2011年8月2日火曜日

ベネディクト教皇の考え方 その1

エレイソン・コメンツ 第208回 (2011年7月9日)

6月18日付「エレイソン・コメンツ」で私は現教皇ベネディクト16世の「信仰の持ち方」がいかに「間違った方向に向(むか)っているか」を4回続きで示すと約束しました.実際には,聖ピオ十世会に所属する四人の司教の一人であるティシエ・ドゥ・マルレ司教 “Bishop Tissier de Mallerais” が数年前に教皇の考え方について著(あらわ)した貴重な小論文の要約を紹介することになります.ティシエ司教は「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」 “The Faith Imperilled by Reason” (訳注後記)と題するご自身の論文を「飾り気のない」内容だと称されていますが,それは確かに教皇の根本的な問題,すなわち,現代世界の諸価値観を排除することなしにどうカトリック教を信仰するか,について本質ををさらけ出しています.論文は教皇が現在でも依然(いぜん)として何らかの方法でカトリック教を信仰しているとしても,その信仰の持ち方では必然的に間違った方向に導かれることを論証しています.

論文は四部構成です.ティシエ司教は教皇ベネディクト16世の 「継続性の解釈学」 について紹介する重要な序論Introduction” に続いて,教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツroots” について簡潔に触れています.第三部で同司教は,教皇の信仰の仕方がキリストの福音 “the Gospel” ,カトリック教義 “dogma” (訳注・キリストとその唯一の教会のみ教えをその通りに忠実に守るという意味での),カトリック教会と社会 “the Church and society” ,キリストの王位 “the Kingship of Christ” および最後の事柄 “the Last Things” (訳注・終末=死,死後の審判,身体の復活,天国,地獄,煉獄(れんごく)のこと.)についてどのように結実(けつじつ) “fruits” することになるかを詳しく説明しています.ティシエ司教は教皇の「新信仰」 “Newfaith” について極めて批判的ながらも敬意に満ちた慎重な判断judgment” を下して論文を締めくくっています.では,まず序論の要旨(ようし)から始めましょう:--

教皇ベネディクト16世にとっての基本的な問題とは,私たちすべてと同様に,カトリック信仰と現代世界の間で起こる衝突(しょうとつ)です.例えば,現教皇は現代科学は道徳を超越しており “amoral” ,現代社会は世俗的で “secular” ,現代文化は多宗教的だ “multi-religious” と見ておられます.教皇はこの衝突をカトリック信仰と理性,すなわちカトリック教会の信仰 “the Faith of the Church” と18世紀の啓蒙(けいもう)時代 “the 18th century Enlightenment” に考案された理性との間で起こるものだと規定しています.しかしながら,教皇はこの両方を互いに調和するやり方で解釈し得るし,またそうしなければならないと確信しています.教皇がカトリック信仰を今日の世界に妥協させようと試みた公会議,すなわち第二バチカン公会議に密接に参画したのはこのためです.だが伝統的なカトリック教を信奉(しんぽう)する信徒たちは,第二バチカン公会議はその諸原理そのものがカトリック信仰と相いれないために失敗したと言っています.そこで,教皇ベネディクト16世は「継続性の解釈学」
“Hermeneutic of Continuity” ,つまり,カトリックの伝統と第二バチカン公会議の間には何らの不和も存在しないことを示すための解釈体系(システム)を著したわけです.

教皇の「解釈学」 “hermeneutic” の根底をなす原則は19世紀のドイツの歴史学者ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911) “Wilhelm Dilthey” に遡(さかのぼ)ります.ディルタイは,真理は歴史の中で生じるものだから,それ自身の歴史においてのみ理解され得るもので,人類についてのいかなる真理も人類自身がその歴史に関わらない限り理解され得ないと主張しました.従って過去の諸真理の核心を現在に継続させるためには,人は過去に属する諸要素のうち現在では無意味なものをすべて取り去り,今生きている者にとって大事な要素 “elements important for the living present” と置き換える必要がある,というのです.ベネディクト教皇はこの二重の浄化および改良のプロセスをカトリック教会に当てはめています.一方では理性をもってカトリック信仰を過去から引きずる過ち,例えば教会の絶対主義から浄化しなければならないとしながら,他方でカトリック信仰は理性を備えて,宗教に対する理性からの攻撃を緩和(かんわ)しなければならず,かつ理性のもつ人道的価値観 “humanist values” ,自由,平等そして友愛(兄弟愛) “liberty, equality and fraternity” はすべてカトリック教会発祥(はっしょう)のものであることを心に留めなければならないとしているのです.

ここで教皇が犯している重大な誤りは,キリスト教文明の礎(いしずえ)であり,そのかすかなこん跡(せき)が依然として拠(よ)って立つカトリック信仰の諸々の真理は決して人類の歴史からでなく,永遠に変わることのない神の胸裏(きょうり) “the eternal bosom of the unchanging God” から発祥していることを理解していないことです.それは永遠から生まれ永遠に続く不変の真理です “They are eternal truths, from eternity, for eternity”. 「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」と私たちの主イエズス・キリストは仰せられます (マテオ福音24・35) “Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” says Our Lord, (MtXXIV,35) .ディルタイも,そして一見したところ教皇ベネディクト16世も人類の歴史や人類による条件付けをはるかに超越した諸々の真理を思い描くことなどできないのでしょう.もし教皇が信仰心のない理性 “faithless Reason” に譲歩をすることで,そうした理性の信奉者をカトリック信仰に近づけることができるとお考えであれば,彼に再び考えさせてあげましょう.理性の信奉者はますますカトリック信仰を軽蔑(けいべつ)するだけでしょう!

次回は,ベネディクト教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツについて述べることにします.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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最初のパラグラフの訳注:

・「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」(和訳)
・ “The Faith Imperilled by Reason” (英訳)
についての情報:

仏語原文:
“La Foi au Péril de la Raison - Herméneutique de Benoît XVI”
par Mgr. Bernard Tissier de Mallerais, FSSPX
Le Sel de La Terre, n° 69, été 2009, la revue des dominicains de France.
出典:フランス・ドミニコ会季刊誌「地の塩」第69号,2009年夏・発行

英訳:
“The Faith Imperilled by Reason: Benedict XVI’s Hermeneutics”
by Msgr. Bernard Tissier de Mallerais, SSPX
From “Le Sel de La Terre”, Issue 69, Summer 2009

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