2010年2月23日火曜日

お知らせとお詫び

エレイソン・コメンツは今週(2010年2月20日)は臨時休刊
とさせていただき,来週掲載いたします.
どうぞ御了承下さい.
石畳

2010年2月15日月曜日

「メネ,テケル・・・」

エレイソン・コメンツ 第135回 (2010年2月13日)

カトリック教の司教は宗教のことに専心するため経済のことなどは無視すべきでしょうか?決してそんなことはないでしょう!経済とは私たちの生活に必要な物資をやりくりする術(すべ)です.この術を大きく左右するのは人生観であり,そして人生観は宗教の影響を受けます.その経済に目をつむろうという宗教観はいかにも狭量ではないでしょうか.人に命をお与えになった神に自分を結びつける(あるいは結びつけるのを拒む)人生観を持たずに,どうして宗教(あるいは宗教心の欠如)が十分に理解できるでしょうか?

もし今日,多くの人々が経済は神と無縁なことだと考えているとしたら,それはひとえに彼らが神など存在はしないし,存在するとしても無意味だと考えているからでしょう.かりに死後の世界(来世)があるとすれば,(あると思っている人は多いようですが),地獄など存在しないし(「私たちはみんな天国へ行くんです」といった日頃の会話),存在するとしても取るに足らないこと(「すくなくとも私の友達はみな天国へ行くのだから」といった冗談)と思っているからでしょう.この世の中はどのような前提に立って,昨日までの経済,すなわち倹約の経済から今日の経済,すなわち浪費の経済へと移っていったのでしょうか.

昨日までは,稼ぎより多く使うな,金を蓄えてから投資せよ,借金で投資するな,借金を解決するのに借金するな,と言われていました.今日はどうでしょう.消費は愛国心の現れである.稼ぎなど気にせず金を使えば万人の暮らしが良くなる.金を遊ばせておいても誰のためにもならないから貯金などするな.なんとしても金を借りてもうかる投資をせよ.それで,もし借金がこげついたら,さらに借金しなさい,といった有様です.

こうした「食べて、飲んで、楽しくやろう」式の経済に合理的根拠を与えたのは,とりわけ強い影響力を持った英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)です,彼はかつて「結局、人はみな死ぬ」という有名な言葉を残しました.1970年代,ニクソン大統領(1913-1994)は「いまや私たちはみなケインズ信奉者だ.」と言っていました.そして,70年代以降ケインズ学説の広がりが延々と続き,2000年代の「貸して,借りて,消費する」という乱痴気騒ぎに行き着いています.このようなことは,「稼ぐより多く使うな,借金を避けよ」という古い常識を人々が捨て去らない限り不可能なことです.神の御言葉は「互いに,愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果たすからである.」(新約聖書・ローマ人への手紙13章8節)、「金持ちは貧しい人を支配し,借りた人は,貸す人の奴隷である.」(旧約聖書・格言の書22章7節)と告げておられます.

現在,世界中は金融業者連中の虜(とりこ)となっています.乱痴気騒ぎは収まりつつありますが,まだけっして終わっていません.失業率は政治家が認めたくない水準で高止まりしています.それでもなお,政治家は雇用造出を約束したり失業者に無料の食事を提供したりして票集めに奔走しています.政治家は実現できないような期待を国民に抱かせ権力の座についています.国民は怒って決起しようとしており,一部ではすでに立ち上がっています.政治家は国内問題から国民の目をそらすため外国と戦争を始めなければならないでしょう.戦争はすぐそこまで近づいています.そのあとに続くのは,もし神がお許しになるとすれば,高利貸しが支える「世界政府」の樹立でしょう.これはすべて,人々が神は人間の生活に何も関わりを持っていない,人生は神とは無縁にやっていくものだと考えたことから生じたことです.

だが旧約聖書・ ダニエルの書5章5-6節,24-28節をお読みください!「主なる神は私たちをはかって,それを終わらせられ(「メネ」),私たちは神の秤で量られて目方の足りないことがわかり(「テケル」),私たちの楽しい遊興地( “fun-land” )は終わったのです(「パルシン」).私たちに残されたことは薬を飲むことです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年2月10日水曜日

教皇の誤り(2)

エレイソン・コメンツ 第134回 (2010年2月6日)

聖ピオ十世会のティシエ・ドゥ・マルレ司教がフランス語で著した 100ページにおよぶ貴重な論文がこのほど英訳されました(truerestoration.blogspot.com 参照). 論文は教皇ベネディクト16世の教理理論について書かれたもので,「理性に脅かされるカトリック信仰」と題されています.論文の趣旨は標題がすべてを言い尽くしています.教皇ベネディクト16世は人間の理性がカトリック信仰を質的に低下させるのを許容している,というのがティシエ司教の主張です.ここでは問題の核心をつくティシエ司教の結論から以下の一節を引用しご説明します(以下引用).

「教皇ベネディクト16世は「継続という(聖書原典解釈学的)解釈」をしばしば主張されます.その意味するところは第二バチカン公会議とカトリック伝統派の立場を解釈すれば,両者の間に断絶はなく,むしろ継続性があることが分かるというものです.教皇の教えを吟味してみて,彼の言う「解釈」には私が当初考えたよりはるかに含蓄が深いものがあると実感しています.それは単にカトリック信仰と理性の新たな解釈ではなく,両者の新しい誕生を意味するもので,そのことは普遍的に当てはまるものだというのです.まず第一に,カトリック信仰と理性は相互を浄化させる作用を持つという解釈です:これによると,理性はカトリック信仰が耐えがたい状態に陥るのを食い止め,カトリック信仰は理性の持つ盲目的な自立を癒します.第二に,カトリック信仰と理性は相互を再生する作用を持つという解釈です:これによると,理性は啓発という考え方から生まれる寛大な価値観でカトリック信仰を一層豊かなものにします.カトリック信仰は今の時代に合うようにうまく再表現され,理性から耳を貸してもらえるようになります.そして,この一連の過程はあらゆる宗教,あらゆる論理方法にあまねく当てはまるというのです.単一の価値体系が万人に押しつけられなければ、世の中を動かし続ける豊かなもろもろの価値観はさらに強められるとしています.」

ここで注目していただきたいのは,ティシエ司教が自分でも認めておられるように,彼がいかに教皇の考え方の幅,深さを過小評価していたかということです.伝統主義を是とするカトリック教徒は,カトリック信仰を現代に合わせようとする第二バチカン公会議の試み(特に上述の太字体の部分)は誤りであり Church を滅ぼすものだと知っています.だが同時に彼らは,そうした公会議による試みは,たとえ誤り導かれたものだとしても,知性をもって考え出されたものであって,公会議がそれに信念を置いているのだと認めなければならないことも知っています.教皇は古い信仰のしかた( 訳注・原文= “the old way of believing” ),新しい考え方(訳注・原文= “the new way of thinking” )のいずれも正しいと深く信じています.そして,教皇は両者の間に横たわるように見えるあらゆる問題も自らの方法で解決すれば,人々はすべてまとまることができると確信しています.この「解決」こそが教皇が職務を続ける原動力となっています.

だが,悲しいことに,私は2+2=4と2+2=5を「4は4.5とあまり違わない(訳注・正確にはより少ない)」し「5も4.5とさほど違わない(訳注・正確にはより多い)」などと言ってひとまとめにすることはできません(訳注・原文…four is “more or less than four and a half”, while five is “more or less than four and a half”).なぜなら,四個のリンゴはあくまでも四個ですし,五個のオレンジはどう見ても五個でしかないからです.このように,真のカトリック信仰は誤った人は許せても,誤りそのものを許すことはできないでしょう.この場合,現代の理性はどうしたものか様子を見ようとするかもしれません.だが,理性が現代的であるかぎり,どうしても独自の視点,心眼(カント)(訳注・ドイツの哲学者 “Immanuel Kant”による理論.)を前面に押し出すことを強く主張(要求)するでしょう.ティシエ司教は論文の随所で,神が啓示された永遠不変のカトリック信仰は人間が編み出した現代の理性と共存できないことを明示しておられます.現代の理性は神そのものか少なくとも人々への神の要求(信教の自由)を締め出すよう意図され考案されているからです.

ティシエ司教閣下( “your Excellency” ),あなたに感謝します!なぜなら,教皇が抱く「私たちの時代における平和」への見通しがいかに魅力的であっても,私たちを天国へ導くのは魅力ではなく神の慈愛における真実(訳注・原語 “ truth in charity” )だからです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教