2015年1月17日土曜日

392 矛盾する碑銘 1/17

エレイソン・コメンツ 第392回 (2015年1月17日)

神が善良に造られた私達の本質を
アダムが台無しにしてしまいました.
(かみが ぜんりょうに つくられた
 わたくしたちの ほんしつを
 あだむが だいなしに して しまい ました.)

神により(由り) 善良に成りたいと願う
私達の本質は,
アダムが駄目にします.
(かみに より
ぜんりょうに なりたいと ねがう
わたくし たちの ほんしつは,
あだむが だめに します.)

Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.


広い星空の下に
(ひろい ほしぞらの したに)
Under the wide and starry sky

墓を掘り私をそこへ眠らせておくれ
(はかを ほり
わたくしを そこへ ねむらせて おくれ)
Dig the grave and let me lie

私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
(わたくしは いきてきて
よかったと おもい,
よろこんで しぬ)
Glad did I live and gladly die,

そして,私は自らの意志でそこに横たわる
(そして,わたくしは
みずからの いしで そこに よこたわる)
And I laid me down with a will.


この碑文を私の墓に刻んでほしい
(この ひぶんを
わたくしの はかに きざんで ほしい)
This be the verse you ’grave for me:

彼は望みどおりのところで眠る
(かれは のぞみ どおりの ところで ねむる)
Here he lies where he longed to be.

船乗りは海から家へ帰る
(ふなのりは うみ から いえへ かえる)
Home is the sailor, home from sea

そして,猟師は丘から家へ帰る
(そして,りょうしは おか から いえへ かえる)
And the hunter home from the hill

—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
—R.L.Stevenson (1850–1894)


詩人の墓に刻まれたこの(此の)碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り(しじんの はかに きざまれた この ひぶんは かんけつ ながら,その しんじょうを ゆうべんに かたり)( "This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, …" ),それ(其れ)が人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすもの(物)があり(在り・有り)ます(それが じんせいで さけられない し に ふれて いる だけに,ひとの こころを うごかす ものが あります)( "… and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life." ).詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います(しじん たちは せいと あいを しのんで し を さくひんの てーま として あつかい ます)( "Commemorating life and love, poets often treat of death, …" ).死は生と愛を神秘的に断ち切るものです(し は せい と あい を しんぴ てきに たち きる もの です)( "… which so mysteriously cuts off both." ).生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者達は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします(せいや しの いみを かんがえる ことを のぞまない あわれな ゆいぶつ しゅぎ しゃ たち は し を ぶんだん して,かのう なら それを さんぶん として ぷりんと しよう と します)( "Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, …" ).それは,正しく物質より高度な物について考えるのを避ける為です(それは まさしく ぶっしつ より こうどな もの について かんがえる のを さける ため です)( "… precisely to avoid having to think about anything higher than matter." ).だが,其の様な事をしても,神秘は残ります(だが,そのような ことを しても,しんぴは のこり ます)...( "But the mystery remains . . ." )

理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です(りろん てき には, すちーぶんそんの ひめいは ゆうかん です)( "In theory, Stevenson’s epitaph is brave." ).彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で(かれは かくせつの おわりの さんぎょう,つまり はっせつの うちの ろくぎょうで)( "In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, …" ),6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています(ろく とおりの ちがう ひょうげんを もちいて じぶんは しあわせに しぬと いって います)( "… he says in six different ways that he is happy to die." ).だが,詩は矛盾に満ちています(だが,しは むじゅんに みちて います)( "But the poem is laden with contradiction." ).「生きて来て良かった」と云うなら,如何して喜んで死ねるのでしょうか?(「いきてきてよかった」というなら,どうして よろこんで しねる の でしょう か?)( "If “Glad did he live,” how could he gladly die? " ) 若し,死んで良かったと思うなら,如何して生きて来て良かったと思うのでしょうか?(もし,しんで よかったと おもう なら,どうして いきて きて よかったと おもう の でしょう か?)( "If he was so glad to die, how could he have been glad to live? " ) 彼が云う様に喜んで死ぬ為には(かれが いうように よろこんで しぬ ため には)( "To be as glad to die as he claims, …" ),彼は生きる意志を失ったか(かれは いきる いしを うしなった か),或いは其の意思を断念したに違い有りません(あるいは その いしを だんねん したに ちがい ありません)( "… he must have lost his will to live, or shut it down, …" ).其れを彼が出来たのは(それを かれが できた のは),自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在等を拒んだからで(じぶんの どうぶつ てきな し を こえた うんめい,いぎ,そんざい など を こばんだ からで)( "… which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, …" ),そうする事が出来たのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう(そう する ことが できた のは,じぶんが たん なる どうぶつ だと よそおった から でしょう)( "… and this he could only do by pretending to be no more than an animal." )(訳注3・1 ).だが,何の様な動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?(だが,どのような どうぶつが ゆうべんで かんどう てきな し を かく でしょうか?)( "But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching? " )

嗚呼,ロバート・ルイスよ,貴方は決して動物等では在りませんでした(ああ,ろばーと・るいすよ,あなたは けっして どうぶつ など では ありません でした)( "O Robert Louis, you knew you were not just an animal." ).貴方は多くの文学作品を書きました(あなたは おおくの ぶんがく さくひんを かきました)( "You took the trouble to write many literary works, …" ).其の中には,少年達を魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」が在ります(その なか には,しょうねん たちを みりょう した いのちと ぼうけんの ものがたり「たからじま」や ふはい と し の ものがたり「じきる はかせと はいど し」が あります)( "… including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, …" ) .そして貴方の作品は貴方を世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています(そして あなたの さくひんは あなたを せかい じゅうで にじゅうろく ばん め に おおく ほんやく されて いる さくしゃに して います)( "… and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world." )貴方の両親が長老派教会員で,19世紀半ば頃多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン(カルバン)派だったのは事実です(あなたの りょうしんが ちょうろうは きょうかい いん で,じゅうきゅう せいき なかば ごろ おおくの ぜんりょうな ひとびとを むしん ろんじゃに かえ させたがんこな かるびん〈かるばん〉 は だった のは じじつです)( "True, your parents were Scottish Presbyterians, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist." ).だが,貴方は如何して死を前に,其れ程控え目に自分を曝け出したのでしょうか?(だが,あなたは どうして し を まえに,それほど ひかえめに じぶんを さらけだした の でしょう か?)( "But how could you sell yourself so short at death? " )貴方は如何して死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?(あなたは どうして し は「いえ」へ かえる のと おなじ だと ふるまえた の でしょうか?)( "How could you pretend that death is “home”? " )

創造主は抑々人間という理性的な動物に動物的な死等設計されませんでした(そうぞうしゅは そもそも にんげん という りせい てきな どうぶつに どうぶつ てきな し など せっけい されません でした)( "The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. " ).アダムとイブ(=エワ・エバ)以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性若しくは道理を十分発揮して居たなら(あだむと えわ〈=いぶ〉 いこうの あらゆる にんげんが さだめ られた このよの いのちの きかん ちゅう,ごうり せい もしくは どうりを じゅうぶん はっき していた なら)( "Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, " ),避け難い動物的死では無く,理性の活用が当然もたらす(齎す)永遠の命に難無く滑り込めたでしょう(さけがたい どうぶつ てき し では なく,りせいの かつようが とうぜん もたらす えいえんの いのちに なん なく すべり こめた でしょう)( "then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. " ).だが,創造主の御意図はアダムが其れに背き(だが,そうぞうしゅの おんいと は あだむが それに そむき),最初の御父なる神との神秘的な結び付きに由り(さいしょの おんちち なる かみ との しんぴ てきな むすびつき に より),其の後の人類を原罪に引きずり込んだ為台無しに成って終いました(そのごの じんるいを げんざいに ひきずりこんだ ため だいなしに なって しまい ました)( "But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. " ).其の時の瞬間以来,矛盾があらゆる人間の本質と生命に付き物と成っています(そのときの しゅんかん いらい,むじゅんが あらゆる にんげんの ほんしつと せいめいに つきものと なって います)( "From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, " ).何故なら,神の造られた私達の本質はアダムの齎した堕落した本質と仲違いして居るからです(なぜなら,かみの つくられた わたくし たちの ほんしつは あだむの もたらした だらく した ほんしつと なか たがい して いる から です)( "because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. " ).私達の――偽物で無い――本当の「諸諸の不死の願望」(immortal longings)は神が神の為に造られた私達の本質に根差す物で在る( "Our true – not false – “imm ortal longings” come from our nature as made by God and for God, " )のに対し(わたくしたちの――にせもので ない――ほんとうの「もろもろの ふしの がんぼう」は かみが かみの ために つくられた わたくしたちの ほんしつに ねざす もの である のに たいし),私達の動物的死は堕落した私達の本質だけに取っての「家」(home)なのです(わたくしたちの どうぶつてき し は だらく した わたくしたちの ほんしつ だけに とっての「いえ」なのです)( "while our animal death is “home” only to our nature as fallen. " ).聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(せい ぱうろは「わたくしは ふこうな にんげんだ.だれが わたくしの にくたいに し を もたらす のだろうか?それは,わたくしの しゅ,いえずす・きりすと により もたらされる かみの おんちょう である」と さけんで います)(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節)( " “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.” " ).(訳注・5・1)

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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(訳注3・1 )
…自分が単なる動物だと装ったからでしょう
… this he could only do by pretending to be no more than an animal.
(=単なる動物を装った.単なる動物のふりをした.単なる動物として振る舞った)

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(訳注5・1 )
使徒聖パウロによるローマ人への書簡 (Rom.VII, 24–25)
24 私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
25主イエズス・キリストによって神に感謝せよ.
こうして私は理性によって神の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.

Douay-Rheims Version
24 Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death?
25 The grace of God, by Jesus Christ our Lord.
Therefore, I myself, with the mind serve the law of God; but with the flesh, the law of sin.

Epistola Ad Romanos, (Vulgatæ Editionis)
24 Infelix ego homo, quis me liberabit de corpore mortis huius?
25 Gratia Dei per Iesum Christum Dominum nostrum.
Igitur ego ipse mente servio legi Dei: carne autem, legi peccati.


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神が善良に造られた私たちの本質をアダムが台無しにしてしまいました.
神により善良になりたいと願う私たちの本質は,アダムがだめにします.
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.


Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.

This be the verse you ’grave for me:
Here he lies where he longed to be.
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

—R.L.Stevenson (1850–1894)


(大意)
広い星空の下に 墓を掘り
私をそこへ眠らせておくれ
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
そして,私は自らの意志でそこに横たわる

この碑文を私の墓に刻んでほしい
彼は望みどおりのところで眠る
船乗りは海から家へ帰る
そして,猟師は丘から家へ帰る

—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)


詩人の墓に刻まれたこの碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り,それが人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすものがあります.詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います.死は生と愛を神秘的に断ち切るものです.生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします.それは,まさしく物質より高度なものについて考えるのを避けるためです.だが,そのようなことをしても,神秘は残ります.
This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life. Commemorating life and love, poets often treat of death, which so mysteriously cuts off both. Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, precisely to avoid having to think about anything higher than matter. But the mystery remains . . .

理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です.彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で,6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています.だが,詩は矛盾に満ちています.「生きてきて良かった」というなら,どうして喜んで死ねるのでしょうか? もし,死んで良かったと思うなら,どうして生きてきて良かったと思うのでしょうか? 彼が言うように喜んで死ぬためには,彼は生きる意志を失ったか,あるいはその意思を断念したにちがいありません.それを彼ができたのは,自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在などを拒んだからで,そうすることができたのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう.だが,どのような動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?
In theory, Stevenson’s epitaph is brave. In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, he says in six different ways that he is happy to die. But the poem is laden with contradiction. If “Glad did he live,” how could he gladly die? If he was so glad to die, how could he have been glad to live? To be as glad to die as he claims, he must have lost his will to live, or shut it down, which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, and this he could only do by pretending to be no more than an animal. But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching?

ああ,ロバート・ルイスよ,あなたは決して動物などではありませんでした.あなたは多くの文学作品を書きました.その中には,少年たちを魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」があります.あなたの作品は,あなたを世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています.あなたの両親が長老派教会員で,19世紀半ばころ多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン派だったのは事実です.だが,あなたはどうして死を前に,それほど控えめに自分をさらけ出したのでしょうか? あなたはどうして死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?
O Robert Louis, you knew you were not just an animal. You took the trouble to write many literary works, including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world. True, your parents were Scottish Presbyterian s, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist. But how could you sell yourself so short at death? How could you pretend that death is “home”?

創造主はそもそも人間という理性的な動物に動物的な死など設計されませんでした.アダムとイブ以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性もしくは道理を十分発揮していたなら,避けがたい動物的死ではなく,理性の活用が当然もたらす永遠の命に難なく滑り込めたでしょう.だが,創造主の御意図はアダムがそれに背き,最初の御父との神秘的な結びつきにより,その後の人類を原罪に引きずり込んだため台無しになってしまいました。その時いらい、矛盾があらゆる人間の本質と生命につきものとなっています.なぜなら,神の造られた私たちの本質はアダムのもたらした堕落した本質と仲たがいしているからです.私たちの偽物でない本当の「もろもろの不死の願望」(immortal longings)は神が神のために造られた私たちの本質に根差すものであるのに対し,私たちの動物的死は堕落した私たちの本質だけにとっての「家」(home)なのです.聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節).
The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. Our true – not false – “immortal longings” come from our nature as made by God and for God, while our animal death is “home” only to our nature as fallen. “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.”

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡の引用)の続きを追って掲載いたします.








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本投稿記事・第392回エレイソン・コメンツ「矛盾する碑銘」 "CONTRADICTORY EPITAPH" ( 2015年1月17日付)は2015年8月14日23:40に掲載されました.
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