2012年7月29日日曜日

263 公会議感染症 7/28

エレイソン・コメンツ 第263回 (2012年7月28日)

(カトリック)信仰を持ち続けたいと願うカトリック信徒たちが,たとえば王たるキリスト会や聖ペトロ会へ所属しているため公会議派教会の一部とみなされる司祭がとり行う(=挙行〈きょこう〉する)トレント(公会議)式ミサ聖祭に参列することは許されるでしょうか( "May Catholics who wish to keep the Faith attend a Tridentine Mass celebrated by a priest who is part of the Conciliar Church, for instance by his belonging to the Institute of Christ the King or to the Fraternity of St Peter ? " )?(訳注後記) 答えは原則として,それがたとえトレント式ミサ聖祭であり立派にとり行われるとしても,参列は許されません( "The answer has to be that, as a rule, a Catholic may not attend such a Mass, even if it is a Tridentine Mass, and even if it is worthily celebrated. " ).この一見(いっけん)厳格(げんかく)なルールを正当化するものは何でしょうか( "What can be the justification for such a seemingly strict rule ? " )?

基本的な理由はカトリック信仰の方がミサ聖祭(に参列する〈=与〈あずか〉る〉こと)よりも大切なことだからです( "The basic reason is that the Catholic Faith is more important than the Mass. " ).というのは,私がもし自(みずか)らの過失によることなく長い間ミサ聖祭に与ることができないとしても,カトリック信仰を持ち続けているなら私は自らの霊魂を救うことができますが,反対に,私がこの信仰を失いながらも何らかの理由でミサへ聖祭の参列を続けているとすれば,私は自らの霊魂を救うことができないからです.(「信仰なしに神をお喜ばせするのは不可能です」- 新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節を参照)( "…For if through no fault of my own even for a long time I cannot attend Mass but I keep the Faith, then I can still save my soul, whereas if I lose the Faith but for whatever reason go on attending Mass, I cannot save my soul (“Without faith it is impossible to please God” – Heb. XI, 6) " ).(訳注後記).したがって,私は自らの信仰を生かし続けるためミサ聖祭に与ります.そして,信じることと崇(あが)めること(=信仰と崇拝〈すうはい=礼拝〉)は一体のもの( "…belief going with worship, …" )ですから,私は真のカトリック信仰を持ち続けるためには真のミサ聖祭に与ります.ミサ聖祭に参列するためにカトリック信仰を持ち続けるのではありません( "Thus I attend Mass in order to live my Faith, and, belief going with worship, I attend the true Mass in order to keep the true Faith. I do not keep the Faith in order to attend Mass." ).

もしトレント式ミサ聖祭の挙行が私の信仰を脅(おびや)かすような状況で行われるとすれば,その度合いの深刻さによっては,私はそのようなミサ聖祭へは参列しないということです( "It follows that if the celebration of a Tridentine Mass is surrounded by circumstances that threaten to undermine my faith, then depending on the gravity of the threat, I may not attend such a Mass. " ).分離した正教会の神父たち( "schismatic Orthodox priests” )がとり行う聖体礼儀(訳注・カトリック教会のミサ聖祭に相当する.詳しくは後記)は有効かもしれません.だが,カトリック教会が信徒が大罪(だいざい)の痛み( "on pain of grave sin" )を感じながらそのミサに参列するのを本気で禁じてきたのは同じ理由によるものです( "That is why Masses celebrated by schismatic Orthodox priests may be valid, but the Church in her right mind used to forbid Catholics to attend on pain of grave sin,…" ).なぜなら,信じることと崇めること(=信仰と崇拝)が一体( "belief and worship going together" )であるからには,非カトリック宗教の形式による崇拝( "the non-Catholic worship" )はカトリック信仰を脅かすからです( "…because, belief and worship going together, the non-Catholic worship threatened the Catholics’ faith. " ).ところで,正教会は数世紀もの間にカトリック教会に多大な害をもたらしましたが,その害悪の度合いは公会議主義がわずか数十年の間にカトリック教会にもたらした荒廃(こうはい)に比べるべくもないのではないでしょうか( "…Now Orthodoxy has in the course of centuries caused huge harm to the Catholic Church, but can anything compare with the devastation wrought upon that Church within mere tens of years by Conciliarism ? " )? カトリック信徒が正教会の状況下でとり行われる(カトリック教)ミサ聖祭への参列を禁じられるなら,公会議の状況下でとり行われるトレント式ミサ聖祭への参列をカトリック教会が本気で禁止することにならないでしょうか( "If then Catholics were forbidden to attend Mass in Orthodox circumstances, would not the same Church in her right mind forbid to attend a Tridentine Mass celebrated in Conciliar circumstances ? " )?

では,公会議の状況下とは何を意味するのでしょうか? 短期間にせよ長期間にせよ,第二バチカン公会議はカトリック教会にとって必ずしも大災害と言えないのではないかと私に思わせるようなあらゆる状況というのがそれに対する答えでなければなりません( "…The answer must be, any circumstances which, over a shorter or longer period of time, are going to make me think that the Second Vatican Council was not an utter disaster for the Church.…" ).たとえば、魅力的で信心深い神父が新旧いずれのミサを執り行うことになんら問題意識を持たず,まるで当の公会議には深刻な問題などなにもないように説教をし,ふるまうような場合がそのような状況にあたるでしょう( "…Such a circumstance might be a charming and believing priest who has no problem with celebrating either the new or the old Mass, and who preaches and acts as though the Council presents no serious problem.…" ).公会議主義はきわめて危険です.なぜなら,それはあまりにもよくカトリック教に似ているように見せかけることができるため,私は全く ――あるいは,ほとんど知らない間に―― 信仰を失うことになりうるからです( "…Conciliarism is so dangerous because it can so be made to seem Catholic that I can lose the Faith without – or almost without – realizing it. " ).

むろん常識的には様々(さまざま)な特殊(とくしゅ)状況には配慮すべきかもしれません.たとえば,いま公会議派教会の罠(わな)にはまっている善良な司祭にとっては,私が彼のとり行う真のミサ聖祭に参列してあげることで,彼がそこから抜(ぬ)け出す道を歩き出すよう励ます必要があるかもしれません( "Of course common sense will take into account a variety of special circumstances. For instance a good priest trapped for now within the Conciliar church may need encouragement to start on his way out of it by my attending his first celebrations of the true Mass. " ).だが,たとえ真のミサ聖祭でも,公会議を背景にとり行われるのであれば,私はそれとかかわりを持つことはできないという原則を変えることはできません( "But the general rule must remain that I can have nothing to do with even the true Mass being celebrated in a Conciliar context. " ).このことを確かめるには,ローマ(教皇庁権威当局)が善き牧者会( "the Institute of the Good Shepherd" )に対し真のミサを行うことを独占的に認めたことに留意してみてください( "For confirmation, notice how Rome began by allowing the Institute of the Good Shepherd to celebrate exclusively the true Mass, …" ).ローマは同会がひとたび公式の針(訳注・=釣り針,"the official hook".=「実務的合意=実務協定」)を飲み込めば,最終的にはそれを公会議の(捕獲用の)網(あみ, "Conciliar net" )に取り込めると確信したからそうしたのです( "…because Rome knew that once the Institute had swallowed the official hook, eventually Rome could be sure of pulling the Institute into their Conciliar net. " ).確かにそのとおりで,ローマがその結果を得るのにわずか5年しかかかりませんでした( "Sure enough. It took only five years. " ).

聖ピオ十世会がローマ教皇庁と教理上の合意なしに実務的な合意を結んだときに起こりうる危険はまさしくここにあります( "That is the danger of any practical agreement without a doctrinal agreement between Rome and the Society of St Pius X. " ).ローマは公会議的教理を信じる限り実務的な合意を使って聖ピオ十世会を公会議へ引きずり込むはずです( "So long as Rome believes in its Conciliar doctrine, it is bound to use any such agreement to pull the SSPX in the direction of the Council, " ).そして,聖ピオ十世会のあらゆるミサ聖祭は,すぐにではなくても,少なくとも時の経過(けいか)とともに公会議的なものに変わっていくでしょう( "…and the context of every SSPX Mass would become Conciliar, if not rapidly, at least in the long run. " ).備えあれば憂(うれ)いなしです( "Forewarned is forearmed. " ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:

新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE HEBREWS XI, 6

『信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない.神に近づく者は,神が存在されること,神を求める者に報(むく)いを賜(たま)うことを信じねばならぬからである.』

“But without faith it is impossible to please God.
For he that cometh to God, must believe that he is, and is a rewarder to them that seek him.”

(6節の注釈)

旧約聖書・知恵の書:第13章1節参照.救いのためには神の存在と,報いを下す御者(おんもの)を信じなければならない.

旧約聖書・知恵の書:第13章1節→
『何はさておき,神を知らない人はだれでも,心底からの愚か者だ.
彼らは,目に見えるよいものを通して,「存在するもの」を知ろうとせず,業(わざ)に目をとめても,それをつくった方を認めない.

彼らが,この世を支える神々として認めたのは,
火とか,風とか,速やかな空気とか,天界とか,波濤(はとう)とか、天からの光とかだった.

それらのものの美に心を奪(うば)われて,それを神々だと思ったなら,
それらの主が,はるかにそれにまさるものだと知らねばならない.
それをつくったのは,美の創造主ご自身だからである.

また,それらの力と働きに感嘆したのなら,
それをつくった方が,いかに勢力あるかを推(お)しはからねばならない.

被造物の偉大さと美は,
そのつくり主を,類比(るいひ)によって推しはからせる.…

だが,彼らには対して責任がないかもしれぬ.
彼らが迷(まよ)ったのは,おそらく神を求め神を見いだそうとしたからなのだ.

み業を調べて,神を見いだそうと努力したが,
彼らは,目に見えるもののとりことなった.
それが実に美しかったので.

だが,彼らを許すわけにはいかぬ.

宇宙を探(さぐ)れるほどの
知識があったのなら,なぜもっと早く,それらのものの主を見いださなかったのか.

人間の手がつくり出したもの,
精製された金や銀,
生き物の像,
昔の人が彫(ほ)った無価値な石などを,
神々として拝(おが)んだ人々は実に不幸だ.
彼らは,死物に希望をかけたのだから.…


(訳注の続きを,後から追補いたします.)


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2012年7月22日日曜日

262 弱められる抵抗 7/21

エレイソン・コメンツ 第262回 (2012年7月21日)

(訳注・7月14日の)土曜日に終了した聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" = "SSPX" ) 本部会議(=総会, "General Chapter" )から出てきた朗報は,自殺の瀬戸際(せとぎわ)に追いやられている( "led to the brink of suicide" )同会が,一時的にそれを免(まぬか)れる( "…has been given a reprieve by the Chapter. " )という結論でした.しかし,全世界に公表されたインタビューで語られた次の言葉が,今後さらに6年間在位(ざいい)する "SSPX" 指導者たちの胸の内を示すものだとしたら,自殺の一時延期(いちじえんき)が続くよう増々(ますます)祈らないわけにはまいりません.以下にその言葉を示します.(インターネット上でまだアクセス可能かどうかわかりませんが -- カトリック・ニュース・サービス( "Catholic News Service" )をご覧になってください.):--

「多くの人々は例の公会議(第二バチカン公会議)を理解しているが,その理解は間違っています.そして,今ではそのことをローマ(教皇庁)の人たちが公言しています(“Many people have an understanding of the Council (Vatican II) which is a wrong understanding, and now we have people in Rome who say it.…” ).私が思うに,例の協議(ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間で2009年から2011年まで行われた「教理上の論議」)の席で( "SSPX" 内の)私たちがその公会議から出てきたものだと非難してきた多くのことは実は同公会議からではなく,一般の人々の理解からで出てきたものだと言っても差し支えないでしょう("…We may say, in the Discussions (between Rome and the Society of St Pius X, from 2009 to 2011), I think, we see that many things which we (in the SSPX)would have condemned as coming from the Council are in fact not from the Council, but from the common understanding of it. " ).」

この言葉について論評するとすれば,私たちは第二バチカン公会議に立ち戻らなければなりません.同会議の出した16の文書は真実と誤(あやま)りの両方を含んでおり,きわめて曖昧(あいまい)かつ矛盾(むじゅん)しています( "Containing both truth and error, its 16 documents are profoundly ambiguous and contradictory. " ). "SSPX" はルフェーブル大司教 "Archbishop Lefebvre" の教えに従い,同公会議の諸文書に真実は一切ないなどと主張したことはありませんが,重大な誤りを含んでいるとつねに非難してきました( "Following Archbishop Lefebvre, the SSPX has never said that the documents contain no truth, but it has always accused them of containing serious errors, …" ).一例を挙(あ)げれば,国家にはカトリック以外の宗教を抑制(よくせい)する権限はないとする公会議の原則です( "…for instance the doctrine that the State has no right to repress non-Catholic religions. " ).公会議派ローマ教皇庁( "Conciliar Rome" )は,たとえば諸文書に含(ふく)まれる「人はすべて宗教に関する物事においては真実を探し出しそれを信奉(しんぽう)しなければならない」といった正反対の真実を引き合いにだして,自らの諸文書の正しさをつねに主張してきました( "Conciliar Rome has always defended the documents, for instance by referring to the opposite truths contained in them, such as that every man must in matters religious find out and profess the truth." ).だが,公会議の文書が真実かどうかが問題になったことは一度もありません.問題はその誤りと矛盾です( "But the truths have never been the problem. The problem is the error and the contradiction." ).たとえば,もし,国家などのような,個々人の一集合体が宗教的に中立でよいとするなら,なぜ単独の(ただ一人の)個人は中立であってはいけないのか? といった点です( "For instance, if a mass of individuals, such as the State, may be neutral in religion, why should the single individual not be ? " ).この矛盾 が人間の神からの解放 - すなわちリベラリズム(自由主義) - に門戸(もんこ)を大きく開きます( "The contradiction opens the door wide to the liberation of man from God – liberalism. " ).

2009年から2011年までの教理に関する協議はローマ教皇庁当局者たちの公会議的主観主義と "SSPX" のカトリック的客観主義との間の教理上の対立を検討するために行われました( "…were set up to examine the doctrinal clash between the Romans’ Conciliar subjectivism and the SSPX’s Catholic objectivism. " ).むろん,協議はこの対立の溝(みぞ)が深く和解不能であることを示しました( "They showed, of course, that the clash is profound and irreconcilable,…" ).ここで問題なのは,この対立が公会議のいう真実とカトリックの真実との間のものではなく,むしろ公会議の誤りとカトリックの真実との間のものだということです( "not between Conciliar truth and Catholic truth, but between Conciliar error and Catholic truth,…" ).事実上は人間の宗教と神の宗教との間の対立なのです( "in effect between the religion of man and the religion of God. " ).

ここで引用したインタビューでの話し手は「ローマの人たち」は正しく,「私たち」すなわち "SSPX" は間違っていると言っており( "Now comes the speaker to state that the “people in Rome” are right, and that “we” are wrong, i.e. the SSPX,… " ),その理由として,"SSPX" が第二バチカン公会議から出てきたものとして常(つね)に非難してきた「多くの物事」が実は同公会議についての「一般の人々の理解」から出てきたものだからだと述べています( "…because “many things” the SSPX has constantly condemned as coming from the Council come only from a “common understanding” of the Council. " ).言い換えれば,ルフェーブル大司教も彼の創立した聖ピオ十世会も同公会議を非難し,それに応じて公会議派のローマ教皇庁に抵抗したことがそもそも(初め)から間違いだったというわけです( "In other words, the Archbishop and his Society were wrong from the beginning to accuse the Council, and accordingly to resist Conciliar Rome. " ).その結果として公会議派の諸司教がカトリックの伝統に十分気配りすると信頼できたはずだから,ルフェーブル大司教による1988年の司教聖別は不必要な決断だったのではないかということになります( "It follows that the episcopal consecrations of 1988 must have been an unnecessary decision, because Conciliar bishops could have been trusted to look after Catholic Tradition." ).だが,同大司教は司教聖別を「生き残り作戦」と呼び,公会議派のローマを信じることは「自殺作戦」だと断じました( "Yet the Archbishop called those consecrations “Operation Survival”, and he called trusting Conciliar Rome “Operation Suicide”. " ).

今日その話し手は ― 上に引用した言葉を一貫して守り ― 間違いなくローマと "SSPX" との間の合意に賛同しています( "Today the speaker – consistently with his words quoted above – is certainly favouring a Rome-SSPX agreement." ).報道によると,この合意では "SSPX" の未来の諸司教を選ぶ権限は公会議派ローマに委(ゆだ)ねられます( "There are reports that this agreement would entrust Conciliar Rome with choosing the SSPX’s future bishops. " ).ということは,ルフェーブル大司教の時代から公会議派だったローマがそうでなくなるなどということが幻想に過ぎないのはあらゆる証拠が叫(さけ)び示すとおりですから( "Then unless Rome has stopped being Conciliar since the Archbishop’s day, and all the evidence cries out against such an illusion,…" ),もし同大司教が生きておられれば,その話し手は "SSPX" の「自殺作戦」を推(お)し進めているのだと言われたことでしょう ― その話し手が自分の言葉を取り下げない限りは( "…the Archbishop would have said that the speaker was promoting “Operation Suicide” of the SSPX – unless the speaker has since disowned these words. " ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年7月14日土曜日

261 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-6- 7/14

エレイソン・コメンツ 第261回 (2012年7月14日)

ヴォルフガング・シューラー博士( "Dr. Wolfgang Schüler" )の著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( "Benedict XVI and the Church's View of Itself" )に触れたエレイソン・コメンツのシリーズ前回(第253回,5月19日)で,私はここから得た教訓を聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )の現状に当てはめてみるとお約束しました.当てはめるとどうなるかはこれまでにお示ししたとおりです.もしカトリック教徒がカトリック教会の生きた組織( "living organism" )に所属することによってのみカトリック教徒たりうるとすれば,彼らが第二バチカン公会議の教会に所属すれば公会議派 "Counciliar" になってしまうということです.

教皇ベネディクト16世はカトリック教会から切り離されたカトリックの破片( "Catholic pieces" )は依然(いぜん)としてキリストの教会( "the Church of Christ" )に所属し続けるとお考えです.これに対しシューラー博士は私たちの主に従い(ヨハネ聖福音書15:1−7)(訳注後記),教会は生き物であり,そこから切り離された枝(えだ)は幹(みき)に支(ささ)えられず枯(か)れて死に果てると反論しています.したがって,もし聖ピオ十世会が人間の宗教という病(やまい)に侵(おか)されている公会議の木に接ぎ木(つぎき)されれば,たちまちその病気を移されてしまうでしょう.以下,この現実を示すルフェーブル大司教の言葉を三つ引用します.

1988年の司教聖別に何年も先立つ1984年,ルフェーブル大司教は,聖ピオ十世会が「教会内に戻っても戦い続けるのは可能で,あれもこれも出来る( "to do this, to do that" )だろう」という幻想(げんそう)を前もって一蹴(いっしゅう)しました.「そんなことは絶対ありえません.組織の中へ戻り,その上層部(じょうそうぶ,“superiors" )の下に身を置き,中へ入ったらすべてをひっくり返すなどとても期待できません.実際には,彼ら上層部は私たちを窒息させるのに必要なすべてのものを持っています.彼らにはあらゆる権限があります」( “That is absolutely untrue. You don’t get back inside a structure, putting yourself beneath its superiors, and expect that once inside you are going to turn everything upside down. The reality is that they have everything they need to strangle us. They have all the authority.” )と,彼は述べています.

司教聖別直前の1988年,大司教は「ローマ教皇庁はあらゆるものが第二バチカン公会議に従うよう望んでおり,私たち(聖ピオ十世会)には伝統を守る余地をわずかばかり残すだけです.( “Rome wants everything to go Vatican II, while they leave us a little bit of Tradition.” )…彼ら(ローマ)は自(みずか)らの立場を変えようとしません.私たちはそういう人たちの手中(しゅちゅう)に身をゆだねることはできません.自分を騙(だま)すことになります.私たちは自らが食い物にされるのを認めるつもりはありません.( “(...) They are not changing their position. We cannot put ourselves in the hands of those people. We would be fooling ourselves. We do not mean to let ourselves be eaten up. ” ) …伝統は少しずつ蝕(むしば)まれるでしょう」( “(...) Little by little Tradition would be compromised.” )と語っています.

司教聖別直後の1989年,大司教は聖ピオ十世会は教会の外にいるより中にとどまることで教会のためにもっと役立つことができるという主張に対し,次のように答えています.「私たちはどの教会のことを話しているのでしょうか? もし,公会議派教会( "Counciliar Church" )だと言うなら,カトリック教会を望んで40年間も公会議と闘ってきた私たちは公会議派教会を,建前上カトリックにするためそこへ戻るべきでしょう.だが,それはまったくの幻想にすぎません.“What Church are we talking about ? If you mean the Conciliar Church, then we who have struggled against the Council for 40 years because we want the Catholic Church, we would have to re-enter this Conciliar Church in order, supposedly, to make it Catholic. That is a complete illusion.” )そこでは上層部( "the superiors" )を形成するのが臣民(しんみん,"the subjects" )ではなく,臣民を形成するのが上層部だからです.ローマ教皇庁全体の真っただ中で進歩派の世界中の司教たちに囲まれれば私は圧倒されてしまうでしょう.私になす術(すべ)はないでしょう.」( “It is not the subjects that make the superiors, it is the superiors that make the subjects. Amidst the whole Roman Curia, amidst all the world’s bishops who are progressives, I would have been completely swamped. I would have been able to do nothing.” )

結論を言います.もし聖ピオ十世会が何らかの実務的な合意とか教会法の秩序立て ( "any practical agreement or canonical regularization" )によって,2009年 — 2011年の教理に関する論議( "the Doctrinal Discussions of 2009-2011" )が十分に示したように第二バチカン公会議の考えに固執し続ける公会議教会当局者の下( "under the Conciliar authorities of the Church that are still firmly attached to the ideas of Vatican II" )に身を置くなら,真の(カトリック)信仰を守ろうとするその努力( "defence of the true Faith" )は「抑え込(おさえこ)まれ,食いつぶされ,無力にされて」("would be "stranged, eaten up, swamped" )しまうでしょう.聖ピオ十世会は公会議派教会という生木(なまき)に接ぎ木されれば,病に侵された公会議派の命を受け継(つ)がざるをえないでしょう.とんでもないことです!( "Grafted into the living Conciliar whole, it could not help receiving from it the diseased Conciliar life. God forbid ! " )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章1ー7節(1−11節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 1-7.(1-11)

日本語
1 私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.
2 父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.
3 あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.
4 私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
5 私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
6 私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.
7 あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.

8 あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
9 父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.
10 私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
11 私がこう話したのは,私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

(注釈)
ぶどうの木と枝
2/ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる.おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17, 〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21)

4/ 霊的な命の泉はイエズスである.信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.

8/ 御父は,「み子」によって光栄を受けられる.(14・13,21・19).

11/ 神のみ子,メシア(救世主)としての喜び.

英語
"1 I AM the true vine; and my Father is the husbandman.
2 Every branch in me, that beareth not fruit, he will take away: and every one that beareth fruit, he will purge it, that it may bring forth more fruit.
3 Now you are clean by reason of the word, which I have spoken to you.
4 Abide in me, and I in you. As the branch cannot bear fruit of itself, unless it abide in the vine, so neither can you, unless you abide in me.
5 I am the vine; you the branches: he that abideth in me, and I in him, the same beareth much fruit: for without me you can do nothing.
6 If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch, and shall wither, and they shall gather him up, and cast him into the fire, and he burneth.
7 If you abide in me, and my words abide in you, you shall ask whatever you will, and it shall be done unto you.

8 In this is my Father glorified; that you bring forth very much fruit, and become my disciples.
9 As the Father hath loved me, I also have loved you. Abide in my love.
10 If you keep my commandments, you shall abide in my love; as I also have kept my Father's commandments and do abide in his love.
11 These things I have spoken to you, that my joy may be in you, and your joy may be filled."

ラテン語
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM
"1 Ego sum vitis vera, et Pater meus agricola est.
2 Omnem palmitem in me non ferentem fructum, tollet eum, et omnem qui fert fructum, purgabit eum, ut fructum plus afferat.
3 Iam vos mundi estis propter sermonem quem locutus sum vobis.
4 Manete in me, et ego in vobis. Sicut palmes non potest ferre fructum a semetipso, nisi manserit in vite, sic nec vos, nisi in me manseritis.
5 Ego sum vitis, vos palmites : qui manet in me, et ego in eo, hic fert fructum multum, quia sine me nihil potestis facere.
6 Si quis in me non manserit, mittetur foras sicut palmes, et arescet, et colligent eum, et in ignem mittent, et ardet.
7 Si manseritis in me, et verba mea in vobis manserint, quodcumque volueritis petetis, et fiet vobis.

8 In hoc clarificatus est Pater meus, ut fructum plurimum afferatis, et efficiamini mei discipuli.
9 Sicut dilexit me Pater, et ego dilexi vos. Manete in dilectione mea.
10 Si præcepta mea servaveritis, manebitis in dilectione mea, sicut et ego Patris mei præcepta servavi, et maneo in eius dilectione.
11 Hæc locutus sum vobis : ut gaudium meum in vobis sit, et gaudium vestrum impleatur. "

注:「エレイソン・コメンツ 第241回」の訳注にヨハネ聖福音書・第15章全章を掲載してあります.

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2012年7月8日日曜日

260 第二バチカン公会議 B 7/7

エレイソン・コメンツ 第260回 (2012年7月7日)

聖ピオ十世会内部で最近起きた一連の出来事と第二バチカン公会議との間の類似点はあまりにも際立(きわだ)っているので,その出来事を第二バチカン公会議 B ( “Vatican II B” )と呼んでもいいのではないでしょうか.これは理にかなっています.1960年代に教会聖職者たちの主流を潰(つぶ)したのと同じ近代世界の誘惑,圧力が2000年代になって聖ピオ十世会メンバーの多くを揺さぶり,同会を崩壊の一歩手前に追い込んでいます.私は最近,ある母親がその子供にベッドで次のようなおやすみ前のお話( “a bed-time story” )をしてあげているところを聞いたという場面を想像しました:--

「昔々(むかしむかし)とても栄えたカトリック教会というものがありました.でも,その教会はふしだらな悪い近代世界( “a naughty modern world” )に取り囲まれていました.そこで,教会は世界の土台(どだい)となっている近代の諸原則を間違っていると咎(とが)めました.でも,その世界は咎められるのが嫌で,教会の中に食い入ることで( “infiltrate” )その非難をやめさせようと全力を挙(あ)げました.だが,2度の恐ろしい世界大戦のような出来事が教会の正しさを証明し,世界の諸問題への真の解決を与えてくれるというので大勢の人々が教会に加(くわ)わりました.」

「ところが,そんな矢先(やさき)に大惨事(だいさんじ)が起きました!( “But then disaster struck !” ) まさに多数の人々がキリストの快(こころよ)いくびき( “the sweet yoke of Christ” . 訳注後記)の前に屈(くっ)しそれに身を任せようとしている( “surrendering” )丁度(ちょうど)そのときに,教会の指導的な立場にある聖職者たちが近代世界は結局正しいと決め,4年におよぶローマでの大会議(訳注・第二バチカン公会議のこと)で教会の諸原則を近代世界に合うように変えました.その指導者たちはあらゆる教会の古い敵たち( “all the Church's former enemies” )と仲直りし,いっさいの近代化とかかわりを持ちたくないと望む教会の本当の友人たちにとてもむごい態度をとりました.この友人たちはカトリック信徒たちのあいだではとても小さな少数派でした.なぜなら,数世紀ものあいだカトリック信徒たちは彼らの指導者たちに全面的な信頼を置いてきたので,彼らが教会を裏切(うらぎ)ろうとしても,依然(いぜん)として信頼し続けたからです.ところが,神さまはついにお慈悲(じひ)を示され,これら真の友人たちに,真に神さまに忠実なカトリック教会の大司教さま(訳注・ “a truly Catholic Archbishop”.ルフェーブル大司教のこと.)を,彼らの指導者として与えられました.彼らはこの指導者のもとに集まり,真のカトリック抵抗運動が盛(さか)んになり始めました.」

「だが、この運動はやがて始末(しまつ)におえない “新教会” (訳注・ “the naughty Newchurch”.第二バチカン公会議により創られた新しい体制下の教会を指す.)と近代主義者( “modernists” )だと非難されるのを好まない “新教会聖職者たち”( “Newchurchmen” )によって取り囲まれてしまいました.彼らは力(ちから)のおよぶ限りのことをして運動を潰(つぶ)そうとしました.でも,新教会の施設(しせつ)が次々に空(から)っぽになったり閉鎖(へいさ)されたりする出来事がいくつも起こり運動が正しいことを証明しました.それで運動に歩(あゆ)み寄(よ)る人々の数もどんどん増えていきました.というのも,この運動が,他(ほか)のやりかたでは解決できない近代世界や近代世界に身を委(ゆだ)ねてしまった新教会の諸問題に,本当の解決を与えてくれたからです.」

「ところが,そんな矢先に(また)大惨事が起きました! まさにこの運動が崩(くず)れかかった新教会からどんどん信者を集めるようになってきていた丁度そのときに,運動の指導者たちは近代世界の諸悪は誇張(こちょう)されており,したがって4年間の会議(訳注・ =第二バチカン公会議)はさほど悪いものではなかったと言い出しました.これら指導者たちは新教会聖職者たちと仲直(なかなお)りし始め,新教会とその誤(あやま)った諸原則を非難し続けるべきだと主張するおそれのある運動のメンバーたちの誰に対しても,ひどく厳しい態度を示しました.さらに始末(しまつ)の悪いことに,運動の内部にはこれら指導者たちの追従者(ついじゅうしゃ)たちがいなかったわけではありませんでした.なぜかと言えば,カトリック信徒たちは,もし彼らの指導者たちを信用(信頼)しないなら自分たちは不忠(=不誠実)だと考えることに慣れきっているからです.

「ねえ,お母(かあ)ちゃま,お話は,その後(あと)ずっとめでたしめでたしで終わったの? 」 “Ooh, Mummy, did the story end happily ever after ?” (子供)

「可愛(かわい)い子,それはお母ちゃまにも分(わ)からないのよ.お話はまだ終わっていないの.さあ,もうおやすみなさい.」 “Darling, I can’t tell you. It’s not yet over. Now go to sleep.” (母)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第3パラグラフの訳注:
「キリストの快いくびき」 “the sweet yoke of Christ”
について.

新約聖書・マテオ聖福音書:第11章30節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, XI, 28-30
に記されるイエズス・キリストの御言葉より引用されている.

『労苦する人,重荷を負う人は,すべて私(キリスト)のもとに来るがよい.私はあなたたちを休ませよう.私は心の柔和(にゅうわ)なへりくだった者であるから,くびきをとって私に習え.そうすれば霊魂は休む.私のくびきは快(こころよ)く,私の荷は軽い.』

* * *

11章全章(The whole of Chapter 11)

日本語
フェデリコ・バルバロ(Federico BARBALO)神父訳による聖書(旧約+新約)
マテオによる聖福音書

第11章

洗者の使い(11・1-6)
1 イエズスは十二人の弟子への訓戒(くんかい)を終えてのち,*彼らの町々で教えたり説教したりするためにそこを去られた.
2 さて,牢獄(ろうごく)でキリストの業(わざ)を伝え聞いたヨハネは,自分の弟子たちを送り,
3 「*来(きた)るべきお方はあなたですか,それとも他の人を待たねばなりませんか」と尋(たず)ねさせた.
4 イエズスは答えられた,「自分の目で見聞きしたことをヨハネに伝えに行け.
5 *盲人は見え,足なえは歩き,らい病人は治り,耳の聞こえぬ者は聞こえ,死人はよみがえり,貧しい人には福音が告げられている.
6 私につまずかぬ人は幸せである」.

洗者の称讃(11・7-15)
7 彼らが去ると,イエズスはヨハネについて人々に話された,「あなたたちは何を見ようとして荒れ地に行ったのか.風にゆらぐあしか.
8 何を見に行ったのか.柔(やわ)らかい服を着けた人か.柔らかい服の人なら王の宮殿にいる.
9 それなら,何をしようとして行ったのか.預言者を見にか.そうだ,私は言う,預言者よりもすぐれた人である.
10 〈*私は使いを先に送る,あなたの道を整(ととの)えさせるために>
と書かれているのはその人のことである.
11 *まことに私は言う,女から生まれた者のうちで,洗者(せんしゃ)ヨハネよりも偉大な人は出なかった.だが,天の国でいちばん小さな人も彼より偉大である.
12 洗者ヨハネのころから今に至るまで,天の国は暴力(ぼうりょく)で攻められ,暴力の者がそれを奪(うば)う.
13 すべての預言と律法はヨハネの時までのことを預言した.
14 *私の言うことを信じるなら,彼こそ来るべきエリアである.
15 耳をもつ者は聞け.

かたくなな心をとがめる(11・16-24)
16 現代を何にたとえようか,ちょうど広場に座っている子どもたちが友だちに呼びかけ,
17 〈*われわれはきみたちのために笛(ふえ)を吹いたが,きみたちは踊(おど)らず,悲しみの歌を歌ったのに,きみたちは胸を打たなかった〉と言うのに似ている.
18 ヨハネが来て飲み食いしないと,〈あの男は悪魔につかれていると言い,
19 人の子が来て飲み食いすれば,〈大食漢,酒飲み,税吏(ぜいり)と罪人の仲間だ〉と言う.*けれども,知恵はその業によって正しいものと証明された」.
20 イエズスは多くの奇跡を見た町が悔い改めぬのを責められた,
21 「のろわれよ,*コロザイン.のろわれよ,ベトサイダ.おまえたちの中でした奇跡をティロやシドンでしていたら,彼らはずっと前から荒布(あらぬの)を着,灰をかぶって悔い改めたことだろう.
22 私は言う.審判の日には,ティロとシドンのほうがおまえたちよりもゆるい扱いを受けるだろう.
23 カファルナウムよ.おまえは天にまで上げられると思ったのか.いや地獄にまで落とされるだろう.おまえの中でした奇跡をソドマでしていたら,ソドマは今日まで姿をとどめていただろう.
24 私は言う,審判の日には,ソドマの地のほうがおまえよりゆるい扱(あつか)いを受けるだろう」.

小さな者の幸福(11・25-30)
25 そのとき,イエズスはこう話された,「天地の主(しゅ)なる父よ,あなたに感謝いたします.あなたはこれらのことを知恵ある人,賢(かしこ)い人に隠(かく)し,*小さな人々に現(あらわ)されました.
26 父よ,そうです.あなたはそう望まれました.
27 *すべてのものは,父から私にまかされました.子が何者かを知っているのは父のほかにはなく,父が何者かを知っているのは,子と子が示しを与えた人のほかにはありません.
28 労苦する人,重荷を負う人は,すべて私のもとに来るがよい.私はあなたたちを休ませよう.
29 私は心の柔和(にゅうわ)なへりくだった者であるから,くびきをとって私に習え.
30 そうすれば霊魂は休む.私のくびきは快(こころよ)く,私の荷(に)は軽い」


(注釈)

洗者の使い(11・1-6)
1 ユダヤ人らの町のこと.

3 ヨハネはヨルダン川でもイエズスがメシア(=救世主)であることを宣言したのだから,今もそれを疑(うたが)っているわけではない.洗者が弟子を送ったのは,自分が知りたいからではなく,イエズスの返事によって,弟子たちにイエズスがメシアであることを知らせるためであった.

5 奇跡を行うのは神のみである.何かの教えに奇跡が伴(ともな)う場合,その奇跡はその教えに対して神から承認(しょうにん)があるという証拠(しょうこ)である.

洗者ヨハネへの賞賛(しょうさん)(11・7-15)
10 マラキア3・1参照.

11-13 旧約におけるもっとも尊い役〈イエズスの先駆(せんく)〉さえも,洗礼によって与えられる恵(めぐ)みに劣(おと)る.洗者が神の国の時は来たと宣言した以上,人間はその国の果実を受けるために全力を尽くすべきである.ヨハネの時をもって旧約の計画は終わった.

14 マラキア(旧約時代の預言者)(マラキアの書3・23)は,神なる審判者(しんぱんしゃ)来臨(らいりん)に人間の心を準備させるためにエリアがふたたび来ると預言した.ヨハネはその精神,その役目上,待たれたエリアである.

かたくなな心をとがめる(11・16-24)
17 子どもらは結婚式と葬式の遊びをしている.二組に分かれてするのに,一方が一方にこたえない.それと同じことで,ユダヤ人は神のあわれみを拒否(きょひ)して,ヨハネの苦行(くぎょう)にもイエズスの寛容(かんよう)にも応じようとしなかった.

19 神の知恵の計画は,人間の悪意があっても実現された.こうして計画の正しさが示されるのである.

21 コロザインはゲネサレト平原北方の村,ベトサイダは湖岸の村で,イエズス宣教の中心地であるカファルナウムに近かったから,イエズスの奇跡を見て改心しなかった責任は重い.ティロとシドンはフェニキアの商業都市であるが,堕落(だらく)の町だった.

小さな者の幸福(11・25-30)
25 小さな人々とは,神を見るであろうと約束された素直な清い心の人である.

27 神を完全に知るには,神と同じ無限の知恵がいる.すなわち,イエズスは神のまことの子であると宣言したことになる.


ENGLISH
THE HOLY BIBLE (DOUAY-RHEIMS VERSION)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW

John sends his disciples to Christ, who upbraids the Jews with their incredulity, and calls to him such as are sensible of their burdens.

CHAPTER 11

Jesus receives desciples sent by John
1 AND it came to pass, when Jesus had made an end of commanding his twelve disciples, he passed from thence, to teach and preach in their cities.
2 Now when John had heard in prison the works of Christ: sending two of his disciples he said to him: (Luke 7:18)
3 Art thou he that art to come, or look we for another?
4 And Jesus making answer said to them: Go and relate to John what you have heard and seen.
5 The blind see, the lame walk, the lepers are cleansed, the deaf hear, the dead rise again, the poor have the gospel preached to them.(Isai. 35:5; 61:1)
6 And blessed is he that shall not be scandalized in me.

Christ praises John
7 And when they went their way, Jesus began to say to the multitudes concerning John: What went you out into the desert to see? a reed shaken with the wind? (Luke 7:24)
8 But what went you out to see? a man clothed in soft garments? Behold they that are clothed in soft garments, are in the houses of kings.
9 But what went you out to see? a prophet? yea I tell you, and more than a prophet.
10 For this is he of whom it is written: Behold I send my angel before thy face, who shall prepare thy way before thee. (Mal. 3:1; Mark 1:2; Luke 7:27)
11 Amen I say to you, there hath not risen among them that are born of women a greater than John the Baptist: yet he that is the lesser in the kingdom of heaven is greater than he.
12 And from the days of John the Baptist until now, the kingdom of heaven suffereth violence, and the violent bear it away.
13 For all the prophets and the law prophesied until John:
14 And if you will receive it, he is Elias that is to come. (Mal. 4:5, 13)
15 He that hath ears to hear, let him hear.

Christ scolds the Jews
16 But whereunto shall I esteem this generation to be like? It is like to children sitting in the market place.
17 Who crying to their companions say: We have piped to you, and you have not danced: we have lamented, and you have not mourned.
18 For John came neither eating nor drinking; and they say: He hath a devil.
19 The Son of man came eating and drinking, and they say: Behold a man that is a glutton and a wine drinker, a friend of publicans and sinners. And wisdom is justified by her children.

Christ curses unbelievers
20 Then began he to upbraid the cities wherein were done the most of his miracles, for that they had not done penance.
21 Woe to thee, Corozain, woe to thee, Bethsaida: for if in Tyre and Sidon had been wrought the miracles that have been wrought in you, they had long ago done penance in sackcloth and ashes. (Luc. 10:13)
22 But I say unto you, it shall be more tolerable for Tyre and Sidon in the day of judgment, than for you.
23 And thou Capharnaum, shalt thou be exalted up to heaven? thou shalt go down even unto hell. For if in Sodom had been wrought the miracles that have been wrought in thee, perhaps it had remained unto this day.
24 But I say unto you, that it shall be more tolerable for the land of Sodom in the day of judgment, than for thee.

Christ draws the humble to Himself
25 At that time Jesus answered and said: I confess to thee, O Father, Lord of heaven and earth, because thou hast hid these things from the wise and prudent, and hast revealed them to the little ones.
26 Yea, Father; for so hath it seemed good in thy sight.
27 All things are delivered to me by my Father. And no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him. (John 4:46; 7:28; 8:19; 10:15)
28 Come to me, all you that labour, and are burdened, and I will refresh you.
29 Take up my yoke upon you, and learn of me, because I am meek, and humble of heart: and you shall find rest to your souls. (Jer. 6:16)
30 For my yoke is sweet and my burden light. (1 John 5:3)



LATIN
BIBLIA SACRA IUXTA VULGATAM CLEMENTINAM (Clementine Vulgate)
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM


CAPUT XI

Iesus recipit legationem Ioannis
1 Et factum est, cum consummasset Iesus, præcipiens duodecim discipulis suis, transiit inde ut doceret, et prædicaret in civitatibus eorum.
2 Ioannes autem cum audisset in vinculis opera Christi, mittens duos de discipulis suis, (Luc.7 :18)
3 ait illi : Tu es, qui venturus es, an alium exspectamus ?
4 Et respondens Iesus ait illis : Euntes renuntiate Ioanni quæ audistis, et vidistis.
5 Cæci vident, claudi ambulant, leprosi mundantur, surdi audiunt, mortui resurgunt, pauperes evangelizantur : (Isai. 35:5, 61:1)
6 et beatus est, qui non fuerit scandalizatus in me.

Exaltat Ioannem
7 Illis autem abeuntibus, cœpit Iesus dicere ad turbas de Ioanne : Quid existis in desertum videre ? arundinem vento agitatam ? (Luc. 7 :24)
8 Sed quid existis videre ? hominem mollibus vestitum ? Ecce qui mollibus vestiuntur, in domibus regum sunt.
9 Sed quid existis videre ? prophetam ? Etiam dico vobis, et plus quam prophetam.
10 Hic est enim de quo scriptum est : Ecce ego mitto angelum meum ante faciem tuam, qui præparabit viam tuam ante te. (Mal. 3:1 ; Marc. 1:2 ; Luc. 7:27)
11 Amen dico vobis, non surrexit inter natos mulierum maior Ioanne Baptista : qui autem minor est in regno cælorum, maior est illo.
12 A diebus autem Ioannis Baptistæ usque nunc, regnum cælorum vim patitur, et violenti rapiunt illud.
13 Omnes enim prophetæ et lex usque ad Ioannem prophetaverunt :
14 et si vultis recipere, ipse est Elias, qui venturus est. (Mal. 4:5, 13)
15 Qui habet aures audiendi, audiat.

Vituperat Iudæos
16 Cui autem similem æstimabo generationem istam ? Similis est pueris sedentibus in foro : qui clamantes coæqualibus
17 dicunt : Cecinimus vobis, et non saltastis : lamentavimus, et non planxistis.
18 Venit enim Ioannes neque manducans, neque bibens, et dicunt : Dæmonium habet.
19 Venit Filius hominis manducans, et bibens, et dicunt : Ecce homo vorax, et potator vini, publicanorum et peccatorum amicus. Et iustificata est sapientia a filiis suis.

Maledicit incredulos
20 Tunc cœpit exprobrare civitatibus, in quibus factæ sunt plurimæ virtutes eius, quia non egissent pœnitentiam :
21 Væ tibi Corozain, væ tibi Bethsaida : quia, si in Tyro et Sidone factæ essent virtutes quæ factæ sunt in vobis, olim in cilicio et cinere pœnitentiam egissent. (Luc.10:13)
22 Verumtamen dico vobis : Tyro et Sidoni remissius erit in die iudicii, quam vobis.
23 Et tu Capharnaum, numquid usque in cælum exaltaberis ? usque in infernum descendes, quia si in Sodomis factæ fuissent virtutes quæ factæ sunt in te, forte mansissent usque in hanc diem.
24 Verumtamen dico vobis, quia terræ Sodomorum remissius erit in die iudicii, quam tibi.

Humiles allicit
25 In illo tempore respondens Iesus dixit : Confiteor tibi, Pater, Domine cæli et terræ, quia abscondisti hæc a sapientibus, et prudentibus, et revelasti ea parvulis.
26 Ita Pater : quoniam sic fuit placitum ante te.
27 Omnia mihi tradita sunt a Patre meo. Et nemo novit Filium, nisi Pater : neque Patrem quis novit, nisi Filius, et cui voluerit Filius revelare. (Ioan. 4:46; 7:28; 8:19; 10:15)
28 Venite ad me omnes qui laboratis, et onerati estis, et ego reficiam vos.
29 Tollite iugum meum super vos, et discite a me, quia mitis sum, et humilis corde : et invenietis requiem animabus vestris. (Ier. 6:16)
30 Iugum enim meum suave est, et onus meum leve. (I Ioan. 5:3)



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2012年7月2日月曜日

259 二つの誤り 6/30

エレイソン・コメンツ 第259回 (2012年6月30日)

聖ピオ十世会が現在の厳しい試練を乗り越えられるかどうかにかかわらず,リベラリスト(自由主義者)たちは聖ピオ十世会を自殺に追い込もうと誤(あやま)った議論を仕掛け続けるでしょう.その類(たぐい)の議論を2点ご紹介します.

最初の議論は,聖ピオ十世会が第二バチカン公会議下のローマ教皇庁とのなんらかの実務的合意(教理に関しないもの)( “some practical (non-doctrinal) agreement with Conciliar Rome” )を受け入れるべきかをめぐる最近の論争に絶えず出てきます.単純な議論です.つまり,カトリック教の指導者(もしくは指導者たち)は神から生じる職責上の品格( =諸々の恩寵.“graces of state” )を備えているのだから,その人のことを批判せず自動的に信頼すべきだというのです.これに対する答え:むろん神は常に指導者たちだけでなく私たちのすべてに職責( 訳注・=すべての人間が人として生きていく上で守るべき義務.“duty of state” )を果たすのに必要な自然的援助や超自然的恩寵( “the natural assistance and/or supernatural grace” )を与え続けておられますが,私たちにはそれを受け入れるか拒(こば)むかを決める自由意思があります.もし,すべての教会指導者がその天与(てんよ)の職責を受け入れて恊働(きょうどう)してきたとすれば,どうして裏切り者ユダ( “Judas Iscariot” )が現れることなどあったでしょうか? なかったはずです.また同様に,それならどうして第二バチカン公会議などが出現していたでしょうか? そんなことがあったはずがありません.職務上の品位に基づく議論はそれが単純なのと同じくらい愚かで馬鹿(ばか)げたものです.

2番目の議論はもっと深刻です.これは先月(訳注・2012年5月を指す.)にJ.L.さんという男性が英国で発行されているカトリック伝統派の定期刊行物に寄稿した10ページの記事の中で提唱しているもので( “It was put forward last month in a ten-page article by a Mr. J.L. in a conservative Catholic periodical in England,…” ),ローマと聖ピオ十世会との間の合意に好意的な立場をとっています.以下,もちろん短縮はされていますが,論旨は曲げずにその要点をご紹介します.いまカトリック教会は外部(たとえばアメリカ政府),内部(たとえば善良な生活を愛するが神学理論など知らない司教たち),そして最上位レベルではスキャンダルや内紛(ないふん)にまみれたバチカン当局からの猛攻撃を受けています.教皇は四囲を包囲されており,たとえ第二バチカン公会議を信頼しているにしても,自分が信じる教会の過去のまっとうな影響力を再建しようと聖ピオ十世会の助けを求めています.ブクス閣下 (=モンシニョール・ブクス.“Monsignor Bux”.)(訳注・「モンシニョール」は高位の聖職にある司祭〈=神父〉に対する尊称〈そんしょう〉.) が教皇自身の呼びかけを以下のように口にしています.すなわち,もし聖ピオ十世会が実務的な合意を受け入れるなら,教会全体だけでなく聖ピオ十世会をも大いに利することになるだろうと.以前,聖ピオ十世会で高い地位にあったオラニエ神父( “Fr Aulagnier, a former high-up SSPX priest” )も明らかに同じ考えです.

J.L.様.あなたの教会への愛とその問題に対する認識,教皇へのご心配,彼を助けたいというお気持ちには満点を差し上げます( “…full marks for…” ).だが,教会の問題がどこから生じているのか,聖ピオ十世会とはどういうものなのかについてのあなたのご理解には低い点しかあげられません( “…but low marks for…” ).オラニエ神父を含め,今日の教会内や世界中のおびただしい(=膨大な,無数の)数の人たちと同じように,あなたは教理の根本的な重要性を見落としています( “Like one zillion souls in today’s Church and world, including Fr. Aulagnier, you miss the absolutely basic importance of the doctrine of the Faith.” ).

アメリカ政府がカトリック教会を攻撃するのは教会が弱体だからです.教会が弱体なのは,司祭たちのお粗末(そまつ)な行動(言動・挙行・振る舞い)が天国,地獄,罪,天罰,贖罪(しょくざい),ご加護(かご),真のミサ聖祭で捧げられる絶え間のない購(あがな)い主(=イエズス・キリスト)の犠牲などについての貧弱(ひんじゃく)な理解に基づくものだからです( “…the bishops’ poor behavior follows on their poor grasp of the doctrine of Heaven, Hell, sin, damnation, redemption, saving grace and the Redeemer’s ever-present sacrifice in the true Mass.” )(訳注後記).司教たちが,そうした諸々の世を救う真理について貧弱な理解しかしていないのは,なかんずく諸司教の中の主たる司教( “the Bishop of bishops” )(訳注・ローマ教皇のこと〈=ローマの司教〉.)がそれを半分程度しか信じていないからです.教皇ご自身は半分しか信じていません.なぜなら,ご自身の残り半分は第二バチカン公会議を信じているからです.第二バチカン公会議は(あなたもお認めのように)神の位置に人間を置く目的でその文書類に埋(う)め込んだ恐ろしいほどの曖昧(あいまい)さをもって神の真の宗教を台無しにしています( “Vatican II undermines all the true religion of God by the deadly ambiguities planted throughout its documents (as you recognize), and designed to put man in the place of God.” ).

J.L.様.誤った教理が根本的な問題なのです.神のご加護により聖ピオ十世会はこれまでイエズス・キリストの真の教えを守ってきました.だが,もし聖ピオ十世会がその教えの半分しか信じていない教会当局者たちの影響下に身を寄せるなら,彼らの過(あやま)ちに対する攻撃をやめることになるでしょう(それはすでに起きつつあります).そして聖ピオ十世会は終(つい)には過ちを推(お)し進めることになるでしょう.また過ちとともにあなたの言うあらゆる恐怖がやってくるでしょう.それはとんでもないことです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第5パラグラフの訳注:
「真のミサ聖祭で捧げられる絶え間のない購(あがな)い主(=救世主イエズス・キリスト)の犠牲(ぎせい)」 “the Redeemer’s ever-present sacrifice in the true Mass” について.

(補足)

ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” のお言葉より

①“THE MASS OF ALL TIME” (英語)
“La messe de toujours” (フランス語)
「いつの世も変わらぬミサ聖祭」

②“The Mass of All Time Versus The Mass of Our Time”
「永遠に変わらないキリストの犠牲のミサ聖祭(聖伝)」対「私たちの新しい(現代の)時流に合わせた新しいミサ聖祭(第二バチカン公会議)」


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補足の続きを後から追加します.
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