エレイソン・コメンツ 第275回 (2012年10月20日)
しばらく前,私はエレイソン・コメンツの中で,現代の邪悪さゆえに公的な信仰の砦(とりで)が過去のものとなってしまいかねない事態に備え家庭を固めるよう読者にアドバイスしました.これに対し数名の読者から,どうすれば家庭を固めることができるかと質問が寄せられました( "When a while back these “Comments” advised readers to fortify their homes in case public bastions of the Faith might, due to the wickedness of the times, prove to be a thing of the past, a few readers wrote in to ask just how homes might be fortified." ).事実これまでのエレイソン・コメンツでは,とりわけ聖母マリアのロザリオを含め家庭を守るための各種の精神的,物質的手段を示してきましたが,私が家庭を守るとすればテレビの代わりに用いるだろうと思われるひとつの防護手段に触(ふ)れ忘れてきました.それは毎晩,マリア・ヴァルトルタ( "Maria Valtorta" )の「神と人なるキリストの詩(うた)」( "Poem of the Man-God" )から数節を選び出し子供たちに声を出して読んであげることです( "In fact various spiritual and material means of defending home and family have been suggested in previous numbers of the “Comments”, notably of course the Holy Rosary, but one fortification has gone unmentioned which I think I would try in place of television if I had a family to defend: reading aloud each night to the children selected chapters from Maria Valtorta’s Poem of the Man-God." ).この本は英語版で5巻に収められています.その終わりまで読み上げたら初めからもう一度読み直し,子供たちが成長して家庭を離れるまで続けるのです!( "And when we had reached the end of the five volumes in English, I imagine us starting again from the beginning, and so on, until all the children had left home ! " )(訳注後記)
もっとも,この本については多数の雄弁な敵対者がいます( "Yet the Poem has many and eloquent enemies." ).本は私たちの主イエズス・キリストと聖母マリアの生涯(しょうがい)から抜(ぬ)き出した諸々のエピソードで構成されています.著者マリア・ヴァルトルタは若いころ背中に受けた傷のため病床に釘づけとなったまま生涯(しょうがい)を過ごしてきた,ある身体のご不自由な熟年の未婚女性ですが,彼女が第二次大戦中にイタリア北部で受けた,天からの啓示と信じられる諸々の幻(まぼろし)の中でみられるように,聖マリアの無原罪(むげんざい)の御宿(おんやど)りから聖母の天国への被昇天(ひしょうてん)に至(いた)るまでの様子を描(えが)いています( "It consists of episodes from the lives of Our Lord and Our Lady, from her immaculate conception through to her assumption into Heaven, as seen in visions received, believably from Heaven, during the Second World War in northern Italy by Maria Valtorta, an unmarried woman of mature age lying in a sick-bed, permanently crippled from an injury to her back inflicted several years earlier." )(訳注後記).本書のイタリア語版(全十巻で数千ページにおよぶ)にある注釈は彼女が悪魔に欺(あざむ)かれることをいかに恐れたかが示しており,多くの人々は実際のところ彼女が本当に神からの啓示を受けてこの詩を書いたのかどうかいぶかっています.主に3点の異論が出ていますが,その内容は以下の通りです( "Notes included in the Italian edition (running to several thousand pages in ten volumes) show how afraid she was of being deceived by the Devil, and many people are not in fact convinced that the Poem truly came from God. Let us look at three main objections." ).
第一点は,この詩(うた)(訳注・原語 "the Poem ". 本書 "Poem of the Man-God" 「神と人なるキリストの詩」のこと)が1950年代カトリック教会が信者に対し読むことを禁じた著作のリストに入っているという事実です.これはローマ教皇庁が1960年代にネオモダニスト( "neo-modernist" )に変身する以前のことです.糾弾(きゅうだん)の理由はこの詩が福音に述べられている出来事を美化し感傷的に描いているためということでした ( "Firstly, the Poem was put on the Church’s Index of forbidden books in the 1950’s, which was before Rome went neo-modernist in the 1960’s. The reason given for the condemnation was the romanticizing and sentimentalizing of the Gospel events." ). 第二点はこの詩に教理上の誤りが無数あるとの批判です( "Secondly the Poem is accused of countless doctrinal errors." ). 第三点として,ルフェーブル大司教( "Archibishop Lefebvre" )はかつてこの詩が私たちの主の日常生活について物理的な詳細をあまりにも多く描きだしているため主を物質的過ぎるように見せてしまい,私たちを四つの福音書の精神的レベルよりはるか下へ落としたと異議を唱えました( "Thirdly Archbishop Lefebvre objected to the Poem that its giving so many physical details of Our Lord’s daily life makes him too material, and brings us too far down from the spiritual level of the four Gospels." ).
しかし,第一点について言えば,もしモダニストたちが1950年代にローマ教皇庁内部ですでに十分足場を固めていなかったとすれば,どうして1960年代に教皇庁を乗っ取ることができたでしょうか?( "But firstly, how could the modernists have taken over Rome in the 1960’s, as they did, had they not already been well established within Rome in the 1950’s ? " ) この詩「神と人なるキリストの詩」は福音書(たとえばヨハネ聖福音書:第11章35節などを参照)と同じように感傷にあふれていますが,その度合いは常にその目的に釣(つ)り合っています.私の考えでは,良識ある判事ならだれしもこの詩を感傷的で美化しすぎだとは見ないだろうとおもいます( "The Poem, like the Gospels (e.g. Jn.XI, 35, etc.), is full of sentiment but always proportional to its object. The Poem is for any sane judge, in my opinion, neither sentimental nor romanticized." ). 第2点のいくつもの教理上の誤りについて言えば,ひとつひとつ取り上げると説明が難しいものなど含まれていません.現にこの詩のイタリア語版の注釈では,有能な神学者がそのことを実践しています( "Secondly, the seeming doctrinal errors are not difficult to explain, one by one, as is done by a competent theologian in the notes to be found in the Italian edition of the Poem." ).そして第3点について,私はルフェーブル大司教に十分な敬意を表した上で,現代人は四福音書の真実を再び信じるためには物理的詳細(しょうさい)を必要とするのではないかとあえて申し上げます.たとえて言うなら,あまりにも高い「精神性」( "spirituality" )が私たちの主を二階へ祭り上げてしまい,映画やテレビが一階に住む現代人の現実感を牛耳(ぎゅうじ)ってしまっているのではないでしょうか?( "And thirdly, with all due respect to Archbishop Lefebvre, I would argue that modern man needs the material detail for him to believe again in the reality of the Gospels. Has not too much “spirituality” kicked Our Lord upstairs, so to speak, while cinema and television have taken over modern man’s sense of reality on the ground floor ? " ) 私たちの主が本当の人間であり本当の神であったように,「神と人なるキリストの詩」はいかなる瞬間にも常に完全に精神的であると同時に完全に物質的です( "As Our Lord was true man and true God, so the Poem is at every moment both fully spiritual and fully material." ).
電子的でない方法でこの本を家庭で読むことから,読む親と聴く子供たちのあいだの肌身の接触のほかに多くの恩恵が生まれると私には想像できます( "From non-electronic reading of the Poem in the home, I can imagine many benefits, besides the real live contact between parents reading and children listening." ). 子供たちはスポンジが水を吸うように自分たちの身の回りから多くのことを学びます.子供たちの年齢に応じて,この本のなかから適当な個所を選び出し読み聞かせることで,彼らが私たちの主や聖母マリアについてどれだけ多くのことを学ぶか私には容易に想像できます( "Children soak in from their surroundings like sponges soak in water. From the reading of chapters of the Poem selected according to the children’s age, I can imagine almost no end to how much they could learn about Our Lord and Our Lady." ). 子供たちは親にあれこれ質問をするでしょう! そして,親はそれに答えをあたえなければならないでしょう!( "And the questions they would ask ! And the answers that the parents would have to come up with ! " ) 私は「神と人なるキリストの詩」が家庭を固めるのに大いに役立つと信じます( "I do believe the Poem could greatly fortify a home." ).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
「神と人なるキリストの詩(うた)」 "Poem of the Man-God"
マリア・ヴァルトルタ "Maria Valtorta" 著
(フェデリコ・バルバロ神父による邦訳)
"IL POEMA DELL’UOMO-DIO" SCRITTI DI MARIA VALTORTA (イタリア語〈原語〉)
"THE POEM OF THE MAN-GOD" (英訳)
"the Man-God" = 「人となられた神」=「人〈聖母マリア〉の子でありかつ神の御子」すなわち「イエズス・キリスト」を指す.
* * *
訳注を追加いたします.
* * *
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2012年10月21日日曜日
2011年5月23日月曜日
ふたつの後悔
エレイソン・コメンツ 第201回 (2011年5月21日)
数か月前, 「エレイソン・コメンツ」 の一読者から私に神殿の権威者たちの足下に銀貨三十枚を投げ捨てたイスカリオトのユダの後悔 (マテオ27・3) と雄鶏(おんどり)の鳴き声を聞き号泣(ごうきゅう)したペトロの後悔 (マテオ26・75) との間にどのような違いがあるのかとの質問が寄せられました.彼の質問はマリア・ヴァルトルタ (1897-1961年) の作品 「人となられた神の詩(人-神の詩)」 (訳注・直訳.英原文 “The Poem of the Man-God by Maria Valtorta (1897-1961) ” )から数ページを引用する格好の口実となります.この作品の中で,私たちの主イエズス・キリストは (それが本当にキリストかどうかについては - 「不確かな事についての判断は,自由に」 = “In things uncertain, liberty” ということにします) 彼女に授けたユダ・イスカリオトの死に際の数時間のヴィジョン(幻影)ついて次のように話しておられます.詩はイタリア語で書かれており,原文を多少変えてあります:--
(訳注後記)
「確かに,その幻影はぞっとするほど恐ろしいものであるが,無益ではない.多くの人々はユダのしたことをそれほど深刻なこととは考えていない.ユダがいなければ贖罪(しょくざい)は成されなかったのだから彼の裏切り行為は称賛に値(あたい)するもので,彼は神の目から見れば正当化されると極言(きょくげん)する人さえいる.実際には私はあなたに,あらゆる苦痛の備(そな)わった地獄がまだその時存在していなかったとしたら,ユダのため死後の永遠の世界にもっと恐ろしい地獄が造り出されていただろうと告げよう.なぜなら,ユダは地獄に落とされ永遠にのろわれた罪人たちの中でも最ものろわれた者だからであり,彼に与えられた罰は永遠に軽減されることはないからである.
確かにユダは自分が裏切り行為をしたことについて自責の念を示した.そして,もし彼がその自責の念を後悔に変えていたなら彼は救われただろう.だが彼は悔い改めようとしなかった.彼が犯した裏切りという最初の罪だけなら,私は人の弱さを愛するがゆえ彼に憐(あわ)れみをかけただろう.だが彼は裏切りの罪に加えて,自分が最期(さいご)にエルサレム中を絶望的に駆(か)け回りながら,私の母とその優しいみ言葉に触れたことも含めて,それまで私と過ごしてきた日々の生活に残された私についての一つ一つの形跡や記憶が彼に(訳注・彼の心に)嘆願して訴えた恩寵へのどの衝動も,みなことごとく冒涜(ぼうとく)しはねのけ続けた.彼はあらゆるものに反抗した.彼は反抗することを望んだのだ.ちょうど彼が私を裏切ることを望んだように.また私を冒涜することを望んだように.そして自ら命を断つことを望んだように.人は自分の意思を固めた場合それに固執するものだ - 良きにつけ悪しきにつけである.
私は本意に反して堕落した人は赦す.ペトロの場合を見なさい.彼は私との関わりを否認した.なぜだろうか? 彼はなぜなのか自分でもわからなかった.彼は臆病だったのだろうか? そうではない.私のペトロは臆病ではなかった.彼はゲッセマニの園で神殿護衛団すべてを向こうに回し私を守るためにマルコス(訳注・大司祭の下男)の耳を切り落とした.そのことで自分が殺される危険があったにもかかわらずにである.彼はそのあとで逃亡した.そうする固い意志もなしにである.その後,彼は私との関わりを三度否認したのだが,その時も,固い意思のないままそうしたのである.彼は余生の間,血にまみれた十字架の道,すなわち私の道にとどまり続けることに成功し,自身十字架の上で死んだ.彼はそのひるむことのない断固とした信仰心のために殺されるまで私の証人として立つことに立派に成功した.私は私のペトロを擁護(ようご)する.彼が逃亡したこと,私との関わりを何度か否認したことは,彼の人間的な弱さの最後の瞬間に起きたことだった.彼のより高い気質に基づく固い意志はそうした行為の背後にはなかった.自身の人間的な弱さに負け高潔な気質は眠っていたのだ.それが眠りから覚めるやいなや,もはや罪にとどまり続けたいと望まず,完全になりたいと求めた.私はすぐさまペトロを赦した.ユダの意志は逆方向で固かったのだ…」
「人となられた神の詩(人-神の詩)」の終りの部分で,私たちの主イエズス・キリストは(もしそれが彼だとすれば - 私は彼だと信じています)彼の人生についてこれほど長期間にわたる数々のヴィジョン(幻影)を現代に伝えることをマリア・ヴァルトルタに許した七つの理由を告げています.第一番目の理由はモダニズム(現代主義)により荒廃し破壊されてしまったカトリック教会の基本的な教義を再び人々の心に現実のものとしてよみがえらせるためでした.これは妥当な理由だと思えないでしょうか? 七番目の理由は - 「ユダの謎(なぞ)」について明らかにするため,すなわち神からあれほど高い天分を授けられた霊魂がどうしてこのように堕落してしまうのかを教えるためでした.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
① “The Poem of the Man-God” について:
・原文・題 Original title: Il poema dell’Uomo-Dio (イタリア・1956-1992)
(邦題:「神と人なるキリストの詩(うた)」〈フェデリコ・バルバロ神父:訳〉)
・新原題:L’Evangelo come mi è stato rivelato (1993- )
(新邦題:「私に啓示された福音」〈吉向キエ:訳〉)
・ “the Man-God” は,この世で唯一人,神の御子であられると同時に人の子(聖母マリアの御子)でもあられる私たち人類の主イエズス・キリストを指す.
・キリストはマリア・ヴァルトルタにお現れになり,彼女にさまざまなヴィジョン(幻影)をお示しになり,それらのヴィジョンやそれについて彼女に語られたキリストの御ことばを彼女に記述するよう仰せになった.
・ウェブサイト 「エレイソン・コメンツ・アーカイブ」 に記載されている 「エレイソン・コメンツ 第108回 『プライドは命取り』 」でも,この作品について取り上げられている.
* * *
② 「不確かな事についての判断は,自由に」= “In things uncertain, liberty” について:
・ラテン語の句の一部から引用されている.
・句の全文は “In necessariis unitas, in dubiis libertas, in omnibus caritas” .
・英訳文 : “In things necessary, unity; in things uncertain, liberty; in all things, charity.”
* * *
③ ユダの後悔(マテオ聖福音・27章3節)と,ペトロの後悔(同・26章75節)について引用されている聖書の箇所:
新約聖書・引用個所は太字で表示.(第26章57節-27章10節を記載)
(〈注〉今回のこの箇所は,この少し前の部分(「エレイソン・コメンツ第196回」の第2パラグラフの訳注(聖書の引用箇所:①マテオ聖福音書第26章36-56節)から続く部分です.)
(衆議所に引かれる)(26・57-68)
*¹人々はイエズスを捕らえ,律法学士と長老たちの集まっている大司祭カヤファの家に引いて行った.遠く離れてその後をつけ大司祭の庭に来たペトロは,成り行きを見ようとして中に入り,下男たちとともに座っていた.
司祭長と全議員はイエズスを死刑にする偽りの証言を求めていた.多くの偽証人が来たけれども,これという証拠は上がらなかった.その後二人の男が来て,「彼は〈*²私は神殿を壊して三日で建て直せる〉と言いました」と言った.大司祭は立ち上って,「一言も答えないのか.この者たちが示している証拠はどうだ」と尋ねたが,イエズスは黙して語らなかった.
大司祭はまた,「私は生きる神によってあなたに命じる,答えよ,あなたは神の子キリストなのか」と聞いた.*³するとイエズスは「そのとおりである.私は言う,人の子(イエズスのこと)が全能なるものの右に座り,天の雲に乗り来るのをあなたたちは見るであろう」と言われた.
そのとき大司祭は自分の服を裂き,「この男は*⁴冒涜(ぼうとく)を吐いた.どうしてこれ以上証人がいろう.みなも今冒涜のことばを聞いた.どうだ」と言うと,彼らは「この男は死に値する」と答えた.そして彼らはイエズスの顔につばをかけ,こぶしで打ち,平手でたたき,「キリストよ,当ててみろ,おまえを打ったのはだれだ」と言った.
(ペトロが否む)(26・69-75)
さて,外の庭に座っていたペトロのもとに,下女が一人近寄ってきて,「あなたもあのガリラヤのイエズスと一緒にいた人ですね」と言った.ペトロはみなの前でそれを否(いな)み,「何のことを言っているのかわからぬ」と答えた.そして門を出て行くともう一人の下女が見とがめて,そこにいた人々に「この人も*⁵ナザレ人のイエズスとともにいた人ですよ」と言った.ペトロはふたたびそれを否み,「私はそんな人を知らぬ」と誓って答えた.しばらくしてそこにいた人々が近づき,「いや,あなたは確かに彼らの一人だ,*⁶方言でわかる」と言った.ペトロは「私はそんな人を知らぬ」とはっきり否み,のろい始めた.おりしも雄鶏が鳴いた.
ペトロは「雄鶏の鳴く前にあなたは三度私を否む」と言われたイエズスのことばを思い出し,戸外に出て激しく泣いた(26章75節).
(注釈)
(衆議所に引かれる)
*¹ルカとヨハネを見てわかるように,夜中にイエズスがアンナ(カヤファの義父)の前に引かれたことと,朝になって衆議所の集まりがあったこととは区別して考えてよい.マテオとマルコは,夜のその出来事を朝の尋問と一緒に記している.
*²イエズスのこのことばは三日後に死からよみがえるべき自分の体を指していた(ヨハネ聖福音2章19-22節).
*³イエズスの生涯において,もっとも悲劇的な時である.公生活中に言ったことを,いまユダヤの最高審判者の前で荘重(そうちょう)に宣言する,私は神の子でありと.旧約聖書・詩篇110篇1節,ダニエルの書7章13節を暗示する.
*⁴この冒涜(ぼうとく)とは,イエズスがメシアと名のったことではなく,みずから神と称したところにある.
(ペトロが否む)
*⁵あるギリシア写本とブルガタ訳とには「ナザレトの」とある.
*⁶ガリラヤ人は喉音を出すことができなかった.
・・(参考)・・
ルカによる聖福音書の「ペトロの否認」についての記述(ルカ・22章60節):
『ペトロは,「いえ,私にはあなたの言うことが分かりません」と答えた.そう言い終えぬうちにすぐ雄鶏が鳴いた.主はふり向いて*ペトロを見つめられた.そのときペトロは,主が「今日,雄鶏が鳴く前にあなたは三度私を否むだろう」と言われたことばを思い出し,外に出て激しく泣いた.』
(注釈)*深い悲しみに沈むイエズスの目が,慈悲をたたえて,自分を否んだペトロの方に向けられた.ペトロの改心を待つイエズスである.
(ピラトの前に)(27・1-14)
*¹夜明けになると,イエズスを殺そうと協議した司祭長と民の長老たちは,*²イエズスを縛って総督ピラトのもとに引き立てていった.そのころ裏切り者のユダはイエズスへの判決を聞いて後悔し,司祭長と長老たちにあの三十枚の銀貨を返し(27章3節),「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」と言った.それがどうした,われわれにはかかわりがない,おまえ自身のことだ」と答えた.ユダはその銀貨を神殿に投げ捨てて去り,みずから首をくくって死んだ.
司祭長らはその銀貨を取り,「これは血の値だから神殿の倉には納められぬ」と言い,相談した後その金で陶器造りの畑を買い,旅人の墓地にあてた.その畑は今も*³血の畑と呼ばれている.ここにおいて預言者エレミアの預言は実現した,「*⁴彼らは,値をつけられたもの,つまりイスラエルの子らが値をつけた銀貨三十枚を取り,陶器造りの畑を買った,*⁵主が私に命じられたように」.
(注釈)
(ピラトの前に)
*¹律法では,夜中に裁判し,宣告することを禁じていた.律法の遵守(じゅんしゅ)を見せびらかすために,もう一度簡単に裁判し直すと同時に,ピラト総督への出方を相談した.
*²ヘブライ人には,死刑を宣告し,処刑する権限がなかった(ヨハネ聖福音18章31節).それで総督に自分らの宣告の是認と執行権を頼んだ.
*³アラマイ語で「ハケルダマ」(使徒行録1章19節).おそらく確実だろうと思われる古い伝承によると,ここはゲヘナの谷にあった.
*⁴(9-10節)このことばはエレミア(18章2,3節,32章6-15節)とザカリア(11章13節)を合わせたもののようである.
*⁵ヤベ(主なる神を指す)は,預言者ザカリアを通じて,ユダヤ人の資金が少ないと嘆いて言う.同じわずかな金でイエズスが裏切られたことに,マテオは預言の実現を見た.
***
(注)*³ の「ゲヘナ」について.
“Gehinnon(ヘブライ語), Gehenna(ギリシア語由来のラテン語)”.
ヘブライ語で「ベン・ヒンノム(息子)の谷」の意.ユダとベニヤミンの地の境界の一つで,エルサレムの南にある谷.王国時代に異教の神バールに子供たちを燔祭として捧げた場所(旧約聖書・列王の書下23章,エレミアの書7章).預言者エレミアは,この祭儀を繰返し非難し,この谷は虐殺の谷と呼ばれる日がくると預言した(エレミアの書・19章).比喩(ゆ)的に死後罪人が罰を受ける場所「地獄」(=「第二の死」)の名で呼ばれる.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)
(新約聖書上の根拠)
参考までに地獄と天国について,新約聖書「ヨハネの黙示録」からの引用を後から追加します.
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数か月前, 「エレイソン・コメンツ」 の一読者から私に神殿の権威者たちの足下に銀貨三十枚を投げ捨てたイスカリオトのユダの後悔 (マテオ27・3) と雄鶏(おんどり)の鳴き声を聞き号泣(ごうきゅう)したペトロの後悔 (マテオ26・75) との間にどのような違いがあるのかとの質問が寄せられました.彼の質問はマリア・ヴァルトルタ (1897-1961年) の作品 「人となられた神の詩(人-神の詩)」 (訳注・直訳.英原文 “The Poem of the Man-God by Maria Valtorta (1897-1961) ” )から数ページを引用する格好の口実となります.この作品の中で,私たちの主イエズス・キリストは (それが本当にキリストかどうかについては - 「不確かな事についての判断は,自由に」 = “In things uncertain, liberty” ということにします) 彼女に授けたユダ・イスカリオトの死に際の数時間のヴィジョン(幻影)ついて次のように話しておられます.詩はイタリア語で書かれており,原文を多少変えてあります:--
(訳注後記)
「確かに,その幻影はぞっとするほど恐ろしいものであるが,無益ではない.多くの人々はユダのしたことをそれほど深刻なこととは考えていない.ユダがいなければ贖罪(しょくざい)は成されなかったのだから彼の裏切り行為は称賛に値(あたい)するもので,彼は神の目から見れば正当化されると極言(きょくげん)する人さえいる.実際には私はあなたに,あらゆる苦痛の備(そな)わった地獄がまだその時存在していなかったとしたら,ユダのため死後の永遠の世界にもっと恐ろしい地獄が造り出されていただろうと告げよう.なぜなら,ユダは地獄に落とされ永遠にのろわれた罪人たちの中でも最ものろわれた者だからであり,彼に与えられた罰は永遠に軽減されることはないからである.
確かにユダは自分が裏切り行為をしたことについて自責の念を示した.そして,もし彼がその自責の念を後悔に変えていたなら彼は救われただろう.だが彼は悔い改めようとしなかった.彼が犯した裏切りという最初の罪だけなら,私は人の弱さを愛するがゆえ彼に憐(あわ)れみをかけただろう.だが彼は裏切りの罪に加えて,自分が最期(さいご)にエルサレム中を絶望的に駆(か)け回りながら,私の母とその優しいみ言葉に触れたことも含めて,それまで私と過ごしてきた日々の生活に残された私についての一つ一つの形跡や記憶が彼に(訳注・彼の心に)嘆願して訴えた恩寵へのどの衝動も,みなことごとく冒涜(ぼうとく)しはねのけ続けた.彼はあらゆるものに反抗した.彼は反抗することを望んだのだ.ちょうど彼が私を裏切ることを望んだように.また私を冒涜することを望んだように.そして自ら命を断つことを望んだように.人は自分の意思を固めた場合それに固執するものだ - 良きにつけ悪しきにつけである.
私は本意に反して堕落した人は赦す.ペトロの場合を見なさい.彼は私との関わりを否認した.なぜだろうか? 彼はなぜなのか自分でもわからなかった.彼は臆病だったのだろうか? そうではない.私のペトロは臆病ではなかった.彼はゲッセマニの園で神殿護衛団すべてを向こうに回し私を守るためにマルコス(訳注・大司祭の下男)の耳を切り落とした.そのことで自分が殺される危険があったにもかかわらずにである.彼はそのあとで逃亡した.そうする固い意志もなしにである.その後,彼は私との関わりを三度否認したのだが,その時も,固い意思のないままそうしたのである.彼は余生の間,血にまみれた十字架の道,すなわち私の道にとどまり続けることに成功し,自身十字架の上で死んだ.彼はそのひるむことのない断固とした信仰心のために殺されるまで私の証人として立つことに立派に成功した.私は私のペトロを擁護(ようご)する.彼が逃亡したこと,私との関わりを何度か否認したことは,彼の人間的な弱さの最後の瞬間に起きたことだった.彼のより高い気質に基づく固い意志はそうした行為の背後にはなかった.自身の人間的な弱さに負け高潔な気質は眠っていたのだ.それが眠りから覚めるやいなや,もはや罪にとどまり続けたいと望まず,完全になりたいと求めた.私はすぐさまペトロを赦した.ユダの意志は逆方向で固かったのだ…」
「人となられた神の詩(人-神の詩)」の終りの部分で,私たちの主イエズス・キリストは(もしそれが彼だとすれば - 私は彼だと信じています)彼の人生についてこれほど長期間にわたる数々のヴィジョン(幻影)を現代に伝えることをマリア・ヴァルトルタに許した七つの理由を告げています.第一番目の理由はモダニズム(現代主義)により荒廃し破壊されてしまったカトリック教会の基本的な教義を再び人々の心に現実のものとしてよみがえらせるためでした.これは妥当な理由だと思えないでしょうか? 七番目の理由は - 「ユダの謎(なぞ)」について明らかにするため,すなわち神からあれほど高い天分を授けられた霊魂がどうしてこのように堕落してしまうのかを教えるためでした.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第1パラグラフの訳注:
① “The Poem of the Man-God” について:
・原文・題 Original title: Il poema dell’Uomo-Dio (イタリア・1956-1992)
(邦題:「神と人なるキリストの詩(うた)」〈フェデリコ・バルバロ神父:訳〉)
・新原題:L’Evangelo come mi è stato rivelato (1993- )
(新邦題:「私に啓示された福音」〈吉向キエ:訳〉)
・ “the Man-God” は,この世で唯一人,神の御子であられると同時に人の子(聖母マリアの御子)でもあられる私たち人類の主イエズス・キリストを指す.
・キリストはマリア・ヴァルトルタにお現れになり,彼女にさまざまなヴィジョン(幻影)をお示しになり,それらのヴィジョンやそれについて彼女に語られたキリストの御ことばを彼女に記述するよう仰せになった.
・ウェブサイト 「エレイソン・コメンツ・アーカイブ」 に記載されている 「エレイソン・コメンツ 第108回 『プライドは命取り』 」でも,この作品について取り上げられている.
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② 「不確かな事についての判断は,自由に」= “In things uncertain, liberty” について:
・ラテン語の句の一部から引用されている.
・句の全文は “In necessariis unitas, in dubiis libertas, in omnibus caritas” .
・英訳文 : “In things necessary, unity; in things uncertain, liberty; in all things, charity.”
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③ ユダの後悔(マテオ聖福音・27章3節)と,ペトロの後悔(同・26章75節)について引用されている聖書の箇所:
新約聖書・引用個所は太字で表示.(第26章57節-27章10節を記載)
(〈注〉今回のこの箇所は,この少し前の部分(「エレイソン・コメンツ第196回」の第2パラグラフの訳注(聖書の引用箇所:①マテオ聖福音書第26章36-56節)から続く部分です.)
(衆議所に引かれる)(26・57-68)
*¹人々はイエズスを捕らえ,律法学士と長老たちの集まっている大司祭カヤファの家に引いて行った.遠く離れてその後をつけ大司祭の庭に来たペトロは,成り行きを見ようとして中に入り,下男たちとともに座っていた.
司祭長と全議員はイエズスを死刑にする偽りの証言を求めていた.多くの偽証人が来たけれども,これという証拠は上がらなかった.その後二人の男が来て,「彼は〈*²私は神殿を壊して三日で建て直せる〉と言いました」と言った.大司祭は立ち上って,「一言も答えないのか.この者たちが示している証拠はどうだ」と尋ねたが,イエズスは黙して語らなかった.
大司祭はまた,「私は生きる神によってあなたに命じる,答えよ,あなたは神の子キリストなのか」と聞いた.*³するとイエズスは「そのとおりである.私は言う,人の子(イエズスのこと)が全能なるものの右に座り,天の雲に乗り来るのをあなたたちは見るであろう」と言われた.
そのとき大司祭は自分の服を裂き,「この男は*⁴冒涜(ぼうとく)を吐いた.どうしてこれ以上証人がいろう.みなも今冒涜のことばを聞いた.どうだ」と言うと,彼らは「この男は死に値する」と答えた.そして彼らはイエズスの顔につばをかけ,こぶしで打ち,平手でたたき,「キリストよ,当ててみろ,おまえを打ったのはだれだ」と言った.
(ペトロが否む)(26・69-75)
さて,外の庭に座っていたペトロのもとに,下女が一人近寄ってきて,「あなたもあのガリラヤのイエズスと一緒にいた人ですね」と言った.ペトロはみなの前でそれを否(いな)み,「何のことを言っているのかわからぬ」と答えた.そして門を出て行くともう一人の下女が見とがめて,そこにいた人々に「この人も*⁵ナザレ人のイエズスとともにいた人ですよ」と言った.ペトロはふたたびそれを否み,「私はそんな人を知らぬ」と誓って答えた.しばらくしてそこにいた人々が近づき,「いや,あなたは確かに彼らの一人だ,*⁶方言でわかる」と言った.ペトロは「私はそんな人を知らぬ」とはっきり否み,のろい始めた.おりしも雄鶏が鳴いた.
ペトロは「雄鶏の鳴く前にあなたは三度私を否む」と言われたイエズスのことばを思い出し,戸外に出て激しく泣いた(26章75節).
(注釈)
(衆議所に引かれる)
*¹ルカとヨハネを見てわかるように,夜中にイエズスがアンナ(カヤファの義父)の前に引かれたことと,朝になって衆議所の集まりがあったこととは区別して考えてよい.マテオとマルコは,夜のその出来事を朝の尋問と一緒に記している.
*²イエズスのこのことばは三日後に死からよみがえるべき自分の体を指していた(ヨハネ聖福音2章19-22節).
*³イエズスの生涯において,もっとも悲劇的な時である.公生活中に言ったことを,いまユダヤの最高審判者の前で荘重(そうちょう)に宣言する,私は神の子でありと.旧約聖書・詩篇110篇1節,ダニエルの書7章13節を暗示する.
*⁴この冒涜(ぼうとく)とは,イエズスがメシアと名のったことではなく,みずから神と称したところにある.
(ペトロが否む)
*⁵あるギリシア写本とブルガタ訳とには「ナザレトの」とある.
*⁶ガリラヤ人は喉音を出すことができなかった.
・・(参考)・・
ルカによる聖福音書の「ペトロの否認」についての記述(ルカ・22章60節):
『ペトロは,「いえ,私にはあなたの言うことが分かりません」と答えた.そう言い終えぬうちにすぐ雄鶏が鳴いた.主はふり向いて*ペトロを見つめられた.そのときペトロは,主が「今日,雄鶏が鳴く前にあなたは三度私を否むだろう」と言われたことばを思い出し,外に出て激しく泣いた.』
(注釈)*深い悲しみに沈むイエズスの目が,慈悲をたたえて,自分を否んだペトロの方に向けられた.ペトロの改心を待つイエズスである.
(ピラトの前に)(27・1-14)
*¹夜明けになると,イエズスを殺そうと協議した司祭長と民の長老たちは,*²イエズスを縛って総督ピラトのもとに引き立てていった.そのころ裏切り者のユダはイエズスへの判決を聞いて後悔し,司祭長と長老たちにあの三十枚の銀貨を返し(27章3節),「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」と言った.それがどうした,われわれにはかかわりがない,おまえ自身のことだ」と答えた.ユダはその銀貨を神殿に投げ捨てて去り,みずから首をくくって死んだ.
司祭長らはその銀貨を取り,「これは血の値だから神殿の倉には納められぬ」と言い,相談した後その金で陶器造りの畑を買い,旅人の墓地にあてた.その畑は今も*³血の畑と呼ばれている.ここにおいて預言者エレミアの預言は実現した,「*⁴彼らは,値をつけられたもの,つまりイスラエルの子らが値をつけた銀貨三十枚を取り,陶器造りの畑を買った,*⁵主が私に命じられたように」.
(注釈)
(ピラトの前に)
*¹律法では,夜中に裁判し,宣告することを禁じていた.律法の遵守(じゅんしゅ)を見せびらかすために,もう一度簡単に裁判し直すと同時に,ピラト総督への出方を相談した.
*²ヘブライ人には,死刑を宣告し,処刑する権限がなかった(ヨハネ聖福音18章31節).それで総督に自分らの宣告の是認と執行権を頼んだ.
*³アラマイ語で「ハケルダマ」(使徒行録1章19節).おそらく確実だろうと思われる古い伝承によると,ここはゲヘナの谷にあった.
*⁴(9-10節)このことばはエレミア(18章2,3節,32章6-15節)とザカリア(11章13節)を合わせたもののようである.
*⁵ヤベ(主なる神を指す)は,預言者ザカリアを通じて,ユダヤ人の資金が少ないと嘆いて言う.同じわずかな金でイエズスが裏切られたことに,マテオは預言の実現を見た.
***
(注)*³ の「ゲヘナ」について.
“Gehinnon(ヘブライ語), Gehenna(ギリシア語由来のラテン語)”.
ヘブライ語で「ベン・ヒンノム(息子)の谷」の意.ユダとベニヤミンの地の境界の一つで,エルサレムの南にある谷.王国時代に異教の神バールに子供たちを燔祭として捧げた場所(旧約聖書・列王の書下23章,エレミアの書7章).預言者エレミアは,この祭儀を繰返し非難し,この谷は虐殺の谷と呼ばれる日がくると預言した(エレミアの書・19章).比喩(ゆ)的に死後罪人が罰を受ける場所「地獄」(=「第二の死」)の名で呼ばれる.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)
(新約聖書上の根拠)
参考までに地獄と天国について,新約聖書「ヨハネの黙示録」からの引用を後から追加します.
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