2011年8月31日水曜日

「ギリシアの贈り物」

エレイソン・コメンツ 第214回 (2011年8月20日)

3週間余り後の9月14日,ローマでレヴェイダ枢機卿 (訳注・ “Cardinal William Joseph Levada.” 現ローマ教皇庁教理省長官)以下のローマ教皇庁代表と聖ピオ十世会総長および2名の補佐役との間で会合が開かれると聞いています.ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” と彼が創立した聖ピオ十世会が過去40年にわたりカトリック信仰擁護(ようご)のため行ってきたことのすべてを正当に評価している信者は注意を怠(おこた)らないようにしておく必要があります.というのは,カトリック信仰がこれまでないほどの危険に瀕(ひん)するからです.祈りによって「転ばぬ先の杖」としましょう.

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会が2009年秋から今年4月まで行った教理上の論議 “the doctrinal Discussions” の統括責任者はほかならぬ教理庁長官 “Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith” のレヴェイダ枢機卿でした.聖ピオ十世会を今度の会合に招いたのはローマ教皇庁でした.9月14日の会合でローマ教皇庁代表が聖ピオ十世会との関係について,これまでの数回にわたる教理上の論議で出てきた決定事項を持ち出すと予期するのは穏当(おんとう)なところではないかと思えます.

誰に聞いても,数回の教理上の論議では長い年月を経たカトリック教理を貫(つらぬ)く聖ピオ十世会と第二バチカン公会議後の「新しい教会」 “Newchurch” の教えに固執する現ローマ教皇庁との間で教理上の合意がまとまるなど不可能だということがはっきりしました.まして,現ローマ教皇庁はその誤った方向を守り抜こうとしています.この点は,今年5月に前教皇ヨハネ・パウロ2世を「新たに(=新方式で)列福」したこと “Newbeatification” ,第3回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 “Assisi III” をこの10月に開こうとしていることからも明白です.したがって,教理上の論議の結果生じた状況は2年前と全く同じで,同じ教理上の論議に引き継がれることになります: すなわち,一方では聖ピオ十世会は神の光栄と人類救済のためローマ教皇庁がカトリック信仰に復帰するよう努めるでしょうし,一方では公会議主義下のローマ教皇庁は現代人の栄光とその下劣なメディア(2009年1月,2月のときのような)の満足のため全力を尽くして聖ピオ十世会を「新しい信仰」たる心身とも腐敗した世界教会主義に溶け込むよう “to blend into the mind- and soul-rotting ecumenism of the Newfaith” 説得するでしょう.

9月14日にローマ教皇庁は聖ピオ十世会になにを押し付けようとするでしょうか?「あめ」か「むち」 “carrot or stick” のいずれかでしょう.あるいは聖ピオ十世会内部の今の心理状態を読む技術を駆使して “as adjusted by their expertise in its reading of the current state of mind within the SSPX” ,「あめ」と「むち」の両方かもしれません.「むち」の方は,聖ピオ十世会を永久・完全に「破門」するという脅(おど)しかもしれません.だが,カトリック信仰を持つ誰がそのような脅しに怯(おび)えるでしょうか? ルフェーブル大司教が「新しい教会」から初めて「破門」の脅(おど)しを受けたとき,彼が「一度たりとも所属したことのない“教会”から私がどうして除名され得るでしょうか?」と応じたのを私たちは思い出します.

反対にローマ教皇庁が出すもっとも賢明な「あめ」といえば,聖ピオ十世会の諸条件で「ローマ教皇庁と全面的な交流を持つ」という一見断りがたい申し入れかもしれません.それには隠(かく)された短い1項が入っているかもしれません.つまり,聖ピオ十世会の将来の幹部( “Superiors.” 修道院長たち) および司教たち “Bishops” はローマ教皇庁と聖ピオ十世会の合同委員会で選ぶこと,同委員会ではローマ教皇庁がわずかながら多数を占めること,といった内容です.結局のところ,聖ピオ十世会はローマ教皇庁の支配下に入ることを望むのか望まないのか? ローマ側の妥当な要求は,2001年にラッツィンガー枢機卿が叫んだと伝えられるように,「どちらかに決心しなさい!」ということでしょう.

明晰(めいせき)な頭脳の持ち主なら,ギリシアの木馬(もくば)がトロイに持ち込まれるのを嫌がった賢明な - だが冷笑された - トロイ人の言ったことを思い浮かべるでしょう.「どうあっても,私はギリシア人が怖い.たとえ贈り物を持参していても.」それでもトロイの木馬は引き込まれました.私たちは誰でもトロイに何が起きたか知っています.(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *


第6パラグラフの訳注:

トロイ(またはトロイア) “Troy, Troia” について.
・トロイは小アジア北西部(現トルコ)の古代都市.海岸から約5㎞入ったヒッサルリク “Hissarlik” の丘上にあり,ダーダネルス海峡( “The Dardanelles” (英語).トルコ名: “Çanakkale Boğazı” )を支配する有利な位置にあるため貿易が発達して繁栄した.
・古代ギリシアと戦った「トロイ戦争」の舞台で,ここに登場する「トロイの木馬」により戦争が終結した.
・「トロイ戦争」は古代ギリシア伝説の一つであり,数ある中でホメロスの《イーリアス》《オデュッセイア》がとりわけ有名である.
・トロイ(の遺跡)の発見はトロイ戦争の伝説の実在を信じたシュリーマン “Heinrich Schliemann” (1822-1890)というドイツの考古学者がトルコのヒッサルリクを発掘し(1871-1873年)トロイ文明の実在を証明したことによる.トロイ戦争が起こったのは紀元前13世紀頃とされる.トロイの遺跡は1998年,世界文化遺産に登録された.

トロイ(トロイア)の木馬 “Trojan Horse”について.
・「トロイの木馬」を使った軍事作戦によりトロイ軍を欺(あざむ)くことに成功したギリシア軍が遂に長年に及んだトロイ戦争で勝利を収めた.
・トロイの市街は強固な城壁により防御されていたが,ある日,大きな木馬だけを残しギリシア軍は跡形もなく消え去っていた.「ギリシア軍は戦いをあきらめ女神アテナに献上する木馬を(トロイの城壁の門の前に)置き残し逃げ去ったのだ」との話を信じてしまったトロイ人はその木馬を城壁の門を壊してまで市中に引き入れてしまった.木馬を引き入れるのに反対したトロイの神官は殺されてしまった.
・トロイ人が勝利の酒に酔いしれて眠ってしまった後,木馬の中に潜(ひそ)んでいたギリシアの精兵数名が外に出てきて味方の軍を呼び寄せトロイを総攻撃したので,トロイは落城してしまった.

(ブリタニカ国際大百科事典,百科事典マイペディア他参照)

* * *

2011年8月26日金曜日

悪意なき無知

エレイソン・コメンツ 第213回 (2011年8月13日)

読者の一人からとても重要な質問が寄せられました.「善良なプロテスタント信者が善良な生活を続けながらもカトリック信仰は誤っていると固く信じ,カトリック教会へ入ることさえ考えもしないとしたら,それでも彼は救われるでしょうか? 」 この質問は死活にかかわるほど重大です(訳注・原文 “The question is vital.” )(ラテン語の “vita” は “life” (命)を意味します).無数の人々にとって永遠の生死にかかわる問題です.

お答えとして先(ま)ずはじめに言えることは,人は誰しも臨終(りんじゅう)を迎え神の審判席に瞬時(しゅんじ)に座ったとき神は完全なる正義と完全なる慈悲をもって審判を下されるということです.人が他人はもとより自分にさえ隠す心の奥底を神だけはご存知です.人間は誤った判断をするかもしれませんが,神は決して判断を誤ることはありません.したがって,「善良なプロテスタント信者」は自分では地獄に墜ちると思っても神には救われます.神はまさしく彼がそれに値することをご存じだからです.

そうは言っても,もし神が私たちすべてが救われることをお望みになり(ティモテオへの第一の手紙2章4節)(訳注後記),私たちに地獄の苦しみを信じるようお求めになるなら(マルコ聖福音書16章16節)(訳注後記),神は私たちが自らの霊魂を救うため何を信じ何をなすべきかをお知らせになられるでしょう.では「善良なプロテスタント信者」は何を信じなければならないでしょうか?

最低限度でも,人が救われるには神の存在を信じ,神は善人に見返り(報い)を与え悪人には罰を与えることを信じなければなりません(ヘブライ人への手紙11章6節)(訳注後記).たとえ「善良なプロテスタント信者」が善良な生き方をしてきたとしても,そのことを信じなければ彼は救われることはできません.だが,多くのカトリック神学者はさらにつき進めて,人が救われるには聖三位(一体) “Holy Trinity” と救い主(救世主)としてのキリスト “Christ as Redeemer” を信じなければならないと言います.カトリック神学者たちの言うことが正しいとすれば,自らの魂を救えない「善良なプロテスタント信者」の数は増えるかもしれません.

さらに神は彼らに対し,神の発する(訳注・神がキリストによるその設立当初からカトリック教会に託した)真理 “Truth that comes from him (=God)” を学ぶ機会を彼らが人生でどれほど持ったかどうか次第でそれによって,それら(上述の)二つの絶対的なカトリック教会の基本教義以上のものを求めるかもしれません.もし彼らがカトリック信仰 “Catholic Faith” についてほかのことを何も知らないとしたら,それに出会う機会がなかったということでしょうか? そうだったかも知れませんがおそらくそのようなことはないでしょう.たぶん出会う機会はあったでしょう.私は母が「善良なプロテスタント信者」だった自分の父親の出すあらゆる質問にカトリックの神父が答えてくれたことがあったと感嘆まじりに語っていたことを思い出します.ただ,私の知る限りその後どうなったか分かりません.「善良なプロテスタント信者」たちが,たとえただ一度でもカトリック教の真理に出会う機会があったとして,それをフォローアップ(追跡・追求・探究)しなかったのはなぜでしょうか? その真理がひどく下手に説かれたのでない限り,彼らはそれを事実上拒(こば)んだことになります “they were in effect rejecting truth” .彼らはなんの勘違(かんちが)いもなくそれを拒みえたでしょうか? そうでなければ,ただ悪意なくあるいは意図的に拒んだのでしょうか? 「善良なプロテスタント信者たち」は,私たちすべてと同じように,自分のことを悪意がないと考えがちです.ただし,神を欺(あざむ)くことは誰にもできません.

「善良なプロテスタント信者」が救われるためにしなければならないことがもうひとつあります.彼は(訳注・真の神が御子キリストにより建てられた唯一の教会たる絶対的な)カトリック教会(訳注後記)がその不(可)謬性(ふ〈か〉びゅうせい)において道徳的に私たちに求めること全て “the Catholic Church infallibly requires of us in morals” について必ずしも知らないかもしれませんが,少なくとも生まれつき備えた良心という自然の光 “the natural light of his inborn conscience” を持っているはずです.原罪を持つ人間がカトリック教会の秘跡の助けなしに良心の自然の光に従うのは “with no help from the Catholic sacraments to follow that natural light of one’s conscience” 実に困難なことかもしれません.だが,もし本当にそれを大きく踏み外(ふみはず)したり真実から離れるほどねじ曲げてしまえば “seriously violate it or twist it out of true” ,それにより簡単に(たやすく,あっけなく)死に値する罪 “mortal sin” の中に生きて死ぬこととなり,それはいかなる霊魂も救われない状態です.繰り返しますが,「善良なプロテスタント信者」はカトリック教徒たちの知り得る神の法の完全無欠さ “the fullness of God’s law as Catholics can know it” について(訳注・最後の審判のとき神の御前で)知らない(知らなかった)と主張するかもしれませんが,はたしてその無知 “ignorance” は真に「揺るぎない」もの,つまり,悪意のないものでしょうか? (原文: “truly invincible”, i.e. innocent? ) 例えば,彼は人為的な受胎調節手段 “artificial means of birth control” (訳注・避妊具・避妊薬を使用して避妊すること)が神にとってひどく不愉快なことであることを本当に知らないのでしょうか,それとも実際はそのこと(訳注・神が禁じている〈自然法に反する〉という事実すなわち真理)を知りたくないと思って済ませているのでしょうか?

神はご存知です.神は審判を下されます.願わくは神が「善良なプロテスタント信者たち」すべてと私たちすべてにご慈悲を賜(たまわ)らんことを.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフのはじめの訳注:
新約聖書・ティモテオへの第一の手紙:第2章4節

『*すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)

* 〈新約〉ローマ人への手紙(9・18,21)の解釈を助ける神学的に重要なことば.

* * *

第3パラグラフの二つ目の訳注:
マルコ聖福音書:第16章16節

信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.』

* * *

第4パラグラフの訳注:
ヘブライ人への手紙:第11章6節

『*信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない.神に近づく者は,神が存在されること,神を求める者に報いを賜うことを信じねばならぬからである.』

(注釈)

* 〈旧約〉知恵の書13・1.救いのためには,神の存在と,報いを下す御者を信じなければならない

* * *

第6パラグラフの訳注:

「神の教会のしるし」(使徒信経より):
“Marks of the Church” (…Credo, the Apostolic Creed):

唯一・聖・普遍(公)・使徒継承(ローマ教皇〈使徒ペトロの後継者〉+カトリック司教)
ONE, HOLY, CATHOLIC, APOSTOLIC
→ 「カトリック教会」=「公教会」

* * *

2011年8月25日木曜日

世に勝利した信仰

エレイソン・コメンツ 第212回 (2011年8月6日)

これまで4回のエレイソン・コメンツで簡単に紹介したベネディクト教皇の考え対するティシエ・ドゥ・マルレ司教 “Bishop Tissier de Mallerais” の説得力ある批判に私たちはどう応えればよいのでしょうか? (ローマ人への手紙6章1節参照)(訳注後記).教皇の考えがカトリック教的でないという非難に対し,善良なカトリック教徒たちが彼を擁護(ようご)しようと持ち出す三つの論点に目を向けてみましょう.

第一の論点は,教皇へのいかなる攻撃も概(がい)してカトリック教会の敵を利することになるというものでしょう.だが,教皇の主要な任務は「兄弟たちをカトリック信仰にしっかり繋(つな)ぎとめる」(ルカ聖福音書22章32節参照)(訳注後記)ことではないでしょうか? もし教皇の考えが信仰から著しくそれているとしたら,十分に敬意を払いつつ,彼がどこで誤ったかを指摘することはけっして彼を攻撃することにはならず,教会の敵を利することにもならないでしょう.むしろ,そうすることは教皇が自らの任務を明確に理解し,今日ますます力をつけてきている敵を征服する唯一の方法を彼に気付かせるのに役立つはずです.「私たちの信仰 - これこそがこの世(現世)を克服する勝利です.」(ヨハネの第一の手紙5章4節)(訳注後記)

ティシエ司教の論議に対する第二の反論は,とりわけ現代において,ベネディクト教皇自身がバチカンで囚(とら)われの身になっており,本心で望んでいても自由にカトリックの伝統を擁護(ようご)できない立場に置かれている,ということかもしれません.第二バチカン公会議後の歴代の教皇がカトリック教会破壊に密(ひそ)かに熱中しているフリーメーソン “Freemasons” に属する教会の高官たちに取り囲まれているのは事実です.また,第二バチカン公会議いらい金融業者連中がバチカンの首根っこにお金という首輪を惜しげもなく巻きつけてきている可能性があります.だが,真のカトリック教理が堅持され広められさえすれば,十分な資金は集まるでしょうし,ベネディクト教皇の信念はヘーゲ流の誤りの虜(とりこ)にならない限り取り巻(ま)きのフリーメーソンに容易に打ち勝つことができるでしょう.この場合の勝利とは殉教を伴うものでしょうか? 歴代の教皇による殉教が必要かもしれません.もしそれが起これば,初期のカトリック教会の時代のようにバチカンは再び解放されることでしょう!

第三の反論はより直接的ですが,四回シリーズの最後のエレイソン・コメンツがそれを暗に示しています.すなわち,ベネディクト教皇は自ら信仰と理性が互いに是正(ぜせい)し合うことのみならず伝統的な信仰をも信じていると主張するのではないかということです.教皇は十字架にかけられたイエズス御自身の肉体が御復活の主日(イースター)の朝,墓から人間の魂を伴(ともな)って甦(よみがえ)ったことを固く信じていると言われるかもしれません.したがって,もし教皇がキリスト復活の真の意味は物理的な墓から物理的な肉体が甦ったということでなく,精神的な愛が死をのり越えたことだと現代の人々に伝えるなら,それだけでキリストの復活を不信心な現代人にとって近づきやすいものにするのに役立つでしょう.

だが,聖父なる教皇猊下(げいか) “Holy Father” にお尋(たず)ねします.十字架にかけられた肉体は物理的な墓から甦ったのでしょうか,それとも甦らなかったのでしょうか? もし甦らなかったと言われるのであれば,キリストの肉体は甦ったと信じるのをおやめになり,そうだと信じるふりをすることさえやめて,妄想(もうそう)的カトリック教会の教皇たる地位を辞(じ)してください.だが,もし十字架にかけられた肉体が墓から確かに甦ったとすれば,そのことこそがあなたが哀(あわ)れな現代人に告げるべきことであり - 私の言い方をお許しいただけるなら - そうすることで現代人の不信心を彼らの口内に投げ入れるべきです.現代人に luv, luv, luv(訳注・=love.)と(安っぽい)情愛の句を説く必要などありません.彼はそのような情愛文句など一日中聞きながら過ごしているわけですから! (訳注後記) 現代人にぜひとも説く必要があるのは,甦られた私たちの主イエズス・キリストのみが執念深(しゅうねんぶか)い敵の攻撃を食い止め,まったく意気消沈(いきしょうちん)した使徒たちを世界征服者 “world-conquerors” に変えることができるということです.

聖父なる教皇猊下にお伝えします.現代世界に対しそれ自体が持つとんでもない条件の下で(原文 “…to the world on its own rotten terms”.)こちらの言わんとするところを理解させようと努めるのは無駄なことです.(訳注後記) むしろ私たちの主イエズス・キリストがお示しになる条件の下で世界を征服しましょう!(原文 “Conquer it on Our Lord's terms!” ) (訳注後記)そして,もしそのためにあなたが私たちに殉教の模範を示す必要があるとお考えなら,その模範こそが私たち多くが近い将来に必要とするかもしれないことだと,どうか信じてください.私たちはあなたのためにつつましく神に祈りをお捧げします.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第1パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒パウロのローマ人への手紙:第6章1節

それなら,私たちは何と言おうか.*恩寵を豊かにするために罪にとどまれと言うのか.』

(注釈)

* 5章20節 (『*律法は罪を増すために来た.しかし罪が増したところには,それ以上の恩寵があふれるばかりのものとなった』〈注釈〉*律法の規定は,多くの人にとって,違反の機会となったからである.) のことばを曲げてとり,罪を続ければ,罪を消す神の恩寵を増すと唱える者があった.

(参考までに前後の部分〈ローマ人への手紙:第1-8章〉を,最後の部分に追記します.)

* * *

第2パラグラフ最初の訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章32節(31節(カッコ部分)から記載)

『(シモン〈=ペトロ〉,シモン,サタン〈悪魔〉はあなたたち〈イエズスの十二使徒〉を麦のようにふるいにかけることができたが,) * 私(イエズス)はあなたのために信仰がなくならぬようにと祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟たちの心を固めよ.』

(注釈)

* カトリック神学は,ペトロの後継者の教導権と不可謬性を証明するために,ここのところも挙げる.

* * *

第2パラグラフ最後の訳注:
新約聖書・使徒ヨハネによる第一の手紙:第5章4節(太字部分)(同章1-5節を記載)

『(イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.
生んだお方を愛する人々は,また神から生まれた者をも愛する.
神を愛してそのおきてを行えば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はそのおきてを守ることにあるが,そのおきてはむずかしいものではない.
神から生まれた者は世に勝つ.)
世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である
(イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.)』

英原文: “And this is the victory which overcameth the world: Our faith.” (I Jn.V.4)

* * *

第5パラグラフの訳注:
“luv, luv, luv” の意味について.

現代世界においては,さまざまな価値(観)のレベルが非常に低下している.たとえば,「正義」という価値は人間の我欲によってその本来の真の意味が歪(ゆが)められ,人間の「我欲」という悪を正義と見なすようなとんでもなく腐敗した価値基準の下に判定されるようになってしまっている.
「愛」についても同様であり,現代世界における「愛」は人間的・肉欲的レベルでの「情愛」(自分の友人・知人,同じ民族や同郷社会人,縁故関係・血縁関係にある親子親族をより重視するような感情や,イメージ先行でキリスト教会で結婚式を挙げる場合に神をアクセサリー的存在として人間の情愛の下に置くような場合など)というようなより低いレベルの価値観でしか解釈されないため,いわゆるキリストの説かれた真の意味での高いレベルの「神の愛」や「キリストの愛」という解釈における真の「愛」について正しく理解することは,現代世界ではほとんど難しくなっている.このような世界の人たちに「愛の句」をいくら説いてみても彼ら流の「情愛」という誤った意味に受け取られるだけであり,彼らにしてみればそのような気軽で分かりやすい「情愛の句」なら毎日日常茶飯事的に耳にしている,ということ.

* * *

第6パラグラフの初めの訳注:
「現代世界に対しそれ自体が持つとんでもない条件の下でこちらの言わんとするところを理解させようと努めるのは無駄なことです.」
原文 “…it is useless trying to get through to the world on its own rotten terms”
の意味について:

「現代世界自体が持つとんでもない条件」というのは,先の第5パラグラフの訳注についてのところで説明した通り,現代世界は全く歪(ゆが)められてしまった不法の世界となっており,そこに神の正義はなく,その世界に属する不信仰な人たちの持つ価値観やその用いる言語の言い回し・用法などは,非常に堕落・腐敗しきっており,神を信じる人たちにとっては全く別世界で不可解なものとなっている.また逆に現代社会人にとっても,神を信じる人たちの信仰心やその世界・その話す言葉の意味はまったくといってよいほど理解不能である.したがって,両者間で意思の疎通を図るのは全く不可能なことであり,現代世界自体が持つこのようなとんでもなく歪んでしまった条件に合わせて神の話を彼らに説いて理解させようとするのは無駄なことだ,というような意味合い.

* * *

第6パラグラフの二つ目の訳注:
「むしろ私たちの主イエズス・キリストのお示しになる条件の下で世界を征服しましょう!」の意味について.

・主キリストが語られる御言葉の上に固く立ち,主の御言葉そのままに基づき,キリストの御足の跡に従うということ,すなわち「受難・十字架・復活」を意味する.このようなやり方で世界の人々の救霊に努めるということ.

(参照)
受難の前,ユダヤ人の過ぎ越しの祭りに際しエルサレムに入城された後のキリストのみことば
(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章20-26節)

異邦人の関心 (12章20-36節)
『祭りにあたって礼拝のために上がってきた人々の中に,何人かの*¹ギリシア人がいたが,彼らはガリラヤのベトサイダの人フィリッポ(イエズスの弟子)のところに来て,「主(あるじ)よ,私たちはイエズスにお目にかかりたいのです」と頼んだ.フィリッポはアンドレア(イエズスの弟子)にこのことを知らせに行き,アンドレアはフィリッポとともにイエズスに知らせにいった.
イエズスは言われた,「人の子(イエズス)が光栄を受ける時が来た.
まことにまことに私は言う.もし一粒の麦が地に落ちて死なぬなら,ただ一つのまま残る.しかし死ねば多くの実を結ぶ
自分の命を愛する人はそれを失い,この世でその命を憎む人は永遠の命のためにそれを保つ
私に仕えたい人があればついてくるがよい.私がいるところには,私に仕える人もまたいる.もし私に仕えるなら,父はその人を喜ばれる.
*³今しも,私の霊は騒いでいる.私は何と言おうか.父よ,この時から私を救いたまえと言おうか.だが私がこの時を迎えたのは,そのためなのである.*⁴父よ,み名の光栄を現したまえ」.
そのとき天から,「私はすでに光栄を現したが,またさらに光栄を現すであろう」という声がした.
そこにいてこれを聞いた人々は「雷が鳴ったのだ」と言い,他の人々は「天使が話しかけたのだ」と言った.
イエズスは,「*⁵あの声が聞こえたのは私のためではなく,あなたたちのためである.今この世の審判が行われ,今*⁶この世のかしらが追い出される.
*⁷私は地上から上げられて,すべての人を私のもとに引き寄せる」と言われたのは,ご自分がどんな死に方をするかを示されるためであった.
人々は,「私たちは,律法によって,キリストは永遠に生きると聞いていたのに,あなたはどうして人の子が上げられるとおっしゃるのですか.その人の子とはだれですか」と言った.
イエズスは,「光はまだしばらくの間あなたたちの中にある.*⁸光のある間に歩み,闇(やみ)に追いつかれぬようにせよ.やみの中を歩む者は自分の行く手を知らぬ.光の子となるために,光のある間に光を信じよ」と言われた.そう話してのち,彼らから去って姿を隠された.』

(注釈)

*¹ギリシア人は異邦人だったが,カファルナウムの百夫長(ルカ7・2-10)やコルネリオ(使徒10・1以下)のように,イスラエルの宗教を信じた人々のことを言っている.新約聖書では,これらの人々が「神を恐れ敬う人々」と書かれている.

この世の命を保とうとも,キリストを否む者は,永遠の命を失うであろう.信仰のためにこの世の命を捨てる者は,永遠の命を得る

*³イエズスは近い死を思って恐れる.しかし父のみ旨に自分の身をゆだねられる.

*⁴イエズスは,御父の光栄を現すために,身を死にささげられた.イエズスの死は,御父がいかにこの世を愛されたかの証拠である

*⁵この声は,イエズスの死に対する神の印であった.

*⁶サタン(悪魔)(14・30,16・11,コリント二4・4,エフェゾ2・2,6・12)はこの世を支配している.(ヨハネ一5・19).イエズスの死は人間をサタンの支配下から救った.

*⁷十字架の死の暗示であると同時に,復活の日の暗示でもある.この二つの出来事は同じ奥義の二つの現れにすぎない

*⁸とりかえしのつかなくなる前に,信仰するようにと勧められた

ユダヤ人の不信 (12章37-50節)
『人々の間でこれほど多くの奇跡を行われたのに,なお彼らはイエズスを信じなかった.*¹〈主よ,私たちのことばをだれが信じたか.主の御腕はだれに現れたか〉とある預言者イザヤのことばはこうして実現した.彼らが信じなかったのは,イザヤがまたこう言っているからである,*²〈彼らの目はくらまされ,心はかたくなにされた.それは彼らの目が見えず,その心が悟らず,改心せず,私が彼らを治さぬようにするためである〉.*³イザヤがこう言ったのはイエズスの光栄を見たときで,そのとき彼についてこう話したのである.
重立った人たちの中にはイエズスを信じた人が多かったが,ファリサイ人をはばかってそれを公言しなかった.
会堂から追放されるのを恐れた彼らは,神の誉れよりも,人間の誉れのほうを選んだ
さて,イエズスは大声でこう叫ばれた,*⁴「私を信じる人は,私を信じるのではなく,私を遣わされたお方を信じ,私を見る人は,私を遣わされたお方を見ている.私を信じる人がやみにとどまらぬように,私はこの世に光として来た
私のことばを聞いて,それを守らぬ人がいても,私はそれをさばきはしない,私は世をさばくためではなく世を救うために来た.私を捨て,私のことばを受け入れぬ人をさばくものは別にいる.
私の語ったことばこそ終わりの日にその人をさばくだろう.私は自分から語ったのではなく,私を遣わされた父が,語るべきこと説くべきことを私に命じられた.
私はその命令が永遠の命であることを知り,私の父の仰せられたままを語っている」.』

(注釈)

*¹〈旧約〉イザヤの書53・1参照.

*²イザヤの書6・9-10,マテオ聖福音書13・14-15参照.

*³神殿におけるイザヤの幻(イザヤの書6・1-4)を暗示する.その幻はキリストの光栄の預言的幻であったと,ヨハネは解釈している.

*⁴44ー50節(最後まで) ここはイエズスが今までに教えたことがらの要略である.

(この後は,受難の前日「最後の晩餐」の話へと続いている.)

* * *

2011年8月9日火曜日

ベネディクト教皇の考え方 その4

エレイソン・コメンツ 第211回 (2011年7月30日)

ティシエ司教は自著作小論文「理性に脅かされるカトリック信仰」 “Bishop Tissier’s Faith Imperilled by Reason” の最終第4部で,教皇ベネディクト16世が現代人に親しみやすようにと考え出したカトリック教の再解釈体系に対する自身の判断を明らかにしています.ベネディクト教皇の擁護(ようご)者たちはティシエ司教が教皇の考え方の一側面だけを示していると非難するかもしれませんが,教皇の考え方にはそうした側面があるのは事実であり,ティシエ司教がそれを公表しそれが一貫した誤りの体系であるとを示したのは正しいことです.なぜなら,真理がその体系に混ざれば混ざるほど,ますます巧みに偽装され,霊魂の救いにますます被害を及ぼしうるからです.

ティシエ司教は小論文の第9章でベネディクト教皇がカトリック教徒の信仰するもの(対象)をどのように変え,なぜそうするのかを示しています.真のカトリック教徒はカトリック教会が定義した信仰箇条 “the Articles of Faith” (訳注・たとえば「使徒信経」 “Credo” 他)を信じます.彼らがそれを受け入れるのは,それが客観的権威たる神の啓示だからです.だがベネディクト教皇にはその信仰箇条は暖か味(あたたかみ)のない定義に満ちた抽象的宗教に映るようです.したがって教皇はそれに代わるものとして 「カトリック信仰とは神の御臨在,愛の臨在たるイエズスという人間との出会いである」 と仰(おっしゃ)るでしょう.このように変えられた信条は,より温かく個人的に感じられるかもしれませんが,それは同時に頼りない主観的感情に基づいた個人的体験という曖昧(あいまい)な果実となりかねない危険をはらんでいます.だが,気分的に心地よいというだけで,天国へ行くのにグラグラ揺れる橋を渡ろうなどと誰が本気で望むでしょうか?

さらに第10章でティシエ司教はこの変更から生じる信条システム全体がいかにグラグラ揺れ動くものであるかを示し,それは,ベネディクト教皇のフェルト製カトリック教 “felt Catholicism” のレシピが非本質的な過去の教義を浄化し,現在から引き出されるより理解しやすい認識をベースに改良するからだと言っています.だが,現代の認識の第一形成者はベネディクト教皇が信奉する哲学者のカントです.カントは神の存在は証明不能で,客観的な諸々の実在に取って代わる人間の必要に応じて仮定され造り出されたものにすぎないと考えます.彼が考えるような世界で,いったい何人の人々が神を前提として受け止めるでしょうか? 1996年にラッツィンガー枢機卿 “Cardinal Ratzinger” がカトリック教会の将来は暗いと予見したとしても驚くにはあたりません.

ティシエ司教は後書きで,ベネディクト教皇は持論(じろん)とするカトリックの心と現代の頭を調和させることが緊急の課題とし,そのために主観的に模索(もさく)している現代的なものとカトリック教 “Catholicism” とを合体させようとしているが,これは不可能なことだと結論づけています.例えば,教皇は今日すべての民主主義国が傾倒(けいとう,“idolized” )している人間の諸権利 “the Rights of Man” (=人権)は単にキリスト教信仰の改訂 “the up-dating of Christianity” にすぎないと信じたいのです.だが,そうした権利は実際にはキリスト教の死を意味するものなのです.権利主張の論理に内在するのは神からの独立宣言であり,神授(しんじゅ)の人間性が持つあらゆる締(し)め付けからの解放宣言です(原文… “Implicit in their logic is a declaration of independence from God, and of liberation from all constriction by any God-given human nature” ). 権利主張は実のところ現代人が神に仕掛(しか)ける戦いの要石(かなめいし)(原文… “a keystone in modern man’s war on God” ) なのです.

したがってベネディクト教皇は,宗教と理性の「相互改良」を勘案(かんあん)した両者間の「相互浄化と再生」に世界の持続を託するなどということに望みを置くべきではない,とティシエ司教は述べています.こと宗教に関する限り,世俗化された理性が価値あるものを提供することなどまったくといっていいほどありませんし,それと折り合いをつけようとするカトリック神学者たちのあらゆる試みはトランプカードで建てた家のように倒壊(とうかい)するでしょう.ちょうど彼らが仕えたいと望んでいる新世界秩序 “the New World Order” 同様にです.そしてティシエ司教は最後の言葉を聖パウロに譲(ゆず)っています - 「すでに置かれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を,だれも置くことはできぬ.」(〈使徒パウロによる〉コリント人への第一の手紙・第3章11節)(原文… “For other foundations no man can lay, but that which is laid: which is Christ Jesus” (I Cor.III, 11).

ティシエ司教の小論文の全文は以前はフランス語版で入手できましたが,現在は絶版となっています.英語にも翻訳されましたが,一般に入手可能となっていません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

2011年8月8日月曜日

ベネディクト教皇の考え方 その3

エレイソン・コメンツ 第210回 (2011年7月23日)

ベネディクト教皇の考え方の根源に触れた後 (エレイソン・コメンツ第209回) ,ティシエ司教は自身の論文 「理性に脅かされるカトリック信仰」 “in his Faith Imperilled by Reason” でさらに教皇の考え方が生み出す諸々の果実について検討を進めています.もしベネディクト教皇の考え方がとりわけカント (1724-1804年) の体系的主観論にその根源を置いたものであれば,そこから生まれる果実が良いはずはありません.カトリック信仰の客観的真理がどうして主観論信奉者の関与あるいは反応に左右されることがあり得ましょうか? もしそうだとすれば, (キリスト御自身が宣教された) 福音, (彼自身の) 教義, (彼自らが建てられた唯一の教会たる) カトリック教会,社会,王たるキリストおよび終末 (世の終わり) についての真理 “The Gospel, dogma, the Church, society, Christ the King and the Last Ends” はみな次々に致命的な傷を負い壊されてしまうことになるでしょう.

まず福音から検討してみましょう (訳注・以下は「教皇の考え方によった場合のカトリック教の各要素の解釈の仕方」を述べている) .福音の真価はもはや私たちの主イエズス・キリストの生と死という史実をそのまま宣教することではなく,むしろ福音の語り口に私たち自身の時代の実存的な諸問題を想起させる力があるかどうかということになります.例えば,御復活日の朝 “On Easter morning” ,私たちの主キリスト御自身の身体が墓から起きて御自身の人間的霊魂と再び合体したかどうかは重要ではありません.肝心なのは福音の語り口の背後にある以下のような現代的な意味づけということになります.すなわち,愛は死よりも強いということ,キリストが愛の力により今日まで生き続けておられること,そして私たちも愛によって生き続けるよう保証しておられるということなどです.福音にある現実性や様々な事実のことは忘れなさい. 「愛だけがすべて “All you need is love.” 」 ということになります.

同じように,カトリック教義も過去から浄化され現在によって改良される必要があることになります.現代の哲学者ハイデッガー “Heidegger” は人は 「自己超越的」 存在だと教えます.そうだとすると,キリストは全く自己超越的な人間だったのであり,完全に彼自身を超越した無限の神の姿を自分のものにすべく懸命に努力したのであり,遂に神になれるほどに自分の能力を十分に発揮したということになります.従って御顕現 (けんげん.または御託身〈ごたくしん〉. “the Incarnation” ) の教義はもはや神が人間となったことを意味するのではなく,人間が神となったとことを意味するのです! 同様に贖罪 (しょくざい. “the Redemption” ) はイエズス・キリストが恐ろしい受難 “Passion” により天の御父に対し万人の罪の負債を支払ったとことを意味するのではなく,キリストが十字架により神が愛されるように私達人間に代わって神を愛されたのであり,私たちにも同じようにするよう求めていることを意味するというのです.罪とはもはや神に対する致命的な反逆ではなくなり,ただ単にわがまま,愛の欠如にすぎないということになります.従ってミサ聖祭はもはや神に捧げる犠牲たるべき必要はなく,司式をする司祭はただの共同祝祭のアニメーター (アニメ制作者) にすぎません.ベネディクト教皇が新しい典礼によるミサ聖祭 “the Novus Ordo Mass” を信奉しているのも頷(うなず)けます.

カトリック教会についてはどうかと言うと,実存する人間が最高価値で (エレイソン・コメンツ第209回をご参照ください) すべての人間が平等に実存しているのですから,カトリック教会の聖職階級制上の差 “a Church of hierarchical inequalities” など無用,また唯一の救いの箱舟 “Ark of Salvation” としてのカトリック教会は廃止せよというわけです.なぜなら,いかなる宗教の信奉者もすべて実存する人間だからです.エキュメニズム “ecumenism” (世界教会主義) があらゆるカトリック教会の宣教努力 “all Catholic missionary efforts” に取って代わることになります.同様に個々人を最高価値と認めることは社会の共通善を個々人の人権の下に従属させることであり,それによって社会は消滅することになるでしょう.そして男性と女性という個人同士の相互関係を子供たちより優先することで結婚と社会の両方の土台を壊(こわ)しともに弱体化させてしまうでしょう.王たるキリスト “Christ the King” に関して言えば,自分の宗教を選ぶ個々人の権利を国家が保護すべきであるとする尊厳が全ての個々人に与えられることによりキリストは王の座を奪われることになるでしょう.

最後に死についてです.それが罰からもたらされた場合,死は私たちの様々な苦難に対する救済策となることになります.個々の審判はただご褒美(ほうび)を意味するだけにすぎません.地獄とはただ霊魂の取り返しがつかないほどの身勝手な状態を意味するだけにすぎないことになります.天国とは 「存在の無限性に全く新たに浸り切ること」 を意味するようになるでしょう - ここでの存在とは何でしょう? - その他まだいろいろあります.そこにあるのは一つの新たな宗教,すなわちカトリック教より - 少なくともこの世では - はるかに心地よい宗教でしょうと,ティシエ司教はコメントしています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

2011年8月7日日曜日

ベネディクト教皇の考え方 その2

エレイソン・コメンツ 第209回 (2011年7月16日)

教皇ベネディクト16世の考え方に関するティシエ司教の論文を4部に分けてみますと,第2部ではその哲学的,神学的ルーツに触れています.同司教は先ずベネディクト教皇の哲学を分析するにあたり,ピオ10世が発表された偉大な回勅(かいちょく) 「パッシェンディ “Pascendi” 」 の趣旨に沿っています.ワインの瓶の中が汚れていれば,どんなに良いワインを入れても腐ってしまいます.もし人の心が真実から隔たったものであれば,近代哲学がそうであるように,カトリック信仰でさえそれを通して誤った方向へ導かれてしまうでしょう.なぜなら,そのような状態では信仰が真実によって正しい方向へ導かれなくなるからです.教皇の問題はまさしくこの点にあります.

ティシエ司教は先代のピオ10世と同じように,現代人が置かれているこの惨状を招いた主因はドイツの啓蒙(もう)哲学者 “Enlightenment philosopher” イマヌエル・カント “Immanuel KANT” (1724-1804年) だとしています.カントは現代のいたるところにはびこっている反思想体系 “the system of ani-thought” を完成させた哲学者で,その考え方は神を理性的な話の枠外(わくがい)に置くもの “excludes God from rational discourse” です.というのは,カントが主張したように,もし人間の心が五感の捉(とら)えるもの “what appears to the senses” 以外の客体を認知できないとすれば,心は感覚的な見かけの裏にある真実 “the reality behind the senses” をいかようにも再構築できるわけで,客観的な真実は不可知のものと一蹴(いっしゅう)され “objective reality is dismissed as unknowable” ,主体がすべて (の最高位に君臨する) ということになります.主体が神を必要とし,神の存在を前提とするならよしとしましょう.そうでない場合は,言ってみれば,神に運がなかったということになります!

ティシエ司教は次に5人の近代哲学者に触れています.5人はいずれも,発想を真実より,主体を客体より重視するカントの主観的な愚行のもたらす帰結を解明しようと試みています.この中で,教皇の考え方にとって最も重要なのは実存主義 “Existentialism” の父ハイデッガー “Heidegger” (1889-1976年) と一級の人格主義 “personalism” 提唱者ブーバー “Buber” (1878-1965年) の二人かもしれません.もし (カントが言うように) 霊的実体が不可知だとすれば “If essences are unknowable (Kant)”,残るのはただ実存するものだけです.ここで最も重要な実存は個人ということで,これがブーバーにとっての間主観性 “intersubjectivity” すなわち主体的な個人同士の 「私とあなた “I-You” 」 の関係を成すものであり,この関係が彼にとっての神への道を開いています.この考え方によれば,客体としての神を認知するかどうかは人間が主体的に関わりを持つかどうか次第ということになります.この認知がよって立つ土台はいかにも心細いものではないでしょうか!

だが,人間の主体的な関わりがベネディクト教皇の理論的思考の鍵(かぎ)となっており,ティシエ司教の記述によれば,その考え方に最初に影響を与えたのはドイツの有名なテュービンゲン神学校 “School of Tuebingen” です.この学校はJ.S.ドレイ (1777-1853年) (訳注・Johann Sebastian von Drey. ドイツのカトリック神学者.) が創立したもので,歴史を動かすのは一定の姿をとどめる各時代の精神であり,それはキリストの霊であるとの立場を取っていました.従って神の啓示は最後の使徒の死で終わりとなったカトリック信仰の遺産 “Deposit of Faith” (訳注・「聖書とカトリック聖伝(聖なる伝承)」を指す )にとどまらず,時の経過とともにより明確なものになるというのです.それどころか,神の啓示は内容的に絶(た)えず進化するもので,それを受ける主体がそれに貢献するというのです.従って,各時代の教会は神の啓示に対し受動的でなく能動的な役割を果たし,過去の聖伝 (カトリック伝統) に現代の意味を与えるとの立場です.このことは聞いた覚えがあるように思えてきたのではないでしょうか? ディルタイ “Dilthey” の解釈学に似ていないでしょうか? エレイソン・コメンツ第208回をご覧ください.

かくして,教皇ベネディクト16世にとって神は自分から隔たった客体でも単なる主体でもありません.教皇にとって神は人格的なもので,一人の 「私」 が人間個々人の 「あなた」 とやり取りする存在なのです “…an “I” exchanging with each human “You” .聖書すなわち聖伝は確かに神たる 「私」 “the divine “I” ” から客観的に発するものとしながらも,他方で生きていて変わっていく 「あなた」 “the living and moving “You” ” は絶えず聖書を読み返す必要があり,聖書が聖伝の根底である以上,聖伝 (カトリック伝統) もルフェーブル大司教の説く 「固定的 (=非進化論〈生物不変説〉的) “fixist” 」聖伝のように静的なものでなく,主体が関わることによって動的なものに変えなければならないとします.同じように,神学理論も主体的に捉えなければならず “subjectivized” ,カトリック信仰は神を個人的に 「体験」 すること “a personal “experiencing” of God” でなければならず,教導権 (訳注後記) でさえただ単に静的に固定されたままとどまるだけにすぎない存在たることを止めるべき (変わっていくべき) ものだというのです.

「呪(のろ)わるるべきは人間に信を置く人間なり」 と預言者エレミアは言っています (エレミアの書:17章5節) “Accursed is the man that puts his trust in man” says Jeremiah ( XVII, 5). (訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第5パラグラフの訳注:
教導権 “Magisterium” について.

カトリック教義を指導する権限のこと.ローマ教皇をはじめ,カトリック教会の各司教に与えられている.

* * *

最後のパラグラフの訳注:
旧約聖書・エレミアの書:第17章5節

『(主は仰せられる.)「人によりたのみ、*肉を自分の腕とし,その心を主から遠ざける者はのろわれる…」』

(注釈)

*信心深いイスラエル人にとって,その腕は神である(イザヤの書53・1,詩篇71・18).しかし,その神ではなく,人間を力にする.

(注)現代において,聖書でいわれるイスラエル人とは,(聖書に啓示される)真の神の存在とそのみ教えを信じるすべての人(=キリスト信者=Catholics)を指している.
* * *

2011年8月2日火曜日

ベネディクト教皇の考え方 その1

エレイソン・コメンツ 第208回 (2011年7月9日)

6月18日付「エレイソン・コメンツ」で私は現教皇ベネディクト16世の「信仰の持ち方」がいかに「間違った方向に向(むか)っているか」を4回続きで示すと約束しました.実際には,聖ピオ十世会に所属する四人の司教の一人であるティシエ・ドゥ・マルレ司教 “Bishop Tissier de Mallerais” が数年前に教皇の考え方について著(あらわ)した貴重な小論文の要約を紹介することになります.ティシエ司教は「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」 “The Faith Imperilled by Reason” (訳注後記)と題するご自身の論文を「飾り気のない」内容だと称されていますが,それは確かに教皇の根本的な問題,すなわち,現代世界の諸価値観を排除することなしにどうカトリック教を信仰するか,について本質ををさらけ出しています.論文は教皇が現在でも依然(いぜん)として何らかの方法でカトリック教を信仰しているとしても,その信仰の持ち方では必然的に間違った方向に導かれることを論証しています.

論文は四部構成です.ティシエ司教は教皇ベネディクト16世の 「継続性の解釈学」 について紹介する重要な序論Introduction” に続いて,教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツroots” について簡潔に触れています.第三部で同司教は,教皇の信仰の仕方がキリストの福音 “the Gospel” ,カトリック教義 “dogma” (訳注・キリストとその唯一の教会のみ教えをその通りに忠実に守るという意味での),カトリック教会と社会 “the Church and society” ,キリストの王位 “the Kingship of Christ” および最後の事柄 “the Last Things” (訳注・終末=死,死後の審判,身体の復活,天国,地獄,煉獄(れんごく)のこと.)についてどのように結実(けつじつ) “fruits” することになるかを詳しく説明しています.ティシエ司教は教皇の「新信仰」 “Newfaith” について極めて批判的ながらも敬意に満ちた慎重な判断judgment” を下して論文を締めくくっています.では,まず序論の要旨(ようし)から始めましょう:--

教皇ベネディクト16世にとっての基本的な問題とは,私たちすべてと同様に,カトリック信仰と現代世界の間で起こる衝突(しょうとつ)です.例えば,現教皇は現代科学は道徳を超越しており “amoral” ,現代社会は世俗的で “secular” ,現代文化は多宗教的だ “multi-religious” と見ておられます.教皇はこの衝突をカトリック信仰と理性,すなわちカトリック教会の信仰 “the Faith of the Church” と18世紀の啓蒙(けいもう)時代 “the 18th century Enlightenment” に考案された理性との間で起こるものだと規定しています.しかしながら,教皇はこの両方を互いに調和するやり方で解釈し得るし,またそうしなければならないと確信しています.教皇がカトリック信仰を今日の世界に妥協させようと試みた公会議,すなわち第二バチカン公会議に密接に参画したのはこのためです.だが伝統的なカトリック教を信奉(しんぽう)する信徒たちは,第二バチカン公会議はその諸原理そのものがカトリック信仰と相いれないために失敗したと言っています.そこで,教皇ベネディクト16世は「継続性の解釈学」
“Hermeneutic of Continuity” ,つまり,カトリックの伝統と第二バチカン公会議の間には何らの不和も存在しないことを示すための解釈体系(システム)を著したわけです.

教皇の「解釈学」 “hermeneutic” の根底をなす原則は19世紀のドイツの歴史学者ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911) “Wilhelm Dilthey” に遡(さかのぼ)ります.ディルタイは,真理は歴史の中で生じるものだから,それ自身の歴史においてのみ理解され得るもので,人類についてのいかなる真理も人類自身がその歴史に関わらない限り理解され得ないと主張しました.従って過去の諸真理の核心を現在に継続させるためには,人は過去に属する諸要素のうち現在では無意味なものをすべて取り去り,今生きている者にとって大事な要素 “elements important for the living present” と置き換える必要がある,というのです.ベネディクト教皇はこの二重の浄化および改良のプロセスをカトリック教会に当てはめています.一方では理性をもってカトリック信仰を過去から引きずる過ち,例えば教会の絶対主義から浄化しなければならないとしながら,他方でカトリック信仰は理性を備えて,宗教に対する理性からの攻撃を緩和(かんわ)しなければならず,かつ理性のもつ人道的価値観 “humanist values” ,自由,平等そして友愛(兄弟愛) “liberty, equality and fraternity” はすべてカトリック教会発祥(はっしょう)のものであることを心に留めなければならないとしているのです.

ここで教皇が犯している重大な誤りは,キリスト教文明の礎(いしずえ)であり,そのかすかなこん跡(せき)が依然として拠(よ)って立つカトリック信仰の諸々の真理は決して人類の歴史からでなく,永遠に変わることのない神の胸裏(きょうり) “the eternal bosom of the unchanging God” から発祥していることを理解していないことです.それは永遠から生まれ永遠に続く不変の真理です “They are eternal truths, from eternity, for eternity”. 「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」と私たちの主イエズス・キリストは仰せられます (マテオ福音24・35) “Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” says Our Lord, (MtXXIV,35) .ディルタイも,そして一見したところ教皇ベネディクト16世も人類の歴史や人類による条件付けをはるかに超越した諸々の真理を思い描くことなどできないのでしょう.もし教皇が信仰心のない理性 “faithless Reason” に譲歩をすることで,そうした理性の信奉者をカトリック信仰に近づけることができるとお考えであれば,彼に再び考えさせてあげましょう.理性の信奉者はますますカトリック信仰を軽蔑(けいべつ)するだけでしょう!

次回は,ベネディクト教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツについて述べることにします.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

最初のパラグラフの訳注:

・「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」(和訳)
・ “The Faith Imperilled by Reason” (英訳)
についての情報:

仏語原文:
“La Foi au Péril de la Raison - Herméneutique de Benoît XVI”
par Mgr. Bernard Tissier de Mallerais, FSSPX
Le Sel de La Terre, n° 69, été 2009, la revue des dominicains de France.
出典:フランス・ドミニコ会季刊誌「地の塩」第69号,2009年夏・発行

英訳:
“The Faith Imperilled by Reason: Benedict XVI’s Hermeneutics”
by Msgr. Bernard Tissier de Mallerais, SSPX
From “Le Sel de La Terre”, Issue 69, Summer 2009

* * *