エレイソン・コメンツ 第366回 (2014年7月19日)
"Magisterium" (「教導権〈きょうどうけん〉」)という言葉(ことば)はラテン語の(らてんごの) ( "master (magister) " )から派生(はせい)したもので,教会(きょうかい)では教会の権威ある教え(けんい ある おしえ),もしくは教会の権威ある教師(きょうし) ( "the Church's authoritative teaching or its authorised teachers" ) を意味(いみ)します( "The word "Magisterium", coming from the Latin for "master" ("magister"), means in the Church either the Church's authoritative teaching or its authorised teachers. " ).教師は教えを受ける者(うける もの)より優(すぐ)れているわけですから,教導権に基(もと)づく教えは教えを受けるカトリック教徒(=信徒)の人々(かとりっく きょうと〈=しんと〉の ひとびと)より優れています( "Now as teacher is superior to taught, so the Magisterium teaching is superior to the Catholic people being taught. " ).だが,カトリック教教師(かとりっくきょう きょうし)( "Catholic Masters" )は自由意志(じゆう いし)( "free-will" )を持っており,神(かみ)は彼らが間違いを犯す(かれらが まちがいを おかす)ように造(つく)られています( "But the Catholic Masters have free-will, and God leaves them free to err. " ).それでは,彼らがひどい間違いを犯したとき,人々は立ち上(たちあ)がって,たとえ丁重(ていちょう)にせよ,彼らに向(む)かって「あなた方(がた)は間違っておられます」と告(つ)げるでしょうか?( "Then if they err gravely, may the people stand up to them and tell them, however respectfully, that they are wrong ? " )問題解決が複雑(もんだい かいけつが ふくざつ)になりうるのは人々の多(おお)くが,今日(こんにち)のように,真実を見失って(しんじつを みうしなって)いるときだけです( "The question is answered by truth. If is only when most people have lost the truth, as today, that the question can become confused. " ).
一方で(いっぽうで)私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が自らの教会に対し(みずからの きょうかいに たいし),誤(あやま)りをしがちな私たち人類(じんるい)に天国(てんごく)へたどり着(つ)かせてくれる真実を教える権限を賦与(しんじつを おしえる けんげんを ふよ)されているのは確(たし)かなことです.主(しゅ)は「ペトロ(ぺとろ)よ,汝の同胞(なんじの どうほう)たちを堅振(=堅信)(けんしん)させよ(=同胞たちの信仰を堅めよ〈どうほうたちの しんこうを かためよ〉)」と指示(しじ)されています( "On the one hand it is certain that Our Lord endowed his Church with a teaching authority, to teach us fallible human beings that Truth which alone can get us to Heaven – “Peter, confirm they brethren”." )(訳注後記1)(訳注・「同胞たち」=ペトロと裏切り者ユダ以外〈うらぎりもの ゆだ いがい〉のキリストの残りの10弟子〈きりすとの のこりの じゅうでし〉のことを指〈さ〉している).だが他方(たほう)で,ペトロが同胞たちに堅振させようとするのは私たちの主イエズス・キリストが彼に教えた信仰(かれに おしえた しんこう)だけです.主は「私は汝の信仰が崩れないよう(なんじの しんこうが くずれないよう),汝が改心(なんじが かいしん)し,汝の同胞を堅振させるよう祈った(なんじの どうほうを けんしん させるよう いのった)」と述(の)べられています(新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章32節)( "On the other hand Peter was only to confirm them in that faith which Our Lord had taught him – “I have prayed that thy faith fail not, and thou being converted, confirm thy brethren” (Lk. XXII, 32)." )(訳注後記2).言い換(いいか)えれば,ペトロに影響を与え(えいきょうを あたえ)るのは主が教示(しゅが きょうじ)された信仰であり,ペトロの役割(やくわり)はその信仰を守(まも)り,人々に教え説く(おしえ とく)ことだけです( "In other words that faith governs Peter which it is his function only to guard and expound faithfully, …" ).つまり,信仰はペトロに預(あず)けられたわけです( "… such as it was deposited with him, …" ).この信仰付託(しんこう ふたく)( "the Deposit of Faith" )が伝統( "Tradition" )として永遠に受け継がれるのです( "… the Deposit of Faith, to be handed down for ever as Tradition." )(訳注・「付託〈=附託〉」とは「預〈あず〉ける・委〈ゆだ〉ねる」こと).伝統(でんとう)がペトロを教え導き(おしえ みちびき),彼が人々を(かれが ひとびとを)教え導きます( "Tradition teaches Peter, who teaches the people." ).
第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)は同(おな)じことを次(つぎ)のように述(の)べています( "Vatican I (1870) says the same thing." ).カトリック信徒(しんと)は「神の御言葉に含まれ(かみの みことばに ふくまれ),伝統(でんとう)により受け継(うけつ)がれたあらゆる真実(しんじつ)」を信(しん)じなければならない( "Catholics must believe “all truths contained in the word of God or handed down by Tradition” " ).また教会(きょうかい)はその真実を神から啓示(かみから けいじ)されたものとして,自(みずか)らの特別もしくは通常教導権に基づき(とくべつ もしくは つうじょう きょうどうけんに もとづき)信徒に周知(しんとに しゅうち)させる( "… and which the Church puts forward as divinely revealed, by its Extraordinary or Ordinary Universal Magisterium …" )(最も広い意味での伝統〈もっとも ひろい いみでの でんとう〉がなかったら,この世〈よ〉に「神の御言葉」すなわち聖書〈せいしょ〉は存在〈そんざい〉しなかったことが想い起〈おもいお〉こされます)( "… (one recalls that without Tradition in its broadest sense, there would have been no “word of God”, or Bible)." ).第一バチカン公会議はさらに,この教導権には教会の無謬性(むびゅうせい)が賦与(ふよ)されているが,目新しい(ま あたらしい)ことを教え説く(おしえ とく)ならその無謬性は失われ(むびゅうせいは うしなわれ)ると述(の)べています( "Vatican I says moreover that this Magisterium is gifted with the Church's infallibility, but this infallibility excludes any novelty being taught." ).だとすれば,最も広い意味での伝統が影響を及ぼす(えいきょうを およぼす)ものは教導権が伝統(きょうどうけんが でんとう)だと言(い)いうる範囲内(はんいない)のものであり( "Then Tradition in its broadest sense governs what the Magisterium can say it is, …" ),教導権は伝統の範囲内(はんいない)のことを教える権限(けんげん)は持(も)っても( "… and while the Magisterium has authority to teach inside Tradition, …" ),伝統の範囲外(はんいがい)のことを人々に教え説く権限は持たない(ひとびとに おしえとく けんげんは もたない)ということです( "… it has no authority to teach the people anything outside of Tradition." ).
だが,霊魂が必要(れいこんが ひつよう)とするものは,カトリック教の伝統の範囲内(かとりっく きょうの でんとうの はんい ない)で自分たちを救ってくれる真実(じぶんたちを すくってくれる しんじつ)を教え説く(おしえ とく)生きた教導権(いきた きょうどうけん)( "a living Magisterium" )です( "Yet souls do need a living Magisterium to teach them the truths of salvation inside Catholic Tradition." ).ここで言う諸真実(ここでいう しょ しんじつ)は神や神の教会と同じように不変(かみや かみの きょうかいと おなじ ように ふへん)のものです( "These truths do not change any more than God or his Church change, …" ).しかし,教会が運営を続け(うんえいを つづけ)なければならない世間の状況(せけんの じょうきょう)は時代と共に変わり(じだいと ともに かわり)ます( "… but the circumstances of the world in which the Church has to operate are changing all the time, …" ).そして,教会は変わりゆく状況(かわりゆく じょうきょう)により,不変の真実の説明(ふへんの しんじつの せつめい)をそれに合わせて変える(あわせて かえる)生きた教師(いきた きょうし)を必要(ひつよう)とします( "… and so according to the variety of these circumstances the Church needs living Masters to vary all the time the presentation and explanation of the unvarying truths." ).したがって,心あるカトリック信徒(こころある かとりっく しんと)なら,教会が生きた教師を必要(きょうかいが いきた きょうしを ひつよう)としていることに異論(いろん)をはさめないでしょう( "Therefore no Catholic in his right mind disputes the need for the Church's living Masters. " ).
だが,その教師(きょうし)が伝統の範疇(でんとうの はんちゅう)に伝統でない何か他の(でんとうで ない なにか ほかの)ものがあると主張(しゅちょう)したらどうなるでしょうか?( "But what if these Masters claim that something is inside Tradition which is not there ? " ) 一方で,そのような教師は博学(はくがく)で,教会(きょうかい)から人々を教え導く権限(ひとびとを おしえ みちびく けんげん)を与(あた)えられおり,教えを受ける人々(おしえを うける ひとびと)は相対的に無知(そうたいてきに むち)です( "On the one hand they are learned men, authorised by the Church to teach the people, and the people are relatively ignorant." ).他方(たほう),人々がコンスタンチノープル(こんすたんちのーぷる) "Constantinople" で蜂起(ほうき)し神聖なる聖母マリア(しんせいなる せいぼ まりあ)を異端の総主教ネスター(いたんの そうしゅきょう ねすたー)( "the heretical Patriarch Nestor" )(訳注・=ラテン語で「ネストリウス〈ねすとりうす〉 "Nestorius" 」)から守(まも)ろうとしたエフェゾ公会議(えふぇぞ こうかいぎ)(428年)という有名な例(ゆうめいな れい)があります(訳注・「エフェゾ」〈 "Ephesus" 〉はローマ帝国〈ろーま ていこく〉のアジア州の首府〈あじあ しゅうの しゅふ〉)( "On the other hand there is the famous case of the Council of Ephesus (428), where the people rose up in Constantinople to defend the divine Motherhood of the Blessed Virgin Mary against the heretical Patriarch Nestor." ).
答(こた)えは,客観的な真実(きゃっかん てきな しんじつ)は教師たちと人々を超えた存在(こえた そんざい)ですから( "The answer is that objective truth is above Masters and people alike, …" ),人々が真実を身につけている場合(ひとびとが しんじつを みにつけて いる ばあい),教師(きょうし)たちがそうでないと人々が彼ら(かれら)の教師たちより優(すぐ)れていることになります( "… so that if the people have the truth on their side, they are superior to their Masters if the Masters do not have the truth." ).他方,人々が真実を持たない(ひとびとが しんじつを もたない)なら教師に反対して立ち上がる権利(きょうしに たいして たちあがる けんり)はありません( "On the other hand if the people do not have the truth, thay have no right to rise up against the Masters." ).要(よう)するに,人々が正しい状態(ひとびとが ただしい じょうたい)であれば,彼ら(かれら)にはその権利(けんり)があります( "In brief, if they are right, they have the right." ).正(ただ)しくなければ権利(けんり)はありません( "If they are not right, they have no right." ).では,彼らが正しいかどうかを見分(みわ)けるのは何(なん)なのでしょうか?( "And what tells if they are right or not ? " ) それは(必ずしも〈かならずしも〉)教師(きょうし)でもなければ,(まして)人々(ひとびと)でもありません( "Neither Masters (necessarily), nor people (still less necessarily), …" ).現実(げんじつ)には,教師たちもしくは人々,あるいは両方が一緒(りょうほうが いっしょ)になって,真実を抑え込み(しんじつを おさえこみ)ます( "… but reality, even if Masters or people, or both, conspire to smother it." ).
キリエ・エレイソン.
カトリック教の聖職者たちがひどい過ちを犯せば,
私たちはそのことを彼らに告げます
(かとりっくきょうの せいしょくしゃ たちが
ひどい あやまちを おかせば,
わたくしたちは そのことを かれらに つげます)
( "If Catholic churchmen gravely err, we may" )
私たちが正しいとき,
彼らはどこまで邪道を歩みづづけるのでしょうか?
(わたくしたちが ただしいとき,
かれらは どこまで じゃどうを あゆみ つづける
のでしょうか?)
( "Declare, if we are right, how far they stray." )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注その1・その2
「主は「ペトロよ,汝の同胞たちを堅振(=堅信)させよ(=同胞たちの信仰を堅めよ)」と指示されています」
"On the one hand it is certain that Our Lord endowed his Church with a teaching authority, to teach us fallible human beings that Truth which alone can get us to Heaven – “Peter, confirm they brethren”."
について…
新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31,32節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XXII, 31, 32
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT LUC XXII, 31, 32
O SANTO EVANGELHO DE JESU CHRISTO SEGUNDO S. LUCAS XII, 31, 32
EVANGELIUM SECUNDUM LUCAM XXII, 31, 32
31 『(イエズスは〈こう〉言われた,…)シモン(=ペトロの名),シモン,サタン(=悪魔)はあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,…』
"AND THE LORD SAID: SIMON, SIMON, BEHOLD SATAN HATH DESIRED TO HAVE YOU, THAT HE MAY SIFT YOU AS WHEAT: …"
"LE SEIGNEUR DIT ENCORE: SIMON, SIMON, VOILÀ QUE SATAN VOUS A DEMANDÉS POUR VOUS CRIBLER, COMME LE FROMENT ; …"
"DISSE MAIS O SENHOR : SIMÃO, SIMÃO, EIS-AHI VOS PEDIO SATANÁS COM INSTANCIA, PARA VOS JOEIRAR COMO TRIGO:
"AIT AUTEM DOMINUS: SIMON, SIMON, ECCE SATANAS EXPETIVIT VOS UT CRIBRARET SICUT TRITICUM : …"
32 『*私はあなたのために信仰がなくならぬようにと祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟の心を固めよ.』
"… BUT I HAVE PRAYED FOR THEE, THAT THY FAITH FAIL NOT: AND THOU, BEING ONCE CONVERTED, CONFIRM THY BRETHREN."
"MAIS J’AI PRIÉ POUR TOI, AFIN QUE TA FOI NE DÉFAILLE POINT ; ET TOI, QUAND TU SERAS CONVERTI, CONFIRME TES FRÈRES."
"MAS EU ROGUEI POR TI, PARA QUE A TUA FÉ NÃO FALTE : E TU EM FIM DEPOIS DE CONVERTIDO, CONFORTA A TEUS IRMÃOS.
"… EGO AUTEM ROGAVI PRO TE UT NON DEFICIAT FIDES TUA : ET TU ALIQUANDO CONVERSUS CONFIRMA FRATRES TUOS. "
* * *
(注:本投稿記事〈第366回エレイソン・コメンツ〉は2014年8月29日22:35に公開されました.)
2014年7月19日土曜日
366 伝統の優先事項 7/19
ラベル:
Confirmation,
Magisterium,
Nestorius,
カトリック教導権,
カトリック伝統,
ネストリウス,
ローマ教皇の特別教導権,
堅振(信),
第一バチカン公会議,
通常教導権