エレイソン・コメンツ 第336回 (2013年12月21日)
私はここ数年(すうねん),尊者(そんしゃ)バーソロミュー・ホルツハウザー( "the Venerable Bartholomew Holzhauser" )のヨハネの黙示録(もくしろく)に関する評論(ひょうろん)を基(もと)に教会(きょうかい)の7つの時代(じだい)について講義(こうぎ)をしてきました( "For years I have been giving a conference on the Seven Ages of the Church, based on the Venerable Bartholomew Holzhauser’s Commentary on the book of the Apocalypse." ).ホルツハウザーは1600年代(ねんだい)前半(ぜんはん)に活躍(かつやく)したドイツ人司祭(しさい)で,評論をひらめきによって書き記した(かきしるした)と述(の)べています( "Holzhauser, a German priest of the first half of the 1600’s, said that he wrote it under inspiration." ).私の講義は好評(こうひょう)ですが,それはとりわけ私が現代(げんだい)の狂気(きょうき)を教会史の中(きょうかいしの なか)の似通(にかよ)ったパターンに当(あ)てはめて話(はな)すからでしょう( "The conference has been popular, especially because it fits the craziness of our age into a harmonious pattern of the history of the Church." ).ただ,私がこれまでホルツハウザーについて気(き)づかなかったことがあります( "What I had not realized, however, …" ).ある著名(ちょめい)な古典的神学者(こてんてき しんがくしゃ)が彼のビジョンを共有(きょうゆう)しているという事実(じじつ)です( "… is that Holzhauser’s vision is shared by a famous classical theologian, …" ).このことは,ホルツハウザーを単なる預言者(よげんしゃ)とか「幻影信奉者」(げんえい しんぽうしゃ)( "apparitionist" )と片(かた)づけるのを難(むずか)しくしています( "… making it more difficult to dismiss Holzhauser as a mere visionary or “apparitionist”. " ).
枢機卿(すうききょう)ルイ・ビィユー( "Cardinal Louis Billot" )(1846-1931)は古典的(こてんてき)な自著(じちょ)「キリストの教会(きょうかい)に関(かん)する論文(ろんぶん)」( "Treatise on the Church of Christ" )第1巻の終章(しゅうしょう)で,ホルツハウザーが説(と)いた教会史(きょうかい し)の主要(しゅよう)な7時代(ななじだい)とヨハネの黙示録第2,第3章を構成(こうせい)するアジアの7つ(ななつ)の教会に当(あ)てはめた7つ(ななつ)の文字(もじ)( "seven Letters to the seven churches of Asia" )との間(あいだ)の符節(ふせつ)( "correspondence" )についてかなり詳細(しょうさい)に説明(せつめい)しています( "It is in an Epilogue to the first volume of his classic Treatise on the Church of Christ that Cardinal Louis Billot (1846-1931) lays out in some detail the correspondence affirmed by Holzhauser between seven main periods of Church history and the seven Letters to the seven churches of Asia that make up Chapters II and III of the book of the Apocalypse." ).ビィユーの終章(しゅうしょう)はホルツハウザーに一切(いっさい)触(ふ)れていませんが,両者の間(りょうしゃの あいだ)に関連性(かんれん せい)がなかったと見(み)るのは難(むずか)しいでしょう( "Billot’s Epilogue never mentions Holzhauser, but it is difficult to imagine that there is no connection. " ).ビィユーはその符節(ふせつ)について,空想(くうそう)やひらめきからでなく,7つ(ななつ)の教会のギリシア名(ぎりしあ めい)から説き起(ときお)こしています( "However, Billot takes care to start out the correspondence not from any vision or inspiration, but from the Greek names of the seven churches." ).この名称(めいしょう)は教会発展の歴史(きょうかい はってんの れきし)を表(あらわ)すのにふさわしいものですが,そのことは見事(みごと)な偶然(ぐうぜん)というか,より的確(てきかく)には神意(しんい)のなせる業(わざ),すなわち神キリストの証(あか)しそのものです!( "The suitability of these names to the Church’s evolving history is either a remarkable coincidence, or more likely a trace of Providence at work – God, the Master of History ! " )
ビィユーは Ephesus (エフェゾ)( ヨハネの黙示録:第2章1-7節)はギリシア語で「出発」(しゅっぱつ)( "starting out" )を意味(いみ)すると言います( "Thus Billot says that Ephesus (Apoc. II, 1-7) signifies in Greek a “starting out”, …" ).これは,まさしく教会(きょうかい)の始(はじ)まりである「使徒の時代」(しとの じだい)(紀元33-70年)( "the Apostolic Age" )を的確(てきかく)に表(あらわ)しています( "… obviously suitable to the Apostolic Age (33-70 AD) with which the Church began." ).Smyrna (スミルナ)(ヨハネの黙示録:第2章8-11節)は第二の教会の名称(めいしょう)で,それは "myrrh" (訳注・「ミルラ」= 香水や香〈こうすいや こう〉を作〈つく〉るのに用(もち)いる樹脂〈じゅし〉)を意味し,教会第2の時代( "the Second Age" )(紀元70-313年)の情熱と苦難(じょうねつ と くなん),すなわち殉教の時代(じゅんきょうの じだい)に符節(ふせつ)します( "Smyrna (Apoc.II, 8-11) names the second church and means “myrrh”, corresponding to the passion and sufferings of the Church’s Second Age (70-313 AD), that of the Martyrs. " ). Pergamus (ペルガモ) (ヨハネの黙示録:第2章12-17節)は文学(ぶんがく)で有名(ゆうめい)な都市(とし)でした( "Pergamus (Apoc. II, 12-17) was a city famous for literature, …" ).したがって, "pergamum" は物を書き記す材料(ものを かきあらわす ざいりょう)を意味するようになり( "… so that “pergamum” came to mean material on which to write, …" ),教会第3の時代,つまり博士の時代(はかせ〈はくし〉の じだい)( "the Church's Third Age, that of the Doctors" )(紀元313-800年)に属(ぞく)する偉大な教会著述者の一団(いだいな ちょじゅつしゃ のいちだん)と符節します( "… corresponding to the cluster of great Church writers belonging to the Church’s Third Age, that of the Doctors (313-800)." ). Thyatira (ティアティラ) は次の時代の教会(つぎの じだいの きょうかい)( ヨハネの黙示録:第2章18-29節)の名称(めいしょう)で,「勝利の輝き」(しょうりの かがやき)( "splendour of triumph" )を意味します( "Thyatira names the next church (Apoc. II, 18-29), and means “splendour of triumph”, …" ).これはシャルルマーニュ大帝(たいてい)(742-814年)( "Charlemagne (742-814) " )からフランス革命(かくめい)(1789年)に至(いた)るまでのカトリック教会の1千年(いっせんねん)の勝利(しょうり)に符節します( "… corresponding to the 1,000-year triumph of the Catholic Church, reaching from Charlemagne (742-814) to the French Revolution (1789). " ).
この1千年(いっせんねん)はクロビス( "Clovis" )の改宗(かいしゅう)(496年)前後からプロテスタント主義(しゅぎ)の台頭(たいとう)(1517年)までと見(み)ることもできます( "These thousand years might also be reckoned from around the conversion of Clovis (496) to the outbreak of Protestantism (1517). " ).しかし,キリスト教世界(きりすと きょう せかい)の没落(ぼつらく)の始(はじ)まりを宗教改革(しゅうきょう かいかく)と見るかフランス革命(かくめい)と見(み)るか,ここでは触(ふ)れません( "But whether one marks the decline of Christendom from the Reformation or the Revolution, …" ).いずれにせよ,第5の教会( ヨハネの黙示録:第3章1-6節)の名称(めいしょう)である Sardis (サルデス)は,現代(げんだい)を特徴(とくちょう)づける金(かね),物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい),精神的衰退(せいしんてき すいたい)を想起(そうき)させる大金持ち(おおがねもち)クロイソスが支配(しはい)した都(みやこ)でした( "… in any case Sardis, naming the fifth church (Apoc. III, 1-6), was the city of Croesus, a fabulously rich man, evoking an abundance of money, material prosperity and spiritual decadence, such as characterize modern times." ).確(たし)かに, Sardis の教会(きょうかい)に対(たい)する警告(けいこく)は私たち自身(じしん)の現代(げんだい)に完全(かんぜん)に符節(ふせつ)します.この点についてはビィユーに関(かん)する次回以降(じかい いこう)のエレイソン・コメンツで触(ふ)れることにします( "Indeed the warnings to the church of Sardis correspond perfectly to our own age today, as we shall see with Billot in further “Comments”. " ).
私たちは第6の教会,すなわち Philadelphia (フィラデルフィア)(ヨハネの黙示録:第3章7-13節)の教会以降(いこう),はっきりと将来(しょうらい)に足を踏み入れる(あしを ふみいれる)ことになります( "We move clearly into the future with the sixth church, that of Philadelphia (Apoc.III, 7-13), …" ).これは,「兄弟(きょうだい)」( " “brotherhood” (- adelphia) " ) への「愛(あい)」( " “love” (Phil-) " ) を意味します ( "… meaning “love” (Phil-) of “brotherhood” (- adelphia). " ). ビィユー枢機卿(すうききょう)はこの名称(めいしょう)を教会の最後の大勝利(きょうかいの さいごの だいしょうり)に符節させています( "Cardinal Billot has this name correspond to a last great triumph of the Church, …" ).それはとりわけ聖パウロが預言(よげん)したユダヤ人の改宗(かいしゅう)(新約聖書・ローマ人への手紙:第11章12節)によって,またユダヤ人の異邦人(いほうじん=非〈ひ〉ユダヤ人)( "the Gentiles" )との和解(わかい)により,キリストの下(もと)でようやく兄弟(きょうだい)となる( エフェゾ人への手紙:第2章14-16節)という預言によって,象徴(しょうちょう)されています( "… marked notably by the conversion of the Jews as prophesied by St Paul (Rom.XI, 12), and by their reconciliation with the Gentiles, brothers at last in Christ (Eph.II, 14-16). " ).
だが, Philadelphia の教会は苦難(くなん)がやがて到来(とうらい)すると警告(けいこく)を受(う)けます( ヨハネの黙示録:第3章10節)( "But the church of Philadelphia is warned that tribulation is coming (Apoc.III, 10), …" ).これは最後の第7教会,すなわち Laodicea (ラオディキア)( ヨハネの黙示録:第3章14-22節)の教会と符節(ふせつ)します( "… which corresponds to the seventh and last Age of the Church, that of Laodicea (Apoc. III, 14-22), …" ).この名称(めいしょう)は人々(ひとびと)( "the peoples (laon) " )の審判(しんぱん)( "judgment (dike) " )に由来(ゆらい)するものです( "… named from judgment (dike) of the peoples (laon). " ).これは教会にとって最後(さいご)でもっとも恐(おそ)ろしい試練の時代(しれんの じだい)となるでしょう( "It will be the Age of the last and most terrible trial of the Church, …" ).反キリスト教徒の迫害(はんきりすと きょうとの はくがい)( "… the persecution of the Antichrist, …" )に続(つづ)いて,生を受けた(せいを うけた)あらゆる霊魂(れいこん),すなわちすべての人々に対する最後の審判(さいごの しんぱん)( "General Judgment" )がくだされる時(とき)となるでしょう( "… followed by the General Judgment of all souls that will ever have lived, and so of all peoples. " ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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ヨハネの黙示録
第1章
1 イエズス・キリストの啓示(けいじ).これはすみやかに起こるであろうことをそのしもべたちに示すために神が*キリストにまかせ,キリストはまたその天使を送ってしもベヨハネに告げられたものである.
2 ヨハネは自分の見たことをすべて神のみことばとして,*イエズス・キリストの証(あかし)として証言する.
3 この預言のことばを読み,それを聞いてここに記されたことを守る人は幸せである.*時は近づいているからである.
4 ヨハネより,*アジアにある七(なな)つの教会に.*今在(あ)り,かつて在り, 後に来られる者から,またその玉座(ぎょくざ)の前にいる七つの霊から,
5 また,忠実な証人(ちゅうじつな しょうにん),*死者の中から最初に生まれた者,地上の王の君(きみ)であるイエズス・キリストから,あなたたちに恩寵(おんちょう)と平和があるように.私たちを愛し,その御血(おんち)によって私たちを罪(つみ)から洗い清(あらいきよ)め,
6 その父なる神のために私たちを*司祭の王国の民(たみ)とされたお方に代々に光栄(こうえい)と権能(けんのう)あれ.アメン.
7 イエズスは雲に乗って下られる.すべての目はそれを見るであろう.彼を刺し貫(さしぬ)いた人々も見るであろう.*地上のすべての民は,そのために嘆(なげ)くであろう.そのとおりである.アメン.
8 今在(あ)り,かつて在り,後に来られる主なる全能の神は,「私は*アルファでありオメガである」と仰(おお)せられる.
9 あなたたちの兄弟として,イエズスとの一致(いっち)のうちに患難(かんなん)とみ国と忍耐(にんたい)をともにしている私ヨハネは,神のみことばとイエズスの証明のために*パトモスという島にいたが,
10 *主日(しゅじつ)に脱魂状態(だっこん じょうたい)になり,その後でらっぱのような犬声を聞いた.
11 その声は「おまえの幻(まぼろし)を書き記(かきしる)し,エフェゾ,スミルナ,ペルガモ,ティアティラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオディキアにある七つの教会に送れ」と言った.
12 そう話した声の方を見ようとして後を振り返ると,七つの金の燭台(しょくだい)があった.
13 燭台の間に*人の子のような者が見えた.彼は長い服を着て,金の帯を胸にしめ,
14 頭と髪の毛は純白(じゅんぱく)の羊毛(ようもう)のように雪(ゆき)のように白(しろ)く,目は燃(も)える炎(ほのお)のようであった.
15 足は炉(ろ)で精練(せいれん)された尊(とうと)い青銅(せいどう)のようであり,声は大水の音のようであった.
16 右の手に七つの星をもち,口から*両刃(もろは)の鋭い剣(するどい けん)が出,顔は照(て)りわたる太陽のようであった.
17 *それを見たとき,私は死んだようにその足もとに倒(たお)れた.すると彼は右の手を私の上に置いて言われた,「恐れるな.*私は初(はじ)めであり終(お)わりであり,
18 生(い)きている者である.私はかつて死んだが,代々(よよ)限(かぎ)りなく生きる.私は死と黄泉(よみ)のかぎを持っている.
19 だから,おまえの見たこと,今あること,後に起こることを書き記(しる)せ.
20 私の右の手に見た七つの金の燭台(しょくだい)の奥義(おくぎ)は次のとおりである.七つの星は七つの*教会の天使であり,七つの燭台は七つの教会である.
(注釈)
前書き(1・1-8)
1 イエズスは天のことを啓示(けいじ)される者である(ヨハネ聖福音書 1:18,5:20,7:16 )
2 イエズス・キリストが証明された神のみことばのこと.
3 キリストの来臨(らいりん).
4 現在の小アジアの南西部.
* 脱出の書(出エジプト記)3:14 参照.
5 最初に復活(ふっかつ)した者.
6 すべての信徒は司祭と一致(いっち)し,神に賛美(さんび)の犠(いけにえ)を捧(ささ)げるからである.
7 黙示録では,「地上の民」とは神の愛を受け入れない人々である.
8 万物の初めと終わり.
幻(まぼろし)の始まり(1・9-20)
9 使徒としてここに監禁(かんきん)されていた.バトモスはエフェゾに近い島である.ローマ人はここを島流(しまなが)しの地としていた.
10 日曜日のこと.教会史上「主日(しゅじつ)」と記されたのは,これが初めてである.
13 ダニエル 7・13,10・6.キリストのこと.
15 不明なことばである.黄金(おうごん)と青銅(せいどう)の合金(ごうきん)であろうか.
16 神のみことばの鋭(するど)さを表(あらわ)す.
17 ダニエルの書 8・18,エゼキエルの書 2・1,イザヤの書 44・6 参照.
* イザヤ 44・6 は,ヤベについてこう言っている.キリストは神と等(ひと)しく,すべての権限をもっている.
20 各教会は一位(いちい)ずつの天使に守護(しゅご)されている.また天使は,ラテン教会の説によると,各教会のかしらのかたどりである.
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引き続き,ヨハネの黙示録・第2章,第3章を追加掲載いたします.
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2013年12月25日水曜日
2013年9月28日土曜日
324 ファティマの秘密 9/28
エレイソン・コメンツ 第324回 (2013年9月28日)
1917年7月,神の御母( "the Mother of God",=聖母マリア)が修道女ルシアに啓示(けいじ)されたファティマ第3の秘密(ひみつ)の新しい復元(ふくげん)がこのほど公表(こうひょう)されました( "Yet another reconstruction has come to light of the third part of the Secret of Fatima, revealed by the Mother of God to Sister Lucy in July, 1917." ).神に祝福された聖母はそれを遅(おそ)くとも1960年までに公表するようお望みでした( "The Blessed Virgin wished it to be made public in 1960 at the latest, …" ).だが,ローマ教皇庁を支配する不誠実(ふせいじつ)な聖職者たちは,聖母は1960年以降(いこう)の公表をお認めになられたにすぎないと偽(いつわ)り( "… but the perfidious churchmen controlling Rome pretended that she had merely allowed it to be published from 1960 onwards, …" ),いらい今日(こんにち)までしまい込んだまま放置(ほうち)し続(つづ)けています( "…and it has been locked away ever since." ).復元の試(こころ)みは,秘密を実際(じっさい)に読(よ)むことができた数少(かずすく)ない聖職者たちによって明(あ)かされたその内容のいくつかの手がかり( "hints" )をもとにこれまで何度かなされてきました( "From hints of its contents revealed by the few churchmen that have been able to read it, several attempts have been made to reconstruct it." ).今回の復元の試みはかなり有力(ゆうりょく)です.以下にそのお話をします( "This latest attempt has much in its favour. Here is its story." ).
オッタビアーニ(=オッタヴィアーニ)枢機卿(すうききょう)( "Cardinal Ottaviani" )(1890-1979年)は,諸教皇ピオ(=ピウス)12世,ヨハネ23世および1959年から1968年までカトリック信仰の主(しゅ)たる擁護者(ようごしゃ)だったパウロ6世の下(もと)で仕(つか)えた位(くらい)の高い聖職者(せいしょくしゃ)でした( "Cardinal Ottaviani (1890-1979) was a high churchman under Popes Pius XII, John XXIII and Paul VI, main protector of the Faith from 1959 to 1968." ).彼はこの秘密を読んだ後,その機密性(きみつせい)に縛(しば)られ( "Given to read the Secret, but bound by secrecy, …" ),その内容を明(あ)かさず明かす方法を見つけ出しました( "… he found a way to reveal it without revealing it." ).彼は資料(しりょう)を加(くわ)えて原文(げんぶん)を実物(じつぶつ)の2-3倍の長さに膨(ふく)らませ,それを "Neues Europa" (訳注:「新ヨーロッパ」というドイツの雑誌」)に公表することを認(みと)めました( "Adding material to make the original Secret two to three times as long, he allowed the elongated version to be published, notably in a German magazine called Neues Europa." ).だが,バチカン当局はそれが偽物(にせもの)だと簡単(かんたん)にはねつけることができました.いまでも,それは偽物だとみなされています.なぜなら,本物の秘密はわずか25行の手書き文(てがきぶん)であるということが知られていたからです( "But the Vatican authorities could easily dismiss it as a fake, as it is now regarded, because the original Secret was known to be only 25 hand-written lines. " ).
しかし,オッタビアーニ枢機卿にはドン・ルイジ・ヴィッラ( "Don Luigi Villa" )(1918-2012年)という勇気(ゆうき)ある司祭(しさい)で,真の教会の擁護者(ようごしゃ)の友人(ゆうじん)がいました( "However, the Cardinal had a friend, Don Luigi Villa (1918-2012), a valiant priest and defender of the true Church, …" ).この人はとりわけフリーメースン組織( "Freemasonry" )に対する反対者(はんたいしゃ)でした( "… especially against Freemasonry." ).あるとき,同枢機卿はヴィッラ神父( "Fr. Villa" )に長くした文章(ぶんしょう)のどの部分(ぶぶん)が本物(ほんもの)の秘密かを打ち明(うちあ)けました( "At some point the Cardinal revealed to Fr. Villa exactly which parts of the longer version came from the original Secret, …" ).ついで,ヴィッラ神父(=ドン・ヴィッラ,"Don Villa" )は忠実(ちゅうじつ)な一般信徒の協力者であるフランコ・アデッサ博士( "Dr. Franco Adessa" )に同じ内容(ないよう)を伝えました( "… and Don Villa in turn told the same to his faithful lay collaborator, Dr. Franco Adessa, …" ).同博士は自(みずか)ら得(え)た同じ情報(じょうほう)を最近フランス語で発行(はっこう)された小冊子(しょうさっし)にまとめました( "… who has just put the same information into a booklet recently published in French." ).これによると,実物(じつぶつ)とおもわれる「第3の秘密」は次のようなものです:-- ( "Here then would be the original “Third Secret”:-- " ).
「全人類(ぜんじんるい)に対する重大(じゅうだい)な咎(とが)め(=懲罰)(訳注後記1)は今日でも明日でもなく,20世紀後半に下(くだ)されるだろう( " “A great chastisement will come down on the whole of mankind neither today, nor tomorrow, but in the second half of the 20th century." ).秩序(ちつじょ)は世界のどこにもなく,悪魔(あくま,"Satan" )が最高位(さいこうい)に立って物事の成り行き(なりゆき)を取り決(とりき)めている( "Nowhere in the world is there order, and Satan rules in the highest places, determining the course of events." ).悪魔はやがて教会の最高位にさえ昇(のぼ)りつめるだろう( "He will even manage to work his way up to the top of the Church." ).教会にとっても最大の試練(しれん)の時(とき)が訪(おとず)れるだろう( "For the Church too will come the time of its greatest trials." ).枢機卿(すうききょう)たちや司教(しきょう)たちは互(たが)いに反目(はんもく)するようになるだろう( "Cardinals will oppose cardinals, bishops will oppose bishops." ).悪魔は彼らの間(あいだ)をぬって進(すす)み,ローマには諸々(もろもろ)の変化(へんか)が起(お)きるだろう( "Satan will march in their midst, and in Rome there will be changes." ).腐敗(ふはい)したものは失墜(しっつい)し,失墜したものが再(ふたた)び立ち上(たちあ)がることはないだろう( "What is rotten will fall, what falls will not get up again." ).教会は暗黒化(あんこくか)し,世界は恐怖に打(う)ちのめされるだろう( "The Church will be darkened and the world overwhelmed in terror." ).大戦(たいせん)が20世紀後半に始(はじ)まるだろう( "A great war will be let loose in the second half of the 20th century." ).火(ひ)と煙(けむり)が天国から落ち( "Fire and smoke will fall from Heaven, …" ),七洋(しちよう,=七つの海,世界中の海・海洋〈かいよう〉)の水(みず)は蒸気(じょうき)となり( "… the oceans’ waters will be turned into steam, …" ),海原(うなばら,うなはら)の泡沫(ほうまつ,=泡〈あわ〉)は隆起(りゅうき)し(訳注・=高く盛〈も〉り上〈あ〉がり)( "… the foam of the sea will rise up, …" ),あらゆるものを圧倒(あっとう)し水浸(みずびた)しにするだろう( "… overwhelming and flooding everything." ).何百万(なんびゃくまん)もの人々が時間ごとに死に( "Millions and millions of men will die from one hour to the next, …" ),傍(かたわ)らで生き延(いきの)びた人々は死者(ししゃ)を羨(うらや)ましくおもうだろう( "… while those who survive will envy the dead." ).悪魔に従(したが)う狂人(きょうじん)や取り巻(とりま)きたちが犯(おか)した過(あやま)ちのため,死がいたるとことに溢(あふ)れるだろう( "Death will be everywhere because of the errors committed by the madmen and henchmen of Satan, …" ).そうなってはじめて悪魔が世界に君臨(くんりん)するだろう( "… who then and only then will reign over the world." ).最終的(さいしゅうてき)に,こうした出来事(できごと)を生き延(いきの)びた者は( "Finally while those who survive these events are still alive, …" )再(ふたた)び神(かみ)と神の栄光(かみのえいこう)を讃(たた)え( "… they will proclaim once more God and the glory of God, …" ),世界がこれほど邪悪(じゃあく)になる前に人々がしたと同じように神に仕(つか)えるようになるだろう( "… and they will serve him as men used to do when the world had not yet become so perverse.” " ).
ファティマに関する専門家ニコラス・グルナー神父( "Fr Nicholas Gruner" )は,(ファティマの第3の)秘密に関(かん)する上述(じょうじゅつ)のバージョン(=説明)が(訳注・新約聖書の「ヨハネの黙示録〈もくしろく〉」に記〈しる〉されている)世界の終末(せかいのしゅうまつ)(訳注後記2)や(訳注・それに際して)取るべき行動(とるべきこうどう)についてなんら言及(げんきゅう)していないため( "lacking mention of the Apocalypse and of recommended action" ) 不完全(ふかんぜん)なものではないかと考えています( "Fr Nicholas Gruner, an expert on Fatima, thinks that this version of the Secret may be incomplete, lacking mention of the Apocalypse and of recommended action." ).世界大戦(せかいたいせん)が起(お)きないまま20世紀後半が過ぎ去(すぎさ)ったことで,このバージョンに異論(いろん)をはさむ人もいるかもしれません( "One may also object that the second half of the 20th century has come and gone with no World War." ).だが,狂人(きょうじん)たちが2000年よりかなり前から今日(こんにち)にいたるまで絶え間(たえま)なく中東(ちゅうとう)で戦争(せんそう)を引き起(ひきお)こしているではありませんか?( "But have not madmen been stirring up war in the Middle East, continuously, from well before 2000 down to today ? " ) それに,(ファティマの第3の秘密に関する)このフランス語小冊子に載(の)ったバージョン(説明)のすべての文言(もんごん)が "Neues Europa" に載ったバージョン(インターネット上でアクセス可能)にも出てくる点は注目(ちゅうもく)に値(あたい)します( "And it is worthy of note that every phrase in this version of the Secret does occur in the Neues Europa version (accessible on the Internet), …" ).いずれも,他の宗教的ソースから引き出したり模倣(もほう)したりした資料を取り入れたものです( "… amidst material drawn or imitated from other pious sources." ).
いずれにしても,神が私たちすべてに真の御慈悲(おじひ,ごじひ)を賜(たまわ)らんことを( "In any case, may God truly have mercy upon us all, …" ).そして,私たちは絶(た)えず(=中止〈ちゅうし〉することなく)ロザリオを祈り続(いのりつづ)けましょう( "… and let us pray the Rosary without ceasing." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第4パラグラフの訳注1
"a great chastisement" について.
=神の大〈おお〉いなる怒〈いか〉りの懲罰〈ちょうばつ〉.
人間の罪に対する慈悲深く忍耐強い神の激(はげ)しい怒りの懲罰.
・無限・全能の神に対し,人間が限界のある無力な自分の身分を忘れて,傲慢(ごうまん)に我欲(がよく)を追求(ついきゅう)し,その欲深(よくふか)さが極(きわ)まって,
・他人の心身(たにん の しんしん)や大自然(だいしぜん)(大宇宙・空・海・陸・動植物・あらゆる鉱物)に対して悪事(傷つけたり,殺したりすること)を行うことにより,
・万物の創造主,善と正義の真の神に対して犯す罪が,
・慈悲深い神の忍耐を超えるほどに増大した時,
・悪人に対する神の怒りは,あらゆる天災→悪人の俗悪化(生存競争・我欲の追求)→悪人の霊魂の堕落(だらく)へと続く.罪深い悪人は,身体が死ぬと地獄に堕ちる.
・善人は,たとえ身体が死んでも,その霊魂は天の神のみもとに上げられる.
・人間にとって,「天国」と「地獄」(てんごく と じごく)は,まだこの地上に生きている時からすでに始まっている.
・この地上では,悪事を成すことによって「他人を負かした」と思った途端に,もしその悪事を悔悛(かいしゅん)しないなら,その悪人の霊魂はその場で地獄に堕(お)ちる.
・あらゆる「加害者」に対してあらゆる「被害者」は,もし仕返しをせずに全能者(=神)の裁定(さいてい)に委(ゆだ)ねるなら,その場で天の神の御許(みもと)に迎(むか)えられる.
・神の正義は被害者を慰(なぐさ)め,その人の正義・苦しみは神がすべて引き継(ひきつ)がれる.
・神の正義(かみのせいぎ)は完全・永遠(かんぜん・えいえん)で,人間の目には分かりにくくても,神は必(かなら)ず一寸(いっすん)の狂(くる)いもなく完全に悪人に報復(ほうふく)される.
・神は「あらゆる善良なもの,正義,憐(あわ)れみ深さ」の姿を取って存在しておられる.
* * *
第5パラグラフの訳注2
"the Apocalypse" について.
新約聖書「使徒聖ヨハネによる黙示録」
主イエズス・キリストが使徒聖ヨハネに啓示された,世界の終末と,王たるキリストによる最後の審判.
* * *
1917年7月,神の御母( "the Mother of God",=聖母マリア)が修道女ルシアに啓示(けいじ)されたファティマ第3の秘密(ひみつ)の新しい復元(ふくげん)がこのほど公表(こうひょう)されました( "Yet another reconstruction has come to light of the third part of the Secret of Fatima, revealed by the Mother of God to Sister Lucy in July, 1917." ).神に祝福された聖母はそれを遅(おそ)くとも1960年までに公表するようお望みでした( "The Blessed Virgin wished it to be made public in 1960 at the latest, …" ).だが,ローマ教皇庁を支配する不誠実(ふせいじつ)な聖職者たちは,聖母は1960年以降(いこう)の公表をお認めになられたにすぎないと偽(いつわ)り( "… but the perfidious churchmen controlling Rome pretended that she had merely allowed it to be published from 1960 onwards, …" ),いらい今日(こんにち)までしまい込んだまま放置(ほうち)し続(つづ)けています( "…and it has been locked away ever since." ).復元の試(こころ)みは,秘密を実際(じっさい)に読(よ)むことができた数少(かずすく)ない聖職者たちによって明(あ)かされたその内容のいくつかの手がかり( "hints" )をもとにこれまで何度かなされてきました( "From hints of its contents revealed by the few churchmen that have been able to read it, several attempts have been made to reconstruct it." ).今回の復元の試みはかなり有力(ゆうりょく)です.以下にそのお話をします( "This latest attempt has much in its favour. Here is its story." ).
オッタビアーニ(=オッタヴィアーニ)枢機卿(すうききょう)( "Cardinal Ottaviani" )(1890-1979年)は,諸教皇ピオ(=ピウス)12世,ヨハネ23世および1959年から1968年までカトリック信仰の主(しゅ)たる擁護者(ようごしゃ)だったパウロ6世の下(もと)で仕(つか)えた位(くらい)の高い聖職者(せいしょくしゃ)でした( "Cardinal Ottaviani (1890-1979) was a high churchman under Popes Pius XII, John XXIII and Paul VI, main protector of the Faith from 1959 to 1968." ).彼はこの秘密を読んだ後,その機密性(きみつせい)に縛(しば)られ( "Given to read the Secret, but bound by secrecy, …" ),その内容を明(あ)かさず明かす方法を見つけ出しました( "… he found a way to reveal it without revealing it." ).彼は資料(しりょう)を加(くわ)えて原文(げんぶん)を実物(じつぶつ)の2-3倍の長さに膨(ふく)らませ,それを "Neues Europa" (訳注:「新ヨーロッパ」というドイツの雑誌」)に公表することを認(みと)めました( "Adding material to make the original Secret two to three times as long, he allowed the elongated version to be published, notably in a German magazine called Neues Europa." ).だが,バチカン当局はそれが偽物(にせもの)だと簡単(かんたん)にはねつけることができました.いまでも,それは偽物だとみなされています.なぜなら,本物の秘密はわずか25行の手書き文(てがきぶん)であるということが知られていたからです( "But the Vatican authorities could easily dismiss it as a fake, as it is now regarded, because the original Secret was known to be only 25 hand-written lines. " ).
しかし,オッタビアーニ枢機卿にはドン・ルイジ・ヴィッラ( "Don Luigi Villa" )(1918-2012年)という勇気(ゆうき)ある司祭(しさい)で,真の教会の擁護者(ようごしゃ)の友人(ゆうじん)がいました( "However, the Cardinal had a friend, Don Luigi Villa (1918-2012), a valiant priest and defender of the true Church, …" ).この人はとりわけフリーメースン組織( "Freemasonry" )に対する反対者(はんたいしゃ)でした( "… especially against Freemasonry." ).あるとき,同枢機卿はヴィッラ神父( "Fr. Villa" )に長くした文章(ぶんしょう)のどの部分(ぶぶん)が本物(ほんもの)の秘密かを打ち明(うちあ)けました( "At some point the Cardinal revealed to Fr. Villa exactly which parts of the longer version came from the original Secret, …" ).ついで,ヴィッラ神父(=ドン・ヴィッラ,"Don Villa" )は忠実(ちゅうじつ)な一般信徒の協力者であるフランコ・アデッサ博士( "Dr. Franco Adessa" )に同じ内容(ないよう)を伝えました( "… and Don Villa in turn told the same to his faithful lay collaborator, Dr. Franco Adessa, …" ).同博士は自(みずか)ら得(え)た同じ情報(じょうほう)を最近フランス語で発行(はっこう)された小冊子(しょうさっし)にまとめました( "… who has just put the same information into a booklet recently published in French." ).これによると,実物(じつぶつ)とおもわれる「第3の秘密」は次のようなものです:-- ( "Here then would be the original “Third Secret”:-- " ).
「全人類(ぜんじんるい)に対する重大(じゅうだい)な咎(とが)め(=懲罰)(訳注後記1)は今日でも明日でもなく,20世紀後半に下(くだ)されるだろう( " “A great chastisement will come down on the whole of mankind neither today, nor tomorrow, but in the second half of the 20th century." ).秩序(ちつじょ)は世界のどこにもなく,悪魔(あくま,"Satan" )が最高位(さいこうい)に立って物事の成り行き(なりゆき)を取り決(とりき)めている( "Nowhere in the world is there order, and Satan rules in the highest places, determining the course of events." ).悪魔はやがて教会の最高位にさえ昇(のぼ)りつめるだろう( "He will even manage to work his way up to the top of the Church." ).教会にとっても最大の試練(しれん)の時(とき)が訪(おとず)れるだろう( "For the Church too will come the time of its greatest trials." ).枢機卿(すうききょう)たちや司教(しきょう)たちは互(たが)いに反目(はんもく)するようになるだろう( "Cardinals will oppose cardinals, bishops will oppose bishops." ).悪魔は彼らの間(あいだ)をぬって進(すす)み,ローマには諸々(もろもろ)の変化(へんか)が起(お)きるだろう( "Satan will march in their midst, and in Rome there will be changes." ).腐敗(ふはい)したものは失墜(しっつい)し,失墜したものが再(ふたた)び立ち上(たちあ)がることはないだろう( "What is rotten will fall, what falls will not get up again." ).教会は暗黒化(あんこくか)し,世界は恐怖に打(う)ちのめされるだろう( "The Church will be darkened and the world overwhelmed in terror." ).大戦(たいせん)が20世紀後半に始(はじ)まるだろう( "A great war will be let loose in the second half of the 20th century." ).火(ひ)と煙(けむり)が天国から落ち( "Fire and smoke will fall from Heaven, …" ),七洋(しちよう,=七つの海,世界中の海・海洋〈かいよう〉)の水(みず)は蒸気(じょうき)となり( "… the oceans’ waters will be turned into steam, …" ),海原(うなばら,うなはら)の泡沫(ほうまつ,=泡〈あわ〉)は隆起(りゅうき)し(訳注・=高く盛〈も〉り上〈あ〉がり)( "… the foam of the sea will rise up, …" ),あらゆるものを圧倒(あっとう)し水浸(みずびた)しにするだろう( "… overwhelming and flooding everything." ).何百万(なんびゃくまん)もの人々が時間ごとに死に( "Millions and millions of men will die from one hour to the next, …" ),傍(かたわ)らで生き延(いきの)びた人々は死者(ししゃ)を羨(うらや)ましくおもうだろう( "… while those who survive will envy the dead." ).悪魔に従(したが)う狂人(きょうじん)や取り巻(とりま)きたちが犯(おか)した過(あやま)ちのため,死がいたるとことに溢(あふ)れるだろう( "Death will be everywhere because of the errors committed by the madmen and henchmen of Satan, …" ).そうなってはじめて悪魔が世界に君臨(くんりん)するだろう( "… who then and only then will reign over the world." ).最終的(さいしゅうてき)に,こうした出来事(できごと)を生き延(いきの)びた者は( "Finally while those who survive these events are still alive, …" )再(ふたた)び神(かみ)と神の栄光(かみのえいこう)を讃(たた)え( "… they will proclaim once more God and the glory of God, …" ),世界がこれほど邪悪(じゃあく)になる前に人々がしたと同じように神に仕(つか)えるようになるだろう( "… and they will serve him as men used to do when the world had not yet become so perverse.” " ).
ファティマに関する専門家ニコラス・グルナー神父( "Fr Nicholas Gruner" )は,(ファティマの第3の)秘密に関(かん)する上述(じょうじゅつ)のバージョン(=説明)が(訳注・新約聖書の「ヨハネの黙示録〈もくしろく〉」に記〈しる〉されている)世界の終末(せかいのしゅうまつ)(訳注後記2)や(訳注・それに際して)取るべき行動(とるべきこうどう)についてなんら言及(げんきゅう)していないため( "lacking mention of the Apocalypse and of recommended action" ) 不完全(ふかんぜん)なものではないかと考えています( "Fr Nicholas Gruner, an expert on Fatima, thinks that this version of the Secret may be incomplete, lacking mention of the Apocalypse and of recommended action." ).世界大戦(せかいたいせん)が起(お)きないまま20世紀後半が過ぎ去(すぎさ)ったことで,このバージョンに異論(いろん)をはさむ人もいるかもしれません( "One may also object that the second half of the 20th century has come and gone with no World War." ).だが,狂人(きょうじん)たちが2000年よりかなり前から今日(こんにち)にいたるまで絶え間(たえま)なく中東(ちゅうとう)で戦争(せんそう)を引き起(ひきお)こしているではありませんか?( "But have not madmen been stirring up war in the Middle East, continuously, from well before 2000 down to today ? " ) それに,(ファティマの第3の秘密に関する)このフランス語小冊子に載(の)ったバージョン(説明)のすべての文言(もんごん)が "Neues Europa" に載ったバージョン(インターネット上でアクセス可能)にも出てくる点は注目(ちゅうもく)に値(あたい)します( "And it is worthy of note that every phrase in this version of the Secret does occur in the Neues Europa version (accessible on the Internet), …" ).いずれも,他の宗教的ソースから引き出したり模倣(もほう)したりした資料を取り入れたものです( "… amidst material drawn or imitated from other pious sources." ).
いずれにしても,神が私たちすべてに真の御慈悲(おじひ,ごじひ)を賜(たまわ)らんことを( "In any case, may God truly have mercy upon us all, …" ).そして,私たちは絶(た)えず(=中止〈ちゅうし〉することなく)ロザリオを祈り続(いのりつづ)けましょう( "… and let us pray the Rosary without ceasing." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第4パラグラフの訳注1
"a great chastisement" について.
=神の大〈おお〉いなる怒〈いか〉りの懲罰〈ちょうばつ〉.
人間の罪に対する慈悲深く忍耐強い神の激(はげ)しい怒りの懲罰.
・無限・全能の神に対し,人間が限界のある無力な自分の身分を忘れて,傲慢(ごうまん)に我欲(がよく)を追求(ついきゅう)し,その欲深(よくふか)さが極(きわ)まって,
・他人の心身(たにん の しんしん)や大自然(だいしぜん)(大宇宙・空・海・陸・動植物・あらゆる鉱物)に対して悪事(傷つけたり,殺したりすること)を行うことにより,
・万物の創造主,善と正義の真の神に対して犯す罪が,
・慈悲深い神の忍耐を超えるほどに増大した時,
・悪人に対する神の怒りは,あらゆる天災→悪人の俗悪化(生存競争・我欲の追求)→悪人の霊魂の堕落(だらく)へと続く.罪深い悪人は,身体が死ぬと地獄に堕ちる.
・善人は,たとえ身体が死んでも,その霊魂は天の神のみもとに上げられる.
・人間にとって,「天国」と「地獄」(てんごく と じごく)は,まだこの地上に生きている時からすでに始まっている.
・この地上では,悪事を成すことによって「他人を負かした」と思った途端に,もしその悪事を悔悛(かいしゅん)しないなら,その悪人の霊魂はその場で地獄に堕(お)ちる.
・あらゆる「加害者」に対してあらゆる「被害者」は,もし仕返しをせずに全能者(=神)の裁定(さいてい)に委(ゆだ)ねるなら,その場で天の神の御許(みもと)に迎(むか)えられる.
・神の正義は被害者を慰(なぐさ)め,その人の正義・苦しみは神がすべて引き継(ひきつ)がれる.
・神の正義(かみのせいぎ)は完全・永遠(かんぜん・えいえん)で,人間の目には分かりにくくても,神は必(かなら)ず一寸(いっすん)の狂(くる)いもなく完全に悪人に報復(ほうふく)される.
・神は「あらゆる善良なもの,正義,憐(あわ)れみ深さ」の姿を取って存在しておられる.
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第5パラグラフの訳注2
"the Apocalypse" について.
新約聖書「使徒聖ヨハネによる黙示録」
主イエズス・キリストが使徒聖ヨハネに啓示された,世界の終末と,王たるキリストによる最後の審判.
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2012年6月24日日曜日
258 花々は教える 6/23
エレイソン・コメンツ 第258回 (2012年6月23日)
花々が語(かた)れるとすれば(「エレイソン・コメンツ第255回参照),時間の価値,神の正義,恩寵と自然の調和( “the value of time, the justice of God, the harmony of grace and nature” )などについて私たちに教えることができるでしょう.
たとえば,もし神が存在され,人がたとえ90年生きるにしてもその束の間(つかのま)の生涯(しょうがい)のあいだに過ごすすべての瞬間ごとに自(みずか)ら取った一つひとつの選択肢しだいで,その霊魂の行方(ゆくえ)が永遠に決まってしまうように神が仕向(しむ)けることが理不尽(りふじん)でないとすれば,その生涯のあらゆる瞬間に価値があるということ,そしてあらゆる瞬間に神が私たちに神と永遠に交(まじ)わるよう呼びかけられ(訳注・私たちの注意を喚起〈かんき〉され)(いつも同じ強さでそうされているとは限らないにしても)ということは理にかなったことです.だからこそ,神が花々や自ら創造されたほかのあらゆる贈り物を通して私たちに語りかけておられるはずだというのもうなずけます.なぜかといえば,現世で自分には愛すべきものや人などなにもないと正直に言える人がはたしているでしょうか?過激(猛烈)な「無神論者 “atheist” 」でさえも,たとえば,自分の好みの犬やタバコを持っているものです.そして犬やタバコの葉を創(つく)り出し,私たちの時代までそれを生き続けさせた(世の創造主たる)御方(“ And Who… ”)は誰でしょうか?
その「無神論者」は死の直前になっても自分は神から語りかけられたことなど一度もないと言い張るかもしれません.だが,死を迎(むか)えたとたんに,彼は(自分がまだ生きていたとき)目覚めているあいだあらゆる瞬間瞬間に,いつも神が身の回りの何らかの生き物を通して自分に呼びかけて(訳注・霊魂の関心を呼び覚まそうとして)おられた( “…for every moment of his waking life God has been appealing to him through some creature or other around him.” )ことを瞬時(しゅんじ)に理解する( “grasp in a flash” )でしょう.「もし私が,あなたが生涯を通していつも私を拒(こば)んできたことを,私の残りの生涯でことあるごとに咎(とが)めるとしたら,私は理不尽でしょうか?」と神は彼にお尋(たず)ねになるでしょう.そして「あなたが選んだものを持ちなさい.私から離れなさい」と,神は彼に告げるかもしれません(新約聖書・マテオ聖福音:第25章41節)(訳注後記).
これとは反対に,生涯のあらゆる瞬間を通していつも自分が楽しんできたあらゆる良いことの陰(かげ)に存在する偉大で善良な神を愛する恩恵を受けた人,( “…has profited by every moment of its life to love the great and good God behind all the good things it has enjoyed,…” ),さらに自分が楽しいと思わなかったあらゆる悪いことの陰に存在する(訳注・災難や苦難の起こることをあえて許可〈=承認,同意〉される)神意(=摂理,神の導き・思慮・配慮)にさえも気づいた( “…that has even recognized the permission of his Providence behind all the bad things it has not enjoyed.” )人のことを考えてみてください.それならば(=訳注・人生が瞬間から瞬間まですべて神意の下にあるものなら)誰が自分の人生に意味を与えるため,人に認めてもらいたい,有名になりたい,メディアの前に出たい,引出しを休暇の写真で埋め尽くしたいなどと望む必要があるでしょうか?過去の時代で,有能な人々が生涯にわたって神への愛にすっかりその身を捧(ささ)げるためその才能を人里を離れ世間から隔離(かくり)された修道院に埋(う)めたのもさして驚(おどろ)くことではありません.私たちの時間の一刻一刻には計りしれない価値があります.なぜなら,その一刻一刻に良かれ悪しかれ霊魂の計りしれない永遠性がかかっているからです.
さらに,花が話せるとすれば,私たちがもう一つよく知られた疑問を理解するのに役立ちます.その疑問とは,非カトリック教徒の人々の霊魂がカトリック教の布教者たち(=宣教師たち)と接する機会がまったくなかったために,カトリック信仰を持たなかったとしたら非難できるだろうか,というものです.人間的な言い方をするなら,花々を創造しカトリック教会を設立されたのはまさしく同一の神であることを思い起こせば,この疑問の少なくとも一部は解かれるかもしれません.神のお導き(=神慮〈しんりょ〉 “God’s Providence” )がカトリックの真理がある霊魂の耳に届くのを許さなかったとしても,その霊魂は真の神のことなど何も知らなかったとは言えません.その霊魂はたとえば(訳注・日々様々に移り変わる)無数の雲景(画),日の出,夕焼けの美しさ( “the beauty of cloudscapes, of sunrises and sunsets” )といった自らが知っていたものによって裁きを受けうるでしょう.それらの美しさを見て,その霊魂は異教徒ヨブ(旧約聖書・ヨブの書:19・25)と一緒になって「私は私の救い主が生きておられることを知る( “I know that my Redeemer liveth” )」と言ったでしょうか,それとも「ええまあ,そうですね,確かにすばらしい.でも,隣の奥さんを訪ねさせてくれ - 」と言ったでしょうか?(訳注後記)
実際のところ,人々が彼らの創造主たる神( “their Creator ”)に対して抱(いだ)く多くの不平不満はカトリック信徒たちでさえ感じています.カトリック信徒たちの多くは,現代のほかの人たち同様,都会やその郊外での生活によって多かれ少なかれ自然界から切り離されており,それ相応にその「精神性 “spirituality” 」が人工的になっているからです.どなたかが「動物一匹(いっぴき)愛したことがない人は可哀(かわい)そう」と言ったことがあります( ““Woe to anybody who has never loved an animal,” somebody has said.” ).子供たちは神と親密です.子供たちがいかに生まれながらにして動物たちが好きなことかを観察してください( “Children are close to God. Watch how naturally children love animals.” ).
偉大にして善良なる神よ,あなたがあらゆるもの,あらゆる人の奥深くに,いつも(=絶えず)おられるのを私たちに見させ給え( “Great and good God, grant us to see you where you are, deep down everything and everybody, at every moment.” ).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章41節(太字).(25章全章を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW XXV, 41.
The parable of the ten virgins, and of the talents; the description of the last judgement.
十人の乙女のたとえ
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.
そのうちの五人は愚か者(おろかもの)で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしびを持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器(うつわ)に入れた油も持っていた.花婿が遅かったので,一同は居眠(いねむ)りをし,やがて眠(ねむ)りこんでしまった.夜半(やはん)に,〈さあ,花婿だ.出迎(でむか)えよ〉と声がかかった.
乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かなほうは賢いほうに,〈油を分(わ)けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢いほうは,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足(た)りません.商人(しょうにん)のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.
やがて,ほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.
*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』
(注釈)
十人の乙女のたとえ(25・1-13)
*¹ 1-13節 花婿はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨(らいりん)までの期間,婚宴(こんえん)の席(せき)は天国である.その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.
*² ある写本(ブルガタ訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.
*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練(しれん)の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りをすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ12・35-38,13・25).
* * *
タレントのたとえ
『*¹また,天の国は遠(とお)くに旅立(たびた)つ人がしもべたちを呼び,*²自分の持ち物を預けるのにたとえてよい.
おのおの能力(のうりょく)に応じて,一人には五*³タレント,一人にはニタレント,一人には一タレントをわたして,その人は旅立った.
五タレントをわたされた人は,それを用いてもうけ,ほかに五タレントの収入(しゅうにゅう)を得(え),ニタレントをわたされた人も,同じようにほかにニタレントの収入を得たが,一タレントをわたされた人は,土地を掘(ほ)りに行き主人の金を埋(う)めておいた.
しばらく経(た)って主人が帰ってきてしもべたちと精算(せいさん)した.
五タレントを預かった人は別に五タレントを差し出し,〈主よ,私は五タレントを預かりましたが,ごらんください,ほかに五タレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実(ちゅうじつ)なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.ニタレントを預かった人も来て,〈主よ,私はニタレントを預かりましたが,ごらんください,別にニタレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.
また一タレントを受けた人が来て,〈主よ,あなたは厳(きび)しい方で,まかない所から刈(か)り,散(ち)らさない所から集められると知っていた私は,恐(こわ)くてあなたのタレントを地下に隠(かく)しに行きました.あなたに預かったのはこれです〉と言った.
主人は答えた,〈悪い怠(なま)け者のしもべだ.おまえは私がまかない所から刈り取り散らさない所から集めると知っていたのか.それなら私の金を貯金(ちょきん)しておけばよかった.そうすれば私は帰ってきて自分のものと利子(りし)を手に入れたのに.さあ,彼からそのタレントを取り上げ,十タレントを持っている者にやれ.
*⁴持っている者は,与えられてなお多くのものを持ち,持たない者からは,持っているわずかなものさえ取り上げられる.この役たたずのしもべを外のやみに投げ出せ.そこには嘆(なげ)きと歯(は)ぎしりがあろう〉.』
(注釈)
タレントのたとえ(25・14-30)
*¹ 14-30節 旅立つ主人は,近く天国に行くイエズスであり,将来天国からまた最後の審判のために来るであろう.しもべはキリスト信者,タレントは神からの自然的・超自然的たまものを意味する.これを善業のために使わねばならぬ.
*² このたとえも,先のと同じく,キリスト信者の個人個人の最後をたとえている.
*³ 18・24の注参照.(注・18章24節の注から転載→「神殿ではユダヤの貨幣(かへい)だけが用(もち)いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は、次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマは二ドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四二・五三三キロに相当する.
ローマ貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.」)
*⁴ 神のたまものを有益に使う者は,その上にまたもらい,持っている少ないものをないがしろにする者は,それさえも失う(マテオ聖福音13・12).
* * *
最後の審判
『*¹人の子は,その栄光のうちに,多くの天使を引き連れて光栄の座につく.
そして,諸国(しょこく)の人々を前に集め,ちょうど牧者(ぼくしゃ)が羊(ひつじ)と雄(お)やぎを分けるように,羊を右に雄やぎを左におく.
そのとき*²王は右にいる人々に向かい,〈父に祝(しゅく)せられた者よ,来て,*³世の始めからあなたたちに備(そな)えられていた国を受けよ.あなたたちは,私が飢(う)えていたときに食べさせ,渇(かわ)いているときに飲(の)ませ,旅にいたときに宿(やど)らせ,裸(はだか)だったときに服(ふく)をくれ,病気だったときに見舞(みま)い,牢(ろう)にいたときに訪(おとず)れてくれた〉と言う.
すると義人(ぎじん)たちは答えて,〈主よ,いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ,渇いているときに飲ませ,旅のときに宿らせ,裸のときに服をあげ,病気のときや牢に入られたときに見舞ったのでしょうか〉と言う.
*⁴王は答える,〈まことに私は言う.あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは,つまり私にしてくれたことである〉.
また王は左にいる人々に向かって言う,〈のろわれた者よ,私を離(はな)れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ.あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず,渇いていたのに飲ませず,旅にあったときに宿らせず,裸だったのに服をくれず,病気のときや牢にいたときに見舞いに来なかった〉.
そのとき彼らは言う,〈主よ,あなたが飢え,渇き,旅に出,裸になり,病気になり,牢に入られたとき,いつ私たちが助けませんでしたか〉.
王は言う,〈まことに私は言う.これらの小さな人々の一人にしなかったことは,つまり私にしてくれなかったことだ〉.
そして,これらの人は永遠の刑罰を受け,義人は永遠の生命に入るであろう」.』
(注釈)
最後の審判(25・31-46)
*¹ 審判(しんぱん)において,特に隣人(りんじん)への愛の実行が重視されている.この愛は,神に対する愛から出るものである.はたして,律法と預言者を,神と人間に対する愛に帰(き)する.
*² 王たるメシア(=救世主),キリストのこと.
*³ 神が人をつくられたのは,永遠の幸福のためである(〈新約〉エフェゾ人への手紙1・4).
*⁴ すべての人のうちにキリストを見るということは,確かにキリスト教の重大な教えの一つである.これによってすべての人,特に貧(まず)しい者は「聖なるもの」となる.
審判の時,愛以外の徳の実行を尋(たず)ねられるであろうが,貧しい人を助けることは,キリストを助けることだと心得(こころえ)るほどの愛をもつものは,この愛の中に他のすべての徳を含(ふく)んでいるはずである.
* * *
第4パラグラフの訳注:
① 旧約聖書・ヨブの書「解説」
② ヨブの書:19章25節(太字)
THE BOOK OF JOB XIX, 25.
This book takes its name from the holy man of whom it treats: who, according to the more probable opinion, was of the race of Esau; and the same as Jobab, king of Edom, mentioned Genesis 36:33. It is uncertain who was the writer of it. Some attribute it to Job himself; others to Moses, or some one of the prophets. In the Hebrew it is written in verse, from the beginning of the third chapter to the forty-second chapter.
(CHAPTER 19) Job complains of the cruelty of his friends; hedescribes his own sufferings: and his belief of a future resurrection.
①「ヨブの書解説」( フェデリコ・バルバロ神父訳「旧約聖書」より)
主人公の名をとってヨブの書と称されるこの本は初めの2章と終わりのことばを除外すれば,全篇詩の形でなり立っている.ここで取り上げているのは人間の苦しみの問題であって,この問題を扱った詩としては世界でもっともすぐれたものの一つである.
正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如(とつじょ)として大きな不幸が襲(おそ)いかかった.これが全篇の論争の始まりである(1-3章).
ヨブの不幸を慰(なぐさ)めにきた三人の友人がいた.その三人が一人ずつ話しかけるたびにヨブがそれに答える.ただし三人めの場合は友人が話さずにヨブが長く話す(4-31章).この論争ののち,不意にエリフという男が口を入れる(32-37章).ついに嵐(あらし)の中から神自身が現れてヨブに話す(33章1節-42章6節).最後にヨブはその大きな不幸に耐えた報(むく)いを豊(ゆた)かに受けたことが語られる.
論争した人々の態度は次のようである.三人の友人は「善悪はこの世で報いを受ける」という古来の教えを守っているヨブが不幸になったのは,何かの悪事をしたからであると推理する.自分では正しいと思っていても神の目にとって正しくなかったのかもしれない.ヨブが「私は正しい生活をした」と主張するので,三人はいよいよかたくなに自分のいい分を守る.
ヨブは三人のいい分に対して,自分自身の苦しみとこの世にあふれている不正をもって答える.しがしこのことを語るたびに,「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問につき当たる.
エリフは,「神に対していい過ぎた」とヨブを非難してのち,三人の友人をも非難する.そして,神の行為を弁護して,「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べる.
次に神が話されるがヨブに直接答えず,宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.
ついにヨブは自分の無思慮(むしりょ)を認める.
この本の主人公ヨブは太祖(たいそ)のころの人(〈旧約〉エゼキエルの書14・14,20)で,アラピアとエドムの国境の地に住んでいたと思われる.
ユダヤの伝統では試練の中で神への忠実を保った人としてヨブを尊(とうと)んでいる.この本の作者はそういう古い話からこの一篇の詩を創(つく)ったのであろう.
作者の名は不詳(ふしょう)である.確実なのは,預言書と知恵の書をよく学んだユダヤ人だということだけである.この人はパレスチナに住んでいたのだろうが,特にエジプトをよく知っていたようである.
この本はエレミアの書,エゼキエルの書より後に出たもので,表現と思想の上でその二つに似たところがある.おそらくは西暦前五世紀ごろの作であろう.
作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.これは「人はその行いの善悪によって,この世で良いあるいは悪い報いを受ける」というユダヤ古来の考え方からは矛盾(むじゅん)しているようであるが,ヨブは,「正しい生活をしていても災難(さいなん)を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタンからのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブもその友人もこのことは知らない.
ヨブは苦しみのなかにあっても,神は慈悲(じひ)であり正義であるという希望にすがりついている.神が干渉されたのは人知を絶するみずからの計画を示し,ヨブを沈黙(ちんもく)させるためである.
この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみの中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ』ということである.
天の示しも不完全であったこの時代の作者としてはこれ以上いえなかっただろう.「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰(しょうばつ)の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.
ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.
「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(〈新約〉ローマ人への手紙8・18).
「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(コロサイ人への手紙1・24).
* * *
② ヨブの書:第19章(全章)/ THE BOOK OF JOB, CHAPTER XIX
ヨブは答えて言った,
1 Then Job answered , and said:
「いつまで私の魂(たましい)を苦しめ,
その話で私を押しつぶすのか.
2 How long do you afflict my soul,
and break me in pieces with words?
あなたたちはもう十度も私を侮辱(ぶじょく)し,
恥知(はじし)らずにも私を責(せ)めている.
3 Behold, these ten times you confound me,
and are not ashamed to oppress me.
あやまったのがたとえ事実(じじつ)でも,
また私がかたくなに迷(まよ)いにとどまっても,
4 For if I have been ignorant,
my ignorance shall be with me.
あなたたちが勝(か)って,
私に罪があると証明(しょうめい)できたとしても,
5 But you have set yourselves up against me,
and reprove me with my reproaches.
*私をおさえつけ,
網(あみ)で私をとりまいたのは神であると知れ.
6 At least now understand, that God hath not afflicted me with an equal judgment,
and compassed me with his scourges.
〈これは暴力(ぼうりょく)だ〉と叫(さけ)んでも答えはなく,
呼びかけても正義はこない.
7 Behold I cry suffering violence, and no one will hear:
I shall cry aloud, and there is none to judge.
神が小道をふさがれたので,私は通れない,
神は私の道に闇(やみ)をおき,
8 He hath hedged in my path round about, and I cannot pass,
and in my way he hath set darkness.
光栄をはぎとり,
頭の冠(かんむり)を奪(うば)われた.
9 He hath stripped me of my glory,
and hath taken the crown from my head.
神が四方から壊(こわ)されたので、私は滅(ほろ)びる.
神は私の希望を木のように引き抜(ぬ)き,
10 He hath destroyed me on every side, and I am lost,
and he hath taken away my hope, as from a tree that is plucked up.
その怒りは私に向かって燃えあがり,
私を敵(てき)のようにみなされた.
11 His wrath is kindled against me,
and he hath counted me as his enemy.
神の軍は押しよせ,
私に向かって進路(しんろ)を開き,
私の幕屋(まくや)のまわりに陣(じん)を張(は)った.
12 His troops have come together,
and have made themselves a way by me,
and have besieged my tabernacle round about.
私は兄弟たちののけ者となり,
知人たちも私にとって見知らぬ人となった.
13 He hath put my brethren far from me,
and my acquaintance like strangers have departed from me.
親戚(しんせき)と親しい人々は姿(すがた)を消(け)し,
家の者は私を忘れ,
14 My kinsmen have forsaken me,
and they that knew me, have forgotten me.
下女(げじょ)は私を他人のように思う.
私は彼らにとって赤の他人になった.
15 They that dwelt in my house, and my maidservants have counted me a stranger,
and I have been like an alien in their eyes.
下男(げなん)を呼んでも答えないので,
私はこの口で彼にこいねがわねばならぬ.
16 I called my servant, and he gave me no answer,
I entreated him with my own mouth.
私の息は妻にいとわれ,
兄弟たちもそのにおいに顔を背(そむ)け,
17 My wife hath abhorred my breath,
and I entreated the children of my womb.
小さな子らも侮(あなど)り,
立ち上がると私をからかう.
18 Even fools despise me;
and when I gone from them, they spoke against me.
親(した)しい者はみな私を忌(い)みきらい,
愛する者は逆(さか)らった.
19 They that were sometime my counsellors, have abhorred me:
and he whom I love most is turned against me.
この皮膚(ひふ)の下で肉は腐(くさ)り,
骨は歯のようにむき出しになった.
20 The flesh being consumed.
My bone hath cleaved to my skin, and nothing but lips are left about my teeth.
あわれんでくれ,あわれんでくれ,ああ,友よ.
神の御手(おんて)が私を打(う)ったのだ。
21 Have pity on me, have pity on me, at least you my friends,
because the hand of the Lord hath touched me.
なぜ,あなたたちも神がなさるように,私を責(せ)めるのか.
私の肉にまだ飽(あ)き足らずに.
22 Why do you persecute me as God,
and glut yourselves with my flesh?
ああ,私のことばを書きとめ,
書物に刻(きざ)んでくれ,
23 Who will grant me that my words may be written?
Who will grant me that they may be marked down in a book?
鉄(てつ)ののみと鉛(なまり)で,
永久(えいきゅう)に岩(いわ)に刻みつけてくれ.
24 With an iron pen and in a plate of lead,
or else be graven with an instrument in flint stone.
〈*私を守るものは生きておられ,
仇討(あだう)つものはちりの上に立ち上がるのだと私は知る.
25 For I know that my Redeemer liveth,
and in the last day I shall rise out of the earth.
皮膚がこのようにきれぎれになっても,
私はこの肉で神をながめるだろう〉.
26 And I shall be clothed again with my skin,
and in my flesh I will see my God.
ああ,幸せな私よ,この私自身が,他人ではなく私自身の目で見るだろう.
腎(じん)は絶(た)えなんばかりにあこがれる.
27 Whom I myself shall see, and my eyes shall behold, and not another:
this my hope is laid up in my bosom.
あなたたちが〈彼をいじめてやろう〉〈あの*ことの根を見つけ出そう〉と叫ぶとき,
28 Why then do you say now: Let us persecute him, and let us find occasion of word against him?
そのときこそ、自分の身に下る剣(つるぎ)を恐(おそ)れよ,
それは剣を受けるべき罪なのだ.
そしてあなたたちは〈さばく者〉のあることを知るだろう」.
29 Flee then from the face of the sword,
for the sword is the revenger of iniquities:
and know ye that there is judgment.
(注釈)
神と人に捨てられても保ったヨブの信仰(19・1-29)
6 ヨブは友人のいったことを結論する,「もしあなたたちのいったことが本当だとしたら,この場合神は私に対して不正を行われたことになる.私は自分に罪のないことをよく知っているのだから.あなたたちのいうことを認めたら神は不正だと結論せざるをえなくなるから,それは認められない」.ヒエロニムスとトマス・アクィナスもこの解釈をとった.
25-26 この2節はヨブが岩に刻みつけたいと願うことばで,教義上たいへん大切な箇所であると同時にいろいろ議論されている.訳も多いが,本訳はほとんどヘブライ語本のままである.
この訳では次のような意味になる,「私を守るものはいま姿を見せては下さらぬが,たえず生きておられ正義を証(あかし)するものとして,私の墓(はか)にこられるだろうと私は信じる(25節).私の体が分解しつくしても,なおかつ私はこの体をもって神を眺めるにちがいない(26節)」.
昔のラテン教会教父たちはこのことばを「肉身(にくしん)のよみがえり」の意味にとった.しかし東方教会の教父たちはその意味でほとんど引用していない.それは彼らの用いていた七十人訳ギリシア語本が不十分な訳だったからである.現代のカトリック聖書学者も,「肉身のよみがえり」についてのヨブの信仰を示すものかどうか断定(だんてい)するのをはばかっている.これは「肉身のよみがえり」についての霊的なひらめきだったろうか,あるいはそれの明白な示しの前奏曲であったかもしれない(〈旧約〉マカバイの書下7・9).
ただ,このことばが復活を暗示しているという説に対していいたいのはもしヨブがそれを信じていたとしたら,はじめから友人たちをいい伏(ふ)せることができたろうと思われる.
28 ヘブライ語では「ことば」.ヨブを襲(おそ)った不幸のこと.ヨブが不幸になったのはヨブ自身罪を隠(かく)しているからだと友人たちは考えていた.
* * *
花々が語(かた)れるとすれば(「エレイソン・コメンツ第255回参照),時間の価値,神の正義,恩寵と自然の調和( “the value of time, the justice of God, the harmony of grace and nature” )などについて私たちに教えることができるでしょう.
たとえば,もし神が存在され,人がたとえ90年生きるにしてもその束の間(つかのま)の生涯(しょうがい)のあいだに過ごすすべての瞬間ごとに自(みずか)ら取った一つひとつの選択肢しだいで,その霊魂の行方(ゆくえ)が永遠に決まってしまうように神が仕向(しむ)けることが理不尽(りふじん)でないとすれば,その生涯のあらゆる瞬間に価値があるということ,そしてあらゆる瞬間に神が私たちに神と永遠に交(まじ)わるよう呼びかけられ(訳注・私たちの注意を喚起〈かんき〉され)(いつも同じ強さでそうされているとは限らないにしても)ということは理にかなったことです.だからこそ,神が花々や自ら創造されたほかのあらゆる贈り物を通して私たちに語りかけておられるはずだというのもうなずけます.なぜかといえば,現世で自分には愛すべきものや人などなにもないと正直に言える人がはたしているでしょうか?過激(猛烈)な「無神論者 “atheist” 」でさえも,たとえば,自分の好みの犬やタバコを持っているものです.そして犬やタバコの葉を創(つく)り出し,私たちの時代までそれを生き続けさせた(世の創造主たる)御方(“ And Who… ”)は誰でしょうか?
その「無神論者」は死の直前になっても自分は神から語りかけられたことなど一度もないと言い張るかもしれません.だが,死を迎(むか)えたとたんに,彼は(自分がまだ生きていたとき)目覚めているあいだあらゆる瞬間瞬間に,いつも神が身の回りの何らかの生き物を通して自分に呼びかけて(訳注・霊魂の関心を呼び覚まそうとして)おられた( “…for every moment of his waking life God has been appealing to him through some creature or other around him.” )ことを瞬時(しゅんじ)に理解する( “grasp in a flash” )でしょう.「もし私が,あなたが生涯を通していつも私を拒(こば)んできたことを,私の残りの生涯でことあるごとに咎(とが)めるとしたら,私は理不尽でしょうか?」と神は彼にお尋(たず)ねになるでしょう.そして「あなたが選んだものを持ちなさい.私から離れなさい」と,神は彼に告げるかもしれません(新約聖書・マテオ聖福音:第25章41節)(訳注後記).
これとは反対に,生涯のあらゆる瞬間を通していつも自分が楽しんできたあらゆる良いことの陰(かげ)に存在する偉大で善良な神を愛する恩恵を受けた人,( “…has profited by every moment of its life to love the great and good God behind all the good things it has enjoyed,…” ),さらに自分が楽しいと思わなかったあらゆる悪いことの陰に存在する(訳注・災難や苦難の起こることをあえて許可〈=承認,同意〉される)神意(=摂理,神の導き・思慮・配慮)にさえも気づいた( “…that has even recognized the permission of his Providence behind all the bad things it has not enjoyed.” )人のことを考えてみてください.それならば(=訳注・人生が瞬間から瞬間まですべて神意の下にあるものなら)誰が自分の人生に意味を与えるため,人に認めてもらいたい,有名になりたい,メディアの前に出たい,引出しを休暇の写真で埋め尽くしたいなどと望む必要があるでしょうか?過去の時代で,有能な人々が生涯にわたって神への愛にすっかりその身を捧(ささ)げるためその才能を人里を離れ世間から隔離(かくり)された修道院に埋(う)めたのもさして驚(おどろ)くことではありません.私たちの時間の一刻一刻には計りしれない価値があります.なぜなら,その一刻一刻に良かれ悪しかれ霊魂の計りしれない永遠性がかかっているからです.
さらに,花が話せるとすれば,私たちがもう一つよく知られた疑問を理解するのに役立ちます.その疑問とは,非カトリック教徒の人々の霊魂がカトリック教の布教者たち(=宣教師たち)と接する機会がまったくなかったために,カトリック信仰を持たなかったとしたら非難できるだろうか,というものです.人間的な言い方をするなら,花々を創造しカトリック教会を設立されたのはまさしく同一の神であることを思い起こせば,この疑問の少なくとも一部は解かれるかもしれません.神のお導き(=神慮〈しんりょ〉 “God’s Providence” )がカトリックの真理がある霊魂の耳に届くのを許さなかったとしても,その霊魂は真の神のことなど何も知らなかったとは言えません.その霊魂はたとえば(訳注・日々様々に移り変わる)無数の雲景(画),日の出,夕焼けの美しさ( “the beauty of cloudscapes, of sunrises and sunsets” )といった自らが知っていたものによって裁きを受けうるでしょう.それらの美しさを見て,その霊魂は異教徒ヨブ(旧約聖書・ヨブの書:19・25)と一緒になって「私は私の救い主が生きておられることを知る( “I know that my Redeemer liveth” )」と言ったでしょうか,それとも「ええまあ,そうですね,確かにすばらしい.でも,隣の奥さんを訪ねさせてくれ - 」と言ったでしょうか?(訳注後記)
実際のところ,人々が彼らの創造主たる神( “their Creator ”)に対して抱(いだ)く多くの不平不満はカトリック信徒たちでさえ感じています.カトリック信徒たちの多くは,現代のほかの人たち同様,都会やその郊外での生活によって多かれ少なかれ自然界から切り離されており,それ相応にその「精神性 “spirituality” 」が人工的になっているからです.どなたかが「動物一匹(いっぴき)愛したことがない人は可哀(かわい)そう」と言ったことがあります( ““Woe to anybody who has never loved an animal,” somebody has said.” ).子供たちは神と親密です.子供たちがいかに生まれながらにして動物たちが好きなことかを観察してください( “Children are close to God. Watch how naturally children love animals.” ).
偉大にして善良なる神よ,あなたがあらゆるもの,あらゆる人の奥深くに,いつも(=絶えず)おられるのを私たちに見させ給え( “Great and good God, grant us to see you where you are, deep down everything and everybody, at every moment.” ).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第25章41節(太字).(25章全章を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW XXV, 41.
The parable of the ten virgins, and of the talents; the description of the last judgement.
十人の乙女のたとえ
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.
そのうちの五人は愚か者(おろかもの)で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしびを持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器(うつわ)に入れた油も持っていた.花婿が遅かったので,一同は居眠(いねむ)りをし,やがて眠(ねむ)りこんでしまった.夜半(やはん)に,〈さあ,花婿だ.出迎(でむか)えよ〉と声がかかった.
乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かなほうは賢いほうに,〈油を分(わ)けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢いほうは,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足(た)りません.商人(しょうにん)のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.
やがて,ほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.
*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』
(注釈)
十人の乙女のたとえ(25・1-13)
*¹ 1-13節 花婿はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨(らいりん)までの期間,婚宴(こんえん)の席(せき)は天国である.その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.
*² ある写本(ブルガタ訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.
*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練(しれん)の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りをすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ12・35-38,13・25).
* * *
タレントのたとえ
『*¹また,天の国は遠(とお)くに旅立(たびた)つ人がしもべたちを呼び,*²自分の持ち物を預けるのにたとえてよい.
おのおの能力(のうりょく)に応じて,一人には五*³タレント,一人にはニタレント,一人には一タレントをわたして,その人は旅立った.
五タレントをわたされた人は,それを用いてもうけ,ほかに五タレントの収入(しゅうにゅう)を得(え),ニタレントをわたされた人も,同じようにほかにニタレントの収入を得たが,一タレントをわたされた人は,土地を掘(ほ)りに行き主人の金を埋(う)めておいた.
しばらく経(た)って主人が帰ってきてしもべたちと精算(せいさん)した.
五タレントを預かった人は別に五タレントを差し出し,〈主よ,私は五タレントを預かりましたが,ごらんください,ほかに五タレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実(ちゅうじつ)なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.ニタレントを預かった人も来て,〈主よ,私はニタレントを預かりましたが,ごらんください,別にニタレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.
また一タレントを受けた人が来て,〈主よ,あなたは厳(きび)しい方で,まかない所から刈(か)り,散(ち)らさない所から集められると知っていた私は,恐(こわ)くてあなたのタレントを地下に隠(かく)しに行きました.あなたに預かったのはこれです〉と言った.
主人は答えた,〈悪い怠(なま)け者のしもべだ.おまえは私がまかない所から刈り取り散らさない所から集めると知っていたのか.それなら私の金を貯金(ちょきん)しておけばよかった.そうすれば私は帰ってきて自分のものと利子(りし)を手に入れたのに.さあ,彼からそのタレントを取り上げ,十タレントを持っている者にやれ.
*⁴持っている者は,与えられてなお多くのものを持ち,持たない者からは,持っているわずかなものさえ取り上げられる.この役たたずのしもべを外のやみに投げ出せ.そこには嘆(なげ)きと歯(は)ぎしりがあろう〉.』
(注釈)
タレントのたとえ(25・14-30)
*¹ 14-30節 旅立つ主人は,近く天国に行くイエズスであり,将来天国からまた最後の審判のために来るであろう.しもべはキリスト信者,タレントは神からの自然的・超自然的たまものを意味する.これを善業のために使わねばならぬ.
*² このたとえも,先のと同じく,キリスト信者の個人個人の最後をたとえている.
*³ 18・24の注参照.(注・18章24節の注から転載→「神殿ではユダヤの貨幣(かへい)だけが用(もち)いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は、次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマは二ドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四二・五三三キロに相当する.
ローマ貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.」)
*⁴ 神のたまものを有益に使う者は,その上にまたもらい,持っている少ないものをないがしろにする者は,それさえも失う(マテオ聖福音13・12).
* * *
最後の審判
『*¹人の子は,その栄光のうちに,多くの天使を引き連れて光栄の座につく.
そして,諸国(しょこく)の人々を前に集め,ちょうど牧者(ぼくしゃ)が羊(ひつじ)と雄(お)やぎを分けるように,羊を右に雄やぎを左におく.
そのとき*²王は右にいる人々に向かい,〈父に祝(しゅく)せられた者よ,来て,*³世の始めからあなたたちに備(そな)えられていた国を受けよ.あなたたちは,私が飢(う)えていたときに食べさせ,渇(かわ)いているときに飲(の)ませ,旅にいたときに宿(やど)らせ,裸(はだか)だったときに服(ふく)をくれ,病気だったときに見舞(みま)い,牢(ろう)にいたときに訪(おとず)れてくれた〉と言う.
すると義人(ぎじん)たちは答えて,〈主よ,いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ,渇いているときに飲ませ,旅のときに宿らせ,裸のときに服をあげ,病気のときや牢に入られたときに見舞ったのでしょうか〉と言う.
*⁴王は答える,〈まことに私は言う.あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは,つまり私にしてくれたことである〉.
また王は左にいる人々に向かって言う,〈のろわれた者よ,私を離(はな)れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ.あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず,渇いていたのに飲ませず,旅にあったときに宿らせず,裸だったのに服をくれず,病気のときや牢にいたときに見舞いに来なかった〉.
そのとき彼らは言う,〈主よ,あなたが飢え,渇き,旅に出,裸になり,病気になり,牢に入られたとき,いつ私たちが助けませんでしたか〉.
王は言う,〈まことに私は言う.これらの小さな人々の一人にしなかったことは,つまり私にしてくれなかったことだ〉.
そして,これらの人は永遠の刑罰を受け,義人は永遠の生命に入るであろう」.』
(注釈)
最後の審判(25・31-46)
*¹ 審判(しんぱん)において,特に隣人(りんじん)への愛の実行が重視されている.この愛は,神に対する愛から出るものである.はたして,律法と預言者を,神と人間に対する愛に帰(き)する.
*² 王たるメシア(=救世主),キリストのこと.
*³ 神が人をつくられたのは,永遠の幸福のためである(〈新約〉エフェゾ人への手紙1・4).
*⁴ すべての人のうちにキリストを見るということは,確かにキリスト教の重大な教えの一つである.これによってすべての人,特に貧(まず)しい者は「聖なるもの」となる.
審判の時,愛以外の徳の実行を尋(たず)ねられるであろうが,貧しい人を助けることは,キリストを助けることだと心得(こころえ)るほどの愛をもつものは,この愛の中に他のすべての徳を含(ふく)んでいるはずである.
* * *
第4パラグラフの訳注:
① 旧約聖書・ヨブの書「解説」
② ヨブの書:19章25節(太字)
THE BOOK OF JOB XIX, 25.
This book takes its name from the holy man of whom it treats: who, according to the more probable opinion, was of the race of Esau; and the same as Jobab, king of Edom, mentioned Genesis 36:33. It is uncertain who was the writer of it. Some attribute it to Job himself; others to Moses, or some one of the prophets. In the Hebrew it is written in verse, from the beginning of the third chapter to the forty-second chapter.
(CHAPTER 19) Job complains of the cruelty of his friends; hedescribes his own sufferings: and his belief of a future resurrection.
①「ヨブの書解説」( フェデリコ・バルバロ神父訳「旧約聖書」より)
主人公の名をとってヨブの書と称されるこの本は初めの2章と終わりのことばを除外すれば,全篇詩の形でなり立っている.ここで取り上げているのは人間の苦しみの問題であって,この問題を扱った詩としては世界でもっともすぐれたものの一つである.
正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如(とつじょ)として大きな不幸が襲(おそ)いかかった.これが全篇の論争の始まりである(1-3章).
ヨブの不幸を慰(なぐさ)めにきた三人の友人がいた.その三人が一人ずつ話しかけるたびにヨブがそれに答える.ただし三人めの場合は友人が話さずにヨブが長く話す(4-31章).この論争ののち,不意にエリフという男が口を入れる(32-37章).ついに嵐(あらし)の中から神自身が現れてヨブに話す(33章1節-42章6節).最後にヨブはその大きな不幸に耐えた報(むく)いを豊(ゆた)かに受けたことが語られる.
論争した人々の態度は次のようである.三人の友人は「善悪はこの世で報いを受ける」という古来の教えを守っているヨブが不幸になったのは,何かの悪事をしたからであると推理する.自分では正しいと思っていても神の目にとって正しくなかったのかもしれない.ヨブが「私は正しい生活をした」と主張するので,三人はいよいよかたくなに自分のいい分を守る.
ヨブは三人のいい分に対して,自分自身の苦しみとこの世にあふれている不正をもって答える.しがしこのことを語るたびに,「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問につき当たる.
エリフは,「神に対していい過ぎた」とヨブを非難してのち,三人の友人をも非難する.そして,神の行為を弁護して,「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べる.
次に神が話されるがヨブに直接答えず,宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.
ついにヨブは自分の無思慮(むしりょ)を認める.
この本の主人公ヨブは太祖(たいそ)のころの人(〈旧約〉エゼキエルの書14・14,20)で,アラピアとエドムの国境の地に住んでいたと思われる.
ユダヤの伝統では試練の中で神への忠実を保った人としてヨブを尊(とうと)んでいる.この本の作者はそういう古い話からこの一篇の詩を創(つく)ったのであろう.
作者の名は不詳(ふしょう)である.確実なのは,預言書と知恵の書をよく学んだユダヤ人だということだけである.この人はパレスチナに住んでいたのだろうが,特にエジプトをよく知っていたようである.
この本はエレミアの書,エゼキエルの書より後に出たもので,表現と思想の上でその二つに似たところがある.おそらくは西暦前五世紀ごろの作であろう.
作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.これは「人はその行いの善悪によって,この世で良いあるいは悪い報いを受ける」というユダヤ古来の考え方からは矛盾(むじゅん)しているようであるが,ヨブは,「正しい生活をしていても災難(さいなん)を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタンからのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブもその友人もこのことは知らない.
ヨブは苦しみのなかにあっても,神は慈悲(じひ)であり正義であるという希望にすがりついている.神が干渉されたのは人知を絶するみずからの計画を示し,ヨブを沈黙(ちんもく)させるためである.
この本の宗教的な教えとは,『霊魂はどんなやみの中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ』ということである.
天の示しも不完全であったこの時代の作者としてはこれ以上いえなかっただろう.「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰(しょうばつ)の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.
ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.
「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(〈新約〉ローマ人への手紙8・18).
「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(コロサイ人への手紙1・24).
* * *
② ヨブの書:第19章(全章)/ THE BOOK OF JOB, CHAPTER XIX
ヨブは答えて言った,
1 Then Job answered , and said:
「いつまで私の魂(たましい)を苦しめ,
その話で私を押しつぶすのか.
2 How long do you afflict my soul,
and break me in pieces with words?
あなたたちはもう十度も私を侮辱(ぶじょく)し,
恥知(はじし)らずにも私を責(せ)めている.
3 Behold, these ten times you confound me,
and are not ashamed to oppress me.
あやまったのがたとえ事実(じじつ)でも,
また私がかたくなに迷(まよ)いにとどまっても,
4 For if I have been ignorant,
my ignorance shall be with me.
あなたたちが勝(か)って,
私に罪があると証明(しょうめい)できたとしても,
5 But you have set yourselves up against me,
and reprove me with my reproaches.
*私をおさえつけ,
網(あみ)で私をとりまいたのは神であると知れ.
6 At least now understand, that God hath not afflicted me with an equal judgment,
and compassed me with his scourges.
〈これは暴力(ぼうりょく)だ〉と叫(さけ)んでも答えはなく,
呼びかけても正義はこない.
7 Behold I cry suffering violence, and no one will hear:
I shall cry aloud, and there is none to judge.
神が小道をふさがれたので,私は通れない,
神は私の道に闇(やみ)をおき,
8 He hath hedged in my path round about, and I cannot pass,
and in my way he hath set darkness.
光栄をはぎとり,
頭の冠(かんむり)を奪(うば)われた.
9 He hath stripped me of my glory,
and hath taken the crown from my head.
神が四方から壊(こわ)されたので、私は滅(ほろ)びる.
神は私の希望を木のように引き抜(ぬ)き,
10 He hath destroyed me on every side, and I am lost,
and he hath taken away my hope, as from a tree that is plucked up.
その怒りは私に向かって燃えあがり,
私を敵(てき)のようにみなされた.
11 His wrath is kindled against me,
and he hath counted me as his enemy.
神の軍は押しよせ,
私に向かって進路(しんろ)を開き,
私の幕屋(まくや)のまわりに陣(じん)を張(は)った.
12 His troops have come together,
and have made themselves a way by me,
and have besieged my tabernacle round about.
私は兄弟たちののけ者となり,
知人たちも私にとって見知らぬ人となった.
13 He hath put my brethren far from me,
and my acquaintance like strangers have departed from me.
親戚(しんせき)と親しい人々は姿(すがた)を消(け)し,
家の者は私を忘れ,
14 My kinsmen have forsaken me,
and they that knew me, have forgotten me.
下女(げじょ)は私を他人のように思う.
私は彼らにとって赤の他人になった.
15 They that dwelt in my house, and my maidservants have counted me a stranger,
and I have been like an alien in their eyes.
下男(げなん)を呼んでも答えないので,
私はこの口で彼にこいねがわねばならぬ.
16 I called my servant, and he gave me no answer,
I entreated him with my own mouth.
私の息は妻にいとわれ,
兄弟たちもそのにおいに顔を背(そむ)け,
17 My wife hath abhorred my breath,
and I entreated the children of my womb.
小さな子らも侮(あなど)り,
立ち上がると私をからかう.
18 Even fools despise me;
and when I gone from them, they spoke against me.
親(した)しい者はみな私を忌(い)みきらい,
愛する者は逆(さか)らった.
19 They that were sometime my counsellors, have abhorred me:
and he whom I love most is turned against me.
この皮膚(ひふ)の下で肉は腐(くさ)り,
骨は歯のようにむき出しになった.
20 The flesh being consumed.
My bone hath cleaved to my skin, and nothing but lips are left about my teeth.
あわれんでくれ,あわれんでくれ,ああ,友よ.
神の御手(おんて)が私を打(う)ったのだ。
21 Have pity on me, have pity on me, at least you my friends,
because the hand of the Lord hath touched me.
なぜ,あなたたちも神がなさるように,私を責(せ)めるのか.
私の肉にまだ飽(あ)き足らずに.
22 Why do you persecute me as God,
and glut yourselves with my flesh?
ああ,私のことばを書きとめ,
書物に刻(きざ)んでくれ,
23 Who will grant me that my words may be written?
Who will grant me that they may be marked down in a book?
鉄(てつ)ののみと鉛(なまり)で,
永久(えいきゅう)に岩(いわ)に刻みつけてくれ.
24 With an iron pen and in a plate of lead,
or else be graven with an instrument in flint stone.
〈*私を守るものは生きておられ,
仇討(あだう)つものはちりの上に立ち上がるのだと私は知る.
25 For I know that my Redeemer liveth,
and in the last day I shall rise out of the earth.
皮膚がこのようにきれぎれになっても,
私はこの肉で神をながめるだろう〉.
26 And I shall be clothed again with my skin,
and in my flesh I will see my God.
ああ,幸せな私よ,この私自身が,他人ではなく私自身の目で見るだろう.
腎(じん)は絶(た)えなんばかりにあこがれる.
27 Whom I myself shall see, and my eyes shall behold, and not another:
this my hope is laid up in my bosom.
あなたたちが〈彼をいじめてやろう〉〈あの*ことの根を見つけ出そう〉と叫ぶとき,
28 Why then do you say now: Let us persecute him, and let us find occasion of word against him?
そのときこそ、自分の身に下る剣(つるぎ)を恐(おそ)れよ,
それは剣を受けるべき罪なのだ.
そしてあなたたちは〈さばく者〉のあることを知るだろう」.
29 Flee then from the face of the sword,
for the sword is the revenger of iniquities:
and know ye that there is judgment.
(注釈)
神と人に捨てられても保ったヨブの信仰(19・1-29)
6 ヨブは友人のいったことを結論する,「もしあなたたちのいったことが本当だとしたら,この場合神は私に対して不正を行われたことになる.私は自分に罪のないことをよく知っているのだから.あなたたちのいうことを認めたら神は不正だと結論せざるをえなくなるから,それは認められない」.ヒエロニムスとトマス・アクィナスもこの解釈をとった.
25-26 この2節はヨブが岩に刻みつけたいと願うことばで,教義上たいへん大切な箇所であると同時にいろいろ議論されている.訳も多いが,本訳はほとんどヘブライ語本のままである.
この訳では次のような意味になる,「私を守るものはいま姿を見せては下さらぬが,たえず生きておられ正義を証(あかし)するものとして,私の墓(はか)にこられるだろうと私は信じる(25節).私の体が分解しつくしても,なおかつ私はこの体をもって神を眺めるにちがいない(26節)」.
昔のラテン教会教父たちはこのことばを「肉身(にくしん)のよみがえり」の意味にとった.しかし東方教会の教父たちはその意味でほとんど引用していない.それは彼らの用いていた七十人訳ギリシア語本が不十分な訳だったからである.現代のカトリック聖書学者も,「肉身のよみがえり」についてのヨブの信仰を示すものかどうか断定(だんてい)するのをはばかっている.これは「肉身のよみがえり」についての霊的なひらめきだったろうか,あるいはそれの明白な示しの前奏曲であったかもしれない(〈旧約〉マカバイの書下7・9).
ただ,このことばが復活を暗示しているという説に対していいたいのはもしヨブがそれを信じていたとしたら,はじめから友人たちをいい伏(ふ)せることができたろうと思われる.
28 ヘブライ語では「ことば」.ヨブを襲(おそ)った不幸のこと.ヨブが不幸になったのはヨブ自身罪を隠(かく)しているからだと友人たちは考えていた.
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