エレイソン・コメンツ 第392回 (2015年1月17日)
神が善良に造られた私達の本質を
アダムが台無しにしてしまいました.
(かみが
ぜんりょうに つくられた
わたくしたちの ほんしつを
あだむが だいなしに して
しまい ました.)
神により(由り)
善良に成りたいと願う
私達の本質は,
アダムが駄目にします.
(かみに より
ぜんりょうに なりたいと ねがう
わたくし たちの ほんしつは,
あだむが だめに します.)
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.
広い星空の下に
(ひろい ほしぞらの したに)
Under the wide and starry sky
墓を掘り私をそこへ眠らせておくれ
(はかを ほり
わたくしを そこへ ねむらせて おくれ)
Dig the grave and let me lie
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
(わたくしは いきてきて
よかったと おもい,
よろこんで しぬ)
Glad did I live and gladly die,
そして,私は自らの意志でそこに横たわる
(そして,わたくしは
みずからの いしで そこに よこたわる)
And I laid me down with a will.
この碑文を私の墓に刻んでほしい
(この ひぶんを
わたくしの はかに きざんで ほしい)
This be the verse you ’grave for me:
彼は望みどおりのところで眠る
(かれは のぞみ どおりの ところで ねむる)
Here he lies where he longed to be.
船乗りは海から家へ帰る
(ふなのりは うみ から いえへ かえる)
Home is the sailor, home from sea
そして,猟師は丘から家へ帰る
(そして,りょうしは おか から いえへ かえる)
And the hunter home from the hill
—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
—R.L.Stevenson (1850–1894)
詩人の墓に刻まれたこの(此の)碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り(しじんの はかに きざまれた この ひぶんは かんけつ ながら,その しんじょうを ゆうべんに かたり)( "This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, …" ),それ(其れ)が人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすもの(物)があり(在り・有り)ます(それが じんせいで さけられない し に ふれて いる だけに,ひとの こころを うごかす ものが あります)( "… and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life." ).詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います(しじん たちは せいと あいを しのんで し を さくひんの てーま として あつかい ます)( "Commemorating life and love, poets often treat of death, …" ).死は生と愛を神秘的に断ち切るものです(し は せい と あい を しんぴ てきに たち きる もの です)( "… which so mysteriously cuts off both." ).生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者達は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします(せいや しの いみを かんがえる ことを のぞまない あわれな ゆいぶつ しゅぎ しゃ たち は し を ぶんだん して,かのう なら それを さんぶん として ぷりんと しよう と します)( "Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, …" ).それは,正しく物質より高度な物について考えるのを避ける為です(それは まさしく ぶっしつ より こうどな もの について かんがえる のを さける ため です)( "… precisely to avoid having to think about anything higher than matter." ).だが,其の様な事をしても,神秘は残ります(だが,そのような ことを しても,しんぴは のこり ます)...( "But the mystery remains . . ." )
理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です(りろん てき には, すちーぶんそんの ひめいは ゆうかん です)( "In theory, Stevenson’s epitaph is brave." ).彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で(かれは かくせつの おわりの さんぎょう,つまり はっせつの うちの ろくぎょうで)( "In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, …" ),6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています(ろく とおりの ちがう ひょうげんを もちいて じぶんは しあわせに しぬと いって います)( "… he says in six different ways that he is happy to die." ).だが,詩は矛盾に満ちています(だが,しは むじゅんに みちて います)( "But the poem is laden with contradiction." ).「生きて来て良かった」と云うなら,如何して喜んで死ねるのでしょうか?(「いきてきてよかった」というなら,どうして よろこんで しねる の でしょう か?)( "If “Glad did he live,” how could he gladly die? " ) 若し,死んで良かったと思うなら,如何して生きて来て良かったと思うのでしょうか?(もし,しんで よかったと おもう なら,どうして いきて きて よかったと おもう の でしょう か?)( "If he was so glad to die, how could he have been glad to live? " ) 彼が云う様に喜んで死ぬ為には(かれが いうように よろこんで しぬ ため には)( "To be as glad to die as he claims, …" ),彼は生きる意志を失ったか(かれは いきる いしを うしなった か),或いは其の意思を断念したに違い有りません(あるいは その いしを だんねん したに ちがい ありません)( "… he must have lost his will to live, or shut it down, …" ).其れを彼が出来たのは(それを かれが できた のは),自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在等を拒んだからで(じぶんの どうぶつ てきな し を こえた うんめい,いぎ,そんざい など を こばんだ からで)( "… which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, …" ),そうする事が出来たのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう(そう する ことが できた のは,じぶんが たん なる どうぶつ だと よそおった から でしょう)( "… and this he could only do by pretending to be no more than an animal." )(訳注3・1 ).だが,何の様な動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?(だが,どのような どうぶつが ゆうべんで かんどう てきな し を かく でしょうか?)( "But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching? " )
嗚呼,ロバート・ルイスよ,貴方は決して動物等では在りませんでした(ああ,ろばーと・るいすよ,あなたは けっして どうぶつ など では ありません でした)( "O Robert Louis, you knew you were not just an animal." ).貴方は多くの文学作品を書きました(あなたは おおくの ぶんがく さくひんを かきました)( "You took the trouble to write many literary works, …" ).其の中には,少年達を魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」が在ります(その なか には,しょうねん たちを みりょう した いのちと ぼうけんの ものがたり「たからじま」や ふはい と し の ものがたり「じきる はかせと はいど し」が あります)( "… including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, …" ) .そして貴方の作品は貴方を世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています(そして あなたの さくひんは あなたを せかい じゅうで にじゅうろく ばん め に おおく ほんやく されて いる さくしゃに して います)( "… and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world." )貴方の両親が長老派教会員で,19世紀半ば頃多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン(カルバン)派だったのは事実です(あなたの りょうしんが ちょうろうは きょうかい いん で,じゅうきゅう せいき なかば ごろ おおくの ぜんりょうな ひとびとを むしん ろんじゃに かえ させたがんこな かるびん〈かるばん〉 は だった のは じじつです)( "True, your parents were Scottish Presbyterians, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist." ).だが,貴方は如何して死を前に,其れ程控え目に自分を曝け出したのでしょうか?(だが,あなたは どうして し を まえに,それほど ひかえめに じぶんを さらけだした の でしょう か?)( "But how could you sell yourself so short at death? " )貴方は如何して死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?(あなたは どうして し は「いえ」へ かえる のと おなじ だと ふるまえた の でしょうか?)( "How could you pretend that death is “home”? " )
創造主は抑々人間という理性的な動物に動物的な死等設計されませんでした(そうぞうしゅは そもそも にんげん という りせい てきな どうぶつに どうぶつ てきな し など せっけい されません でした)( "The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. " ).アダムとイブ(=エワ・エバ)以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性若しくは道理を十分発揮して居たなら(あだむと えわ〈=いぶ〉 いこうの あらゆる にんげんが さだめ られた このよの いのちの きかん ちゅう,ごうり せい もしくは どうりを じゅうぶん はっき していた なら)( "Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, " ),避け難い動物的死では無く,理性の活用が当然もたらす(齎す)永遠の命に難無く滑り込めたでしょう(さけがたい どうぶつ てき し では なく,りせいの かつようが とうぜん もたらす えいえんの いのちに なん なく すべり こめた でしょう)( "then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. " ).だが,創造主の御意図はアダムが其れに背き(だが,そうぞうしゅの おんいと は あだむが それに そむき),最初の御父なる神との神秘的な結び付きに由り(さいしょの おんちち なる かみ との しんぴ てきな むすびつき に より),其の後の人類を原罪に引きずり込んだ為台無しに成って終いました(そのごの じんるいを げんざいに ひきずりこんだ ため だいなしに なって しまい ました)( "But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. " ).其の時の瞬間以来,矛盾があらゆる人間の本質と生命に付き物と成っています(そのときの しゅんかん いらい,むじゅんが あらゆる にんげんの ほんしつと せいめいに つきものと なって います)( "From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, " ).何故なら,神の造られた私達の本質はアダムの齎した堕落した本質と仲違いして居るからです(なぜなら,かみの つくられた わたくし たちの ほんしつは あだむの もたらした だらく した ほんしつと なか たがい して いる から です)( "because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. " ).私達の――偽物で無い――本当の「諸諸の不死の願望」(immortal longings)は神が神の為に造られた私達の本質に根差す物で在る( "Our true – not false – “imm ortal longings” come from our nature as made by God and for God, " )のに対し(わたくしたちの――にせもので ない――ほんとうの「もろもろの ふしの がんぼう」は かみが かみの ために つくられた わたくしたちの ほんしつに ねざす もの である のに たいし),私達の動物的死は堕落した私達の本質だけに取っての「家」(home)なのです(わたくしたちの どうぶつてき し は だらく した わたくしたちの ほんしつ だけに とっての「いえ」なのです)( "while our animal death is “home” only to our nature as fallen. " ).聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(せい ぱうろは「わたくしは ふこうな にんげんだ.だれが わたくしの にくたいに し を もたらす のだろうか?それは,わたくしの しゅ,いえずす・きりすと により もたらされる かみの おんちょう である」と さけんで います)(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節)( " “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.” " ).(訳注・5・1)
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注3・1 )
…自分が単なる動物だと装ったからでしょう
… this he could only do by pretending to be no more than an animal.
(=単なる動物を装った.単なる動物のふりをした.単なる動物として振る舞った)
* * *
(訳注5・1 )
使徒聖パウロによるローマ人への書簡 (Rom.VII, 24–25)
24 私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
25主イエズス・キリストによって神に感謝せよ.
こうして私は理性によって神の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.
Douay-Rheims Version
24 Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death?
25 The grace of God, by Jesus Christ our Lord.
Therefore, I myself, with the mind serve the law of God; but with the flesh, the law of sin.
Epistola Ad Romanos, (Vulgatæ Editionis)
24 Infelix ego homo, quis me liberabit de corpore mortis huius?
25 Gratia Dei per Iesum Christum Dominum nostrum.
Igitur ego ipse mente servio legi Dei: carne autem, legi peccati.
* * *
神が善良に造られた私たちの本質をアダムが台無しにしてしまいました.
神により善良になりたいと願う私たちの本質は,アダムがだめにします.
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.
Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.
This be the verse you ’grave for me:
Here he lies where he longed to be.
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill
—R.L.Stevenson (1850–1894)
(大意)
広い星空の下に
墓を掘り
私をそこへ眠らせておくれ
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
そして,私は自らの意志でそこに横たわる
この碑文を私の墓に刻んでほしい
彼は望みどおりのところで眠る
船乗りは海から家へ帰る
そして,猟師は丘から家へ帰る
—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
詩人の墓に刻まれたこの碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り,それが人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすものがあります.詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います.死は生と愛を神秘的に断ち切るものです.生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします.それは,まさしく物質より高度なものについて考えるのを避けるためです.だが,そのようなことをしても,神秘は残ります.
This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life. Commemorating life and love, poets often treat of death, which so mysteriously cuts off both. Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, precisely to avoid having to think about anything higher than matter. But the mystery remains . . .
理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です.彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で,6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています.だが,詩は矛盾に満ちています.「生きてきて良かった」というなら,どうして喜んで死ねるのでしょうか? もし,死んで良かったと思うなら,どうして生きてきて良かったと思うのでしょうか? 彼が言うように喜んで死ぬためには,彼は生きる意志を失ったか,あるいはその意思を断念したにちがいありません.それを彼ができたのは,自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在などを拒んだからで,そうすることができたのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう.だが,どのような動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?
In theory, Stevenson’s epitaph is brave. In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, he says in six different ways that he is happy to die. But the poem is laden with contradiction. If “Glad did he live,” how could he gladly die? If he was so glad to die, how could he have been glad to live? To be as glad to die as he claims, he must have lost his will to live, or shut it down, which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, and this he could only do by pretending to be no more than an animal. But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching?
ああ,ロバート・ルイスよ,あなたは決して動物などではありませんでした.あなたは多くの文学作品を書きました.その中には,少年たちを魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」があります.あなたの作品は,あなたを世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています.あなたの両親が長老派教会員で,19世紀半ばころ多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン派だったのは事実です.だが,あなたはどうして死を前に,それほど控えめに自分をさらけ出したのでしょうか? あなたはどうして死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?
O Robert Louis, you knew you were not just an animal. You took the trouble to write many literary works, including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world. True, your parents were Scottish Presbyterian s, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist. But how could you sell yourself so short at death? How could you pretend that death is “home”?
創造主はそもそも人間という理性的な動物に動物的な死など設計されませんでした.アダムとイブ以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性もしくは道理を十分発揮していたなら,避けがたい動物的死ではなく,理性の活用が当然もたらす永遠の命に難なく滑り込めたでしょう.だが,創造主の御意図はアダムがそれに背き,最初の御父との神秘的な結びつきにより,その後の人類を原罪に引きずり込んだため台無しになってしまいました。その時いらい、矛盾があらゆる人間の本質と生命につきものとなっています.なぜなら,神の造られた私たちの本質はアダムのもたらした堕落した本質と仲たがいしているからです.私たちの偽物でない本当の「もろもろの不死の願望」(immortal longings)は神が神のために造られた私たちの本質に根差すものであるのに対し,私たちの動物的死は堕落した私たちの本質だけにとっての「家」(home)なのです.聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節).
The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. Our true – not false – “immortal longings” come from our nature as made by God and for God, while our animal death is “home” only to our nature as fallen. “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.”
キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡の引用)の続きを追って掲載いたします.
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本投稿記事・第392回エレイソン・コメンツ「矛盾する碑銘」 "CONTRADICTORY EPITAPH" ( 2015年1月17日付)は2015年8月14日23:40に掲載されました.
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2015年1月17日土曜日
2011年4月11日月曜日
揺れている責任
エレイソン・コメンツ 第193回 (2011年3月26日)
今日,多くの人は神について感傷的な考え方をしているか,あるいは神の持つ御力についてわずかばかりの知識しか持ち合わせていません.だから神が罰を下すとか,ましてそのために物質的な宇宙や気候を用いられるなど想像もできないのです.だが,私たちが日本で目にしたような大災害を引き起こす地球のきわめて不安定な地殻変動は,人間の罪がもたらした結果であり,それに対する天罰だとする根強い議論が存在します.ここではその議論をご紹介します(この議論について私は決して学校で習ったことはありません):--
アダムとエバが罪を犯す以前,人間性は神の輝かしい創造物でした.それは強くて安定したものでしたが,壊れることがないというものではありませんでした.神への反抗心がそれを壊し得たのです.したがって,アダムとエバが原罪を犯したとき,彼らのあらゆる子孫(私たちの主キリストと聖母マリアを除いて)が傷ついた性質を受け継ぎました.以来(いらい),私たちはみな苦難を受け,死に,かつ努力,苦労しなければ下劣・俗悪な性質を制御できない定めとなったのです.このことは地球の物理的特質についても同様です.ノアの時代に洪水が起こる前は,地球は楽園のようで,神の輝かしい創造物であり強くて安定した存在だったのですが,決して破壊され得ないものではありませんでした.人類すべてが堕落すれば(創世の書・6章5,11,12節参照)それは壊れ得たのです.(訳注後記)
今日の地質学者たちは聖書に出てくる洪水など信じないかもしれませんが,例えば北アメリカのロッキー山脈のような世界各地にある山脈の標高の高い場所から今日発見される海洋動物の化石の痕跡(こんせき)を説明する手段として,地球の有史以前にある種のとてつもない激変があったことは信じています.地質学者たちの打ちたてた仮説によれば,地球の岩板(がんばん)からなる外周は巨大な地下水層によって地球の中心部から隔(へだ)てられ,岩板層が重力で地下水を押しとどめていました.もしその岩板の球殻(きゅうかく)のどこかにいったん亀裂が生じれば,その下に押し込められていた水は地表に向って爆発的に噴(ふ)き出し地表に氾濫し,岩板は地下水層のあった所へ落下します.これに伴う巨大な緊張は大洪水を引き起こし世界中を崩壊させ得る力を持つのです.(聖書によると,洪水を起こしたのは空から降った雨だけでなく地下から上に噴き出した地下水だったことが明らかな点にご注目ください:創世の書・7章11節,8章2節参照)(訳注後記)
だが次のことは疑う余地もないほど明らかです.すなわち,仮に地球全体を覆う岩板外周が内部に向って崩落し,より小規模の外周を形成したとすれば,あまりにもわずかな場所に対して岩板があまりにも多すぎ,その結果,岩板は壊(こわ)れ互いに衝突しあう地殻変動プレートを作り出しただけでなく,さらにクシャクシャにぶつかり合い今日の私たちの住む惑星(わくせい)で目に見える様々な地質的特徴を形作ったのです.巨大な山脈や,海よりはるか高い場所へ持ち上げられた様々な海洋動物の化石がその例です.エベレスト山は今でも,中国とチベットにあるユーラシア・プレートの下に押し込められているインド・プレートにより毎年数センチメートル持ち上げられています.
こういうわけで,原罪が犯されて以来,それが人間性の中に懲罰的な緊張を生み出したのと同様に,人類の有史以前の堕落が私たちがたった今目にしている歴史的な日本の地震,津波のようなあらゆる大災害の根底をなす地殻内部の緊張を生み出したのです.聖母は1946年フランスのラ・サレット “Our Lady at La Salette in 1846” で次のように仰せになりました.「自然界は人間のせいで報復(ほうふく)を求めており,犯罪にまみれた地球に必ず降り懸かるに違いない大災害の恐怖に震えおののいています.おののきなさい,地球よ.そしてイエズス・キリストに仕えていると公言しながら内心では,ただ自分を崇拝しているだけの者たちよ,恐怖におののきなさい.なぜなら各地の聖なる場所が堕落し腐敗した状態になっているため,神があなたたちをその敵(悪魔)に引き渡されるからです.」(訳注・後日追加します)
私たちはみなおののきましょう! みな神に祈りましょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
①第2パラグラフの内容についての訳注:
アダムとエバの犯した原罪について:
(人類の背きの罪)
1・神の人類創造
旧約聖書・創世の書:第1章26-28
『…ここで,神は,こう仰せられた,「*¹われらに似せて,われらにかたどって,*²人間をつくろう.そして海の魚と,天の鳥と,家畜と,野の獣と,地にはうものすべてを,これにつかどらせよう」と.
神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた.人間を神のかたどりとし,男と女につくりだされた.
神は人間を祝福して仰せられた,
「生めよ,ふえよ,地に満ちて,地を支配せよ.
海の魚と,空の鳥と,(家畜と,)地をはう生き物をつかさどれ」.』
(注釈)
*¹…アダム(人間)は,主としてその精神と意志において神に似たものである.聖書は,人間について,楽観的な反面,悲観的な考え方をもっている.すなわち,人間の卑小さは,創造されたものであるところからきている.「神に似たもの」であるからして,人間はまったく他の動物と異なり,「ペルソナ」をもつものである.後にキリストの恩寵によって,人間は別な意味で「神の本質」にあずかることとなる.
*²「人間」の箇所は,ヘブライ語では「アダム」となっている.アダムについている動詞は複数で,集合名詞としての「人間」を指している.ここから,神が最初から「多くの男女」をつくったと推理するのは思い過ごしである.第2章では,もう一度人間創造のことが語られるが,このときは「アダム」が単数である.
* * *
2・原罪
旧約聖書・創世の書:第3章
(人祖の最初の罪)(3・1-24)
『さて,主なる神がつくられた野の生き物のなかでいちばん*¹ずるがしこかった*¹へびが,*²女に言った,「〈園のどんな木の実も食べてはいけない〉と,神が言われたそうだが,それはほんとうか」.女はへびに答えた,「園にある木の実は食べてもいいのです.ただ,園の奥にある木の実だけについては,〈それを食べても,それに触れてもいけない,そうすると,死ぬことになる〉と,神は言われました」.
へびは女に言った,「いや,そんなことで死にはしない.おまえたちがその実を食べれば,そのとき目がひらけ,善と悪を知る*³天人のようになると,神は知っているのだ」.女には,その木の実がうまそうで,見ても美しく,*⁴成功をかち取るには望ましいもののように思えた.そこで女は,その木の実を取って食べ,いっしょにいた男にも与え,男もそれを食べた.*⁵そのとき,二人の目はひらけ,自分たちが裸でいるのが分かったので,いちじくの葉を縫い合わせて腰巻にした.』
(注釈)
*¹ギリシア語では知恵に富んだという意味のことばも用いているが,多くは,ずるがしこいの意味の言葉を用いている.
*²女は信じやすく,へつらいに弱いからだというのが通説である.
*³七十人訳とブルガタ訳では,「神」(エロヒム)が「神々」と複数になっていて,神の宮廷にいる天使や天人の意味にとっている.これが正しいであろう.いくらエバでも,神の全知には手が届かないと知っていたであろう.へびは女に向かって,天人の豊かな生命力と超人的な力とを受けよと言ったわけである.(5-6節)
*⁴女は思い上がった考えにそそのかされて,禁断の木の実をながめ,美しくてうまそうで,それを食えば万事うまくいくであろうと認めた.つまり,生物的な,精力的なエネルギーと,神のような超人的な事実の知識を望んで,それを食べた.
*⁵だが人間は,生物的にも倫理的にも,虚無であるもの,裸のものだと悟った.
* * *
『さて,日中のそよ風のとき,*¹園を歩かれる主なる神の足音を聞きつけた男は,妻とともに,み前をさけて,園の木々の間に逃げ隠れた.主なる神は,男を呼んで,「*²どこにいるのか」と仰せられた.「園であなたの足音を聞きましたが,私は裸なので,こわくなって,隠れました」と男は言った.「裸であることを,だれが,おまえに言ったのか.さては,私が食べるなと命じたあの木の実を食べたのだな」男は答えた,*³あなたが私のそばにおいてくださった女が,あの木の実をくれたので,私も食べました」.主なる神は,女に向かって仰せられた,「どうして,そんなことをしたのか」.女は答えた,「へびにだまされて食べました」.』
(注釈)
*¹人祖が罪を犯す前は,このように神と親しかったということを,比ゆ的に表現したものである.
*²神が人間のいるところを知らなかったのではない.園の番人として,いつもいるべきところにいないから,神はこうきかれた.
*³彼は自分の責任を避け,エバを仲間にした神に責任を負わせる.
* * *
『そこで,主なる神はへびに向かって仰せられた,
「*¹おまえは,
そのようなことをしたのだから,
すべての家畜と野の獣のなかでのろわれたものとなろう.
おまえは、生あるかぎり,
腹ばい,ちりを食うこととなる.
*²私は,おまえと女との間に,おまえのすえと女のすえとの問に,
敵意を置く.
女のすえは,おまえの頭を踏みくだき,
おまえのすえは,女のすえのかかとをねらうであろう」.
それから,女に向かって仰せられた,
「*³私は,おまえの苦しみと身ごもりの数を大いにふやす.
おまえは苦しみつつ子を生むことになる.
おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する」.
それから,男に向かって仰せられた,
「おまえは妻の言うがままになり,
私が〈食べるな〉と命じた木の実を食べたから,
おまえゆえに,地はのろわれる.
生きつづけるかぎり,おまえは苦労して,地から糧を得るであろう.
*⁴地はおまえのために,いばらとあざみを生やし,
おまえは野の草を食うことになろう.
さらに,おまえは,順に汗を流して,*⁵糧を得るだろう.
土から出たおまえなのだから,その土にかえるまで.
ちりであって,ちりにかえるべき者よ」.』
(注釈)
*¹14-19節 神の罰は,個々のものをこえ,へびそのもの,女そのもの,男そのものに向けられる.へびについては,その裏にいる悪魔的なものを指す.セム族にとって,へびは尊敬すべきものであったが,ここではのろわれたものとして指摘されている.
*²ここは,昔からカトリックの学者が,「メシア」的な意味にとったところである.すなわち,悪魔(へび)と戦う「子孫」がキリストを暗示しているという考え方である.しかし,解釈はさまざまである.七十人訳ギリシア語では「彼」と訳されているが,この男性の代名詞は,スペルマ(種子,子孫)という」中性名詞と一致しない.同時に女性にも用いられないから,むしろ「メシア」を暗示するために「彼」を用いたのではないだろうか.
旧ラテン語訳もヒエロニムス訳も,「彼」と男性になっている.昔の神学者の多くは,女性がマリアを暗示していると考え,キリスト(「彼」)がへびの頭を踏みつぶして人類をあがなう意味にとったが,現代の聖書学者の多くは,「女の子孫」を全人類と見,その全人類のかしらであるキリストが当然第一の者としてそこに含まれていると考える.そこで,15節(*²)の「女」を,昔の神学者がマリアととったのに比較し,今では,それを集合名詞の女性と見,そして女性の代表としてのマリアが当然第一の者としてそこに含まれると考える.
*³人類に対して判決を下した神は,アダムとエバに慈悲を垂れ,へびにしたようにのろいはされなかった.ただ,服従を忘れた高慢な人間が,自然と出会う苦しみを指摘する.原罪がなかったならば,女の陣痛もなかっただろうし,性の面でも,暴行を受けたり,もてあそびの道具のようになることもなかったであろう.
*⁴自然界も,人間の神への反逆を映したように,人間に反抗的である(イザヤ〈旧約〉33・9).「野の草」は穀物類のことらしい.
*⁵「糧(かて)」はパンのことである.
* * *
『それから男は妻を*¹エバと名づけた.彼女は,生きるすべての人人の母となったからである.』
(注釈)
*¹聖書では女の命名を記録することが少ない(〈旧約〉創世30・21,ヨブ42・14).しかも,その名の意味を伝えるのは、この一箇所だけである.エバの語源は,シュメール語のエメ(母の意)であり,ヘブライ語でエムハ・ヘワになったらしく思われる.
* * *
『主なる神は男とその妻に*¹長い皮衣を着せて,仰せられた,「見よ,人間は善悪を知ったので,*²われわれのようなものになった.これから,彼が生命の木にも手をのばすことのないように願う,それを食べれば永遠に生きることになるのだ」.主なる神は,エデンの園から人間を追い出された.それは土から出た人間に,土を耕(たがや)させるためであった.
神は人間を追い出してから,エデンの園の東に,*³ケルビムと,炎を放つじぐざぐ型の剣とを置き,生命の木への入口を見張らせられた.』
(注釈)
*¹「長い皮衣」はヘブライ語のコテノトで,全身をおおうぴったりした服である.ヘブライ人は衣服がその人の階層を表すと考えていた.
*²前出の6節でいった「天人」も含めた神の宮廷に仕える人々のことであって,多神論的な意味はここにない.
*³「ケルビム」は,定冠詞がついているので,周知の「天使」である.その表現から見て,アッシリア,バビロニア的な考え方から出たようである.それは,頭は人間で,翼があり(〈旧約〉脱出25・18-22,列王上6・23-28),牛のような足と動物の体を有していた(エゼキエル〈旧約〉1・5-28,10・1-20,41・18-25).ケルビムとじぐざぐ型の剣は,神の禁令を象徴する.昔のメソポタミアの大邸宅または神殿,さらに神々の座と王座の前に,炎あるいはじぐざぐ型の剣の形であらわす「稲妻」として安置され,一般人の入ることを許さなかった.
* * *
②第2パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:
旧約聖書・創世の書:6章5,11,12節(太字の箇所)
(第6章全章を引用)
『地の面(おもて)に人間がふえはじめ,娘たちがうまれてくると,*¹神の子ら(ごう慢の罪を犯した天使の子ら)は人間の娘たちを見て気に入り,好きなのをみな妻にした.そこで,主は仰せられた,「私の*²霊はいつまでも人間とともにいることはない.人間は肉のものにすぎないからである.人間の日々はあと*³百二十年である」.
神の子らが娘たちに近づいて,娘たちが子を生んでいたそのころにも,地上には巨人がいた.この巨人たちは,昔の名高い英雄たちであった.
地上の人間の罪悪がはなはだしくなり,その心に生まれる計画も,一日じゅう悪だけに向っているのを主はご覧になった.そこで主は,地上に人間をつくったことを後悔し,*⁴心の中で悔まれた(5,6節).そして主は仰せられた,「私は,自分でつくった人間を地の面(おもて)から消すつもりである.人間も,家畜も,はうものも,空の鳥も.私はこれらをつくったことを遺憾に思う」.しかし,ノアだけは,*⁵主のみ前に,寵(ちょう)を受けていた.
これから語るのは,ノアの物語である.ノアは正しい人であり,そのころの人々の間でも申し分のない人とされ,神とともに歩んでいた.
ノアはセム,カム,ヤフェトの三人の子を生んだ.しかし,神の御目にとって,この世は腐敗し,暴力に満ちていた.神が地上をながめてご覧になると,地上は腐敗し,人間はみな正道を踏みはずして生きていた(11,12節).
そこで,神はノアに向って仰せられた,「私は決めた,人間は終わりだ.人間のせいで,地上は暴力に満たされたからである.さて,私は地とともに人間を滅ぼす.おまえは樹脂のある木の箱舟を自分のために造り,その中を区切り,内外にアスファルトを塗れ.…見よ,私は,天が下の生きとし生けるものを滅ぼしつくすために,地上に*⁶大水の大天災を送ろうとする.地上のすべてのものは滅ぼしつくされる.だが,おまえに対して私は*⁷契約をしよう.おまえは息子たちと,妻と,息子たちの妻を連れて,箱舟に入れ.さらに,すべての生き物の中から,そのすべての中から二つずつを箱舟に入れ,おまえとともに生きながらえさせよ.それは雄と雌でなければならぬ.空飛ぶすべてのもの,地をはうすべてのものも,その種類によって,二つずつが,*⁸生きながらえるべくおまえのもとに来るであろう.また食べられるあらゆるものを集めて,おまえと彼らとのための糧とせよ」.ノアは,そのようにした.神に命じられたことを、すべてそのとおりに行った.』
(注釈)
(神の子らと人間の娘たち)
聖書学者は,昔からの「神の子ら」の伝統を,唯一神を信じる人々のために,適当に手を加えて書き残している.それは,大洪水が道徳の腐敗を理由に起こされたことを知らせるためである.
さらに,中近東地方でよくいわれていた「巨人」についての誤った言い伝えを訂正するためでもあった.当時にもそれ以前にも,中近東には半神半人の巨人の言い伝えがあった.
*¹「神の子ら」についてはいろいろな解釈があったが,聖書が言おうとするのは,「天使が罪を犯したこと」(これは肉体の罪ではなくて,ごう慢の罪である)である.
作者が「天使の罪」を言おうとしたのであれば,現代人には問題点があるにしても,一瞬姿を現したこの「天使」(神の子ら)は,ここに一度だけ記されて二度と登場しない.
*²「私の霊」は人間その他の生き物を生かす「神の力」のことだと解釈してよい.
*³百二十年とは人ひとりの年のことか,それとも洪水までの,改心のために人類に与えられた時間のことか不明である.
(人類の堕落)
*⁴擬人法を使っての表現.作者が目的とするのは,神を「位格あるもの」として紹介することである.人間とかかわりあいのない抽象的な神ではない.神は人間の罪を見,人間の祈りも聞くものであり,キリストがそうであったように「罪人を思って泣く」神である.ユダヤ教とキリスト教の神は,明らかに「生きる神」である.
*⁵真に価値あるものは,カイン(正しい弟を殺した悪い兄)の子孫の物質文化(4・17,20-22)でもなく,人の子がふえることでもなく(5章,6・1),偉人や巨人の偉さでもなく,「正義」であって,それだけが他の人間を救えるものであった.
(大洪水の準備,箱舟)
*⁶「大水の大天災」はヘブライ語の「マブル」.ここ以外のところでは詩篇(29〈28〉・10)にしか出ていないことばである.語源から見れば,バビロニア語の「アバブ」(あらし),アッシリア語の「ナバル」(破壊)ではないかといわれている.しかし,世界的な大天災,大破滅を示す外国語の術語から出たものともいわれる.中近東の人々の間には,「大天災」が歴史以前にあったという言い伝えが残っている.
バビロニアの言い伝えは「ギルガメシュの詩」に残されているが,ここではギルガメシュの多神論的な迷信的なところは除かれている.この有名な言い伝えを利用して,聖書作者は宗教的な解釈を下している.
神は人類一般の「生命に反する罪」を大天災で罰するが,忠実な者をその天災から守る.
この大洪水は史実に間違いないと思われる(知恵〈旧約〉10・4,シラ〈旧約〉44・17-19,ヘブライ手紙3・20,ペトロ手紙(第一)3・20,ペトロ手紙(第二)2・5,マテオ聖福音24・37-39,ルカ聖福音17・26以下).
しかし,聖書作者は今の歴史のような書き方はせず神の霊感もあったであろうが,当時の伝統に基づいて記している.大洪水という「事実」と,その出来事の「宗教的な教え」と,その表現である「文学」とは区別して考えなければならない.
*⁷神がノアとその子孫に対して結ぶ契約のことが初めてはっきり記される.この契約は神の慈悲だけによって成立する.後にアブラハムとの契約(創世〈旧約〉15・18),民との契約(19・1)がある.
*⁸罰あるいは救いのために,動物も人間と運命をわかち合う.人間の罪は神の創造のみ業(わざ)を傷つけた(6・13,ローマ手紙〈新約〉8・19-22).
* * *
③第3パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:
旧約聖書・創世の書:第7章11節
『…ちょうどその日に,*大深淵のあらゆる水源が破れ,天の水門が開いた.』
(注釈)
*大洪水が地をおおうこの記述は,当時の宇宙論に従っている.
・当時の考え方によると,大地は大柱の上におかれ,下には深淵の水がある(創世49・25,詩篇24(23)・2,75(74)・4,格言8・24,28).
・地下のその深遠の水は,川などによって上に出てくる(格言8・24,28).ここでは川があふれたことになる.そのうえ「天の屋根」の水門が開いて,上にあった水も流れ出てきた.…
・宗教的にいえば,洪水がどのくらいの地域に及んだかはさして重大ではない.ノアによる救いの格言的な意味についても,その広がりについては同じことがいえる.
・ノアが救われたことは「洗礼による救い」の前兆である(ペトロの手紙(第一)3・20-21).
* * *
同・創世の書:第8章2節(太字部分)
(1-3節)
『神はノアと,またともに箱舟にいたすべての獣と家畜のことを思い出され,地上に風を吹かされたので,雨はひき始めた.深淵の水源と天の水門とは閉じられ,*大雨が天から降るのもやみ,大雨が天から降るのもやみ,水はしだいに地の面(おもて)からひいていき,百五十日後に水かさは減った.…』
(注釈)
(水がひく)(8・1-14)
神のあわれみを示す以下の物語は「神は…思い出され」という一言から始まる.「ザカール」というこの動詞は,空しい思いではなく,何かをつくり上げる強い思いである.こうしてつくり上げられるのは,賞罰いずれにしろ,神の現存の証明である.
*「大雨」は夕立のようなパレスチナの冬の雨である.
* * *
(まとめと解説)
・自然界(大宇宙・大自然・動植物)は人間と同じように神の被造物である.
・現存する生命はみな一つの源(唯一の神)から生まれ出て互いに共存し合っている.
・特に人間は神の似姿として,自然界を支配すべく創造されたが,人祖が神に背いたため自然界もその原罪の下に服従させられた.
・自然界はその管理者たる人間の心の状態を正直に反映する.人間の善良で平和な心は人間も自然界をも共に喜ばせ生き生きと生かし,人間の悪い心(ごう慢,妬(ねた)み,憎しみ,貪欲,利己心)は人間も自然界をも共に動揺させる(家庭内不和・暴力,犯罪や自然災害).
・ある人間,人間社会が慢心し自己中心や貪欲を極めれば,その人自身・その社会自身の破滅を招くだけでなく,他の人・社会や自然界の不幸・犠牲にまで発展する(うつ病患者や自殺者の増加,欲の追求のため人や動植物の生命体を操作・利用することなど).
これは,神のおきて(①神への愛と服従②隣人を自分同様に愛する義務)すなわち自然の摂理に反することである.
・人間は神に服従し,謙遜な慎み深い,節度のある日常生活を心がけることで,傲慢,貪欲,妬み,憎しみの罪による破滅から身を守ることができる.
* * *
揺るがない救いと希望
新約聖書より
①使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第8章
(肉による生活と霊による生活)(8・1-17)
『だから今,キリスト・イエズスに在る者は,*¹罪とせられることがない.キリスト・イエズスにおいて命を与える*²霊の法が,あなたを罪と死との法から解放したからである.
肉によって無力になっていて律法ではできなかったことが可能とされた.それは(神が)*³ご自分のみ子を罪のために,罪の肉の形で遣わすことによって,肉において罪を罪と定められたからである.それは、*⁴肉ではなく霊に従う私たちのうちに,律法の定めを成し遂げるためである.
肉に従って生きる人は肉のことを思い,霊に従う人は霊のことを思う.肉の*⁵念(おもい)は死であり,霊の念は命と平和である.肉の念は,そのために神の敵である.神の法に従わずまた従うことができないからである.したがって肉に生きる人は神に喜ばれない.
*⁶神の霊があなたたちに住まわれるからには,あなたたちは肉ではなく霊のうちにいる.
キリストの霊をもたないならその人はキリストのものではない.
キリストがあなたたちのうちにましますなら,体は*⁷罪のために死んでいても霊は義によって命にいる.イエズスを死者からよみがえらせたお方の霊があなたたちに住むなら,キリスト・イエズスを死者からよみがえらせたお方は,あなたたちに住む霊によってその*⁸死の体をも生かしてくださる.』
(注釈)
*¹キリストのあがないのおかげで,信仰する者はもう断罪されることはない.
*²聖霊のことではない.
*³キリストは肉に生きる人間と同じ形をとられたが,罪をとらなかった.「罪のために」というのは罪を破るためである.
*⁴肉に罪の力があったが,キリストの肉体によって,罪の力は破れた.
*⁵傾向,要求などの意.肉は霊的な死に導く罪の奴隷である.
*⁶「神の霊」「キリストの霊」は聖霊のこと(ガラツィア手紙〈新約〉4・6)
*⁷罪のために人間は死ぬものである(5・12).あるいは,洗礼による象徴的な死のことを指すか(6・3-5).
*⁸キリスト信者はキリストの死と復活にあずかる(コリント手紙〈第一〉15・12).
* * *
『*¹そこで,兄弟たちよ,私たちは負債を負っているが,肉に従って生きるための肉に対する負債を負ってはいない.あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められており,霊によって体の行いを殺すならあなたたちは生きる.神の霊によって導かれている人はすべて神の子らである.*²あなたたちはふたたび恐れに陥(おちい)るために奴隷の霊を受けたのではなく,養子としての霊を受けた.これによって私たちは「*³アッバ,父よ」と叫ぶ.霊御自ら私たちの霊とともに,私たちが神の子であることを証明してくださる.私たちが子であるのなら世継ぎでもある.
キリストとともに光栄を受けるために,その苦しみをともに受けるなら,私たちは神の世継ぎであって,キリストとともに世継ぎである.』
(注釈)
*¹キリスト信者は,肉ではなく霊に対して負債をもっている.
*²ガラツィア4・5-6.ユダヤ人の宗教生活の基本は,特に神への恐れであった(第二法〈旧約〉6・13,10・21).しかしキリストの降臨の後は恐れが信仰の土台となると思ってはならない.
*³アラマイ語の「父」(マルコ聖福音14・36).
* * *
(神の子らとしての希望)(8・18-25)
『今の時の苦しみは,私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う.
*¹全被造物は切なる憧(あこが)れをもって,神の子らの現れを待っている.*²全被造物は自分の望みによってではなく,自分を服従させたものによってはかなさに服従させられたが,だが腐敗の奴隷から解放されて,神の子らの光栄の自由にあずかれることを希望している.*³全被造物が今まで嘆きつつ陣痛の苦しみに会っていることを私たちは知っている.
そればかりではなく,霊の初穂をもつ私たちも,心からのうめきをもって自分が養子とされ,
*⁴自分の体があがなわれることを期待している.まことに私たちが救われたのは,*⁵希望においてである.目に見える希望はもう希望ではない.見えるものをどうして希望することができよう.私たちがもし見えないものを希望しているのなら,忍耐をもってそれを期待しよう.』
(注釈)
*¹キリストの救いの効果は,全世界に及ぶものである(コロサイ手紙(新約)3・3-4,エフェゾ手紙1・10,フィリッピ手紙2・10).
*²パウロはアダムの罪が人間の世界だけでなく,物質の世界にも及んでいることをほのめかしている.
*³すべての被造物は新秩序の到来を待っている(使徒3・21,ペトロ手紙(第二)3・13).
*⁴まったく養子となること(コリント手紙(第一)15・47-49).
*⁵救いの完成が希望の対象である.
* * *
(聖霊の助力)(8・26-27)
『*¹霊も私たちを弱さから助ける.私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが,霊は筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたいうめきをもって,私たちのために取り次いでくださる.そして*²心を探るお方は霊の意向を知りたもう.すなわち,霊は神のみ旨に従って聖徒のために取り次がれる.』
(注釈)
*¹神の霊(8・9,11).9節ではキリストの霊についても記されている.神の霊とキリストの霊は,父と子が送る同じ霊,聖霊である.
*²神のこと.
* * *
(救いの予定)(8・28-30)
『神を愛する人々すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.*¹神はあらかじめ知っている人々を*²み子の姿にかたどらせようと予定された.それはみ子を多くの兄弟の長子とするためである.
また予定された人々を召し出し,召し出した人々を義とし,義とした人々に*³光栄を与えられた.』
(注釈)
*¹コリント手紙〈第一〉(新約)8・3,13・12.神の愛の結果である.
*²コリント手紙〈第二〉3・18参照.
*³光栄を得るのはキリスト来臨の時であるが,パウロは神の永遠の計画をすでに実現されたものとして見ている.
* * *
(救いの確実さ)(8・31-39)
『このことについて何と言おう.神がもし私たちの味方ならだれが私たちに反対できよう.*¹ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が,み子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか.だれが神の選ばれた者を訴えられよう.義とするのは神である.だれが彼らを罪と定められよう.死んで,いや,むしろ甦(よみがえ)って神の右に座し,私たちのためにとりなしたもうイエズス・キリストか.*²だれがキリストの愛から私たちを離れさせ得よう.患難か,苦悩か,迫害か,飢えか,裸か,危険か,剣か.すなわち,「*³あなたのために私たちは一日じゅう死にわたされ,屠(ほふ)られる羊のようなものになった」と書き記されているとおりである.だがすべてこれらのことに会っても,*²私たちを愛されたお方によって,私たちは勝ってなお余りがある.死も,命も,天使も,*⁴権勢も,現在も,未来も,*⁴能力も,高いものも深いものも,そのほかのどんな被造物も,主イエズス・キリストにある神の愛から私たちを離せないのだと,私は確信する.』
(注釈)
*¹救いの予定は神の無限の愛に基づき,人間への神の賜はその愛を表す.
*²私たちに対するキリストの愛(8・37).
*³詩篇44・23.キリストは,自分のために苦しむ人々を見捨てない(コリント手紙〈第二〉4・11).
*⁴「権勢」と「能力」はキリストに反する悪霊のこと(コリント手紙〈第一〉15・24).
* * *
②使徒ペトロによる第一の手紙全章.
第1章
(あいさつ)(1・1-2)
『イエズス・キリストの使徒ペトロより,ポント,ガラツィア,カパドキア,アジア,ビティニアに離散し,*¹寄留している選ばれた人々,すなわち父なる神の予知によってイエズス・キリストに服従し,*²その御血を注がれるために,聖霊によって聖とされた人々に.あなたたちに豊かな恩寵と平和があるように.』
(注釈)
*¹パレスチナを離れていることだけではなく,キリスト信者であれば故国は天国だと考えねばならぬからである.
*²シナイ山での契約の改めを暗示する(〈旧約〉脱出の書24・8).イエズスは新しい仲立ちであって,その御血は新契約の保証であり,調印である.
* * *
(救いの希望と信仰の試練)(1・3-9)
『私たちの主イエズス・キリストの父なる神は賛美されますように.神はその大なるあわれみにより,イエズス・キリストの死者からの*¹復活によって,私たちを新たに生まれさせ,生きる希望を抱かせ,*²朽ちることなく,汚(けが)れることなく,しぼむこともない天の蓄(たくわ)えの遺産を継がせられた.あなたたちは末の世に現れようとしている救いを受けるために,信仰によって神の力に守られている.
だからしばしの間いろいろの苦しみに会うにしても,そのために喜び勇むがよい.火で試されるはかない黄金(きん)よりも尊い信仰の試練は,イエズス・キリストの現れの日,誉(ほま)れと光栄と名誉のもととなるであろう.あなたたちはイエズスを見なかったのに彼を愛し,*³見ないのに信じている.それはあなたたちにとって言い尽くせぬ輝かしい喜びのもとである.その信仰の報いとして霊魂の救いを受けると保証されているからである.』
(注釈)
*¹3-4節 使徒2・16,22以下,36,ヨハネ聖福音3・5,ヨハネ手紙(第一)2・29,3・9参照.
*²ローマ1・4,コロサイ1・5,15,マテオ聖福音6・19-20参照.
*³信仰は見えないものを宣言するから,功徳あるものである.
* * *
(救いはイエズス・キリストにある)(1・10-12)
『その救いは,あなたたちに備えられた恩寵について預言した預言者たちによって探られ,調べられた.彼らは*¹自分たちの中にあるキリストの霊が,あらかじめキリストの苦しみとその後の光栄を宣言した時,その示された時代と情況をしらべようと努力した.
彼らは,その使命が自分たちのためではなく,あなたたちのためであると*²啓示を受けた.それは天から送られた*³聖霊によって,今あなたたちに,天使さえあこがれる福音を伝える人々の宣言を準備する使命であった.』
(注釈)
*¹旧約をも導いたキリストの永存(コリント(第一)10・4,9).
*²預言はペトロの時代に実現した.
*³聖霊は使徒たちに下った.それは預言者たちに下ったのと同じ聖霊である.
* * *
(聖徳への勧め)(1・13-21)
『だから,あなたたちは心の腰に帯をしめ,身を慎(つつし)み,すべての希望を,イエズス・キリストの現れの日に与えられる*¹恩寵にかけよ.*²従順な子となって,以前無知のころもっていた欲望に従うな.*³むしろあなたたちを召された聖なるお方にならい,自分のすべての行いを聖とせよ.「*⁴私が聖なる者であるから,あなたたちも聖なる者であれ」と書き記されているからである.あなたたちは,人を差別せずに業(わざ)によって各人をさばかれるお方を*⁵父と呼ぶのであるから,地上で過ごす間畏れ(恐れ)をもって生きよ.あなたたちが*⁶祖先から受け継いだむなしい生活からあがなわれたのは,金銀などの朽ちる物によるのではなく,*⁷傷もなく汚点(しみ)もない小羊のような,キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている.キリストは世の創造以前に予定されていたが,あなたたちのためにこの末の日に現れたもうた.キリストを死者からよみがえらせ,光栄を与えられた神に対する信仰を,あなたたちはキリストによってもっている.こうしてあなたたちの信仰と希望は神に基づくのである.』
(注釈)
*¹永遠の救いである(ルカ聖福音12・35-40).
*²ローマ6・19参照.
*³マテオ聖福音5・48,ヨハネ手紙(第一)3・3,使徒9・13参照.
*⁴レビ(旧約)11・44参照.
*⁵マテオ聖福音6・9,コリント(第一)4・4-5,同(第二)5・10-11参照.
*⁶私たちの救いのあまりにも高価なことを考えよ.この祖先は,偶像崇拝や異教の不道徳に従っていた(使徒14・15,エフェゾ4・7).
*⁷レビ(旧約)22・21,ヨハネ聖福音1・29,36参照.
* * *
(愛と神のみことば)(1・22-2・3)
『あなたたちは,真理に服し,霊魂を聖とし,真実な兄弟愛に至ったのであるから,絶えず互いに心から愛し合え.
あなたたちが新たに生まれたのは,朽ちる種によるのではなく,永遠に生きる神のみことばの朽ちぬ種によるからである.「*¹すべての肉は草のごとく,その光栄は草の花のようである.草は枯れ,花は落ちる.しかし主のみことばは永遠に残る」.あなたたちに伝えられたよい便りはこのみことばである.』
(注釈)
*¹イザヤ(旧約)40・6-8参照.
* * *
第2章
(愛と神のみことば)(1・22-2・3)
『したがって,*¹すべての悪意,すべての偽(いつわ)り,偽善(ぎぜん),ねたみ,そしりを棄(す)てよ.*²新たに生まれたみどり児(ご)のように,それによって救いに成長するために,混じりのない*³霊的な乳を望め.あなたたちは,もはや主の慈(いつく)しみを味わったからである.』
(注釈)
*¹ローマ1・29参照.
*²信仰と洗礼によってキリスト信者は生まれ,霊的成長をとげる.
*³教えのこと.
* * *
(キリストは親石である)(2・4-10)
『*¹人間に捨てられ神に選ばれた尊い生きる石である主に近づけ.そして生きる石としてあなたたちもこの霊の建物の材料となれ.こうして,あなたたちは*²聖なる司祭職を務め,イエズス・キリストによって神に嘉(よみ)される霊のいけにえをささげるであろう.そこで聖書には,「*³見よ,私は,選ばれた尊い親石をシオンに置く.これに信頼を置く者は辱(はずか)しめられない」と記されている.それは信じるあなたたちには誉(ほま)れとなったが,信じない人には「*⁴家を建てる者の捨てた石が親石」,邪魔物の石,つまずきの岩となった.彼らがつまずくのは,みことばを信じないからである.彼らはそう定められていたのである.しかしあなたたちは選ばれた民族,*⁵王の司祭職,聖なる民であり,闇(やみ)から輝かしい光にあなたたちを呼ばれたお方の不思議を現すために選ばれた民である.あなたたちは前には神の民ではなかったが今は神の民であり,前にはあわれみを受けなかったが今はあわれみを受けた.』
(注釈)
*¹マルコ12・10参照.
*²祈り,断食などのいけにえをささげるキリスト信者は,司祭の務めを果たすとも言える.
*³イザヤ(旧約)28・16参照.
*⁴イザヤ8・14,詩篇(旧約)118・22参照.
*⁵脱出(旧約)19・5,イザヤ43・20-21,ローマ(新約)3・24,コリント〈第二〉1・12-13.広義の司祭職,すなわち王または司祭であるキリストの肢体だからである.
* * *
(模範)(2・11-12)
『愛する者よ,私はあなたたちに勧めたい.あなたたちは*¹他国人であり旅人であるから,霊に逆らう肉の欲を避けよ.*²異邦人(異教徒や不信心な人)の中にあって申し分のない行いをせよ.それはあなたたちを悪人とそしる中で,あなたたちの善業がよりよく評価されるためであり,訪れの日に神に誉(ほま)れを帰するためである.』
(注釈)
*¹肉の世,福音を受けない世において,キリスト信者は他国人である(詩篇〈旧約〉39・13,ガラツィア〈新約〉5・24).
*²マテオ聖福音5・16,イザヤ〈旧約〉10・3参照.
* * *
(上の者に従え)(2・13-25)
『*¹あなたたちは主のために人間の立てた制度に従え.主権者として王に,そして悪人を罰し善人を賞するために王から送られた者として上長にも服従せよ.
*²善を行い,あなたたちを認めぬ愚かな人々の口を閉ざさせることこそ神のみ旨である.*³自由民としてふるまっても,その自由を悪事の覆(おお)いとせず,神のしもべとしてふるまえ.すべての人を敬(うやま)い,*⁴兄弟たちを愛し,神を畏れ(恐れ),*⁵王を尊(とうと)べ.
*⁶しもべたちよ.大いに尊敬の念をもって主人に服従せよ.よい寛容な主人にだけではなく,気むずかしい人々にも服従せよ.
*⁷神のために患難と不正な苦しみとを耐え忍ぶことは,神に嘉(よみ)されることである.もし悪を行ってから打たれるのを耐え忍んでも,それが何の功徳になろう.だが善を行ったのに苦しめられて耐え忍ぶのは神に嘉されることである.*⁷
あなたたちは実にそのために召されている.キリストはあなたたちのために苦しみ,その足跡を踏(ふ)ませるために*⁹模範を残されたのである.
キリストは罪を犯さず,口を偽(いつわ)らず,侮辱されても侮辱せず,虐(しいた)げられても脅(おど)さず,*⁸正義をもってさばくお方に自分をゆだね,*¹⁰そのお体に私たちの罪を背負って*¹¹木につけられた.
それは私たちを罪に死なせ,正義に生きさせるためである.あなたたちは,その打ち傷によっていやされた.あなたたちは*¹²羊のように迷っていたが,今は霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである.』
(注釈)
*¹ローマ13・1-7,ティト3・1参照.
*²ガラツィア5・13参照.
*³罪から解放された者として(ユダ4節)
*⁴ガラツィア6・10参照.
*⁵マテオ聖福音22・21参照.
*⁶エフェゾ6・5参照.
*⁷19-20節(*⁷から*⁷まで) 服従の価値は,神ご自身に対して義務を負っているという意識にある.
*⁸当時不正な主人に踏みにじられていた奴隷にとって,大いなる慰めと力づけであった.
*⁹マルコ14・65参照.
*¹⁰受難の救霊的価値.
*¹¹使徒(新約)5・30参照.
*¹²イザヤ(旧約)53・6参照.
* * *
第3章
(夫婦の義務)(3・1-7)
『同じように妻たちも夫に従え.たとい*¹教えに従わぬ夫であっても,彼はあなたたちの清い慎み深い生活を見て,ことばではなく妻の行いによって救われる.あなたたちは*²髪を編み,金の輪をつけ,服装を装(よそお)う外面ばかりの飾(かざ)りをつけず,むしろ隠(かく)れた内的な心の飾り,つまり優しく静かな霊の朽ちることのない清さをもて.これが神のみ前に尊(とうと)いものである.自分の夫に従って神に希望をかけていた昔の清い婦人たちの飾りもそうであった.たとえば*³サラはアブラハムに服従して,彼を主と呼んだ.あなたたちは,何にも恐れず善を行って*⁴サラの娘となった者である.
*⁵また夫たちよ,あなたたちは自分より弱い者である妻とともに思いやりをもって生活せよ.なぜなら彼女たちもともに命の恩寵の世嗣ぎ(よつぎ)だからである.だから彼女たちを尊べ.何事もあなたたちの祈りの妨(さまた)げとしないように.』
(注釈)
*¹福音のこと(〈新約〉エフェゾ5・22以下,コロサイ3・18,ティト2・4-5).
*²(新約)ティモテオ〈第一〉2・9-10参照.
*³創世(旧約)18・12参照.
*⁴ガラツィア3・7参照.
*⁵ローマ7・2-4,コリント〈第一〉7・1-16,11・2-16,エフェゾ5・22-23,コロサイ3・18-19参照.
* * *
(愛徳の義務)(3・8-12)
『最後に,あなたたちは*¹みな心を一つにせよ.同情,兄弟愛,あわれみ,謙遜*²をもつように.*³悪に悪を,侮辱に侮辱を返すことなく,むしろ祝福せよ.あなたたちは,祝福の世嗣ぎとなるためにそう召されたからである.
「*⁴命を愛して幸せな日を送ろうとする者は,舌を悪から,唇を偽りから守れ.悪を遠ざかって善を行い,平和を求めまた追え.主の目は義人の上に注がれ,その耳は彼らの祈りに傾(かたむ)く.だが主の顔は悪を行う者に向く」.』
(注釈)
*¹ローマ12・16参照.
*²ブルガタ訳には「慎み」という言葉も入っている.
*³ルカ6・28参照.
*⁴10-12節(「 」内)詩篇(旧約)33・13-17.
聖徳をもって生きることは祈りの効果と主の祝福を受けるために最も有効である.
* * *
(キリストの模範に従う)(3・13-22)
『あなたたちがもし善に熱心なら,だれがあなたたちに悪を行えよう.*¹たとい正義のために苦しめられても,あなたたちは幸せである.彼らの脅(おど)しを恐れるな,戸惑(とまど)うな.*²心の中で主キリストを聖なる者として扱い,あなたたちの内にある希望の理由を尋(たず)ねる人には,優しく,敬って常に答える準備をせよ.
正しい良心をもつようにせよ,そうすればあなたたちがキリストにおいて行うよい行いをののしる人々は,自分がののしったことを恥じるであろう.また*³善を行って苦しむことが神のみ旨なら,悪を行って苦しむよりもそのほうよい.なぜならキリストも一度人々の罪のために死なれた.義人であったキリストは不正な者の身代りとなり,私たちを神に近づけるためにそのお体に死を受け,霊において生かされた.*⁴その霊においてキリストは囚(とら)われの魂の所に行って宣言した.*⁵その霊とは,ノアのとき,神が寛容をもって待たれた間,箱舟(はこぶね)が作られつつあったのに,従わなかった人々である.その箱舟に入って水から救われたのはわずかに八人であった.その水は今あなたたちを救う洗礼の前兆であった.洗礼は体の汚(けが)れを除くことではなく,イエズス・キリストの復活により,神に対して*⁶正しい良心を求めることである.キリストは(*⁷私たちに永遠の命を得させるために死を滅ぼし,)天に昇って神の右に座られる.そして天使たちと*⁸能力と勢力はキリストに服従する.』
(注釈)
*¹マテオ聖福音5・10,イザヤ(旧約)8・12-13参照.
*²マテオ10・26-31参照.
*³神に信頼する義人の苦しみは,神の罰である悪人の苦しみとは比較できないものである.
*⁴イエズスの霊は冥府に行って,先祖たちに救いを告げた(ルカ23・43,ローマ10・6,黙示1・18).
*⁵神に背いていた人々も,神の下した罰を見て改心し,古聖所に入れられた.
*⁶「契約」という訳もある.
*⁷このことばはギリシア語の古写本にはのっていない.
*⁸「能力と勢力」は能天使と力(りき)天使のこと.
* * *
第4章
(罪を絶て)(4・1-6)
『*¹キリストは肉体において苦しまれたのであるから,あなたたちもその心で武装せよ.肉体において苦しんだ者は罪を断ち,もはや人間の欲望に従わず,肉体を残す間,神のみ旨によって生きる.過去のあなたたちは,異邦人の好みのままに,好色,欲望,酩酊,酒宴,暴飲,厭(いと)うべき偶像崇拝におぼれて生活したが,もうそれで十分ではないか.彼らはあなたたちが自分たちと同様に淫乱の極みに走らないのを怪(あや)しみ,あなたたちをそしる.しかし彼らは生者と*²死者を裁こうと待ちかまえられる主に報告せねばならないであろう.よい便りが死者にものべ伝えられたのは,*³肉体においては人間としてさばき,霊においては神に従って生かすためである.』
(注釈)
*¹ローマ6・6-7参照.
*²イエズスは死者をさばく主でもある.死者とは古聖所の死者(使徒10・42,ティモテオ〈第二〉4・1).
*³死ぬべき人間として死に,キリストの聖霊によって生きる.
* * *
(徳の実行)(4・7-11)
『*¹万物の終りは近い.だから,よりよく祈るために賢明であれ,慎み深くあれ.何よりもまず絶えず愛し合え.愛は多くの罪を覆(おお)うものである.不平を言わずに客をよくもてなせ.神のさまざまの恩寵のよい分配者として,各自が受けた賜(たまもの)をもって他人に仕えよ.*²語る人は神のみことばにふさわしいように語り,愛の仕事に携(たずさ)わる人は,神に分け与えられた力によって仕事せよ.それはイエズス・キリストによってすべてについて神に光栄を帰するためである.光栄と力は代々にキリストの上にあれ.アメン.』
(注釈)
*¹神の審判が近いことを考えて,聖徳を積まねばならない.
*²語るとは宣教すること.愛の仕事は執事の務め.
* * *
(苦しみの時の慰め)(4・12-19)
『愛する者よ,あなたたちを試すために*¹燃やされた火を見て,思いがけないことが起ったかのように驚かず,むしろ*²キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜べ.そうすれば,あなたたちは光栄の現れのとき喜びに喜ぶ.*³もしあなたたちがキリストのみ名のために侮辱されるなら幸せである.*⁴神の霊である光栄の霊があなたたちの上に休まれるからである.あなたたちの中のだれも,人殺しあるいは盗人(ぬすびと),悪人あるいはみだりに他人に干渉する者として罰を受けてはならぬ.しかし,キリスト信者として苦しむならば,それを恥じず,むしろその名を持つことによって神に光栄を帰せよ.すでに*⁵神の家から裁(さば)きの始まる時が来た.私たちから始まるとしたら,神の福音に従わぬ人々の行く末は,どうであろうか.*⁶義人がかろうじて救われるのなら,不敬虔な人や罪人はどうなるであろうか.だから神のみ旨に従って苦しむ者は,善を行いながら真実のお方である創造主に霊魂をゆだねよ.』
(注釈)
*¹キリストの敵が与える苦しみを見て,ある信者はつまずいたからである.
*²マテオ5・11-12参照.
*³イザヤ(旧約)11・2参照.
*⁴マテオ聖福音5・11-12,ルカ聖福音6・22-23参照.
*⁵神の家は義人たちのこと.
*⁶格言(旧約)11・31,ルカ23・31,ローマ11・21,エレミア(旧約)25・29参照.
* * *
第5章
(聖職者の義務)(5・1-4)
『私はあなたたちの中の*¹長老たちに勧める.私も彼らと同じ長老であって,キリストの御苦しみの証人であり,やがて現れる光栄にあずかる者である.あなたたちにゆだねられている神の群れを牧せよ.強いられてではなく,(*²神に従って)心から行い,汚らわしい利益のためではなく献身的に行い,(*³ゆだねられた団体に)支配権の重みを感じさせず,*⁴むしろ群れの模範となれ.そうすれば牧者のかしらが現れるとき,あなたたちは不朽の光栄の冠を受けるであろう.』
(注釈)
*¹初代教会の司祭あるいは司教のこと.
*²このことばはある古写本にはない.
*³このことばもある古写本にはない.
*⁴コリント〈第一〉4・16,フィリッピ3・17,ティモテオ〈第一〉4・12参照.
* * *
(信者の義務)(5・5-7)
『若い人々よ,あなたたちは長老に服従し,互いに謙遜をまとえ.「*¹神は高ぶる者に逆らい,へりくだる者に恵みを与えられる」からである.だから,神の力のある御手のもとにへりくだれ.そうすれば,*²その時になって神はあなたたちを高めたまい,*³すべての心配を神にゆだねれば,神はあなたたちをかえりみたもう.』
(注釈)
*¹格言(旧約)3・34参照.
*²審判の時.
*³マテオ6・25-34参照.
* * *
(警戒と信頼)(5・8-11)
『*¹節制し警戒せよ.敵の悪魔は吠える獅子(しし)のように,食い荒らすものを探して,あなたたちのまわりを回っている.*²あなたたちは世にいる兄弟たちも同じ苦しみに耐えていることを思い,信仰を固めて彼に抵抗せよ.*³すべての慈しみの神,すなわちキリストによって永遠の光栄にあなたたちを召された神は,しばらくの試みの後あなたたちを完成させ,固め,強め,不動にしたもうであろう.神に代々に勢力あれ.アメン.』
(注釈)
*¹ヤコボ4・7,エフェゾ6・16参照.
*²詩篇22・14,エフェゾ6・11参照.
*³ローマ8・18,コリント〈第二〉4・17,テサロニケ〈第一〉2・12,5・24参照.
* * *
(あいさつ)(5・12-14)
『*¹私の信頼する忠実な兄弟シルワノによって,私は以上簡単に書き記したが,それは,あなたたちに忠告し,あなたたちが立っているのは神のまことの恵みであることを証するためであった.
あなたたちとともに選ばれた*²バビロンにある教会と,*³私の子マルコからよろしくと言っている.愛のくちづけをもって互いにあいさつせよ.
キリストにあるあなたたちすべての上に平和あれと祈る.』
(注釈)
*¹「忠実な兄弟シルワノ…私がそれを証明する」という訳もある.シルワノあるいはシラ(使徒18・5,コリント〈第二〉1・19).
*²ローマの教会
*³マルコはペトロの弟子.福音史家.
今日,多くの人は神について感傷的な考え方をしているか,あるいは神の持つ御力についてわずかばかりの知識しか持ち合わせていません.だから神が罰を下すとか,ましてそのために物質的な宇宙や気候を用いられるなど想像もできないのです.だが,私たちが日本で目にしたような大災害を引き起こす地球のきわめて不安定な地殻変動は,人間の罪がもたらした結果であり,それに対する天罰だとする根強い議論が存在します.ここではその議論をご紹介します(この議論について私は決して学校で習ったことはありません):--
アダムとエバが罪を犯す以前,人間性は神の輝かしい創造物でした.それは強くて安定したものでしたが,壊れることがないというものではありませんでした.神への反抗心がそれを壊し得たのです.したがって,アダムとエバが原罪を犯したとき,彼らのあらゆる子孫(私たちの主キリストと聖母マリアを除いて)が傷ついた性質を受け継ぎました.以来(いらい),私たちはみな苦難を受け,死に,かつ努力,苦労しなければ下劣・俗悪な性質を制御できない定めとなったのです.このことは地球の物理的特質についても同様です.ノアの時代に洪水が起こる前は,地球は楽園のようで,神の輝かしい創造物であり強くて安定した存在だったのですが,決して破壊され得ないものではありませんでした.人類すべてが堕落すれば(創世の書・6章5,11,12節参照)それは壊れ得たのです.(訳注後記)
今日の地質学者たちは聖書に出てくる洪水など信じないかもしれませんが,例えば北アメリカのロッキー山脈のような世界各地にある山脈の標高の高い場所から今日発見される海洋動物の化石の痕跡(こんせき)を説明する手段として,地球の有史以前にある種のとてつもない激変があったことは信じています.地質学者たちの打ちたてた仮説によれば,地球の岩板(がんばん)からなる外周は巨大な地下水層によって地球の中心部から隔(へだ)てられ,岩板層が重力で地下水を押しとどめていました.もしその岩板の球殻(きゅうかく)のどこかにいったん亀裂が生じれば,その下に押し込められていた水は地表に向って爆発的に噴(ふ)き出し地表に氾濫し,岩板は地下水層のあった所へ落下します.これに伴う巨大な緊張は大洪水を引き起こし世界中を崩壊させ得る力を持つのです.(聖書によると,洪水を起こしたのは空から降った雨だけでなく地下から上に噴き出した地下水だったことが明らかな点にご注目ください:創世の書・7章11節,8章2節参照)(訳注後記)
だが次のことは疑う余地もないほど明らかです.すなわち,仮に地球全体を覆う岩板外周が内部に向って崩落し,より小規模の外周を形成したとすれば,あまりにもわずかな場所に対して岩板があまりにも多すぎ,その結果,岩板は壊(こわ)れ互いに衝突しあう地殻変動プレートを作り出しただけでなく,さらにクシャクシャにぶつかり合い今日の私たちの住む惑星(わくせい)で目に見える様々な地質的特徴を形作ったのです.巨大な山脈や,海よりはるか高い場所へ持ち上げられた様々な海洋動物の化石がその例です.エベレスト山は今でも,中国とチベットにあるユーラシア・プレートの下に押し込められているインド・プレートにより毎年数センチメートル持ち上げられています.
こういうわけで,原罪が犯されて以来,それが人間性の中に懲罰的な緊張を生み出したのと同様に,人類の有史以前の堕落が私たちがたった今目にしている歴史的な日本の地震,津波のようなあらゆる大災害の根底をなす地殻内部の緊張を生み出したのです.聖母は1946年フランスのラ・サレット “Our Lady at La Salette in 1846” で次のように仰せになりました.「自然界は人間のせいで報復(ほうふく)を求めており,犯罪にまみれた地球に必ず降り懸かるに違いない大災害の恐怖に震えおののいています.おののきなさい,地球よ.そしてイエズス・キリストに仕えていると公言しながら内心では,ただ自分を崇拝しているだけの者たちよ,恐怖におののきなさい.なぜなら各地の聖なる場所が堕落し腐敗した状態になっているため,神があなたたちをその敵(悪魔)に引き渡されるからです.」(訳注・後日追加します)
私たちはみなおののきましょう! みな神に祈りましょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
①第2パラグラフの内容についての訳注:
アダムとエバの犯した原罪について:
(人類の背きの罪)
1・神の人類創造
旧約聖書・創世の書:第1章26-28
『…ここで,神は,こう仰せられた,「*¹われらに似せて,われらにかたどって,*²人間をつくろう.そして海の魚と,天の鳥と,家畜と,野の獣と,地にはうものすべてを,これにつかどらせよう」と.
神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた.人間を神のかたどりとし,男と女につくりだされた.
神は人間を祝福して仰せられた,
「生めよ,ふえよ,地に満ちて,地を支配せよ.
海の魚と,空の鳥と,(家畜と,)地をはう生き物をつかさどれ」.』
(注釈)
*¹…アダム(人間)は,主としてその精神と意志において神に似たものである.聖書は,人間について,楽観的な反面,悲観的な考え方をもっている.すなわち,人間の卑小さは,創造されたものであるところからきている.「神に似たもの」であるからして,人間はまったく他の動物と異なり,「ペルソナ」をもつものである.後にキリストの恩寵によって,人間は別な意味で「神の本質」にあずかることとなる.
*²「人間」の箇所は,ヘブライ語では「アダム」となっている.アダムについている動詞は複数で,集合名詞としての「人間」を指している.ここから,神が最初から「多くの男女」をつくったと推理するのは思い過ごしである.第2章では,もう一度人間創造のことが語られるが,このときは「アダム」が単数である.
* * *
2・原罪
旧約聖書・創世の書:第3章
(人祖の最初の罪)(3・1-24)
『さて,主なる神がつくられた野の生き物のなかでいちばん*¹ずるがしこかった*¹へびが,*²女に言った,「〈園のどんな木の実も食べてはいけない〉と,神が言われたそうだが,それはほんとうか」.女はへびに答えた,「園にある木の実は食べてもいいのです.ただ,園の奥にある木の実だけについては,〈それを食べても,それに触れてもいけない,そうすると,死ぬことになる〉と,神は言われました」.
へびは女に言った,「いや,そんなことで死にはしない.おまえたちがその実を食べれば,そのとき目がひらけ,善と悪を知る*³天人のようになると,神は知っているのだ」.女には,その木の実がうまそうで,見ても美しく,*⁴成功をかち取るには望ましいもののように思えた.そこで女は,その木の実を取って食べ,いっしょにいた男にも与え,男もそれを食べた.*⁵そのとき,二人の目はひらけ,自分たちが裸でいるのが分かったので,いちじくの葉を縫い合わせて腰巻にした.』
(注釈)
*¹ギリシア語では知恵に富んだという意味のことばも用いているが,多くは,ずるがしこいの意味の言葉を用いている.
*²女は信じやすく,へつらいに弱いからだというのが通説である.
*³七十人訳とブルガタ訳では,「神」(エロヒム)が「神々」と複数になっていて,神の宮廷にいる天使や天人の意味にとっている.これが正しいであろう.いくらエバでも,神の全知には手が届かないと知っていたであろう.へびは女に向かって,天人の豊かな生命力と超人的な力とを受けよと言ったわけである.(5-6節)
*⁴女は思い上がった考えにそそのかされて,禁断の木の実をながめ,美しくてうまそうで,それを食えば万事うまくいくであろうと認めた.つまり,生物的な,精力的なエネルギーと,神のような超人的な事実の知識を望んで,それを食べた.
*⁵だが人間は,生物的にも倫理的にも,虚無であるもの,裸のものだと悟った.
* * *
『さて,日中のそよ風のとき,*¹園を歩かれる主なる神の足音を聞きつけた男は,妻とともに,み前をさけて,園の木々の間に逃げ隠れた.主なる神は,男を呼んで,「*²どこにいるのか」と仰せられた.「園であなたの足音を聞きましたが,私は裸なので,こわくなって,隠れました」と男は言った.「裸であることを,だれが,おまえに言ったのか.さては,私が食べるなと命じたあの木の実を食べたのだな」男は答えた,*³あなたが私のそばにおいてくださった女が,あの木の実をくれたので,私も食べました」.主なる神は,女に向かって仰せられた,「どうして,そんなことをしたのか」.女は答えた,「へびにだまされて食べました」.』
(注釈)
*¹人祖が罪を犯す前は,このように神と親しかったということを,比ゆ的に表現したものである.
*²神が人間のいるところを知らなかったのではない.園の番人として,いつもいるべきところにいないから,神はこうきかれた.
*³彼は自分の責任を避け,エバを仲間にした神に責任を負わせる.
* * *
『そこで,主なる神はへびに向かって仰せられた,
「*¹おまえは,
そのようなことをしたのだから,
すべての家畜と野の獣のなかでのろわれたものとなろう.
おまえは、生あるかぎり,
腹ばい,ちりを食うこととなる.
*²私は,おまえと女との間に,おまえのすえと女のすえとの問に,
敵意を置く.
女のすえは,おまえの頭を踏みくだき,
おまえのすえは,女のすえのかかとをねらうであろう」.
それから,女に向かって仰せられた,
「*³私は,おまえの苦しみと身ごもりの数を大いにふやす.
おまえは苦しみつつ子を生むことになる.
おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する」.
それから,男に向かって仰せられた,
「おまえは妻の言うがままになり,
私が〈食べるな〉と命じた木の実を食べたから,
おまえゆえに,地はのろわれる.
生きつづけるかぎり,おまえは苦労して,地から糧を得るであろう.
*⁴地はおまえのために,いばらとあざみを生やし,
おまえは野の草を食うことになろう.
さらに,おまえは,順に汗を流して,*⁵糧を得るだろう.
土から出たおまえなのだから,その土にかえるまで.
ちりであって,ちりにかえるべき者よ」.』
(注釈)
*¹14-19節 神の罰は,個々のものをこえ,へびそのもの,女そのもの,男そのものに向けられる.へびについては,その裏にいる悪魔的なものを指す.セム族にとって,へびは尊敬すべきものであったが,ここではのろわれたものとして指摘されている.
*²ここは,昔からカトリックの学者が,「メシア」的な意味にとったところである.すなわち,悪魔(へび)と戦う「子孫」がキリストを暗示しているという考え方である.しかし,解釈はさまざまである.七十人訳ギリシア語では「彼」と訳されているが,この男性の代名詞は,スペルマ(種子,子孫)という」中性名詞と一致しない.同時に女性にも用いられないから,むしろ「メシア」を暗示するために「彼」を用いたのではないだろうか.
旧ラテン語訳もヒエロニムス訳も,「彼」と男性になっている.昔の神学者の多くは,女性がマリアを暗示していると考え,キリスト(「彼」)がへびの頭を踏みつぶして人類をあがなう意味にとったが,現代の聖書学者の多くは,「女の子孫」を全人類と見,その全人類のかしらであるキリストが当然第一の者としてそこに含まれていると考える.そこで,15節(*²)の「女」を,昔の神学者がマリアととったのに比較し,今では,それを集合名詞の女性と見,そして女性の代表としてのマリアが当然第一の者としてそこに含まれると考える.
*³人類に対して判決を下した神は,アダムとエバに慈悲を垂れ,へびにしたようにのろいはされなかった.ただ,服従を忘れた高慢な人間が,自然と出会う苦しみを指摘する.原罪がなかったならば,女の陣痛もなかっただろうし,性の面でも,暴行を受けたり,もてあそびの道具のようになることもなかったであろう.
*⁴自然界も,人間の神への反逆を映したように,人間に反抗的である(イザヤ〈旧約〉33・9).「野の草」は穀物類のことらしい.
*⁵「糧(かて)」はパンのことである.
* * *
『それから男は妻を*¹エバと名づけた.彼女は,生きるすべての人人の母となったからである.』
(注釈)
*¹聖書では女の命名を記録することが少ない(〈旧約〉創世30・21,ヨブ42・14).しかも,その名の意味を伝えるのは、この一箇所だけである.エバの語源は,シュメール語のエメ(母の意)であり,ヘブライ語でエムハ・ヘワになったらしく思われる.
* * *
『主なる神は男とその妻に*¹長い皮衣を着せて,仰せられた,「見よ,人間は善悪を知ったので,*²われわれのようなものになった.これから,彼が生命の木にも手をのばすことのないように願う,それを食べれば永遠に生きることになるのだ」.主なる神は,エデンの園から人間を追い出された.それは土から出た人間に,土を耕(たがや)させるためであった.
神は人間を追い出してから,エデンの園の東に,*³ケルビムと,炎を放つじぐざぐ型の剣とを置き,生命の木への入口を見張らせられた.』
(注釈)
*¹「長い皮衣」はヘブライ語のコテノトで,全身をおおうぴったりした服である.ヘブライ人は衣服がその人の階層を表すと考えていた.
*²前出の6節でいった「天人」も含めた神の宮廷に仕える人々のことであって,多神論的な意味はここにない.
*³「ケルビム」は,定冠詞がついているので,周知の「天使」である.その表現から見て,アッシリア,バビロニア的な考え方から出たようである.それは,頭は人間で,翼があり(〈旧約〉脱出25・18-22,列王上6・23-28),牛のような足と動物の体を有していた(エゼキエル〈旧約〉1・5-28,10・1-20,41・18-25).ケルビムとじぐざぐ型の剣は,神の禁令を象徴する.昔のメソポタミアの大邸宅または神殿,さらに神々の座と王座の前に,炎あるいはじぐざぐ型の剣の形であらわす「稲妻」として安置され,一般人の入ることを許さなかった.
* * *
②第2パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:
旧約聖書・創世の書:6章5,11,12節(太字の箇所)
(第6章全章を引用)
『地の面(おもて)に人間がふえはじめ,娘たちがうまれてくると,*¹神の子ら(ごう慢の罪を犯した天使の子ら)は人間の娘たちを見て気に入り,好きなのをみな妻にした.そこで,主は仰せられた,「私の*²霊はいつまでも人間とともにいることはない.人間は肉のものにすぎないからである.人間の日々はあと*³百二十年である」.
神の子らが娘たちに近づいて,娘たちが子を生んでいたそのころにも,地上には巨人がいた.この巨人たちは,昔の名高い英雄たちであった.
地上の人間の罪悪がはなはだしくなり,その心に生まれる計画も,一日じゅう悪だけに向っているのを主はご覧になった.そこで主は,地上に人間をつくったことを後悔し,*⁴心の中で悔まれた(5,6節).そして主は仰せられた,「私は,自分でつくった人間を地の面(おもて)から消すつもりである.人間も,家畜も,はうものも,空の鳥も.私はこれらをつくったことを遺憾に思う」.しかし,ノアだけは,*⁵主のみ前に,寵(ちょう)を受けていた.
これから語るのは,ノアの物語である.ノアは正しい人であり,そのころの人々の間でも申し分のない人とされ,神とともに歩んでいた.
ノアはセム,カム,ヤフェトの三人の子を生んだ.しかし,神の御目にとって,この世は腐敗し,暴力に満ちていた.神が地上をながめてご覧になると,地上は腐敗し,人間はみな正道を踏みはずして生きていた(11,12節).
そこで,神はノアに向って仰せられた,「私は決めた,人間は終わりだ.人間のせいで,地上は暴力に満たされたからである.さて,私は地とともに人間を滅ぼす.おまえは樹脂のある木の箱舟を自分のために造り,その中を区切り,内外にアスファルトを塗れ.…見よ,私は,天が下の生きとし生けるものを滅ぼしつくすために,地上に*⁶大水の大天災を送ろうとする.地上のすべてのものは滅ぼしつくされる.だが,おまえに対して私は*⁷契約をしよう.おまえは息子たちと,妻と,息子たちの妻を連れて,箱舟に入れ.さらに,すべての生き物の中から,そのすべての中から二つずつを箱舟に入れ,おまえとともに生きながらえさせよ.それは雄と雌でなければならぬ.空飛ぶすべてのもの,地をはうすべてのものも,その種類によって,二つずつが,*⁸生きながらえるべくおまえのもとに来るであろう.また食べられるあらゆるものを集めて,おまえと彼らとのための糧とせよ」.ノアは,そのようにした.神に命じられたことを、すべてそのとおりに行った.』
(注釈)
(神の子らと人間の娘たち)
聖書学者は,昔からの「神の子ら」の伝統を,唯一神を信じる人々のために,適当に手を加えて書き残している.それは,大洪水が道徳の腐敗を理由に起こされたことを知らせるためである.
さらに,中近東地方でよくいわれていた「巨人」についての誤った言い伝えを訂正するためでもあった.当時にもそれ以前にも,中近東には半神半人の巨人の言い伝えがあった.
*¹「神の子ら」についてはいろいろな解釈があったが,聖書が言おうとするのは,「天使が罪を犯したこと」(これは肉体の罪ではなくて,ごう慢の罪である)である.
作者が「天使の罪」を言おうとしたのであれば,現代人には問題点があるにしても,一瞬姿を現したこの「天使」(神の子ら)は,ここに一度だけ記されて二度と登場しない.
*²「私の霊」は人間その他の生き物を生かす「神の力」のことだと解釈してよい.
*³百二十年とは人ひとりの年のことか,それとも洪水までの,改心のために人類に与えられた時間のことか不明である.
(人類の堕落)
*⁴擬人法を使っての表現.作者が目的とするのは,神を「位格あるもの」として紹介することである.人間とかかわりあいのない抽象的な神ではない.神は人間の罪を見,人間の祈りも聞くものであり,キリストがそうであったように「罪人を思って泣く」神である.ユダヤ教とキリスト教の神は,明らかに「生きる神」である.
*⁵真に価値あるものは,カイン(正しい弟を殺した悪い兄)の子孫の物質文化(4・17,20-22)でもなく,人の子がふえることでもなく(5章,6・1),偉人や巨人の偉さでもなく,「正義」であって,それだけが他の人間を救えるものであった.
(大洪水の準備,箱舟)
*⁶「大水の大天災」はヘブライ語の「マブル」.ここ以外のところでは詩篇(29〈28〉・10)にしか出ていないことばである.語源から見れば,バビロニア語の「アバブ」(あらし),アッシリア語の「ナバル」(破壊)ではないかといわれている.しかし,世界的な大天災,大破滅を示す外国語の術語から出たものともいわれる.中近東の人々の間には,「大天災」が歴史以前にあったという言い伝えが残っている.
バビロニアの言い伝えは「ギルガメシュの詩」に残されているが,ここではギルガメシュの多神論的な迷信的なところは除かれている.この有名な言い伝えを利用して,聖書作者は宗教的な解釈を下している.
神は人類一般の「生命に反する罪」を大天災で罰するが,忠実な者をその天災から守る.
この大洪水は史実に間違いないと思われる(知恵〈旧約〉10・4,シラ〈旧約〉44・17-19,ヘブライ手紙3・20,ペトロ手紙(第一)3・20,ペトロ手紙(第二)2・5,マテオ聖福音24・37-39,ルカ聖福音17・26以下).
しかし,聖書作者は今の歴史のような書き方はせず神の霊感もあったであろうが,当時の伝統に基づいて記している.大洪水という「事実」と,その出来事の「宗教的な教え」と,その表現である「文学」とは区別して考えなければならない.
*⁷神がノアとその子孫に対して結ぶ契約のことが初めてはっきり記される.この契約は神の慈悲だけによって成立する.後にアブラハムとの契約(創世〈旧約〉15・18),民との契約(19・1)がある.
*⁸罰あるいは救いのために,動物も人間と運命をわかち合う.人間の罪は神の創造のみ業(わざ)を傷つけた(6・13,ローマ手紙〈新約〉8・19-22).
* * *
③第3パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:
旧約聖書・創世の書:第7章11節
『…ちょうどその日に,*大深淵のあらゆる水源が破れ,天の水門が開いた.』
(注釈)
*大洪水が地をおおうこの記述は,当時の宇宙論に従っている.
・当時の考え方によると,大地は大柱の上におかれ,下には深淵の水がある(創世49・25,詩篇24(23)・2,75(74)・4,格言8・24,28).
・地下のその深遠の水は,川などによって上に出てくる(格言8・24,28).ここでは川があふれたことになる.そのうえ「天の屋根」の水門が開いて,上にあった水も流れ出てきた.…
・宗教的にいえば,洪水がどのくらいの地域に及んだかはさして重大ではない.ノアによる救いの格言的な意味についても,その広がりについては同じことがいえる.
・ノアが救われたことは「洗礼による救い」の前兆である(ペトロの手紙(第一)3・20-21).
* * *
同・創世の書:第8章2節(太字部分)
(1-3節)
『神はノアと,またともに箱舟にいたすべての獣と家畜のことを思い出され,地上に風を吹かされたので,雨はひき始めた.深淵の水源と天の水門とは閉じられ,*大雨が天から降るのもやみ,大雨が天から降るのもやみ,水はしだいに地の面(おもて)からひいていき,百五十日後に水かさは減った.…』
(注釈)
(水がひく)(8・1-14)
神のあわれみを示す以下の物語は「神は…思い出され」という一言から始まる.「ザカール」というこの動詞は,空しい思いではなく,何かをつくり上げる強い思いである.こうしてつくり上げられるのは,賞罰いずれにしろ,神の現存の証明である.
*「大雨」は夕立のようなパレスチナの冬の雨である.
* * *
(まとめと解説)
・自然界(大宇宙・大自然・動植物)は人間と同じように神の被造物である.
・現存する生命はみな一つの源(唯一の神)から生まれ出て互いに共存し合っている.
・特に人間は神の似姿として,自然界を支配すべく創造されたが,人祖が神に背いたため自然界もその原罪の下に服従させられた.
・自然界はその管理者たる人間の心の状態を正直に反映する.人間の善良で平和な心は人間も自然界をも共に喜ばせ生き生きと生かし,人間の悪い心(ごう慢,妬(ねた)み,憎しみ,貪欲,利己心)は人間も自然界をも共に動揺させる(家庭内不和・暴力,犯罪や自然災害).
・ある人間,人間社会が慢心し自己中心や貪欲を極めれば,その人自身・その社会自身の破滅を招くだけでなく,他の人・社会や自然界の不幸・犠牲にまで発展する(うつ病患者や自殺者の増加,欲の追求のため人や動植物の生命体を操作・利用することなど).
これは,神のおきて(①神への愛と服従②隣人を自分同様に愛する義務)すなわち自然の摂理に反することである.
・人間は神に服従し,謙遜な慎み深い,節度のある日常生活を心がけることで,傲慢,貪欲,妬み,憎しみの罪による破滅から身を守ることができる.
* * *
揺るがない救いと希望
新約聖書より
①使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第8章
(肉による生活と霊による生活)(8・1-17)
『だから今,キリスト・イエズスに在る者は,*¹罪とせられることがない.キリスト・イエズスにおいて命を与える*²霊の法が,あなたを罪と死との法から解放したからである.
肉によって無力になっていて律法ではできなかったことが可能とされた.それは(神が)*³ご自分のみ子を罪のために,罪の肉の形で遣わすことによって,肉において罪を罪と定められたからである.それは、*⁴肉ではなく霊に従う私たちのうちに,律法の定めを成し遂げるためである.
肉に従って生きる人は肉のことを思い,霊に従う人は霊のことを思う.肉の*⁵念(おもい)は死であり,霊の念は命と平和である.肉の念は,そのために神の敵である.神の法に従わずまた従うことができないからである.したがって肉に生きる人は神に喜ばれない.
*⁶神の霊があなたたちに住まわれるからには,あなたたちは肉ではなく霊のうちにいる.
キリストの霊をもたないならその人はキリストのものではない.
キリストがあなたたちのうちにましますなら,体は*⁷罪のために死んでいても霊は義によって命にいる.イエズスを死者からよみがえらせたお方の霊があなたたちに住むなら,キリスト・イエズスを死者からよみがえらせたお方は,あなたたちに住む霊によってその*⁸死の体をも生かしてくださる.』
(注釈)
*¹キリストのあがないのおかげで,信仰する者はもう断罪されることはない.
*²聖霊のことではない.
*³キリストは肉に生きる人間と同じ形をとられたが,罪をとらなかった.「罪のために」というのは罪を破るためである.
*⁴肉に罪の力があったが,キリストの肉体によって,罪の力は破れた.
*⁵傾向,要求などの意.肉は霊的な死に導く罪の奴隷である.
*⁶「神の霊」「キリストの霊」は聖霊のこと(ガラツィア手紙〈新約〉4・6)
*⁷罪のために人間は死ぬものである(5・12).あるいは,洗礼による象徴的な死のことを指すか(6・3-5).
*⁸キリスト信者はキリストの死と復活にあずかる(コリント手紙〈第一〉15・12).
* * *
『*¹そこで,兄弟たちよ,私たちは負債を負っているが,肉に従って生きるための肉に対する負債を負ってはいない.あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められており,霊によって体の行いを殺すならあなたたちは生きる.神の霊によって導かれている人はすべて神の子らである.*²あなたたちはふたたび恐れに陥(おちい)るために奴隷の霊を受けたのではなく,養子としての霊を受けた.これによって私たちは「*³アッバ,父よ」と叫ぶ.霊御自ら私たちの霊とともに,私たちが神の子であることを証明してくださる.私たちが子であるのなら世継ぎでもある.
キリストとともに光栄を受けるために,その苦しみをともに受けるなら,私たちは神の世継ぎであって,キリストとともに世継ぎである.』
(注釈)
*¹キリスト信者は,肉ではなく霊に対して負債をもっている.
*²ガラツィア4・5-6.ユダヤ人の宗教生活の基本は,特に神への恐れであった(第二法〈旧約〉6・13,10・21).しかしキリストの降臨の後は恐れが信仰の土台となると思ってはならない.
*³アラマイ語の「父」(マルコ聖福音14・36).
* * *
(神の子らとしての希望)(8・18-25)
『今の時の苦しみは,私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う.
*¹全被造物は切なる憧(あこが)れをもって,神の子らの現れを待っている.*²全被造物は自分の望みによってではなく,自分を服従させたものによってはかなさに服従させられたが,だが腐敗の奴隷から解放されて,神の子らの光栄の自由にあずかれることを希望している.*³全被造物が今まで嘆きつつ陣痛の苦しみに会っていることを私たちは知っている.
そればかりではなく,霊の初穂をもつ私たちも,心からのうめきをもって自分が養子とされ,
*⁴自分の体があがなわれることを期待している.まことに私たちが救われたのは,*⁵希望においてである.目に見える希望はもう希望ではない.見えるものをどうして希望することができよう.私たちがもし見えないものを希望しているのなら,忍耐をもってそれを期待しよう.』
(注釈)
*¹キリストの救いの効果は,全世界に及ぶものである(コロサイ手紙(新約)3・3-4,エフェゾ手紙1・10,フィリッピ手紙2・10).
*²パウロはアダムの罪が人間の世界だけでなく,物質の世界にも及んでいることをほのめかしている.
*³すべての被造物は新秩序の到来を待っている(使徒3・21,ペトロ手紙(第二)3・13).
*⁴まったく養子となること(コリント手紙(第一)15・47-49).
*⁵救いの完成が希望の対象である.
* * *
(聖霊の助力)(8・26-27)
『*¹霊も私たちを弱さから助ける.私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが,霊は筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたいうめきをもって,私たちのために取り次いでくださる.そして*²心を探るお方は霊の意向を知りたもう.すなわち,霊は神のみ旨に従って聖徒のために取り次がれる.』
(注釈)
*¹神の霊(8・9,11).9節ではキリストの霊についても記されている.神の霊とキリストの霊は,父と子が送る同じ霊,聖霊である.
*²神のこと.
* * *
(救いの予定)(8・28-30)
『神を愛する人々すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.*¹神はあらかじめ知っている人々を*²み子の姿にかたどらせようと予定された.それはみ子を多くの兄弟の長子とするためである.
また予定された人々を召し出し,召し出した人々を義とし,義とした人々に*³光栄を与えられた.』
(注釈)
*¹コリント手紙〈第一〉(新約)8・3,13・12.神の愛の結果である.
*²コリント手紙〈第二〉3・18参照.
*³光栄を得るのはキリスト来臨の時であるが,パウロは神の永遠の計画をすでに実現されたものとして見ている.
* * *
(救いの確実さ)(8・31-39)
『このことについて何と言おう.神がもし私たちの味方ならだれが私たちに反対できよう.*¹ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が,み子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか.だれが神の選ばれた者を訴えられよう.義とするのは神である.だれが彼らを罪と定められよう.死んで,いや,むしろ甦(よみがえ)って神の右に座し,私たちのためにとりなしたもうイエズス・キリストか.*²だれがキリストの愛から私たちを離れさせ得よう.患難か,苦悩か,迫害か,飢えか,裸か,危険か,剣か.すなわち,「*³あなたのために私たちは一日じゅう死にわたされ,屠(ほふ)られる羊のようなものになった」と書き記されているとおりである.だがすべてこれらのことに会っても,*²私たちを愛されたお方によって,私たちは勝ってなお余りがある.死も,命も,天使も,*⁴権勢も,現在も,未来も,*⁴能力も,高いものも深いものも,そのほかのどんな被造物も,主イエズス・キリストにある神の愛から私たちを離せないのだと,私は確信する.』
(注釈)
*¹救いの予定は神の無限の愛に基づき,人間への神の賜はその愛を表す.
*²私たちに対するキリストの愛(8・37).
*³詩篇44・23.キリストは,自分のために苦しむ人々を見捨てない(コリント手紙〈第二〉4・11).
*⁴「権勢」と「能力」はキリストに反する悪霊のこと(コリント手紙〈第一〉15・24).
* * *
②使徒ペトロによる第一の手紙全章.
第1章
(あいさつ)(1・1-2)
『イエズス・キリストの使徒ペトロより,ポント,ガラツィア,カパドキア,アジア,ビティニアに離散し,*¹寄留している選ばれた人々,すなわち父なる神の予知によってイエズス・キリストに服従し,*²その御血を注がれるために,聖霊によって聖とされた人々に.あなたたちに豊かな恩寵と平和があるように.』
(注釈)
*¹パレスチナを離れていることだけではなく,キリスト信者であれば故国は天国だと考えねばならぬからである.
*²シナイ山での契約の改めを暗示する(〈旧約〉脱出の書24・8).イエズスは新しい仲立ちであって,その御血は新契約の保証であり,調印である.
* * *
(救いの希望と信仰の試練)(1・3-9)
『私たちの主イエズス・キリストの父なる神は賛美されますように.神はその大なるあわれみにより,イエズス・キリストの死者からの*¹復活によって,私たちを新たに生まれさせ,生きる希望を抱かせ,*²朽ちることなく,汚(けが)れることなく,しぼむこともない天の蓄(たくわ)えの遺産を継がせられた.あなたたちは末の世に現れようとしている救いを受けるために,信仰によって神の力に守られている.
だからしばしの間いろいろの苦しみに会うにしても,そのために喜び勇むがよい.火で試されるはかない黄金(きん)よりも尊い信仰の試練は,イエズス・キリストの現れの日,誉(ほま)れと光栄と名誉のもととなるであろう.あなたたちはイエズスを見なかったのに彼を愛し,*³見ないのに信じている.それはあなたたちにとって言い尽くせぬ輝かしい喜びのもとである.その信仰の報いとして霊魂の救いを受けると保証されているからである.』
(注釈)
*¹3-4節 使徒2・16,22以下,36,ヨハネ聖福音3・5,ヨハネ手紙(第一)2・29,3・9参照.
*²ローマ1・4,コロサイ1・5,15,マテオ聖福音6・19-20参照.
*³信仰は見えないものを宣言するから,功徳あるものである.
* * *
(救いはイエズス・キリストにある)(1・10-12)
『その救いは,あなたたちに備えられた恩寵について預言した預言者たちによって探られ,調べられた.彼らは*¹自分たちの中にあるキリストの霊が,あらかじめキリストの苦しみとその後の光栄を宣言した時,その示された時代と情況をしらべようと努力した.
彼らは,その使命が自分たちのためではなく,あなたたちのためであると*²啓示を受けた.それは天から送られた*³聖霊によって,今あなたたちに,天使さえあこがれる福音を伝える人々の宣言を準備する使命であった.』
(注釈)
*¹旧約をも導いたキリストの永存(コリント(第一)10・4,9).
*²預言はペトロの時代に実現した.
*³聖霊は使徒たちに下った.それは預言者たちに下ったのと同じ聖霊である.
* * *
(聖徳への勧め)(1・13-21)
『だから,あなたたちは心の腰に帯をしめ,身を慎(つつし)み,すべての希望を,イエズス・キリストの現れの日に与えられる*¹恩寵にかけよ.*²従順な子となって,以前無知のころもっていた欲望に従うな.*³むしろあなたたちを召された聖なるお方にならい,自分のすべての行いを聖とせよ.「*⁴私が聖なる者であるから,あなたたちも聖なる者であれ」と書き記されているからである.あなたたちは,人を差別せずに業(わざ)によって各人をさばかれるお方を*⁵父と呼ぶのであるから,地上で過ごす間畏れ(恐れ)をもって生きよ.あなたたちが*⁶祖先から受け継いだむなしい生活からあがなわれたのは,金銀などの朽ちる物によるのではなく,*⁷傷もなく汚点(しみ)もない小羊のような,キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている.キリストは世の創造以前に予定されていたが,あなたたちのためにこの末の日に現れたもうた.キリストを死者からよみがえらせ,光栄を与えられた神に対する信仰を,あなたたちはキリストによってもっている.こうしてあなたたちの信仰と希望は神に基づくのである.』
(注釈)
*¹永遠の救いである(ルカ聖福音12・35-40).
*²ローマ6・19参照.
*³マテオ聖福音5・48,ヨハネ手紙(第一)3・3,使徒9・13参照.
*⁴レビ(旧約)11・44参照.
*⁵マテオ聖福音6・9,コリント(第一)4・4-5,同(第二)5・10-11参照.
*⁶私たちの救いのあまりにも高価なことを考えよ.この祖先は,偶像崇拝や異教の不道徳に従っていた(使徒14・15,エフェゾ4・7).
*⁷レビ(旧約)22・21,ヨハネ聖福音1・29,36参照.
* * *
(愛と神のみことば)(1・22-2・3)
『あなたたちは,真理に服し,霊魂を聖とし,真実な兄弟愛に至ったのであるから,絶えず互いに心から愛し合え.
あなたたちが新たに生まれたのは,朽ちる種によるのではなく,永遠に生きる神のみことばの朽ちぬ種によるからである.「*¹すべての肉は草のごとく,その光栄は草の花のようである.草は枯れ,花は落ちる.しかし主のみことばは永遠に残る」.あなたたちに伝えられたよい便りはこのみことばである.』
(注釈)
*¹イザヤ(旧約)40・6-8参照.
* * *
第2章
(愛と神のみことば)(1・22-2・3)
『したがって,*¹すべての悪意,すべての偽(いつわ)り,偽善(ぎぜん),ねたみ,そしりを棄(す)てよ.*²新たに生まれたみどり児(ご)のように,それによって救いに成長するために,混じりのない*³霊的な乳を望め.あなたたちは,もはや主の慈(いつく)しみを味わったからである.』
(注釈)
*¹ローマ1・29参照.
*²信仰と洗礼によってキリスト信者は生まれ,霊的成長をとげる.
*³教えのこと.
* * *
(キリストは親石である)(2・4-10)
『*¹人間に捨てられ神に選ばれた尊い生きる石である主に近づけ.そして生きる石としてあなたたちもこの霊の建物の材料となれ.こうして,あなたたちは*²聖なる司祭職を務め,イエズス・キリストによって神に嘉(よみ)される霊のいけにえをささげるであろう.そこで聖書には,「*³見よ,私は,選ばれた尊い親石をシオンに置く.これに信頼を置く者は辱(はずか)しめられない」と記されている.それは信じるあなたたちには誉(ほま)れとなったが,信じない人には「*⁴家を建てる者の捨てた石が親石」,邪魔物の石,つまずきの岩となった.彼らがつまずくのは,みことばを信じないからである.彼らはそう定められていたのである.しかしあなたたちは選ばれた民族,*⁵王の司祭職,聖なる民であり,闇(やみ)から輝かしい光にあなたたちを呼ばれたお方の不思議を現すために選ばれた民である.あなたたちは前には神の民ではなかったが今は神の民であり,前にはあわれみを受けなかったが今はあわれみを受けた.』
(注釈)
*¹マルコ12・10参照.
*²祈り,断食などのいけにえをささげるキリスト信者は,司祭の務めを果たすとも言える.
*³イザヤ(旧約)28・16参照.
*⁴イザヤ8・14,詩篇(旧約)118・22参照.
*⁵脱出(旧約)19・5,イザヤ43・20-21,ローマ(新約)3・24,コリント〈第二〉1・12-13.広義の司祭職,すなわち王または司祭であるキリストの肢体だからである.
* * *
(模範)(2・11-12)
『愛する者よ,私はあなたたちに勧めたい.あなたたちは*¹他国人であり旅人であるから,霊に逆らう肉の欲を避けよ.*²異邦人(異教徒や不信心な人)の中にあって申し分のない行いをせよ.それはあなたたちを悪人とそしる中で,あなたたちの善業がよりよく評価されるためであり,訪れの日に神に誉(ほま)れを帰するためである.』
(注釈)
*¹肉の世,福音を受けない世において,キリスト信者は他国人である(詩篇〈旧約〉39・13,ガラツィア〈新約〉5・24).
*²マテオ聖福音5・16,イザヤ〈旧約〉10・3参照.
* * *
(上の者に従え)(2・13-25)
『*¹あなたたちは主のために人間の立てた制度に従え.主権者として王に,そして悪人を罰し善人を賞するために王から送られた者として上長にも服従せよ.
*²善を行い,あなたたちを認めぬ愚かな人々の口を閉ざさせることこそ神のみ旨である.*³自由民としてふるまっても,その自由を悪事の覆(おお)いとせず,神のしもべとしてふるまえ.すべての人を敬(うやま)い,*⁴兄弟たちを愛し,神を畏れ(恐れ),*⁵王を尊(とうと)べ.
*⁶しもべたちよ.大いに尊敬の念をもって主人に服従せよ.よい寛容な主人にだけではなく,気むずかしい人々にも服従せよ.
*⁷神のために患難と不正な苦しみとを耐え忍ぶことは,神に嘉(よみ)されることである.もし悪を行ってから打たれるのを耐え忍んでも,それが何の功徳になろう.だが善を行ったのに苦しめられて耐え忍ぶのは神に嘉されることである.*⁷
あなたたちは実にそのために召されている.キリストはあなたたちのために苦しみ,その足跡を踏(ふ)ませるために*⁹模範を残されたのである.
キリストは罪を犯さず,口を偽(いつわ)らず,侮辱されても侮辱せず,虐(しいた)げられても脅(おど)さず,*⁸正義をもってさばくお方に自分をゆだね,*¹⁰そのお体に私たちの罪を背負って*¹¹木につけられた.
それは私たちを罪に死なせ,正義に生きさせるためである.あなたたちは,その打ち傷によっていやされた.あなたたちは*¹²羊のように迷っていたが,今は霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである.』
(注釈)
*¹ローマ13・1-7,ティト3・1参照.
*²ガラツィア5・13参照.
*³罪から解放された者として(ユダ4節)
*⁴ガラツィア6・10参照.
*⁵マテオ聖福音22・21参照.
*⁶エフェゾ6・5参照.
*⁷19-20節(*⁷から*⁷まで) 服従の価値は,神ご自身に対して義務を負っているという意識にある.
*⁸当時不正な主人に踏みにじられていた奴隷にとって,大いなる慰めと力づけであった.
*⁹マルコ14・65参照.
*¹⁰受難の救霊的価値.
*¹¹使徒(新約)5・30参照.
*¹²イザヤ(旧約)53・6参照.
* * *
第3章
(夫婦の義務)(3・1-7)
『同じように妻たちも夫に従え.たとい*¹教えに従わぬ夫であっても,彼はあなたたちの清い慎み深い生活を見て,ことばではなく妻の行いによって救われる.あなたたちは*²髪を編み,金の輪をつけ,服装を装(よそお)う外面ばかりの飾(かざ)りをつけず,むしろ隠(かく)れた内的な心の飾り,つまり優しく静かな霊の朽ちることのない清さをもて.これが神のみ前に尊(とうと)いものである.自分の夫に従って神に希望をかけていた昔の清い婦人たちの飾りもそうであった.たとえば*³サラはアブラハムに服従して,彼を主と呼んだ.あなたたちは,何にも恐れず善を行って*⁴サラの娘となった者である.
*⁵また夫たちよ,あなたたちは自分より弱い者である妻とともに思いやりをもって生活せよ.なぜなら彼女たちもともに命の恩寵の世嗣ぎ(よつぎ)だからである.だから彼女たちを尊べ.何事もあなたたちの祈りの妨(さまた)げとしないように.』
(注釈)
*¹福音のこと(〈新約〉エフェゾ5・22以下,コロサイ3・18,ティト2・4-5).
*²(新約)ティモテオ〈第一〉2・9-10参照.
*³創世(旧約)18・12参照.
*⁴ガラツィア3・7参照.
*⁵ローマ7・2-4,コリント〈第一〉7・1-16,11・2-16,エフェゾ5・22-23,コロサイ3・18-19参照.
* * *
(愛徳の義務)(3・8-12)
『最後に,あなたたちは*¹みな心を一つにせよ.同情,兄弟愛,あわれみ,謙遜*²をもつように.*³悪に悪を,侮辱に侮辱を返すことなく,むしろ祝福せよ.あなたたちは,祝福の世嗣ぎとなるためにそう召されたからである.
「*⁴命を愛して幸せな日を送ろうとする者は,舌を悪から,唇を偽りから守れ.悪を遠ざかって善を行い,平和を求めまた追え.主の目は義人の上に注がれ,その耳は彼らの祈りに傾(かたむ)く.だが主の顔は悪を行う者に向く」.』
(注釈)
*¹ローマ12・16参照.
*²ブルガタ訳には「慎み」という言葉も入っている.
*³ルカ6・28参照.
*⁴10-12節(「 」内)詩篇(旧約)33・13-17.
聖徳をもって生きることは祈りの効果と主の祝福を受けるために最も有効である.
* * *
(キリストの模範に従う)(3・13-22)
『あなたたちがもし善に熱心なら,だれがあなたたちに悪を行えよう.*¹たとい正義のために苦しめられても,あなたたちは幸せである.彼らの脅(おど)しを恐れるな,戸惑(とまど)うな.*²心の中で主キリストを聖なる者として扱い,あなたたちの内にある希望の理由を尋(たず)ねる人には,優しく,敬って常に答える準備をせよ.
正しい良心をもつようにせよ,そうすればあなたたちがキリストにおいて行うよい行いをののしる人々は,自分がののしったことを恥じるであろう.また*³善を行って苦しむことが神のみ旨なら,悪を行って苦しむよりもそのほうよい.なぜならキリストも一度人々の罪のために死なれた.義人であったキリストは不正な者の身代りとなり,私たちを神に近づけるためにそのお体に死を受け,霊において生かされた.*⁴その霊においてキリストは囚(とら)われの魂の所に行って宣言した.*⁵その霊とは,ノアのとき,神が寛容をもって待たれた間,箱舟(はこぶね)が作られつつあったのに,従わなかった人々である.その箱舟に入って水から救われたのはわずかに八人であった.その水は今あなたたちを救う洗礼の前兆であった.洗礼は体の汚(けが)れを除くことではなく,イエズス・キリストの復活により,神に対して*⁶正しい良心を求めることである.キリストは(*⁷私たちに永遠の命を得させるために死を滅ぼし,)天に昇って神の右に座られる.そして天使たちと*⁸能力と勢力はキリストに服従する.』
(注釈)
*¹マテオ聖福音5・10,イザヤ(旧約)8・12-13参照.
*²マテオ10・26-31参照.
*³神に信頼する義人の苦しみは,神の罰である悪人の苦しみとは比較できないものである.
*⁴イエズスの霊は冥府に行って,先祖たちに救いを告げた(ルカ23・43,ローマ10・6,黙示1・18).
*⁵神に背いていた人々も,神の下した罰を見て改心し,古聖所に入れられた.
*⁶「契約」という訳もある.
*⁷このことばはギリシア語の古写本にはのっていない.
*⁸「能力と勢力」は能天使と力(りき)天使のこと.
* * *
第4章
(罪を絶て)(4・1-6)
『*¹キリストは肉体において苦しまれたのであるから,あなたたちもその心で武装せよ.肉体において苦しんだ者は罪を断ち,もはや人間の欲望に従わず,肉体を残す間,神のみ旨によって生きる.過去のあなたたちは,異邦人の好みのままに,好色,欲望,酩酊,酒宴,暴飲,厭(いと)うべき偶像崇拝におぼれて生活したが,もうそれで十分ではないか.彼らはあなたたちが自分たちと同様に淫乱の極みに走らないのを怪(あや)しみ,あなたたちをそしる.しかし彼らは生者と*²死者を裁こうと待ちかまえられる主に報告せねばならないであろう.よい便りが死者にものべ伝えられたのは,*³肉体においては人間としてさばき,霊においては神に従って生かすためである.』
(注釈)
*¹ローマ6・6-7参照.
*²イエズスは死者をさばく主でもある.死者とは古聖所の死者(使徒10・42,ティモテオ〈第二〉4・1).
*³死ぬべき人間として死に,キリストの聖霊によって生きる.
* * *
(徳の実行)(4・7-11)
『*¹万物の終りは近い.だから,よりよく祈るために賢明であれ,慎み深くあれ.何よりもまず絶えず愛し合え.愛は多くの罪を覆(おお)うものである.不平を言わずに客をよくもてなせ.神のさまざまの恩寵のよい分配者として,各自が受けた賜(たまもの)をもって他人に仕えよ.*²語る人は神のみことばにふさわしいように語り,愛の仕事に携(たずさ)わる人は,神に分け与えられた力によって仕事せよ.それはイエズス・キリストによってすべてについて神に光栄を帰するためである.光栄と力は代々にキリストの上にあれ.アメン.』
(注釈)
*¹神の審判が近いことを考えて,聖徳を積まねばならない.
*²語るとは宣教すること.愛の仕事は執事の務め.
* * *
(苦しみの時の慰め)(4・12-19)
『愛する者よ,あなたたちを試すために*¹燃やされた火を見て,思いがけないことが起ったかのように驚かず,むしろ*²キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜べ.そうすれば,あなたたちは光栄の現れのとき喜びに喜ぶ.*³もしあなたたちがキリストのみ名のために侮辱されるなら幸せである.*⁴神の霊である光栄の霊があなたたちの上に休まれるからである.あなたたちの中のだれも,人殺しあるいは盗人(ぬすびと),悪人あるいはみだりに他人に干渉する者として罰を受けてはならぬ.しかし,キリスト信者として苦しむならば,それを恥じず,むしろその名を持つことによって神に光栄を帰せよ.すでに*⁵神の家から裁(さば)きの始まる時が来た.私たちから始まるとしたら,神の福音に従わぬ人々の行く末は,どうであろうか.*⁶義人がかろうじて救われるのなら,不敬虔な人や罪人はどうなるであろうか.だから神のみ旨に従って苦しむ者は,善を行いながら真実のお方である創造主に霊魂をゆだねよ.』
(注釈)
*¹キリストの敵が与える苦しみを見て,ある信者はつまずいたからである.
*²マテオ5・11-12参照.
*³イザヤ(旧約)11・2参照.
*⁴マテオ聖福音5・11-12,ルカ聖福音6・22-23参照.
*⁵神の家は義人たちのこと.
*⁶格言(旧約)11・31,ルカ23・31,ローマ11・21,エレミア(旧約)25・29参照.
* * *
第5章
(聖職者の義務)(5・1-4)
『私はあなたたちの中の*¹長老たちに勧める.私も彼らと同じ長老であって,キリストの御苦しみの証人であり,やがて現れる光栄にあずかる者である.あなたたちにゆだねられている神の群れを牧せよ.強いられてではなく,(*²神に従って)心から行い,汚らわしい利益のためではなく献身的に行い,(*³ゆだねられた団体に)支配権の重みを感じさせず,*⁴むしろ群れの模範となれ.そうすれば牧者のかしらが現れるとき,あなたたちは不朽の光栄の冠を受けるであろう.』
(注釈)
*¹初代教会の司祭あるいは司教のこと.
*²このことばはある古写本にはない.
*³このことばもある古写本にはない.
*⁴コリント〈第一〉4・16,フィリッピ3・17,ティモテオ〈第一〉4・12参照.
* * *
(信者の義務)(5・5-7)
『若い人々よ,あなたたちは長老に服従し,互いに謙遜をまとえ.「*¹神は高ぶる者に逆らい,へりくだる者に恵みを与えられる」からである.だから,神の力のある御手のもとにへりくだれ.そうすれば,*²その時になって神はあなたたちを高めたまい,*³すべての心配を神にゆだねれば,神はあなたたちをかえりみたもう.』
(注釈)
*¹格言(旧約)3・34参照.
*²審判の時.
*³マテオ6・25-34参照.
* * *
(警戒と信頼)(5・8-11)
『*¹節制し警戒せよ.敵の悪魔は吠える獅子(しし)のように,食い荒らすものを探して,あなたたちのまわりを回っている.*²あなたたちは世にいる兄弟たちも同じ苦しみに耐えていることを思い,信仰を固めて彼に抵抗せよ.*³すべての慈しみの神,すなわちキリストによって永遠の光栄にあなたたちを召された神は,しばらくの試みの後あなたたちを完成させ,固め,強め,不動にしたもうであろう.神に代々に勢力あれ.アメン.』
(注釈)
*¹ヤコボ4・7,エフェゾ6・16参照.
*²詩篇22・14,エフェゾ6・11参照.
*³ローマ8・18,コリント〈第二〉4・17,テサロニケ〈第一〉2・12,5・24参照.
* * *
(あいさつ)(5・12-14)
『*¹私の信頼する忠実な兄弟シルワノによって,私は以上簡単に書き記したが,それは,あなたたちに忠告し,あなたたちが立っているのは神のまことの恵みであることを証するためであった.
あなたたちとともに選ばれた*²バビロンにある教会と,*³私の子マルコからよろしくと言っている.愛のくちづけをもって互いにあいさつせよ.
キリストにあるあなたたちすべての上に平和あれと祈る.』
(注釈)
*¹「忠実な兄弟シルワノ…私がそれを証明する」という訳もある.シルワノあるいはシラ(使徒18・5,コリント〈第二〉1・19).
*²ローマの教会
*³マルコはペトロの弟子.福音史家.
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