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2016年1月23日土曜日

445 究極の難題 I 1/23

エレイソン・コメンツ 第445回 (2016年1月23日)

(解説無し)

悪は生き残るため善によりかかる.
かくして,真の教会を持たない新教会は存続しえない.
Upon the good, to exist depends the bad.
Thus Newchurch with no true Church can’t be had.

私は半年ほど前,司祭はいかなる場合でもカトリック信者が新式ミサ〈祭〉式( "the New Mass (NOM)" )に出席するのを禁じる義務があるとは限らないと言いました.私が言いたかったのは,  NOM に出席してもなんら問題がないということではありません.NOM の典礼自体は第二バチカン公会議後に始まった人間中心の誤った礼拝の主役をなすものです.実際のところ,NOM を避ける義務の度合いは,信徒それぞれがその誤りを知っている度合いに比例して決まります.NOM は無数のカトリック信徒たちに自分でほとんど気づかないまま信仰を失わせてしまうことに大きな役割を果たしてきました.
The purpose of saying half a year ago that a priest is not obliged in every case to forbid a Catholic to attend the New Mass (NOM) was obviously not to say that the NOM is perfectly alright to attend. The NOM rite is, in itself, the central act of worship of the false man-centred religion of Vatican II, in whose wake it followed in 1969. In fact the obligation to stay away from the NOM is proportional to one’s knowledge of how wrong it is. It has enormously contributed to countless Catholics losing their faith, almost without realizing it.

だが,今日でも,カトリック教徒たちが NOM に騙されやすい要因が二つあります.第一の要因は,それがラテン語典礼を施すすべての教会に押し付けられたものだという点です.パウロ6世はあらゆることをして,それが1969年当時絶大と見えた教皇の全権に基づくものであるかのように見せかけました.今日でも,NOM は「普通の」典礼として通用しているのに対し,伝統的な不変のミサ聖祭は公的には「異例な」ものとされています.そのため,47年経った今でも,誠実なカトリック信徒はこれに従って NOM に出席しなければならないと感じているようです.もちろん,実際には,そのような義務などありえません.なぜなら,いかなる教会法もカトリック信徒に NOM に出席することで自らの信仰を危険にさらすことなど義務付けることはできないからです.NOM はことほどさように誤っています.
But there are two factors which even to this day have made it easy for Catholics to be deceived by the NOM. Firstly, it was imposed on the entire Latin-rite Church by what Paul VI did all he could to make look like the full force of his Papal authority, which in 1969 seemed immense. Still today the NOM passes for the “ordinary” rite, while the Mass of all time is officially discounted as the “extraordinary” rite, so that even 47 years later an honest Catholic can still feel obliged in obedience to attend the NOM. Of course in reality there can be no such obligation, because no Church law can oblige a Catholic to put his faith in danger, which he normally does by attending the NOM, such is its falsity.

第二の要因は, NOM がとりわけ1962年,1964年および1967年に巧みに用意された一連の段階的変化を通して徐々に紹介されてきたという点です.その結果,1969年に全面的な改革が実施された時,カトリック信徒たちは目新しいものを受け入れるようになっていました.事実,今日でも NOM の典礼は執行司祭に諸選択肢を与え, NOM を新しい人間中心主義的宗教の正真正銘の儀式として執り行うことも,多数の信徒を騙せるほど真のミサ聖祭に似通った儀式として執り行うこともできるようにしています.このため,新旧典礼にはさしたる違いはないように見えるほどです.もちろん,実際には,ルフェーブル大司教が常に述べていたように,ラテン語による新式典礼より現代語による古い(=旧い)典礼のほうがましです. NOM ではカトリック教のミサ聖祭の教理を減退させるか完全に歪曲させてしまうからです.
And secondly, the NOM was introduced gradually, in a series of skilfully graduated changes, notably in 1962, 1964 and 1967, so that the wholesale revolution of 1969 found Catholics ready for novelty. In fact even today the NOM rite includes options for the celebrant which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, or as a ceremony resembling the true Mass closely enough to deceive many a Catholic that there is no significant difference between the old and the new rites. Of course in reality, as Archbishop Lefebvre always said, better the old rite in a modern language than the new rite in Latin, because of the diminution or downright falsification of the Catholic doctrine of the Mass in the NOM.

この二つの要因,すなわち変革の公的押し付けと NOM の持つ選択的性格は,望んでカトリック信徒になりながらも信徒にとっての正しい道は毎週日曜日に NOM に出席することだといまだに思い込んでいる信徒が多数いるに違いないことを説明するには十分です.そして,この多数の信徒たちの中に,彼らにとって(主観的に)自らの(客観的な)義務と思えるものを守ることで信仰を育んでいるものが一人もいないと誰が断言できるでしょうか?神は信徒にとっての審判官です.だが,カトリック教の伝統を守る信徒たちの多くは自らの信仰が NOM への出席を禁じていることを理解するまでに,はたしてどれほど長い年月にわたって進んで NOM へ出席しなければならなかったのでしょうか?そして,もし NOM がその間に彼らの信仰を失わせたとしたら,彼らはどうやってカトリック教の伝統にたどりついたのでしょうか?典礼執行司祭が NOM の認める諸選択肢をどのように使い分けるかによっては,信仰を育む NOM のあらゆる要素がなくなるとは限りません.とくに,その秘蹟の奉献儀式(=聖別式= the Consecration )が有効な場合はそうです.この可能性は秘蹟における神学をわきまえている者なら誰も否定できないでしょう.
Moreover these two factors, the official imposition of the changes and their sometimes optional character intrinsic to the NOM, more than suffice to explain that to this day there must be multitudes of Catholics who want and mean to be Catholics and yet assume that the right way to be Catholics is to attend the NOM every Sunday. And who will dare say that out of these multitudes there are none who are still nourishing their faith by obeying what seems to them (subjectively) to be their (objective) duty? God is their judge, but for how many years did easily most followers of Catholic Tradition have to attend the NOM before they understood that their faith obliged them not to do so? And if the NOM had in all those years made them lose the faith, how would they have come to Catholic Tradition? Depending on how a celebrant uses the options in the NOM, not all the elements that can nourish faith are necessarily eliminated from it, especially if the Consecration is valid, a possibility which nobody who knows his sacramental theology can deny.

だが,人間性の持つ弱さや,それによりカトリック信徒たちに,その礼拝の中心的典礼に好意的な言葉をほとんど発せずに安易な新宗教を選ぶよう勧めるリスクがあるとしても,新教会の特性に好意的な言葉が発せられるのは何故でしょうか?これには少なくとも二つの理由があります.初めに2番目の理由を言えば,伝統主義運動の枠外にいる信徒から出てくるかもしれない偽善的な軽蔑をかわすためです.そして,第1の理由は「教会空位主義」( “ecclesiavacanism” ) とでも称されるもの,すなわち新教会にはカトリック教的なものが一切残っていないという考え方を退けるためです.理論的には,新教会は全くの腐敗です.だが,実際面では,腐敗はまだ腐っていないが,これから腐るかもしれない何かがなければ存在できません.あらゆる寄生者は宿主を必要とします.そして,もしこの宿主,すなわち真の教会が完全になくなってしまったら,地獄の門がそれに打ち勝つことになるでしょうか?それはありえないことです(使徒聖マテオによる聖福音書・第16章18節)(訳注後記5・1)
However, given the weakness of human nature and so the risk of encouraging Catholics to go with the new and easy religion by the least word said in favour of its central rite of worship, why say a word in favour of any feature of the Newchurch? For at least two reasons. Secondly, to ward off potentially pharisaical scorn of any believers outside of the Traditional movement, and firstly to ward off what is coming to be called “ecclesiavacantism,” namely the idea that the Newchurch has nothing Catholic left in it whatsoever. In theory the Newchurch is pure rot, but in practice that rot could not exist without something not yet rotted still being there to be rotted. Every parasite needs a host. Also, had this particular host, the true Church, completely disappeared, would not the gates of Hell have prevailed against it? Impossible (Mt.XVI, 18).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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本投稿記事・第445回エレイソン・コメンツ「究極の難題 I」(2016年1月23日付)/ELEISON COMMENTS CDXLV (Jan. 23, 2016) : "CONUNDRUM SUPREME I" (解説無し)は2016年3月8日05時00分に掲載されました.
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エレイソン・コメンツ 第445回 (2016年1月23日)

(解説付)

悪は生き残る為善に寄り掛かる(倚り懸る)
(あく は いき のこる ため ぜん に より かかる.)
( "Upon the good, to exist depends the bad. " )

斯く為て,真の教会を持たない新教会は存続為得ない
(かくして,まこと の きょうかい を もたない
しん きょうかい は そんぞく しえない.)

( "Thus Newchurch with no true Church can’t be had. " )

私は半年程前,司祭は如何なる場合でも公教(カトリック教)信者が新式ミサ聖祭(訳注後記 2・1) .以下,「新(式)ミサ聖祭」を “NOM” と記す.)(訳注後記2・2 … “NOM” について.)に出席為るのを禁じる義務が有るとは限ら無いと言いました(わたくし は はんとし ほど まえ,しさい は いかなる ばあい でも かとりっく しんじゃ が しんしき みさ せいさい〈やくちゅう に てん いち.いか,NOM と しるす.〉に しゅっせき する のを きんじる ぎむ が ある とは かぎらない と いい ました).私が言いたかったのは,NOM に出席為ても何等問題が無いと言う事では有りません(わたくしがいいたかったのは,しんしき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〈= NOM 〉に しゅっせき しても なんら もんだい が ない と いう こと では ありません)( "The purpose of saying half a year ago that a priest is not obliged in every case to forbid a Catholic to attend the New Mass (NOM) was obviously not to say that the NOM is perfectly alright to attend." ).NOM の典礼自体は,一九六九(〈壱〉千九百六十九)年に第二バチカン公会議後に始まった人間中心の誤った礼拝の主役を為す物です(NOM の てんれい じたい は,〈いっ〉せん きゅうひゃく ろくじゅう く ねん に だい に ばちかん こう かいぎ ご に はじまった にんげん ちゅうしん の あやまった れいはい の しゅやく を なす もの です)( "The NOM rite is, in itself, the central act of worship of the false man-centred religion of Vatican II, in whose wake it followed in 1969." ).実際の所(処),NOM を避ける義務の度合いは,信徒其其(其々)其の誤りを知って居る度合いに比例為て決まります(じっさいのところ,しん しき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〈=NOM〉を さける ぎむ の どあい は,しんと それぞれ が その あやまり を しって いる どあい に ひれい して きまり ます)( "In fact the obligation to stay away from the NOM is proportional to one’s knowledge of how wrong it is." ).NOM は無数の公教(カトリック教)信徒達に自分で殆(ん)ど気付か無い儘(侭)信仰を失わせて仕舞う(終う)為まう事に大きな役割を果たして来ました(NOM は むすう の かとりっくしんと たち に じぶん で ほとんど きづかない まま しんこう を うしなわせて しまう こと に おおきな やくわり を はたして きました)( "It has enormously contributed to countless Catholics losing their faith, almost without realizing it." ).

だが,今日でも,公教徒(カトリック教徒)達が NOM に騙され易い要因が二つ有ります(だが,こんにちでも,こうきょうと〈かとりっくきょうと〉たち が NOM に だまされ やすい よういん が ふたつ あり ます)( "But there are two factors which even to this day have made it easy for Catholics to be deceived by the NOM." ).第一の要因は,其れがラテン語(羅甸語・拉丁語)典礼を施す全ての教会に押し付けられた物だと言う点です(だいいち の よういん は,それ が らてんご てんれい を ほどこす すべて の きょうかい に おしつけ られた もの だ と いうてん です)( "Firstly, it was imposed on the entire Latin-rite Church…" ).パウロ六世(6世)はあらゆる事を為て(ぱうろろくせいはあらゆることをして),其れが一九六九(1969,千九百六十九,壱千九百六拾九)年当時(それ が せん きゅう ひゃく ろく じゅう きゅう ねん とうじ)絶大と見えた教皇の全権に基づく物で有るかの様に見せ掛けました(ぜつだい と みえた きょうこう の ぜんけん に もとづく もの で ある か の よう に みせ かけ ました)( "…by what Paul VI did all he could to make look like the full force of his Papal authority, which in 1969 seemed immense." ).今日でも,NOM は「普通の(=通例の)」典礼として通用為て居るのに対し(こんにち でも,NOM は,「ふつう の〈=つうれい の〉」てんれい と して つうよう して いる のに たいし)伝統的な不変の典礼は公的には「異例な」物とされて居ます(でんとう てき な ふへん の てんれい は こう てき に は 「いれい な」 もの と されて います)( "Still today the NOM passes for the “ordinary” rite, while the Mass of all time is officially discounted as the “extraordinary” rite, …" ).其の為,四十七(47,四七,四十七,四拾七)年経った今でも(その ため,よんじゅう なな〈しち〉ねん たった いま でも),誠実な公教徒(=カトリック信徒)は此れに従ってNOM に出席為なければ為らないと感じて居る様です(せいじつ な こう きょうと〈=かとりっく  しんと〉は これ に したがって NOM に しゅっせき しなければ ならない と かんじて いる よう です)( "…so that even 47 years later an honest Catholic can still feel obliged in obedience to attend the NOM." ).勿論,実際には,其の様な義務等(抔)有り得ません(もちろん,じっさい には,その よう な ぎむ など あり え ません)( "Of course in reality there can be no such obligation, …" ).何故なら,如何為る教会法も一公教徒(=カトリック信徒)に(なぜなら,いかなる きょうかい ほう も いち こう きょうと〈かとりっく しんと〉に)( "… because no Church law can oblige a Catholic …" ) NOM に出席為る事で自らの信仰を危険に晒す事等(抔)(NOM に しゅっせき する こと で みずから の しんこう を きけん に さらす こと など)義務付ける事は出来ない柄です(ぎむ づける こと は できない から です)( "… to put his faith in danger, which he normally does by attending the NOM, …" ).NOM は事程左様に誤って居ます(NOM は ことほどさよう に あやまって います)( "… such is its falsity." ).

第二の要因は,NOM が取(り)分け千九百六十二年(1962)年(壱〈一〉千九百六拾弐〈二〉年・壱九六弐年),(壱・一)千九百六十四(1964)年および(壱・一)千九百六十七(1967)年に巧みに用意された一連の段階的変化を通して徐々に紹介されて来たと言う点です(だい に の よういん は,NOM が とりわけ せん きゅうひゃく ろくじゅう に ねん および せん きゅうひゃく ろくじゅう なな〈しち〉ねん に たくみ に ようい された いちれん の だんかい てき へんか を とおして じょじょ に しょうかい されて きた と いう てん です)( "And secondly, the NOM was introduced gradually, in a series of skilfully graduated changes, notably in 1962, 1964 and 1967, …" ).其の結果,千九百六十四(1964)年に全面的な改革が実施された時,公教徒(カトリック信徒)達は目新しい物を受け入れる様に成って居ました(その けっか,〈いっ〉せん きゅうひゃく ろくじゅう きゅう〈く〉ねん に ぜんめん てき な かいかく が じっし された とき,こう きょうと〈かとりっく しんと〉たち は めあたらしい もの を うけ いれる よう に なって いました)( "… so that the wholesale revolution of 1969 found Catholics ready for novelty." ).事実,今日でも NOM の典礼は執行司祭に選択肢を与え(じじつ,こんにち でも NOM の てんれい は しっこう しさい に せんたく し を あたえ)( "In fact even today the NOM rite includes options for the celebrant …" ),NOM を新しい人間中心主義的宗教の正真正銘の儀式と為て執り行う事も(NOM を あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てき しゅうきょう の しょうしん しょうめい の ぎしき と して とりおこなう こと も)( "… which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, …" ),多数の信徒を騙せる程真の典礼に似通った儀式と為て執り行う事も(たすう の しんと を だませる ほど まこと の てんれい に にかよった ぎしき と して とりおこなう こと も)出来る様に為て居ます(できる よう に して います).此の為,新旧典礼には然したる違いは無い様に見える程です(この ため,しん きゅう てんれい には さしたる ちがい は ない よう に みえる ほど です)( "… which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, or as a ceremony resembling the true Mass closely enough to deceive many a Catholic that there is no significant difference between the old and the new rites." ).勿論,実際には,ルフェーブル大司教が常に述べて居られた様に,羅甸(ラテン・羅丁)語に依る新〈式〉典礼より現代語に依る旧い(=古い)典礼の方が増しです(もちろん,じっさいには,るふぇーぶるだいしきょうがつねにのべておられたように,らてんごによるしん〈しき〉てんれいよりげんだいごによるふるいてんれいのほうがましです)( "Of course in reality, as Archbishop Lefebvre always said, better the old rite in a modern language than the new rite in Latin, …" ).  NOM では公教(=カトリック教)の典礼原則を減退させるか完全に歪曲させて終う(仕舞う・了う・蔵う)柄です(NOM では こう きょう〈かとりっく きょう〉の てんれい げんそく を げんたい させる か かんぜん に わいきょく させて しまう から です)( "… because of the diminution or downright falsification of the Catholic doctrine of the Mass in the NOM." ).

此の二つの要因,即ち(則ち・乃ち)変革の公的押し付けと NOM の持つ選択的性格は(この ふたつの よういん,すなわち へんかく の こう てき おしつけ と NOM の もつ せんたく てき せいかく は)( "Moreover these two factors, the official imposition of the changes and their sometimes optional character intrinsic to the NOM, …" ),望んで公教徒(=カトリック信徒)に成り(為り)乍らも信徒に取っての正しい道は毎週の主日(=毎週日曜日)に NOM に出席為る事だと未だに思い込んで居る信徒が多数居るに違い無い事を説明為るには十分です(のぞんで こう きょうと〈=かとりっく しんと〉に なり ながら も しんと に とって の ただしい みち は まい しゅう の しゅじつ〈=まい しゅう にちようび〉に NOM に しゅっせき する こと だ と いまだ に おもいこんで いる しんと が たすう いる に ちがい ない こと を せつめい する には じゅうぶん です)( "… more than suffice to explain that to this day there must be multitudes of Catholics who want and mean to be Catholics and yet assume that the right way to be Catholics is to attend the NOM every Sunday. " ).そして(然うして),此の多数の信徒達の中に(そして,この たすう の しんと たち の なか に),彼等に取って(主観的に)自らの(客観的な)義務と思える物を守る事で信仰を育んで居る者が一人も居ないと誰が断言出来るでしょうか?(かれら に とって〈しゅかん てき に〉みずから の〈きゃっかん てき な〉ぎむ と おもえる もの を まもる こと で しんこう を はぐくんで いる もの が ひとり も いない と だれ が だんげん できる でしょうか?)( "And who will dare say that out of these multitudes there are none who are still nourishing their faith by obeying what seems to them (subjectively) to be their (objective) duty? " )神は信徒に取っての審判官です(かみ は しんと に とって の しんぱん かん です)( "God is their judge, …" ).だが,公教(=カトリック教)の伝統を守る信徒達の多くは(だが,こうきょう〈=かとりっくきょう〉のでんとうをまもるしんとたちのおおくは)自らの信仰が NOM への出席を禁じて居る事を理解為る迄までに(みずからのしんこうが NOM へのしゅっせきをきんじていることをりかいするまでに),果(た)して何れ程長い年月に亘って進んで NOM へ出席為なければ為ら無かったのでしょうか?(はたしてどれほどながいねんげつにわたってすすんで NOM へしゅっせきしなければならなかったのでしょうか?)( "… but for how many years did easily most followers of Catholic Tradition have to attend the NOM before they understood that their faith obliged them not to do so? " )然(う)して,若し NOM が其の間に彼等の信仰を失わせたと為たら(そ〈う〉して,もし NOM がそのかんにかれらのしんこうをうしなわせたとしたら),彼等は如何やって公教(=カトリック教)の伝統に辿り着いたのでしょうか?(かれらはどうやってこうきょう〈=かとりっくきょう〉のでんとうにたどりついたのでしょうか?)( "And if the NOM had in all those years made them lose the faith, how would they have come to Catholic Tradition? " ) 典礼執行司祭が NOM の認める選択肢を何の様に使い分けるかに依っては( "Depending on how a celebrant uses the options in the NOM, …" )(てんれいしっこうしさいが NOM のみとめるせんたくしをどのようにつかいわけるかによっては),信仰を育む NOM のあらゆる要素が無く為るとは限りません( "… not all the elements that can nourish faith are necessarily eliminated from it, …" )(しんこうをはぐくむ NOM のあらゆるようそがなくなるとはかぎりません) .特に,其の秘蹟の奉献儀式(=聖別式= the Consecration )が有効な場合は然うです( "… especially if the Consecration is valid, …" )(とくに,その ひせき の ほうけん ぎしき〈=せいべつ しき= the Consecration 〉が ゆうこう な ばあい は そう です).此の可能性は秘蹟における神学を弁えて居る者なら誰も否定出来ないでしょう(この かのう せい は ひせき に おける しんがく を わきまえて いる もの なら だれ も ひてい できない でしょう)( "… a possibility which nobody who knows his sacramental theology can deny." ).

だが,人間性の持つ弱さや,其れにより公教徒達(=カトリック教信徒達)に(だが,にんげん せい の  もつ よわさ や,それ に より こう きょうと たち〈=かとりっく きょう しんと たち〉に)其の礼拝の中心的典礼に好意的な言葉を殆(ん)ど発せずに安易な新宗教を選ぶ様勧めるリスク(=危険)が有ると為ても(その れいはい の ちゅうしん てき てんれい に こうい てき な ことば を ほとんど はっせず に あんい な しん しゅうきょう を えらぶ よう すすめる りすく〈=きけん〉が ある と しても)( "However, given the weakness of human nature and so the risk of encouraging Catholics to go with the new and easy religion by the least word said in favour of its central rite of worship, …" ),新教会の特性に好意的な言葉が発せられるのは何故でしょうか?(しん きょうかい の とくせい に こうい てき な ことば が はっせ られる の は なぜ でしょうか?)( "… why say a word in favour of any feature of the Newchurch? " ) 此れには少なくとも二つの理由が有ります(これ に は すくなく とも ふたつ の りゆう が あり ます)( "For at least two reasons." ).初めに二番目の理由を言えば(はじめ に にばん め の りゆう を いえば),伝統主義運動の枠外に居る信徒から出て来るかも知れない偽善的な軽蔑を躱す為です(でんとう しゅぎ うんどう の わくがい に いる しんと から でて くる かも しれない ぎぜん てき な けいべつ を かわす ため です)( "Secondly, to ward off potentially pharisaical scorn of any believers outside of the Traditional movement, …" ).然為て,第一の理由は「教会空位主義」( "ecclesiavacanism" )とでも称される物(そして,だい いち の りゆう は「きょうかい くうい しゅぎ」と でも しょう される もの),即ち(乃ち)新教会には公教(=カトリック教)的な物は一切残って居ない(すなわち しん きょうかい に は こう きょう〈=かとりっく きょう〉てき な もの はいっさい のこって いない)と言う考え方を退ける為です(と いう かんがえ かた を しりぞける ため です)( "… and firstly to ward off what is coming to be called “ecclesiavacantism,” namely the idea that the Newchurch has nothing Catholic left in it whatsoever." ).理論的には,新教会は全くの腐敗です(りろん てき に は,しん きょうかい は まったく の ふはい です)( "In theory the Newchurch is pure rot, …" ).だが,実際面では,腐敗は未だ腐って居ないが(だが,じっさい めん では,ふはい は まだ くさって いない が),此れ柄腐るかも知れない何かが無ければ存在出来ません(これ から くさる かも しれない なにか が なければ そんざい でき ません)( "… but in practice that rot could not exist without something not yet rotted still being there to be rotted." ).あらゆる寄生者は宿主を必要と為ます(あらゆる きせい しゃ は やどぬし を ひつよう と します)( "Every parasite needs a host." ).然為て,若し此の宿主,即ち(乃ち)真の教会が完全に無く為って終ったら(仕舞ったら)(そして,もし この やどぬし,すなわち まこと の きょうかい が かんぜん に なく なって しまった ら)( "Also, had this particular host, the true Church, completely disappeared, …" ),地獄の門が其れに打ち勝つ事に成る(為る)でしょうか?(じごく の もん が それ に うち かつ こと に なる で しょう か?)( "… would not the gates of Hell have prevailed against it? " ) 其れは有り得ない事です(それ は あり え ない こと です)( "Impossible.(新約聖書:使徒聖マテオによる(イエズス・キリストの)聖福音書第十六章(一六章)十八節(一八節))(しん やく せい しょ:しと せい まてお に よる〈いえずす・きりすとの〉せい ふくいん しょ だい じゅうろく しょう じゅうはっ せつ)( " (Mt.XVI, 18) " ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注 2・1
「新式(新形式)ミサ」「新ミサ(新式ミサ)祭式(式)」について:

第二バチカン公会議で規定された新形式の典礼に則って(のっとって)(=則して〈そくして〉)執行される(=執り行われる)ミサ式』を意味する.「新しいミサ」とも呼ばれる.

訳注 2・2
“NOM” について :

「新(形)式ミサ」「新(式)ミサ(祭)式」「新しいミサ」のラテン語原呼称 “NOVUS ORDO MISSAE” の略称.

訳注 5・1
新約聖書の引用:

聖マテオによる聖福音書

聖書‐バルバロ神父による(ラテン語ウルガタ訳からの)邦訳版:新約聖書‐聖マテオによるイエズス・キリストの聖福音書:第十六(16)章十八(18)節(下線部)(1節から28節まで全章を掲載)
THE HOLY BIBLE, TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE-THE NEW TESTAMENT, RHEIMS VERSION : THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW XVI, 18
LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE-LE NOUVEAU TESTAMENT : LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT MATTHIEU XVI, 18
BIBLIA SACRA VULGATAE EDITIONIS, NOVUM TESTAMENTUM-VULGATÆ EDITIONIS, IUXTA PP. CLEMENTIS VIII DECRETUM : EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM XVI, 18

St. Matthew, one of the twelve Apostles, who from being a publican, that is, a tax gatherer, was called by our Saviour to the Apostleship: in that profession his name was Levi (Luke 5:27; Mark 2:14). He was the first of the Evangelists that wrote the Gospel, and that in Hebrew or Syro-Chaldaic which the Jews in the Palestine spoke at that time. The original is not now extant; but, as it was translated in the time of the Apostles into Greek, that version is of equal authority. He wrote about six years after our Lord’s Ascension. (THE NEW TESTAMENT-RHEIMS VERSION 〈LORETO PUBLICATIONS〉 )

(邦訳)
・聖マテオは,私たちの救主(すくいぬし)( Saviour =キリスト Christ =メシア Messiah)神の御独り子イエズスに召し出されて弟子となった十二(12)使徒の一(1)人で,当時はレビ Levi という名の収税吏(しゅうぜいり)職人だった.
・彼は四(4)福音史家たちのうち最初に福音書を執筆した.聖マテオは,当時パレスチナ地方のユダヤ人が話していたヘブライ語またはシリア=カルディア語(=〈西方〉アラム語)“Syro-Chaldaic” によって福音書を記述した.
・最初の直筆のものは現存していないが,使徒の時代にギリシャ語に翻訳され,ギリシャ語版は原著と同等の権威を持つものと見なされている.
・聖マテオは私たちの主イエズスが昇天された約6年後から聖福音書の執筆を始めた.

(補足説明)
①・聖マテオは,当時(新約聖書の時代)パレスチナ地方の現シリア国西部に当たる場所で,当地のヘブライ人(ユダヤ人)(イエズス御自身も含む)が話していたアラム語(=ヘブライ語+シリア語+カルディア語=“Syro-Chaldaic or Aram
æn (Aramaic) で,救世主また生ける神の御子イエズスの最初の福音書を執筆した.

②この原アラム語版聖福音書は,その後エジプトでギリシャ語に翻訳された.このギリシャ語版はギリシャ正教会の聖典となり,後にローマ帝国が東西に分裂して,東ローマ帝国(ビザンティン帝国)から東欧州や亜細亜州諸国にギリシャ正教が伝播(でんぱ・でんぱん)し(東方教会→ロシアや東欧各地の正教会,またシリア→中国方面へ景教会として伝播する等),西ローマ帝国からは,イエズス御自身によって救世主(キリスト)の代理者に任命された使徒聖ペトロの後継者すなわちローマ教皇(=ローマの司教)の下,公教(=カトリック教)として西欧州諸国に拡がった.


・イエズスはユダヤ地方のエルサレムや生まれ故郷のベトレヘム(ダビド王の町と言われる)からはるか北方に位置するガリラヤ地方のナザレトという一寒村の出身だったので,ナザレトのイエズスと呼ばれるようになった.「救(世)主 Saviour =キリスト Christ =メシア Messiah」とは「油注がれた者(=〈唯一の真の〉神に聖別された者) anointed one 」の意である.

・ナザレトは「芽の町」の意である.イエズスはダビドの株から生える新芽であったから,預言者から「ネゼル」(芽)と言われた.

もう一つの解釈,ナザレトは一寒村にすぎなかった.預言者は,ヤベ(神)のしもべ(メシア)が軽蔑の的となるであろうと告げていたので,この意味で,「ナザレ人と呼ばれるであろう」と言った.
(バルバロ神父訳新約聖書:聖マテオ聖福音書:第2章23節の注釈より抜粋)

・救世主は,真の信仰によって救世の御業(受難・十字架上の死・復活)を果たされ,


・原罪の呪縛=「宇宙と地上における悪魔と諸諸の悪の霊」*(注・後記)が支配する人生(身体・肉だけに限定される霊魂無しの地上の生命)に打ち勝たれ,

・墓から甦(よみがえ)られ,原罪による悪魔の呪縛である「死」を克服されて,天地の諸王の王となられ,御父なる真の神の右の座につき,天地を永遠に支配される.

・十字架刑での名札→「 I N R I (IESVS NAZARENVS REX IEVDÆORVM) (ラテン語=古代ローマ帝国における公用語=ユダヤ人の・王・ナザレトの・イエズス」と,ヘブライ語・ラテン語・ギリシア語で書かれた.(聖ヨハネ聖福音書19:19,20)

・当時の「ユダヤ人」とは,今日では「救世主(キリスト)信者」を指す.

・原罪を悔い改め,洗礼の秘蹟を受け,復活された救世主を信じる者は,永遠に生きる.
(訳注後記・洗礼の意義について)

*(注)悪魔は初め,唯一の創造主で在られる真の神の創造による,最も美しく優秀な大天使だった.しかし,被造物に過ぎない身分をわきまえず,自分の美と能力を誇って驕(おご)り高ぶり,神を超えようとする傲慢(ごうまん)の罪を犯して神に背いた為に,神によって天から地に落とされた.
訳注後記・聖書上の根拠)

・人の命(いのち)は肉体だけに限定されるのではない.
真の信仰は,霊魂における真の命である.→「人はパンだけで生きるのではない.神の口から出るすべてのことば(=真の信仰)によって生きる」(聖マテオ聖福音書:4・4 )

・地上の肉の世界を超越し復活した者は,復活された救世主の天の王国で,不滅の身体と霊魂を授かり,永遠に生きる
(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第24章全章,特に第38-43節を参照).

→(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第24章第38-43節)

第5部 復活・出現・昇天

使徒たちへの出現24・36‐43)

『36 ……イエズスは彼らの中に立ち,「あなたたちに平和」と言われたので
37 彼らは驚き恐れ,幽霊を見ているのだと思ったが
38 イエズスは言われた,「なぜ取り乱すのか.なぜ心に疑いを起こすのか
39 私の手と足を見よ.私自身だ.触れて確かめよ.あなたたちの見ている私のこんな肉と骨は霊にはない」.
40 そう言って,手と足を見せられると
41 彼らは喜びのあまり信じられず,驚いていると,イエズスは,「ここに何か食べ物があるか」と言われた
42 彼らが焼いた魚一片(きれ)(と一房の蜂蜜)を差し出すと
43 イエズスはそれを取り,彼らの前で食べ,(残りを取って彼らに与えられた).』


私たちの主,救世主(=キリスト)は御復活後こう仰せられた


『「18 私には天と地のいっさいの権威が与えられている

19 行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け,20 私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」.』
“18 And Jesus coming, spoke to them, saying: All power is given to me in heaven and in earth. 19 Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost. 

20 Teaching them to observe all things whatsoever I have commanded you: and behold I am with you all days, even to the consummation of the world”.

(つづく…)


聖マテオによる聖福音書:第16章

天からのしるし16・1-4)

『1 イエズスを試そうとして,ファリザイ人とサドカイ人がやってきて,天からのしるしを示してくださいと頼んだ
“1 AND there came to him the Pharisees and Sadduccees tempting: and they asked him to shew them a sign from heaven.
“1 Les pharisiens et les sadducéens abordèrent Jésus et, pour l'éprouver, lui demandèrent de leur faire voir un signe venant du ciel.
“1 Et accesserunt ad eum Pharisæi, et Sadducæi tentantes: et rogaverunt eum ut signum de cælo ostenderet eis.

2 イエズスは答えられた,「日暮れになると,〈空が真っ赤だから晴天になろう〉と言うし
2 But he answered and said to them: When it is evening, you say, It will be fair weather, for the sky is red.
2 Jésus leur répondit: Le soir, vous dites: Il fera beau, car le ciel est rouge; et le matin:
2 At ille respondens, ait illis: Facto vespere dicitis: Serenum erit, rubicundum est enim cælum.

3 明け方になると,〈空が赤黒くて曇っているから今日は天気が悪いだろう〉と言う.あなたたちは空のけしきを見分けられながら,*時のしるしを見分けられぬ
3 And in the morning: To day there will be a storm, for the sky is red and lowering. You know then how to discern the face of the sky: and can you not know the signs of the times?
3 Il y aura de l'orage aujourd'hui, car le ciel est d'un rouge sombre. Vous savez discerner l'aspect du ciel, et vous ne pouvez discerner les signes des temps.
3 Et mane: Hodie tempestas, rutilat enim triste cælum.

4 *邪悪な不義の代はしるしを求めるけれどもヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ」.そして彼らを打ち捨てて去っていかれた.』
4 A wicked and adulterous generation seeketh after a sign: and a sign shall not be given it, but the sign of Jonas the prophet. And he left them, and went away”.
4 Une génération méchante et adultère demande un miracle; il ne lui sera donné d'autre miracle que celui de Jonas. Puis il les quitta, et s'en alla”.
4 Faciem ergo cæli diiudicare nostis: signa autem temporum non potestis scire? Generatio mala et adultera signum quærit: et signum non dabitur ei, nisi signum Ionæ prophetæ. Et relictis illis, abiit”.

(注釈)

天からのしるし16・1-4)

3 メシアの時代.そのしるしはイエズスの奇蹟である.

4 ユダヤ人は天気を知っても,メシアの時代を知ろうとしない.イエズスが彼らに与えるしるしはその復活である.死の三日のち墓からよみがえり神性を証されるであろう.

(訳注後記)ファリザイ人,サドカイ人について.

ファリザイ人のパン種16・5 - 12)

『5 弟子たちは向こう岸へ行ったが,パンをもっていくのを忘れた.
“5 And when his disciples were come over the water, they had forgotten to take bread.
“5 Les disciples, en passant à l'autre bord, avaient oublié de prendre des pains.
“5 Et cum venissent discipuli eius trans fretum, obliti sunt panes accipere.

6 *するとイエズスは,「目を開けよ.ファリザイ人とサドカイ人とのパン種を信用するな」と言われた.
6 Who said to them: Take heed and beware of the leaven of the Pharisees and Sadducees.
6 Jésus leur dit: Gardez-vous avec soin du levain des pharisiens et des sadducéens. 
6 Qui dixit illis: Intuemini, et cavete a fermento Pharisæorum, et Sadducæorum. 

7 弟子たちは思案して,「私たちがパンをもってこなかったからだろう」と言い合った. 
7 But they thought within themselves, saying: Because we have taken no bread.
7 Les disciples raisonnaient en eux-mêmes, et disaient: C'est parce que nous n'avons pas pris de pains.
7 illi cogitabant intra se dicentes: Quia panes non accepimus. 

8 するとイエズスは,その考えを見抜いて言われた,「信仰うすい者たちよ,なぜパンがないと思案しているのか.
8 And Jesus knowing it, said: Why do you think within yourselves, O ye of little faith, for that you have no bread?
8 Jésus, l'ayant connu, dit: Pourquoi raisonnez-vous en vous-mêmes, gens de peu de foi, sur ce que vous n'avez pas pris de pains? 
8 Sciens autem Iesus, dixit: Quid cogitatis intra vos modicæ fidei, quia panes non habetis? 

9 まだわからないのか.五つのパンを五千人に分けて,その余りを幾かご集め,
 9 Do you not yet understand, neither do you remember the five loaves among five thousand men, and how many baskets you took up?
9 Etes-vous encore sans intelligence, et ne vous rappelez-vous plus les cinq pains des cinq mille hommes et combien de paniers vous avez emportés,
9 Nondum intelligitis, neque recordamini quinque panum in quinque millia hominum, et quot cophinos sumpsistis? 

10 七つのパンを四千人に分けて,その余りを幾かご集めたかを忘れたのか.
10 Nor the seven loaves among four thousand men, and how many baskets you took up?
10 ni les sept pains des quatre mille hommes et combien de corbeilles vous avez emportées?
10 neque septem panum in quattuor millia hominum, et quot sportas sumpsistis? 

11 私がパンのことを言ったのではないとなぜ悟らないのか.ただ,ファリザイ人とサドカイ人のパン種に気をつけよ」.
11 Why do you not understand that it was not concerning the bread I said to you: Beware of the leaven of the Pharisees and Sadducees?
11 Comment ne comprenez-vous pas que ce n'est pas au sujet de pains que je vous ai parlé? Gardez-vous du levain des pharisiens et des sadducéens. 
11 Quare non intelligitis, quia non de pane dixi vobis: Cavete a fermento Pharisæorum, et Sadducæorum? 

12 弟子たちは,気をつけよと言われたのがパン種のことではなくて,ファリザイ人とサドカイ人の教えであることを悟った.』
12 Then they understood that he said not that they should beware of the leaven of bread, but of the doctrine of the Pharisees and Sadducees”.
12 Alors ils comprirent que ce n'était pas du levain du pain qu'il avait dit de se garder, mais de l'enseignement des pharisiens et des sadducéens”. 
12 Tunc intellexerunt quia non dixerit cavendum a fermento panum, sed a doctrina Pharisæorum, et Sadducæorum”.

(注釈)

ファリザイ人のパン種16・5 - 12)

6 ヘブライ人の有識階級の間では,パン種を,下等本能,または他人を腐敗させるものの象徴として使っていた.


 ペトロの宣言16・13‐20)(注・第18節は下線部分)

『13 *フィリッポのカイザリア地方に来られたイエズスは,弟子たちに,「人々は人の子をだれだと言っているのか」と聞かれた
“13 And Jesus came into the quarters of Cesarea Philippi: and he asked his disciples, saying: Whom do men say that the Son of man is?
“13 Or Jésus vint aux environs de Césarée de Philippe, et il interrogeait ses disciples, disant : Quel est celui que les hommes disent être le Fils de l’homme ?
“13 Venit autem Iesus in partes Cæsareæ Philippi: et interrogabat discipulos suos, dicens: Quem dicunt homines esse Filium hominis? 

14 弟子たちは,「ある人は洗者ヨハネと言い,ある人はエリア,またある人はエレミアあるいは預言者の一人だと言っています」と答えた
14 But they said: Some John the Baptist, and other some Elias, and others Jeremias, or one of the prophets.
14 Ceux-ci répondirent: Les uns disent que c'est Jean-Baptiste; d' autres, Élie; d' autres, Jérémie, ou quelqu'un des prophètes. 
14 At illi dixerunt: Alii Ioannem Baptistam, alii autem Eliam, alii vero Ieremiam, aut unum ex prophetis. 

15 イエズスが,「ところで,あなたたちは私をだれだと思うのか」と言われると
15 Jesus saith to them: But whom do you say that I am?
15 Jésus leur demanda : Et vous, qui dites-vous que je suis? 
15 Dicit illis Iesus: Vos autem quem me esse dicitis? 

16 *シモン・ぺトロが,「あなたはキリスト,生ける神の子です」と答えた
16 Simon Peter answered and said: Thou art Christ, the Son of the living God.
16 Prenant la parole, Simon Pierre dit: Vous êtes le Christ, le fils du Dieu vivant. 
16 Respondens Simon Petrus dixit: Tu es Christus, filius Dei vivi. 

17 イエズスは,「*シモン・*バルヨナ,あなたは幸いな人だ.その啓示は*血肉からのものではなくて,天にまします父から出たものである
17 And Jesus answering, said to him: Blessed art thou, Simon Bar-Jona: because flesh and blood hath not revealed it to thee, but my Father who is in heaven.
17 Et Jésus répondant, lui dit: Tu es heureux, Simon, fils de Jean, car ni la chair ni le sang ne t'ont révélé ceci, mais mon Père qui est dans les cieux. 
17 Respondens autem Iesus, dixit ei: Beatus es Simon Bar Iona: quia caro, et sanguis non revelavit tibi, sed Pater meus, qui in cælis est. 

18 私は言う.あなたは*ペトロである.私はこの岩の上に私の教会を立てよう.*地獄の門もこれに勝てぬ
18 And I say to thee: That thou art Peter; and upon this rock I will build my church, and the gates of hell shall not prevail against it. **(John 1:42)
18 Aussi moi je te dis que tu es Pierre, et sur cette pierre je bâtirai mon Église, et les portes de l'enfer ne prévaudront point contre elle
18 Et ego dico tibi, quia tu es Petrus, et super hanc petram ædificabo ecclesiam meam, et portæ inferi non prævalebunt adversus eam

19 私はあなたに天の国のかぎを与える.あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ,地上で解くものはみな天でも解かれる」と言われた
19 And I will give to thee the keys of the kingdom of heaven. And whatsoever thou shalt bind upon earth, it shall be bound also in heaven: and whatsoever thou shalt loose upon earth, it shall be loosed also in heaven.
19 Et je te donnerai les clefs du royaume des cieux ; et tout ce que tu lieras sur la terre sera lié aussi dans les cieux ; et tout ce que tu délieras sur la terre, sera aussi délié dans les cieux. 
19 Et tibi dabo claves regni cælorum. Et quodcumque ligaveris super terram, erit ligatum et in cælis: et quodcumque solveris super terram, erit solutum et in cælis.

20 さらに,「私が*キリストだということをだれにも言うな」と弟子たちを戒められた.』
20 Then he commanded his disciples, that they should tell no one that he was Jesus the Christ”.
20 Alors il commanda á ses disciples de ne dire à personne qu'il était lui-même Jésus le Christ”.
20 Tunc præcepit discipulis suis ut nemini dicerent quia ipse esset Iesus Christus”.

(注釈)

ペトロの宣言16・13‐20)

13 この地方はヘロデ大王の第三子フィリッポの分国に属し,パレスチナのカイザリアとは別である.

16 ペトロはイエズスのメシア性ばかりでなく,その神性をも宣言する.

17‐19 ペトロは,信仰と道徳の方面において全教会の最高のかしら,最高審判者,最高の師である.その明らかな証拠が,17節以下のイエズスのことばにある.

* バルヨナとはアラマイ(=アラム)語で,ヨナの子の意.

* 「血肉」というセム的な言い方は,人間の弱くはかない面を特に表す表現法である.

18 イエズスの用語では「岩」をペトロという.公教会(=カトリック教会)は一つの建物であり,イエズスがその建築家,ペトロがその土台である.

* 「地獄の門」とは悪魔の力を意味する.

20 メシア(Messiah = Christ〈キリスト〉=救世主)のこと.


受難の預言16・21-23)

『21 この時以来,イエズスは,自分がエルサレムに行って長老,司祭長,律法学士たちから多くの苦しみを受け,そして殺され,三日めによみがえることを教え始められた
“21 From that time Jesus began to shew to his disciples, that he must go to Jerusalem, and suffer many things from the ancients and scribes and chief priests, and be put to death, and the third day rise again.
“21 Dès lors Jésus commença à faire connaître à ses disciples qu'il fallait qu'il allât à Jérusalem, qu'il souffrît beaucoup de la part des anciens, des principaux sacrificateurs et des scribes, qu'il fût mis à mort, et qu'il ressuscitât le troisième jour.
“21 Exinde cœpit Iesus ostendere discipulis suis, quia oporteret eum ire Ierosolymam, et multa pati a senioribus, et Scribis, et principibus sacerdotum, et occidi, et tertia die resurgere. 

22 するとペトロはイエズスを引き止めて,「主よ,そんなことは起こりませんように.いやいや,そんなことが身の上に起こることはありません」と言った
22 And Peter taking him, began to rebuke him, saying: Lord, be it far from thee, this shall not be unto thee.
22 Pierre, l'ayant pris à part, se mit à le reprendre, et dit: A Dieu ne plaise, Seigneur! Cela ne t'arrivera pas.
22 Et assumens eum Petrus, cœpit increpare illum dicens: Absit a te, Domine: non erit tibi hoc. 

 23 イエズスはふり向き,ペトロに向かって言われた,「サタン,引き退(さが)れ.*私の邪魔をするな.あなたが思っているのは神の考えではなく人間の考えだ」.』
23 Who turning, said to Peter: Go behind me, Satan, thou art a scandal unto me: because thou savourest not the things that are of God, but the things that are of men”.
23 Mais Jésus, se retournant, dit à Pierre: Arrière de moi, Satan! tu m'es en scandale; car tes pensées ne sont pas les pensées de Dieu, mais celles des hommes”.
23 Qui conversus, dixit Petro: Vade post me satana, scandalum es mihi: quia non sapis ea, quæ Dei sunt, sed ea, quæ hominum”.

(注釈)

受難の預言16・21-23)

23 イエズスは父の定めた道を歩かねばならぬ.ペトロは良いことと思ってしたのだが,それがイエズスの道の邪魔になった.


離脱16・24-28)

『24 そのとき,イエズスは弟子たちに言われた,「私に従おうと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を担(にな)って従え
“24 Then Jesus said to his disciples: If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross, and follow me.
“24 Alors Jésus dit à ses disciples: Si quelqu'un veut venir après moi, qu'il renonce à lui-même, qu'il porte sa croix et me suive. 
“24 Tunc Iesus dixit discipulis suis: Si quis vult post me venire, abneget semetipsum, et tollat crucem suam, et sequatur me. 

25 *(いのち)を救おうと思う者はそれを失い,私のために命を失う者はそれを受ける
25 For he that will save his life, shall lose it: and he that shall lose his life for my sake, shall find it.
25 Car celui qui voudra sauver sa vie la perdra ; mais celui qui la perdra sa vie à cause de moi, la trouvera. 
25 Qui enim voluerit animam suam salvam facere, perdet eam. qui autem perdiderit animam suam propter me, inveniet eam. 

26 よし全世界をもうけても,命を失えば何の役に立つだろう.また,人は命の代わりに何を与えられよう
26 For what doth it profit a man, if he gain the whole world, and suffer the loss of his own soul? Or what exchange shall a man give for his soul?
26 Et que serl à l'homme de gagner le monde entier, s'il perd son âme? Ou que donnera l’homme en échange de son âme? 
26 Quid enim prodest homini, si mundum universum lucretur, animæ vero suæ detrimentum patiatur? Aut quam dabit homo commutationem pro anima sua? 

27 人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て,その日各自の行いによって報いを与える
27 For the Son of man shall come in the glory of his Father with his angels: and then will he render to every man according to his works.
27 Car le Fils de l'homme viendra dans la gloire de son Père avec ses anges; et alors il rendra à chacun selon ses œuvres. 
27 Filius enim hominis venturus est in gloria Patris sui cum angelis suis: et tunc reddet unicuique secundum opera eius. 

28 まことに私は言う.ここにいる人のうちに,人の子がその王国とともに来るのを見るまで死なぬ者もいる」.』
28 Amen I say to you, there are some of them that stand here, that shall not taste death, till they see the Son of man coming in his kingdom”.
28 En vérité, je vous dis : Il y en a quelques-uns ici présents, qui ne goûteront pas de la mort jusqu'à ce qu'ilsvoient le Fils de l'homme enant dans son royaume”. 
28 Amen dico vobis, sunt quidam de hic stantibus, qui non gustabunt mortem, donec videant Filium hominis venientem in regno suo”.

(注釈)

離脱16・24-28)

25 ギリシャ語のプシケは,ヘブライ語のネフェシュのことである.これには,魂,生命(せいめい),人格という三つの意味がある.

28 イエズスの最後の来臨のことではない.「ここにいる私の弟子のうち何人かは,悪の力に耐えるほどに強くなった私の教会(地上におけるキリストの可見的神秘体)を見るまで死なないであろう」(大聖グレゴリウス).はたして,エルサレム滅亡のころまだ生きている者がいた.



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(聖書の引用を続けます)
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本投稿記事・第445回エレイソン・コメンツ「究極の難題 I」(2016年1月23日付)/ELEISON COMMENTS CDXLV (Jan. 23, 2016) : "CONUNDRUM SUPREME I" (解説付)は2016年3月9日21時00分に掲載されました.
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2014年12月13日土曜日

387 区別は必要 12/13

エレイソン・コメンツ 第387回 (2014年12月13日) 

    私が肺癌に罹っていなくても肝臓癌で死ぬだろうという公理(11月29日付エレイソン・コメンツをご参照ください)は対応が厄介です (わたくしが はいがんに かかって いなくても かんぞうがんで しぬだろう という こうり〈じゅういち がつ にじゅうく にち づけ えれいそん・こめんつを ごさんしょう ください〉は たいおうが やっかいです)( "The principle that cancer of the liver will kill me without my necessarily having lung cancer (cf. the EC of Nov. 29) is annoying, …" ).何故なら,私は癌を一纏めにして非難する訳には行かず,肺癌と肝臓癌を区別する必要があるからです(なぜなら,わたくしは がんを ひとまとめに して ひなんする わけには いかず,はいがんと かんぞうがんを くべつする ひつようが あるから です)( "… because it means that I may need to distinguish instead of indulging myself in blanket condemnations, …" ).だが,物事を区別するというのは常識ですし,現実に即した事です(だが,ものごとをくべつするというのはじょうしきですし,げんじつにそくしたことです)( "… but distinctions are common sense and correspond to reality." ).従って,今日のように世界中が混乱している時(したがって,こんにちの ように せかいじゅうが こんらん している とき)( "So in today's universal confusion, …" ),現実に即したままでいようとすれば,私は善と悪の混合物は全体として悪だが,善の部分を個々に見た場合,それぞれの部分が悪いわけではないし,それは善の部分の良さが全体の良さを意味するわけではないのと同様だと認識しなければならない場合があるでしょう(げんじつに そくした ままで いようと すれば,わたくしは ぜんと あくの こんごうぶつは ぜんたい として あくだが,ぜんの ぶぶんを ここに みた ばあい,それぞれの ぶぶんが わるい わけでは ないし,それは ぜんの ぶぶんの よさが ぜんたいの よさを いみする わけでは ないのと どうようだと にんしきしなければ ならない ばあいが あるでしょう)( "… to stay in touch with reality there are times when I need to recognize that a mixture of good and bad will be bad as a whole, but that does not mean that its good parts, as parts, are bad, any more than that the goodness of the good parts means that the whole is good." ).

    新式ミサ聖祭( "the Novus Ordo Mass" )を例にして考えてみましょう(しんしき みさせいさいを れいに して かんがえて みましょう)( "Take for instance the Novus Ordo Mass." ).新式ミサ聖祭の新式典礼( "The new Rite" )は全体としてカトリック教の本質的真実(=真理)(〈聖体の秘蹟において〉唯一の真の神の御独り子また救世主で我らの主イエズス・キリストに在す三位一体〈=聖父・聖子・聖霊〉の神の実在〈 "the Real Presence" 〉,犠牲の生け贄〈 "the Sacrifice" 〉,犠牲の生け贄を奉献する司祭職〈 "the sacrificing priesthood" 〉など)の表現を著しく弱める為(しんしき みさせいさいの しんしき てんれいは ぜんたいとして かとりっく きょうの ほんしきてき しんじつ〈=しんり〉〈〈せいたいの ひせきに おいて〉 ゆいいつの まことの かみの おんひとりご また きゅうせいしゅで われらの しゅ いえずす・きりすとに まします さんみ いったい〈=ちち・こ・せいれい〉の かみの じつざい,ぎせいの いけにえ,ぎせいの いけにえを ほうけんする しさいしょく など〉の ひょうげんを いちじるしく よわめる ため)( "The new Rite as a whole so diminishes the expression of essential Catholic truths (the Real Presence, the Sacrifice, the sacrificing priesthood, etc. ) " ),全体として見れば良くないので司祭はそれ(=新式典礼)を用いるべきではないですし(ぜんたい として みれば よくないので しさいは それ〈=しんしきてんれい〉を もちいる べき ではない ですし),( "that it is as a whole so bad that no priest should use it," ),カトリック信徒はそれ(=新式ミサ典礼に則ったミサ聖祭)に出席すべきではありません(かとりっく しんとは それ〈=しんしき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〉に しゅっせき すべき では ありません)( "… nor Catholic attend it." ).しかし,そのことは新式ミサ聖祭の一部の形式としてのパンと葡萄酒の聖変化の秘蹟的形式( "the sacramental Form of Consecration" )までもが良くなく,無効だという事を意味しません(しかし,そのことは しんしき みさせいさいの いちぶの けいしき としての ぱんと ぶどうしゅの せいへんかの ひせき てき けいしき までもが よくなく,むこうだ という ことを いみ しません)( "But that does not mean that that part of the Mass which is the sacramental Form of Consecration of the bread and wine is bad or invalid." ).新式ミサ聖祭における新式典礼で用いられる「これは我が体なり」( “This is my Body” )という言い方は間違いなく有効ですし,「これは我が血の杯なり」( “This is the chalice of my Blood” )は極めて有効に近いでしょう(しんしき みさ せいさいに おける しんしき てんれいで もちいられる「これは わが からだ なり」という いいかたは まちがい なく ゆうこう ですし,「これは わが ちの さかずき なり」は きわめて ゆうこうに ちかい でしょう)( " “This is my Body” is certainly valid, “This is the chalice of my Blood” is most likely to be valid, …" ).全体として反カトリック的( "so uncatholic" )である新式典礼だからといって,それが無効になることはありません(ぜんたい として はん かとりっく てき である しんしき てんれい だからと いって,それが むこうに なる ことは ありません)( "… it is certainly not invalidated by the new rite as a whole being so uncatholic." ).したがって,私が新式ミサ聖祭( "the new Mass" )は常に避けなければならないと言う場合( "Therefore if I say that the new Mass must always be avoided, …" ),私は真実を述べていますが( "I am telling the truth, …" ),もし新式ミサ聖祭は常に無効だと言えば,私は真実を語っていないことになり( "… but if I say it is always invalid, I am not telling the truth and …" ),早かれ遅かれ誇張発言の為罰金を払わされる事になるでしょう( "… sooner or later I will pay the penalty for exaggerating." )(したがって,わたくしが しんしき みさ せいさいは つねに さけなければ ならないと いう ばあい,わたくしは しんじつを のべて いますが,もし しんしき みさ せいさいは つねに むこうだ といえば,わたくしは しんじつを かたって いない ことに なり,はやかれ おそかれ こちょう はつげんの ため ばっきんを はらわされる ことに なる でしょう)

    新式典礼( "the new Rite" )の司祭叙階 ( "priestly Ordination" )(訳注3・1 ・第二バチカン公会議以前の旧典礼では「品級」と呼ばれる)についても同じことが言えます(しんしき てんれいの しさい じょかいに ついても おなじ ことが いえます)( "Similarly with the new Rite of priestly Ordination." ).新式典礼は全体としてカトリック教司祭職( "the Catholic priesthood" ),とりわけ犠牲の生け贄を奉献する司祭職( "a sacrificing priesthood" )についての諸諸の本質的真実の表現を著しく減らしているので良くありませんが(しんしき てんれいは ぜんたいとして かとりっく きょう しさい しょく,とりわけ ぎせいの いけにえを ほうけん する しさいしょく に ついての もろもろの ほんしつ てき しんじつの ひょうげんを いちじるしく へらしているので よく ありませんが)( "The new Rite as a whole has severely diminished the expression of essential truths of the Catholic priesthood, especially that it is a sacrificing priesthood, …" ),新ラテン語版では旧ラテン語版に比べ(「ut」の代わりに「et」が使われ)強められているものの,新式典礼の秘蹟の形式( "the sacramental Form" )に合致している部分は有効です(しん らてんご ばん では きゅう らてんご ばんに くらべ〈「う(と)」のかわりに「え(と)」が つかわれ〉つよめられて いる ものの,しんしき てんれいの ひせきの けいしきに がっち している ぶぶんは ゆうこう です)( "… but that part of the new Rite which is the sacramental Form is, at any rate in the new Latin version, if anything stronger (by the “et” instead of “ut”) than the old Latin version." ).したがって,(新式典礼で)叙階の秘跡を授ける司教( "the ordaining bishop" )が真の司教で真の秘蹟的意向( "the true sacramental Intention" )を持つとすれば,新式典礼において叙階の秘跡を受けた司祭は誰も真の司祭であり得ないというのはまったく真実でありません(したがって,〈しんしき てんれいで〉じょかいの ひせきを さずける しきょうが まことの しきょうで まことの ひせき てき いこうを もつと すれば,しんしき てんれいに おいて じょかいの ひせきを うけた しさいは だれも まことの しさいで あり えないと いうのは まったく しんじつで ありません)( "Therefore assuming that the ordaining bishop is a true bishop and had the true sacramental Intention, it is simply not true to say that no priest ordained in the new Rite can be a true priest." ).もし,それが真の司祭でないと言い張る人がいれば,その人は真実から逸脱したとして,早かれ遅かれ何らかの罰を受けるでしょう(もし,それが まことの しさい でないと いいはる ひとが いれば,その ひとは しんじつ から いつだつ した として,はやかれ おそかれ なんらかの ばつを うける でしょう) ( "And if one says it, sooner or later one will pay some penalty for departing from the truth." ).

    この二つの新式典礼( "these two new Rites" )が,全体としては,非カトリック的だ( "the de-catholicisation" )ということから(この ふたつの しんしき てんれいが,ぜんたいとしては,ひ かとりっく てきだ という ことから)( "Now from the de-catholicisation of these two new Rites as wholes, …" ),それらの諸諸の秘蹟的形式 ( "sacramental Forms" ) に合致している部分の有効性は別にして(それらの もろもろの ひせきてき けいしきに がっち している ぶぶんの ゆうこうせいは べつにして)( "… while one may not argue that their sacramental Forms are invalid, …" ),それは司祭や司教の秘蹟的意向( "sacramental Intention" )を結局は台無しにして無効にさせると論ずる者がいるでしょう(それは しさいや しきょうの ひせき てき いこうを けっきょくは だいなし にして むこうに させると ろんずる ものが いる でしょう)( "… one may well argue that in the end they will undermine and invalidate the priest's or bishop's sacramental Intention, …" ).だが,この論議は,白か黒かではなく,悲しいかな,灰色だという意味で違った性格を帯びます(だが,この ぎろんは,しろか くろか では なく,かなしい かな,はいいろだ という いみで ちがった せいかくを おびます)( "… but that is a different argument, no longer in black and white but, alas, in grey." ).この議論は,諸諸の非カトリック的な典礼( "de-catholicised Rites" )を常時使っていると,教会がそれらの諸諸の典礼を通して何を為すか( "what the Church does with those Rites " )についての司祭や司教の考えが次第に変わって(=改変されて)しまい(この ぎろんは,もろもろの ひ かとりっく てきな てんれい をじょうじ つかって いると,きょうかいが それらの しょてんれいを とおして なにを なすか に ついての しさいや しきょうの かんがえが しだいに かわって〈=かいへん されて〉しまい)( "For indeed the argument is that the steady use of de-catholicised Rites will slowly so alter the priest's or bishop's concept of what the Church does with those Rites …" ),最終的には司祭や司教は教会が何を為すかについてのカトリック教的意向( "the Catholic Intention" )(さいしゅうてき には しさいや しきょうは きょうかいが なにを なすかに ついての かとりっくきょう てき いこう)( "… that in the end he will no longer have the Catholic Intention to do what the Church does, …" ),即ちその秘蹟が有効である為に必要不可欠な意向を持たなくなってしまう,というものです(すなわち その ひせきが ゆうこう である ために ひつよう ふかけつな いこうを もたなくなって しまう,というもの です)( "Intention necessary for validity of the sacrament." ).言い換えれば,白は灰色を通して徐々に黒に変わるという訳です(いいかえれば,しろは はいいろを とおして じょじょに くろに かわる という わけです)( "In other words, white will only gradually turn through grey to black." ).だが,全能の神以外に,灰色が黒に変わる事を確実に感知できる者がいるでしょうか?(だが,ぜんのうの かみ いがいに,はいいろが くろに かわる ことを かくじつに かんちできるものがいるでしょうか?)( "But who, other than Almighty God, can know for certain when the grey turns into black ? " )もう一度繰り返します.私は真実を見分け,知ろうと望めば,注意して掛からなければなりません(もういちど くりかえします.わたくしは しんじつを みわけ,しろうと のぞめば,ちゅういして かからなければ なりません)( "Once more, I must take care if I want to discern and know the truth." ).

    この白と黒との間の言葉の遊び(この しろと くろとの あいだの ことばの あそび)( "This playing between white and black, …" ),この曖昧さは(この あいまいさ は)( "… this ambiguity, …" ),まさしく公会議派による諸諸の秘蹟的典礼( "sacramental Rites" )の改革に秘められた魔術的なものです(まさしく こうかいぎは に よる もろもろの ひせきてき てんれいの かいかくに ひめられた まじゅつ てきな もの です)( "… is what is properly diabolical in the Conciliar reform of the sacramental Rites." ).真実を語るとすれば,私は公会議派のミサ聖祭がカトリック教の諸諸の秘跡を壊してしまったとはまだ言いません(しんじつをかたるとすれば,わたくしは こうかいぎは の みさ せいさいが かとりっく きょうの もろもろの ひせきを こわして しまった とは まだ いいません)( "If I wish to tell the truth, I will not yet say that they have destroyed the Catholic sacraments, …" ).だが,それらのミサ聖祭はカトリック教の諸諸の秘跡を確実に台無しにしています(だが,それらの みさ せいさいは かとりっく きょうの もろもろ の ひせきを かくじつに だいなしに して います)( "… but they are certainly undermining them, …" ).したがって,私はカトリック信仰を守り続けようと望むなら,それらのミサ聖祭を全体として確実に避けようとするでしょう(したがって,わたくしは かとりっく しんこうを まもり つづけようと のぞむなら,それらの みさ せいさいを ぜんたいとして かくじつに さけようと する でしょう)( "… and so if I wish to keep the Catholic Faith, I will certainly as a whole avoid them. " ).

    キリエ・エレイソン.
    (きりえ・えれいそん)
    (主よ,憐れみ給え.)
    (しゅよ,あわれみたまえ)
    ( "Kyrie eleison." )

    公会議は
    危険な灰色から始めて
    やがて黒に変えます.
    (こうかいぎは
    きけんな はいいろ から はじめて
    やがて くろに かえます.)

    ( "The Council works
    from dangerous greys to black." )


    カトリック信徒は
    道を踏み外さないよう
    白を追求します.
    (かとりっくしんとは
    みちを ふみはずさない よう
    しろを ようきゅう します.)

    ( "A Catholic seeks out
    white to stay on track." )


    リチャード・ウィリアムソン司教






* * *
(注:本投稿記事〈第387回エレイソン・コメンツ「区別は必要(くべつは ひつよう)」"DISTINCTIONS NECESSARY" 〉は2015年3月7日23:59時に掲載されました.)

2011年8月26日金曜日

悪意なき無知

エレイソン・コメンツ 第213回 (2011年8月13日)

読者の一人からとても重要な質問が寄せられました.「善良なプロテスタント信者が善良な生活を続けながらもカトリック信仰は誤っていると固く信じ,カトリック教会へ入ることさえ考えもしないとしたら,それでも彼は救われるでしょうか? 」 この質問は死活にかかわるほど重大です(訳注・原文 “The question is vital.” )(ラテン語の “vita” は “life” (命)を意味します).無数の人々にとって永遠の生死にかかわる問題です.

お答えとして先(ま)ずはじめに言えることは,人は誰しも臨終(りんじゅう)を迎え神の審判席に瞬時(しゅんじ)に座ったとき神は完全なる正義と完全なる慈悲をもって審判を下されるということです.人が他人はもとより自分にさえ隠す心の奥底を神だけはご存知です.人間は誤った判断をするかもしれませんが,神は決して判断を誤ることはありません.したがって,「善良なプロテスタント信者」は自分では地獄に墜ちると思っても神には救われます.神はまさしく彼がそれに値することをご存じだからです.

そうは言っても,もし神が私たちすべてが救われることをお望みになり(ティモテオへの第一の手紙2章4節)(訳注後記),私たちに地獄の苦しみを信じるようお求めになるなら(マルコ聖福音書16章16節)(訳注後記),神は私たちが自らの霊魂を救うため何を信じ何をなすべきかをお知らせになられるでしょう.では「善良なプロテスタント信者」は何を信じなければならないでしょうか?

最低限度でも,人が救われるには神の存在を信じ,神は善人に見返り(報い)を与え悪人には罰を与えることを信じなければなりません(ヘブライ人への手紙11章6節)(訳注後記).たとえ「善良なプロテスタント信者」が善良な生き方をしてきたとしても,そのことを信じなければ彼は救われることはできません.だが,多くのカトリック神学者はさらにつき進めて,人が救われるには聖三位(一体) “Holy Trinity” と救い主(救世主)としてのキリスト “Christ as Redeemer” を信じなければならないと言います.カトリック神学者たちの言うことが正しいとすれば,自らの魂を救えない「善良なプロテスタント信者」の数は増えるかもしれません.

さらに神は彼らに対し,神の発する(訳注・神がキリストによるその設立当初からカトリック教会に託した)真理 “Truth that comes from him (=God)” を学ぶ機会を彼らが人生でどれほど持ったかどうか次第でそれによって,それら(上述の)二つの絶対的なカトリック教会の基本教義以上のものを求めるかもしれません.もし彼らがカトリック信仰 “Catholic Faith” についてほかのことを何も知らないとしたら,それに出会う機会がなかったということでしょうか? そうだったかも知れませんがおそらくそのようなことはないでしょう.たぶん出会う機会はあったでしょう.私は母が「善良なプロテスタント信者」だった自分の父親の出すあらゆる質問にカトリックの神父が答えてくれたことがあったと感嘆まじりに語っていたことを思い出します.ただ,私の知る限りその後どうなったか分かりません.「善良なプロテスタント信者」たちが,たとえただ一度でもカトリック教の真理に出会う機会があったとして,それをフォローアップ(追跡・追求・探究)しなかったのはなぜでしょうか? その真理がひどく下手に説かれたのでない限り,彼らはそれを事実上拒(こば)んだことになります “they were in effect rejecting truth” .彼らはなんの勘違(かんちが)いもなくそれを拒みえたでしょうか? そうでなければ,ただ悪意なくあるいは意図的に拒んだのでしょうか? 「善良なプロテスタント信者たち」は,私たちすべてと同じように,自分のことを悪意がないと考えがちです.ただし,神を欺(あざむ)くことは誰にもできません.

「善良なプロテスタント信者」が救われるためにしなければならないことがもうひとつあります.彼は(訳注・真の神が御子キリストにより建てられた唯一の教会たる絶対的な)カトリック教会(訳注後記)がその不(可)謬性(ふ〈か〉びゅうせい)において道徳的に私たちに求めること全て “the Catholic Church infallibly requires of us in morals” について必ずしも知らないかもしれませんが,少なくとも生まれつき備えた良心という自然の光 “the natural light of his inborn conscience” を持っているはずです.原罪を持つ人間がカトリック教会の秘跡の助けなしに良心の自然の光に従うのは “with no help from the Catholic sacraments to follow that natural light of one’s conscience” 実に困難なことかもしれません.だが,もし本当にそれを大きく踏み外(ふみはず)したり真実から離れるほどねじ曲げてしまえば “seriously violate it or twist it out of true” ,それにより簡単に(たやすく,あっけなく)死に値する罪 “mortal sin” の中に生きて死ぬこととなり,それはいかなる霊魂も救われない状態です.繰り返しますが,「善良なプロテスタント信者」はカトリック教徒たちの知り得る神の法の完全無欠さ “the fullness of God’s law as Catholics can know it” について(訳注・最後の審判のとき神の御前で)知らない(知らなかった)と主張するかもしれませんが,はたしてその無知 “ignorance” は真に「揺るぎない」もの,つまり,悪意のないものでしょうか? (原文: “truly invincible”, i.e. innocent? ) 例えば,彼は人為的な受胎調節手段 “artificial means of birth control” (訳注・避妊具・避妊薬を使用して避妊すること)が神にとってひどく不愉快なことであることを本当に知らないのでしょうか,それとも実際はそのこと(訳注・神が禁じている〈自然法に反する〉という事実すなわち真理)を知りたくないと思って済ませているのでしょうか?

神はご存知です.神は審判を下されます.願わくは神が「善良なプロテスタント信者たち」すべてと私たちすべてにご慈悲を賜(たまわ)らんことを.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフのはじめの訳注:
新約聖書・ティモテオへの第一の手紙:第2章4節

『*すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)

* 〈新約〉ローマ人への手紙(9・18,21)の解釈を助ける神学的に重要なことば.

* * *

第3パラグラフの二つ目の訳注:
マルコ聖福音書:第16章16節

信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.』

* * *

第4パラグラフの訳注:
ヘブライ人への手紙:第11章6節

『*信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない.神に近づく者は,神が存在されること,神を求める者に報いを賜うことを信じねばならぬからである.』

(注釈)

* 〈旧約〉知恵の書13・1.救いのためには,神の存在と,報いを下す御者を信じなければならない

* * *

第6パラグラフの訳注:

「神の教会のしるし」(使徒信経より):
“Marks of the Church” (…Credo, the Apostolic Creed):

唯一・聖・普遍(公)・使徒継承(ローマ教皇〈使徒ペトロの後継者〉+カトリック司教)
ONE, HOLY, CATHOLIC, APOSTOLIC
→ 「カトリック教会」=「公教会」

* * *

2009年11月30日月曜日

比類なき過失=その2

エレイソン・コメンツ 第125回(2009年11月28日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.

人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.

一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.

さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.

ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.

ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年11月23日月曜日

比類なき過失=その1

エレイソン・コメンツ 第124回 (2009年11月21日)

第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.

読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.

したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.

他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通してから秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.

この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年11月2日月曜日

正当な司教?

エレイソン・コメンツ 第121回(2009年10月31日)

新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.

その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.

枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?

「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.

新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教