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2015年1月17日土曜日

392 矛盾する碑銘 1/17

エレイソン・コメンツ 第392回 (2015年1月17日)

神が善良に造られた私達の本質を
アダムが台無しにしてしまいました.
(かみが ぜんりょうに つくられた
 わたくしたちの ほんしつを
 あだむが だいなしに して しまい ました.)

神により(由り) 善良に成りたいと願う
私達の本質は,
アダムが駄目にします.
(かみに より
ぜんりょうに なりたいと ねがう
わたくし たちの ほんしつは,
あだむが だめに します.)

Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.


広い星空の下に
(ひろい ほしぞらの したに)
Under the wide and starry sky

墓を掘り私をそこへ眠らせておくれ
(はかを ほり
わたくしを そこへ ねむらせて おくれ)
Dig the grave and let me lie

私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
(わたくしは いきてきて
よかったと おもい,
よろこんで しぬ)
Glad did I live and gladly die,

そして,私は自らの意志でそこに横たわる
(そして,わたくしは
みずからの いしで そこに よこたわる)
And I laid me down with a will.


この碑文を私の墓に刻んでほしい
(この ひぶんを
わたくしの はかに きざんで ほしい)
This be the verse you ’grave for me:

彼は望みどおりのところで眠る
(かれは のぞみ どおりの ところで ねむる)
Here he lies where he longed to be.

船乗りは海から家へ帰る
(ふなのりは うみ から いえへ かえる)
Home is the sailor, home from sea

そして,猟師は丘から家へ帰る
(そして,りょうしは おか から いえへ かえる)
And the hunter home from the hill

—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)
—R.L.Stevenson (1850–1894)


詩人の墓に刻まれたこの(此の)碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り(しじんの はかに きざまれた この ひぶんは かんけつ ながら,その しんじょうを ゆうべんに かたり)( "This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, …" ),それ(其れ)が人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすもの(物)があり(在り・有り)ます(それが じんせいで さけられない し に ふれて いる だけに,ひとの こころを うごかす ものが あります)( "… and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life." ).詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います(しじん たちは せいと あいを しのんで し を さくひんの てーま として あつかい ます)( "Commemorating life and love, poets often treat of death, …" ).死は生と愛を神秘的に断ち切るものです(し は せい と あい を しんぴ てきに たち きる もの です)( "… which so mysteriously cuts off both." ).生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者達は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします(せいや しの いみを かんがえる ことを のぞまない あわれな ゆいぶつ しゅぎ しゃ たち は し を ぶんだん して,かのう なら それを さんぶん として ぷりんと しよう と します)( "Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, …" ).それは,正しく物質より高度な物について考えるのを避ける為です(それは まさしく ぶっしつ より こうどな もの について かんがえる のを さける ため です)( "… precisely to avoid having to think about anything higher than matter." ).だが,其の様な事をしても,神秘は残ります(だが,そのような ことを しても,しんぴは のこり ます)...( "But the mystery remains . . ." )

理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です(りろん てき には, すちーぶんそんの ひめいは ゆうかん です)( "In theory, Stevenson’s epitaph is brave." ).彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で(かれは かくせつの おわりの さんぎょう,つまり はっせつの うちの ろくぎょうで)( "In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, …" ),6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています(ろく とおりの ちがう ひょうげんを もちいて じぶんは しあわせに しぬと いって います)( "… he says in six different ways that he is happy to die." ).だが,詩は矛盾に満ちています(だが,しは むじゅんに みちて います)( "But the poem is laden with contradiction." ).「生きて来て良かった」と云うなら,如何して喜んで死ねるのでしょうか?(「いきてきてよかった」というなら,どうして よろこんで しねる の でしょう か?)( "If “Glad did he live,” how could he gladly die? " ) 若し,死んで良かったと思うなら,如何して生きて来て良かったと思うのでしょうか?(もし,しんで よかったと おもう なら,どうして いきて きて よかったと おもう の でしょう か?)( "If he was so glad to die, how could he have been glad to live? " ) 彼が云う様に喜んで死ぬ為には(かれが いうように よろこんで しぬ ため には)( "To be as glad to die as he claims, …" ),彼は生きる意志を失ったか(かれは いきる いしを うしなった か),或いは其の意思を断念したに違い有りません(あるいは その いしを だんねん したに ちがい ありません)( "… he must have lost his will to live, or shut it down, …" ).其れを彼が出来たのは(それを かれが できた のは),自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在等を拒んだからで(じぶんの どうぶつ てきな し を こえた うんめい,いぎ,そんざい など を こばんだ からで)( "… which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, …" ),そうする事が出来たのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう(そう する ことが できた のは,じぶんが たん なる どうぶつ だと よそおった から でしょう)( "… and this he could only do by pretending to be no more than an animal." )(訳注3・1 ).だが,何の様な動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?(だが,どのような どうぶつが ゆうべんで かんどう てきな し を かく でしょうか?)( "But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching? " )

嗚呼,ロバート・ルイスよ,貴方は決して動物等では在りませんでした(ああ,ろばーと・るいすよ,あなたは けっして どうぶつ など では ありません でした)( "O Robert Louis, you knew you were not just an animal." ).貴方は多くの文学作品を書きました(あなたは おおくの ぶんがく さくひんを かきました)( "You took the trouble to write many literary works, …" ).其の中には,少年達を魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」が在ります(その なか には,しょうねん たちを みりょう した いのちと ぼうけんの ものがたり「たからじま」や ふはい と し の ものがたり「じきる はかせと はいど し」が あります)( "… including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, …" ) .そして貴方の作品は貴方を世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています(そして あなたの さくひんは あなたを せかい じゅうで にじゅうろく ばん め に おおく ほんやく されて いる さくしゃに して います)( "… and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world." )貴方の両親が長老派教会員で,19世紀半ば頃多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン(カルバン)派だったのは事実です(あなたの りょうしんが ちょうろうは きょうかい いん で,じゅうきゅう せいき なかば ごろ おおくの ぜんりょうな ひとびとを むしん ろんじゃに かえ させたがんこな かるびん〈かるばん〉 は だった のは じじつです)( "True, your parents were Scottish Presbyterians, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist." ).だが,貴方は如何して死を前に,其れ程控え目に自分を曝け出したのでしょうか?(だが,あなたは どうして し を まえに,それほど ひかえめに じぶんを さらけだした の でしょう か?)( "But how could you sell yourself so short at death? " )貴方は如何して死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?(あなたは どうして し は「いえ」へ かえる のと おなじ だと ふるまえた の でしょうか?)( "How could you pretend that death is “home”? " )

創造主は抑々人間という理性的な動物に動物的な死等設計されませんでした(そうぞうしゅは そもそも にんげん という りせい てきな どうぶつに どうぶつ てきな し など せっけい されません でした)( "The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. " ).アダムとイブ(=エワ・エバ)以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性若しくは道理を十分発揮して居たなら(あだむと えわ〈=いぶ〉 いこうの あらゆる にんげんが さだめ られた このよの いのちの きかん ちゅう,ごうり せい もしくは どうりを じゅうぶん はっき していた なら)( "Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, " ),避け難い動物的死では無く,理性の活用が当然もたらす(齎す)永遠の命に難無く滑り込めたでしょう(さけがたい どうぶつ てき し では なく,りせいの かつようが とうぜん もたらす えいえんの いのちに なん なく すべり こめた でしょう)( "then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. " ).だが,創造主の御意図はアダムが其れに背き(だが,そうぞうしゅの おんいと は あだむが それに そむき),最初の御父なる神との神秘的な結び付きに由り(さいしょの おんちち なる かみ との しんぴ てきな むすびつき に より),其の後の人類を原罪に引きずり込んだ為台無しに成って終いました(そのごの じんるいを げんざいに ひきずりこんだ ため だいなしに なって しまい ました)( "But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. " ).其の時の瞬間以来,矛盾があらゆる人間の本質と生命に付き物と成っています(そのときの しゅんかん いらい,むじゅんが あらゆる にんげんの ほんしつと せいめいに つきものと なって います)( "From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, " ).何故なら,神の造られた私達の本質はアダムの齎した堕落した本質と仲違いして居るからです(なぜなら,かみの つくられた わたくし たちの ほんしつは あだむの もたらした だらく した ほんしつと なか たがい して いる から です)( "because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. " ).私達の――偽物で無い――本当の「諸諸の不死の願望」(immortal longings)は神が神の為に造られた私達の本質に根差す物で在る( "Our true – not false – “imm ortal longings” come from our nature as made by God and for God, " )のに対し(わたくしたちの――にせもので ない――ほんとうの「もろもろの ふしの がんぼう」は かみが かみの ために つくられた わたくしたちの ほんしつに ねざす もの である のに たいし),私達の動物的死は堕落した私達の本質だけに取っての「家」(home)なのです(わたくしたちの どうぶつてき し は だらく した わたくしたちの ほんしつ だけに とっての「いえ」なのです)( "while our animal death is “home” only to our nature as fallen. " ).聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(せい ぱうろは「わたくしは ふこうな にんげんだ.だれが わたくしの にくたいに し を もたらす のだろうか?それは,わたくしの しゅ,いえずす・きりすと により もたらされる かみの おんちょう である」と さけんで います)(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節)( " “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.” " ).(訳注・5・1)

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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(訳注3・1 )
…自分が単なる動物だと装ったからでしょう
… this he could only do by pretending to be no more than an animal.
(=単なる動物を装った.単なる動物のふりをした.単なる動物として振る舞った)

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(訳注5・1 )
使徒聖パウロによるローマ人への書簡 (Rom.VII, 24–25)
24 私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
25主イエズス・キリストによって神に感謝せよ.
こうして私は理性によって神の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.

Douay-Rheims Version
24 Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death?
25 The grace of God, by Jesus Christ our Lord.
Therefore, I myself, with the mind serve the law of God; but with the flesh, the law of sin.

Epistola Ad Romanos, (Vulgatæ Editionis)
24 Infelix ego homo, quis me liberabit de corpore mortis huius?
25 Gratia Dei per Iesum Christum Dominum nostrum.
Igitur ego ipse mente servio legi Dei: carne autem, legi peccati.


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神が善良に造られた私たちの本質をアダムが台無しにしてしまいました.
神により善良になりたいと願う私たちの本質は,アダムがだめにします.
Our nature, by God made good, Adam marred.
What good by God it wants, Adam makes hard.


Under the wide and starry sky
Dig the grave and let me lie
Glad did I live and gladly die,
And I laid me down with a will.

This be the verse you ’grave for me:
Here he lies where he longed to be.
Home is the sailor, home from sea
And the hunter home from the hill

—R.L.Stevenson (1850–1894)


(大意)
広い星空の下に 墓を掘り
私をそこへ眠らせておくれ
私は生きてきて良かったと思い,喜んで死ぬ
そして,私は自らの意志でそこに横たわる

この碑文を私の墓に刻んでほしい
彼は望みどおりのところで眠る
船乗りは海から家へ帰る
そして,猟師は丘から家へ帰る

—— R. L. スチーブンソン (1850-1894)


詩人の墓に刻まれたこの碑文は簡潔ながら,その心情を雄弁に語り,それが人生で避けられない死に触れているだけに,人の心を動かすものがあります.詩人たちは生と愛を偲んで死を作品のテーマとして扱います.死は生と愛を神秘的に断ち切るものです.生や死の意味を考えることを望まない哀れな唯物主義者は詩を寸断して,可能ならそれを散文としてプリントしようとします.それは,まさしく物質より高度なものについて考えるのを避けるためです.だが,そのようなことをしても,神秘は残ります.
This epitaph for the poet himself is eloquent by its simplicity, and touching, because it touches on death, that inevitable tragedy of human life. Commemorating life and love, poets often treat of death, which so mysteriously cuts off both. Not wishing to think on the meaning of life or death, poor materialists cut off poetry and will print it as prose if they can, precisely to avoid having to think about anything higher than matter. But the mystery remains . . .

理論的には,スチーブンソンの碑銘は勇敢です.彼は各節の終わりの3行,つまり8節のうちの6行で,6通りの違う表現を用いて自分は幸せに死ぬと言っています.だが,詩は矛盾に満ちています.「生きてきて良かった」というなら,どうして喜んで死ねるのでしょうか? もし,死んで良かったと思うなら,どうして生きてきて良かったと思うのでしょうか? 彼が言うように喜んで死ぬためには,彼は生きる意志を失ったか,あるいはその意思を断念したにちがいありません.それを彼ができたのは,自分の動物的な死を超えた運命,意義,存在などを拒んだからで,そうすることができたのは,自分が単なる動物だと装ったからでしょう.だが,どのような動物が雄弁で感動的な詩を書くでしょうか?
In theory, Stevenson’s epitaph is brave. In the last three lines of each verse, in six lines out of eight, he says in six different ways that he is happy to die. But the poem is laden with contradiction. If “Glad did he live,” how could he gladly die? If he was so glad to die, how could he have been glad to live? To be as glad to die as he claims, he must have lost his will to live, or shut it down, which he could only do by refusing to his life any destiny or meaning or existence beyond his animal death, and this he could only do by pretending to be no more than an animal. But what animals take the trouble to write poems eloquent and touching?

ああ,ロバート・ルイスよ,あなたは決して動物などではありませんでした.あなたは多くの文学作品を書きました.その中には,少年たちを魅了した命と冒険の物語「宝島」や腐敗と死の物語「ジキル博士とハイド氏」があります.あなたの作品は,あなたを世界中で26番目に多く翻訳されている作者にしています.あなたの両親が長老派教会員で,19世紀半ばころ多くの善良な人々を無神論者に変えさせた頑固なカルビン派だったのは事実です.だが,あなたはどうして死を前に,それほど控えめに自分をさらけ出したのでしょうか? あなたはどうして死は「家」へ帰るのと同じだと振る舞えたのでしょうか?
O Robert Louis, you knew you were not just an animal. You took the trouble to write many literary works, including a spellbinding tale of life and adventure for boys, Treasure Island, and a harrowing tale of corruption and death for adults, Dr Jekyll and Mr Hyde, and your collected works make of you currently the 26th most translated author in the world. True, your parents were Scottish Presbyterian s, a Calvinist sect dour enough in mid-19th century to turn many a good man into an atheist. But how could you sell yourself so short at death? How could you pretend that death is “home”?

創造主はそもそも人間という理性的な動物に動物的な死など設計されませんでした.アダムとイブ以降のあらゆる人間が定められたこの世の命の期間中,合理性もしくは道理を十分発揮していたなら,避けがたい動物的死ではなく,理性の活用が当然もたらす永遠の命に難なく滑り込めたでしょう.だが,創造主の御意図はアダムがそれに背き,最初の御父との神秘的な結びつきにより,その後の人類を原罪に引きずり込んだため台無しになってしまいました。その時いらい、矛盾があらゆる人間の本質と生命につきものとなっています.なぜなら,神の造られた私たちの本質はアダムのもたらした堕落した本質と仲たがいしているからです.私たちの偽物でない本当の「もろもろの不死の願望」(immortal longings)は神が神のために造られた私たちの本質に根差すものであるのに対し,私たちの動物的死は堕落した私たちの本質だけにとっての「家」(home)なのです.聖パウロは「私は不幸な人間だ.誰が私の肉体に死をもたらすのだろうか?それは,私たちの主,イエズス・キリストによりもたらされる神の恩寵である」と叫んでいます(新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第7章24-25節).
The Creator did not originally design for animal death the rational animal that is man. Had all men from Adam and Eve made the right use of their rationality, or reason, for the appointed duration of their earthly lives, then instead of their now inevitable animal death they would have glided painlessly into the eternal life which the right use of their reason would have deserved for them. But that original design was frustrated when Adam disobeyed his Creator, and when by the mysterious solidarity of all future mankind with its first Father, he dragged down all men into original sin. From that moment on, contradiction is intrinsic to all human nature and life, because we have a created nature from God at war with our fallen nature from Adam. Our true – not false – “immortal longings” come from our nature as made by God and for God, while our animal death is “home” only to our nature as fallen. “Unhappy man that I am,” cries out St Paul (Rom.VII, 24–25), “who will deliver me from this body of death? The grace of God, by Jesus Christ Our Lord.”

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡の引用)の続きを追って掲載いたします.








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本投稿記事・第392回エレイソン・コメンツ「矛盾する碑銘」 "CONTRADICTORY EPITAPH" ( 2015年1月17日付)は2015年8月14日23:40に掲載されました.
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2014年9月6日土曜日

373 ドノソ・コルテス - I 9/6

エレイソン・コメンツ 第373回 (2014年9月6日)

     最も重要なカトリック教諸教義( "Catholic dogmas" )のひとつは原罪( "original sin" )にかかわる教義です(もっとも じゅうような かとりっく きょう しょ きょうぎの ひとつは げんざいに かかわる きょうぎ です)( "One of the most important Catholic dogmas is that of original sin, …" ).あらゆる人間(にんげん)は(私たちの主イエズス・キリストと聖母を除き)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと と せいぼ を のぞき)生まれた時(うまれた とき)から全人類の父(ぜん じんるいの ちち)であるアダム(あだむ)"Adam" との神秘的な結びつきを通し(しんぴ てきな むすびつきを とおし)て性格(せいかく)がひどく傷(きず)ついています( "… whereby all human beings (except Our Lord and his Mother) have a nature seriously scarred from birth through our mysterious solidarity with Adam, father of all mankind, …" ).それはアダムがエデンの園(えでんの その)でエバ "Eve" との間(あいだ)であらゆる人間的罪(にんげん てき つみ)のなかで最初の罪に陥って(さいしょの つみに おちいって)しまったときに起(お)きたことです( "… when with Eve he fell into the first of all human sins in the garden of Eden." ).むろん,今日の私たち(こんにちの わたくし たち)のほとんどにとって,アダムが罪に陥ったことはおとぎ話(ばなし)か神話(しんわ)にしかすぎません( "Of course for most people today that Fall is just a fairy-tale, or mythology, …" ).だから,私たちは自分(じぶん)たちの周り(まわり)に一種のディズニーワールドを築いて(いっしゅの でぃずにー わーるどを きずいて)きました( "… and that is why they have built a Disneyworld all around us. " ).カトリック教徒(きょうと)たちは原則(げんそく)として原罪を信じ(げんざいを しんじ)ていますが( "In principle Catholics believe in original sin, …" ),ディズニーワールド(でぃずにー わーるど)があまりにも魅惑的(みわく てき)なため,実際(じっさい)には彼らの多く(かれらの おおく)は原罪(げんざい)をさほど真面目に受け止め(まじめに うけとめ)ていません( "… but so seductive is Disneyworld that many hardly take it seriously in practice. " ).結局(けっきょく)のところ,私たちはすべて罪びと(つみ びと)( "thinners" )だと信(しん)じるのは決して心地よい(けっして ここち よい)ことではありません( "ith not at all nithe" ).私たちはすべて恋(こい) "luv" ,恋,恋!の中を泳(およ)ぎまわっているわけですから( "After all, ith not at all nithe to believe we are all thinners. We are all thwimming in luv, luv, luv ! " ).

     だが,原罪の作用(げんざいの さよう)についてきわめて明確に考察(めいかくに こうさつ)したのはスペイン人の貴族,作家,外交官ドノソ・コルテス(すぺいん じんの きぞく,さっか,がいこうかん どのそ・こるてす)( "Donoso Cortés" )(1808-1853年)(せん はっぴゃく はち ― せん はっぴゃく ごじゅうさん ねん)でした( "But a man who saw very clearly original sin in action was the Spanish nobleman, writer and diplomat, Donoso Cortés (1808-1853)." ).彼の生涯(かれのしょうがい)はフランス革命(ふらんす かくめい)(1789年)(せん ななひゃく はちじゅうく ねん)ののち,ヨーロッパ(よーろっぱ)がゆっくりながらも着実(ちゃくじつ)に古いキリスト教秩序(ふるい きりすと きょう ちつじょ)( "ancien regime" )をユダヤ・メーソン的新世界秩序(ゆだや・めーそん てき しん せかい ちつじょ)に置き換え(おきかえ)つつあった19世紀前半(じゅうきゅう せいき ぜんはん)にまたがっています( "His life spanned that first half of the 19th century when in the wake of the French Revolution (1789), Europe was slowly but steadily replacing the old Christian order (“ancien régime”) with the Judeo-masonic New World Order." ).外見上(がいけん じょう),古い秩序(ふるい ちつじょ)はウイーン会議(うぃーん かいぎ)(1815年)(せん はっぴゃく じゅうご ねん)によって回復(かいふく)されましたが,それは内面的(ないめん てき)には以前(いぜん)のものとけっして同(おな)じものではありませんでした( "Outwardly the old order was put back in place by the Congress of Vienna (1815), but inwardly it was not at all the same as before, …" ).その理由(りゆう)は,人々の心(ひとびとの こころ)が以前(いぜん)とはまったく違う基盤(ちがう きばん),とりわけ教会と国家を分離(きょうかいと こっかを ぶんり)するというリベラルな基盤に基づく(りべらるな きばんに もとづく)ようになったからです( "… because men's minds were now resting on quite different foundations, liberal foundations, notably the separation of Church and State." ).ドノソは若(わか)くしてスペイン政界(すぺいん せいかい)に入ったときリベラル主義者を自称(りべらる しゅぎ しゃを じしょう)しました( "When Donoso entered Spanish politics at a young age, he proclaimed himself to be a liberal, …" ).だが,フランス革命の理想が実際面に作用(ふらんす かくめいの りそうが じっさい めんに さよう)するのを見て(みて)いるうち彼は次第に保守的に(しだいに ほしゅ てきに)なり,1847年(せんはっぴゃく よんじゅうなな ねん)にはスペインの古代カトリック教に改宗(こだい かとりっく きょうに かいしゅう)しました( "… but as he observed the Revolutionary ideas working out in practice, he became more and more conservative until in 1847 he converted to Spain's ancient Catholic religion." ).彼がその時(とき)から若(わか)くして亡(な)くなるまでのあいだに書(か)いたり話(はな)したりした言葉(ことば)は,新世界秩序を構成(しんせかい ちつじょを こうせい)する過度にモダンな諸々の間違い(かどに もだんな もろもろの まちがい)についてのカトリック教的(かとりっくきょう てき)な預言的分析(よげんてき ぶんせき)をヨーロッパ全体に広め(よーろっぱ ぜんたいに ひろめ)ました( "From then on until his early death his written and spoken words carried all over Europe his prophetic Catholic analysis of the radical modern errors forging the New World Order." ).

     彼はそうした諸々の間違いの裏(もろもろの まちがいの うら)に次の二つの要素(つぎの ふたつの ようそ)があることを見抜(みぬ)きました:( "At the back of all these errors he discerned two: …" ).すなわち,ひとつは神が自らの創造物(みずからの そうぞうぶつ)(=被造物〈ひぞうぶつ〉)に向(む)ける超自然的な配慮(ちょう しぜん てきな はいりょ)( "supernatural care" )の否定(ひてい)( "…the denial of God's supernatural care for his creatures, …" ),もうひとつは原罪(げんざい)( "original sin" )の否定(ひてい)です( "… and the denial of original sin." ).以下に紹介(いかに しょうかい)するのはドノソが フォルナリ枢機卿(1852年)に宛てた書簡(ふぉるなり すうききょうに あてた しょかん)( "Letter to Cardinal Fornari" )の中(なか)からの2節(にせつ)です( "From Donoso's Letter to Cardinal Fornari (1852) come the following two paragraphs …" ).彼はここで原罪をデモクラシーの興隆と教会の減退に関連づけ(でもくらしーの こうりゅうと きょうかいの げんたいに かんれん づけ)ています( "… which connect to original sin the rise of democracy and the diminution of the Church" )(ここに引用〈いんょう〉するのは書簡のフランス語訳〈しょかんの ふらんすご やく〉からの翻訳〈ほんやく〉です):-- ( "…(the translation here is from a French translation) :-- …" )

(以下,書簡の2節紹介)

     「人間の理性の光(にんげんの りせいの ひかり)が決して暗く(けっして くらく)ならなければ,信仰の必要性を感じ(しんこうの ひつよう せいを かんじ)なくても,真実を見出す(しんじつを みいだす)にはその光だけで十分(ひかりだけで じゅうぶん)でしょう( " “If the light of men's reason is in no way darkened, its light is enough, without need of the Faith, to discover the truth." ).もし信仰が必要(しんこうが ひつよう)でないなら,人間の理性は主権を持ち自立(しゅけんを もち じりつ)したものとなるでしょう( "If the Faith is not needed, then man's reason is sovereign and independent." ).そうだとすると,人間が真実へ向かって前進(にんげんが しんじつに むかって ぜんしん)するかどうかは理性が前進(りせいが ぜんしん)するかどうかで決(き)まることになるでしょう( "The progress of truth then depends on the progress of reason, …" ).そして,それは理性が行使(こうし)されるかどうかによって決まることになるでしょう( "… which depends upon the exercise of reason; …" ).理性の行使(りせいの こうし)は議論(ぎろん)でなされるべきものです( "… such an exercise is to be found in discussion; …" ).したがって,議論は現代社会の真の基本法を形成(ぎろんは げんだい しゃかいの まことの きほん ほうを けいせい)することになります( "… hence discussion constitutes the true basic law of modern societies, …" ).それは比類(ひるい)のない “るつぼ” となり,その中(なか)でものが溶ける過程(とける かてい)で( "… the matchless crucible in which by a process of melting, …" ),諸々の間違いの中から諸々の真実が引き出される(もろもろの まちがいの なか から もろもろの しんじつが ひき だされる)ことになります( "… truths are extracted from errors." ).この議論の原則(ぎろんの げんそく)( "principle of discussion" ) から報道の自由(ほうどうの じゆう)( "freedom of the press" ),言論の自由の不可侵性(げんろんの じゆうの ふかしん せい)( "the inviolability of freedom of speech" ),討議する議会の主権性(とうぎ する ぎかいの しゅけん せい)( "the real sovereignty of deliberative assemblies" ) が生(う)まれます.」( "From this principle of discussion flow freedom of the press, the inviolability of freedom of speech and the real sovereignty of deliberative assemblies.” " )

     ドノソは人間の意志が原罪に犯され(にんげんの いしが げんざいに おかされ)ていないと仮定した場合(かてい した ばあい)起こりうる結果(おこり うる けっか)について,上に述べ(うえに のべ)たことと並行‘(へいこう)して彼自身の診断(かれ じしんの しんだん)を次(つぎ)のように続(つづ)けます:( "Donoso continues with a parallel diagnosis of the consequences of man's will being supposed to be free from original sin: …" ).「人間の意志が病んで(やんで)いなければ,彼は善を求める(かれは ぜんを もとめる)のに神の恩寵を通した超自然的な手助け(かみの おんちょうを とおした ちょう しぜん てきな てだすけ)など必要(ひつよう)としなくなるでしょう.善が持つ魅力(ぜんが もつ みりょく)だけで十分(じゅうぶん)です: ( " “If man's will is not sick, then he needs none of the supernatural help of grace to pursue good, its attraction being enough: …" ).人間(にんげん)が恩寵を必要(おんちょうを ひつよう)としなければ,彼はそれを与(あた)えてくれる祈(いの)りや秘跡(ひせき)なしにやっていけるでしょう.」( "if he needs no grace, then he can do without prayer and the sacraments which provide it.” " )もし,祈りが必要(いのりが ひつよう)でなくなれば,それは無用(むよう)のものとなり,瞑想(めいそう) "contemplation" や瞑想にかかわる諸々の宗教的修道会(もろもろの しゅうきょう てき しゅうどう かい)( "the contemplative religious Orders" )も当然(とうぜん)なくなるわけですから,それも同(おな)じように無用(むよう)となるでしょう( "If prayer is not needed, it is useless, and so are contemplation and the contemplative religious Orders, which duly disappear. " ).もし,人間が諸々の秘跡(もろもろの ひせき) "sacraments" を必要(ひつよう)としなくなれば( "If man needs no sacraments, …" ),彼は諸秘跡を司る(しょひせきを つかさどる)(司式する〈ししき する〉司祭(しさい)たち( "priests to administer them" )も必要としなくなり( "… then he has no need of priests to administer them, …" ),彼ら司祭たちは当然活動(かつどう)できなくなるでしょう( "… and they are duly banned. " ).そして,司祭職の軽視(しさいしょくの けいし)がいたるところで教会の軽視(きょうかいの けいし)へつながり,結局(けっきょく)はあらゆる場所(ばしょ)で神を軽視(かみを けいし)することになるでしょう( "And scorn of the priesthood results everywhere in scorn of the Church, which amounts in all places to the scorn of God." ).

     ドノソ・コルテスはそのような誤った諸原則(あやまったしょげんそく)から近い将来(ちかいしょうらい),前例のない災難が起きる(ぜんれいのないさいいなんがおきる)だろうと予見(=予知)(よけん〈=よち〉)しました( "From such false principles Donoso Cortés foresaw an unparallelled disaster in the very near future. " ).実際(じっさい)には,そのような災害が起き(さいがいが おき)るのは彼が予見した時期(よけんしたじき)より150年以上遅れ(ひゃく ごじゅう ねん いじょう おくれ)ています( "Actually it has been delayed for over 150 years, …" ).だが,それがこの先(さき)どれほど遅(おく)れるでしょうか?( "… but how much longer ? " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




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(注:本投稿記事〈第373回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月27日23:50に公開されました.)

2013年11月30日土曜日

333 リユ神父 I 11/30

エレイソン・コメンツ 第333回 (2013年11月30日)

     聖ピオ十世会( "the Soceity of St Pius X" = SSPX )の指導者たちがカトリック教理への理解(りかい)を失(うしな)い,その後(ご)ルフェーブル大司教 ( "Archbishop Lefebvre" )の労力(ろうりょく)を裏切(うらぎ)ったことが昨年3月以降(さくねん さんがつ いこう)はっきりしたというのに,同会の司祭たちの間(あいだ)で反乱(はんらん)が起(お)きなかったのはなぜでしょうか?( "Why was there not an uprising amongst priests of the Society of St Pius X when their leaders' loss of grip on Catholic doctrine and subsequent betrayal of Archbishop Lefebvre's work became absolutely clear from March of last year onwards ? " )フランスでの「抵抗運動(ていこう うんどう)」の先駆者であるオリビエ・リユ神父( "Fr. Olivier Rioult" )が先月(せんげつ)のインタビューで,この疑問(ぎもん)に対(たい)する適切(てきせつ)な答(こた)えをいくつか示(しめ)しました.このインタビューは pelagiusasturiensis.wordpress.com. からフランス語でアクセスできます.( "Fr. Olivier Rioult, trail-blazer of the "Resistance" in France, gave several good reasons last month in an interview accessible in French on pelagiusasturiensis.wordpress.com. " ).以下の要約(ようやく)は私がインタビュー原文から翻案(ほんあん)したものです:-- ( "The following summary is freely adapted from the original text:-- " )

(要約)

     根本的(こんぽんてき)には原罪(げんざい)( "original sin" )です( "Basically, original sin: " ) : 1970年代,80年代の最初の伝統復帰運動(でんとう ふっき うんどう)が信仰(しんこう)の本質的要素(ほんしつてき ようそ)の存続(そんぞく)を保証(ほしょう)するのに成功(せいこう)したとたん( "Once the original fight for Tradition in the 1970's and '80's had succeeded in guaranteeing the survival of the essentials of the Faith, …" ),伝統主義者(でんとうしゅぎしゃ)たちは自分たちの果(は)たした栄光(えいこう)に胡坐(あぐら)をかき,居心地(いごこち)の良い居留地(きょりゅうち)( "enclaves" )での生活(せいかつ)を楽(たの)しむようになりました( "…Traditionalists sat back on their laurels to enjoy their cosy enclaves, …" ).そして彼らは快適(かいてき)な日常業務(にちじょう ぎょうむ)にすっかり定着(ていちゃく)してしまい( "…and they settled into a comfortable routine …" ),いまではそれを失(うしな)いたくないようです( "…which they are now reluctant to lose. " ).彼らは(カトリック)信仰 ( "the Faith" ) のために戦(たたか)う精神(せいしん)を失(うしな)っています( "They have lost the spirit of fighting for the Faith." ).

     第2は,その原罪の典型的な姿(てんけいてきな すがた)といえる自由主義(じゆうしゅぎ)( "liberalism" )です( "Secondly, that particular form of original sin which is liberalism: " ) : 過去10年間, SSPX 指導者たちは自由主義,誤(あやま)り,うぬぼれに対する戦(たたか)いを弱(よわ)めようと率先(そっせん)してきました( "Over the last ten years Society leaders have given the lead in weakening the fight against liberalism, error and immodesty." ).だが,流(なが)れに逆(さか)らうのを止(や)めるのは下流(かりゅう)に流されるということです( "But to cease swimming against the current is to drift backwards, …" ).そして多数(たすう)の SSPX の司祭たちは - 決してすべてではありませんが - 自(みずか)らの信念(しんねん)や説教(せっきょう)する能力(のうりょく)を弱(よわ)めてしまいました( "… and a number of SSPX priests -- by no means all -- have grown weaker in their convictions and their preaching." ).

     第3は行動主義( "activism" )です( "Thirdly, activism: " ): 一部の同僚(どうりょう)たちは司祭としての職務(しょくむ)に忙(いそが)しく駆(か)けずりまわるようになり( "some colleagues can also let themselves be run off their feet by their priestly tasks, …" ),本を読み勉強(ほんをよみ べんきょう)しようとする時間(じかん)も意欲(いよく)もなくしています( "…leaving themselves no time or inclination to read or study." ).彼らは単(たん)なる管理者(かんりしゃ)や伝達者(でんたつしゃ)になってしまい( "Turning into mere administrators and communicators, …" ),信念や説教の能力を低下させています( "…they weaken their convictions and preaching." ).

     第4はフェレー司教の策略(さくりゃく)です( "Fourthly, Bishop Fellay's trickery: " ): これまで何年ものあいだ,彼の訳(わけ)のわからない言葉が,先見の明(せんけんのめい)があるのに自分の言うことを聞いてもらえない少数(しょうすう)の人たち以外(いがい)のすべての人々を欺(あざむ)いてきました( "for years his double-talk deceived everybody except a small minority of clear-sighted souls who could absolutely not get a hearing." ).あの3月の「 "Cor Unum" 」(訳注・ラテン語で「ひとつの心〈こころ〉」の意)( "the March "Cor Unum" " )と3人の司教たち(の質問状〈しつもんじょう〉)に対(たい)して彼が返(かえ)した4月14日付け返書(へんしょ)で彼の化けの皮(ばけのかわ)が剥(は)がれたばかりです( "Only last year did his mask come off with the March "Cor Unum" and with his reply of April 14 to the three bishops." ).それまで彼は(カトリック教)伝統主義者の大半(たいはん)を眠(ねむ)らせたままにしてきました(彼はいままた同じことをしようとしています)( "The great majority of Traditionalists he had put to sleep (as he is now doing again)." ).      

     第5は未知(みち)のものへの恐怖(きょうふ)です( "Fifthly, fear of the unknown: " ): あなたの周(まわ)りの世界全体(せかい ぜんたい)が気が狂(きがくる)ったように変(か)わる中で( "when the whole world around you is going mad, …" ),正気の居留地(しょうきの きょりゅうち)( "an enclave of sanity" )を見つけたとたん( "…and you find an enclave of sanity, …" ),その居留地(きょりゅうち)も同(おな)じように狂(くる)いだしたとしたら( "…and then that enclave also begins to go mad, …" ),現実(げんじつ)に直面(ちょくめん)し幻想(げんそう)に走(はし)らないためには並外(なみはず)れた強い性格(つよい せいかく)が求(もと)められます( "…it requires unusual strength of character to face up to the reality and not prefer some illusion or other, …" ).しかも,幻想はいたるところに溢(あふ)れています( "… and of illusions there are plenty ! " ) ! こうなると,多くの司祭たちは死ぬ思い(しぬ おもい)をするような決断(けつだん)( "crucifying decisions" )を求(もと)められるドラマを生き抜(いきぬ)いているのだと気づく(きづく)のですが( "Thus many priests realize that they are living through a drama calling for some crucifying decisions, …" ),彼らは未知(みち)のものに飛び込(とびこ)んで行(ゆ)く勇気(ゆうき)を欠(か)いています( "… but they lack the necessary fortitude to launch into the unknown." ).

     そして,最後(さいご)だが軽視(けいし)できないことは,お粗末(おそまつ)な指導者( "bad leaders" )です( "And last but not least, bad leaders: " ): もちろん,教会主流派内部(きょうかい しゅりゅうは ないぶ)( "within the mainstream Church" )と同じように SSPX 内部にもリベラル派(は)は常(つね)に存在(そんざい)してきました( "… of course there have always been liberals within the SSPX as within the mainstream Church, …" ).指導者(しどうしゃ)たちがしっかりしてさえいれば( "… but for as long as the leaders hold firm, …" ),そういう連中(れんちゅう)を抑え込(おさえこ)むのは可能(かのう)です( "… these can be held in check." ).だが,教会主流派の中でも(教皇)ヨハネ23世( "John XXIII" )や(教皇)パウロ6世( "Paul VI" )がリベラリズム(=自由主義〈じゆうしゅぎ〉)を支持(しじ)したため( "However, when in the mainstream Church John XXIII and Paul VI favoured their liberalism, …" ),それによる結果(けっか)は津波(つなみ)のように広(ひろ)がりました( "… the result was a tidal wave, …" ).いまや, SSPX 指導者たちはリベラル派に転向(てんこう)しているわけですから( "… and now that SSPX leaders have turned liberal, …" ),同会内にはリベラリズムが急速(きゅうそく)に広(ひろ)がっています( "… liberalism is sweeping through the Society …" ).このようなことは賢明(けんめい)な指導者,真(まこと・しん)の指導者の下(もと)では決(けっ)して起きなかったでしょう( "… as it would never have done under good leaders, true leaders." ).

(要約終わり)

     リユ神父が挙げた理由(あげた りゆう)はすべて当(あ)たっています( "These reasons given by Fr Rioult are all true, …" ).だが,そのいずれも「世界に対する(せかいに たいする)私たちの勝利(わたしたちの しょうり)」(〈新約聖書〉使徒聖ヨハネの第一の手紙5章4節〈 "I Jn. V, 4" 〉)(訳注後記1)という信仰以上に強い(しんこう いじょうに つよい)ものではありません( "… but none of them are stronger than that Faith which is "our victory over the world" (I Jn.V, 4). " ).まさに,理由のすべては司祭たち自身の強い信仰の欠如(けつじょ)に帰(き)すると言えるでしょう( "Indeed one might say that all the reasons come down to the lack of a strong enough Faith on the part of the priests, …" ).なぜなら,彼らは現世の人々(げんせの ひとびと)すべての真実(しんじつ)に対する掌握(どうあく)が緩(ゆる)んでしまった世界(せかい)に生(い)きているからです( "… because they are living in a world in which the grip on Truth of every soul alive has been loosened, …" ).真実(しんじつ)が真実でないとすれば,どうして信仰が真実のものになりうるでしょうか?( "… and if Truth is not true, how can Faith be true ? " )

     では,今日(こんにち)の気違(きちが)いじみた状況下(じょうきょうか)で私たちは真実を理解する能力を高める(しんじつを りかいする のうりょくを たかめる)ことがどうしても必要(ひつよう)ですが,その最も簡単な方法(もっとも かんたんな ほうほう)は何(なん)でしょうか?( "Then what is the simplest way to strengthen one's grip on Truth, as we absolutely need to do in today’s crazy circumstances ? " )  私の意見(わたしの いけん)では:-- ( "In my opinion:-- " )

     「目を覚まして祈れ,目を覚まして祈れ,
      ロザリオの15玄義を日々(ひび)」
     ( "Watch and pray, watch and pray,
       Fiftheen Mysteries evey day" )  (訳注後記2)

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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第8パラグラフの訳注1
「世界に対する私たちの勝利」について

新約聖書・使徒聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA V, 4
THE FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE V, 4
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN V, 4 Foi victorieuse du monde.

『神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.』
"Quoniam omne quod natum est ex Deo, vincit mundum : et hæc est victoria, quæ vincit mundum, fides nostra."
"For whatsoever is born of God, overcometh the world: and this is the victory which overcometh the world, our faith."
"Parce que tous ceux qui sont nés de Dieu triomphent du monde ; et la victoire qui triomphe du monde, c’est notre foi."


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第10パラグラフの訳注2
「目を覚まして祈れ」について
(めを さまして いのれ)=警戒〈けいかい〉して祈れ
 

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「ロザリオの15玄義」について
「公教会祈祷文(こうきょうかい きとうぶん)」より抜粋(ばっすい).

「ロザリオの祈(いのり)」
ロザリオの祈りは救世主(きゅうせいしゅ)と聖マリアの主な喜(よろこ)び,苦(くる)しみ,栄(さか)えの玄義(げんぎ)を黙想(もくそう)しながら天使祝詞(てんししゅくし)百五十回を唱(とな)える祈りである.
天使祝詞十回が一連(いちれん)で,五連が一環(いっかん)となり三環で終(おわ)る.一連毎(ごと)に一玄義を黙想するからロザリオの十五玄義(じゅうご げんぎ)といわれる.
… 一般に各連(かくれん)の唱え方は黙想する玄義を始(はじ)めに唱え,大珠(だいじゅ)では主祷文(しゅとうぶん),小珠(しょうしゅ)では天使祝詞各一回宛(かく いっかい ずつ)を唱え,終りに栄唱(えいしょう)を唱える.


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2011年2月20日日曜日

信じ難い不遜

エレイソン・コメンツ 第188回 (2011年2月19日)

運命の予言者は自分の評判を取ろうとはしませんが,もし彼らが神の使者だとしたら,真実を告げなければなりません.現在,そのような使者は政治や経済に関わりを持つべきではないと考える人々もいます.だがもし,政治が宗教にとって代わり,人間を神の場に置くことで必然的に誤った宗教と化してしまっていると仮定すればどうでしょうか?そして経済(あるいは金融)がまさに多くの人々を飢えさせようとしているのだと仮定したならどうでしょうか?神の使者たちが,アリストテレスとともに,もし人々が基本的な生活必需品に事欠く状態でどうやって道徳に適(かな)った人生を送れるのか,と尋(たず)ねることは許されないことでしょうか?有徳な人生など彼ら神の使者と無関係なことでしょうか?

そういうわけで,ここで権威ある米ウォール・ストリート・ジャーナル紙の一記者の書いた注目すべき一節を引用したとしても私は間違っていないと思います.その記者は,ホワイト・ハウスの前主席報道官に批判的な記事を書いたことで,2006年夏,時のブッシュ大統領の上級顧問役から厳しく非難されたことについて語っています.記者は当時,その上級顧問役が自分に何を言おうとしているのか良く理解できなかったが,後になって,それがブッシュ大統領体制の核心に触れることだと分かった,と述べています.記者が引用した顧問役自身の言葉をここにご紹介します:--

その顧問は記者にこう言ったそうです.新聞記者のような人々は,「私たちが言う現実に基づいた社会の中にいるのです.その社会とは,つまりあなたのように,いかなる解決策も目に見える現実についての思慮分別ある学習から現れてくると信じる人たちのことですよ.」 顧問は,記者は昨日まで通じた現実の尊重という原則を忘れるべきだと言い,次のように付言したそうです.「世界はもはやそのような考え方では動いていないのです.私たちは今や一つの帝国であり,私たちが行動することで私たち固有の現実を創り出しているのです- あなたのなさるように思慮深く - そして私たちは再び行動し,別の新しい現実を創り出すのです.それをあなたたちも学習できるし,そうやって物事が解決していくのです.私たちは歴史の役者を演じているのです…そしてあなたは,あなた方はみな,私たちが演じる役をただ学習するだけにすぎないのですよ.」(キャサリン・フィッツの「2月2日付『私たちは金融クーデターの犠牲者』www. 321 gold をご覧ください.)(訳注・原文 “See www.321 gold, Feb 2, "We are Victims of a Financial Coup d'Etat", by Catherine Fitts”.)

現代世界がいかに幻想の上に動かされているかを道徳的に説いているこの話をしているのは私ではありません.話しているのは,ワシントンのインサイダー中のインサイダーです.彼はいかに現代世界が幻想の上に運営されているかを肯定的に誇っているのです.彼の言葉は,当時の政府のでっち上げ,例えば,9・11事件やサダム・フセインの「大量破壊兵器」などとまさに一致するのではないでしょうか.(それらのでっち上げは)政策を正当化するために「創り出した」ものであり,そうしなければ正当化は不可能だったのではないでしょうか?現実や現実を重んじる人々をこれほどまで軽んじるその傲慢(ごうまん)さは息を飲むばかりです.

古典ギリシャ人たちは顕現(けんげん)された神についての知識が何もない異教徒でしたが,神の世界の道徳的な骨組みたる現実が,彼らが見た通り,神々により統治されているとを明確に理解していました.どんな人間でも,たとえ英雄であろうと,そのような神の骨組みをこのブッシュの顧問のように否定する者はみな「傲慢」の罪を犯し,人間相応の身分を超えて頭を高くもたげていることになり,神々によりその罪に応じて粉々(こなごな)に粉砕(ふんさい)されるでしょう.

カトリック信徒のみなさん,もし神の恩寵が人間性を見捨てているとお考えなら,今日ますます必要とされている自然の様々な教訓について古代の異教徒たちから学び直すのが最良です.アイスキュロス作悲劇「ペルシャ人」に登場するクセルクセス( “Xerxes in Aeschylus' Persae” ),ソフォクレス作悲劇「アンティゴネ」に登場するクレオン( “Creon in Sophocles' Antigone” ),エウリピデス作悲劇「バッカスの信女」に登場するペンテウス( “Pentheus in Euripides' Bacchae” )に学びなさい(訳注後記).聖なるロザリオの祈りを確実に唱えるだけでなく,ほら,古典名作も読み,芋(いも)も植えて(=畑を耕〈たがや〉して),負債も支払うんですよ!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(最後のパラグラフの訳注・「ギリシャ悲劇」について)

クセルクセス
・=クセルクセス一世.アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位前486年-前465年).ダレイオス一世の子.前480年父の遺志を継いでギリシア遠征(ペルシア戦争)を行ったが,サラミスの海戦に敗れた.治世後半から側近の権力闘争が激化.謀殺された.

* * *

クレオン
・テーバイの王ライオスの妃イオカステの兄弟.オイディプスが追放された後、テーバイ王となる.
・(テーバイ)
〈=テーベ,“Thebae”.〉古代ギリシャの重要都市.現シベ.テーベ伝説上のオイディプス王の首都で,古代ギリシャ悲劇の舞台として知られる.
・(解説)
悲劇「アンティゴネ」の作者ソフォクレスは,神の法(自然法)と人間の法ではどちらがより重要かを,多神教を信仰するアテネ市民(=ギリシャ人)に問うた.ソフォクレスは神の法を選んだ.彼はギリシャ国中にまん延しつつあった道徳の破壊が国家没落の原因となり得ることを認識していたことからギリシャ国民の傲慢(=ギリシャ語でhubris )さを警告した.「アンティゴネ」では最終的にテーベ王となったクレオンの傲慢が露呈(ろてい)している.この悲劇の前編「オイディプス王」(前430年頃)では,オイディプス王の傲慢が詳述されている.

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ペンテウス
・ギリシャ神話の人物.カドモスの娘アガウェがスパルトイの一人エキオンと結婚して生んだ子で,老齢のカドモスから譲位され,二代目のテーベ王になったが,ディオニュソス(=バッカス.ギリシャ神話の酒神,豊穣神)の信仰がテーベに広がるのを妨げようとして,従兄弟にあたるこの神を怒らせ,神罰によって八つ裂きにされて死んだ.このとき,彼の母や伯母たちが,信女たちの先頭に立って彼を害したという.

(ブリタニカ国際大百科事典,百科事典マイペディア他参照)

2010年10月18日月曜日

祝福された洞窟

エレイソン・コメンツ 第170回 (2010年10月16日)

神の慈愛( “grace” 「恩寵(おんちょう),恩恵」)を人間性( “nature” )から切り離して区別してしまうことはなんと不条理なことでしょうか!この二つは互いのために作られているのです!(訳注・原文 “The two are made for one another!” 「恩寵と人間性とは親密な関係にある」.)恩寵について,それがあたかも人間性そのものに戦いをいどむものであるかのように考えることは,それにもましてなんと不条理なことでしょうか!恩寵は,私たちの堕落した人間性( “fallen nature” )について,その堕落の状態そのもの( “fallen-ness” 「堕落状態」)(訳注・「原罪」あるいは「原罪をもっている状態」を指す.初めの人アダムとエワが神に背いて堕落したことにより,それ以後に生まれたすべての人間は生来(=生まれつき,生まれながらに)「原罪」をもつ運命に陥った.)と戦うことはあっても,その堕落状態の根底にある( “underlies that fallen-ness” ),神に由来する人間性と戦うものではありません.それとは逆に,恩寵は,かかる堕落状態の根底にある人間性を,その原罪による生来の堕落状態と(生れた後で犯す)罪の汚れから救って( “…to heal that underlying nature from its fallen-ness and falls,” )神の高みにまで引き上げ,神の本質にあずからせるために存在するのです(使徒ペトロの第二の手紙・第1章4節を参照.)(訳注・バルバロ神父訳による新約聖書の該当箇所…「(キリストの神としての力は…命と敬虔を助けるすべてのものをくださり,)またそれによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた.それは,欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ,神の本性にあずからせるためであった.」).

さて,恩寵なしの人間性は革命に通じ得ますが,人間性を軽視した恩寵は,たとえば同様に革命に通じるジャンセニズム “Jansenism” (訳注後記・1)のように誤った「霊性(精神性)」につながります.この誤ったプロテスタント化の過ちの重大性は,恩寵を,罪の代わりに人間性と対立するものとして配置しているところにあります.私は七日間のイタリア旅行で四つの山岳域を訪れ,神に近づくため自然界に逃れた(原文 “fled…in Nature” )四人の偉大な中世の聖人たちのことを思い出していました.彼らについては四人とも聖務日課書とミサ典書の中に記されています.それらの四人の聖人とは,年代順に挙げると,聖ベネディクト “St. Benedict” (祝日3月21日,聖地:スビアコ “Subiaco” ),聖ロムアルド “St. Romuald” (祝日2月7日,聖地:カマルドリ “Camaldoli” ),聖ヨハネ・グアルベルト “St. John Gualbert” (祝日7月12日,聖地:ヴァッロンブローザ “Vallumbrosa” ),そしてアッシジの聖フランチェスコ “St. Francis of Assisi” (祝日10月4日,聖地:ラ・ヴェルナ “la Verna” )です.

カマルドリとヴァッロンブローザは,フィレンツェ “Florence (Firenze) ” を囲む丘陵地帯の高地にある地域の地名で,11世紀にそれらの地からそれぞれの地名をとった二つの修道会が起こりました.トスカーナ州のアペニン山脈 “Tuscan Apennines” の高地の山奥にあるラ・ヴェルナは,聖フランチェスコが1224年に聖痕(訳注後記・2)を受けた場所です.これらの三つの場所へはすべて,現在ではバスか自動車で比較的容易にたどり着くことができますが,今でも依然として山深い森林地に取り囲まれており標高も十分に高いので,冬季にはきっと身を切るような厳しい寒さで凍えてしまうことでしょう.この地がこれらの聖人たちが,比較的小さい町々においてさえ十分に狂気に浸りきった俗世間(浮世の人々)と一体となっていた,その当時の町々を遠く離れ,神と心を通い合わせ親しく語り合うため出かけて行った場所なのです.

多分,私が最も感銘を受けた場所は,ローマから車で一時間ほど東に向かったスビアコでした.そこは聖ベネディクトが若い頃,山腹の洞窟(どうくつ)で三年間を過ごしたところです.紀元580年に生れ,若い学生だったとき,彼は崩壊したローマ帝国を脱出しその丘陵へと逃れたのです.その時彼は20才,あるいは人によっては14才だったと言う人もいます! - もしそうだとしたら,なんというティーンエイジャー(十代)でしょうか!紀元1200年頃から,その場所の周囲の山腹に本格的な男子修道会が形成され始め,スビアコはこの若い男性によって神聖な場所となったのですが,神を探し求めた彼がそこで何を見出したのか,誰でも(その場所を訪れてみれば)今もなお想像することができるでしょう.見上げれば上には雲々と空があり,はるか下方の渓谷(けいこく)では急流が音を立ててほとばしり,向こう側の山の斜面には荒れた森林のほか何もなく,道連れ(みちづれ)はただ切り立った断崖(だんがい)を行き来する鳥たちだけで,ただ独りで自然界とともに・・・神の自然界と・・・ただ独りで神と向き合えるのです!

三年間,ただ独り神と向き合う・・・その三年間は一人の若いカトリック信者に,(創造主たる神が創造された)自然の中で自分の霊魂をキリストと共有することを可能にしたのです.そして彼の著(あらわ)した有名なベネディクトの戒律が,崩壊したローマ帝国を高邁(こうまい)なキリスト教世界へと新しく形を変えたのです.その世界はいまや「西洋文明」として崩壊しつつあります.キリストと共に自らの人間性を取り戻すことで己の霊魂を取り戻し,そうしてキリスト教世界を救済し得る若いカトリック信者たちは今日どこにいるのでしょうか?

神の御母よ,若者たちに霊感を与え給え!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第2パラグラフの訳注・1)

“Jansenism” 「ジャンセニズム」 (「ヤンセニズム」「ヤンセン主義」ともいう.仏語で “Jansénisme” 「ジャンセニスム」.)について.

1640年に,オランダのローマカトリック司教で神学者コルネリス・ヤンセン “Cornelis Jansen” (1585-1638) が著した大書「アウグスティヌス」が出版された(彼の死後,遺作として).17-18世紀に,その著書の中の「恩恵論」を巡りフランスを中心として欧州各地のカトリック教会で宗教論争・運動が展開された.ジャンセン主義者たちは当時のイエズス会,フランス王権,ローマ教皇と激しく対立した.拠点となったポール・ロワイヤル(Port-Royal. シトー会)女子修道院の破壊(1711年)やイエズス会の一時解散(1773年)など,長年にわたる争いの激化で信徒たちを混乱させ,ローマ教皇による弾圧や断罪が続く中で,争いは教会内にとどまらず政治の世界にまで大きな影響を及ぼしたため,後にローマ教皇により禁圧された.厳格な考え方が特徴.人間の原罪の重さと,それに対する恩寵の必要性を過度に強調し,人間性や人間の意思を軽視した.

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(第3パラグラフの訳注・2)

“…St Francis received the stigmata in 1224.”の “stigmata” 「聖痕」について.

「聖痕」(せいこん)…キリストの受難の傷痕を身体に受けること.アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)はキリストと同じ五つの傷痕(手足と脇腹)を受けたことが伝えられている.身体の外部に現れず,内的な苦痛の場合もある.