エレイソン・コメンツ 第258回 (2012年6月23日)
花々が語(かた)れるとすれば(「エレイソン・コメンツ第255回参照),時間の価値,神の正義,恩寵と自然の調和( “the value of time, the justice of God, the harmony of grace and nature” )などについて私たちに教えることができるでしょう.
たとえば,もし神が存在され,人がたとえ90年生きるにしてもその束の間(つかのま)の生涯(しょうがい)のあいだに過ごすすべての瞬間ごとに自(みずか)ら取った一つひとつの選択肢しだいで,その霊魂の行方(ゆくえ)が永遠に決まってしまうように神が仕向(しむ)けることが理不尽(りふじん)でないとすれば,その生涯のあらゆる瞬間に価値があるということ,そしてあらゆる瞬間に神が私たちに神と永遠に交(まじ)わるよう呼びかけられ(訳注・私たちの注意を喚起〈かんき〉され)(いつも同じ強さでそうされているとは限らないにしても)ということは理にかなったことです.だからこそ,神が花々や自ら創造されたほかのあらゆる贈り物を通して私たちに語りかけておられるはずだというのもうなずけます.なぜかといえば,現世で自分には愛すべきものや人などなにもないと正直に言える人がはたしているでしょうか?過激(猛烈)な「無神論者 “atheist” 」でさえも,たとえば,自分の好みの犬やタバコを持っているものです.そして犬やタバコの葉を創(つく)り出し,私たちの時代までそれを生き続けさせた(世の創造主たる)御方(“ And Who… ”)は誰でしょうか?
その「無神論者」は死の直前になっても自分は神から語りかけられたことなど一度もないと言い張るかもしれません.だが,死を迎(むか)えたとたんに,彼は(自分がまだ生きていたとき)目覚めているあいだあらゆる瞬間瞬間に,いつも神が身の回りの何らかの生き物を通して自分に呼びかけて(訳注・霊魂の関心を呼び覚まそうとして)おられた( “…for every moment of his waking life God has been appealing to him through some creature or other around him.” )ことを瞬時(しゅんじ)に理解する( “grasp in a flash” )でしょう.「もし私が,あなたが生涯を通していつも私を拒(こば)んできたことを,私の残りの生涯でことあるごとに咎(とが)めるとしたら,私は理不尽でしょうか?」と神は彼にお尋(たず)ねになるでしょう.そして「あなたが選んだものを持ちなさい.私から離れなさい」と,神は彼に告げるかもしれません(新約聖書・マテオ聖福音:第25章41節)(訳注後記).
これとは反対に,生涯のあらゆる瞬間を通していつも自分が楽しんできたあらゆる良いことの陰(かげ)に存在する偉大で善良な神を愛する恩恵を受けた人,( “…has profited by every moment of its life to love the great and good God behind all the good things it has enjoyed,…” ),さらに自分が楽しいと思わなかったあらゆる悪いことの陰に存在する(訳注・災難や苦難の起こることをあえて許可〈=承認,同意〉される)神意(=摂理,神の導き・思慮・配慮)にさえも気づいた( “…that has even recognized the permission of his Providence behind all the bad things it has not enjoyed.” )人のことを考えてみてください.それならば(=訳注・人生が瞬間から瞬間まですべて神意の下にあるものなら)誰が自分の人生に意味を与えるため,人に認めてもらいたい,有名になりたい,メディアの前に出たい,引出しを休暇の写真で埋め尽くしたいなどと望む必要があるでしょうか?過去の時代で,有能な人々が生涯にわたって神への愛にすっかりその身を捧(ささ)げるためその才能を人里を離れ世間から隔離(かくり)された修道院に埋(う)めたのもさして驚(おどろ)くことではありません.私たちの時間の一刻一刻には計りしれない価値があります.なぜなら,その一刻一刻に良かれ悪しかれ霊魂の計りしれない永遠性がかかっているからです.
さらに,花が話せるとすれば,私たちがもう一つよく知られた疑問を理解するのに役立ちます.その疑問とは,非カトリック教徒の人々の霊魂がカトリック教の布教者たち(=宣教師たち)と接する機会がまったくなかったために,カトリック信仰を持たなかったとしたら非難できるだろうか,というものです.人間的な言い方をするなら,花々を創造しカトリック教会を設立されたのはまさしく同一の神であることを思い起こせば,この疑問の少なくとも一部は解かれるかもしれません.神のお導き(=神慮〈しんりょ〉 “God’s Providence” )がカトリックの真理がある霊魂の耳に届くのを許さなかったとしても,その霊魂は真の神のことなど何も知らなかったとは言えません.その霊魂はたとえば(訳注・日々様々に移り変わる)無数の雲景(画),日の出,夕焼けの美しさ( “the beauty of cloudscapes, of sunrises and sunsets” )といった自らが知っていたものによって裁きを受けうるでしょう.それらの美しさを見て,その霊魂は異教徒ヨブ(旧約聖書・ヨブの書:19・25)と一緒になって「私は私の救い主が生きておられることを知る( “I know that my Redeemer liveth” )」と言ったでしょうか,それとも「ええまあ,そうですね,確かにすばらしい.でも,隣の奥さんを訪ねさせてくれ - 」と言ったでしょうか?(訳注後記)
実際のところ,人々が彼らの創造主たる神( “their Creator ”)に対して抱(いだ)く多くの不平不満はカトリック信徒たちでさえ感じています.カトリック信徒たちの多くは,現代のほかの人たち同様,都会やその郊外での生活によって多かれ少なかれ自然界から切り離されており,それ相応にその「精神性 “spirituality” 」が人工的になっているからです.どなたかが「動物一匹(いっぴき)愛したことがない人は可哀(かわい)そう」と言ったことがあります( ““Woe to anybody who has never loved an animal,” somebody has said.” ).子供たちは神と親密です.子供たちがいかに生まれながらにして動物たちが好きなことかを観察してください( “Children are close to God. Watch how naturally children love animals.” ).
偉大にして善良なる神よ,あなたがあらゆるもの,あらゆる人の奥深くに,いつも(=絶えず)おられるのを私たちに見させ給え( “Great and good God, grant us to see you where you are, deep down everything and everybody, at every moment.” ).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章41節(太字).(25章全章を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW XXV, 41.
The parable of the ten virgins, and of the talents; the description of the last judgement.
十人の乙女のたとえ
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.
そのうちの五人は愚か者(おろかもの)で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしびを持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器(うつわ)に入れた油も持っていた.花婿が遅かったので,一同は居眠(いねむ)りをし,やがて眠(ねむ)りこんでしまった.夜半(やはん)に,〈さあ,花婿だ.出迎(でむか)えよ〉と声がかかった.
乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かなほうは賢いほうに,〈油を分(わ)けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢いほうは,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足(た)りません.商人(しょうにん)のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.
やがて,ほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.
*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』
(注釈)
十人の乙女のたとえ(25・1-13)
*¹ 1-13節 花婿はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨(らいりん)までの期間,婚宴(こんえん)の席(せき)は天国である.その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.
*² ある写本(ブルガタ訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.
*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練(しれん)の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りをすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ12・35-38,13・25).
* * *
タレントのたとえ
『*¹また,天の国は遠(とお)くに旅立(たびた)つ人がしもべたちを呼び,*²自分の持ち物を預けるのにたとえてよい.
おのおの能力(のうりょく)に応じて,一人には五*³タレント,一人にはニタレント,一人には一タレントをわたして,その人は旅立った.
五タレントをわたされた人は,それを用いてもうけ,ほかに五タレントの収入(しゅうにゅう)を得(え),ニタレントをわたされた人も,同じようにほかにニタレントの収入を得たが,一タレントをわたされた人は,土地を掘(ほ)りに行き主人の金を埋(う)めておいた.
しばらく経(た)って主人が帰ってきてしもべたちと精算(せいさん)した.
五タレントを預かった人は別に五タレントを差し出し,〈主よ,私は五タレントを預かりましたが,ごらんください,ほかに五タレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実(ちゅうじつ)なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.ニタレントを預かった人も来て,〈主よ,私はニタレントを預かりましたが,ごらんください,別にニタレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.
また一タレントを受けた人が来て,〈主よ,あなたは厳(きび)しい方で,まかない所から刈(か)り,散(ち)らさない所から集められると知っていた私は,恐(こわ)くてあなたのタレントを地下に隠(かく)しに行きました.あなたに預かったのはこれです〉と言った.
主人は答えた,〈悪い怠(なま)け者のしもべだ.おまえは私がまかない所から刈り取り散らさない所から集めると知っていたのか.それなら私の金を貯金(ちょきん)しておけばよかった.そうすれば私は帰ってきて自分のものと利子(りし)を手に入れたのに.さあ,彼からそのタレントを取り上げ,十タレントを持っている者にやれ.
*⁴持っている者は,与えられてなお多くのものを持ち,持たない者からは,持っているわずかなものさえ取り上げられる.この役たたずのしもべを外のやみに投げ出せ.そこには嘆(なげ)きと歯(は)ぎしりがあろう〉.』
(注釈)
タレントのたとえ(25・14-30)
*¹ 14-30節 旅立つ主人は,近く天国に行くイエズスであり,将来天国からまた最後の審判のために来るであろう.しもべはキリスト信者,タレントは神からの自然的・超自然的たまものを意味する.これを善業のために使わねばならぬ.
*² このたとえも,先のと同じく,キリスト信者の個人個人の最後をたとえている.
*³ 18・24の注参照.(注・18章24節の注から転載→「神殿ではユダヤの貨幣(かへい)だけが用(もち)いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は、次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマは二ドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四二・五三三キロに相当する.
ローマ貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.」)
*⁴ 神のたまものを有益に使う者は,その上にまたもらい,持っている少ないものをないがしろにする者は,それさえも失う(マテオ聖福音13・12).
* * *
最後の審判
『*¹人の子は,その栄光のうちに,多くの天使を引き連れて光栄の座につく.
そして,諸国(しょこく)の人々を前に集め,ちょうど牧者(ぼくしゃ)が羊(ひつじ)と雄(お)やぎを分けるように,羊を右に雄やぎを左におく.
そのとき*²王は右にいる人々に向かい,〈父に祝(しゅく)せられた者よ,来て,*³世の始めからあなたたちに備(そな)えられていた国を受けよ.あなたたちは,私が飢(う)えていたときに食べさせ,渇(かわ)いているときに飲(の)ませ,旅にいたときに宿(やど)らせ,裸(はだか)だったときに服(ふく)をくれ,病気だったときに見舞(みま)い,牢(ろう)にいたときに訪(おとず)れてくれた〉と言う.
すると義人(ぎじん)たちは答えて,〈主よ,いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ,渇いているときに飲ませ,旅のときに宿らせ,裸のときに服をあげ,病気のときや牢に入られたときに見舞ったのでしょうか〉と言う.
*⁴王は答える,〈まことに私は言う.あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは,つまり私にしてくれたことである〉.
また王は左にいる人々に向かって言う,〈のろわれた者よ,私を離(はな)れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ.あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず,渇いていたのに飲ませず,旅にあったときに宿らせず,裸だったのに服をくれず,病気のときや牢にいたときに見舞いに来なかった〉.
そのとき彼らは言う,〈主よ,あなたが飢え,渇き,旅に出,裸になり,病気になり,牢に入られたとき,いつ私たちが助けませんでしたか〉.
王は言う,〈まことに私は言う.これらの小さな人々の一人にしなかったことは,つまり私にしてくれなかったことだ〉.
そして,これらの人は永遠の刑罰を受け,義人は永遠の生命に入るであろう」.』
(注釈)
最後の審判(25・31-46)
*¹ 審判(しんぱん)において,特に隣人(りんじん)への愛の実行が重視されている.この愛は,神に対する愛から出るものである.はたして,律法と預言者を,神と人間に対する愛に帰(き)する.
*² 王たるメシア(=救世主),キリストのこと.
*³ 神が人をつくられたのは,永遠の幸福のためである(〈新約〉エフェゾ人への手紙1・4).
*⁴ すべての人のうちにキリストを見るということは,確かにキリスト教の重大な教えの一つである.これによってすべての人,特に貧(まず)しい者は「聖なるもの」となる.
審判の時,愛以外の徳の実行を尋(たず)ねられるであろうが,貧しい人を助けることは,キリストを助けることだと心得(こころえ)るほどの愛をもつものは,この愛の中に他のすべての徳を含(ふく)んでいるはずである.
* * *
第4パラグラフの訳注:
① 旧約聖書・ヨブの書「解説」
② ヨブの書:19章25節(太字)
THE BOOK OF JOB XIX, 25.
This book takes its name from the holy man of whom it treats: who, according to the more probable opinion, was of the race of Esau; and the same as Jobab, king of Edom, mentioned Genesis 36:33. It is uncertain who was the writer of it. Some attribute it to Job himself; others to Moses, or some one of the prophets. In the Hebrew it is written in verse, from the beginning of the third chapter to the forty-second chapter.
(CHAPTER 19) Job complains of the cruelty of his friends; hedescribes his own sufferings: and his belief of a future resurrection.
①「ヨブの書解説」( フェデリコ・バルバロ神父訳「旧約聖書」より)
主人公の名をとってヨブの書と称されるこの本は初めの2章と終わりのことばを除外すれば,全篇詩の形でなり立っている.ここで取り上げているのは人間の苦しみの問題であって,この問題を扱った詩としては世界でもっともすぐれたものの一つである.
正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如(とつじょ)として大きな不幸が襲(おそ)いかかった.これが全篇の論争の始まりである(1-3章).
ヨブの不幸を慰(なぐさ)めにきた三人の友人がいた.その三人が一人ずつ話しかけるたびにヨブがそれに答える.ただし三人めの場合は友人が話さずにヨブが長く話す(4-31章).この論争ののち,不意にエリフという男が口を入れる(32-37章).ついに嵐(あらし)の中から神自身が現れてヨブに話す(33章1節-42章6節).最後にヨブはその大きな不幸に耐えた報(むく)いを豊(ゆた)かに受けたことが語られる.
論争した人々の態度は次のようである.三人の友人は「善悪はこの世で報いを受ける」という古来の教えを守っているヨブが不幸になったのは,何かの悪事をしたからであると推理する.自分では正しいと思っていても神の目にとって正しくなかったのかもしれない.ヨブが「私は正しい生活をした」と主張するので,三人はいよいよかたくなに自分のいい分を守る.
ヨブは三人のいい分に対して,自分自身の苦しみとこの世にあふれている不正をもって答える.しがしこのことを語るたびに,「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問につき当たる.
エリフは,「神に対していい過ぎた」とヨブを非難してのち,三人の友人をも非難する.そして,神の行為を弁護して,「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べる.
次に神が話されるがヨブに直接答えず,宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.
ついにヨブは自分の無思慮(むしりょ)を認める.
この本の主人公ヨブは太祖(たいそ)のころの人(〈旧約〉エゼキエルの書14・14,20)で,アラピアとエドムの国境の地に住んでいたと思われる.
ユダヤの伝統では試練の中で神への忠実を保った人としてヨブを尊(とうと)んでいる.この本の作者はそういう古い話からこの一篇の詩を創(つく)ったのであろう.
作者の名は不詳(ふしょう)である.確実なのは,預言書と知恵の書をよく学んだユダヤ人だということだけである.この人はパレスチナに住んでいたのだろうが,特にエジプトをよく知っていたようである.
この本はエレミアの書,エゼキエルの書より後に出たもので,表現と思想の上でその二つに似たところがある.おそらくは西暦前五世紀ごろの作であろう.
作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.これは「人はその行いの善悪によって,この世で良いあるいは悪い報いを受ける」というユダヤ古来の考え方からは矛盾(むじゅん)しているようであるが,ヨブは,「正しい生活をしていても災難(さいなん)を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタンからのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブもその友人もこのことは知らない.
ヨブは苦しみのなかにあっても,神は慈悲(じひ)であり正義であるという希望にすがりついている.神が干渉されたのは人知を絶するみずからの計画を示し,ヨブを沈黙(ちんもく)させるためである.
この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみの中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ』ということである.
天の示しも不完全であったこの時代の作者としてはこれ以上いえなかっただろう.「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰(しょうばつ)の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.
ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.
「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(〈新約〉ローマ人への手紙8・18).
「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(コロサイ人への手紙1・24).
* * *
② ヨブの書:第19章(全章)/ THE BOOK OF JOB, CHAPTER XIX
ヨブは答えて言った,
1 Then Job answered , and said:
「いつまで私の魂(たましい)を苦しめ,
その話で私を押しつぶすのか.
2 How long do you afflict my soul,
and break me in pieces with words?
あなたたちはもう十度も私を侮辱(ぶじょく)し,
恥知(はじし)らずにも私を責(せ)めている.
3 Behold, these ten times you confound me,
and are not ashamed to oppress me.
あやまったのがたとえ事実(じじつ)でも,
また私がかたくなに迷(まよ)いにとどまっても,
4 For if I have been ignorant,
my ignorance shall be with me.
あなたたちが勝(か)って,
私に罪があると証明(しょうめい)できたとしても,
5 But you have set yourselves up against me,
and reprove me with my reproaches.
*私をおさえつけ,
網(あみ)で私をとりまいたのは神であると知れ.
6 At least now understand, that God hath not afflicted me with an equal judgment,
and compassed me with his scourges.
〈これは暴力(ぼうりょく)だ〉と叫(さけ)んでも答えはなく,
呼びかけても正義はこない.
7 Behold I cry suffering violence, and no one will hear:
I shall cry aloud, and there is none to judge.
神が小道をふさがれたので,私は通れない,
神は私の道に闇(やみ)をおき,
8 He hath hedged in my path round about, and I cannot pass,
and in my way he hath set darkness.
光栄をはぎとり,
頭の冠(かんむり)を奪(うば)われた.
9 He hath stripped me of my glory,
and hath taken the crown from my head.
神が四方から壊(こわ)されたので、私は滅(ほろ)びる.
神は私の希望を木のように引き抜(ぬ)き,
10 He hath destroyed me on every side, and I am lost,
and he hath taken away my hope, as from a tree that is plucked up.
その怒りは私に向かって燃えあがり,
私を敵(てき)のようにみなされた.
11 His wrath is kindled against me,
and he hath counted me as his enemy.
神の軍は押しよせ,
私に向かって進路(しんろ)を開き,
私の幕屋(まくや)のまわりに陣(じん)を張(は)った.
12 His troops have come together,
and have made themselves a way by me,
and have besieged my tabernacle round about.
私は兄弟たちののけ者となり,
知人たちも私にとって見知らぬ人となった.
13 He hath put my brethren far from me,
and my acquaintance like strangers have departed from me.
親戚(しんせき)と親しい人々は姿(すがた)を消(け)し,
家の者は私を忘れ,
14 My kinsmen have forsaken me,
and they that knew me, have forgotten me.
下女(げじょ)は私を他人のように思う.
私は彼らにとって赤の他人になった.
15 They that dwelt in my house, and my maidservants have counted me a stranger,
and I have been like an alien in their eyes.
下男(げなん)を呼んでも答えないので,
私はこの口で彼にこいねがわねばならぬ.
16 I called my servant, and he gave me no answer,
I entreated him with my own mouth.
私の息は妻にいとわれ,
兄弟たちもそのにおいに顔を背(そむ)け,
17 My wife hath abhorred my breath,
and I entreated the children of my womb.
小さな子らも侮(あなど)り,
立ち上がると私をからかう.
18 Even fools despise me;
and when I gone from them, they spoke against me.
親(した)しい者はみな私を忌(い)みきらい,
愛する者は逆(さか)らった.
19 They that were sometime my counsellors, have abhorred me:
and he whom I love most is turned against me.
この皮膚(ひふ)の下で肉は腐(くさ)り,
骨は歯のようにむき出しになった.
20 The flesh being consumed.
My bone hath cleaved to my skin, and nothing but lips are left about my teeth.
あわれんでくれ,あわれんでくれ,ああ,友よ.
神の御手(おんて)が私を打(う)ったのだ。
21 Have pity on me, have pity on me, at least you my friends,
because the hand of the Lord hath touched me.
なぜ,あなたたちも神がなさるように,私を責(せ)めるのか.
私の肉にまだ飽(あ)き足らずに.
22 Why do you persecute me as God,
and glut yourselves with my flesh?
ああ,私のことばを書きとめ,
書物に刻(きざ)んでくれ,
23 Who will grant me that my words may be written?
Who will grant me that they may be marked down in a book?
鉄(てつ)ののみと鉛(なまり)で,
永久(えいきゅう)に岩(いわ)に刻みつけてくれ.
24 With an iron pen and in a plate of lead,
or else be graven with an instrument in flint stone.
〈*私を守るものは生きておられ,
仇討(あだう)つものはちりの上に立ち上がるのだと私は知る.
25 For I know that my Redeemer liveth,
and in the last day I shall rise out of the earth.
皮膚がこのようにきれぎれになっても,
私はこの肉で神をながめるだろう〉.
26 And I shall be clothed again with my skin,
and in my flesh I will see my God.
ああ,幸せな私よ,この私自身が,他人ではなく私自身の目で見るだろう.
腎(じん)は絶(た)えなんばかりにあこがれる.
27 Whom I myself shall see, and my eyes shall behold, and not another:
this my hope is laid up in my bosom.
あなたたちが〈彼をいじめてやろう〉〈あの*ことの根を見つけ出そう〉と叫ぶとき,
28 Why then do you say now: Let us persecute him, and let us find occasion of word against him?
そのときこそ、自分の身に下る剣(つるぎ)を恐(おそ)れよ,
それは剣を受けるべき罪なのだ.
そしてあなたたちは〈さばく者〉のあることを知るだろう」.
29 Flee then from the face of the sword,
for the sword is the revenger of iniquities:
and know ye that there is judgment.
(注釈)
神と人に捨てられても保ったヨブの信仰(19・1-29)
6 ヨブは友人のいったことを結論する,「もしあなたたちのいったことが本当だとしたら,この場合神は私に対して不正を行われたことになる.私は自分に罪のないことをよく知っているのだから.あなたたちのいうことを認めたら神は不正だと結論せざるをえなくなるから,それは認められない」.ヒエロニムスとトマス・アクィナスもこの解釈をとった.
25-26 この2節はヨブが岩に刻みつけたいと願うことばで,教義上たいへん大切な箇所であると同時にいろいろ議論されている.訳も多いが,本訳はほとんどヘブライ語本のままである.
この訳では次のような意味になる,「私を守るものはいま姿を見せては下さらぬが,たえず生きておられ正義を証(あかし)するものとして,私の墓(はか)にこられるだろうと私は信じる(25節).私の体が分解しつくしても,なおかつ私はこの体をもって神を眺めるにちがいない(26節)」.
昔のラテン教会教父たちはこのことばを「肉身(にくしん)のよみがえり」の意味にとった.しかし東方教会の教父たちはその意味でほとんど引用していない.それは彼らの用いていた七十人訳ギリシア語本が不十分な訳だったからである.現代のカトリック聖書学者も,「肉身のよみがえり」についてのヨブの信仰を示すものかどうか断定(だんてい)するのをはばかっている.これは「肉身のよみがえり」についての霊的なひらめきだったろうか,あるいはそれの明白な示しの前奏曲であったかもしれない(〈旧約〉マカバイの書下7・9).
ただ,このことばが復活を暗示しているという説に対していいたいのはもしヨブがそれを信じていたとしたら,はじめから友人たちをいい伏(ふ)せることができたろうと思われる.
28 ヘブライ語では「ことば」.ヨブを襲(おそ)った不幸のこと.ヨブが不幸になったのはヨブ自身罪を隠(かく)しているからだと友人たちは考えていた.
* * *
2012年6月24日日曜日
2012年6月3日日曜日
255 花々は語る 6/2
エレイソン・コメンツ 第255回 (2012年6月2日)
神は無限の存在(訳注・ “infinite Being”. 「全存在の大本〈おおもと〉,源〈みなもと〉,始まりとしての無限の存在」 という意味),無限の真実( “Truth” ),無限の善であり( “Goodness” ),無限に正しく( “just” ),無限に慈悲深い( “merciful” ).神の教会( “Church” )はそう教えています.この考えは雄大かつ素晴らしいもので,それについて私に異論はありません.だが,私は神の教会がそれと同時にまた人の霊魂はたった一回大罪を犯しただけで( “for just one mortal sin” )想像を絶するほどの手厳しくむごい永遠の苦しみに導かれる( “…be damned for all eternity to sufferings harsh and cruel…” )と教えていることも知っています.それについては素晴らしいことなどと言えません.この点について私は異論を差しはさみたくなります.
例を挙(あ)げてみます.私は両親が私に生(せい)を授(さず)けると決める前に相談など受けませんでしたし,私の存在についての,いわば,契約条件についても相談されませんでした.もし前もって相談されていたら,私は教会が教えるような,どちらの場合も共に果てしなく続く,想像もできないほどの至福 “bliss” か想像できないほどの苦痛 “torment” のいずれかを取るといった極端な二者択一( “such an extreme alternative” )に異論を唱えたでしょう.その代わり,私は天国にいる期間が短いのと引き換えに短期間だけ地獄に陥(おちい)るリスク( 訳注・ “only an abbreviated Hell”,=短縮された地獄滞在期間さえ耐えれば済む)を伴(ともな)うもっと穏当(おんとう)な「契約」( “a rather more moderate “contract”” )を受け入れたでしょう.だが,私は事前の相談を受けませんでした.至福と苦痛のいずれも果てしなく続くというのは,私のこの世での( “on earth”,=地上での )短い人生,10年,20年,50年かせいぜい90年ていどの間に今日は在り明日には逝(い)くという束(つか)の間の人生にはとても釣り合わないように思えます.生きとし生けるもの(=人間)は草のごとし( “All flesh is like grass” )ー「人は朝に花開き…夕べに倒(たお)れ,渇(かわ)き,枯(か)れる」(詩編・第90篇6節)( ““In the morning man shall flourish… in the evening he shall fall, grow dry and wither” (Ps. LXXXIX, 6). ” )というわけです.この考え方に立てば,神はとても不公平であるように思え,私は神が本当に存在するのかどうか真面目に疑いたくなります.(訳注後記)
この問題は私たちに真剣な内省を求めます.次のようなことがらを仮に考えてみましょう; すなわち,神が存在されること,神はその教会が言うように正しい方であること,誰に対してもその人の同意なしに重荷を押し付け負わせるのは不当・不公平であること,この世の人生ははかなく,永遠に比べれば煙草の煙のようなものであること,人は誰しもひどい罪を犯していると自覚しない限りひどい罰を受けるはずがないことなどについて,考えてみましょう.こう考えた場合,存在されるはずの神がどうして正しいと言えるのでしょうか? もし神が正しいとすれば,論理必然的にもの心ついた人は誰しも自分が永遠なるものを選んだこと,そしてその選択がどういう意味を持つのかが分かる年齢まで生き続けなければならないはずです.だが,そのようなことは,たとえば神がいたるところで無視され,個々人,家庭,国家の日常で未知のものである今日の世界で果たして可能でしょうか?
その答えは,神は個々人,家庭,国家よりも先におられた(存在される)上位の存在であり( “God comes before individuals, families and States” ),神はあらゆる人間に先立ちどんな人間とも一切かかわることなく無関係に( “prior to all human beings and independently of them all” ),一人ひとりの人の心・霊魂の内部に「語りかける」のであり( “he “speaks” within every soul” ),したがって宗教教育が役に立っていないような霊魂(=人)でも自分が日々選択をしていること,自分だけが自らのために選択していること,そしてその選択が重要な意味を持つことを分かっている( “…still aware that it is making a choice each day of its life, that it alone is making that choice for itself, and that the choice has enormous consequences.” )と考える中でしか見いだせないでしょう.だが,もう一度繰り返しますが,今日私たちが身の周りに見る世界のような神のいない世界( “the godlessness of a world” )で,そのようなことが果たして可能でしょうか?
(それは可能です.)なぜなら,(人々の)心・霊魂への神の「語りかけ」は,いかなる人間による語りかけあるいは世に存在しうるその他のいかなるものによる語りかけよりも,はるかに深く,より絶え間なく続き(=持続し),存在感があり,訴えるものが強い(=〈人の〉心を動かす力が強い)からです.神のみが私たちの霊魂を創造されました.神は無限に存在し続け,その永遠の時空(じくう)の瞬間瞬間に( “for every moment of its never ending existence” )霊魂を創造し続けるでしょう.それゆえに神は一つひとつの瞬間ごとに人の霊魂にとってより親密で近しい存在です.たとえその霊魂の人としての両親と比べたとしても,すなわち単に(肉身を生み出して)霊魂に身体(=肉身) ---身体というものは唯一神のみがその存続を支えられる物質的要素から作り出され(生まれ)るもの( “…body – out of material elements being sustained in existence by God alone.” )ですが--- を合体させ一つに組み立てただけの両親と比べても,神はその両親よりずっと霊魂のより側近(そばちか)くにおられる存在です.同じように,神の善(=善良さ)は魂がその生涯に享受(きょうじゅ)するあらゆる善い物事の背後や内部またそのすぐ下(底)に潜(ひそ)んでおり,霊魂はそれが神の無限なる善(善良さ)( “the infinite goodness of God” )から生じた(=派生〈はせい〉した)副産物にすぎないことを心の奥底で気づいています.「お黙りなさい.私はあなたが誰のことを話しているのか分かっています」と,ロヨラの聖イグナチオ( “St. Ignatius of Loyola” )が小さな花に語りかけました.幼児の笑い声,日々刻々うつろう自然の輝き,音楽,天空の隅々,芸術の傑作(けっさく)などなど --- なおいっそう深い愛情の対象ともなるこのような物事は,それらを愛する人の心(霊魂)に,そのような愛をはるかに超越(ちょうえつ)するより深くて偉大な何ものかが,あるいは --- 何方(どなた)かが --- 存在することを教えてくれます( “even loved with a deep love, these things tell the soul that there is something much more, or – someone.” ).
「おお神よ,私はあなたに望みを託(たく)ました.どうぞ私を狼狽(ろうばい,うろたえ,)させないでください」(詩編・第31篇2節)( “In thee, O God, have I hoped, let me never be confounded” (Ps. XXX, 2). ” )(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
旧約聖書・詩編:第90篇6節
BOOK OF PSALMS, PSALM LXXXIX
“Domine, refugium.”
A prayer for the mercy of God:
recounting the shortness and miseries of the days of man.
89:6
『朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.』
“In the morning man shall grow up like grass;
in the morning he shall flourish and pass away:
in the evening he shall fall, grow dry, and wither.”
* * *
1 第90篇 *神の人モーゼの祈り.
主よ,あなたは代々に,われらの逃れ場だった.
1 PSALM 89 A prayer of Moses the man of God.
Lord, thou hast been our refuge from generation to generation.
2 山々が生まれるより早く,地と世を生むより早く,
神よ,永遠から永遠へとあなたは存在する.
2 Before the mountains were made, or the earth and the world was formed;
from eternity and to eternity thou art God.
3 あなたは人をちりに返らせ,
そしてこう言われる,「人の子らよ,*返れ」.
3 Turn not man away to be brought low:
and thou hast said: Be converted, O ye sons of men.
4 御目には千年すら,過ぎ去った昨日のごとく,
夜の一刻のごとくである.
4 For a thousand years in thy sight are as yesterday, which is past.
And as a watch in the night,
5 *あなたは朝の夢のように,
もえ出る草のように彼らを消し去る.
5 things that are counted nothing,
shall their years be.
6 朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.
6 In the morning man shall grow up like grass;
in the morning he shall flourish and pass away:
in the evening he shall fall, grow dry, and wither.
7 われらは御怒(おんいか)りによって衰(おとろ)え,
憤(いきどお)りによっておじ恐れる.
7 For in thy wrath we have fainted away:
and are troubled in thy indignation.
8 あなたはわれらのとがを御目の前に,
われらのひそかごとをみ顔の光に置かれた.
8 Thou hast set our iniquities before thy eyes:
our life in the light of thy countenance.
9 *われらの日々は御怒りによって過ぎ,
われらの年を一息のように消された.
9 For all our days are spent; and in thy wrath we have fainted away.
Our years shall be considered spider:
10 われらのよわいの日々は七十年,
頑健な人にとっては八十年だが,
その長き間は労苦とむなしさであり,
またたく間にすぎ去り,飛び去っていく.
10 the days of our years in them are threescore and ten years.
But if in the strong they be fourscore years:
and what is more of them is labour and sorrow.
For mildness is come upon us: and we shall be corrected.
11 だれがあなたの御怒りの力を,
あなたの御憤りの恐れを知っていようか.
11 Who knoweth the power of thy anger,
and for thy fear
12 *日々を数えることをわれらに教え,
心を知恵に向かわせ,
12 can number thy wrath? So make thy right hand known:
and men learned in heart, in wisdom.
13 立ちもどり,
あなたのしもべたちをあわれみたまえ.
13 Return, O Lord, how long?
and be entreated in favour of thy servants.
14 *朝はあなたの愛に飽(あ)かせ,
われらの日々をふるい立たせて喜ばせ,
14 We are filled in the morning with thy mercy:
and we have rejoiced, and are delighted all our days.
15 苦しめられた日々,
災いにあわせた年々とてらし合わせて,われらを喜ばせ,
15 We have rejoiced for the days in which thou hast humbled us:
for the years in which we have seen evils.
16 み業(わざ)をしもべたちの上に,
み力をその子らにあらわし,
16 Look upon thy servants and upon their works:
and direct their children.
17 神なる主の慈(いつく)しみを下し,
われらのために手の業(わざ)に力をかし,
われらの手の業を助けたまえ.
17 And let the brightness of the Lord our God be upon us:
and direct thou the works of our hands over us;
yea, the work of our hands do thou direct.
(注釈)
人間のはかなさ
1 人の世のはかなさについて知恵ある者が黙想する歌.人の生は罪によって短くされた
(〈旧約〉創世の書3章).
3 ちりに返ること(創世の書3・19,ヨブの書10・9,34・15,マカバイの書〈上〉2・63).
5 原典に手が入っているらしい.原文,「あなたは彼らを眠りで満たす」とある.眠りは死のこと(エレミア51・39,57).
9 一つの考えが過ぎ去るように,早くも青春は過ぎた.
12 人間のはかなさを知ることから知識が生まれる.すなわち,「神を恐れること」を知る.
13-17 これは全イスラエルに思いをひろげる.
* * * * *
最後のパラグラフの訳注:
詩編:第31篇2節
PSALM XXX
“In te, Domine, speravi.”
A prayer of a just man under affliction.
30:2
『主よ,私はあなたのうちに逃れる,永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.』
“In thee, O Lord, have I hoped, let me never be confounded:
deliver me in thy justice.”
* * *
1 第31篇 歌の指揮者に.ダビドの詩.
1 Psalm 30 Unto the end, a psalm for David, in an ecstasy.
2 主よ,私はあなたのうちに逃れる,
永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.
2 In thee, O Lord, have I hoped,
let me never be confounded:
deliver me in thy justice.
3 御耳を私に向け,私を救いに急ぎ,
私の身を隠す岩となり,
逃(のが)れの固き城となられよ.
3 Bow down thy ear to me: make haste to deliver me.
Be thou unto me a God, a protector,
and a house of refuge, to save me.
4 あなたは私の岩,私の砦(とりで)である,
み名のために私を導き,引き連れ,
4 For thou art my strength and my refuge;
and for thy name's sake thou wilt lead me, and nourish me.
5 私に張られた網(あみ)を破(やぶ)りたまえ.
あなたは私の避難所.
5 Thou wilt bring me out of this snare, which they have hidden for me:
for thou art my protector.
6 私は御手に魂をゆだねる.
真実の神よ,あなたはすでに私を救われた.
6 Into thy hands I commend my spirit:
thou hast redeemed me, O Lord, the God of truth.
7 あなたはむなしい偶像のしもべを憎まれるが,
私は主に身をゆだね,
7 Thou hast hated them that regard vanities, to no purpose.
But I have hoped in the Lord:
8 あなたの愛に喜びおどる.
みじめな私を見下(みお)ろし,
私の魂の悩みを知ったあなたは,
8 I will be glad and rejoice in thy mercy.
For thou best regarded my humility,
thou hast saved my soul out of distresses.
9 私を仇(あだ)の手にまかせず,
私の足を広いところに立たせられた.
9 And thou hast not shut me up in the hands of the enemy:
thou hast set my feet in a spacious place.
10 主よ、私をあわれみたまえ,
私は苦悩の中にいる,
涙が私の目と,
のどとはらわたをむしばむ.
10 Have mercy on me, O Lord,
for I am afflicted:
my eye is troubled with wrath,
my soul, and my belly:
11 私の命は悲しみのうちに消え,
年は嘆(なげ)きのうちに去った.
力は悲惨(ひさん)のうちにしぼみ,
骨はとけていった.
11 For my life is wasted with grief:
and my years in sighs.
My strength is weakened through poverty
and my bones are disturbed.
12 私は敵に汚名(おめい)を着せられ,
近くの人には恐れられ,
知人には恐怖となり,
外で私を見た人は逃げだした.
12 I am become a reproach among all my enemies,
and very much to my neighbours;
and a fear to my acquaintance.
They that saw me without fled from me.
13 私は死人のように人の心から忘れられ,
捨てられる瓦礫(がれき)のようになった.
13 I am forgotten as one dead from the heart.
I am become as a vessel that is destroyed.
14 私は他人の讒言(ざんげん)を耳にした,いたるところから私に恐怖が襲(おそ)った.
彼らは私に逆らって謀(はか)り,私の命を奪(うば)おうとした.
14 For I have heard the blame of many that dwell round about.
While they assembled together against me, they consulted to take away my life.
15 だが,主よ,私はあなたによりたのみ,
「あなたは私の神」と言う.
15 But I have put my trust in thee, O Lord:
I said: Thou art my God.
16 私の運命はあなたの御手にある,私を解放し,
敵としいたげる者の手から救いたまえ.
16 My lots are in thy hands. Deliver me
out of the hands of my enemies; and from them that persecute me.
17 あなたのしもべの上にみ顔を輝かし,
愛によって私を救い,
17 Make thy face to shine upon thy servant;
save me in thy mercy.
18 あなたにこいねがう私を辱(はずかし)めたもうな,
罪人は恥辱を受けよ,彼らを黄泉(よみ)で硬(こわ)ばらせ,
18 Let me not be confounded, O Lord, for I have called upon thee.
Let the wicked be ashamed, and be brought down to hell.
19 いつわりのくちびるを,
高慢と侮蔑(ぶべつ)で無礼な口をきく者を黙らせよ.
19 Let deceitful lips
be made dumb. Which speak iniquity against the just, with pride and abuse.
20 あなたの慈しみは深い.
あなたを恐れる人々のためにそれを備え,
あなたによりたのむ人々のために,
人の子らの前でそれを蓄(たくわ)えたもう.
20 O how great is the multitude of thy sweetness, O Lord,
which thou hast hidden for them that fear thee!
Which thou hast wrought for them that hope in thee,
in the sight of the sons of men.
21 あなたは彼らを,み顔の隠れ場に隠し,
人の密謀(みつぼう)から遠ざからせ,
幕屋(まくや)の下におおい隠して,
かむ舌に近づけなかった.
21 Thou shalt hide them in the secret of thy face,
from the disturbance of men.
Thou shalt protect them in thy tabernacle
from the contradiction of tongues.
22 守りの固い町で,
私に豊かにあわれみを示された主を賛美しよう.
22 Blessed be the Lord, for he hath shewn his wonderful mercy to me
in a fortified city.
23 私は不安のうちに,
「あなたの御目の前から断ち切られた」と言ったが,
それなのにあなたは,
私があなたに向かって叫んだとき,
私の願う声を聞かれた.
23 But I said in the excess of my mind:
I am cast away from before thy eyes.
Therefore thou hast heard the voice of my prayer,
when I cried to thee.
24 主を愛せよ,敬虔な者たちよ,
主は忠実な者を守り,
高慢な者にはひときわ厳しく報いられる.
24 O love the Lord, all ye his saints:
for the Lord will require truth,
and will repay them abundantly that act proudly.
25 勇ましくあれ,心を強くもて,
主に希望をおく者たちよ.
25 Do ye manfully, and let your heart be strengthened,
all ye that hope in the Lord.
(注釈)
試練の時の祈り
6 神への信頼は救いによって報いられる.
キリストが十字架上でとなえた祈りの一つがこれである(ルカ聖福音23・46).
16 ヘブライ語では「私のとき」,これは財産や経験なども含む.
* * *
神は無限の存在(訳注・ “infinite Being”. 「全存在の大本〈おおもと〉,源〈みなもと〉,始まりとしての無限の存在」 という意味),無限の真実( “Truth” ),無限の善であり( “Goodness” ),無限に正しく( “just” ),無限に慈悲深い( “merciful” ).神の教会( “Church” )はそう教えています.この考えは雄大かつ素晴らしいもので,それについて私に異論はありません.だが,私は神の教会がそれと同時にまた人の霊魂はたった一回大罪を犯しただけで( “for just one mortal sin” )想像を絶するほどの手厳しくむごい永遠の苦しみに導かれる( “…be damned for all eternity to sufferings harsh and cruel…” )と教えていることも知っています.それについては素晴らしいことなどと言えません.この点について私は異論を差しはさみたくなります.
例を挙(あ)げてみます.私は両親が私に生(せい)を授(さず)けると決める前に相談など受けませんでしたし,私の存在についての,いわば,契約条件についても相談されませんでした.もし前もって相談されていたら,私は教会が教えるような,どちらの場合も共に果てしなく続く,想像もできないほどの至福 “bliss” か想像できないほどの苦痛 “torment” のいずれかを取るといった極端な二者択一( “such an extreme alternative” )に異論を唱えたでしょう.その代わり,私は天国にいる期間が短いのと引き換えに短期間だけ地獄に陥(おちい)るリスク( 訳注・ “only an abbreviated Hell”,=短縮された地獄滞在期間さえ耐えれば済む)を伴(ともな)うもっと穏当(おんとう)な「契約」( “a rather more moderate “contract”” )を受け入れたでしょう.だが,私は事前の相談を受けませんでした.至福と苦痛のいずれも果てしなく続くというのは,私のこの世での( “on earth”,=地上での )短い人生,10年,20年,50年かせいぜい90年ていどの間に今日は在り明日には逝(い)くという束(つか)の間の人生にはとても釣り合わないように思えます.生きとし生けるもの(=人間)は草のごとし( “All flesh is like grass” )ー「人は朝に花開き…夕べに倒(たお)れ,渇(かわ)き,枯(か)れる」(詩編・第90篇6節)( ““In the morning man shall flourish… in the evening he shall fall, grow dry and wither” (Ps. LXXXIX, 6). ” )というわけです.この考え方に立てば,神はとても不公平であるように思え,私は神が本当に存在するのかどうか真面目に疑いたくなります.(訳注後記)
この問題は私たちに真剣な内省を求めます.次のようなことがらを仮に考えてみましょう; すなわち,神が存在されること,神はその教会が言うように正しい方であること,誰に対してもその人の同意なしに重荷を押し付け負わせるのは不当・不公平であること,この世の人生ははかなく,永遠に比べれば煙草の煙のようなものであること,人は誰しもひどい罪を犯していると自覚しない限りひどい罰を受けるはずがないことなどについて,考えてみましょう.こう考えた場合,存在されるはずの神がどうして正しいと言えるのでしょうか? もし神が正しいとすれば,論理必然的にもの心ついた人は誰しも自分が永遠なるものを選んだこと,そしてその選択がどういう意味を持つのかが分かる年齢まで生き続けなければならないはずです.だが,そのようなことは,たとえば神がいたるところで無視され,個々人,家庭,国家の日常で未知のものである今日の世界で果たして可能でしょうか?
その答えは,神は個々人,家庭,国家よりも先におられた(存在される)上位の存在であり( “God comes before individuals, families and States” ),神はあらゆる人間に先立ちどんな人間とも一切かかわることなく無関係に( “prior to all human beings and independently of them all” ),一人ひとりの人の心・霊魂の内部に「語りかける」のであり( “he “speaks” within every soul” ),したがって宗教教育が役に立っていないような霊魂(=人)でも自分が日々選択をしていること,自分だけが自らのために選択していること,そしてその選択が重要な意味を持つことを分かっている( “…still aware that it is making a choice each day of its life, that it alone is making that choice for itself, and that the choice has enormous consequences.” )と考える中でしか見いだせないでしょう.だが,もう一度繰り返しますが,今日私たちが身の周りに見る世界のような神のいない世界( “the godlessness of a world” )で,そのようなことが果たして可能でしょうか?
(それは可能です.)なぜなら,(人々の)心・霊魂への神の「語りかけ」は,いかなる人間による語りかけあるいは世に存在しうるその他のいかなるものによる語りかけよりも,はるかに深く,より絶え間なく続き(=持続し),存在感があり,訴えるものが強い(=〈人の〉心を動かす力が強い)からです.神のみが私たちの霊魂を創造されました.神は無限に存在し続け,その永遠の時空(じくう)の瞬間瞬間に( “for every moment of its never ending existence” )霊魂を創造し続けるでしょう.それゆえに神は一つひとつの瞬間ごとに人の霊魂にとってより親密で近しい存在です.たとえその霊魂の人としての両親と比べたとしても,すなわち単に(肉身を生み出して)霊魂に身体(=肉身) ---身体というものは唯一神のみがその存続を支えられる物質的要素から作り出され(生まれ)るもの( “…body – out of material elements being sustained in existence by God alone.” )ですが--- を合体させ一つに組み立てただけの両親と比べても,神はその両親よりずっと霊魂のより側近(そばちか)くにおられる存在です.同じように,神の善(=善良さ)は魂がその生涯に享受(きょうじゅ)するあらゆる善い物事の背後や内部またそのすぐ下(底)に潜(ひそ)んでおり,霊魂はそれが神の無限なる善(善良さ)( “the infinite goodness of God” )から生じた(=派生〈はせい〉した)副産物にすぎないことを心の奥底で気づいています.「お黙りなさい.私はあなたが誰のことを話しているのか分かっています」と,ロヨラの聖イグナチオ( “St. Ignatius of Loyola” )が小さな花に語りかけました.幼児の笑い声,日々刻々うつろう自然の輝き,音楽,天空の隅々,芸術の傑作(けっさく)などなど --- なおいっそう深い愛情の対象ともなるこのような物事は,それらを愛する人の心(霊魂)に,そのような愛をはるかに超越(ちょうえつ)するより深くて偉大な何ものかが,あるいは --- 何方(どなた)かが --- 存在することを教えてくれます( “even loved with a deep love, these things tell the soul that there is something much more, or – someone.” ).
「おお神よ,私はあなたに望みを託(たく)ました.どうぞ私を狼狽(ろうばい,うろたえ,)させないでください」(詩編・第31篇2節)( “In thee, O God, have I hoped, let me never be confounded” (Ps. XXX, 2). ” )(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
旧約聖書・詩編:第90篇6節
BOOK OF PSALMS, PSALM LXXXIX
“Domine, refugium.”
A prayer for the mercy of God:
recounting the shortness and miseries of the days of man.
89:6
『朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.』
“In the morning man shall grow up like grass;
in the morning he shall flourish and pass away:
in the evening he shall fall, grow dry, and wither.”
* * *
1 第90篇 *神の人モーゼの祈り.
主よ,あなたは代々に,われらの逃れ場だった.
1 PSALM 89 A prayer of Moses the man of God.
Lord, thou hast been our refuge from generation to generation.
2 山々が生まれるより早く,地と世を生むより早く,
神よ,永遠から永遠へとあなたは存在する.
2 Before the mountains were made, or the earth and the world was formed;
from eternity and to eternity thou art God.
3 あなたは人をちりに返らせ,
そしてこう言われる,「人の子らよ,*返れ」.
3 Turn not man away to be brought low:
and thou hast said: Be converted, O ye sons of men.
4 御目には千年すら,過ぎ去った昨日のごとく,
夜の一刻のごとくである.
4 For a thousand years in thy sight are as yesterday, which is past.
And as a watch in the night,
5 *あなたは朝の夢のように,
もえ出る草のように彼らを消し去る.
5 things that are counted nothing,
shall their years be.
6 朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.
6 In the morning man shall grow up like grass;
in the morning he shall flourish and pass away:
in the evening he shall fall, grow dry, and wither.
7 われらは御怒(おんいか)りによって衰(おとろ)え,
憤(いきどお)りによっておじ恐れる.
7 For in thy wrath we have fainted away:
and are troubled in thy indignation.
8 あなたはわれらのとがを御目の前に,
われらのひそかごとをみ顔の光に置かれた.
8 Thou hast set our iniquities before thy eyes:
our life in the light of thy countenance.
9 *われらの日々は御怒りによって過ぎ,
われらの年を一息のように消された.
9 For all our days are spent; and in thy wrath we have fainted away.
Our years shall be considered spider:
10 われらのよわいの日々は七十年,
頑健な人にとっては八十年だが,
その長き間は労苦とむなしさであり,
またたく間にすぎ去り,飛び去っていく.
10 the days of our years in them are threescore and ten years.
But if in the strong they be fourscore years:
and what is more of them is labour and sorrow.
For mildness is come upon us: and we shall be corrected.
11 だれがあなたの御怒りの力を,
あなたの御憤りの恐れを知っていようか.
11 Who knoweth the power of thy anger,
and for thy fear
12 *日々を数えることをわれらに教え,
心を知恵に向かわせ,
12 can number thy wrath? So make thy right hand known:
and men learned in heart, in wisdom.
13 立ちもどり,
あなたのしもべたちをあわれみたまえ.
13 Return, O Lord, how long?
and be entreated in favour of thy servants.
14 *朝はあなたの愛に飽(あ)かせ,
われらの日々をふるい立たせて喜ばせ,
14 We are filled in the morning with thy mercy:
and we have rejoiced, and are delighted all our days.
15 苦しめられた日々,
災いにあわせた年々とてらし合わせて,われらを喜ばせ,
15 We have rejoiced for the days in which thou hast humbled us:
for the years in which we have seen evils.
16 み業(わざ)をしもべたちの上に,
み力をその子らにあらわし,
16 Look upon thy servants and upon their works:
and direct their children.
17 神なる主の慈(いつく)しみを下し,
われらのために手の業(わざ)に力をかし,
われらの手の業を助けたまえ.
17 And let the brightness of the Lord our God be upon us:
and direct thou the works of our hands over us;
yea, the work of our hands do thou direct.
(注釈)
人間のはかなさ
1 人の世のはかなさについて知恵ある者が黙想する歌.人の生は罪によって短くされた
(〈旧約〉創世の書3章).
3 ちりに返ること(創世の書3・19,ヨブの書10・9,34・15,マカバイの書〈上〉2・63).
5 原典に手が入っているらしい.原文,「あなたは彼らを眠りで満たす」とある.眠りは死のこと(エレミア51・39,57).
9 一つの考えが過ぎ去るように,早くも青春は過ぎた.
12 人間のはかなさを知ることから知識が生まれる.すなわち,「神を恐れること」を知る.
13-17 これは全イスラエルに思いをひろげる.
* * * * *
最後のパラグラフの訳注:
詩編:第31篇2節
PSALM XXX
“In te, Domine, speravi.”
A prayer of a just man under affliction.
30:2
『主よ,私はあなたのうちに逃れる,永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.』
“In thee, O Lord, have I hoped, let me never be confounded:
deliver me in thy justice.”
* * *
1 第31篇 歌の指揮者に.ダビドの詩.
1 Psalm 30 Unto the end, a psalm for David, in an ecstasy.
2 主よ,私はあなたのうちに逃れる,
永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.
2 In thee, O Lord, have I hoped,
let me never be confounded:
deliver me in thy justice.
3 御耳を私に向け,私を救いに急ぎ,
私の身を隠す岩となり,
逃(のが)れの固き城となられよ.
3 Bow down thy ear to me: make haste to deliver me.
Be thou unto me a God, a protector,
and a house of refuge, to save me.
4 あなたは私の岩,私の砦(とりで)である,
み名のために私を導き,引き連れ,
4 For thou art my strength and my refuge;
and for thy name's sake thou wilt lead me, and nourish me.
5 私に張られた網(あみ)を破(やぶ)りたまえ.
あなたは私の避難所.
5 Thou wilt bring me out of this snare, which they have hidden for me:
for thou art my protector.
6 私は御手に魂をゆだねる.
真実の神よ,あなたはすでに私を救われた.
6 Into thy hands I commend my spirit:
thou hast redeemed me, O Lord, the God of truth.
7 あなたはむなしい偶像のしもべを憎まれるが,
私は主に身をゆだね,
7 Thou hast hated them that regard vanities, to no purpose.
But I have hoped in the Lord:
8 あなたの愛に喜びおどる.
みじめな私を見下(みお)ろし,
私の魂の悩みを知ったあなたは,
8 I will be glad and rejoice in thy mercy.
For thou best regarded my humility,
thou hast saved my soul out of distresses.
9 私を仇(あだ)の手にまかせず,
私の足を広いところに立たせられた.
9 And thou hast not shut me up in the hands of the enemy:
thou hast set my feet in a spacious place.
10 主よ、私をあわれみたまえ,
私は苦悩の中にいる,
涙が私の目と,
のどとはらわたをむしばむ.
10 Have mercy on me, O Lord,
for I am afflicted:
my eye is troubled with wrath,
my soul, and my belly:
11 私の命は悲しみのうちに消え,
年は嘆(なげ)きのうちに去った.
力は悲惨(ひさん)のうちにしぼみ,
骨はとけていった.
11 For my life is wasted with grief:
and my years in sighs.
My strength is weakened through poverty
and my bones are disturbed.
12 私は敵に汚名(おめい)を着せられ,
近くの人には恐れられ,
知人には恐怖となり,
外で私を見た人は逃げだした.
12 I am become a reproach among all my enemies,
and very much to my neighbours;
and a fear to my acquaintance.
They that saw me without fled from me.
13 私は死人のように人の心から忘れられ,
捨てられる瓦礫(がれき)のようになった.
13 I am forgotten as one dead from the heart.
I am become as a vessel that is destroyed.
14 私は他人の讒言(ざんげん)を耳にした,いたるところから私に恐怖が襲(おそ)った.
彼らは私に逆らって謀(はか)り,私の命を奪(うば)おうとした.
14 For I have heard the blame of many that dwell round about.
While they assembled together against me, they consulted to take away my life.
15 だが,主よ,私はあなたによりたのみ,
「あなたは私の神」と言う.
15 But I have put my trust in thee, O Lord:
I said: Thou art my God.
16 私の運命はあなたの御手にある,私を解放し,
敵としいたげる者の手から救いたまえ.
16 My lots are in thy hands. Deliver me
out of the hands of my enemies; and from them that persecute me.
17 あなたのしもべの上にみ顔を輝かし,
愛によって私を救い,
17 Make thy face to shine upon thy servant;
save me in thy mercy.
18 あなたにこいねがう私を辱(はずかし)めたもうな,
罪人は恥辱を受けよ,彼らを黄泉(よみ)で硬(こわ)ばらせ,
18 Let me not be confounded, O Lord, for I have called upon thee.
Let the wicked be ashamed, and be brought down to hell.
19 いつわりのくちびるを,
高慢と侮蔑(ぶべつ)で無礼な口をきく者を黙らせよ.
19 Let deceitful lips
be made dumb. Which speak iniquity against the just, with pride and abuse.
20 あなたの慈しみは深い.
あなたを恐れる人々のためにそれを備え,
あなたによりたのむ人々のために,
人の子らの前でそれを蓄(たくわ)えたもう.
20 O how great is the multitude of thy sweetness, O Lord,
which thou hast hidden for them that fear thee!
Which thou hast wrought for them that hope in thee,
in the sight of the sons of men.
21 あなたは彼らを,み顔の隠れ場に隠し,
人の密謀(みつぼう)から遠ざからせ,
幕屋(まくや)の下におおい隠して,
かむ舌に近づけなかった.
21 Thou shalt hide them in the secret of thy face,
from the disturbance of men.
Thou shalt protect them in thy tabernacle
from the contradiction of tongues.
22 守りの固い町で,
私に豊かにあわれみを示された主を賛美しよう.
22 Blessed be the Lord, for he hath shewn his wonderful mercy to me
in a fortified city.
23 私は不安のうちに,
「あなたの御目の前から断ち切られた」と言ったが,
それなのにあなたは,
私があなたに向かって叫んだとき,
私の願う声を聞かれた.
23 But I said in the excess of my mind:
I am cast away from before thy eyes.
Therefore thou hast heard the voice of my prayer,
when I cried to thee.
24 主を愛せよ,敬虔な者たちよ,
主は忠実な者を守り,
高慢な者にはひときわ厳しく報いられる.
24 O love the Lord, all ye his saints:
for the Lord will require truth,
and will repay them abundantly that act proudly.
25 勇ましくあれ,心を強くもて,
主に希望をおく者たちよ.
25 Do ye manfully, and let your heart be strengthened,
all ye that hope in the Lord.
(注釈)
試練の時の祈り
6 神への信頼は救いによって報いられる.
キリストが十字架上でとなえた祈りの一つがこれである(ルカ聖福音23・46).
16 ヘブライ語では「私のとき」,これは財産や経験なども含む.
* * *
2011年1月26日水曜日
神は少数しかお選びにならないか?
エレイソン・コメンツ 第184回 (2011年1月22日)
人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?
簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.
限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?
大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)
神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』
(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.
→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』
…
-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』
(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)
(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』
***
第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』
(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).
***
第4パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)
-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)
***
第4パラグラフ最後の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)
(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
「さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」
(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.
人の霊魂の救済が一見難しいように見えるのはなぜでしょうか? なぜ - 私たちがよく聞くように - 地獄に堕(お)ちる霊魂の数に比べ救われて天国に至る霊魂がほんの少数しかいないのでしょうか? 神は全ての霊魂の救いを願っておられるわけですから(ティモテオへの第一の手紙・第2章4節参照)(訳注後記),それをいくぶん容易にすることがお出来になるはずなのに,なぜそうされないのでしょうか?
簡単に即答すれば霊魂の救済はさほど難しくないのです.地獄に堕ちる霊魂にとっての苦悶のひとつは,地獄に堕ちるのを容易(たやす)く防ぐ術(すべ)をはっきりと知っていたのに(訳注・つまり永遠の破滅は簡単に避けられるとわかっていたのに),という後悔の念です.非カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「カトリシズム(カトリック教義)に一理あるのは知っていたが,カトリック教徒になると生き方を変えなければならないのが分かっていたのでその選択をしなかった」と言うでしょう.(ウィンストン・チャーチルはかつて,人は誰しも一生のある時期に真実に遭遇(そうぐう)するが,たいていの人はそれから目を背(そむ)けてしまう,と言いました.)カトリック教徒で地獄に堕ちた人たちは「神は私にカトリック信仰を与えて下さり,私がなすべきことはきちんと告解をすること(訳注・=「告解(告白)の秘蹟」.カトリック司祭に自分の罪を告白し罪の赦しの秘蹟を受けること.)だと知っていました.だが私は告解を先延ばしにした方がより好都合だと考え,そのため自分の犯した数々の罪のうちに死ぬはめになったのです…」と言うでしょう.地獄に堕ちた霊魂はみな,そのような結果になったのは自らの過(あやま)ち,選択によるものだと分かっています.責められるべきは神ではないのです.事実,彼らは現世での人生を振り返り,自分たちが地獄に堕ちずに済むよう神がどれほど懸命に努められたかをはっきり理解しています.にもかかわらず,彼らは自らの自由意志で自らの宿命を選び,神はその選択を尊重されたわけです….だが,このことをもう少し深く掘り下げて考えてみましょう.
限りなく善良で,限りなく寛大で,限りなく幸福な神は,その幸福を分かち合える生き物を義務ではなく進んで創造されました.神は純粋な霊ですから(ヨハネ聖福音書・第4章23節参照)(訳注後記),その生き物もまた動植物や鉱物のようにただ物質的な存在たるのみにとどまらず,霊的な存在でもあるべきです.それ故に,物質的なものをいっさい持たない天使と物質的な肉体に霊的な魂を宿(やど)す人類が創造されたのです.だが天使や人間が神の幸福を分かち合うための霊魂そのものには必然的に理性と自由意志がそなわっています.実際のところ,霊魂が神の幸福を分かち合うのにふさわしいのは自由意志が自由に働いて神を選択するときです.だが,もし神に背を向けうるような別の選択肢が何もないとすれば,その神の選択が真に自由だとどうして言えるでしょうか? シェイクスピアの著作物しか売っていない書店で,ある少年がシェイクスピアの本をたくさん買う選択をしたとしても褒(ほ)めるに値(あたい)するでしょうか? そして,もし悪い選択肢が存在し,自由意志がただの見せかけでなく本物だとしたら,その良からぬ選択をする天使や人間があり得ないとどうして言い切れるでしょうか?
大多数の霊魂(マテオ聖福音書・第7章13-14節,20章16節参照)が神の愛を拒んで恐ろしい罰を被(こうむ)ることになると神はどうやって予見したのだろうかという疑問が残るかもしれません(訳注後記).その答えは,地獄が恐ろしければ恐ろしいほど,神が生きている人間一人ひとりにそれを避けるのに必要な恩寵と光と力を与えて下さっていることがますます確かだということです.だが,聖トマス・アクィナスが説明している通り,大多数の人間は五感のなかでも将来天国で味わえる未知の喜びよりも現在既に知っている喜びの方を好むものです.ではなぜ神はそのような強い喜びを五感に加えられたのでしょうか? 一つには疑いなく親たちが子供を天国に行けるように育てることを確実なものとするためですが,同様に確かなことは,現世での喜びの追求を来世での真の歓喜よりも下に置く人間を,より一層称賛に値するものとするためです.来世で味わえるあらゆる真の歓喜は(天国に入ることを)望むすべての人たちにとって自分たちのものなのです! (天国に入るために)私たちにただ必要なことは十二分に激しくそれ(来世での真の歓喜)を望むことだけです(マテオ聖福音書・第11章12節参照)! (訳注後記)
神は決して凡庸(ぼんよう)な神ではありません.そして神を愛する霊魂たちには凡庸でない最良の素晴らしい天国を与えたいと願っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・(聖パウロによる)ティモテオへの第一の手紙:第2章4節
-『すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』
(注釈)
(聖パウロによる)ローマ人への手紙〈9章18,21節〉の解釈を助ける神学的に重要なことば.
→新約聖書・ローマ人への手紙:第9章18節,21節
-『であるから神は望みの者にあわれみを垂れ,*望みの者をかたくな(頑な)にされる.』
…
-『つぼ造りは同じ土くれをもって,尊いことに用いる器(うつわ)と卑(いや)しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか.』
(*神が人間を頑固にするというのは,人間が自由に神に逆らうから,神の元の計画を踏みはずすような状態になることである.しかし,前もって知られている人間のこの逆らいは,それすらも,神のひろい計画に入っている.すなわち,人間の逆らいすら摂理に協力するのである.(これはメシアを認めようとしなかったイスラエル人の場合である.)
(同章19節と20節)
-『あなたはこう言うかもしれない,「なぜ神は人をなおとがめるのか.だれが神のみ旨(むね)に逆らえるのか」と.』
-『だが人間よ,神に口答えするあなたは何者か.造られた者が造ったものに向って,「どうしてあなたは私をこのように造ったのか」と言えようか.』
***
第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第4章23節
-『まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.御父はそういう礼拝者を望まれる.』
24節→『神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ.』
(解説)
主イエズス・キリストが,(ユダヤ人と交流のない)サマリアの町に入り,サマリア人の女に飲み水(井戸の水)を所望されて言われた御言葉.そのサマリア人の女は町で村八分にされていたため,誰も来ない真昼間の暑い最中に独りで水を汲みに来ていた.この女に向ってキリストは「救いはユダヤ人から来るが,サマリア人の拝む山でもユダヤ人の拝むエルサレムでもなく(ユダヤ人の礼拝も,サマリア人の礼拝も,ともに廃止されるであろう〈バルバロ神父による注釈〉),まことの礼拝者が霊と真理をもって神を拝む時が来る」,と言われた.キリストはまずこの村八分の女に宣教され,女は走って行って町の人々にメシア(救世主)の到来を知らせる(宣教する)こととなった.(神〈キリスト〉は異邦人をもまことの救いに招かれている).
***
第4パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節,20章16節
-『狭い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(*ブルガタ訳その他のいくつかの写本の訳…「門は大きく,道は広い…」とある.)
-『このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう.*』
(*「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある)
***
第4パラグラフ最後の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第11章12節
-『洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力で攻められ,暴力の者がそれを奪う.』〈キリストの御言葉〉)
(バルバロ神父訳「合併版聖福音書」における注釈より)
「さきに洗者ヨハネの宣教があったので,それからイエズスを聞いた多くの人人は,熱心に神の国に入りそれを奪う.」
(解説)
つまり,暴力で天国を攻める者たちが天国を奪い取っている.我先を争って熱心に天国に入りたいと望む霊魂たちが大勢増えている.
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