エレイソン・コメンツ 第211回 (2011年7月30日)
ティシエ司教は自著作小論文「理性に脅かされるカトリック信仰」 “Bishop Tissier’s Faith Imperilled by Reason” の最終第4部で,教皇ベネディクト16世が現代人に親しみやすようにと考え出したカトリック教の再解釈体系に対する自身の判断を明らかにしています.ベネディクト教皇の擁護(ようご)者たちはティシエ司教が教皇の考え方の一側面だけを示していると非難するかもしれませんが,教皇の考え方にはそうした側面があるのは事実であり,ティシエ司教がそれを公表しそれが一貫した誤りの体系であるとを示したのは正しいことです.なぜなら,真理がその体系に混ざれば混ざるほど,ますます巧みに偽装され,霊魂の救いにますます被害を及ぼしうるからです.
ティシエ司教は小論文の第9章でベネディクト教皇がカトリック教徒の信仰するもの(対象)をどのように変え,なぜそうするのかを示しています.真のカトリック教徒はカトリック教会が定義した信仰箇条 “the Articles of Faith” (訳注・たとえば「使徒信経」 “Credo” 他)を信じます.彼らがそれを受け入れるのは,それが客観的権威たる神の啓示だからです.だがベネディクト教皇にはその信仰箇条は暖か味(あたたかみ)のない定義に満ちた抽象的宗教に映るようです.したがって教皇はそれに代わるものとして 「カトリック信仰とは神の御臨在,愛の臨在たるイエズスという人間との出会いである」 と仰(おっしゃ)るでしょう.このように変えられた信条は,より温かく個人的に感じられるかもしれませんが,それは同時に頼りない主観的感情に基づいた個人的体験という曖昧(あいまい)な果実となりかねない危険をはらんでいます.だが,気分的に心地よいというだけで,天国へ行くのにグラグラ揺れる橋を渡ろうなどと誰が本気で望むでしょうか?
さらに第10章でティシエ司教はこの変更から生じる信条システム全体がいかにグラグラ揺れ動くものであるかを示し,それは,ベネディクト教皇のフェルト製カトリック教 “felt Catholicism” のレシピが非本質的な過去の教義を浄化し,現在から引き出されるより理解しやすい認識をベースに改良するからだと言っています.だが,現代の認識の第一形成者はベネディクト教皇が信奉する哲学者のカントです.カントは神の存在は証明不能で,客観的な諸々の実在に取って代わる人間の必要に応じて仮定され造り出されたものにすぎないと考えます.彼が考えるような世界で,いったい何人の人々が神を前提として受け止めるでしょうか? 1996年にラッツィンガー枢機卿 “Cardinal Ratzinger” がカトリック教会の将来は暗いと予見したとしても驚くにはあたりません.
ティシエ司教は後書きで,ベネディクト教皇は持論(じろん)とするカトリックの心と現代の頭を調和させることが緊急の課題とし,そのために主観的に模索(もさく)している現代的なものとカトリック教 “Catholicism” とを合体させようとしているが,これは不可能なことだと結論づけています.例えば,教皇は今日すべての民主主義国が傾倒(けいとう,“idolized” )している人間の諸権利 “the Rights of Man” (=人権)は単にキリスト教信仰の改訂 “the up-dating of Christianity” にすぎないと信じたいのです.だが,そうした権利は実際にはキリスト教の死を意味するものなのです.権利主張の論理に内在するのは神からの独立宣言であり,神授(しんじゅ)の人間性が持つあらゆる締(し)め付けからの解放宣言です(原文… “Implicit in their logic is a declaration of independence from God, and of liberation from all constriction by any God-given human nature” ). 権利主張は実のところ現代人が神に仕掛(しか)ける戦いの要石(かなめいし)(原文… “a keystone in modern man’s war on God” ) なのです.
したがってベネディクト教皇は,宗教と理性の「相互改良」を勘案(かんあん)した両者間の「相互浄化と再生」に世界の持続を託するなどということに望みを置くべきではない,とティシエ司教は述べています.こと宗教に関する限り,世俗化された理性が価値あるものを提供することなどまったくといっていいほどありませんし,それと折り合いをつけようとするカトリック神学者たちのあらゆる試みはトランプカードで建てた家のように倒壊(とうかい)するでしょう.ちょうど彼らが仕えたいと望んでいる新世界秩序 “the New World Order” 同様にです.そしてティシエ司教は最後の言葉を聖パウロに譲(ゆず)っています - 「すでに置かれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を,だれも置くことはできぬ.」(〈使徒パウロによる〉コリント人への第一の手紙・第3章11節)(原文… “For other foundations no man can lay, but that which is laid: which is Christ Jesus” (I Cor.III, 11).
ティシエ司教の小論文の全文は以前はフランス語版で入手できましたが,現在は絶版となっています.英語にも翻訳されましたが,一般に入手可能となっていません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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2011年8月9日火曜日
2011年8月8日月曜日
ベネディクト教皇の考え方 その3
エレイソン・コメンツ 第210回 (2011年7月23日)
ベネディクト教皇の考え方の根源に触れた後 (エレイソン・コメンツ第209回) ,ティシエ司教は自身の論文 「理性に脅かされるカトリック信仰」 “in his Faith Imperilled by Reason” でさらに教皇の考え方が生み出す諸々の果実について検討を進めています.もしベネディクト教皇の考え方がとりわけカント (1724-1804年) の体系的主観論にその根源を置いたものであれば,そこから生まれる果実が良いはずはありません.カトリック信仰の客観的真理がどうして主観論信奉者の関与あるいは反応に左右されることがあり得ましょうか? もしそうだとすれば, (キリスト御自身が宣教された) 福音, (彼自身の) 教義, (彼自らが建てられた唯一の教会たる) カトリック教会,社会,王たるキリストおよび終末 (世の終わり) についての真理 “The Gospel, dogma, the Church, society, Christ the King and the Last Ends” はみな次々に致命的な傷を負い壊されてしまうことになるでしょう.
まず福音から検討してみましょう (訳注・以下は「教皇の考え方によった場合のカトリック教の各要素の解釈の仕方」を述べている) .福音の真価はもはや私たちの主イエズス・キリストの生と死という史実をそのまま宣教することではなく,むしろ福音の語り口に私たち自身の時代の実存的な諸問題を想起させる力があるかどうかということになります.例えば,御復活日の朝 “On Easter morning” ,私たちの主キリスト御自身の身体が墓から起きて御自身の人間的霊魂と再び合体したかどうかは重要ではありません.肝心なのは福音の語り口の背後にある以下のような現代的な意味づけということになります.すなわち,愛は死よりも強いということ,キリストが愛の力により今日まで生き続けておられること,そして私たちも愛によって生き続けるよう保証しておられるということなどです.福音にある現実性や様々な事実のことは忘れなさい. 「愛だけがすべて “All you need is love.” 」 ということになります.
同じように,カトリック教義も過去から浄化され現在によって改良される必要があることになります.現代の哲学者ハイデッガー “Heidegger” は人は 「自己超越的」 存在だと教えます.そうだとすると,キリストは全く自己超越的な人間だったのであり,完全に彼自身を超越した無限の神の姿を自分のものにすべく懸命に努力したのであり,遂に神になれるほどに自分の能力を十分に発揮したということになります.従って御顕現 (けんげん.または御託身〈ごたくしん〉. “the Incarnation” ) の教義はもはや神が人間となったことを意味するのではなく,人間が神となったとことを意味するのです! 同様に贖罪 (しょくざい. “the Redemption” ) はイエズス・キリストが恐ろしい受難 “Passion” により天の御父に対し万人の罪の負債を支払ったとことを意味するのではなく,キリストが十字架により神が愛されるように私達人間に代わって神を愛されたのであり,私たちにも同じようにするよう求めていることを意味するというのです.罪とはもはや神に対する致命的な反逆ではなくなり,ただ単にわがまま,愛の欠如にすぎないということになります.従ってミサ聖祭はもはや神に捧げる犠牲たるべき必要はなく,司式をする司祭はただの共同祝祭のアニメーター (アニメ制作者) にすぎません.ベネディクト教皇が新しい典礼によるミサ聖祭 “the Novus Ordo Mass” を信奉しているのも頷(うなず)けます.
カトリック教会についてはどうかと言うと,実存する人間が最高価値で (エレイソン・コメンツ第209回をご参照ください) すべての人間が平等に実存しているのですから,カトリック教会の聖職階級制上の差 “a Church of hierarchical inequalities” など無用,また唯一の救いの箱舟 “Ark of Salvation” としてのカトリック教会は廃止せよというわけです.なぜなら,いかなる宗教の信奉者もすべて実存する人間だからです.エキュメニズム “ecumenism” (世界教会主義) があらゆるカトリック教会の宣教努力 “all Catholic missionary efforts” に取って代わることになります.同様に個々人を最高価値と認めることは社会の共通善を個々人の人権の下に従属させることであり,それによって社会は消滅することになるでしょう.そして男性と女性という個人同士の相互関係を子供たちより優先することで結婚と社会の両方の土台を壊(こわ)しともに弱体化させてしまうでしょう.王たるキリスト “Christ the King” に関して言えば,自分の宗教を選ぶ個々人の権利を国家が保護すべきであるとする尊厳が全ての個々人に与えられることによりキリストは王の座を奪われることになるでしょう.
最後に死についてです.それが罰からもたらされた場合,死は私たちの様々な苦難に対する救済策となることになります.個々の審判はただご褒美(ほうび)を意味するだけにすぎません.地獄とはただ霊魂の取り返しがつかないほどの身勝手な状態を意味するだけにすぎないことになります.天国とは 「存在の無限性に全く新たに浸り切ること」 を意味するようになるでしょう - ここでの存在とは何でしょう? - その他まだいろいろあります.そこにあるのは一つの新たな宗教,すなわちカトリック教より - 少なくともこの世では - はるかに心地よい宗教でしょうと,ティシエ司教はコメントしています.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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ベネディクト教皇の考え方の根源に触れた後 (エレイソン・コメンツ第209回) ,ティシエ司教は自身の論文 「理性に脅かされるカトリック信仰」 “in his Faith Imperilled by Reason” でさらに教皇の考え方が生み出す諸々の果実について検討を進めています.もしベネディクト教皇の考え方がとりわけカント (1724-1804年) の体系的主観論にその根源を置いたものであれば,そこから生まれる果実が良いはずはありません.カトリック信仰の客観的真理がどうして主観論信奉者の関与あるいは反応に左右されることがあり得ましょうか? もしそうだとすれば, (キリスト御自身が宣教された) 福音, (彼自身の) 教義, (彼自らが建てられた唯一の教会たる) カトリック教会,社会,王たるキリストおよび終末 (世の終わり) についての真理 “The Gospel, dogma, the Church, society, Christ the King and the Last Ends” はみな次々に致命的な傷を負い壊されてしまうことになるでしょう.
まず福音から検討してみましょう (訳注・以下は「教皇の考え方によった場合のカトリック教の各要素の解釈の仕方」を述べている) .福音の真価はもはや私たちの主イエズス・キリストの生と死という史実をそのまま宣教することではなく,むしろ福音の語り口に私たち自身の時代の実存的な諸問題を想起させる力があるかどうかということになります.例えば,御復活日の朝 “On Easter morning” ,私たちの主キリスト御自身の身体が墓から起きて御自身の人間的霊魂と再び合体したかどうかは重要ではありません.肝心なのは福音の語り口の背後にある以下のような現代的な意味づけということになります.すなわち,愛は死よりも強いということ,キリストが愛の力により今日まで生き続けておられること,そして私たちも愛によって生き続けるよう保証しておられるということなどです.福音にある現実性や様々な事実のことは忘れなさい. 「愛だけがすべて “All you need is love.” 」 ということになります.
同じように,カトリック教義も過去から浄化され現在によって改良される必要があることになります.現代の哲学者ハイデッガー “Heidegger” は人は 「自己超越的」 存在だと教えます.そうだとすると,キリストは全く自己超越的な人間だったのであり,完全に彼自身を超越した無限の神の姿を自分のものにすべく懸命に努力したのであり,遂に神になれるほどに自分の能力を十分に発揮したということになります.従って御顕現 (けんげん.または御託身〈ごたくしん〉. “the Incarnation” ) の教義はもはや神が人間となったことを意味するのではなく,人間が神となったとことを意味するのです! 同様に贖罪 (しょくざい. “the Redemption” ) はイエズス・キリストが恐ろしい受難 “Passion” により天の御父に対し万人の罪の負債を支払ったとことを意味するのではなく,キリストが十字架により神が愛されるように私達人間に代わって神を愛されたのであり,私たちにも同じようにするよう求めていることを意味するというのです.罪とはもはや神に対する致命的な反逆ではなくなり,ただ単にわがまま,愛の欠如にすぎないということになります.従ってミサ聖祭はもはや神に捧げる犠牲たるべき必要はなく,司式をする司祭はただの共同祝祭のアニメーター (アニメ制作者) にすぎません.ベネディクト教皇が新しい典礼によるミサ聖祭 “the Novus Ordo Mass” を信奉しているのも頷(うなず)けます.
カトリック教会についてはどうかと言うと,実存する人間が最高価値で (エレイソン・コメンツ第209回をご参照ください) すべての人間が平等に実存しているのですから,カトリック教会の聖職階級制上の差 “a Church of hierarchical inequalities” など無用,また唯一の救いの箱舟 “Ark of Salvation” としてのカトリック教会は廃止せよというわけです.なぜなら,いかなる宗教の信奉者もすべて実存する人間だからです.エキュメニズム “ecumenism” (世界教会主義) があらゆるカトリック教会の宣教努力 “all Catholic missionary efforts” に取って代わることになります.同様に個々人を最高価値と認めることは社会の共通善を個々人の人権の下に従属させることであり,それによって社会は消滅することになるでしょう.そして男性と女性という個人同士の相互関係を子供たちより優先することで結婚と社会の両方の土台を壊(こわ)しともに弱体化させてしまうでしょう.王たるキリスト “Christ the King” に関して言えば,自分の宗教を選ぶ個々人の権利を国家が保護すべきであるとする尊厳が全ての個々人に与えられることによりキリストは王の座を奪われることになるでしょう.
最後に死についてです.それが罰からもたらされた場合,死は私たちの様々な苦難に対する救済策となることになります.個々の審判はただご褒美(ほうび)を意味するだけにすぎません.地獄とはただ霊魂の取り返しがつかないほどの身勝手な状態を意味するだけにすぎないことになります.天国とは 「存在の無限性に全く新たに浸り切ること」 を意味するようになるでしょう - ここでの存在とは何でしょう? - その他まだいろいろあります.そこにあるのは一つの新たな宗教,すなわちカトリック教より - 少なくともこの世では - はるかに心地よい宗教でしょうと,ティシエ司教はコメントしています.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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2011年8月7日日曜日
ベネディクト教皇の考え方 その2
エレイソン・コメンツ 第209回 (2011年7月16日)
教皇ベネディクト16世の考え方に関するティシエ司教の論文を4部に分けてみますと,第2部ではその哲学的,神学的ルーツに触れています.同司教は先ずベネディクト教皇の哲学を分析するにあたり,ピオ10世が発表された偉大な回勅(かいちょく) 「パッシェンディ “Pascendi” 」 の趣旨に沿っています.ワインの瓶の中が汚れていれば,どんなに良いワインを入れても腐ってしまいます.もし人の心が真実から隔たったものであれば,近代哲学がそうであるように,カトリック信仰でさえそれを通して誤った方向へ導かれてしまうでしょう.なぜなら,そのような状態では信仰が真実によって正しい方向へ導かれなくなるからです.教皇の問題はまさしくこの点にあります.
ティシエ司教は先代のピオ10世と同じように,現代人が置かれているこの惨状を招いた主因はドイツの啓蒙(もう)哲学者 “Enlightenment philosopher” イマヌエル・カント “Immanuel KANT” (1724-1804年) だとしています.カントは現代のいたるところにはびこっている反思想体系 “the system of ani-thought” を完成させた哲学者で,その考え方は神を理性的な話の枠外(わくがい)に置くもの “excludes God from rational discourse” です.というのは,カントが主張したように,もし人間の心が五感の捉(とら)えるもの “what appears to the senses” 以外の客体を認知できないとすれば,心は感覚的な見かけの裏にある真実 “the reality behind the senses” をいかようにも再構築できるわけで,客観的な真実は不可知のものと一蹴(いっしゅう)され “objective reality is dismissed as unknowable” ,主体がすべて (の最高位に君臨する) ということになります.主体が神を必要とし,神の存在を前提とするならよしとしましょう.そうでない場合は,言ってみれば,神に運がなかったということになります!
ティシエ司教は次に5人の近代哲学者に触れています.5人はいずれも,発想を真実より,主体を客体より重視するカントの主観的な愚行のもたらす帰結を解明しようと試みています.この中で,教皇の考え方にとって最も重要なのは実存主義 “Existentialism” の父ハイデッガー “Heidegger” (1889-1976年) と一級の人格主義 “personalism” 提唱者ブーバー “Buber” (1878-1965年) の二人かもしれません.もし (カントが言うように) 霊的実体が不可知だとすれば “If essences are unknowable (Kant)”,残るのはただ実存するものだけです.ここで最も重要な実存は個人ということで,これがブーバーにとっての間主観性 “intersubjectivity” すなわち主体的な個人同士の 「私とあなた “I-You” 」 の関係を成すものであり,この関係が彼にとっての神への道を開いています.この考え方によれば,客体としての神を認知するかどうかは人間が主体的に関わりを持つかどうか次第ということになります.この認知がよって立つ土台はいかにも心細いものではないでしょうか!
だが,人間の主体的な関わりがベネディクト教皇の理論的思考の鍵(かぎ)となっており,ティシエ司教の記述によれば,その考え方に最初に影響を与えたのはドイツの有名なテュービンゲン神学校 “School of Tuebingen” です.この学校はJ.S.ドレイ (1777-1853年) (訳注・Johann Sebastian von Drey. ドイツのカトリック神学者.) が創立したもので,歴史を動かすのは一定の姿をとどめる各時代の精神であり,それはキリストの霊であるとの立場を取っていました.従って神の啓示は最後の使徒の死で終わりとなったカトリック信仰の遺産 “Deposit of Faith” (訳注・「聖書とカトリック聖伝(聖なる伝承)」を指す )にとどまらず,時の経過とともにより明確なものになるというのです.それどころか,神の啓示は内容的に絶(た)えず進化するもので,それを受ける主体がそれに貢献するというのです.従って,各時代の教会は神の啓示に対し受動的でなく能動的な役割を果たし,過去の聖伝 (カトリック伝統) に現代の意味を与えるとの立場です.このことは聞いた覚えがあるように思えてきたのではないでしょうか? ディルタイ “Dilthey” の解釈学に似ていないでしょうか? エレイソン・コメンツ第208回をご覧ください.
かくして,教皇ベネディクト16世にとって神は自分から隔たった客体でも単なる主体でもありません.教皇にとって神は人格的なもので,一人の 「私」 が人間個々人の 「あなた」 とやり取りする存在なのです “…an “I” exchanging with each human “You” .聖書すなわち聖伝は確かに神たる 「私」 “the divine “I” ” から客観的に発するものとしながらも,他方で生きていて変わっていく 「あなた」 “the living and moving “You” ” は絶えず聖書を読み返す必要があり,聖書が聖伝の根底である以上,聖伝 (カトリック伝統) もルフェーブル大司教の説く 「固定的 (=非進化論〈生物不変説〉的) “fixist” 」聖伝のように静的なものでなく,主体が関わることによって動的なものに変えなければならないとします.同じように,神学理論も主体的に捉えなければならず “subjectivized” ,カトリック信仰は神を個人的に 「体験」 すること “a personal “experiencing” of God” でなければならず,教導権 (訳注後記) でさえただ単に静的に固定されたままとどまるだけにすぎない存在たることを止めるべき (変わっていくべき) ものだというのです.
「呪(のろ)わるるべきは人間に信を置く人間なり」 と預言者エレミアは言っています (エレミアの書:17章5節) “Accursed is the man that puts his trust in man” says Jeremiah ( XVII, 5). (訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第5パラグラフの訳注:
教導権 “Magisterium” について.
カトリック教義を指導する権限のこと.ローマ教皇をはじめ,カトリック教会の各司教に与えられている.
* * *
最後のパラグラフの訳注:
旧約聖書・エレミアの書:第17章5節
『(主は仰せられる.)「人によりたのみ、*肉を自分の腕とし,その心を主から遠ざける者はのろわれる…」』
(注釈)
*信心深いイスラエル人にとって,その腕は神である(イザヤの書53・1,詩篇71・18).しかし,その神ではなく,人間を力にする.
(注)現代において,聖書でいわれるイスラエル人とは,(聖書に啓示される)真の神の存在とそのみ教えを信じるすべての人(=キリスト信者=Catholics)を指している.
* * *
教皇ベネディクト16世の考え方に関するティシエ司教の論文を4部に分けてみますと,第2部ではその哲学的,神学的ルーツに触れています.同司教は先ずベネディクト教皇の哲学を分析するにあたり,ピオ10世が発表された偉大な回勅(かいちょく) 「パッシェンディ “Pascendi” 」 の趣旨に沿っています.ワインの瓶の中が汚れていれば,どんなに良いワインを入れても腐ってしまいます.もし人の心が真実から隔たったものであれば,近代哲学がそうであるように,カトリック信仰でさえそれを通して誤った方向へ導かれてしまうでしょう.なぜなら,そのような状態では信仰が真実によって正しい方向へ導かれなくなるからです.教皇の問題はまさしくこの点にあります.
ティシエ司教は先代のピオ10世と同じように,現代人が置かれているこの惨状を招いた主因はドイツの啓蒙(もう)哲学者 “Enlightenment philosopher” イマヌエル・カント “Immanuel KANT” (1724-1804年) だとしています.カントは現代のいたるところにはびこっている反思想体系 “the system of ani-thought” を完成させた哲学者で,その考え方は神を理性的な話の枠外(わくがい)に置くもの “excludes God from rational discourse” です.というのは,カントが主張したように,もし人間の心が五感の捉(とら)えるもの “what appears to the senses” 以外の客体を認知できないとすれば,心は感覚的な見かけの裏にある真実 “the reality behind the senses” をいかようにも再構築できるわけで,客観的な真実は不可知のものと一蹴(いっしゅう)され “objective reality is dismissed as unknowable” ,主体がすべて (の最高位に君臨する) ということになります.主体が神を必要とし,神の存在を前提とするならよしとしましょう.そうでない場合は,言ってみれば,神に運がなかったということになります!
ティシエ司教は次に5人の近代哲学者に触れています.5人はいずれも,発想を真実より,主体を客体より重視するカントの主観的な愚行のもたらす帰結を解明しようと試みています.この中で,教皇の考え方にとって最も重要なのは実存主義 “Existentialism” の父ハイデッガー “Heidegger” (1889-1976年) と一級の人格主義 “personalism” 提唱者ブーバー “Buber” (1878-1965年) の二人かもしれません.もし (カントが言うように) 霊的実体が不可知だとすれば “If essences are unknowable (Kant)”,残るのはただ実存するものだけです.ここで最も重要な実存は個人ということで,これがブーバーにとっての間主観性 “intersubjectivity” すなわち主体的な個人同士の 「私とあなた “I-You” 」 の関係を成すものであり,この関係が彼にとっての神への道を開いています.この考え方によれば,客体としての神を認知するかどうかは人間が主体的に関わりを持つかどうか次第ということになります.この認知がよって立つ土台はいかにも心細いものではないでしょうか!
だが,人間の主体的な関わりがベネディクト教皇の理論的思考の鍵(かぎ)となっており,ティシエ司教の記述によれば,その考え方に最初に影響を与えたのはドイツの有名なテュービンゲン神学校 “School of Tuebingen” です.この学校はJ.S.ドレイ (1777-1853年) (訳注・Johann Sebastian von Drey. ドイツのカトリック神学者.) が創立したもので,歴史を動かすのは一定の姿をとどめる各時代の精神であり,それはキリストの霊であるとの立場を取っていました.従って神の啓示は最後の使徒の死で終わりとなったカトリック信仰の遺産 “Deposit of Faith” (訳注・「聖書とカトリック聖伝(聖なる伝承)」を指す )にとどまらず,時の経過とともにより明確なものになるというのです.それどころか,神の啓示は内容的に絶(た)えず進化するもので,それを受ける主体がそれに貢献するというのです.従って,各時代の教会は神の啓示に対し受動的でなく能動的な役割を果たし,過去の聖伝 (カトリック伝統) に現代の意味を与えるとの立場です.このことは聞いた覚えがあるように思えてきたのではないでしょうか? ディルタイ “Dilthey” の解釈学に似ていないでしょうか? エレイソン・コメンツ第208回をご覧ください.
かくして,教皇ベネディクト16世にとって神は自分から隔たった客体でも単なる主体でもありません.教皇にとって神は人格的なもので,一人の 「私」 が人間個々人の 「あなた」 とやり取りする存在なのです “…an “I” exchanging with each human “You” .聖書すなわち聖伝は確かに神たる 「私」 “the divine “I” ” から客観的に発するものとしながらも,他方で生きていて変わっていく 「あなた」 “the living and moving “You” ” は絶えず聖書を読み返す必要があり,聖書が聖伝の根底である以上,聖伝 (カトリック伝統) もルフェーブル大司教の説く 「固定的 (=非進化論〈生物不変説〉的) “fixist” 」聖伝のように静的なものでなく,主体が関わることによって動的なものに変えなければならないとします.同じように,神学理論も主体的に捉えなければならず “subjectivized” ,カトリック信仰は神を個人的に 「体験」 すること “a personal “experiencing” of God” でなければならず,教導権 (訳注後記) でさえただ単に静的に固定されたままとどまるだけにすぎない存在たることを止めるべき (変わっていくべき) ものだというのです.
「呪(のろ)わるるべきは人間に信を置く人間なり」 と預言者エレミアは言っています (エレミアの書:17章5節) “Accursed is the man that puts his trust in man” says Jeremiah ( XVII, 5). (訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第5パラグラフの訳注:
教導権 “Magisterium” について.
カトリック教義を指導する権限のこと.ローマ教皇をはじめ,カトリック教会の各司教に与えられている.
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最後のパラグラフの訳注:
旧約聖書・エレミアの書:第17章5節
『(主は仰せられる.)「人によりたのみ、*肉を自分の腕とし,その心を主から遠ざける者はのろわれる…」』
(注釈)
*信心深いイスラエル人にとって,その腕は神である(イザヤの書53・1,詩篇71・18).しかし,その神ではなく,人間を力にする.
(注)現代において,聖書でいわれるイスラエル人とは,(聖書に啓示される)真の神の存在とそのみ教えを信じるすべての人(=キリスト信者=Catholics)を指している.
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2011年8月2日火曜日
ベネディクト教皇の考え方 その1
エレイソン・コメンツ 第208回 (2011年7月9日)
6月18日付「エレイソン・コメンツ」で私は現教皇ベネディクト16世の「信仰の持ち方」がいかに「間違った方向に向(むか)っているか」を4回続きで示すと約束しました.実際には,聖ピオ十世会に所属する四人の司教の一人であるティシエ・ドゥ・マルレ司教 “Bishop Tissier de Mallerais” が数年前に教皇の考え方について著(あらわ)した貴重な小論文の要約を紹介することになります.ティシエ司教は「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」 “The Faith Imperilled by Reason” (訳注後記)と題するご自身の論文を「飾り気のない」内容だと称されていますが,それは確かに教皇の根本的な問題,すなわち,現代世界の諸価値観を排除することなしにどうカトリック教を信仰するか,について本質ををさらけ出しています.論文は教皇が現在でも依然(いぜん)として何らかの方法でカトリック教を信仰しているとしても,その信仰の持ち方では必然的に間違った方向に導かれることを論証しています.
論文は四部構成です.ティシエ司教は教皇ベネディクト16世の 「継続性の解釈学」 について紹介する重要な序論 “Introduction” に続いて,教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツ “roots” について簡潔に触れています.第三部で同司教は,教皇の信仰の仕方がキリストの福音 “the Gospel” ,カトリック教義 “dogma” (訳注・キリストとその唯一の教会のみ教えをその通りに忠実に守るという意味での),カトリック教会と社会 “the Church and society” ,キリストの王位 “the Kingship of Christ” および最後の事柄 “the Last Things” (訳注・終末=死,死後の審判,身体の復活,天国,地獄,煉獄(れんごく)のこと.)についてどのように結実(けつじつ) “fruits” することになるかを詳しく説明しています.ティシエ司教は教皇の「新信仰」 “Newfaith” について極めて批判的ながらも敬意に満ちた慎重な判断 “judgment” を下して論文を締めくくっています.では,まず序論の要旨(ようし)から始めましょう:--
教皇ベネディクト16世にとっての基本的な問題とは,私たちすべてと同様に,カトリック信仰と現代世界の間で起こる衝突(しょうとつ)です.例えば,現教皇は現代科学は道徳を超越しており “amoral” ,現代社会は世俗的で “secular” ,現代文化は多宗教的だ “multi-religious” と見ておられます.教皇はこの衝突をカトリック信仰と理性,すなわちカトリック教会の信仰 “the Faith of the Church” と18世紀の啓蒙(けいもう)時代 “the 18th century Enlightenment” に考案された理性との間で起こるものだと規定しています.しかしながら,教皇はこの両方を互いに調和するやり方で解釈し得るし,またそうしなければならないと確信しています.教皇がカトリック信仰を今日の世界に妥協させようと試みた公会議,すなわち第二バチカン公会議に密接に参画したのはこのためです.だが伝統的なカトリック教を信奉(しんぽう)する信徒たちは,第二バチカン公会議はその諸原理そのものがカトリック信仰と相いれないために失敗したと言っています.そこで,教皇ベネディクト16世は「継続性の解釈学」
“Hermeneutic of Continuity” ,つまり,カトリックの伝統と第二バチカン公会議の間には何らの不和も存在しないことを示すための解釈体系(システム)を著したわけです.
教皇の「解釈学」 “hermeneutic” の根底をなす原則は19世紀のドイツの歴史学者ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911) “Wilhelm Dilthey” に遡(さかのぼ)ります.ディルタイは,真理は歴史の中で生じるものだから,それ自身の歴史においてのみ理解され得るもので,人類についてのいかなる真理も人類自身がその歴史に関わらない限り理解され得ないと主張しました.従って過去の諸真理の核心を現在に継続させるためには,人は過去に属する諸要素のうち現在では無意味なものをすべて取り去り,今生きている者にとって大事な要素 “elements important for the living present” と置き換える必要がある,というのです.ベネディクト教皇はこの二重の浄化および改良のプロセスをカトリック教会に当てはめています.一方では理性をもってカトリック信仰を過去から引きずる過ち,例えば教会の絶対主義から浄化しなければならないとしながら,他方でカトリック信仰は理性を備えて,宗教に対する理性からの攻撃を緩和(かんわ)しなければならず,かつ理性のもつ人道的価値観 “humanist values” ,自由,平等そして友愛(兄弟愛) “liberty, equality and fraternity” はすべてカトリック教会発祥(はっしょう)のものであることを心に留めなければならないとしているのです.
ここで教皇が犯している重大な誤りは,キリスト教文明の礎(いしずえ)であり,そのかすかなこん跡(せき)が依然として拠(よ)って立つカトリック信仰の諸々の真理は決して人類の歴史からでなく,永遠に変わることのない神の胸裏(きょうり) “the eternal bosom of the unchanging God” から発祥していることを理解していないことです.それは永遠から生まれ永遠に続く不変の真理です “They are eternal truths, from eternity, for eternity”. 「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」と私たちの主イエズス・キリストは仰せられます (マテオ福音24・35) “Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” says Our Lord, (MtXXIV,35) .ディルタイも,そして一見したところ教皇ベネディクト16世も人類の歴史や人類による条件付けをはるかに超越した諸々の真理を思い描くことなどできないのでしょう.もし教皇が信仰心のない理性 “faithless Reason” に譲歩をすることで,そうした理性の信奉者をカトリック信仰に近づけることができるとお考えであれば,彼に再び考えさせてあげましょう.理性の信奉者はますますカトリック信仰を軽蔑(けいべつ)するだけでしょう!
次回は,ベネディクト教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツについて述べることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
最初のパラグラフの訳注:
・「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」(和訳)
・ “The Faith Imperilled by Reason” (英訳)
についての情報:
仏語原文:
“La Foi au Péril de la Raison - Herméneutique de Benoît XVI”
par Mgr. Bernard Tissier de Mallerais, FSSPX
Le Sel de La Terre, n° 69, été 2009, la revue des dominicains de France.
出典:フランス・ドミニコ会季刊誌「地の塩」第69号,2009年夏・発行
英訳:
“The Faith Imperilled by Reason: Benedict XVI’s Hermeneutics”
by Msgr. Bernard Tissier de Mallerais, SSPX
From “Le Sel de La Terre”, Issue 69, Summer 2009
* * *
6月18日付「エレイソン・コメンツ」で私は現教皇ベネディクト16世の「信仰の持ち方」がいかに「間違った方向に向(むか)っているか」を4回続きで示すと約束しました.実際には,聖ピオ十世会に所属する四人の司教の一人であるティシエ・ドゥ・マルレ司教 “Bishop Tissier de Mallerais” が数年前に教皇の考え方について著(あらわ)した貴重な小論文の要約を紹介することになります.ティシエ司教は「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」 “The Faith Imperilled by Reason” (訳注後記)と題するご自身の論文を「飾り気のない」内容だと称されていますが,それは確かに教皇の根本的な問題,すなわち,現代世界の諸価値観を排除することなしにどうカトリック教を信仰するか,について本質ををさらけ出しています.論文は教皇が現在でも依然(いぜん)として何らかの方法でカトリック教を信仰しているとしても,その信仰の持ち方では必然的に間違った方向に導かれることを論証しています.
論文は四部構成です.ティシエ司教は教皇ベネディクト16世の 「継続性の解釈学」 について紹介する重要な序論 “Introduction” に続いて,教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツ “roots” について簡潔に触れています.第三部で同司教は,教皇の信仰の仕方がキリストの福音 “the Gospel” ,カトリック教義 “dogma” (訳注・キリストとその唯一の教会のみ教えをその通りに忠実に守るという意味での),カトリック教会と社会 “the Church and society” ,キリストの王位 “the Kingship of Christ” および最後の事柄 “the Last Things” (訳注・終末=死,死後の審判,身体の復活,天国,地獄,煉獄(れんごく)のこと.)についてどのように結実(けつじつ) “fruits” することになるかを詳しく説明しています.ティシエ司教は教皇の「新信仰」 “Newfaith” について極めて批判的ながらも敬意に満ちた慎重な判断 “judgment” を下して論文を締めくくっています.では,まず序論の要旨(ようし)から始めましょう:--
教皇ベネディクト16世にとっての基本的な問題とは,私たちすべてと同様に,カトリック信仰と現代世界の間で起こる衝突(しょうとつ)です.例えば,現教皇は現代科学は道徳を超越しており “amoral” ,現代社会は世俗的で “secular” ,現代文化は多宗教的だ “multi-religious” と見ておられます.教皇はこの衝突をカトリック信仰と理性,すなわちカトリック教会の信仰 “the Faith of the Church” と18世紀の啓蒙(けいもう)時代 “the 18th century Enlightenment” に考案された理性との間で起こるものだと規定しています.しかしながら,教皇はこの両方を互いに調和するやり方で解釈し得るし,またそうしなければならないと確信しています.教皇がカトリック信仰を今日の世界に妥協させようと試みた公会議,すなわち第二バチカン公会議に密接に参画したのはこのためです.だが伝統的なカトリック教を信奉(しんぽう)する信徒たちは,第二バチカン公会議はその諸原理そのものがカトリック信仰と相いれないために失敗したと言っています.そこで,教皇ベネディクト16世は「継続性の解釈学」
“Hermeneutic of Continuity” ,つまり,カトリックの伝統と第二バチカン公会議の間には何らの不和も存在しないことを示すための解釈体系(システム)を著したわけです.
教皇の「解釈学」 “hermeneutic” の根底をなす原則は19世紀のドイツの歴史学者ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911) “Wilhelm Dilthey” に遡(さかのぼ)ります.ディルタイは,真理は歴史の中で生じるものだから,それ自身の歴史においてのみ理解され得るもので,人類についてのいかなる真理も人類自身がその歴史に関わらない限り理解され得ないと主張しました.従って過去の諸真理の核心を現在に継続させるためには,人は過去に属する諸要素のうち現在では無意味なものをすべて取り去り,今生きている者にとって大事な要素 “elements important for the living present” と置き換える必要がある,というのです.ベネディクト教皇はこの二重の浄化および改良のプロセスをカトリック教会に当てはめています.一方では理性をもってカトリック信仰を過去から引きずる過ち,例えば教会の絶対主義から浄化しなければならないとしながら,他方でカトリック信仰は理性を備えて,宗教に対する理性からの攻撃を緩和(かんわ)しなければならず,かつ理性のもつ人道的価値観 “humanist values” ,自由,平等そして友愛(兄弟愛) “liberty, equality and fraternity” はすべてカトリック教会発祥(はっしょう)のものであることを心に留めなければならないとしているのです.
ここで教皇が犯している重大な誤りは,キリスト教文明の礎(いしずえ)であり,そのかすかなこん跡(せき)が依然として拠(よ)って立つカトリック信仰の諸々の真理は決して人類の歴史からでなく,永遠に変わることのない神の胸裏(きょうり) “the eternal bosom of the unchanging God” から発祥していることを理解していないことです.それは永遠から生まれ永遠に続く不変の真理です “They are eternal truths, from eternity, for eternity”. 「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」と私たちの主イエズス・キリストは仰せられます (マテオ福音24・35) “Heaven and earth will pass away, but my words will not pass away” says Our Lord, (MtXXIV,35) .ディルタイも,そして一見したところ教皇ベネディクト16世も人類の歴史や人類による条件付けをはるかに超越した諸々の真理を思い描くことなどできないのでしょう.もし教皇が信仰心のない理性 “faithless Reason” に譲歩をすることで,そうした理性の信奉者をカトリック信仰に近づけることができるとお考えであれば,彼に再び考えさせてあげましょう.理性の信奉者はますますカトリック信仰を軽蔑(けいべつ)するだけでしょう!
次回は,ベネディクト教皇の考え方の哲学的,神学的ルーツについて述べることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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最初のパラグラフの訳注:
・「理性に脅(おびや)かされるカトリック信仰」(和訳)
・ “The Faith Imperilled by Reason” (英訳)
についての情報:
仏語原文:
“La Foi au Péril de la Raison - Herméneutique de Benoît XVI”
par Mgr. Bernard Tissier de Mallerais, FSSPX
Le Sel de La Terre, n° 69, été 2009, la revue des dominicains de France.
出典:フランス・ドミニコ会季刊誌「地の塩」第69号,2009年夏・発行
英訳:
“The Faith Imperilled by Reason: Benedict XVI’s Hermeneutics”
by Msgr. Bernard Tissier de Mallerais, SSPX
From “Le Sel de La Terre”, Issue 69, Summer 2009
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