エレイソン・コメンツ 第374回 (2014年9月13日)
リベラル派(カトリック)信徒(りべらるは〈かとりっく〉しんと)たちも教皇空位論を採る信徒(きょうこう くうい ろん〈をとる〉しんと)たちも自分(じぶん)たちがコインの裏表(こいんの ひょうり)のようなものだと言(い)われるのは有難迷惑(ありがた めいわく)でしょうが,事実(じじつ)はその通(とお)りです( "Neither liberals nor sedevacantists appreciate being told that they are like heads and tails of the same coin, but it is true." ).たとえば,どちらの側(がわ)も第3の代替案(だいさんの だいたいあん)を持ち合(もちあ)わせていません( "For instance, neither of them can conceive of a third alternative. " ).そのことは,たとえば2012(にせん じゅうに)年4月14日付け(しがつ じゅうよっか づけ)のフェレイ司教(ふぇれい しきょう)による 3人の司教宛ての書簡 (さんにんの しきょう あての しょかん)を読めば分かり(よめば わかり)ます.同司教(どう しきょう)は教皇空位論以外(きょうこう くういろん いがい)に自ら(みずから)のリベラリズム(りべらりずむ)に対(たい)する代替案(だいたいあん)をなにも示(しめ)していません( "See for instance in his Letter to Three Bishops of April 14, 2012, how Bishop Fellay could see no alternative to his liberalism except sedevacantism." ).逆に言えば(ぎゃくに いえば),多数(たすう)の教皇空位論者の見方(みかた)に従(したが)えば,公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)のなかに本物の教皇が存在したと認める者(ほんものの きょうこうが そんざい したと みとめる もの)がいるなら( "Conversely, for many a sedevacantist if one accepts that any of the Conciliar Popes has really been Pope, …" ),その人(ひと)はリベラル派に過(す)ぎないということになるのでしょうし( "… then one can only be a liberal, …" ),また教皇空位論者を批判する者(ひはん する もの)がいるなら( "… and if one criticises sedevacantism, …" ),その人はリベラリズムを推進(すいしん)しているということになるのでしょう( "… then one is promoting liberalism." ).しかし,本当(ほんとう)はけっしてそうではありません!( "But not at all ! " )
なぜそうでないのでしょうか?( "Why not ? " ) どちらの側(がわ)も教皇の無謬性(きょうこうの むびゅう せい)を誇張(こちょう)するという同じ間違い(おなじまちがい)をしているからです( "Because both of them are making the same error of exaggerating the Pope's infallibility. " ).どうしてそのような間違い(まちがい)をするのでしょうか?( "Why ? " )両方(りょうほう)とも組織より個人の方(そしき より こじんの ほう)をより強く信じる現代人(つよく しんじる げんだい じん)だからではないでしょうか?( "Might it be because both of them are modern men who believe more in persons than in institutions ? " ) では,そうするのがなぜ現代人の特徴(げんだい じんの とくちょう)なのでしょうか?( "And why should that be a feature of modern men ? " ) それは,程度の差(ていどの さ)こそあれプロテスタント主義の台頭以降(ぷろてすたんと しゅぎの たいとう いこう)( "Because from more or less Protestantism onwards, …" ),公共の善(こうきょうの ぜん)を追及する組織(ついきゅう する そしき)が減り続ける(へり つづける)のに反し(はんし)( "… fewer and fewer institutions have truly sought the common good, …" ),(私があなた方に求めたように〈わたくしが あなたがたに もとめた ように〉)金銭(きんせん)のような何らか(なんらか)の個人的利益(こじんてき りえき)を追求する組織(ついきゅう する そしき)が増え続け(ふえ つづけ)ているためでしょう( "… while more and more seek some private interest such as money (my claim on you), …" ).こうした傾向(けいこう)は当然(とうぜん)のことながら,私たちの組織(わたくし たちの そしき)に対(たい)する尊敬の念(そんけいの ねん)を減らす(へらす)ことになります( "… which of course diminishes our respect for them." ).例を挙げ(れいを あげ)るなら,善意の人々(ぜんいの ひとびと)は現代の銀行(げんだいの ぎんこう)のような腐敗した組織(ふはい した そしき)が直(ただ)ちにその悪い効果を及ぼす(わるい こうかを およぼす)ことがないようしてきましたが( "For instance, good men saved for a while the rotten institution of modern banking from having immediately all its evil effects, …" ),腐敗した銀行屋(ふはい した ぎんこう や)たちは初め(はじめ)から個々(ここ)の準備銀行や中央銀行(じゅんび ぎんこうや ちゅうおう ぎんこう)といった組織(そしき)が実態(じったい)ではどんなものなのかをさらけ出(だ)しています( "… but the rotten banksters are at last showing what the institutions of fractional reserve banking and central banks were, in themselves, from the beginning." ).神や人間(かみや にんげん)の諸々の敵(もろもろの てき)がいるおかげで,悪魔(あくま)が現代の諸機構の中に存在(げんだいの しょきこうの なかに そんざい)しています( "The Devil is in modern structures, thanks to the enemies of God and man." ).
したがって,現代のカトリック教徒(げんだいの かとりっく きょうと)たちが教皇を強く信じ(きょうこうを つよく しんじ),教会をほとんど信じなくなる傾向(きょうかいを ほとんど しんじなく なる けいこう)にあるのは理解(りかい)できます( "So it is understandable if modern Catholics have tended to put too much faith in the Pope and too little in the Church, …" ).読者の一人(どくしゃの ひとり)から私(わたくし)がなぜ古典的なカトリック教(こてん てきな かとりっく きょう)の神学理論マニュアルと同じやり方(しんがく りろん まにゅあると おなじ やりかた)で無謬性(むびゅう せい)について書(か)かないのかと質問を受け(しつもんを うけ)ました.上に述べた傾向が私の答え(うえに のべた けいこうが わたくしの こたえ)です( "… and here is the answer to that reader who asked me why I do not write about infallibility in the same way that the classic Catholic theology manuals do." ).カトリック教の神学理論マニュアルはそれ自体(じたい)としては素晴(すば)らしいものです( "Those manuals are marvellous in their way, …" ).だが,その中身(なかみ)はすべて第二バチカン公会議以前(だいに ばちかん こうかいぎ いぜん)に書(か)かれたもので( "… but they were all written before Vatican II, …" ),教会に属する無謬性を教皇に付与(きょうかいに ぞくする むびゅうせいを きょうこうに ふよ)しがちでした( "… and they tended to attach to the Pope an infallibility which belongs to the Church." ).たとえば,マニュアルでは無謬性の頂点は教皇(ちょうてんは きょうこう),もしくは公会議支持を得た教皇(こうかいぎ しじを えた きょうこう)の発する厳粛な定義(はっする げんしゅくな ていぎ)( "a solemn definition" )として表(あら)わされることが多(おお)いのですが,これは実際(じっさい)にはいかなる場合(ばあい)も教皇の発する定義(きょうこうの はっする ていぎ)と言(い)うことです( "For instance, the summit of infallibility is liable to be presented in the manuals as a solemn definition by the Pope, or by Pope with Council, but in any case by the Pope." ).リベラル派,教皇空位論者(りべらる は,きょうこう くうい ろん じゃ)が共に直面するジレンマ(ともに ちょくめん する じれんま)はここから出てくる結論の部分(でてくる けつろんの ぶぶん)です( "The liberal-sedevacantist dilemma has been the consequence and, …" ).それは,言うなれば,個人を過大評価し組織を過小評価(こじんを かだい ひょうかし そしきを かしょう ひょうか)する傾向に対する罰(けいこうに たいする ばつ)のようなものです( "… as it were, a punishment of this tendency to overrate the person and underrate the institution, …" ).なぜなら,教会は決して(きょうかいは けっして)単なる人間的組織(たんなる にんげんてき そしき)ではないからです( "… because the Church is no merely human institution." ).
第一(だいいち)に,普通教導権という山頂(ふつう きょうどう けんと いう さんちょう)に雪に覆われて立つ)(ゆきに おおわれて たつ)教皇の厳粛な教導権(きょうこうの げんしゅくな きょうどう けん)はごく限られた範囲内(かぎられた はんいない)で山の頂上(やまの ちょうじょう)です( "For, firstly, the Solemn Magisterium's snow-cap on the Ordinary Magisterium's mountain is its summit only in a very limited way …" ) - それは雪の下にある岩の頂上(ゆきの したに ある いわの ちょうじょう)に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しているにすぎません( "… – it is wholly dependent on the rock summit beneath the snow." ).そして,第二(だいに)に,無謬性に関する(むびゅうせいに かんする)教会の最も権威ある原本(きょうかいの もっとも けんい ある げんぽん),すなわち真のカトリック教公会議(まことの かとりっく きょう こうかいぎ)である第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)で発せられた定義(はっせられた ていぎ)により( "And secondly, by the Church's most authoritative text on infallibility, the Definition of the truly Catholic Council of Vatican I (1870), …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)は教会から来る(きょうかいから くる)ものであり,その逆(ぎゃく)でないことを知(し)っています( "… we know that the Pope's infallibility comes from the Church, and not the other way round." ).この定義は,教皇がその 権威に基づく 教え(けんいに もとづく おしえ)を行うのに必要な4条件(おこなう のに ひつような よん じょうけん)に従っている場合(したがっている ばあい),教皇は「…真の神より遣わされた救世主イエズス・キリスト(まことの かみ より つかわされた いえずす・きりすと)( "the divine Redeemer" )が,(御自身の教会のため〈ごじしんのきょうかいのため〉)際立って優れた教理を定める(きわだって すぐれた きょうりを さだめる)にあたり,教会がその真の教理由来の恩寵に与れる(きょうかいが その まことの きょうり ゆらいの おんちょうに あずかれる)ようキリスト御自らが教会にお与えになった無謬性を(きりすと おんみずからが きょうかいに おあたえに なった むびゅうせいを)…」保持(ほじ)する…と述(の)べています( "When the Pope engages all four conditions necessary for ex cathedra teaching, then, says the Definition, he possesses. .. “...that infallibility which the divine Redeemer willed his Church to enjoy in defining doctrine...” " ).だが,言(い)うまでもないことですが!( "But of course ! " ) 神以外(かみ いがい)のどこから無謬性が生じ(むびゅうせいが しょうじ)うるでしょうか?( "Where else can infallibility come from, ecept from God ? " ) 教皇は人間の中で最良(きょうこうは にんげんの なかで さいりょう)であり,歴代教皇の中(れきだい きょうこうの なか)には極めて善良な人(きわめて ぜんりょうな ひと)たちがいました( "The best of human beings, and some Popes have been very good human beings, …" ).彼らは間違い(まちがい)をしないと言えるかもしれません( "… may be inerrant, i.e. make no mistakes, …" ).しかし,彼らが原罪を持つ限り(げんざいを もつかぎり),神と同じ(かみと おなじ)ように間違い(まちがい)をしないなどということはありえません( "… but as long as they have original sin they cannot be infallible as God alone can be." ).もし,彼らが間違いをしないとすれば,その無謬性(むびゅうせい)は彼らの人間性から生じる(にんげんせい から しょうじる)ものでなく( "If they are infallible, the infallibility must come through, …" ),それ以外(いがい),すなわちカトリック教会を通して無謬性をお与えになる神から生じる(かとりっく きょうかいを とおして むびゅうせいを おあたえに なる かみ から しょうじる)ものであるはずです( "… but from outside, their humanity, from God, who chooses to bestow it through the Catholic Church, …" ).そして,その無謬性は,上に述べた定義の有効期間中(その むびゅうせいは,うえに のべた ていぎの ゆうこう きかん ちゅう)だけのごく一時的な贈り物である必要(いちじ てきな おくりもので ある ひつよう)があります( "… and that infallibility need only be a momentary gift, for the duration of the Definition." ).
したがって,一教皇(いちきょうこう)が 権威(=命令権)を持っている 瞬間 ( けんい〈=めいれいけん〉をもっている しゅんかん)( "ex cathedra moments" )を除(のぞ)けば,彼(かれ)が第二バチカン公会議の新宗教(だいに ばちかん こうかいぎの しん しゅうきょう)のようなばかげたことを話(はな)すのを止め(やめ・とめ)させるものは何(なに)もありません( "Therefore outside of a Pope's ex cathedra moments, nothing stops him from talking nonsense such as the new religion of Vatican II." ).それ故(ゆえ),リベラル派も教皇空位論者も(りべらるは も きょうこう くうい ろんじゃ も)そのようなばかげたことを気(き)にかける必要(ひつよう)もありませんし,そうすべきでもありません.( "Therefore neither liberals nor sedevacantists need or should heed that nonsense, …" ),なぜなら,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)が言(い)われたように( "… because, as Archbishop Lefebvre said, …" ),彼らには2千年(にせん ねん)もの間(あいだ)続いた(つづいた)教会の無謬な教え(きょうかいの むびゅうな おしえ)があり,それに基(もと)づいて教皇の話す内容(きょうこうの はなす ないよう)がばかげたことかどうかを判断(はんだん)できるからです( "… they have 2000 years' worth of Ordinarily infallible Church teaching by which to judge that it is nonsense." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(注:本投稿記事〈第374回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月28日23:30に公開されました.)
2014年9月13日土曜日
2011年1月30日日曜日
伝統派の感染
エレイソン・コメンツ 第185回 (2011年1月29日)
リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--
「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.
伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.
このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。
私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)
では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:
新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す.
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』
(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)
***
- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:
新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』
(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)
(バルバロ神父による注釈)
罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).
***
- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:
原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.
リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--
「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.
伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.
このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。
私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)
では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:
新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す.
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』
(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)
***
- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:
新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』
(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)
(バルバロ神父による注釈)
罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).
***
- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:
原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.
登録:
投稿 (Atom)