2010年2月15日月曜日

「メネ,テケル・・・」

エレイソン・コメンツ 第135回 (2010年2月13日)

カトリック教の司教は宗教のことに専心するため経済のことなどは無視すべきでしょうか?決してそんなことはないでしょう!経済とは私たちの生活に必要な物資をやりくりする術(すべ)です.この術を大きく左右するのは人生観であり,そして人生観は宗教の影響を受けます.その経済に目をつむろうという宗教観はいかにも狭量ではないでしょうか.人に命をお与えになった神に自分を結びつける(あるいは結びつけるのを拒む)人生観を持たずに,どうして宗教(あるいは宗教心の欠如)が十分に理解できるでしょうか?

もし今日,多くの人々が経済は神と無縁なことだと考えているとしたら,それはひとえに彼らが神など存在はしないし,存在するとしても無意味だと考えているからでしょう.かりに死後の世界(来世)があるとすれば,(あると思っている人は多いようですが),地獄など存在しないし(「私たちはみんな天国へ行くんです」といった日頃の会話),存在するとしても取るに足らないこと(「すくなくとも私の友達はみな天国へ行くのだから」といった冗談)と思っているからでしょう.この世の中はどのような前提に立って,昨日までの経済,すなわち倹約の経済から今日の経済,すなわち浪費の経済へと移っていったのでしょうか.

昨日までは,稼ぎより多く使うな,金を蓄えてから投資せよ,借金で投資するな,借金を解決するのに借金するな,と言われていました.今日はどうでしょう.消費は愛国心の現れである.稼ぎなど気にせず金を使えば万人の暮らしが良くなる.金を遊ばせておいても誰のためにもならないから貯金などするな.なんとしても金を借りてもうかる投資をせよ.それで,もし借金がこげついたら,さらに借金しなさい,といった有様です.

こうした「食べて、飲んで、楽しくやろう」式の経済に合理的根拠を与えたのは,とりわけ強い影響力を持った英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)です,彼はかつて「結局、人はみな死ぬ」という有名な言葉を残しました.1970年代,ニクソン大統領(1913-1994)は「いまや私たちはみなケインズ信奉者だ.」と言っていました.そして,70年代以降ケインズ学説の広がりが延々と続き,2000年代の「貸して,借りて,消費する」という乱痴気騒ぎに行き着いています.このようなことは,「稼ぐより多く使うな,借金を避けよ」という古い常識を人々が捨て去らない限り不可能なことです.神の御言葉は「互いに,愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果たすからである.」(新約聖書・ローマ人への手紙13章8節)、「金持ちは貧しい人を支配し,借りた人は,貸す人の奴隷である.」(旧約聖書・格言の書22章7節)と告げておられます.

現在,世界中は金融業者連中の虜(とりこ)となっています.乱痴気騒ぎは収まりつつありますが,まだけっして終わっていません.失業率は政治家が認めたくない水準で高止まりしています.それでもなお,政治家は雇用造出を約束したり失業者に無料の食事を提供したりして票集めに奔走しています.政治家は実現できないような期待を国民に抱かせ権力の座についています.国民は怒って決起しようとしており,一部ではすでに立ち上がっています.政治家は国内問題から国民の目をそらすため外国と戦争を始めなければならないでしょう.戦争はすぐそこまで近づいています.そのあとに続くのは,もし神がお許しになるとすれば,高利貸しが支える「世界政府」の樹立でしょう.これはすべて,人々が神は人間の生活に何も関わりを持っていない,人生は神とは無縁にやっていくものだと考えたことから生じたことです.

だが旧約聖書・ ダニエルの書5章5-6節,24-28節をお読みください!「主なる神は私たちをはかって,それを終わらせられ(「メネ」),私たちは神の秤で量られて目方の足りないことがわかり(「テケル」),私たちの楽しい遊興地( “fun-land” )は終わったのです(「パルシン」).私たちに残されたことは薬を飲むことです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教