian civilisation would solve the problem, in the same order, for cartoonists, gunmen, politicians, peoples and conspirators. 

諷刺画家たちについていえば,もしフランスがまだカトリック国だとすれば,教会と国家はフランス革命以前のように結束しており,国家当局者はシャルリー・エブド 社が全能の神を腹立たせて,同社の風刺画家たちの処刑を許すほど冒涜的な反キリスト教的風刺画を断固として禁じたはずです.それは検閲という手段でしょうか? 今日,私たちが検閲を一切受けていないと考える愚か者はひとりもいません.検閲は親キリスト教的でなく,まったく反キリスト教的です.今日,誰が自由にホロコーストとその「ガス室」を冒涜できるでしょうか?
As for the cartoonists, if France were still Catholic, Church and State would still be united, as they were until the French Revolution, and State authorities would absolutely have forbidden such blasphemous anti-Christian cartoons as those by which Charlie Hebdo may well have provoked Almighty God to allow for the silencing of its cartoonists. But that would be censorship? Only a fool can think we suffer under no censorship today. The censorship is simply anti-Christian instead of Christian. Who today is free to blaspheme against Holocaustianity and its “gas-chambers”? 

イスラム教徒の襲撃者たちについていえば,フランスがカトリック教国家だったら,彼らは決してフランスに来なかったでしょう.カトリック教国だったら,フランスの国家当局者たちは自国内のイスラム教徒たちを蔑んだり憎んだりしなかったでしょうし,同時にイスラム教とキリスト教の歴史的な対立を見失って,第二次世界大戦いらいこれほど多くのイスラム教移民を受け入れ,フランス国内に定住するのを奨励までするようなことをしなかったでしょう.それに,彼らは自らの民族を冷笑し,自らの伝統を軽蔑したり,今日のように自分たちがそのように行動することを教えられるままにしておかなかったでしょう.十戒の第4戒律に従えば,カトリック教徒は自分の国を他のいかなる国よりも愛し,しかも他国の不運を願うことなどしないでしょう.
As for the muslim gunmen, to a Catholic France they might never have come. Never would Catholic State authorities have despised or hated muslims in their own countries, but at the same time never would they so have lost sight of the historic clash between Islam and Christianity as to allow to settle in France such a mass of muslim immigrants as have been allowed, even encouraged, to settle in France since World War II. Nor would they ever have learned to scorn their own race and despise their own traditions as they have allowed themselves to be taught to do today. By the Fourth Commandment a Catholic loves his own country above all, without wishing ill to any others. 

最も大切なことは,もしフランスがカトリック教国のままとどまっていたなら,その政治家たちも国民も,隠れた操り人形の使い手である世界主義者たち( "the Globalists" )の操り人形になどなっていなかったでしょう.17世紀までフランスは全体としてカトリック教国でした.だが,18世紀になると,カトリック信仰の欠如から,その支配階級は異教徒たちのための世界主義,すなわちフリーメーソン組織に完全に染まることを自らに許すようになりました.背教者となったイングランドで1717年に始まったフリーメーソン組織はたちまちフランスや北米に広がり,1776年のアメリカ革命,1789年のフランス革命の糸を引きました.この二つの革命は世界主義者たちの新世界秩序( "New World Order" )へ向けての大きな前進でした.
Most important of all, if France had stayed Catholic, neither the politicians nor the people would have become the puppets that they are today of hidden puppet-masters, the Globalists. In the 17 th century France was Catholic as a whole, but in th e 18 th century, for lack of Catholic faith, its ruling class allowed itself to become thoroughly infected with another form of Globalism, Freemasonry. Launched in its modern form in apostate England in 1717, Freemasonry swiftly spread to France and North America where it master-minded the American and French Revolutions in 1776 and 1789 respectively. Both of them were major steps towards the Globalists’ New World Order. 

さて,カトリック教会がまだ正気でいた間は,フリーメーソンをカトリック教を完全に弱体化させ葬り去る意図を持った秘密組織だとして非難し禁じていました.たとえば,1884年にレオ13世が出した回勅,Humanum Genus をご覧ください.だが,フランス革命以降,国家はカトリック教会から分離され,世俗的かつ民主的な基盤に置かれるようになりました.中間階級支配者たちは益々カトリック教を見捨てて,事実上の代替宗教である自由主義に走り,神とその真実の代わりに人間とその自由を崇拝するようになりました.そのため,「自由」の名の下に,ジャーナリストたちが神父たちに取って代わり,彼らの自由メディアが人々の考えを乗っ取ってしまいました.だが,その間中,ジャーナリストたちやメディアはフリーメーソンにより密かに管理され,世界主義者の新世界秩序のために働かされてきました.これが「民主主義」とか「自由」の名の下に,強い動機を持つ世界主義者たちが諸国民や政治家たちを,自分たちのメディアが作り上げた世論の操り人形になるようおとしいれた実態です.神の真実に背を向けるのは,自らを悪魔がささやく嘘の虜にさせるのと同じです.
Now, for as long as the Catholic Church was still in its right mind, it denounced and condemned Freemasonry as being a secret society designed to undermine and overthrow the Catholic religion altogether – see for instance Leo XIII’s Encyclical Letter, Humanum Genus of 1884. Thus from the French Revolution onwards, States have been ever more separated from the Catholic Church and have been put instead on secular and democratic foundations. More and more the new middle-class rulers have abandoned the Catholic religion in favour of liberalism , which is in effect a substitute religion, adoring man and his liberty instead of God and his Truth. So in the name of “freedom” journalists took over from priests, and their liberal media took over the people’s thinking. But all the while journalists and media have been secretly directed by Freemasonry, working for the Globalists’ New World Order. Here is how, under cover of “democracy” and “freedom,” the highly motivated Globalists have been able to reduce peoples and politicians to puppets of public opinion, moulded by their media. To turn one’s back on God’s Truth is to enslave oneself to Satan’s lies. 

シャルリー・エブド 社襲撃は神のない自由(godless liberty),というよりむしろその免許と殺人的なイスラム対ヨーロッパの敵対意識を助長するために仕組まれた一大デモンストレーションでした.このような出来事はさらに頻繁に続き,やがて大量殺りくに至るでしょう.そうなった時,世界主義者たちは自分たちがうまくゆくだろうともくろみ,全能の神は神を拒むのは大きな問題で,根本的な問題であることを私たちが理解するだろうと期待します.もし,国家がそのことを理解しないとすれば,ただ家庭が一日5玄義,個人が一日15玄義(あまり無理せずにできるなら)ロザリオの祈りを捧げ,私たちの聖母に御子イエズス・キリストに取り成して(執り成して)くださるようお願いするしかないでしょう.
The Charlie Hebdo attack was designed for a huge demonstration to favour godless liberty, or rather licence, and a murderous muslim-European tension. More such events will follow, to arrive at bloodbaths from which the Globalists count on emerging supreme, from which Almighty God hopes that men will see that rejecting him is a huge problem, the basic problem. If the States will not see this, it remains only for families to pray the five Mysteries a day, and individuals the fifteen a day (if reasonably possible), to beg Our Lady to intercede with her Son. 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教

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本投稿記事・第394回エレイソン・コメンツ「エブドキュア」 "HEBDOCURE" ( 2015年1月31日付)は2015年8月30日21時06分に掲載されました.
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2015年1月24日土曜日

393 エブドマニア 1/24

解説付

エレイソン・コメンツ 第393回 (2015年1月24日)

今日,
物事は決して外見通りでは有りません
(こんにち,ものごとは
けっして がいけん どおり では ありません)

( "Today things never are what they appear." )

神を信じない人々に取って,
巧みな嘘は優しく響くでしょう
(かみを しんじない ひとびとに とって,
たくみな うそは やさしく ひびく でしょう).

( "To godless people skilful liars are dear. " )

1月7日に起きたシャルリー・エブド 社 襲撃事件で二人のイスラム教徒青年が此のフランス(仏蘭西)の風刺週刊誌パリ(巴里)本社で働く(…に勤務する)12名の漫画家,ジャーナリスト(新聞記者・雑誌記者)を殺害しました(いちがつ なのか に おきた しゃるりー・えぶど しゃ しゅうげき じけんで ふたりの いすらむ きょうと せいねんが この ふらんすの ふうし しゅうかんし ぱり ほんしゃで はたらく(…に きんむする)じゅうに めい の まんがか,じゃーなりすと〈しんぶん きしゃ・ざっし きしゃ〉を さつがい しました)( "The Charlie Hebdo  attack of January 7 in which two muslim gunmen killed a dozen cartoonists and journalists in the Paris office of a satirical French weekly, …" ).1月11日に開かれた大規模な市民抗議集会では,参加した欧州数か国の指導者達が写真でプレーアップされました(いちがつ じゅういち にちに ひらかれた だいきぼ な しみん こうぎ しゅうかい では さんか した おうしゅう すうかこくの しどうしゃ たちが しゃしんで ぷれーあっぷ されました).此の二つの出来事は神の敵達が僅かに残るキリスト(基督)教文明に対して仕掛けた戦いのもう一つのエピソードとして捉えるのが最も分かり易いでしょう(この ふたつの できごとは かみの てき たちが わずかに のこる きりすと きょう ぶんめいに たいして しかけた たたかいの もう ひとつの えぴそーど として とらえる のが もっとも わかりやすい でしょう)( "… and the enormous public protest of Jan. 11 against the attack in which leaders of several European nations were photo-opped as taking part, are best understood as one more episode in the war being waged by the enemies of God upon what little remains of Christian civilisation." ).此の事件を漫画家達,襲撃者,イスラム教に迎合するかいらい(傀儡)政治家や一部の国の人々,其の全ての背後に居る黒幕の順で考えて見ましょう(この じけんを まんがか たち,しゅうげき しゃ,いすらむ きょうに げいごう する かいらい せいじか や いちぶの くにの ひとびと,その すべての はいごに いる くろまく の じゅんで かんがえて みましょう)( "Let us consider in order the cartoonists, the gunmen, the puppet politicians and peoples pandering to Islam and the puppet-masters behind them all." ).

同社の漫画家達はイスラム教やイスラム教徒達だけで無く,世界唯一の真の宗教で有るキリスト(基督)教の三位一体,救世主,聖母迄も風刺の対象にしました(どうしゃの まんがか たちは いすらむ きょうや いすらむ きょうと たち だけで なく,せかい ゆいいつの まことの しゅうきょう である きりすと きょうの さんみ いったい,きゅうせい しゅ,せいぼ までも ふうしの たいしょうに しました)( "The cartoonists lampooned not only Islam and muslims but also, from the world’s one true religion, the Holy Trinity, our divine Saviour and the Blessed Virgin Mary." ).唯一の真の神は極めて忍耐強いのですが,嘲笑の対象にされるのは御許しになりません(使徒聖パウロのガラテア人への書簡:第6章7節)(ゆいいつの まことの かみは きわめて にんたい づよい のですが,ちょうしょうの たいしょうに される のは おゆるしに なりません)( "Now the one true God is extremely patient, but he is not mocked (Gal. VI, 7)" )(訳注・3・1 ).人間がテロ行為に苦しめられない権利を持つように,真の神は猥らで冒涜的な風刺画の対象として公衆の面前で繰り返し扱われるのを許さない権利を持っています(にんげんが てろ こういに くるしめられ ない けんりを もつ ように,まことの かみは みだらで ぼうとく てきな ふうしが の たいしょう として こうしゅうの めんぜんで くりかえし あつかわれる のを ゆるさない けんりを もって います)( "As men have a right not to suffer from terrorism, so the true God has a right not to endure the public repetition of obscene and blasphemous cartoons." ).テロを正当化出来る者は誰も居ません(てろを せいとうか できる ものは だれも いません)( "Then nobody justifies terrorism as such, …" ).だがフランス(仏蘭西)の教会や国家当局者達が節度を欠いた神に対する冒涜の検閲を拒み続けるとしたら(だが,ふらんすの きょうかいや こっか とうきょく しゃ たちが せつどを かいた かみに たいする ぼうとくの けんえつを こばみ つづける と したら)( "… but given that the French Church and State authorities refuse to censor obscene blasphemy, …" ),神がイスラム教徒達に名誉回復の為の報復を御許しになっても,果たして驚くべき事でしょうか?(かみが いすらむ きょうと たちに めいよ かいふく の ための ほうふくを おゆるしに なっても,はたして おどろく べき こと でしょう か?)( "… is it surprising if God allowed muslims to avenge his honour? " )

シャルリー・エブド 社 を襲った)二人のイスラム教青年は宗教的な理由から行動したに違いありません(〈しゃるりー・えぶど しゃ を おそった〉ふたりの いすらむ せいねんは しゅうきょう てきな りゆう から こうどう したに ちがい ありません)( "The gunmen, two young muslims, must have been acting religiously, …" ).何故なら,若し政治的な動機からだとしたら,其の行動がイスラム教に敵対する世論を巻き起こすだろうと十分予見出来た筈だからです(なぜなら,もし せいじ てきな どうき から だ としたら,その こうどうが いすらむ きょうに てきたい する せろん〈よろん〉を まきおこす だろうと じゅうぶん よけん できた はず だから です)( "… because politically it was entirely foreseeable that their action would rouse opinion against Islam." ).だが,其れにしても,彼等が敢えて(敢て)襲撃事件を起こしたのは如何してでしょうか?(だが,それに しても,かれらが あえて しゅうげき じけんを おこした のは どうして でしょうか?)( "Still, how could they dare to attack? " )其の理由は,欧州全土でイスラム教徒達が高い出生率と移民により(に因り・に依り)数の上で益々強大に成って来ており(その りゆうは,おうしゅう ぜんどで いすらむ きょうと たちが たかい しゅっせい りつと いみんに より かずの うえで ますます きょうだいに なって きて おり)( "Because across Europe muslims are by their birthrate and immigration getting stronger in numbers all the time, …" ),十分力を付け次第,必要と有れば大量殺人により(に因り・に依り)欧州のキリスト(基督)教諸国をイスラム化すると公言しているからです(じゅうぶん ちから を つけ しだい,ひつよう とあれば たいりょう さつじんに より おうしゅうの きりすと きょう しょこくを いすらむ か すると こうげん している から です)( "… and they make no secret of the fact that, as soon as they are strong enough, by a bloodbath if necessary, they will islamize the once Christian nations of Europe." ).

では,此れ等諸国がほぼ(略・粗)無制限の移民受け入れ,信じ難い程の福祉を同化しない移民達に認める等の自殺的政策を採る様仕向けたのは一体誰でしょうか?(では,これら しょこくが ほぼ むせいげんの いみん うけいれ,しんじがたい ほどの ふくしを どうか しない いみん たちに みとめる などの じさつ てき せいさくを とる よう しむけた のは いったい だれ でしょうか?)( "So who persuaded these nations to adopt the suicidal policy of almost unrestricted immigration and unbelievable welfare benefits for the in fact unassimilable immigrants, and so on? " )賄賂を受け取ったり,酷く虐め(苛め)られたかいらい(傀儡)政治家以外の誰でしょうか?(わいろを うけ とったり,ひどく いじめ られた かいらい せいじか いがいの だれ でしょう か?)( "Who but our bribed or bullied puppet politicians? " )一年程前,ドイツ(独逸)のメルケル首相は相反する文化を調和させる「多層文化」( "multi-culti" )は上手く行かないと認め本音を吐露しました(いちねん ほど まえ,どいつの めるける しゅしょうは あいはん する ぶんかを ちょうわ させる「たそう ぶんか」は うまく いかないと みとめ ほんねを とろ し ました)( "In a moment of truth a year or so ago, the Chancellor of Germany, Angela Merkel, admitted that “multi-culti,” the mixing of contrary cultures, does not work. " ).だが,彼女は1週間程前,エブド 社 襲撃事件に触れ「イスラム教はドイツに属する」と公言したでは無いですか?(だが,かのじょは いっしゅうかん ほど まえ,えぶど しゃ しゅうげき じけんに ふれ「いすらむ きょうは どいつに ぞくする」と こうげん した では ない ですか?)( "But a week or so ago in connection with the Hebdo attack, did she not proclaim that “Islam belongs to Germany”? " ).彼女は屈服させられたのです(かのじょは くっぷく させられた のです)( "She had been brought to heel. " ).彼女は常にドイツの真の国益に反した行動をするので操り人形です(かのじょは つねに どいつの しんの こくえきに はんした こうどうを する ので あやつり にんぎょう です)( "She is a puppet because she is constantly acting against Germany’s true interests. " ).例えば,若しフランス(仏蘭西)に今程多くのイスラム教徒が居なかったなら,シャルリー・エブド 社 がわざわざ(態態・態々)イスラム教を嘲笑したでしょうか?(たとえば,もし ふらんすに いま ほど おおくの いすらむ きょうとが いなかった なら,しゃるりー・えぶど しゃ が わざわざ いすらむ きょうを ちょうしょう した でしょうか?)( "For instance, were there not so many muslims in France, would Charlie Hebdo ever have bothered to ridicule Islam? " )そして其の様な傀儡政治家達に票を投ずるのは誰でしょうか?(そして そのような かいらい せいじか たちに ひょうを とうずる のは だれ でしょうか?)( "And who votes for these puppet politicians? " ) 其れは考えを下品なメディア(新聞・テレビ・ラジオ等の情報媒体)に毒された操り人形の様な有権者達です(それは かんがえを げひんな めでぃあ〈しんぶん・てれび・らじお とうの じょうほう ばいたい〉に どく された あやつり にんぎょうの ような ゆうけんしゃ たち です)( "Puppet peoples, who allow their thinking to be enslaved by their vile media. " ).

では,彼等の黒幕は誰でしょうか?(では,かれらの くろまくは だれ でしょう か?)( "Then who are the puppet-masters? " )其れは神の敵達で(それは かみの てき たちで)( "They are enemies of God, …" ),神の存在しない自分達自身の新世界秩序,生きる人々が誰一人として地獄へ陥るのを免れない警察国家を打ち立てようと躍起になっている連中です(かみの そんざい しない じぶん たち じしんの しん せかい ちつじょ,いきる ひとびとが だれ ひとり として じごくへ おちいる のを まぬがれ ない けいさつ こっかを うちたて ようと やっきに なって いる れんちゅう です)( "… intent upon establishing their own godless New World Order, a police State designed to ensure that not one living soul escapes eternal Hell." ).私達は彼等をグローバリスト( "Globalists" )と呼びましょう(わたくし たちは かれらを ぐろーばりすと と よびましょう)( "Let us call them “Globalists.” " ).エブド 社 襲撃は,アメリカ(米国)での 9.11 同時多発テロ,英国での 7.7 爆弾事件と同じ様に彼等の仕業でえぶど しゃ しゅうげき は,あめりか〈べいこく〉で の きゅう てん いち いち どうじ たはつ てろ,えいこく で の なな てん なな ばくだん じけんと おなじ ように かれらの しわざ で)( "Then was the Hebdo attack their work, one of their events like 9/11 in the USA and 7/7 in the UK, …" ),世論を冒涜者に取っての自由,内戦へ誘導する目的で仕組まれたのでは無いでしょうか?(よろん〈せろん〉を ぼうとく しゃ に とって の じゆう,ないせん へ ゆうどう する もくてき で しくまれた のでは ないでしょうか?)( "… engineered to move public opinion, this time towards freedom for blasphemers and civil war? " )其の可能性は大いに有ります(その かのう せいは おおいに あります)( "Most likely." ).今回の襲撃事件の実態は外見とは異なった物でした(こんかいの しゅうげき じけんの じったいは がいけん とは ことなった もの でした)( "The event was certainly not what it was made to seem." ).有名になった例が有ります(ゆうめいに なった れいが あります)( "Famous example: …" ).一人の殺し屋が地面に横たわった「一人のイスラム教徒警官」の頭を狙い撃ちするが,流血は無く,銃の反動も無く,「犠牲者」はほとんど(殆ど・殆んど)動かないという場面を示す3分間の動画です(ひとりの ころしや が じめんに よこたわった「ひとりの いすらむ きょうと けいかん」の あたまを ねらい うち するが,りゅうけつは なく,じゅうの はんどうも なく,「ぎせいしゃ」は ほとんど うごかない という ばめんを しめす さんぷんかんの どうが です)( "… the three-minute film clip showing a gunman shooting in the head point-blank a “muslim policeman” lying on the ground, with no blood, no recoil of the gun, and little movement of the “victim.” " ).この動画はhttp://youtu.be/gobYWXgzWgYに未だ残っているかも知れません(この どうがは http://youtu.be/gobYWXgzWgYに まだ のこって いる かも しれ ません)( "The clip may still be found, starting from here – http://youtu.be/gobYWXgzWgY. " ).

神はこうした気ちがい沙汰を御認めになるでしょうか?(かみは こうした きちがい ざたを おみとめに なる でしょうか?)( "And the Good Lord amidst all this madness? " )「神は滅ぼそうとする者を,先ず気を狂わせる」という古い諺があります(「かみは ほろぼそうと する ものを,まず きを くるわせる」という ふるい ことわざが あります)( " “Those whom he wishes to destroy, he first makes mad,” is the old saying." ).神が神の御母(聖母)のみを通してもたら(齎)そうとされる勝利の為に一日15玄義のロザリオの祈(15 Mysteries)を祈りましょう!(かみが かみの おんはは〈せいぼ〉のみを とおして もたらそうと される しょうりの ために いちにち じゅうご げんぎ の ろざりおの いのりを いのりましょう!)( "Pray 15 Mysteries a day for the triumph that he will engineer, through his Mother alone." )(訳注・7・1)哀れなグローバリスト達は不意を突かれるでしょう!(あわれな ぐろーばりすと たちは ふいを つかれる でしょう!)( "Are the poor Globalists ever going to be taken by surprise! " )

キリエ・エレイソン (主よ憐れみ給え).
(きりえ・えれいそん)〈しゅよ あわれみ たまえ〉
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教


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清書版

エレイソン・コメンツ 第393回 (2015年1月24日)

今日,物事は決して外見通りではありません.
神を信じない人々にとって,巧みな嘘は優しく響くでしょう.
Today things never are what they appear.
To godless people skilful liars are dear.

1月7日に起きたシャルリー・エブド社 襲撃事件で二人のイスラム教徒青年がこのフランスの風刺週刊誌パリ本社で働く12名の漫画家,ジャーナリストを殺害しました.1月11日に開かれた大規模な市民抗議集会では,参加した欧州数か国の指導者たちが写真でプレーアップされました.この二つの出来事は神の敵たちがわずかに残るキリスト教文明に対して仕掛けた戦いのもうひとつのエピソードとしてとらえるのが最も分かり易いでしょう.この事件を漫画家たち,襲撃者,イスラム教に迎合するかいらい政治家や一部の国の人々,そのすべての背後にいる黒幕の順で考えてみましょう.
The Charlie Hebdo attack of January 7 in which two muslim gunmen killed a dozen cartoonists and journalists in the Paris office of a satirical French weekly, and the enormous public protest of Jan. 11 against the attack in which leaders of several European nations were photo-opped as taking part, are best understood as one more episode in the war being waged by the enemies of God upon what little remains of Christian civilisation. Let us consider in order the cartoonists, the gunmen, the puppet politicians and peoples pandering to Islam and the puppet-masters behind them all.

同社の漫画家たちはイスラム教やイスラム教徒たちだけでなく,世界唯一の真の宗教であるキリスト教の三位一体,救世主,聖母までも風刺の対象にしました.唯一の真の神はきわめて忍耐強いのですが,嘲笑の対象にされるのはお許しになりません(使徒聖パウロによるガラテア人への書簡:第6章7節参照)(訳注・3・1).人間がテロ行為に苦しめられない権利を持つように,真の神はみだらで冒涜的な風刺画の対象として公衆の面前で繰り返し扱われるのを許さない権利を持っています.テロを正当化できる者は誰もいません.だが,フランスの教会や国家当局者たちが節度を欠いた神に対する冒涜の検閲を拒み続けるとしたら,神がイスラム教徒たちに名誉回復のための報復をお許しになっても,はたして驚くべきことでしょうか?
The cartoonists lampooned not only Islam and muslims but also, from the world’s one true religion, the Holy Trinity, our divine Saviour and the Blessed Virgin Mary. Now the one true God is extremely patient, but he is not mocked (Gal. VI, 7). As men have a right not to suffer from terrorism, so the true God has a right not to endure the public repetition of obscene and blasphemous cartoons. Then nobody justifies terrorism as such, but given that the French Church and State authorities refuse to censor obscene blasphemy, is it surprising if God allowed muslims to avenge his honour?

シャルリー・エブド社 を襲った二人のイスラム教青年は宗教的な理由から行動したに違いありません.なぜなら,もし政治的な動機からだとしたら,その行動がイスラム教に敵対する世論を巻き起こすだろうと十分予見できたはずだからです.だが,それにしても,彼らがあえて襲撃事件を起こしたのはどうしてでしょうか? その理由は,欧州全土でイスラム教徒たちが高い出生率と移民により数の上で益々強大になってきており,十分力をつけ次第,必要とあれば大量殺人により欧州のキリスト教諸国をイスラム化すると公言しているからです.
The gunmen, two young muslims, must have been acting religiously, because politically it was entirely foreseeable that their action would rouse opinion against Islam. Still, how could they dare to attack? Because across Europe muslims are by their birthrate and immigration getting stronger in numbers all the time, and they make no secret of the fact that, as soon as they are strong enough, by a bloodbath if necessary, they will islamize the once Christian nations of Europe.

では,これら諸国がほぼ無制限の移民受け入れ,信じがたいほどの福祉を同化しない移民たちに認めるなどの自殺的政策を取るよう仕向けたのは一体誰でしょうか? わいろを受け取ったり,ひどくいじめられたかいらい政治家以外の誰でしょうか? 一年ほど前,ドイツのメルケル首相は相反する文化を調和させる「多層文化」("multi-culti")はうまく行かないと認め本音を吐露しました.だが,彼女は1週間ほど前,エブド社 襲撃事件に触れ「イスラム教はドイツに属する」と公言したではないですか.彼女は屈服させられたのです.彼女は常にドイツの真の国益に反した行動をするので操り人形です.例えば,もしフランスにいまほど多くのイスラム教徒がいなかったなら,シャルリー・エブド社 がわざわざイスラム教を嘲笑したでしょうか? そのようなかいらい政治家たちに票を投ずるのは誰でしょうか? それは考えを下品なメディアに毒された操り人形のような有権者たちです.
So who persuaded these nations to adopt the suicidal policy of almost unrestricted immigration and unbelievable welfare benefits for the in fact unassimilable immigrants, and so on? Who but our bribed or bullied puppet politicians? In a moment of truth a year or so ag o, the Chancellor of Germany, Angela Merkel, admitted that “multi-culti,” the mixing of contrary cultures, does not work. But a week or so ago in connection with the Hebdo attack, did she not proclaim that “Islam belongs to Germany”? She had been brought to heel. She is a puppet because she is constantly acting against Germany’s true interests. For instance, were there not so many muslims in France, would Charlie Hebdo ever have bothered to ridicule Islam? And who votes for these puppet politicians? Puppet peoples, who allow their thinking to be enslaved by their vile media.

では,彼らの黒幕は誰でしょうか? それは神の敵たちで,神の存在しない自分たち自身の新世界秩序,生きる人々が誰一人として地獄へ陥るのを免れない警察国家を打ち立てようと躍起になっている連中です.私たちは彼らをグローバリスト( "Globalists" )と呼びましょう.エブド社 襲撃は,アメリカでの 9.11 同時多発テロ,英国での 7.7 爆弾事件と同じように彼らの仕業で,世論を冒涜者にとっての自由,内戦へ誘導する目的で仕組まれたのではないでしょうか? その可能性は大いにあります.今回の襲撃事件の実態は外見とは異なったものでした.有名になった例があります.一人の殺し屋が地面に横たわった「一人のイスラム教徒警官」の頭を狙い撃ちするが,流血はなく,銃の反動もなく,「犠牲者」はほとんど動かないという場面を示す3分間の動画です.この動画はhttp://youtu.be/gobYWXgzWgYにまだ残っているかもしれません.
Then who are the puppet-masters? They are enemies of God, intent upon establishing their own godless New World Order, a police State designed to ensure that not one living soul escapes eternal Hell. Let us call them “Globalists.” Then was the Hebdo attack their work, one of their events like 9/11 in the USA and 7/7 in the UK, engineered to move public opinion, this time t owards freedom for blasphemers and civil war? Most likely. The event was certainly not what it was made to seem. Famous example: the three-minute film clip showing a gunman shooting in the head point-blank a “muslim policeman” lying on the ground, with no blood, no recoil of the gun, and little movement of the “victim.” The clip may still be found, starting from here – http://youtu.be/gobYWXgzWgY.

神はこうした気ちがい沙汰をお認めになるでしょうか?「神は滅ぼそうとする者を,先ず気を狂わせる」という古いことわざがあります.神が神の御母(聖母)のみを通してもたらそうとされる勝利のために一日15玄義のロザリオの祈( "15 Mysteries" )を祈りましょう!(訳注・7・1)哀れなグローバリストたちは不意をつかれるでしょう!
And the Good Lord amidst all this madness? Those whom he wishes to destroy, he first makes mad,” is the old saying. Pray 15 Mysteries a day for the triumph that he will engineer, through his Mother alone. Are the poor Globalists ever going to be taken by surprise!

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教


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訳注
「エブド」"hebdo" はフランス語 "hebdomadaire" の略で,
英語で "weekly"(=毎週・週単位・週刊誌)の意.
原語はラテン語 "hebdomadalis".






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本投稿記事・第393回エレイソン・コメンツ「エブドマニア」 "HEBDOMANIA" ( 2015年1月24日付)は2015年8月23日15時23分に掲載されました.
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2015年1月17日土曜日

392 矛盾する碑銘 1/17

エレイソン・コメンツ 第392回 (2015年1月17日)

神が善良に造られた私達の本質を
アダムが台無しにしてしまいました.
(かみが ぜんりょうに つくられた
 わたくしたちの ほんしつを
 あだむが だいなしに して しまい ました.)

神により(由り) 善良に成りたいと願う
私達の本質は,
アダムが駄目にします.
(かみに より
ぜんりょうに なりたいと ねがう
わたくし たちの ほんしつは,
あだむが だめに します.)

Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.


広い星空の下に
(ひろい ほしぞらの したに)
Under the wide and starry sky

墓を掘り私をそこへ眠らせておくれ
(はかを ほり
わたくしを そこへ ねむらせて おくれ)
Dig the grave and let me lie

私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
(わたくしは いきてきて
よかったと おもい,
よろこんで しぬ)
Glad did I live and gladly die,

そして,私は自らの意志でそこに横たわる
(そして,わたくしは
みずからの いしで そこに よこたわる)
And I laid me down with a will.


この碑文を私の墓に刻んでほしい
(この ひぶんを
わたくしの はかに きざんで ほしい)
This be the verse you ’grave for me:

彼は望みどおりのところで眠る
(かれは のぞみ どおりの ところで ねむる)
Here he lies where he longed to be.

船乗りは海から家へ帰る
(ふなのりは うみ から いえへ かえる)
Home is the sailor, home from sea

そして,猟師は丘から家へ帰る
(そして,りょうしは おか から いえへ かえる)
And the hunter home from the hill

—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
—R.L.Stevenson (1850–1894)


詩人の墓に刻まれたこの(此の)碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り(しじんの はかに きざまれた この ひぶんは かんけつ ながら,その しんじょうを ゆうべんに かたり)( "This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, …" ),それ(其れ)が人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすもの(物)があり(在り・有り)ます(それが じんせいで さけられない し に ふれて いる だけに,ひとの こころを うごかす ものが あります)( "… and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life." ).詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います(しじん たちは せいと あいを しのんで し を さくひんの てーま として あつかい ます)( "Commemorating life and love, poets often treat of death, …" ).死は生と愛を神秘的に断ち切るものです(し は せい と あい を しんぴ てきに たち きる もの です)( "… which so mysteriously cuts off both." ).生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者達は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします(せいや しの いみを かんがえる ことを のぞまない あわれな ゆいぶつ しゅぎ しゃ たち は し を ぶんだん して,かのう なら それを さんぶん として ぷりんと しよう と します)( "Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, …" ).それは,正しく物質より高度な物について考えるのを避ける為です(それは まさしく ぶっしつ より こうどな もの について かんがえる のを さける ため です)( "… precisely to avoid having to think about anything higher than matter." ).だが,其の様な事をしても,神秘は残ります(だが,そのような ことを しても,しんぴは のこり ます)...( "But the mystery remains . . ." )

理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です(りろん てき には, すちーぶんそんの ひめいは ゆうかん です)( "In theory, Stevenson’s epitaph is brave." ).彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で(かれは かくせつの おわりの さんぎょう,つまり はっせつの うちの ろくぎょうで)( "In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, …" ),6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています(ろく とおりの ちがう ひょうげんを もちいて じぶんは しあわせに しぬと いって います)( "… he says in six different ways that he is happy to die." ).だが,詩は矛盾に満ちています(だが,しは むじゅんに みちて います)( "But the poem is laden with contradiction." ).「生きて来て良かった」と云うなら,如何して喜んで死ねるのでしょうか?(「いきてきてよかった」というなら,どうして よろこんで しねる の でしょう か?)( "If “Glad did he live,” how could he gladly die? " ) 若し,死んで良かったと思うなら,如何して生きて来て良かったと思うのでしょうか?(もし,しんで よかったと おもう なら,どうして いきて きて よかったと おもう の でしょう か?)( "If he was so glad to die, how could he have been glad to live? " ) 彼が云う様に喜んで死ぬ為には(かれが いうように よろこんで しぬ ため には)( "To be as glad to die as he claims, …" ),彼は生きる意志を失ったか(かれは いきる いしを うしなった か),或いは其の意思を断念したに違い有りません(あるいは その いしを だんねん したに ちがい ありません)( "… he must have lost his will to live, or shut it down, …" ).其れを彼が出来たのは(それを かれが できた のは),自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在等を拒んだからで(じぶんの どうぶつ てきな し を こえた うんめい,いぎ,そんざい など を こばんだ からで)( "… which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, …" ),そうする事が出来たのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう(そう する ことが できた のは,じぶんが たん なる どうぶつ だと よそおった から でしょう)( "… and this he could only do by pretending to be no more than an animal." )(訳注3・1 ).だが,何の様な動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?(だが,どのような どうぶつが ゆうべんで かんどう てきな し を かく でしょうか?)( "But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching? " )

嗚呼,ロバート・ルイスよ,貴方は決して動物等では在りませんでした(ああ,ろばーと・るいすよ,あなたは けっして どうぶつ など では ありません でした)( "O Robert Louis, you knew you were not just an animal." ).貴方は多くの文学作品を書きました(あなたは おおくの ぶんがく さくひんを かきました)( "You took the trouble to write many literary works, …" ).其の中には,少年達を魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」が在ります(その なか には,しょうねん たちを みりょう した いのちと ぼうけんの ものがたり「たからじま」や ふはい と し の ものがたり「じきる はかせと はいど し」が あります)( "… including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, …" ) .そして貴方の作品は貴方を世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています(そして あなたの さくひんは あなたを せかい じゅうで にじゅうろく ばん め に おおく ほんやく されて いる さくしゃに して います)( "… and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world." )貴方の両親が長老派教会員で,19世紀半ば頃多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン(カルバン)派だったのは事実です(あなたの りょうしんが ちょうろうは きょうかい いん で,じゅうきゅう せいき なかば ごろ おおくの ぜんりょうな ひとびとを むしん ろんじゃに かえ させたがんこな かるびん〈かるばん〉 は だった のは じじつです)( "True, your parents were Scottish Presbyterians, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist." ).だが,貴方は如何して死を前に,其れ程控え目に自分を曝け出したのでしょうか?(だが,あなたは どうして し を まえに,それほど ひかえめに じぶんを さらけだした の でしょう か?)( "But how could you sell yourself so short at death? " )貴方は如何して死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?(あなたは どうして し は「いえ」へ かえる のと おなじ だと ふるまえた の でしょうか?)( "How could you pretend that death is “home”? " )

創造主は抑々人間という理性的な動物に動物的な死等設計されませんでした(そうぞうしゅは そもそも にんげん という りせい てきな どうぶつに どうぶつ てきな し など せっけい されません でした)( "The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. " ).アダムとイブ(=エワ・エバ)以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性若しくは道理を十分発揮して居たなら(あだむと えわ〈=いぶ〉 いこうの あらゆる にんげんが さだめ られた このよの いのちの きかん ちゅう,ごうり せい もしくは どうりを じゅうぶん はっき していた なら)( "Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, " ),避け難い動物的死では無く,理性の活用が当然もたらす(齎す)永遠の命に難無く滑り込めたでしょう(さけがたい どうぶつ てき し では なく,りせいの かつようが とうぜん もたらす えいえんの いのちに なん なく すべり こめた でしょう)( "then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. " ).だが,創造主の御意図はアダムが其れに背き(だが,そうぞうしゅの おんいと は あだむが それに そむき),最初の御父なる神との神秘的な結び付きに由り(さいしょの おんちち なる かみ との しんぴ てきな むすびつき に より),其の後の人類を原罪に引きずり込んだ為台無しに成って終いました(そのごの じんるいを げんざいに ひきずりこんだ ため だいなしに なって しまい ました)( "But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. " ).其の時の瞬間以来,矛盾があらゆる人間の本質と生命に付き物と成っています(そのときの しゅんかん いらい,むじゅんが あらゆる にんげんの ほんしつと せいめいに つきものと なって います)( "From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, " ).何故なら,神の造られた私達の本質はアダムの齎した堕落した本質と仲違いして居るからです(なぜなら,かみの つくられた わたくし たちの ほんしつは あだむの もたらした だらく した ほんしつと なか たがい して いる から です)( "because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. " ).私達の――偽物で無い――本当の「諸諸の不死の願望」(immortal longings)は神が神の為に造られた私達の本質に根差す物で在る( "Our true – not false – “imm ortal longings” come from our nature as made by God and for God, " )のに対し(わたくしたちの――にせもので ない――ほんとうの「もろもろの ふしの がんぼう」は かみが かみの ために つくられた わたくしたちの ほんしつに ねざす もの である のに たいし),私達の動物的死は堕落した私達の本質だけに取っての「家」(home)なのです(わたくしたちの どうぶつてき し は だらく した わたくしたちの ほんしつ だけに とっての「いえ」なのです)( "while our animal death is “home” only to our nature as fallen. " ).聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(せい ぱうろは「わたくしは ふこうな にんげんだ.だれが わたくしの にくたいに し を もたらす のだろうか?それは,わたくしの しゅ,いえずす・きりすと により もたらされる かみの おんちょう である」と さけんで います)(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節)( " “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.” " ).(訳注・5・1)

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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(訳注3・1 )
…自分が単なる動物だと装ったからでしょう
… this he could only do by pretending to be no more than an animal.
(=単なる動物を装った.単なる動物のふりをした.単なる動物として振る舞った)

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(訳注5・1 )
使徒聖パウロによるローマ人への書簡 (Rom.VII, 24–25)
24 私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
25主イエズス・キリストによって神に感謝せよ.
こうして私は理性によって神の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.

Douay-Rheims Version
24 Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death?
25 The grace of God, by Jesus Christ our Lord.
Therefore, I myself, with the mind serve the law of God; but with the flesh, the law of sin.

Epistola Ad Romanos, (Vulgatæ Editionis)
24 Infelix ego homo, quis me liberabit de corpore mortis huius?
25 Gratia Dei per Iesum Christum Dominum nostrum.
Igitur ego ipse mente servio legi Dei: carne autem, legi peccati.


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神が善良に造られた私たちの本質をアダムが台無しにしてしまいました.
神により善良になりたいと願う私たちの本質は,アダムがだめにします.
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.


Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.

This be the verse you ’grave for me:
Here he lies where he longed to be.
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

—R.L.Stevenson (1850–1894)


(大意)
広い星空の下に 墓を掘り
私をそこへ眠らせておくれ
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
そして,私は自らの意志でそこに横たわる

この碑文を私の墓に刻んでほしい
彼は望みどおりのところで眠る
船乗りは海から家へ帰る
そして,猟師は丘から家へ帰る

—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)


詩人の墓に刻まれたこの碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り,それが人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすものがあります.詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います.死は生と愛を神秘的に断ち切るものです.生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします.それは,まさしく物質より高度なものについて考えるのを避けるためです.だが,そのようなことをしても,神秘は残ります.
This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life. Commemorating life and love, poets often treat of death, which so mysteriously cuts off both. Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, precisely to avoid having to think about anything higher than matter. But the mystery remains . . .

理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です.彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で,6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています.だが,詩は矛盾に満ちています.「生きてきて良かった」というなら,どうして喜んで死ねるのでしょうか? もし,死んで良かったと思うなら,どうして生きてきて良かったと思うのでしょうか? 彼が言うように喜んで死ぬためには,彼は生きる意志を失ったか,あるいはその意思を断念したにちがいありません.それを彼ができたのは,自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在などを拒んだからで,そうすることができたのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう.だが,どのような動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?
In theory, Stevenson’s epitaph is brave. In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, he says in six different ways that he is happy to die. But the poem is laden with contradiction. If “Glad did he live,” how could he gladly die? If he was so glad to die, how could he have been glad to live? To be as glad to die as he claims, he must have lost his will to live, or shut it down, which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, and this he could only do by pretending to be no more than an animal. But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching?

ああ,ロバート・ルイスよ,あなたは決して動物などではありませんでした.あなたは多くの文学作品を書きました.その中には,少年たちを魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」があります.あなたの作品は,あなたを世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています.あなたの両親が長老派教会員で,19世紀半ばころ多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン派だったのは事実です.だが,あなたはどうして死を前に,それほど控えめに自分をさらけ出したのでしょうか? あなたはどうして死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?
O Robert Louis, you knew you were not just an animal. You took the trouble to write many literary works, including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world. True, your parents were Scottish Presbyterian s, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist. But how could you sell yourself so short at death? How could you pretend that death is “home”?

創造主はそもそも人間という理性的な動物に動物的な死など設計されませんでした.アダムとイブ以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性もしくは道理を十分発揮していたなら,避けがたい動物的死ではなく,理性の活用が当然もたらす永遠の命に難なく滑り込めたでしょう.だが,創造主の御意図はアダムがそれに背き,最初の御父との神秘的な結びつきにより,その後の人類を原罪に引きずり込んだため台無しになってしまいました。その時いらい、矛盾があらゆる人間の本質と生命につきものとなっています.なぜなら,神の造られた私たちの本質はアダムのもたらした堕落した本質と仲たがいしているからです.私たちの偽物でない本当の「もろもろの不死の願望」(immortal longings)は神が神のために造られた私たちの本質に根差すものであるのに対し,私たちの動物的死は堕落した私たちの本質だけにとっての「家」(home)なのです.聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節).
The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. Our true – not false – “immortal longings” come from our nature as made by God and for God, while our animal death is “home” only to our nature as fallen. “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.”

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡の引用)の続きを追って掲載いたします.








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本投稿記事・第392回エレイソン・コメンツ「矛盾する碑銘」 "CONTRADICTORY EPITAPH" ( 2015年1月17日付)は2015年8月14日23:40に掲載されました.
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2015年1月10日土曜日

391 大司教のコメント II 1/10

エレイソン・コメンツ 第391回 (2015年1月10日)

大司教が願ったのはローマが彼自身を認める事では無く,
(だいしきょうが ねがった のは ろーまが かれ じしんを みとめる こと では なく,)
( "The Archbishop wished Rome not himself to approve," )

ローマが教会の為に動く事でした.
(ろーまが きょうかいの ために うごく こと でした.)
( "Rather that Rome for the Church's good would move." )

ルフェーブル大司教が1991年に述べられたお言葉について(就いて・附いて・付いて)の考察(最後の2コメンツ〈= EC389, 390 〉参照)を終える前に(るふぇーぶる だいしきょうが せん きゅうひゃく きゅうじゅういち ねんに のべられた おことばに ついての こうさつ〈さいごの に こめんつ〈=えれいそん・こめんつ だい さんびゃく はちじゅう く かい,だい さんびゃく きゅうじゅっ かい〉さんしょう〉を おえる まえ に)( "Before leaving Archbishop Lefebvre's realistic remarks of 1991 (cf. the last two EC's), …" ),更に論評(=批評) "comment" を続けて見ましょう(さらにろんぴょう〈=ひひょう〉をつづけてみましょう)( "… let us comment further, …" ).カトリック教徒(=公教徒)達が真実・真理 "truth" の名の下に権威 "authority" を冷笑する事と,権威を維持する為に真実・真理を軽視する事との間のバランスを如何保つかに役立てばと願うからです(かとりっく きょうと〈=こう きょうと〉たちが しんじつ・しんりの なの もとに けんいを れいしょう する こと と,けんい を いじ する ために しんじつ・しんりを けいし する こと との あいだの ばらんすを どう たもつか に やくだてば と ねがう から です)( "…in the hope of helping Catholics to keep their balance between scorning authority in the name of truth and belittling truth for the sake of authority." ).と言う(云う・謂う)のも,第二バチカン公会議(1962-1965年)の聖職者たちが教会革命(宗教的自由 "religious liberty",同僚間の平等 "collegial equality",普遍的キリスト教諸宗派所属の信徒相互間における兄弟愛〈=同胞愛〉ecumenical fraternity(訳注・1-1)の為に権威を二の次にする(為る)様になって以来(と いう のも,だいに ばちかん こう かいぎ〈せん きゅうひゃく ろくじゅうに-せん きゅうひゃく ろくじゅうご ねん〉の せいしょく しゃ たちが きょうかい かくめい〈しゅうきょう てき じゆう・どうりょう かんの びょうどう,ふへん てき きりすと きょう しょしゅうは しょぞくの しんと そうご かんに おける きょうだいあい〈=どうほう あい〉〉の ために けんいを に の つぎ に する ように なって いらい)( "For ever since the churchmen of Vatican II (1962-1965) put their full authority behind the Church Revolution (religious liberty, collegial equality and ecumenical fraternity), …" ),カトリック教徒(=公教徒)達はバランス(=均衡)が取れなくなっている(=為って居る・成って居る)からです(かとりっく きょうと 〈=こうきょうと〉たちは ばらんす〈=きんこう〉が とれなく なって いる から です)( "Catholics have been thrown off balance: …" ).彼等は真の権威が真の真実・真理を踏み躙る時,真の権威と真の真実・真理の両方に如何敬意を払えば良いのか訝っています(かれらは まことの けんいが まことのしんじつ・しんりを ふみにじる とき,まことの けんいと まことの しんじつ・しんりの りょうほうに どう けいいを はらえば よいのか いぶかって います)( "… when Authority tramples upon Truth, how indeed is one to maintain one's respect for both ? " ).(訳注1・1 )

第二バチカン公会議後の苦悩の中で(だいに ばちかん こうかいぎ ご の くのうの なかで)( "Now in the tormented aftermath of Vatican II, …" ),ルフェーブル大司教が主に(彼だけとは言いませんが)(るふぇーぶる だいしきょうが おもに〈かれ だけ とは いい ません が〉)責任を持って来られたカトリック教教理,ミサ聖祭,諸秘蹟の維持に(せきにんを もって こられた かとりっく きょうり,みさ せいさい,しょ ひせきの いじに)匹敵するほどの成果をもたら(齎)した人が果たして居るでしょうか?(ひってき する ほどの せいかを もたらした ひとが はたして いる でしょうか?)( "… who can be said to have borne fruits comparable to that preservation of Catholic doctrine, Mass and sacraments for which the Archbishop was mainly (albeit not solely) responsible ? " )そうだとすれば(=左様だと為れば・然様だと為れば),大司教がもたらした(齎した)真の真実・真理と真の権威 ( "Truth and Authority" ) のバランスは特筆に値する物に違いあり(在り・有り)ません(そう だと すれば〈さよう だと すれば・さよう だと すれば〉,だいしきょうが もたらした まことの しんじつと まことの けんいの ばらんすは とくひつに あたい する ものに ちがい あり ません)( "In which case, the balance that he himself struck between Truth and Authority must be especially deserving of consideration." ).

最初に,権威 "authority" についてのルフェーブル大司教の見方について考えてみましょう(さいしょに けんいに ついての るふぇーぶる だいしきょうの みかたに ついて かんがえて みましょう)( "Firstly, let us consider a simple observation of the Archbishop on authority : …" ).彼は「最早過去のルールが無いのですから,私達が今見るのは権威の専制です」と述べられました(かれは「もはや かこの るーるが ない のです から,わたくし たちが いま みる のは けんいの せんせい です」とのべられました)“Now we have the tyranny of authority because there are no more rules from the past.” ).原罪を抱える世界中の諸諸の人間にとって,真実はそれを支える権威が必要です(げんざいを かかえる せかいじゅうの もろもろの にんげんに とって,しんじつは それを ささえる けんいが ひつよう です)( "Amongst human beings all with original sin, truth needs authority to back it, …" ).何故なら,真実は一度(ひとたび)市場に出されれば,現実を教えるのに必要な惨事が無くても,独りでに人気を得る物だから,と言う考えはジェファーソン流の勘違いだからです(なぜなら,しんじつは ひとたび しじょうに だされれば,げんじつを おしえる のに ひつような さんじが なくても,ひとりでに にんきを える もの だから,という かんがえは じぇふぁーそん りゅうの かんちがい だから です)( "… because it is a Jeffersonian illusion that truth thrown into the market-place will prevail all on its own without a disaster being necessary to teach reality." ).目的の為に諸諸の手段が在るように,権威は真実の為に在ります(もくてきの ために もろもろの しゅだんが ある ように,けんいは しんじつの ために あり ます)( "Authority is to truth as means to end, …" ).手段の為に目的が在るのでは有りません(しゅだんの ために もくてきが ある のでは ありません)( "… not end to means." ).私達を救うのは(地上の全地に遍く及ぶ唯一の)公の信仰(=カトリック信仰)であり(わたくし たちを すくう のは〈ちじょうの ぜんちに あまねく およぶ ゆいいつの〉おおやけの しんこう〈=かとりっくの しんこう〉であり)( "It is Catholic faith which saves, …" ),其の真の信仰( "that Faith" )は権威で無く諸諸の真実の中に宿る物です(その まことの しんこうは けんい でなく もろもろの しんじつの なかに やどる もの です)( "… and that Faith lies in a series of truths, not in authority." ).それらの諸真実はカトリック教権威の実態や目的そのものですから(それらの しょ しんじつは かとりっく きょう けんいの じったいや もくてき そのもの です から)( "Those truths are so much the substance and purpose of Catholic Authority that …" ),第二バチカン公会議がした様に,両者をばらばらにすれば(だいに ばちかん こうかいぎが した ように,りょうしゃ を ばらばらに すれば)( "… when it is cut loose from them, as by Vatican II, …" ),真実は切り離されてしまい(しんじつは きり はなされて しまい)( "then it is cut adrift,専制君主が其れを手にすれば自分の意のままに捻じ曲げてしまいます(せんせい くんしゅが それを てに すれば じぶんの いの ままに ねじまげて しまいます)( "… until the first tyrant to lay hands on it bends it to his will." ).公会議の後,当然の様に(教皇)パウロ6世の専制が続きました(こうかいぎの あと,とうぜんの ように〈きょうこう〉ぱうろ ろくせいの せんせいが つづき ました)( "The tyranny of Paul VI followed naturally on the Council, …" ).此れと同じ様に,聖ピオ十世会(SSPX)指導部は最近数年間,公会議推進派の承認を求める為専制君主の様に振る舞って来ました(これと おなじ ように,せい ぴお じゅっせい かい〈えす えす ぴー えくす〉しどうぶは さいきん すうねん かん,こうかいぎ すいしんは の しょうにんを もとめる ため せんせい くんしゅの ように ふるまって きました)( "… just as by pursuing approval from the champions of the same Council, the leadership of the Society of St Pius X has likewise behaved itself tyranically in recent years." ).真実を守る事で自らの権威を伝統の上に築き上げたルフェーブル大司教の遣り方と彼等の行動を対比して見て下さい(しんじつを まもる ことで みずからの けんいを でんとうの うえに きずき あげた るふぇーぶる だいしきょうの やりかたと かれらの こうどうを たいひ して みて ください)( "Contrast how the Archbishop built up his authority over Tradition by serving the truth." ) .

更なるコメントに値するルフェーブル大司教の1991年の2つ目の発言は(さらなる こめんとに あたい する るふぇーぶる だいしきょうの せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんの ふたつめの はつげんは)( "A second remark of his from 1991 deserving of further comment is …" )「私は自分が為すべきより踏み込み過ぎたと思う」と言う物です.此れは大司教が自ら出した1988年5月5日の協定議定書に基づきローマ教皇庁との合意に達しようと試みた時に述べた言葉です「わたくしは じぶんが なす べき より ふみこみ すぎたと おもう」と いう もの です.これは だいしきょうが みずから だした せん きゅうひゃく はちじゅう はちねん ごがつ いつかの きょうてい ぎていしょに もとづき ろーま きょうこう ちょう との ごういに たっしようと こころみた ときに のべた ことば です.)( "… where he said that when in 1988 he tried to reach an agreement with Rome by means of his Protocol of May 5, “I think I can say that I went even further than I should have.” " ).事実,同議定書は幾つかの重要な問題点について批判を浴びました.従って,大司教は自分が一時的にバランスを失い,伝統派の真実に反してローマ教皇庁の権威に従おうと傾いた事を認めたのです(じじつ,どう ぎていしょは いくつかの じゅうような もんだい てんに ついて ひはんを あび ました.したがって,だいしきょうは じぶんが いちじ てきに ばらんすを うしない,でんとうはの しんじつに はんして ろーま きょうこう ちょうの けんいに したがおうと かたむいた ことを みとめた のです)( "Indeed that Protocol lays itself open to criticism on important points, so here is the Archbishop himself admitting that he momentarily lost his balance, tilting briefly in favour of Rome's authority and against Tradition's truth. " ).だが,大司教の考えが傾いたのはほんの僅かな間だけでした(だが,だいしきょうの かんがえが かたむいた のは ほんの わずかな あいだ だけ でした)( "But he tilted only briefly, …" ).広く知られて居る事ですが,彼は翌日に議定書を撤回しました(ひろく しられて いる こと ですが,かれは よくじつに ぎていしょを てっかい しました)( "… because as is well-known, on the very next morning he repudiated the Protocol, …" ).そして彼が再び迷う事は彼の死まで決して有りませんでした(そして かれが ふたたび まよう ことは かれの し まで けっして ありません でした).( "… and he never again wavered until his death, …" )其の時以来,大司教は(教会)権威者と合意に達する為全力を尽くさなかったとか,真の真実・真理と真の権威( "Truth and Authority" )との間のバランスを常に正しく取るのは簡単な事だ,等と誰も言えなくなりました(その とき いらい,だいしきょうは〈きょうかい〉けんいしゃと ごういに たっする ため ぜんりょくを つくさなかった とか,まことの しんじつ・しんりと まことの けんい との あいだの ばらんすを つねに ただしく とるのは かんたんな ことだ,などと だれも いえなく なりました)( "… so that from then on nobody could say either that he had not done all he could to reach agreement with Authority, or that it is an easy thing to get the balance always right between Truth and Authority." ).

大司教の三つ目の発言は,彼が1975年から1988年にかけてローマ教皇庁当局との間に何らかの合意を取り付けようとした時の動機を明らかにしておられます(だいしきょうの みっつめの はつげんは,かれが せん きゅうひゃく ななじゅう ごねん から せん きゅうひゃく はちじゅう はち ねんに かけて ろーま きょうこう ちょう とうきょく との あいだに なんらかの ごういを とりつけよう とした ときの どうきを あきらかに して おられ ます)( "A third remark throws light on his motivation in seeking from 1975 to 1988 some agreement with Roman Authority. " ).聖ピオ十世会上層部にいる大司教の後継者達は其れを自分達なりに解釈し,大司教が常に求めたのは教会規範の秩序立てで有るかの様に言います(せいぴお じゅっせい かい じょうそうぶに いる だいしきょうの こうけいしゃ たちは それを じぶん たち なりに かいしゃくし,だいしきょうが つねに もとめた のは きょうかい きはんの ちつじょ だて である かの ように いいます)( "Judging his motives by their own, his successors at the head of the SSPX talk as though he was always seeking its canonical regularisation." ).だが,大司教は議定書についての説明の中で「私は最後の瞬間までローマ教皇庁に僅かなりとも忠誠心が見られるのではないかと期待した」と述べておられます(だが,だいしきょうは ぎていしょに ついての せつめいの なかで「わたくしは さいごの しゅんかん まで ろーま きょうこうちょうに わずか なりとも ちゅうせい しんが みられる のでは ないかと きたいした」とのべて おられます)( "But he explained the Protocol as follows: “I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty.” " ).言い換えれば,大司教は常に真の信仰the Faithの善を求められたのであり,真の真理・真実( "the Truth" )以外の如何なる物の為にも決して権威を尊重する事は有りませんでした(いい かえれば,だいしきょうは つねに まことの しんこうの ぜんを もとめられた のであり,まことの しんり・しんじつ いがいの いかなる ものの ため にも けっして けんいを そんちょう する ことは ありません でした)( "In other words he was always pursuing the good of the Faith, and he never honoured Authority for anything other than for the sake of the Truth." ).同じ事が果たして彼の後継者達についても言えるでしょうか?(おなじ ことが はたして かれの こうけいしゃ たちに ついても いえる でしょうか?)( "Can as much be said for his successors ? " )

キリエ・エレイソン
(主よ憐れみ給え). 
(きりえ・えれいそん〈しゅよあわれみたまえ〉)
( "Kyrie eleison." )


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大司教が願ったのはローマが彼自身を認めることではなく,
ローマが教会のために動くことでした. 
The Archbishop wished Rome not himself to approve,
Rather that Rome for the Church's good would move.

 ルフェーブル大司教が1991年に述べられた言葉についての考察 (cf. the last two EC's)(最後の2コメンツ〈= EC389, 390 〉参照)を終える前に,さらにコメントを続けてみましょう.カトリック教徒たちが真実・真理の名の下に権威を冷笑することと,権威を維持するために真実・真理を軽視することとの間のバランスをどう保つかに役立てばと願うからです.というのも,第二バチカン公会議(1962-1965年)の聖職者たちが教会革命(宗教的自由 religious liberty,同僚間の平等 collegial equality,普遍的キリスト教諸宗派所属の信徒相互間における兄弟愛〈=同胞愛〉ecumenical fraternity)のために権威を二の次にするようになっていらい,カトリック教徒たちはバランスが取れなくなっているからです.彼らは権威が真実=真理を踏みにじるとき,権威と真実・真理の両方にどう敬意を払えばいいのかいぶかっています.
Before leaving Archbishop Lefebvre's realistic remarks of 1991 (cf. the last two EC's), let us comment further, in the hope of helping Catholics to keep their balance between scorning authority in the name of truth and belittling truth for the sake of authority. For ever since the churchmen of Vatican II (1962-1965) put their full authority behind the Church Revolution (religious liberty, collegial equality and ecumenical fraternity), Catholics have been thrown off balance: when Authority tramples upon Truth, how indeed is one to maintain one's respect for both ?

第二バチカン公会議後の苦悩の中で,ルフェーブル大司教が主に(彼だけとは言いませんが)責任を持ってこられたカトリック教教理,ミサ聖祭,諸秘蹟の維持に匹敵するほどの成果をもたらした人がはたしているでしょうか?そうだとすれば,大司教がもたらした真実と権力のバランスは特筆に値するものに違いありません.
Now in the tormented aftermath of Vatican II, who can be said to have borne fruits comparable to that preservation of Catholic doctrine, Mass and sacraments for which the Archbishop was mainly (albeit not solely) responsible ? In which case, the balance that he himself struck between Truth and Authority must be especially deserving of consideration.

最初に,権威についてのルフェーブル大司教の見方について考えてみましょう.彼は「もはや過去の諸諸のルールがないのですから,私たちが今見るのは権威の専制です」と述べられました.原罪を抱える人間にとって,真実はそれを支える権威が必要です.なぜなら,真実はひとたび市場に出されれば,現実を教えるのに必要な惨事がなくても,ひとりでに人気を得るものだから,という考えはジェファーソン流の勘違いだからです.目的のために手段があるように,権威は真実のためにあります.手段のために目的があるのではありません.私たちを救うのはカトリック信仰であり,その信仰は権威でなく諸々の真実の中に宿るものです.真実はカトリック教権威の実態や目的そのものですから,第二バチカン公会議がしたように,両者をばらばらにすれば,真実は切り離されてしまい,専制君主がそれを手にすれば自分の意のままに捻じ曲げてしまいます.公会議の後,当然のように教皇パウロ6世の専制が続きました.これと同じように,聖ピオ十世会(SSPX)指導部は最近数年間,公会議推進派の承認を求めるため専制君主のように振る舞ってきました.真実を守ることで自らの権威を伝統の上に築き上げたルフェーブル大司教のやり方と彼らの行動を対比してみてください.
Firstly, let us consider a simple observation of the Archbishop on authority : “Now we have the tyranny of authority because there are no more rules from the past.” Amongst human beings all with original sin, truth needs authority to back it, because it is a Jeffersonian illusion that truth thrown into the market-place will prevail all on its own without a disaster being necessary to teach reality. Authority is to truth as means to end, not end to means. It is Catholic faith which saves, and that Faith lies in a series of truths, not in authority. Those truths are so much the substance and purpose of Catholic Authority that when it is cut loose from them, as by Vatican II, then it is cut adrift until the first tyrant to lay hands on it bends it to his will. The tyranny of Paul VI followed naturally on the Council, just as by pursuing approval from the champions of the same Council, the leadership of the Society of St Pius X has likewise behaved itself tyranically in recent years. Contrast how the Archbishop built up his authority over Tradition by serving the truth. 

さらなるコメントに値するルフェーブル大司教の1991年の2つ目の発言は「私は自分が為すべきより踏み込み過ぎたと思う」というものです.これは大司教が自ら出した1988年5月5日の協定議定書に基づきローマ教皇庁との合意に達しようと試みたときに述べられた言葉です.事実,同議定書はいくつかの重要な問題点について批判を浴びました.したがって,大司教は自分が一時的にバランスを失い,伝統派の真実に反してローマ教皇庁の権威に従おうと傾いたことを認めたのです.だが,大司教の考えが傾いたのはほんのわずかな間だけでした.広く知られていることですが,彼は翌日に議定書を撤回しました.そして彼が再び迷うことは彼の死まで決してありませんでした.そのとき以来,大司教は権威者と合意に達するため全力を尽くさなかったとか,真の真実・真理と真の権威( "Truth and Authority" )との間のバランスを常に正しく取るのは簡単な事だ,などと誰も言えなくなりました.
A second remark of his from 1991 deserving of further comment is where he said that when in 1988 he tried to reach an agreement with Rome by means of his Protocol of May 5, “I think I can say that I went even further than I should have.” Indeed that Protocol lays itself open to criticism on important points, so here is the Archbishop himself admitting that he momentarily lost his balance, tilting briefly in favour of Rome's authority and against Tradition's truth. But he tilted only briefly, because as is well-known, on the very next morning he repudiated the Protocol, and he never again wavered until his death, so that from then on nobody could say either that he had not done all he could to reach agreement with Authority, or that it is an easy thing to get the balance always right between Truth and Authority.

大司教の三つ目の発言は,彼が1975年から1988年にかけてローマ教皇庁当局との間に何らかの合意を取りつけようとしたときの動機を明らかにしています.聖ピオ十世会上層部にいる大司教の後継者たちはそれを自分たちなりに解釈し,大司教が常に求めたのは教会規範の秩序立てであるかのように言います.だが,大司教は議定書についての説明の中で「私は最後の瞬間までローマ教皇庁にわずかなりとも忠誠心が見られるのではないかと期待した」と述べておられます.言い換えれば,大司教は常に信仰の善を求められたのであり,真実以外のいかなるもののためにも決して権威を尊重することはなさいませんでした.同じことがはたして彼の後継者たちについても言えるでしょうか?
A third remark throws light on his motivation in seeking from 1975 to 1988 some agreement with Roman Authority. Judging his motives by their own, his successors at the head of the SSPX talk as though he was always seeking its canonical regularisation. But he explained the Protocol as follows: “I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty.” In other words he was always pursuing the good of the Faith, and he never honoured Authority for anything other than for the sake of the Truth. Can as much be said for his successors ? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.



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訳注を追って掲載いたします.

・真の自由・真の平等・真の兄弟愛とは

・真の権威・真の真理 Authority & Truth

→真実・真理は,権威の手段ではなく,権威の目的である.

→権威は真実・真理に基づかない限り,権力 (power) の実行者の恣意により限りなく捻じ曲げられて行く.

→真実・真理は永遠不変の客観的な事実に立脚するものであり,気まぐれに変化する人間の恣意を退ける.

→客観的な真理に立脚した真の権威に沿って生きることを選ばない人間は,自滅する.

→客観的事実は変遷して行くのではない.
変遷して行く人間の主観を優先する人は,自滅を招いている.

→時の流れは客観的存在で,すべてを黙って見ている.
生涯を善意と憐れみの心を持って遂げる人は,永遠に幸せである.

→権力者の勝利は儚(はかな)い.




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本投稿記事・第391回エレイソン・コメンツ「大司教のコメント II 」 "ARCHBISHOP COMMENTED – II" ( 2015年1月10日付)は2015年7月26日23:40に掲載されました.
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2015年1月3日土曜日

390 大司教のコメント I 1/3

エレイソン・コメンツ 第390回 (2015年1月3日)

客観から外れた心は,悪の一途を辿ります
 (きゃっかん から はずれた こころは, あくの いっとを たどり ます.)
  ( "Unhooked from the object, minds go very bad. " )
教会も 聖ピオ十世会( =SSPX)も 共に狂っています
 (きょうかいも せい ぴお じゅっせい かいも ともに くるって います.)
  ( "Church and Society have both gone mad. " )

今日の教会当局者に取って,「確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません.全てが進化しているのです.」(こんにちの きょうかい とうきょく しゃ に とって,「かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにもなく,きょうぎも ありません.すべてが しんか している のです.」)( "For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” " )これは(此れは・是は・惟は)ルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお(御)言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照下さい)(これは るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん-せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉が せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに のべられた おことば です〈せんしゅうの えれいそん・こめんつを さんしょう ください〉)( "So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). " ).大司教はその(其の)生涯の終わりに近づいた時期,ご(御)自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで(其れ迄)以上にはっきりと悟りました(だいしきょうは その しょうがいの おわりに ちかづいた じき,ごじぶんが しんこう ようごの ために なにと たたかって きたかを,それまで いじょうに はっきりと さとりました)( "For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith." ).大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は(だいしきょうの しご まもなく せいぴお じゅっせい かいを とうしゅう した りべらる は〈=じゆう しゅぎ は〉〈みずから りべらるはと じか くしていなかった かも しれませんが〉は)( "Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, …" ),それ(其れ)以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま(儘・侭)今日に至っています(それ いらい,だいしきょうが めいかくに した もんだいの じゅうだい せいを りかい しない まま こんにちに いたって います)( "… have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. " ).従って,私は新年に当たり(当り)(したがって,わたくしは しんねんに あたり)( "Therefore let these “Comments” open the New Year …" ),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるか(有るか)をもう一度明確に提起してみたい(見たい)と思います(えれいそん・こめんつを とおして こんにちの きょうかいと せかいが かかえる ちめいしょうが なんで あるかを もう いちど めいかくに ていき して みたいと おもいます)( "… by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world." ).

〔問答 § 1 邦訳/英語原文〕(もんどう だい いっ こう ほうやく/えいご げんぶん)
今日の教会当局者にとって,「確固とした真実(=真理)は何もなく,教義も有りません.全てが進化しているのです.」これはルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照ください).大司教はその生涯の終わりに近づいた時期,ご自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで以上にはっきりと悟りました.大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は,それ以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま今日に至っています.従って,私は新年に当たり(当り),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるかをもう一度明確に提起してみたいと思います.

For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith. Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. Therefore let these “Comments” open the New Year by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world.

イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに(有りの儘〈侭〉に)知る事は出来ないと言う全く間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立した時(いまぬえる・かんとが,にんげんの こころは きゃっかんを ありの ままに しる ことは できない という まったく まちがった かんがえかたに もとづいて にんげんに よる かみの げんじつ きょひを てつがく てきに かくりつ した とき),( "When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, …" ),世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし(撒き散らし)始めました(せかいじゅうの だいがくの てつがくぶが きょうきを まちじゅうに まきちらし はじめ ました)( "… then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, …" ).人々は自由を自分達の神としたい(為たい)と望み,カントが彼等に最高の解放,すなわち(即ち)客観からの心の解放を与えたからです(ひとびとは じゆうを じぶんたちの かみと したいと のぞみ,かんとが かれらに さいこうの かいほう,すなわち きゃっかん からの こころの かいほうを あたえた から です)( "… because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object." ).

〔問答 § 2 邦訳/英語原文〕(もんどう だい に こう ほうやく/えいご げんぶん)
イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに知ることはできないというまったく間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立したとき,世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし始めました.人々は自由を自分たちの神としたいと望み,カントが彼らに最高の解放,すなわち客観からの心の解放を与えたからです.

When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object.

カントの幻想にまだ(未だ)毒されていないカトリック信徒は(かんとの げんそうに まだ どくされて いないかとりっく しんとは),神と神の天国が自分達の小さな心の外に独立した物として存在しており(かみと かみの てんごくが じぶんたちの ちいさな こころの そとに どくりつ した もの として そんざい しており)( "Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, …" ),従って自分達が永遠に幸福で在りたいと願うなら(したがって じぶんたちが えいえんに こうふくで ありたいと ねがう なら),心は主観的な幻想でなく客観的現実と係わって(=関わって)行くべきである事を知っています(こころは しゅかん てきな げんそう でなく きゃっかん てき げんじつと かかわって いくべき である ことを しって います)( "… and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. " ).そのため(其の為),一世紀半の間,神が御与えになった歴代の反リベラル派教皇達は自由主義世界がこれ以上狂い続けない様にしようと立ち上がり(そのため,いっせいき はん の あいだ,かみが おあたえに なった れきだいの はん りべらるは きょうこう たちは じゆうしゅぎ せかいが これ いじょう くるい つづけ ない ように しようと たちあがり)( "Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, …" ),教会を一流で人気を得た主観主義に影響されない様守って(=保護して)来ました(きょうかいを いちりゅうで にんきを えた しゅかん しゅぎに えいきょう されない よう まもって〈=ほごして〉きました)( "… and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism." ).しかし(然し),1950年代になると,教会の枢機卿や司教達の祈りは(しかし,せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだいに なると,きょうかいの すうききょう や しきょう たちの いのりは,),信徒達の心( "their minds and hearts" )を教会内部で「モダニズム(近・現代主義)」として知られる様になった狂気から守り続ける程十分に強くなくなってしまい(終い・仕舞い)ました(しんと たちの こころを きょうかい ないぶで「もだにずむ〈きん・げんだい しゅぎ〉」として しられる ように なった きょうき から まもり つづける ほど じゅうぶんに つよく なくなって しまい ました)( "But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, …" ).その為,1958年のコンクラーベ( "the conclave of 1958" )で彼等は自らの意思で「善良」と目された教皇ヨハネ23世を選出しました(そのため,せん きゅうひゃく ごじゅうはち ねんの こんくらーべで かれらは みずからの いしで「ぜんりょう」と もくされた きょうこう よはね にじゅうさん せいを せんしゅつ しました)( "… and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, …" ).彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうか〈如何か〉は神のみぞ知るですが)(かれは りべらるは で〈みずから そう にんしき していた かどうかは かみ のみぞ しる ですが〉),1962年にまさしく(正しく)あの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました(せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねんに まさしく あの はめつ てきな だいに ばちかん こうかいぎを たちあげ ました)( "… a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council. " ).

〔問答 § 3 邦訳/英語原文〕(もんどう だい さん こう ほうやく/えいご げんぶん)
カントの幻想にまだ毒されていないカトリック信徒は,神と神の天国が自分たちの小さな心の外に独立したものとして存在しており,したがって自分達が永遠に幸福でありたいと願うなら,心は主観的な幻想でなく客観的現実とかかわって行くべきであることを知っています.そのため,一世紀半のあいだ,神がお与えになった歴代の反リベラル派教皇たちは自由主義世界がこれ以上狂い続けないようにしようと立ち上がり,教会を一流で人気を得た主観主義に影響されないよう守ってきました.しかし,1950年代になると,教会の枢機卿や司教たちの祈りは,信徒たちの心を教会内部で「モダニズム」として知られるようになった狂気から守り続けるほど十分に強くなくなってしまいました.そのため,1958年のコンクラーベで彼らは自らの意思で「善良」と目されたヨハネ23世を教皇に選出しました.彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうかは神のみぞ知るですが),1962年にまさしくあの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました.

Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism. But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council.

第二バチカン公会議がなぜ(何故)破滅的だったのでしょうか?(だいに ばちかん こうかいぎが なぜ はめつ てき だった のでしょうか?)( "Why disastrous ? " )それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって(依って)非難される代わりに(それは,しゅかん しゅぎの きょうき〈きゃっかん てき げんじつの きょぜつ〉が きょうかいの さいこう けんりょく しゃに よって ひなん される かわりに),容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが)(ようにんされ〈いと てき か いと てき でないか かみ のみぞ しる ですが〉),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです(きょうかいの きょうり,こうどうの せいしきな きばんに されて しまった から です)( "Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action." ).これ以上深刻な問題は有りません(これ いじょう しんこくな もんだいは ありません)( "The problem could not be graver." ).救済という神の諸諸の客観的真実(=客観的真理)を守るべく任命された神の真の教会の当局者達が(きゅうさい という かみの もろもろの きゃっかん てき しんじつ〈=きゃっかん てき しんり〉を まもる べく にんめい された かみの まことの きょうかいの とうきょくしゃ たちが)( "The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, …" ),この時以降,自らの主観的な心を通してその真実(=真理)をろ過(濾過)する様になったからです(このとき いこう,みずからの しゅかん てきな こころ を とおして その しんじつ〈=しんり〉を ろか する ように なった から です)( "… were henceforth filtering these through their subjectivist minds." ).最良の葡萄酒(ワイン)を蓄えるのに,如何わしいボトル(=洋酒用瓶)しか持てなくなった状態を想像してみて下さい(さいりょうの ぶどうしゅ〈わいん〉を たくわえる のに,いかがわしい ぼとる (ようしゅ よう びん) しか もてなく なった じょうたいを そうぞう してみて ください)( "Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine." ).これでは破滅の一途を辿るだけです(これ では はめつの いっとを たどる だけ です)( "It can only be ruined." ).今日の公会議派教会当局者達は神の真実(=真理)を破滅させるだけです(こんにちの こうかいぎは きょうかい とうきょくしゃ たちは かみの しんじつ〈=しんり〉を はめつ させる だけ です)( "Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth." ).

〔問答 § 4 邦訳/英語原文〕(だい よん こう ほうやく/えいご げんぶん)
第二バチカン公会議がなぜ破滅的だったのでしょうか?それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって非難される代わりに,容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです.これ以上深刻な問題はありません.救済という神の客観的真実を守るべく任命された神の真の教会の当局者たちが,このとき以降,自らの主観的な心を通してその真実をろ過するようになったからです.最良のワインを蓄えるのに,いかがわしいボトルしか持てなくなった状態を想像してみてください.これでは破滅の一途をたどるだけです.今日の公会議派教会当局者たちは神の真実を破滅させるだけです.
Why disastrous ? Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action. The problem could not be graver. The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, were henceforth filtering these through their subjectivist minds. Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine. It can only be ruined. Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth.

1991年に(せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに)ルフェーブル大司教が以下の様に述べられたのは,正しくこの為です.(るふぇーぶる だいしきょうが いかの ように のべられた のは,まさしく このためです)( "Here is why the Archbishop said in 1991, …" ).「私達は私達と異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の諸諸の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています(わたくし たちは わたくし たちと ことなる てつがくを もち,ことなる ものの みかたを し,きんだいの もろもろの しゅかん てき てつがく しゃに えいきょう されて いる(きょうかい とっぷ の)ひとびとを あいてに して います)( " “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers." ).彼等に取って,確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません(かれらに とって,かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにも なく,きょうぎも あり ません).全てが進化していると言うのです(すべてが しんか して いると いう のです).これは正しく信仰のフリーメーソン的破壊です(これは まさしく しんこうの ふりーめーそん てき はかい です).幸いな事に,私達(伝統派)には頼るべき(真の)伝統が有ります(さいわいな ことに わたくし たち〈でんとうは〉には たよる べき〈まことの〉でんとうが あります).」

〔問答 § 5 邦訳/英語原文〕(だい ご こう ほうやく/えいご げんぶん)
1991年にルフェーブル大司教が以下のように述べられたのは,まさしくこのためです.「私たちは私たちと異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています彼らにとって,確固とした真実はなにもなく,教義もありません.すべてが進化しているというのですこれはまさしく信仰のフリーメーソン的破壊です幸いなことに,私たち(伝統派)には頼るべき(真の)伝統があります.」

Here is why the Archbishop said in 1991, “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers. For them, there is no fixed truth, no fixed dogma. Everything is evolving. This is really the Masonic destruction of the Faith. Fortunately we (Traditionalists) have Tradition to lean on.”

だが,真の伝統を導いてくれる(呉れる)大司教が亡き今,その真の伝統に何が起きているでしょうか?(だが,まことの でんとうを みちびいて くれる だいしきょうが なき いま,その まことの でんとうに なにが おきて いる でしょうか?)( "But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? " )悲しい哉(悲しいかな),40年の間客観的信仰擁護の先頭に立って来た聖ピオ十世会(= SSPX )トップの権力者達は(かなしいかな,よんじゅう ねんの あいだ きゃっかん てき しんこう ようごの せんとうに たって きた せい ぴお じゅっせい かい とっぷの けんりょく しゃ たちは)( "Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, …" ),自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません(みずからの こころが しゅかん しゅぎに おかされる のを ふせぐに じゅうぶんな ほど しんけんに いのりを ささげて いません)( "… cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism." ).彼等もまた(又・復・亦)客観的真実(=真理)の最重要性を見失っており(かれらも また きゃっかん てき しんじつ〈=しんり〉の さい じゅうよう せいを みうしなって おり)( "They too have lost the primacy of objective truth, …" ),漁師にもてあそ(弄)ばれる魚の様にローマ人達によって(依って・因って)弄ばれています(りょうしに もてあそ ばれる うおの ように ろーま じん たちに よって もてあそ ばれて います)( "… and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman." ).ルフェーブル大司教,どうぞ私達の為にお祈り下さい!(るふぇーぶる だい しきょう,どうぞ わたくし たちの ために おいのり ください!)( "Archbishop Lefebvre, pray for us ! " )

〔問答 § 6 邦訳/英語原文〕(だい ろっこう ほうやく/えいご げんぶん)
だが,伝統を導いてくれる大司教が亡きいま,伝統に何が起きているでしょうか? 悲しいかな,40年のあいだ客観的信仰擁護の先頭に立ってきたSSPXトップの権力者たちは,自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません.彼らもまた客観的真実の最重要性を見失っており,漁師にもてあそばれる魚のようにローマ人たちによってもてあそばれています.ルフェーブル大司教,どうぞ私たちのためにお祈りください!

But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism. They too have lost the primacy of objective truth, and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman. Archbishop Lefebvre, pray for us !

キリエ・エレイソン(きりえ・えれいそん)
(主よ憐れみ給え)(しゅよ あわれみ たまえ)
( "Kyrie eleison." ).

リチャード・ウィリアムソン司教
(りちゃーど・うぃりあむそん しきょう)





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(注:本投稿記事〈第390回エレイソン・コメンツ「大司教のコメント I "ARCHBISHOP COMMENTED – I" 」( 2015年1月3日付)は2015年6月5日14:40に掲載されました.)