2011年8月8日月曜日

ベネディクト教皇の考え方 その3

エレイソン・コメンツ 第210回 (2011年7月23日)

ベネディクト教皇の考え方の根源に触れた後 (エレイソン・コメンツ第209回) ,ティシエ司教は自身の論文 「理性に脅かされるカトリック信仰」 “in his Faith Imperilled by Reason” でさらに教皇の考え方が生み出す諸々の果実について検討を進めています.もしベネディクト教皇の考え方がとりわけカント (1724-1804年) の体系的主観論にその根源を置いたものであれば,そこから生まれる果実が良いはずはありません.カトリック信仰の客観的真理がどうして主観論信奉者の関与あるいは反応に左右されることがあり得ましょうか? もしそうだとすれば, (キリスト御自身が宣教された) 福音, (彼自身の) 教義, (彼自らが建てられた唯一の教会たる) カトリック教会,社会,王たるキリストおよび終末 (世の終わり) についての真理 “The Gospel, dogma, the Church, society, Christ the King and the Last Ends” はみな次々に致命的な傷を負い壊されてしまうことになるでしょう.

まず福音から検討してみましょう (訳注・以下は「教皇の考え方によった場合のカトリック教の各要素の解釈の仕方」を述べている) .福音の真価はもはや私たちの主イエズス・キリストの生と死という史実をそのまま宣教することではなく,むしろ福音の語り口に私たち自身の時代の実存的な諸問題を想起させる力があるかどうかということになります.例えば,御復活日の朝 “On Easter morning” ,私たちの主キリスト御自身の身体が墓から起きて御自身の人間的霊魂と再び合体したかどうかは重要ではありません.肝心なのは福音の語り口の背後にある以下のような現代的な意味づけということになります.すなわち,愛は死よりも強いということ,キリストが愛の力により今日まで生き続けておられること,そして私たちも愛によって生き続けるよう保証しておられるということなどです.福音にある現実性や様々な事実のことは忘れなさい. 「愛だけがすべて “All you need is love.” 」 ということになります.

同じように,カトリック教義も過去から浄化され現在によって改良される必要があることになります.現代の哲学者ハイデッガー “Heidegger” は人は 「自己超越的」 存在だと教えます.そうだとすると,キリストは全く自己超越的な人間だったのであり,完全に彼自身を超越した無限の神の姿を自分のものにすべく懸命に努力したのであり,遂に神になれるほどに自分の能力を十分に発揮したということになります.従って御顕現 (けんげん.または御託身〈ごたくしん〉. “the Incarnation” ) の教義はもはや神が人間となったことを意味するのではなく,人間が神となったとことを意味するのです! 同様に贖罪 (しょくざい. “the Redemption” ) はイエズス・キリストが恐ろしい受難 “Passion” により天の御父に対し万人の罪の負債を支払ったとことを意味するのではなく,キリストが十字架により神が愛されるように私達人間に代わって神を愛されたのであり,私たちにも同じようにするよう求めていることを意味するというのです.罪とはもはや神に対する致命的な反逆ではなくなり,ただ単にわがまま,愛の欠如にすぎないということになります.従ってミサ聖祭はもはや神に捧げる犠牲たるべき必要はなく,司式をする司祭はただの共同祝祭のアニメーター (アニメ制作者) にすぎません.ベネディクト教皇が新しい典礼によるミサ聖祭 “the Novus Ordo Mass” を信奉しているのも頷(うなず)けます.

カトリック教会についてはどうかと言うと,実存する人間が最高価値で (エレイソン・コメンツ第209回をご参照ください) すべての人間が平等に実存しているのですから,カトリック教会の聖職階級制上の差 “a Church of hierarchical inequalities” など無用,また唯一の救いの箱舟 “Ark of Salvation” としてのカトリック教会は廃止せよというわけです.なぜなら,いかなる宗教の信奉者もすべて実存する人間だからです.エキュメニズム “ecumenism” (世界教会主義) があらゆるカトリック教会の宣教努力 “all Catholic missionary efforts” に取って代わることになります.同様に個々人を最高価値と認めることは社会の共通善を個々人の人権の下に従属させることであり,それによって社会は消滅することになるでしょう.そして男性と女性という個人同士の相互関係を子供たちより優先することで結婚と社会の両方の土台を壊(こわ)しともに弱体化させてしまうでしょう.王たるキリスト “Christ the King” に関して言えば,自分の宗教を選ぶ個々人の権利を国家が保護すべきであるとする尊厳が全ての個々人に与えられることによりキリストは王の座を奪われることになるでしょう.

最後に死についてです.それが罰からもたらされた場合,死は私たちの様々な苦難に対する救済策となることになります.個々の審判はただご褒美(ほうび)を意味するだけにすぎません.地獄とはただ霊魂の取り返しがつかないほどの身勝手な状態を意味するだけにすぎないことになります.天国とは 「存在の無限性に全く新たに浸り切ること」 を意味するようになるでしょう - ここでの存在とは何でしょう? - その他まだいろいろあります.そこにあるのは一つの新たな宗教,すなわちカトリック教より - 少なくともこの世では - はるかに心地よい宗教でしょうと,ティシエ司教はコメントしています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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