2014年7月26日土曜日

367 フランスが動き出す 7/26

エレイソン・コメンツ 第367回 (2014年7月26日)

     先週の火曜日,水曜日(7月15-16日)の二日間(せんしゅうの かようび,すいようび〈しちがつ じゅうごにち-じゅうろくにち〉のふつか かん),フランス北西部アンジェ近郊にあるアブリイエ・ドミニコ会修道院(ふらんす ほくせいぶ あんじぇ きんこう にある あぶりいえ・どみにこかい しゅうどういん)( "the Dominican Friary of Avrillé" )で「抵抗運動」が進行中(ていこう うんどうが しんこう ちゅう)の各地から集まった(かくちからあつまった)抵抗派司祭たちの会合が開かれた(ていこうは しさいたちの かいごうが ひらかれた)ことは皆さんの多くがご存知(みなさんの おおくが ごぞんじ)でしょう( "Many of you know that on Tuesday and Wednesday of last week was held in the Dominican Friary of Avrillé close to Angers in North-west France a meeting of resistant priests from wherever the “Resistance” is up and running, …" ).各地(かくち)といってもフランスが中心(ふらんすが ちゅうしん)でした( "… but mainly from France." ).これはフランス人司祭(ふらんすじん しさい)たちが今年初め(ことしはじめ)にアブリイエで開いた集会(あぶりいえで ひらいた しゅうかい)から数えて第3回目(かぞえて だいさんかい)のもので( "This was the third such meeting of French priests held in Avrillé since the beginning of the year, …" ),これまでの中(なか)で最も重要な会合(もっとも じゅうような かいごう)となりました( "… and it was the most important." ).なぜなら,教会(きょうかい)にとっていろいろな意味(いみ)で決定的な役割を果たす国フランス(けっていてきな やくわりを はたす くに ふらんす)で,彼らが自らの活動の組織化を開始(かれらが みずからの かつどうの そしきかを かいし)したからです( "This time they began to co-ordinate and to organize their activities in France, a country often decisive for the Church in various ways." ).

     この一連の集会開催(いちれんの しゅうかい かいさい)はアブリイエ修道院長ピエール・マリー神父の功績(あぶりいえ しゅうどういん ちょう ぴえーる・まりー しんぷの こうせき)によるものです( "The credit for calling these meetings goes to the Prior of Avrillé, Fr Pierre-Marie." ).聖ピオ十世会( "SSPX" )の現指導部(せい ぴお じゅっせいかいの げん しどうぶ)はローマの新教会(ろーまの しん きょうかい)との和解(わかい)を隠蔽(いんぺい)したり否定(ひてい)したりしながらも執拗に求め続け(しつように もとめ つづけ)てきました.このような指導部(しどうぶ)の下(した・もと)で聖職者(せいしょくしゃ)として生(い)きるのがますます難(むずか)しくなってきた司祭(しさい)たちに対(たい)し,同修道院(どうしゅうどういん)はこれまで数年間(すうねんかん)にわたり支援と避難所を提供(しえんと ひなんじょを ていきょう)してきました( "For several years Avrillé has been offering support and a refuge to priests of the Society of St Pius X who have been finding their priestly life more and more difficult under its present leadership, whose pursuit of reconciliation with the Newchurch in Rome is, despite the disguise and denials, relentless." ).わずか数週間前(すうしゅうかん まえ)のことですが,SSPXの第2副総長(だいに ふく そうちょう)は「汽車(きしゃ)はまもなくローマ(ろーま)に向(む)け出発(しゅっぱつ)します.降(お)りたいものは降りるよう」と述(の)べたと伝(つた)えられます( "Only a few weeks ago the Society's Second Assistant is reported to have said, “The train is leaving for Rome, and those who want to get off will get off.” " ).ピエール・マリー神父は SSPX との関係(かんけい)をできるだけ 長く(ながく)持ち続け(もちつづけ)たいと望(のぞ)んできましたが,今年(ことし)になってフェレィ司教(ふぇれい しきょう)から書簡(しょかん)を受け取り(うけとり),決別の最終判断を下し(けつべつの さいしゅう はんだんを くだし)ました( "For as long as possible Fr Pierre-Marie sought not to break off relations with the official SSPX, but earlier this year came the letter from Bishop Fellay finalising the rupture." ).アブリイエ修道院が伝統を裏切らない限り避けようのない決断(でんとうを うらぎらない かぎり さけようのない けつだん)でした( "That was inevitable, unless Avrillé would also betray Tradition." ).

     当初(とうしょ),同神父(どう しんぷ)は先週の集会参加者(せんしゅうの しゅうかいさんかしゃ)をフランス人司祭(ふらんすじんしさい)たちだけに限定(げんてい)するつもりでした( "Originally Fr Pierre-Marie designed last week’s meeting for the French priests, …" ).だが,私は二つの理由を挙げて(ふたつの りゆうを あげて),彼にフランス以外(ふらんす いがい)からの司祭(しさい)たちも招(まね)いてはどうかと提案(ていあん)しました( "… but I suggested to him that resistant priests from outside France might also be invited for a double reason: …" ).ひとつは,外部から参加(がいぶ から さんか)する司祭たちは,これまで外(そと)から見(み)るとあまり目立(めだ)たなかったフランスで抵抗運動が活発化(ていこう うんどうが かっぱつか)したのを見れば勇気(ゆうき)づけられるのではないかということ( "… the priests from outside would be encouraged to see the “Resistance” stirring in France, where it has stirred little – outwardly – up till now, …" ),もうひとつは,外部参加者(がいぶ さんかしゃ)に接(せっ)すればフランス人司祭たちは抵抗運動がフランス国内に限った(ふらんす こくないに かぎった)ものではないことを知る機会(しるきかい)になるのではないかということでした( "… and the French priests in turn might be reminded that there is not only France." ).ピエール・マリー神父は私の提案を受け入れて(わたしの ていあんを うけいれて)くれました( "Fr Pierre-Marie accepted my suggestion, …" ).その結果(けっか),参加者は全部で18名(さんかしゃは ぜんぶで じゅうはちめい)になりました( "… and that is how it turned out, some 18 priests in all." ).

     会合(かいごう)はきわめてうまく運(はこ)びました( "The meeting went very well." ).過去を振り返る(かこを ふりかえる)とか恨みを言う場面(うらみを いう ばめん)など少(すく)なく,将来に目を向けた会合(しょうらいに めをむけた かいごう)でした( "There was little looking back and no bitterness, much looking forward." )(某神父〈ぼうしんぷ〉は誰(だれ)も真面目に受け止める必要のない壁(まじめに うけとめる ひつようの ない かべ)に止まったハエ(とまった はえ)ならよかったのにと言った人(いった ひと)がいたかもしれません!)( " (one might wish a certain bishop had been a fly on the wall to see how he can be taken not entirely seriously !). " ).初日の作業の大半(しょにちの さぎょうの たいはん)はフランス人司祭(ふらんすじん しさい)たちのためのものでした( "The first day's business was largely for the French priests." ).彼らは先(ま)ず自分(じぶん)たちの取(と)りまとめ役(やく)としてド・メロード神父(ど・めろーど しんぷ)( "Fr. de Merode" )を選任(せんにん)しました.彼はベルギー出身(べるぎー しゅっしん)で,SSPXのため世界各地(せかい かくち)で20年間務め(にじゅうねん つとめ)てきた経験の持ち主(けいけんの もちぬし)です( "They began by nominating as their co-ordinator Fr. de Mérode, a priest from Belgium with 20 years' experience in the SSPX, all over the world." ).ついで彼らは,これから結成する組織(けっせいする そしき)を,目指す方向(めざす ほうこう)をはっきりと示(しめ)す「マルセル・ルフェーブル聖職者連合(まるせる・るふぇーぶる せいしょくしゃ れんごう)」( “Priestly Union of Marcel Lefebvre” )と名付(なづ)けることに決(き)めました( "Then for their organisation being born they chose the name of “Priestly Union of Marcel Lefebvre”, a name that announces clearly the orientation." ).そして最後(さいご)にド・メロード神父がフランス全土(ふらんす ぜんど)にあるミサ聖祭集会所ネットワーク(みさせいさい しゅうかいじょ ねっとわーく)の組織化計画(そしきかけいかく)を明(あき)らかにしました( "And finally Fr. De Mérode began organising a network of Mass centres all over France …" )――集会所の多く(しゅうかいじょの おおく)は1970年代(せん きゅうひゃく ななじゅう ねんだい)に遡(さかのぼ)るものですが,今(いま)では当時(とうじ)より厳(きび)しい条件下(じょうけん か)に置(お)かれ,少(すく)なくとも当面(とうめん)は資金(しきん)もきわめて限(かぎ)られた状況(じょうきょう)にあります( "…– back to the 1970's, but in harsher conditions, and with very limited resources, at least for the moment." ).

     2日目の作業(ふつかめの さぎょう)は信仰擁護(しんこう ようご)をめぐる国際的な懸念(こくさい てきな けねん)についての討議が中心(とうぎが ちゅうしん)となりました( "The second day's business was given over to international concerns for the defence of the Faith, …" ).ここでは当然(とうぜん)のことながら司祭聖別(しさい せいべつ)( "the question of episcopal consecrations" )の問題が提起(もんだいがていき)されました( "… and here of course arose the question of episcopal consecrations, …" ).少(すく)なくとも私は,出席(しゅっせき)している司祭(しさい)たちがこの問題(もんだい)をどう考(かんが)えているのか心の内(こころの うち)を知(し)りたいと思(おも)っていました( "… because I for one wished to know the mind of the priests present." ).彼らの考(かんが)えはほぼ一致(いっち)したものでした( "It was relatively unanimous. " ).読者の皆さん(どくしゃの みなさん)は彼らが聖別の時(せいべつの とき)はまだ来(き)ていないとしながらも,その時期(じき)は遠い先(とおい さき)のことではないと考(かんが)えていることを知(し)れば勇気(ゆうき)づけられることでしょう( "Readers will be encouraged to know that while the priests thought that the time for consecrations had not yet come, nevertheless it could not be too far off. " ).今の時点(いまの じてん)で SSPX 内(ない)に残(のこ)っている3名の司教の誰か(さんめいの しきょうの だれか)がローマの承認(しょうにん)なしに司祭を聖別(しさいを せいべつ)すると想像(そうぞう)するのはきわめて難しい状況(むずかしい じょうきょう)ですし( "For indeed as of now it is very difficult to imagine any of the three bishops who remain within the SSPX undertaking to consecrate anybody without the approval of Rome, …" ),新モダニスト(しん もだにすと)(=近代主義者〈きんだい しゅぎしゃ〉)( "neo-modernist" )のローマ(ろーま)が反(はん)モダニストの聖別候補者(せいべつ こうほしゃ)を容認(ようにん)すると想像(そうぞう)するのは不可能(ふかのう)だからです!( "… and it is impossible to imagine neo-modernist Rome approving of any anti-modernist candidate ! " ) 我慢(がまん)(忍耐・堅忍〈にんたい・けんにん〉)しましょう( "Patience." ).

     皆(みな)さん,生(う)まれたての聖職者連合(せいしょくしゃ れんごう)の密(ひそ)かな成功(せいこう)と,神が適当と判断される時期(かみが てきとうと はんだん される じき)に信仰擁護(しんこう ようご)のために必要な新司教(ひつようなしんきょう)たちを私たちにお与え下さる(わたくしたちに おあたえ くださる)よう,是非ともお祈りください(ぜひ とも おいのり ください)( "Do pray, both for the quiet success of the budding Priestly Union, and for God to give us, in his good time, the additional bishops needed for the defence of the Faith. " ).

     キリエ・エレイソン.

     司祭たちはフランスで集会を開き      
     成功を収めました.      
     (しさいたちは ふらんすで しゅうかいを ひらき
    せいこうを おさめました.)
    ( "Priests met in France, and met with good success," )

     私たちは,これが信仰の苦難を少しでも
     和らげることになるよう祈りましょう.
     (わたくしたちは,これが しんこうの くなんを
     すこしでも やわらげる ことに なるよう いのりましょう.)
     ( "To relieve, we pray, some of the Faith's distress." )

     リチャード・ウィリアムソン司教

* * *


(注:本投稿記事〈第367回エレイソン・コメンツ〉は2014年8月31日23:58に公開されました.)

2014年7月19日土曜日

366 伝統の優先事項 7/19

エレイソン・コメンツ 第366回 (2014年7月19日) 

     "Magisterium" (「教導権〈きょうどうけん〉」)という言葉(ことば)はラテン語の(らてんごの) ( "master (magister) " )から派生(はせい)したもので,教会(きょうかい)では教会の権威ある教え(けんい ある おしえ),もしくは教会の権威ある教師(きょうし) ( "the Church's authoritative teaching or its authorised teachers" ) を意味(いみ)します( "The word "Magisterium", coming from the Latin for "master" ("magister"), means in the Church either the Church's authoritative teaching or its authorised teachers. " ).教師は教えを受ける者(うける もの)より優(すぐ)れているわけですから,教導権に基(もと)づく教えは教えを受けるカトリック教徒(=信徒)の人々(かとりっく きょうと〈=しんと〉の ひとびと)より優れています( "Now as teacher is superior to taught, so the Magisterium teaching is superior to the Catholic people being taught. " ).だが,カトリック教教師(かとりっくきょう きょうし)( "Catholic Masters" )は自由意志(じゆう いし)( "free-will" )を持っており,神(かみ)は彼らが間違いを犯す(かれらが まちがいを おかす)ように造(つく)られています( "But the Catholic Masters have free-will, and God leaves them free to err. " ).それでは,彼らがひどい間違いを犯したとき,人々は立ち上(たちあ)がって,たとえ丁重(ていちょう)にせよ,彼らに向(む)かって「あなた方(がた)は間違っておられます」と告(つ)げるでしょうか?( "Then if they err gravely, may the people stand up to them and tell them, however respectfully, that they are wrong ? " )問題解決が複雑(もんだい かいけつが ふくざつ)になりうるのは人々の多(おお)くが,今日(こんにち)のように,真実を見失って(しんじつを みうしなって)いるときだけです( "The question is answered by truth. If is only when most people have lost the truth, as today, that the question can become confused. " ).

     一方で(いっぽうで)私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が自らの教会に対し(みずからの きょうかいに たいし),誤(あやま)りをしがちな私たち人類(じんるい)に天国(てんごく)へたどり着(つ)かせてくれる真実を教える権限を賦与(しんじつを おしえる けんげんを ふよ)されているのは確(たし)かなことです.主(しゅ)は「ペトロ(ぺとろ)よ,汝の同胞(なんじの どうほう)たちを堅振(=堅信)(けんしん)させよ(=同胞たちの信仰を堅めよ〈どうほうたちの しんこうを かためよ〉)」と指示(しじ)されています( "On the one hand it is certain that Our Lord endowed his Church with a teaching authority, to teach us fallible human beings that Truth which alone can get us to Heaven – “Peter, confirm they brethren”." )(訳注後記1)(訳注・「同胞たち」=ペトロと裏切り者ユダ以外〈うらぎりもの ゆだ いがい〉のキリストの残りの10弟子〈きりすとの のこりの じゅうでし〉のことを指〈さ〉している).だが他方(たほう)で,ペトロが同胞たちに堅振させようとするのは私たちの主イエズス・キリストが彼に教えた信仰(かれに おしえた しんこう)だけです.主は「私は汝の信仰が崩れないよう(なんじの しんこうが くずれないよう),汝が改心(なんじが かいしん)し,汝の同胞を堅振させるよう祈った(なんじの どうほうを けんしん させるよう いのった)」と述(の)べられています(新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章32節)( "On the other hand Peter was only to confirm them in that faith which Our Lord had taught him – “I have prayed that thy faith fail not, and thou being converted, confirm thy brethren” (Lk. XXII, 32)." )(訳注後記2).言い換(いいか)えれば,ペトロに影響を与え(えいきょうを あたえ)るのは主が教示(しゅが きょうじ)された信仰であり,ペトロの役割(やくわり)はその信仰を守(まも)り,人々に教え説く(おしえ とく)ことだけです( "In other words that faith governs Peter which it is his function only to guard and expound faithfully, …" ).つまり,信仰はペトロに預(あず)けられたわけです( "… such as it was deposited with him, …" ).この信仰付託(しんこう ふたく)( "the Deposit of Faith" )が伝統( "Tradition" )として永遠に受け継がれるのです( "… the Deposit of Faith, to be handed down for ever as Tradition." )(訳注・「付託〈=附託〉」とは「預〈あず〉ける・委〈ゆだ〉ねる」こと).伝統(でんとう)がペトロを教え導き(おしえ みちびき),彼が人々を(かれが ひとびとを)教え導きます( "Tradition teaches Peter, who teaches the people." ).

     第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)は同(おな)じことを次(つぎ)のように述(の)べています( "Vatican I (1870) says the same thing." ).カトリック信徒(しんと)は「神の御言葉に含まれ(かみの みことばに ふくまれ),伝統(でんとう)により受け継(うけつ)がれたあらゆる真実(しんじつ)」を信(しん)じなければならない( "Catholics must believe “all truths contained in the word of God or handed down by Tradition” " ).また教会(きょうかい)はその真実を神から啓示(かみから けいじ)されたものとして,自(みずか)らの特別もしくは通常教導権に基づき(とくべつ もしくは つうじょう きょうどうけんに もとづき)信徒に周知(しんとに しゅうち)させる( "… and which the Church puts forward as divinely revealed, by its Extraordinary or Ordinary Universal Magisterium …" )(最も広い意味での伝統〈もっとも ひろい いみでの でんとう〉がなかったら,この世〈よ〉に「神の御言葉」すなわち聖書〈せいしょ〉は存在〈そんざい〉しなかったことが想い起〈おもいお〉こされます)( "… (one recalls that without Tradition in its broadest sense, there would have been no “word of God”, or Bible)." ).第一バチカン公会議はさらに,この教導権には教会の無謬性(むびゅうせい)が賦与(ふよ)されているが,目新しい(ま あたらしい)ことを教え説く(おしえ とく)ならその無謬性は失われ(むびゅうせいは うしなわれ)ると述(の)べています( "Vatican I says moreover that this Magisterium is gifted with the Church's infallibility, but this infallibility excludes any novelty being taught." ).だとすれば,最も広い意味での伝統が影響を及ぼす(えいきょうを およぼす)ものは教導権が伝統(きょうどうけんが でんとう)だと言(い)いうる範囲内(はんいない)のものであり( "Then Tradition in its broadest sense governs what the Magisterium can say it is, …" ),教導権は伝統の範囲内(はんいない)のことを教える権限(けんげん)は持(も)っても( "… and while the Magisterium has authority to teach inside Tradition, …" ),伝統の範囲外(はんいがい)のことを人々に教え説く権限は持たない(ひとびとに おしえとく けんげんは もたない)ということです( "… it has no authority to teach the people anything outside of Tradition." ).

     だが,霊魂が必要(れいこんが ひつよう)とするものは,カトリック教の伝統の範囲内(かとりっく きょうの でんとうの はんい ない)で自分たちを救ってくれる真実(じぶんたちを すくってくれる しんじつ)を教え説く(おしえ とく)生きた教導権(いきた きょうどうけん)( "a living Magisterium" )です( "Yet souls do need a living Magisterium to teach them the truths of salvation inside Catholic Tradition." ).ここで言う諸真実(ここでいう しょ しんじつ)は神や神の教会と同じように不変(かみや かみの きょうかいと おなじ ように ふへん)のものです( "These truths do not change any more than God or his Church change, …" ).しかし,教会が運営を続け(うんえいを つづけ)なければならない世間の状況(せけんの じょうきょう)は時代と共に変わり(じだいと ともに かわり)ます( "… but the circumstances of the world in which the Church has to operate are changing all the time, …" ).そして,教会は変わりゆく状況(かわりゆく じょうきょう)により,不変の真実の説明(ふへんの しんじつの せつめい)をそれに合わせて変える(あわせて かえる)生きた教師(いきた きょうし)を必要(ひつよう)とします( "… and so according to the variety of these circumstances the Church needs living Masters to vary all the time the presentation and explanation of the unvarying truths." ).したがって,心あるカトリック信徒(こころある かとりっく しんと)なら,教会が生きた教師を必要(きょうかいが いきた きょうしを ひつよう)としていることに異論(いろん)をはさめないでしょう( "Therefore no Catholic in his right mind disputes the need for the Church's living Masters. " ).

     だが,その教師(きょうし)が伝統の範疇(でんとうの はんちゅう)に伝統でない何か他の(でんとうで ない なにか ほかの)ものがあると主張(しゅちょう)したらどうなるでしょうか?( "But what if these Masters claim that something is inside Tradition which is not there ? " ) 一方で,そのような教師は博学(はくがく)で,教会(きょうかい)から人々を教え導く権限(ひとびとを おしえ みちびく けんげん)を与(あた)えられおり,教えを受ける人々(おしえを うける ひとびと)は相対的に無知(そうたいてきに むち)です( "On the one hand they are learned men, authorised by the Church to teach the people, and the people are relatively ignorant." ).他方(たほう),人々がコンスタンチノープル(こんすたんちのーぷる) "Constantinople" で蜂起(ほうき)し神聖なる聖母マリア(しんせいなる せいぼ まりあ)を異端の総主教ネスター(いたんの そうしゅきょう ねすたー)( "the heretical Patriarch Nestor" )(訳注・=ラテン語で「ネストリウス〈ねすとりうす〉 "Nestorius" 」)から守(まも)ろうとしたエフェゾ公会議(えふぇぞ こうかいぎ)(428年)という有名な例(ゆうめいな れい)があります(訳注・「エフェゾ」〈 "Ephesus" 〉はローマ帝国〈ろーま ていこく〉のアジア州の首府〈あじあ しゅうの しゅふ〉)( "On the other hand there is the famous case of the Council of Ephesus (428), where the people rose up in Constantinople to defend the divine Motherhood of the Blessed Virgin Mary against the heretical Patriarch Nestor." ).

     答(こた)えは,客観的な真実(きゃっかん てきな しんじつ)は教師たちと人々を超えた存在(こえた そんざい)ですから( "The answer is that objective truth is above Masters and people alike, …" ),人々が真実を身につけている場合(ひとびとが しんじつを みにつけて いる ばあい),教師(きょうし)たちがそうでないと人々が彼ら(かれら)の教師たちより優(すぐ)れていることになります( "… so that if the people have the truth on their side, they are superior to their Masters if the Masters do not have the truth." ).他方,人々が真実を持たない(ひとびとが しんじつを もたない)なら教師に反対して立ち上がる権利(きょうしに たいして たちあがる けんり)はありません( "On the other hand if the people do not have the truth, thay have no right to rise up against the Masters." ).要(よう)するに,人々が正しい状態(ひとびとが ただしい じょうたい)であれば,彼ら(かれら)にはその権利(けんり)があります( "In brief, if they are right, they have the right." ).正(ただ)しくなければ権利(けんり)はありません( "If they are not right, they have no right." ).では,彼らが正しいかどうかを見分(みわ)けるのは何(なん)なのでしょうか?( "And what tells if they are right or not ? " ) それは(必ずしも〈かならずしも〉)教師(きょうし)でもなければ,(まして)人々(ひとびと)でもありません( "Neither Masters (necessarily), nor people (still less necessarily), …" ).現実(げんじつ)には,教師たちもしくは人々,あるいは両方が一緒(りょうほうが いっしょ)になって,真実を抑え込み(しんじつを おさえこみ)ます( "… but reality, even if Masters or people, or both, conspire to smother it." ).

     キリエ・エレイソン.

     カトリック教の聖職者たちがひどい過ちを犯せば,      
    私たちはそのことを彼らに告げます
      (かとりっくきょうの せいしょくしゃ たちが
    ひどい あやまちを おかせば,      
     わたくしたちは そのことを かれらに つげます)      
     ( "If Catholic churchmen gravely err, we may" )

     私たちが正しいとき,
    彼らはどこまで邪道を歩みづづけるのでしょうか?
     (わたくしたちが ただしいとき,      
     かれらは どこまで じゃどうを あゆみ つづける
    のでしょうか?)      
     ( "Declare, if we are right, how far they stray." )

     リチャード・ウィリアムソン司教



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第2パラグラフの訳注その1・その2 

「主は「ペトロよ,汝の同胞たちを堅振(=堅信)させよ(=同胞たちの信仰を堅めよ)」と指示されています」
"On the one hand it is certain that Our Lord endowed his Church with a teaching authority, to teach us fallible human beings that Truth which alone can get us to Heaven – “Peter, confirm they brethren”."
について…



新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31,32節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XXII, 31, 32
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT LUC XXII, 31, 32
O SANTO EVANGELHO DE JESU CHRISTO SEGUNDO S. LUCAS XII, 31, 32
EVANGELIUM SECUNDUM LUCAM XXII, 31, 32



31 『(イエズスは〈こう〉言われた,…)シモン(=ペトロの名),シモン,サタン(=悪魔)はあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,…』

"AND THE LORD SAID: SIMON, SIMON, BEHOLD SATAN HATH DESIRED TO HAVE YOU, THAT HE MAY SIFT YOU AS WHEAT: …"

"LE SEIGNEUR DIT ENCORE: SIMON, SIMON, VOILÀ QUE SATAN VOUS A DEMANDÉS POUR VOUS CRIBLER, COMME LE FROMENT ; …"

"DISSE MAIS O SENHOR : SIMÃO, SIMÃO, EIS-AHI VOS PEDIO SATANÁS COM INSTANCIA, PARA VOS JOEIRAR COMO TRIGO:

"AIT AUTEM DOMINUS: SIMON, SIMON, ECCE SATANAS EXPETIVIT VOS UT CRIBRARET SICUT TRITICUM : …"



32 『*私はあなたのために信仰がなくならぬようにと祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟の心を固めよ.』

"… BUT I HAVE PRAYED FOR THEE, THAT THY FAITH FAIL NOT: AND THOU, BEING ONCE CONVERTED, CONFIRM THY BRETHREN."

"MAIS J’AI PRIÉ POUR TOI, AFIN QUE TA FOI NE DÉFAILLE POINT ; ET TOI, QUAND TU SERAS CONVERTI, CONFIRME TES FRÈRES."

"MAS EU ROGUEI POR TI, PARA QUE A TUA FÉ NÃO FALTE : E TU EM FIM DEPOIS DE CONVERTIDO, CONFORTA A TEUS IRMÃOS.

"… EGO AUTEM ROGAVI PRO TE UT NON DEFICIAT FIDES TUA : ET TU ALIQUANDO CONVERSUS CONFIRMA FRATRES TUOS. "



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(注:本投稿記事〈第366回エレイソン・コメンツ〉は2014年8月29日22:35に公開されました.)

2014年7月12日土曜日

365 合意達成 7/12

エレイソン・コメンツ 第365回 (2014年7月12日)

     昨年(さくねん)12月13日(じゅうにがつ じゅうさんにち),教皇フランシスコが住む(きょうこう ふらんしすこが すむ)ローマの聖マルタ・ハウス(ろーまの せい まるた はうす)( "St Martha's House" )で教皇と聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)総長(そうちょう)( "Superior General of the Society of St Pius X" )フェレー( "Bishop Fellay" )が短時間会いました(たんじかん あいました)( "On December 13 of last year, in St Martha's House in Rome where the Pope is currently living, the Pope met briefly with Bishop Fellay, Superior General of the Society of St Pius X." ). SSPX は公式(こうしき)には,この会見(かいけん)が重要な意味を持つ(じゅうような いみを もつ)ものではないとの立場を取って(たちばを とって)います.だが,ローマ教皇庁(ろーま きょうこう ちょう)( "Rome" )(以下「ローマ」と記す〈しるす〉.)の運営(うんえい)に詳(くわ)しいイタリア人解説者のジャコモ・デボート( "Giacomo Devoto (G.D.)" )という人物(以下,G. D. と記す.)(いたりあじん かいせつしゃの じゃこも・でぼーと という じんぶつ)はこの会見はローマと SSPX との間に合意が達成(あいだに ごういが たっせい)されたことを示す証拠(しめす しょうこ)だと主張(しゅちょう)しています( "The Society officially denies that the meeting had any significance, but an Italian commentator having some familiarity with how Rome operates, one Giacomo Devoto (G.D.), argues that the meeting was proof that a Rome-SSPX agreement has been reached." ).読者の皆さん(どくしゃのみなさん) は http://www.unavox.it/ArtDiversi/DIV812_Devoto_Notizia_intrigante.html
をお読(よ)みください.以下はその要点(いかは その ようてん)です:-- ( "See
http://www.unavox.it/ArtDiversi/DIV812_Devoto_Notizia_intrigante.html.
In brief : -- " )

     12月13日の午前(ごぜん),フェレー司教と SSPX 本部(ほんぶ)の二人の補佐官(ふたりの ほさかん)がバチカンで エックレ-ジア・デイ( "Ecclesia Dei" )(=神の教会〈かみのきょうかい〉) 委員会( "the Ecclesia Dei Commission" )の代表者(えっくれーじあ・でい いいんかいの だいひょうしゃ)たちと会見(かいけん)しました.会見はローマと SSPX との間の問題含みの関係を処理(あいだの もんだいふくみの かんけいを しょり)させるべく教皇フランシスコが同(どう)委員会に復職(ふくしょく)させたモンシニョール・グイード・ポッツォ(もんしにょーる・ぐいーど・ぽっつぉ)( "Monsignor (Msgr.) Guido Pozzo" )(Catholic prelate〈カトリック司祭・神学者〈かとりっく しさい・しんがくしゃ〉〉)の招請(しょうへい)で開(ひら)かれたものでした( "On the morning of the 13th Bishop Fellay and his two Assistants at the head of the SSPX met in the Vatican with the heads of the Ecclesia Dei Commission at the invitation of Monsignor Guido Pozzo, restored to the Commission by Pope Francis to deal with the problematic relations between Rome and the SSPX." )(訳注・"Monsignor" 「モンシニョール」はローマ教皇庁の司教補佐以上〈しきょう ほさ いじょう〉の高位聖職者に対する尊称〈たいする そんしょう〉.またその尊称を許〈ゆる〉された人物〈じんぶつ〉に対する尊称). SSPX の公式機関誌(こうしき きかんし) DICI (= Documentation Information Catholiques Internationales) は,この会見はまったく「非公式(ひこうしき)」なものだったと伝(つた)えています.しかし, G. D. は会見がたとえ非公式だったにせよ,2012年6月(にせん じゅうにねん ろくがつ)に正式に決裂(せいしきに けつれつ)したローマと SSPX の関係修復(かんけい しゅうふく)のための密かな接触(ひそかな せっしょく)が事前に何回か行われ(じぜんに なんかいか おこなわれ)ていなければ実現(じつげん)しなかっただろうと言(い)っています( "An official publication of the SSPX, DICI, claims that this meeting was merely “informal”, but G.D. says that even being informal it cannot have taken place without there having been beforehand a series of discreet contacts to repair the public breach of relations in June of 2012. " ).彼はさらに,この会合は「正式(せいしき)な」会合を開(ひら)くために必要な準備の一環(ひつような じゅんびの いっかん)だったと述(の)べています( "Also, says G.D., such a meeting is the necessary preliminary to any “formal” meeting." ).

     いずれにせよ,この会合の後(あと),モンシニョール・ポッツォ,ディ・ノイア大司教(でぃのいあ だいしきょう)( "Msgr. di Noia" )と SSPX の3名の指導者(さんめいの しどうしゃ)たちは教皇フランシスコがたまたま昼食(ちゅうしょく)をとっていた聖マルタ・ハウス(せい まるた はうす)へ足を運び(あしを はこび)ました( "In any case after that meeting Msgr. Pozzo, Msgr. di Noia and the three heads of the SSPX repaired to St Martha's House where the Pope also happened to be lunching." ).教皇が食事を終え立ち上がった(しょくじを おえ たちあがった)ときフェレー司教が教皇のもとに歩み寄り(あゆみ より),二人は公衆の面前で言葉を交わし(ふたりは こうしゅうの めんぜんで ことばを かわし),フェレー司教は教皇の指輪に接吻(ゆびわに せっぷん)しました(ローマの バチカン・インサイダー 誌〈ばちかん・いんさいだー し〉はフェレー司教が教皇の祝福を受ける〈しゅくふくを うける〉ためひざまずいたと伝〈つた〉えています)( "When the Pope stood up after the meal to leave, Bishop Fellay went over to him, they exchanged a few words in public view and the Bishop kissed the Pope's ring (or knelt down for his blessing, according to Rome's Vatican Insider)." ). DICI はここでも,二人の出会いは偶然(ふたりの であいは ぐうぜん)なもので単に挨拶を交わした(たんに あいさつを かわした)だけだと,その意義を最小限(いぎを さいしょうげん)にとどめようとしています( "DICI again minimised the encounter as nothing more than a chance meeting with a spontaneous exchange of courtesies." ).これとは反対(はんたい)に, G. D. は,それがたとえ「偶然(ぐうぜん)」な出会いだったとしても,教皇が事前に承知(じぜんに しょうち)して許可を与えて(きょかを あたえて)いなかったら実現(じつげん)しなかったと述(の)べています( "On the contrary G.D. reasonably maintains that even such a “chance” encounter cannot have taken place without the Pope's previous knowledge and approval." ).

     G.D. はさらに,外交(がいこう)におけるそうした会見は座を和やか(ざを なごやか)にするよう緻密に計算(めんみつに けいさん)されたもので,解釈に幅(かいしゃくに はば)があり,その持つ意味の大小(もつ いみの だいしょう)は各自(かくじ)の意(い)のままだと言(い)っています( "Moreover, says G.D., in the art of diplomacy such a meeting is a finely calculated ice-breaker, of elastic interpretation, designed to mean as much or as little as one wants." ).一方(いっぽう)で,挨拶を交わしただけの出会い(あいさつを かわした だけの であい)は新教会( "Newchurch" )の要人(ようじん)たちが頻繁に出入りする場所(ひんぱんに でいり する ばしょ)で公の目に触れる(おおやけの めに ふれる)ように行われた(おこなわれた)もので( "On the one hand the courteous contact was there for all to see in a public place frequented by important Newchurch officials, …" ),その日の午前中に開かれた SSPX と エックレ-ジア・デイ 委員会代表者の会合で話し合われた内容(はなし あわれた ないよう)を教皇が支持(きょうこうが しじ)したものだと解釈(かいしゃく)できるでしょう( "… and it could be seen as papal support of whatever had gone on at the morning's meeting with the Commission." ).他方(たほう),教皇庁も SSPX も共(とも)に出会い(であい)には挨拶を交わす以上の深い意味(あいさつを かわす いじょうの ふかい いみ)はなかったと尤も(もっとも)らしく主張(しゅちょう)できます( "On the other hand both Rome and the SSPX could plausibly deny that the encounter had any real significance beyond an exchange of courtesies." ).

     かくして,新年早々(しんねん そうそう)に噂が広がり始めた(うわさが ひろがり はじめた)とき, SSPX はすでに数か月前(すうかげつ まえ)からローマとSSPXの合意などまったく問題になっていないと言い張って(いいはって)きたわけです( "Thus when rumours began to circulate in the new year, for months the SSPX denied that there was any question of a Rome-SSPX agreement." ). DICI が教皇とフェレィ司教の接触(せっしょく)があったことを認めた(みとめた)のは今年の5月10日(ことしの ごがつ とおか)のことです( "Only on May 10 did DICI admit that there had been any contact at all between the Pope and Bishop Fellay, …" ).しかも,その際(さい) DICI が二人(ふたり)の出会い(であい)をあまりにも過少(かしょう)に扱(あつか)ったため, G. D. は逆(ぎゃく)にそれがローマと SSPX の間に密か(ひそか)に合意が達成されていることを示す確かな証拠(しめす たしかな しょうこ)だと解釈しているのです( "… and then DICI so minimised the event that G.D. takes it as a sure sign that an agreement has been reached in private. " )(現代政治の世界〈げんだいせいじの せかい〉では,公式な否定がない限り〈こうしきな ひていが ないかぎり〉何も確かと受け取れ〈なにも たしかと うけとれ〉ないという皮肉な言い方〈ひにくな いいかた〉が行き渡って〈ゆき わたって〉います)( " (In modern politics, as the cynical saying goes, nothing can be taken as true until it is officially denied.) " ).

     事実(じじつ),教皇フランシスコとフェレー司教にとって,主要な問題(しゅような もんだい)は彼らが共に望む合意(かれらが ともに のぞむ ごうい)をいかに達成(たっせい)するかではなく,双方に存在(そうほうに そんざい)する右派,左派(うは,さは)にいかにして合意を受け入れ(うけいれ)させるかです( "In fact the main problem, for Pope Francis as for Bishop Fellay, is not how to come to an agreement which they both want, but how to get their left and right wings respectively to accept an agreement. " ).だが,問題は日々解決(ひび かいけつ)されつつあります.かつて信仰擁護で輝いて(しんこう ようごで かがやいて)いた SSPX が恥ずべき新協会(はずべき しん きょうかい)( "Newsociety" )に変(か)わってきているからです( "However, the problem is being solved for them day by day as the Society, once glorious for its defence of the Faith, becomes the inglorious Newsociety. " ).実際(じっさい)のところ,新協会( "the Newsociety" )が新教会(しん きょうかい)( "Newchurch" )にとっていまだに脅威(きょうい)だと受け止め(うけとめ)ている新教会派司教が何人(しんきょうかいは しきょうが なんにん)いるでしょうか?( "For indeed how many Newchurch bishops can still be fearing the Newsociety as a threat to their Newchurch ? " )そしてローマとの合意が最悪の事態(さいあくの じたい)だといまだに信(しん)じている SSPX の司祭(しさい)たちが何人いるでしょうか? とりわけ,合意ができても「あなたたちは何も変える必要(なにも かえる ひつよう)はない」と約束(やくそく)されているとすれば?です( "And how many SSPX priests are still convinced that any agreement with Rome would be a disaster, especially if they are promised that “they will need to change nothing” ? " ).そのような合意など公表(こうひょう)するまでもないでしょう.それはすでに心の中では達成(こころの なかでは たっせい)されているわけですから( "Such an agreement will hardly need to be announced. In minds and hearts it is already here." ).

     キリエ・エレイソン.


     ローマと SSPX の接触は静かに進む
     (ろーまと えす えす ぴー えくす のせっしょくは しずかに すすむ)
     ( "With Rome, Society contacts quietly flow." )


     反目はやがて遠い過去のものとなるだろう
     (はんもくは やがて とおい かこの ものと なる だろう)
     ( "All enmity will soon be long ago." )



     リチャード・ウィリアムソン司教




* * *

(注:本投稿記事〈第365回エレイソン・コメンツ〉は2014年8月26日23:41に公開されました.)

2014年7月6日日曜日

364 ピィ枢機卿 II 7/5

エレイソン・コメンツ 第364回 (2014年7月5日)

     先週のピィ枢機卿の言葉の引用(せんしゅうの ぴぃすうききょうの ことばの いんよう)(EC 363参照)には以下の続き(いかの つづき)があります:-- ( "The quote last week from Cardinal Pie (cf. EC 362) continued directly as follows:-- " ).

     「やがて,炎の中で破壊される世界(ほのおの なかで はかい される せかい)を悪魔が乗っ取って(あくまが のっとって)しまったような,極限状態(きょくげん じょうたい),絶望的な状況下(ぜつぼうてきな じょうきょうか)で,すべての真のキリスト教徒(すべての まことの きりすと きょうと),すべての善人(ぜんにん),信仰と勇気を持ち続けるすべての人たち(しんこうと ゆうきを もちつづける すべての ひとたち)は果たして何が出来る(はたして なにが できる)でしょうか? ( " “In such an extremity, in such a desperate state of affairs, where evil has taken over a world soon to be consumed in flames, what are all the true Christians to do, all good men, all Saints, all men with any faith and courage ? " ) 彼ら(かれら)はかつてなかったほどの状況に立ち向かい(じょうきょうに たちむかい),熱心な祈り(ねっしんな いのり),積極的な行動(せっきょくてきな こうどう),恐れ知らずの奮闘(おそれしらずの ふんとう)をもって力を倍にして言う(ちからを ばいにして いう)でしょう,( "Grappling with a situation more clearly impossible than ever, with a redoubled energy by their ardent prayer, by their active works and by their fearless struggles they will say, …" )おお神よ,天に在す(座す)御父よ(おお かみよ,てんに まします おんちちよ),願わくは汝の御名の天に於けるが如く地上でとされ尊まれんことを(ねがわくは なんじの みなの てんに おけるが ごとく ちじょうで せいとされ とうとまれん ことを),汝の王国( "thy kingdom" )の天の御国に於けるが如く地上に来らんことを(なんじの おうこくの てんのみくにに おけるが ごとく ちじょうに きたらん ことを),汝の御旨の天に於けるが如く地上に行われんことを(なんじの みむねの てんに おけるが ごとく ちじょうに おこなわれん ことを).地上に天にある通り!(ちじょうに てんに ある とおり!)( "O God, O Father in Heaven, hallowed be thy name on earth as it is in Heaven, thy kingdom come on earth as it is in Heaven, thy will be done on earth as it is in Heaven. On earth as it is in Heaven ! " )(訳注後記1). そして,地が足元で崩れて行く間(ちが あしもとで くずれていく あいだ)も,彼ら(かれら)はその言葉をつぶやき続ける(そのことばを つぶやき つづける)でしょう.」( "And they will still be murmuring these words while the very earth is giving way beneath their feet." )


     「そして,昔々(むかし むかし)( " “And just as once upon a time, …" ),凄惨(せいさん)な軍事的大惨事の後(ぐんじてき だいさんじの あと)で( "… following upon an appalling military disaster …" ),あらゆる階級のローマ元老院と政府の役人が揃って敗れ去った執政官の前に現れ(あらゆる かいきゅうの ろーま げんろういんと せいふの やくにんが そろって やぶれさった しっせいかんの まえに あらわれ),ローマ共和国(ろーま きょうわこく)を諦める(あきらめる)ことなく戦いを終わらせた(たたかいを おわらせた)ことに祝意を述べたと同じように(しゅくいを のべたと おなじように)( "… the whole Roman Senate and State officials of all ranks could be seen going out to meet the defeated consul and to congratulate him on not having despaired of the Roman Republic; …" ),天国の元老院議員(てんごくの げんろういん ぎいん),諸天使の聖歌隊全員(しょてんしの せいかたい ぜんいん),神の祝福を受けたあらゆる階級の福者(かみの しゅくふくを うけた あらゆる かいきゅうの ふくしゃ)たちが見込みのない希望を抱き(みこみの ない きぼうを いだき)ながら最後まで戦う(さいごまで たたかう)度量の広い(=寛大・寛容な)信仰擁護者たち(訳注・=競技者たち)(どりょうの ひろい〈=かんだい・かんような〉しんこう ようごしゃ たち〈=きょうぎしゃ たち〉)( "the generous athletes of the Faith" )を迎え出る(むかえ でる)でしょう( "… so likewise the senate of Heaven, all the Choirs of angels, all ranks of the Blessed will come out to meet the generous athletes of the Faith who will have fought to the bitter end, hoping against hope itself." ).」

     「そして,あらゆる時代の選民(じだいの せんみん)たちがかたくなに追い求め(おい もとめ)てきたその不可能な理想(ふかのうな りそう)が現実(げんじつ)のものとなるでしょう( " “And then that impossible ideal that the elect of all ages had obstinately pursued will become a reality." ).彼(=神の御独り子イエズス・キリスト)の二度目にして最終の御来臨(かれ〈=かみの おんひとりご いえずす・きりすと〉の にどめ にして さいしゅうの ごらいりん)では,御独り子( "the Son" )はこの世(=地上・現世)の王国を御父たる神に引き渡し(このよ〈=ちじょう・げんせ〉の おうこくを おんちちたる かみに ひきわたし),悪魔の力は永遠に地獄のどん底まで突き落とされる(あくまの ちからは えいえんに じごくの どんぞこ まで つき おとされる)でしょう( "In his Second and final Coming the Son will hand over the Kingdom of this world to God his Father, the power of evil will have been cast out for ever into the depths of the abyss; …" ).信仰,愛,律法の順守(しんこう・あい・りっぽうの じゅんしゅ)によりイエズス・キリストを経て神へ同化,吸収(いえずす・きりすとを へて かみへ どうか,きゅうしゅう)されるのを拒み続け(こばみ つづけ)てきたものはすべて永遠の汚物排水溝(えいえんの おぶつ はいすいこう)に投げ捨て(なげすて)られるでしょう( "… whatever has refused to be assimilated and incorporated into God through Jesus Christ by faith, love and observance of the law will be flung into the sewer of everlasting filth." ).そして,神はその特質の一体性(とくしつの いったいせい)( "the oneness of his nature" )および三位の神的位格の交わり(=交流)(さんみの しんてき いかくの まじわり〈=こうりゅう〉)(訳注後記その2)( "the society of the three divine Persons" )のみならず( "not only in the oneness of his nature and in the society of the three divine Persons, " ),人間の姿をお取りになった神の御独り子の神秘的な御体の完全性(にんげんの すがたを おとりになった かみの おんひとりごの しんぴてきな おんからだの かんぜんせい)においても( "in the fullness of the Mystical Body of his Incarnate Son" )諸聖人の交わりの成就(しょせいじんの まじわりの じょうじゅ)においても( "in the fulfilment of the Communion of Saints" ),永遠に生き,君臨(えいえんに いき,くんりん)するでしょう!」 (訳注2・=「三位一体の神格」〈さんみ いったいの しんかくの こと〉 (訳注・聖霊によって〈人間と同じく〉肉の身体に宿られ〈にんげんとおなじく〉せいれいに よって にくの からだに やどられ〉) ( "And God will live and reign for ever and ever, not only in the oneness of his nature and in the society of the three divine Persons, but also in the fullness of the Mystical Body of his Incarnate Son and in the fulfilment of the Communion of Saints !” " )

     親愛なる読者(しんあいなる どくしゃ)の皆(みな)さん,この引用(いんよう)から,ピィ枢機卿(ぴぃすうききょう)は将来に暗いビジョンを抱き(しょうらいに くらい びじょんを いだき)ながらも,決(けっ)して敗北主義者(はいぼく しゅぎしゃ)でなかったことがお分(わ)かりになったのではないでしょうか( "Dear readers, it should be obvious by now that Cardinal Pie, for all the darkness of his vision of the future, was no defeatist." ).人類(じんるい)が人間的に見れば(にんげんてきに みれば)絶望的な状況(ぜつぼうてきな じょうきょう)に向(む)かっていることをはっきり見てとりながらも,彼は人類(じんるい)と神の見る視点(かみの みる してん)を同(おな)じようにはっきりと見分(みわ)けていました( " Even while seeing with an absolute clarity the humanly hopeless situation into which mankind was getting itself, with an equal clarity he distinguished the human from the divine point of view: …" ).神の視点とは,人類は19世紀(じゅうきゅう せいき)に全能の神に挑戦(ぜんのうの かみに ちょうせん)し,悪魔の人質(あくまの ひとじち)や恐ろしい地獄(おそろしい じごく)に散(ち)らばる餌(えさ)に成り果て(なりはて)るかもしれないが,それでも諸々の選民の霊魂(もろもろの せんみんの れいこん)が神を愛し神に仕える(かみを あいし かみに つかえる)ことを選び取る(えらび とる)という神の崇高な御意図(かみの すうこうな ごいと)が神の天の御国(かみの てんの みくに)のために達成(たっせい)されるだろうということです( "… a mass of men might in the 19th century have been defying Almighty God and turning themselves into pawns of Satan and fodder for his horrible Hell, nevertheless God's sublime purpose for the souls of the elect who would choose to love and serve him was at the same time being achieved for God's Heaven." ).まさしく「神を愛する人々(かみを あいする ひとびと)すなわちみ旨によって召し出された人々(みむね によって めしだされた ひとびと)のためには,神がすべてをその善に役立たせ(ぜんに やくだたせ)たもうことを私たちは知って(わたくしたちは しって)いる.」(聖パウロのローマ人への書簡:第8章28節)というわけです( "Truly, “to them that love God, all things work together unto good” (Rom. VIII, 28). " ).(訳注後記2)

     2014年の今日(にせん じゅうよねんの こんにち),私たちは悪魔が私たちの身の回り(あくまが わたくしたちの みの まわり)で蔓延る(はびこる)のをあまりにも世俗的な見方で考える(せぞくてきな みかたで かんがえる)ことによって神の御意図(かみの ごいと)( “God’s purpose” )を見失(みうしな)いがちです( "In 2014 we can easily lose sight of God's purpose by thinking in too human a way of the evil advancing all around us. " ).しかし,神の御意図は人類が文明を破壊(じんるいが ぶんめいを はかい)しようと望(のぞ)むとき,その文明を救う(ぶんめいを すくう)ことではありません( "But God's purpose is not to save civilisation if men wish to destroy it." ).神の御意図は御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)を通(とお)して人々の霊魂を天の御国(=天国)へ導く(ひとびとの れいこんを てんの みくに〈=てんごく〉へみちびく)ことです( "His purpose is to bring souls to Heaven through his Son Jesus Christ, …).そして文明の崩壊(ぶんめいの ほうかい),あらゆる現世の野望(げんせの やぼう)や希望の失墜(きぼうの しっつい)は,人間の心(にんげんのこころ)をこの世で得られる報酬(このよで えられる ほうしゅう)をはるかに超(こ)えたところまで高(たか)めることになり,神の御意図実現に役立ち(かみの ごいと じつげんに やくだち)ます( "… and for this purpose the collapse of civilisation and of all earthly ambitions and hopes may well serve to force men's minds and hearts to rise above worldly considerations. ).神が私たちを創造(かみが わたくしたちを そうぞう)されたのは,現世の短い人生(げんせの みじかい じんせい)だけのためでも,この腐敗した世界(ふはいした せかい)のためでもありません( "God did not create us only for this short life, nor for this corrupt world." ).「私(わたくし)たちは永く続く都(ながく つづく みやこ)を今ここ(=地上・現世)で持たない(いま ここ〈=ちじょう・げんせ〉で もたない)が,やがて(=これから)来る都を探し求めて(きたる みやこを さがしもとめて)います」(訳注・「来る都(きたる みやこ)」=「天の御国(てんの みくに)=天国(てんごく)=霊魂の故郷(れいこんの こきょう・ふるさと)(使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節)( " “We have not here a lasting city, but we seek one that is to come” (Heb. XIII, 14)." ).(訳注後記3)

     キリエ・エレイソン.

     枢機卿は邪悪な(地上の)世界を見ても希望を失わなかった.
     (すうききょうは じゃあくな 〈ちじょうの〉せかいを みても きぼうを うしなわなかった.)
     ( "The Cardinal lost no hope from an evil world." )

     彼は信仰を得て天の御国の勝利が広がるのを見た.
     (かれは しんこうを えて てんの みくにの しょうりが ひろがるのを みた.)
     ( "With faith he saw the triumph of Heaven unfurled." )

     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第2パラグラフの訳注その1:

「おお神よ,天に在す(座す)御父よ(おおかみよ,てんに まします おんちちよ), 願わくは汝の御名の天に於けるが如く地上で聖と尊まれんことを (ねがわくは なんじの みなの てんに おけるが ごとく ちじょうで せいと とうとまれん ことを), 汝の王国( "thy kingdom" )の天の御国に於けるが如く地上に来らんことを (なんじの おうこくの てんの みくにに おけるが ごとく ちじょうに きたらん ことを), 汝の御旨の天に於けるが如く地上に行われんことを (なんじの みむねの てんに おけるが ごとく ちじょうに おこなわれん ことを). 地上に天にある通り!(ちじょうに てんに ある とおり!)」
( "O God, O Father in Heaven, hallowed be thy name on earth as it is in Heaven, thy kingdom come on earth as it is in Heaven, thy will be done on earth as it is in Heaven. On earth as it is in Heaven ! " )
について…


⇒ “PATER NOSTER” /「主祷文(しゅとうぶん)」

SIGNUM CRUCIS / 十字架の印〈じゅうじかのしるし〉/ THE SIGN OF THE CROSS / SIGNE DE LA CROIX

IN NÓMINE PATRIS, ET FÍLII, ✠ ET SPIRITUS SANCTI. AMEN.

『聖父と聖子と✠聖霊との御名によりて.アーメン.
(ちちと こと ✠せいれいとの みなによりて.あーめん.)』

“IN THE NAME OF THE FATHER, AND OF THE SON, ✠ AND OF THE HOLY GHOST. AMEN."

“AU NOM DU PÈRE, ET DU FILS, ✠ ET DU SAINT-ESPRIT. AINSI SOIT-IL."



(於ミサ聖祭〈みさせいさいに おいて〉…

V/. ORÉMUS : Præcéptis salutáribus móniti, et divína institutióne formáti, audémus dícere :

祭主司祭 /. 祈願.救いに益ある戒めに勧められ,神の制定に教えられ,われらは,敢て祈り奉る.
〈さいしゅしさい /. きがん.すくいに えきある いましめに すすめられ,かみの せいていに おしえられ,われらは,あえて いのり たてまつる.〉

V/. LET US PRAY. Taught by the precepts of salvation, and following the Divine commandment, we make bold to say :

V/. PRIONS: Avertis par le précepte du Sauveur, et instruits par la leçon divine, nous osons dire:



PATER NOSTER, QUI ES IN CÆLIS :

天に在す,われらの父よ,願わくは
(てんに まします われらの ちちよ,ねがわくは)

OUR FATHER, WHO ART IN HEAVEN,

NOTRE PÈRE, QUI ÊTES AUX CIEUX,




SANCTIFICÉTUR NOMEN TUUM : ADVÉNIAT REGNUM TUUM :

御名の聖とされんことを,御国の来らんことを,
(みなの せいと されんことを,みくにの きたらん ことを,)

HALLOWED BE THY NAME. THY KINGDOM COME.

QUE VOTRE NOM SOIT SANCTIFIÉ, QUE VOTRE RÈGNE ARRIVE ;




FIAT VOLÚNTAS TUA, SICUT IN CÆLO, ET IN TERRA.

御旨が天に於いて行われるように,地上でも行われんことを
(みむねが てんに おいて おこなわれる ように,ちじょうでも おこなわれん ことを.)

THY WILL BE DONE ON EARTH, AS IT IS IN HEAVEN.

QUE VOTRE VOLONTÉ SOIT FAITE SUR LA TERRE COMME AU CIEL.




PANEM NOSTRUM QUOTIDIÁNUM DA NOBIS HÓDIE :

今日も,われらに,日々のパンを与え給え,
(こんにちも,われらに,ひびの ぱんを,あたえ たまえ.)

▴GIVE US THIS DAY OUR DAILY BREAD.

DONNEZ-NOUS AUJOURD’HUI NOTRE PAIN QUOTIDIEN ;




ET DIMÍTTE NOBIS DÉBITA NOSTRA, SICUT ET NOS DIMÍTTIMUS DEBITÓRIBUS NOSTRIS.

われらが人を赦すように,われらの負いめを赦し給え.
(われらが ひとを ゆるす ように,われらの おいめを ゆるしたまえ.)

AND FORGIVE US OUR TRESPASSES, AS WE FORGIVE THOSE WHO TRESPASS AGAINST US.

ET PARDONNEZ-NOUS NOS OFFENSES, COMME NOUS PARDONNONS À CEUX QUI NOUS ONT OFFENSÉS ;




ET NE NOS INDÚCAS IN TENTATIÓNEM. R/. SED LÍBERA NOS A MALO.

われらを試みに引き給わぬよう. 助祭 /. われらを悪より救い給え.
(われらを こころみに ひきたまわぬよう. じょさい/.われらを あくより すくいたまえ.)

AND LEAD US NOT INTO TEMPTATION. R/. BUT DELIVER US FROM EVIL.

ET NE NOUS LAISSEZ PAS SUCCOMBER À LA TENTATION, R/. MAIS DÉLIVREZ-NOUS DU MAL.



AMEN.
アーメン. (あーめん)』



* * *


第5パラグラフの訳注その3:

「神を愛する人々 (すなわちみ旨によって召し出された人々) のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.」(使徒聖パウロのローマ人への書簡:第8章28節)というわけです.」
"Truly, “to them that love God, all things work together unto good” (Rom. VIII, 28). "
について:


使徒聖パウロのローマ人への書簡 第8章28節
(しと せいぱうろの ろーまじん への しょかん  だい はっしょう にじゅうはちせつ)

EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS VIII, 28

ÉPÎTRE DE SAINT PAUL AUX ROMAINS VIII, 28

EPISTOLA AD ROMANOS VIII, 28

God predestined us to be conformed to the image of His Son
Prædestinavit nos Deus conformes fieri imagini Filii sui



『神を愛する人々すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.』
(かみを あいする ひとびと すなわち みむねに よって めしだされた ひとびとの ためには,かみが すべてを その ぜんに やくだたせたもう ことを わたしたちは しっている.)

"And we know that to them that love God, all things work together unto good, to such as, according to his purpose, are called to be saints."

"Or nous savons que tout coopère au bien pour ceux qui aiment Dieu, pour ceux qui, selon son décret, sont appelés à être saints."

"Scimus autem quoniam diligentibus Deum omnia cooperantur in bonum, iis, qui secundum propositum vocati sunt sancti."



* * *

第6パラグラフの訳注その4

「私たちは永く続く都を今ここ(=地上・現世)で持たないが,やがて(=これから)来る都を探し求めています」(使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節)
"“We have not here a lasting city, but we seek one that is to come” (Heb. XIII, 14)."
について:


使徒聖パウロのヘブライ人への書簡 第13章14節
(しと せいぱうろの へぶらいじん への しょかん 
だい じゅうさん しょう じゅうよんせつ)

THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE HEBREWS XIII, 14

ÉPÎTRE DE SAINT PAUL L'APOSTOLAT AUX HÉBREUX XIII, 14

EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD HEBRÆOS XIII, 14


私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.』
(わたしたちは ここに ふへんの みやこを もたず,みらいの みやこを さがしている.)

"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."

"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."

"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."


(注釈)
*天のエルサレム.

(訳注・天のエルサレムは,天の御国の永遠の都)
〈てんの えるされむは てんの みくにの えいえんの みやこ〉




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(注:本投稿記事〈エレイソン・コメンツ第364回〉は2014年8月25日10:07に公開されました.)