2009年11月30日月曜日

比類なき過失=その2

エレイソン・コメンツ 第125回(2009年11月28日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.

人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.

一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.

さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.

ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.

ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教