2014年9月6日土曜日

373 ドノソ・コルテス - I 9/6

エレイソン・コメンツ 第373回 (2014年9月6日)

     最も重要なカトリック教諸教義( "Catholic dogmas" )のひとつは原罪( "original sin" )にかかわる教義です(もっとも じゅうような かとりっく きょう しょ きょうぎの ひとつは げんざいに かかわる きょうぎ です)( "One of the most important Catholic dogmas is that of original sin, …" ).あらゆる人間(にんげん)は(私たちの主イエズス・キリストと聖母を除き)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと と せいぼ を のぞき)生まれた時(うまれた とき)から全人類の父(ぜん じんるいの ちち)であるアダム(あだむ)"Adam" との神秘的な結びつきを通し(しんぴ てきな むすびつきを とおし)て性格(せいかく)がひどく傷(きず)ついています( "… whereby all human beings (except Our Lord and his Mother) have a nature seriously scarred from birth through our mysterious solidarity with Adam, father of all mankind, …" ).それはアダムがエデンの園(えでんの その)でエバ "Eve" との間(あいだ)であらゆる人間的罪(にんげん てき つみ)のなかで最初の罪に陥って(さいしょの つみに おちいって)しまったときに起(お)きたことです( "… when with Eve he fell into the first of all human sins in the garden of Eden." ).むろん,今日の私たち(こんにちの わたくし たち)のほとんどにとって,アダムが罪に陥ったことはおとぎ話(ばなし)か神話(しんわ)にしかすぎません( "Of course for most people today that Fall is just a fairy-tale, or mythology, …" ).だから,私たちは自分(じぶん)たちの周り(まわり)に一種のディズニーワールドを築いて(いっしゅの でぃずにー わーるどを きずいて)きました( "… and that is why they have built a Disneyworld all around us. " ).カトリック教徒(きょうと)たちは原則(げんそく)として原罪を信じ(げんざいを しんじ)ていますが( "In principle Catholics believe in original sin, …" ),ディズニーワールド(でぃずにー わーるど)があまりにも魅惑的(みわく てき)なため,実際(じっさい)には彼らの多く(かれらの おおく)は原罪(げんざい)をさほど真面目に受け止め(まじめに うけとめ)ていません( "… but so seductive is Disneyworld that many hardly take it seriously in practice. " ).結局(けっきょく)のところ,私たちはすべて罪びと(つみ びと)( "thinners" )だと信(しん)じるのは決して心地よい(けっして ここち よい)ことではありません( "ith not at all nithe" ).私たちはすべて恋(こい) "luv" ,恋,恋!の中を泳(およ)ぎまわっているわけですから( "After all, ith not at all nithe to believe we are all thinners. We are all thwimming in luv, luv, luv ! " ).

     だが,原罪の作用(げんざいの さよう)についてきわめて明確に考察(めいかくに こうさつ)したのはスペイン人の貴族,作家,外交官ドノソ・コルテス(すぺいん じんの きぞく,さっか,がいこうかん どのそ・こるてす)( "Donoso Cortés" )(1808-1853年)(せん はっぴゃく はち ― せん はっぴゃく ごじゅうさん ねん)でした( "But a man who saw very clearly original sin in action was the Spanish nobleman, writer and diplomat, Donoso Cortés (1808-1853)." ).彼の生涯(かれのしょうがい)はフランス革命(ふらんす かくめい)(1789年)(せん ななひゃく はちじゅうく ねん)ののち,ヨーロッパ(よーろっぱ)がゆっくりながらも着実(ちゃくじつ)に古いキリスト教秩序(ふるい きりすと きょう ちつじょ)( "ancien regime" )をユダヤ・メーソン的新世界秩序(ゆだや・めーそん てき しん せかい ちつじょ)に置き換え(おきかえ)つつあった19世紀前半(じゅうきゅう せいき ぜんはん)にまたがっています( "His life spanned that first half of the 19th century when in the wake of the French Revolution (1789), Europe was slowly but steadily replacing the old Christian order (“ancien régime”) with the Judeo-masonic New World Order." ).外見上(がいけん じょう),古い秩序(ふるい ちつじょ)はウイーン会議(うぃーん かいぎ)(1815年)(せん はっぴゃく じゅうご ねん)によって回復(かいふく)されましたが,それは内面的(ないめん てき)には以前(いぜん)のものとけっして同(おな)じものではありませんでした( "Outwardly the old order was put back in place by the Congress of Vienna (1815), but inwardly it was not at all the same as before, …" ).その理由(りゆう)は,人々の心(ひとびとの こころ)が以前(いぜん)とはまったく違う基盤(ちがう きばん),とりわけ教会と国家を分離(きょうかいと こっかを ぶんり)するというリベラルな基盤に基づく(りべらるな きばんに もとづく)ようになったからです( "… because men's minds were now resting on quite different foundations, liberal foundations, notably the separation of Church and State." ).ドノソは若(わか)くしてスペイン政界(すぺいん せいかい)に入ったときリベラル主義者を自称(りべらる しゅぎ しゃを じしょう)しました( "When Donoso entered Spanish politics at a young age, he proclaimed himself to be a liberal, …" ).だが,フランス革命の理想が実際面に作用(ふらんす かくめいの りそうが じっさい めんに さよう)するのを見て(みて)いるうち彼は次第に保守的に(しだいに ほしゅ てきに)なり,1847年(せんはっぴゃく よんじゅうなな ねん)にはスペインの古代カトリック教に改宗(こだい かとりっく きょうに かいしゅう)しました( "… but as he observed the Revolutionary ideas working out in practice, he became more and more conservative until in 1847 he converted to Spain's ancient Catholic religion." ).彼がその時(とき)から若(わか)くして亡(な)くなるまでのあいだに書(か)いたり話(はな)したりした言葉(ことば)は,新世界秩序を構成(しんせかい ちつじょを こうせい)する過度にモダンな諸々の間違い(かどに もだんな もろもろの まちがい)についてのカトリック教的(かとりっくきょう てき)な預言的分析(よげんてき ぶんせき)をヨーロッパ全体に広め(よーろっぱ ぜんたいに ひろめ)ました( "From then on until his early death his written and spoken words carried all over Europe his prophetic Catholic analysis of the radical modern errors forging the New World Order." ).

     彼はそうした諸々の間違いの裏(もろもろの まちがいの うら)に次の二つの要素(つぎの ふたつの ようそ)があることを見抜(みぬ)きました:( "At the back of all these errors he discerned two: …" ).すなわち,ひとつは神が自らの創造物(みずからの そうぞうぶつ)(=被造物〈ひぞうぶつ〉)に向(む)ける超自然的な配慮(ちょう しぜん てきな はいりょ)( "supernatural care" )の否定(ひてい)( "…the denial of God's supernatural care for his creatures, …" ),もうひとつは原罪(げんざい)( "original sin" )の否定(ひてい)です( "… and the denial of original sin." ).以下に紹介(いかに しょうかい)するのはドノソが フォルナリ枢機卿(1852年)に宛てた書簡(ふぉるなり すうききょうに あてた しょかん)( "Letter to Cardinal Fornari" )の中(なか)からの2節(にせつ)です( "From Donoso's Letter to Cardinal Fornari (1852) come the following two paragraphs …" ).彼はここで原罪をデモクラシーの興隆と教会の減退に関連づけ(でもくらしーの こうりゅうと きょうかいの げんたいに かんれん づけ)ています( "… which connect to original sin the rise of democracy and the diminution of the Church" )(ここに引用〈いんょう〉するのは書簡のフランス語訳〈しょかんの ふらんすご やく〉からの翻訳〈ほんやく〉です):-- ( "…(the translation here is from a French translation) :-- …" )

(以下,書簡の2節紹介)

     「人間の理性の光(にんげんの りせいの ひかり)が決して暗く(けっして くらく)ならなければ,信仰の必要性を感じ(しんこうの ひつよう せいを かんじ)なくても,真実を見出す(しんじつを みいだす)にはその光だけで十分(ひかりだけで じゅうぶん)でしょう( " “If the light of men's reason is in no way darkened, its light is enough, without need of the Faith, to discover the truth." ).もし信仰が必要(しんこうが ひつよう)でないなら,人間の理性は主権を持ち自立(しゅけんを もち じりつ)したものとなるでしょう( "If the Faith is not needed, then man's reason is sovereign and independent." ).そうだとすると,人間が真実へ向かって前進(にんげんが しんじつに むかって ぜんしん)するかどうかは理性が前進(りせいが ぜんしん)するかどうかで決(き)まることになるでしょう( "The progress of truth then depends on the progress of reason, …" ).そして,それは理性が行使(こうし)されるかどうかによって決まることになるでしょう( "… which depends upon the exercise of reason; …" ).理性の行使(りせいの こうし)は議論(ぎろん)でなされるべきものです( "… such an exercise is to be found in discussion; …" ).したがって,議論は現代社会の真の基本法を形成(ぎろんは げんだい しゃかいの まことの きほん ほうを けいせい)することになります( "… hence discussion constitutes the true basic law of modern societies, …" ).それは比類(ひるい)のない “るつぼ” となり,その中(なか)でものが溶ける過程(とける かてい)で( "… the matchless crucible in which by a process of melting, …" ),諸々の間違いの中から諸々の真実が引き出される(もろもろの まちがいの なか から もろもろの しんじつが ひき だされる)ことになります( "… truths are extracted from errors." ).この議論の原則(ぎろんの げんそく)( "principle of discussion" ) から報道の自由(ほうどうの じゆう)( "freedom of the press" ),言論の自由の不可侵性(げんろんの じゆうの ふかしん せい)( "the inviolability of freedom of speech" ),討議する議会の主権性(とうぎ する ぎかいの しゅけん せい)( "the real sovereignty of deliberative assemblies" ) が生(う)まれます.」( "From this principle of discussion flow freedom of the press, the inviolability of freedom of speech and the real sovereignty of deliberative assemblies.” " )

     ドノソは人間の意志が原罪に犯され(にんげんの いしが げんざいに おかされ)ていないと仮定した場合(かてい した ばあい)起こりうる結果(おこり うる けっか)について,上に述べ(うえに のべ)たことと並行‘(へいこう)して彼自身の診断(かれ じしんの しんだん)を次(つぎ)のように続(つづ)けます:( "Donoso continues with a parallel diagnosis of the consequences of man's will being supposed to be free from original sin: …" ).「人間の意志が病んで(やんで)いなければ,彼は善を求める(かれは ぜんを もとめる)のに神の恩寵を通した超自然的な手助け(かみの おんちょうを とおした ちょう しぜん てきな てだすけ)など必要(ひつよう)としなくなるでしょう.善が持つ魅力(ぜんが もつ みりょく)だけで十分(じゅうぶん)です: ( " “If man's will is not sick, then he needs none of the supernatural help of grace to pursue good, its attraction being enough: …" ).人間(にんげん)が恩寵を必要(おんちょうを ひつよう)としなければ,彼はそれを与(あた)えてくれる祈(いの)りや秘跡(ひせき)なしにやっていけるでしょう.」( "if he needs no grace, then he can do without prayer and the sacraments which provide it.” " )もし,祈りが必要(いのりが ひつよう)でなくなれば,それは無用(むよう)のものとなり,瞑想(めいそう) "contemplation" や瞑想にかかわる諸々の宗教的修道会(もろもろの しゅうきょう てき しゅうどう かい)( "the contemplative religious Orders" )も当然(とうぜん)なくなるわけですから,それも同(おな)じように無用(むよう)となるでしょう( "If prayer is not needed, it is useless, and so are contemplation and the contemplative religious Orders, which duly disappear. " ).もし,人間が諸々の秘跡(もろもろの ひせき) "sacraments" を必要(ひつよう)としなくなれば( "If man needs no sacraments, …" ),彼は諸秘跡を司る(しょひせきを つかさどる)(司式する〈ししき する〉司祭(しさい)たち( "priests to administer them" )も必要としなくなり( "… then he has no need of priests to administer them, …" ),彼ら司祭たちは当然活動(かつどう)できなくなるでしょう( "… and they are duly banned. " ).そして,司祭職の軽視(しさいしょくの けいし)がいたるところで教会の軽視(きょうかいの けいし)へつながり,結局(けっきょく)はあらゆる場所(ばしょ)で神を軽視(かみを けいし)することになるでしょう( "And scorn of the priesthood results everywhere in scorn of the Church, which amounts in all places to the scorn of God." ).

     ドノソ・コルテスはそのような誤った諸原則(あやまったしょげんそく)から近い将来(ちかいしょうらい),前例のない災難が起きる(ぜんれいのないさいいなんがおきる)だろうと予見(=予知)(よけん〈=よち〉)しました( "From such false principles Donoso Cortés foresaw an unparallelled disaster in the very near future. " ).実際(じっさい)には,そのような災害が起き(さいがいが おき)るのは彼が予見した時期(よけんしたじき)より150年以上遅れ(ひゃく ごじゅう ねん いじょう おくれ)ています( "Actually it has been delayed for over 150 years, …" ).だが,それがこの先(さき)どれほど遅(おく)れるでしょうか?( "… but how much longer ? " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




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(注:本投稿記事〈第373回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月27日23:50に公開されました.)