2011年8月31日水曜日

「ギリシアの贈り物」

エレイソン・コメンツ 第214回 (2011年8月20日)

3週間余り後の9月14日,ローマでレヴェイダ枢機卿 (訳注・ “Cardinal William Joseph Levada.” 現ローマ教皇庁教理省長官)以下のローマ教皇庁代表と聖ピオ十世会総長および2名の補佐役との間で会合が開かれると聞いています.ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” と彼が創立した聖ピオ十世会が過去40年にわたりカトリック信仰擁護(ようご)のため行ってきたことのすべてを正当に評価している信者は注意を怠(おこた)らないようにしておく必要があります.というのは,カトリック信仰がこれまでないほどの危険に瀕(ひん)するからです.祈りによって「転ばぬ先の杖」としましょう.

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会が2009年秋から今年4月まで行った教理上の論議 “the doctrinal Discussions” の統括責任者はほかならぬ教理庁長官 “Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith” のレヴェイダ枢機卿でした.聖ピオ十世会を今度の会合に招いたのはローマ教皇庁でした.9月14日の会合でローマ教皇庁代表が聖ピオ十世会との関係について,これまでの数回にわたる教理上の論議で出てきた決定事項を持ち出すと予期するのは穏当(おんとう)なところではないかと思えます.

誰に聞いても,数回の教理上の論議では長い年月を経たカトリック教理を貫(つらぬ)く聖ピオ十世会と第二バチカン公会議後の「新しい教会」 “Newchurch” の教えに固執する現ローマ教皇庁との間で教理上の合意がまとまるなど不可能だということがはっきりしました.まして,現ローマ教皇庁はその誤った方向を守り抜こうとしています.この点は,今年5月に前教皇ヨハネ・パウロ2世を「新たに(=新方式で)列福」したこと “Newbeatification” ,第3回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 “Assisi III” をこの10月に開こうとしていることからも明白です.したがって,教理上の論議の結果生じた状況は2年前と全く同じで,同じ教理上の論議に引き継がれることになります: すなわち,一方では聖ピオ十世会は神の光栄と人類救済のためローマ教皇庁がカトリック信仰に復帰するよう努めるでしょうし,一方では公会議主義下のローマ教皇庁は現代人の栄光とその下劣なメディア(2009年1月,2月のときのような)の満足のため全力を尽くして聖ピオ十世会を「新しい信仰」たる心身とも腐敗した世界教会主義に溶け込むよう “to blend into the mind- and soul-rotting ecumenism of the Newfaith” 説得するでしょう.

9月14日にローマ教皇庁は聖ピオ十世会になにを押し付けようとするでしょうか?「あめ」か「むち」 “carrot or stick” のいずれかでしょう.あるいは聖ピオ十世会内部の今の心理状態を読む技術を駆使して “as adjusted by their expertise in its reading of the current state of mind within the SSPX” ,「あめ」と「むち」の両方かもしれません.「むち」の方は,聖ピオ十世会を永久・完全に「破門」するという脅(おど)しかもしれません.だが,カトリック信仰を持つ誰がそのような脅しに怯(おび)えるでしょうか? ルフェーブル大司教が「新しい教会」から初めて「破門」の脅(おど)しを受けたとき,彼が「一度たりとも所属したことのない“教会”から私がどうして除名され得るでしょうか?」と応じたのを私たちは思い出します.

反対にローマ教皇庁が出すもっとも賢明な「あめ」といえば,聖ピオ十世会の諸条件で「ローマ教皇庁と全面的な交流を持つ」という一見断りがたい申し入れかもしれません.それには隠(かく)された短い1項が入っているかもしれません.つまり,聖ピオ十世会の将来の幹部( “Superiors.” 修道院長たち) および司教たち “Bishops” はローマ教皇庁と聖ピオ十世会の合同委員会で選ぶこと,同委員会ではローマ教皇庁がわずかながら多数を占めること,といった内容です.結局のところ,聖ピオ十世会はローマ教皇庁の支配下に入ることを望むのか望まないのか? ローマ側の妥当な要求は,2001年にラッツィンガー枢機卿が叫んだと伝えられるように,「どちらかに決心しなさい!」ということでしょう.

明晰(めいせき)な頭脳の持ち主なら,ギリシアの木馬(もくば)がトロイに持ち込まれるのを嫌がった賢明な - だが冷笑された - トロイ人の言ったことを思い浮かべるでしょう.「どうあっても,私はギリシア人が怖い.たとえ贈り物を持参していても.」それでもトロイの木馬は引き込まれました.私たちは誰でもトロイに何が起きたか知っています.(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第6パラグラフの訳注:

トロイ(またはトロイア) “Troy, Troia” について.
・トロイは小アジア北西部(現トルコ)の古代都市.海岸から約5㎞入ったヒッサルリク “Hissarlik” の丘上にあり,ダーダネルス海峡( “The Dardanelles” (英語).トルコ名: “Çanakkale Boğazı” )を支配する有利な位置にあるため貿易が発達して繁栄した.
・古代ギリシアと戦った「トロイ戦争」の舞台で,ここに登場する「トロイの木馬」により戦争が終結した.
・「トロイ戦争」は古代ギリシア伝説の一つであり,数ある中でホメロスの《イーリアス》《オデュッセイア》がとりわけ有名である.
・トロイ(の遺跡)の発見はトロイ戦争の伝説の実在を信じたシュリーマン “Heinrich Schliemann” (1822-1890)というドイツの考古学者がトルコのヒッサルリクを発掘し(1871-1873年)トロイ文明の実在を証明したことによる.トロイ戦争が起こったのは紀元前13世紀頃とされる.トロイの遺跡は1998年,世界文化遺産に登録された.

トロイ(トロイア)の木馬 “Trojan Horse”について.
・「トロイの木馬」を使った軍事作戦によりトロイ軍を欺(あざむ)くことに成功したギリシア軍が遂に長年に及んだトロイ戦争で勝利を収めた.
・トロイの市街は強固な城壁により防御されていたが,ある日,大きな木馬だけを残しギリシア軍は跡形もなく消え去っていた.「ギリシア軍は戦いをあきらめ女神アテナに献上する木馬を(トロイの城壁の門の前に)置き残し逃げ去ったのだ」との話を信じてしまったトロイ人はその木馬を城壁の門を壊してまで市中に引き入れてしまった.木馬を引き入れるのに反対したトロイの神官は殺されてしまった.
・トロイ人が勝利の酒に酔いしれて眠ってしまった後,木馬の中に潜(ひそ)んでいたギリシアの精兵数名が外に出てきて味方の軍を呼び寄せトロイを総攻撃したので,トロイは落城してしまった.

(ブリタニカ国際大百科事典,百科事典マイペディア他参照)

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