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2010年10月26日火曜日

心の内なる洞窟

エレイソン・コメンツ 第171回 (2010年10月23日)

スビアコ訪問は私に,カトリック教会における偉大な修道会の創始者四人を相次いで位置づける2行のラテン語の詩を思い起こさせてくれました.その二行詩は教会史の4分の3を俯瞰(ふかん)するものですが,それに加えなぜこれほど多くのカトリック信者たちが今日カトリック信仰にほんの指先だけでしがみついている状態なのかについても暗示しています.

その二行詩とは次の通りです.

Bernardus valles, colles Benedictus amabat,
Oppida Franciscus, magnas Ignatius urbes.

意訳すると、以下のようになります.

ベルナルドは谷間を愛し,ベネディクトは丘に出向いた.
フランチェスコは町へ出て活動し,イグナチオは都会へ出向いて活動した.

Bernard loved valleys, Benedict took to the hills.
Francis worked towns, cities Ignatius tills.

年代順に(ラテン語の6歩格によるため少し順序が逆になるかもしれません),聖ベネディクト(480年-547年)は山中(スビアコ,モンテ・カッシーノ “Monte Cassino” =カッシーノ山)に神を求め,聖ベルナルド(1090年-1153年)により活気づいたシトー修道会は谷間に降りてきました(とりわけクレルボー “Clairvaux” にです).聖フランチェスコ(1181年-1226年)は当時の小さな町々を転々と歩き回り,イエズス会の聖イグナチオ(1491年-1556年)は近代都市の使徒団を指導しました.イエズス会がドミニコ会とともに第二バチカン公会議の崩壊を主導したとき(たとえば,イエズス会士のドゥリュバック,ラーナーおよびドミニコ会士のコンガル,スヒレベークス),近代都市が復讐を果たしたと言えるかもしれません.(訳注後記)

なぜなら,丘陵地から都市への進行は,独り神と向かい合うことから人と向かい合うことへの進行ではないのでしょうか?産業主義と自動車は近代都市における快適な生活を可能にしましたが,その過程で着実に,より人為的でますます神の自然界から切り離された日常生活環境を生み出しています.物質的な快適さが精神的な困難さを増大させているのです.事実,大都市生活はますます人間味を失い,リベラルな死の願望は間もなく第三次世界大戦を招いて,今日私たちが知る都市生活と郊外の生活を壊滅状態に陥れてしまうでしょう.そうなったとき,様々な理由で丘陵地へ逃れることができないカトリック信者は,精神病院に入らず済ますにはどうしたらよいのでしょうか?

一つの答えは理に適(かな)ったものです.彼は自らの心の中の洞窟に籠(こも)り,周囲で慌ただしく動き回る世間を離れて独り神と共に生きるべきです.彼は,自分の心を隠遁(いんとん)生活の場に移し,できれば少なくとも自分の家を,家庭が自然に必要とするあらゆるものを尊重しながらも,ちょっとした避難場所( “something of a sanctuary” ) のようなものに変えるべきです.このことは,非現実的な自分だけの世界に生きることを意味するものではありません.四囲からの圧迫がある中で,心の外にある悪魔の幻想的な世界に生きるのではなく,心の内にある神の現実的な世界に生きるということを意味するものです.

同じように,(第二バチカン公会議指揮下の)新教会は第二バチカン公会議いらい,無数の男子修道院や女子修道院を閉鎖してきました.第二バチカン公会議は,神からの心の内への呼びかけを聞いていると思っているかもしれない人々にさえ神と向き合う機会を与えず閉ざしたままです.神は人々を袋小路に追い詰めたのでしょうか,それとも見捨てたのでしょうか?それとも神はもしかして,大都市にある彼らの小さなアパートを隠遁生活の場に変え,神のない事務所を使徒たちの活動場に変えて,祈りや愛徳とその模範という手段を用いることによって,彼らがそこで心の内なる信仰生活を送るよう呼びかけているのでしょうか?私たちの世界は,神への信頼により持てる心の中の平和と落ち着きを外部へあふれ出させ周囲を安らぎで満たすようなカトリック信者たちを深刻なまでに必要としているのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第2パラグラフ最後の訳注)

(訳注1・第二バチカン公会議を主導した神学者たち)
イエズス会所属の
・ドゥ・リュバック “Henri de Lubac, S. J.” (フランス人枢機卿・神学者)および
・ラーナー “Karl Rahner, S. J.” (ドイツ人司祭,神学者).
ドミニコ会所属の
・コンガル “Yves Marie Joseph Congar, O. P.” (フランス人司祭,神学者.後に枢機卿となる)および
・スヒレベークス“Edward Schillebeeckx, O. P.”(ベルギー人司祭,神学者).

(訳注2・修道会の略号について)
“S. J.” … Societas Iesu = Society of Jesus=イエズス会の略号.
“O. P.” … Ordo (Fratrum) Prædicatorum = Order of Preachers=ドミニコ会の略号.
所属修道会の略号を,各会員の氏名の後につけることになっている.

2010年10月18日月曜日

祝福された洞窟

エレイソン・コメンツ 第170回 (2010年10月16日)

神の慈愛( “grace” 「恩寵(おんちょう),恩恵」)を人間性( “nature” )から切り離して区別してしまうことはなんと不条理なことでしょうか!この二つは互いのために作られているのです!(訳注・原文 “The two are made for one another!” 「恩寵と人間性とは親密な関係にある」.)恩寵について,それがあたかも人間性そのものに戦いをいどむものであるかのように考えることは,それにもましてなんと不条理なことでしょうか!恩寵は,私たちの堕落した人間性( “fallen nature” )について,その堕落の状態そのもの( “fallen-ness” 「堕落状態」)(訳注・「原罪」あるいは「原罪をもっている状態」を指す.初めの人アダムとエワが神に背いて堕落したことにより,それ以後に生まれたすべての人間は生来(=生まれつき,生まれながらに)「原罪」をもつ運命に陥った.)と戦うことはあっても,その堕落状態の根底にある( “underlies that fallen-ness” ),神に由来する人間性と戦うものではありません.それとは逆に,恩寵は,かかる堕落状態の根底にある人間性を,その原罪による生来の堕落状態と(生れた後で犯す)罪の汚れから救って( “…to heal that underlying nature from its fallen-ness and falls,” )神の高みにまで引き上げ,神の本質にあずからせるために存在するのです(使徒ペトロの第二の手紙・第1章4節を参照.)(訳注・バルバロ神父訳による新約聖書の該当箇所…「(キリストの神としての力は…命と敬虔を助けるすべてのものをくださり,)またそれによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた.それは,欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ,神の本性にあずからせるためであった.」).

さて,恩寵なしの人間性は革命に通じ得ますが,人間性を軽視した恩寵は,たとえば同様に革命に通じるジャンセニズム “Jansenism” (訳注後記・1)のように誤った「霊性(精神性)」につながります.この誤ったプロテスタント化の過ちの重大性は,恩寵を,罪の代わりに人間性と対立するものとして配置しているところにあります.私は七日間のイタリア旅行で四つの山岳域を訪れ,神に近づくため自然界に逃れた(原文 “fled…in Nature” )四人の偉大な中世の聖人たちのことを思い出していました.彼らについては四人とも聖務日課書とミサ典書の中に記されています.それらの四人の聖人とは,年代順に挙げると,聖ベネディクト “St. Benedict” (祝日3月21日,聖地:スビアコ “Subiaco” ),聖ロムアルド “St. Romuald” (祝日2月7日,聖地:カマルドリ “Camaldoli” ),聖ヨハネ・グアルベルト “St. John Gualbert” (祝日7月12日,聖地:ヴァッロンブローザ “Vallumbrosa” ),そしてアッシジの聖フランチェスコ “St. Francis of Assisi” (祝日10月4日,聖地:ラ・ヴェルナ “la Verna” )です.

カマルドリとヴァッロンブローザは,フィレンツェ “Florence (Firenze) ” を囲む丘陵地帯の高地にある地域の地名で,11世紀にそれらの地からそれぞれの地名をとった二つの修道会が起こりました.トスカーナ州のアペニン山脈 “Tuscan Apennines” の高地の山奥にあるラ・ヴェルナは,聖フランチェスコが1224年に聖痕(訳注後記・2)を受けた場所です.これらの三つの場所へはすべて,現在ではバスか自動車で比較的容易にたどり着くことができますが,今でも依然として山深い森林地に取り囲まれており標高も十分に高いので,冬季にはきっと身を切るような厳しい寒さで凍えてしまうことでしょう.この地がこれらの聖人たちが,比較的小さい町々においてさえ十分に狂気に浸りきった俗世間(浮世の人々)と一体となっていた,その当時の町々を遠く離れ,神と心を通い合わせ親しく語り合うため出かけて行った場所なのです.

多分,私が最も感銘を受けた場所は,ローマから車で一時間ほど東に向かったスビアコでした.そこは聖ベネディクトが若い頃,山腹の洞窟(どうくつ)で三年間を過ごしたところです.紀元580年に生れ,若い学生だったとき,彼は崩壊したローマ帝国を脱出しその丘陵へと逃れたのです.その時彼は20才,あるいは人によっては14才だったと言う人もいます! - もしそうだとしたら,なんというティーンエイジャー(十代)でしょうか!紀元1200年頃から,その場所の周囲の山腹に本格的な男子修道会が形成され始め,スビアコはこの若い男性によって神聖な場所となったのですが,神を探し求めた彼がそこで何を見出したのか,誰でも(その場所を訪れてみれば)今もなお想像することができるでしょう.見上げれば上には雲々と空があり,はるか下方の渓谷(けいこく)では急流が音を立ててほとばしり,向こう側の山の斜面には荒れた森林のほか何もなく,道連れ(みちづれ)はただ切り立った断崖(だんがい)を行き来する鳥たちだけで,ただ独りで自然界とともに・・・神の自然界と・・・ただ独りで神と向き合えるのです!

三年間,ただ独り神と向き合う・・・その三年間は一人の若いカトリック信者に,(創造主たる神が創造された)自然の中で自分の霊魂をキリストと共有することを可能にしたのです.そして彼の著(あらわ)した有名なベネディクトの戒律が,崩壊したローマ帝国を高邁(こうまい)なキリスト教世界へと新しく形を変えたのです.その世界はいまや「西洋文明」として崩壊しつつあります.キリストと共に自らの人間性を取り戻すことで己の霊魂を取り戻し,そうしてキリスト教世界を救済し得る若いカトリック信者たちは今日どこにいるのでしょうか?

神の御母よ,若者たちに霊感を与え給え!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第2パラグラフの訳注・1)

“Jansenism” 「ジャンセニズム」 (「ヤンセニズム」「ヤンセン主義」ともいう.仏語で “Jansénisme” 「ジャンセニスム」.)について.

1640年に,オランダのローマカトリック司教で神学者コルネリス・ヤンセン “Cornelis Jansen” (1585-1638) が著した大書「アウグスティヌス」が出版された(彼の死後,遺作として).17-18世紀に,その著書の中の「恩恵論」を巡りフランスを中心として欧州各地のカトリック教会で宗教論争・運動が展開された.ジャンセン主義者たちは当時のイエズス会,フランス王権,ローマ教皇と激しく対立した.拠点となったポール・ロワイヤル(Port-Royal. シトー会)女子修道院の破壊(1711年)やイエズス会の一時解散(1773年)など,長年にわたる争いの激化で信徒たちを混乱させ,ローマ教皇による弾圧や断罪が続く中で,争いは教会内にとどまらず政治の世界にまで大きな影響を及ぼしたため,後にローマ教皇により禁圧された.厳格な考え方が特徴.人間の原罪の重さと,それに対する恩寵の必要性を過度に強調し,人間性や人間の意思を軽視した.

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(第3パラグラフの訳注・2)

“…St Francis received the stigmata in 1224.”の “stigmata” 「聖痕」について.

「聖痕」(せいこん)…キリストの受難の傷痕を身体に受けること.アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)はキリストと同じ五つの傷痕(手足と脇腹)を受けたことが伝えられている.身体の外部に現れず,内的な苦痛の場合もある.