エレイソン・コメンツ 第203回 (2011年6月4日)
少し前に「エレイソン・コメンツ」(第188回)は宇宙の道徳の枠組みを理解するため多神教のギリシア人が書いたものを読むよう勧めました.これに驚(おどろ)いて眉(まゆ)をつり上げたカトリック信徒がいたかもしれません.なぜカトリック教作家の作品ではいけないのですか? と.だが,ギリシアの悲劇作家たちもカトリック教の博士たちと同じように人生,苦難,死という偉大な現実に直面し自問(じもん)したのです:-- なぜ私たちはこの地球上に生まれ,ただ苦しみ死んでいくのか,なぜ死によって愛する(ことを学んだ)すべてのものから切り離されてしまうのかと.この疑問は根本的で,苦悩に満ちたものとなり得ます.
これに対するカトリック教の答えは明快で完全です.すなわち,限りなく善良な神がおられ,その摂理( “Providence” )(マテオ10・29-31)(訳注後記)が与える苦難を私たちが正しく用いるなら,神は私たち一人ひとりに永遠の行く末を神のない地獄でなく神と共に天国で過ごす選択をするのに十分な生命,自由意志,時間を与えて下さるということです.古代ギリシア人の答えは不完全ですが,的外れなものではありません.彼らは御父なる神( “God the Father” )の代わりにゼウスという主神( “Father-God, Zeus” )を,神の摂理の代わりに運命の女神( “Fate” )(モイラ)を信じます.
さて,カトリック教徒にとって神と神の摂理は不可分であるのに対し,古代ギリシア人はゼウスを運命の女神と切り離すため,時には両者が相いれないことがあります.これはギリシア人が自分たちの神々についてあまりにも人間的な観念を抱くことから生じます.にもかかわらず,彼らは主神ゼウスが多かれ少なかれ宇宙を慈悲深く導くものであり,運命の女神は不可変のものであると考えます.これは真の神の内なる摂理(“Providence within the true God)(神学大全〈スンマ・テオロジエ・Summa Theologiae 〉第1部,第23問題・第8項;第116問題・第3項)(訳注後記)と同じ考え方であり,彼らの考え方は必ずしも間違っていません.むしろ,いかなる神への畏敬の念も全く持たず,風紀のかけらさえも否定しようとする多くの現代作家たちに比べれば,ギリシア人たちの方がはるかに自分たちの神々とそれらに守られた風紀を重んじています.
だが古代ギリシア人作家たちはカトリック教作家たちさえしのぐ強みをひとつ持っています.彼らは諸々の偉大なる真理を述べるとき,それを - あえて言うならいわゆる - カテキズム(問答体の書物)からでなく,赤裸々な人生から引き出します.同じことは,教会が教える諸々の真理について非カトリック教が与えるいかなる証言にも当てはまります.今日のタルムード(訳注後記)を信じるユダヤ人が,まさにイエズス・キリストを受け入れないが故に,初めから終わりまで私たちの主(イエズス・キリスト)について語る旧約聖書のヘブライ語版を礼拝堂で用心深く守ることでキリストに特別の証言を与えるように,古代ギリシア人は世界の道徳的秩序を行動で示すに当たって,カテキズムに頼らず,神とその摂理に特別の証言を与えます.この方法で,ギリシア人は大自然の真理がそれを信じる者にとって身近なものになるだけでなく,正しく理解さえすれば,それが万人の生活構造の中に根付くものであることを立証しています.
もうひとつ古代ギリシア人の持つ強みは,彼らがキリスト以前に生まれているだけに,中世以降のキリスト教世界に出現した敬虔な作家たちさえも多かれ少なかれ傷つける背教のかけらさえ持ち合わせていないということです.彼ら古代人たちは,今では取り戻しようのない純真さと新鮮さをもって大自然の真理を語っています.現代では水があまりにも濁りきっています.
実を言えば,古代ギリシア作家たちが書いた原稿の存続を確かなものにしたのは中世カトリック教会のいくつかの男子修道院でした.現代では,それらをリベラル(自由主義者)と称する新野蛮人たち( “the new barbarians” )から救うため真のカトリック教会に期待をかけましょう! 今日,リベラル派のいう「学問」がはびこるところではどこでも,古代ギリシア人たちの残した古典はすべてゴミ屑(くず)にされてしまいます.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第10章29-31節
『二羽のすずめは一*アサリオンで売っているではないか.しかもその一羽さえ,天の父のゆるしがなければ地に落ちぬ.あなたたちは頭の髪の毛までもすべて数えられている.恐れることはない.あなたたちは多くのすずめよりも値打がある.』
(キリストのみことば)
(注釈)
*ローマの最低貨幣の一つ.
* * *
第3パラグラフの訳注:
原文 “(Summa Ia, 23, 8; 116,3)”
「神学大全」 “Summa Theologiae” について.
(著者…聖トマス・アクィナス〈アクィノ(南イタリア)の聖トマス〉( Sanctus Thomas Aquinas 〈ラ〉, San Tommaso d'Aquino 〈伊〉).カトリック教会・ドミニコ修道会会員,教会博士.)
第1部
・第23問題…「予定」について “De prædestinatione” (英語 “Predestination” )
第8項…「予定」(神の摂理による)とそれに対する聖徒たちの祈りによる助力の効果についての問答.
・第116問題…「運命(宿命)」について “De fato” (英語 “Fate” )
第3項…「運命(宿命)は変えられないものか」についての問答.
* * *
第4パラグラフの訳注:
「タルムード」について
・ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーセの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
・多くの編集が行なわれたが,現在では4世紀末の『パレスチナ・タルムード』と5世紀末の『バビロニア・タルムード』が残っている.
・ラビの口伝を収録する「ミシュナ」(反復(はんぷく)の意)およびそれへの注解,解説を集めた「ゲマラ」(「補遺(ほい)」の意)の2部より構成され,前者はヘブライ語,後者は当時の口語であるアラム語で書かれている.「ミシュナ」の部分は両タルムードとも同一で,「ゲマラ」の部分だけ異なっている.
・ユダヤ教における法律,社会的慣習,医学,天文学から詩,説話にいたるまで社会百般に及ぶ口伝,解説を収め,歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華(せいか)であり,その生活の規範となり創造力の根源となっている.
(ブリタニカ国際大百科事典より)
* * *
2010年11月15日月曜日
もっと努力を!
エレイソン・コメンツ 第174回 (2010年11月13日)
もう50年以上も交友しているある非カトリックの友人が最近,「あなたの確信に満ちた姿勢(信仰心)“certainty” がつくづくうらやましいと思いますよ!」と私に言いました.私はその言葉から,彼はカトリック信者たちの信じているものを自分も信じることができたらと願いながらそうできないように感じている,という意味に受け取りました.それで私は,「信じられるようになるまでもっと努力してみてください!」 “Try harder!” と答えたい気にかられましたが,その場は沈黙を守りました.
確かに,人が何かを信じるのは心で信じるのであり意志で信じるものではありません.それでもなお,本質的に人心が自然に及ぶ範囲をはるかに超えたカトリック信仰の説く超自然的な諸々の真理を人が心で信じようとするときには,意志による後押しがどうしても必要となります.したがって,超自然的なもの(神の神秘)への信仰は意志による行為でないにしても,意志の働きなしには成り立ちません.「自分の意志に反して信じる者は誰もいない」と聖アウグスティヌスは言っています.だからこそ,心で信じない人に対し自分の意志で「もっと努力してみるように」とアドバイスすることは,不合理に思われるかもしれませんが実際はそれほど不合理なことではないのです.また,意志が向おうとする信仰が客観的に本物である場合は,そうしたアドバイスが希望的観測に終わることもありません.
それでも,もしある人がカトリック信者たちの持つ確信を本気でうらやましく思うなら,彼は先ず第一にカトリック信仰がどれほど合理的で筋の通った教えであるかを学ぶことに専心すべきです.その信仰は人の理性を超えたものかもしれませんが,それに反するものではありません.どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私たちの理性の創造主たる神が,理性に対してその理性を嘲(あざけ)るような真実を信じるよう命ぜられることがあるでしょうか?そんなことをすれば神は自己矛盾に陥(おちい)ってしまいます.聖トマス・アクィナス “St Thomas Aquinas” はその著書「神学大全」“Summa Theologiae” で,信仰と理性は全く異なるものでありながらも,いかに完璧に調和しあうものであるかを一貫して示しています.
ですから,人間の理性にできること,私の友人がすべきことは,例えば神の存在,人間イエズス・キリストの神性,そしてキリストによる神授のローマ・カトリック教会の設立について証明する完全に合理的な論拠(ろんきょ)を学ぶことで超自然的なカトリック信仰への自然な入り口を築(きず)くことです.そうした諸々(もろもろ)の論拠はすべて,意志の力が自然理性に逆(さから)わない限り,十分に自然理性の理解できる範囲内にあります.誤(あやま)って作動した心は自然理性の面前(めんぜん)にある真理を決して認識することはありません.意志は現実を求めねばなりません.さもないと心が真理を見出(みいだ)すことは決してありません.私たち人間にとっての真理とは私たちの心と現実が適合(てきごう)するかどうかにかかっているからです.
ある人がカトリック信仰の合理性を理解するため,正しい理性と真直ぐな意志で出来るだけのことを一度やってみたが神の賜物(恵み)である超自然的な信仰を得ることができないでいるとします.だが,神が私たちに信じるよう求めておきながら(そうしないと地獄に落とすという条件を付けて-新約聖書・マルコによる福音書:第16章16節を参照)(訳注後記),自身の持ちそなえた自然能力の及ぶ限りの努力を尽くし - 神を欺かず - 信仰の賜物に与(あずか)る準備をする私たちのうちの一人の霊魂に対してすら,その賜物をお与えになるのを拒むことがあるでしょうか? とりわけ,当たり前のことですが,私ができる限りのことを尽くした後で,謙遜な(へりくだった,慎ましい)心で神に祈り信仰の賜物を与えて下さるよう願い求めたとしたらどうでしょうか? 神は高慢な者を認めようとしませんが,謙虚な者には恵みをお与えになります(ヤコボの手紙第4章6節).そして神は真直ぐな心で神を求める人々に対し御自身を現されます(訳注・「心の真直ぐな人は神を見出す」の意)(「第二法の書」第4章29節;「エレミアの書」第29章13節;「(預言者エレミアの)哀歌」第3章25節;その他にも旧約聖書の多くの箇所から引用できます).(訳注後記)
親愛なる友人よ,(訳注・神の御言葉-「聖書」を)読みかつ問うてみてください.努力に応じてあなたはきっとその確信(信仰)を自分のものとすることができるでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第5パラグラフの訳注)
引用されている聖書の御言葉(バルバロ神父訳聖書)
(新約聖書)
・マルコによる福音書:第16章16節
「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」
・ヤコボの手紙:第4章6節
「神はおごる者に逆らい,へりくだる者に恵まれる.」
(旧約聖書)
・第二法の書:第4章29節
(不信仰のため神の怒りを買って他国に散らされることになるイスラエルの民に対する神の御言葉)
「(その国々の人間の手によってつくられた神々,見ることも聞くことも食べることもかぐこともしない木や石の神々に,おまえたち(イスラエルの民)は仕えることになる.)そこからでも神なる主を探し求め,心と魂を尽くして求めるなら必ず主を見いだす.」
・(預言者)エレミアの書:第29章13節
「私(神)をさがし求めれば,見いだす.心をあげて,私をさがし求めるなら.(私は姿を現し・・・)」
・(預言者エレミアの)哀歌:第3章25節
「主(神)は希望するものに,さがし求める魂に,恵まれる.」
もう50年以上も交友しているある非カトリックの友人が最近,「あなたの確信に満ちた姿勢(信仰心)“certainty” がつくづくうらやましいと思いますよ!」と私に言いました.私はその言葉から,彼はカトリック信者たちの信じているものを自分も信じることができたらと願いながらそうできないように感じている,という意味に受け取りました.それで私は,「信じられるようになるまでもっと努力してみてください!」 “Try harder!” と答えたい気にかられましたが,その場は沈黙を守りました.
確かに,人が何かを信じるのは心で信じるのであり意志で信じるものではありません.それでもなお,本質的に人心が自然に及ぶ範囲をはるかに超えたカトリック信仰の説く超自然的な諸々の真理を人が心で信じようとするときには,意志による後押しがどうしても必要となります.したがって,超自然的なもの(神の神秘)への信仰は意志による行為でないにしても,意志の働きなしには成り立ちません.「自分の意志に反して信じる者は誰もいない」と聖アウグスティヌスは言っています.だからこそ,心で信じない人に対し自分の意志で「もっと努力してみるように」とアドバイスすることは,不合理に思われるかもしれませんが実際はそれほど不合理なことではないのです.また,意志が向おうとする信仰が客観的に本物である場合は,そうしたアドバイスが希望的観測に終わることもありません.
それでも,もしある人がカトリック信者たちの持つ確信を本気でうらやましく思うなら,彼は先ず第一にカトリック信仰がどれほど合理的で筋の通った教えであるかを学ぶことに専心すべきです.その信仰は人の理性を超えたものかもしれませんが,それに反するものではありません.どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私たちの理性の創造主たる神が,理性に対してその理性を嘲(あざけ)るような真実を信じるよう命ぜられることがあるでしょうか?そんなことをすれば神は自己矛盾に陥(おちい)ってしまいます.聖トマス・アクィナス “St Thomas Aquinas” はその著書「神学大全」“Summa Theologiae” で,信仰と理性は全く異なるものでありながらも,いかに完璧に調和しあうものであるかを一貫して示しています.
ですから,人間の理性にできること,私の友人がすべきことは,例えば神の存在,人間イエズス・キリストの神性,そしてキリストによる神授のローマ・カトリック教会の設立について証明する完全に合理的な論拠(ろんきょ)を学ぶことで超自然的なカトリック信仰への自然な入り口を築(きず)くことです.そうした諸々(もろもろ)の論拠はすべて,意志の力が自然理性に逆(さから)わない限り,十分に自然理性の理解できる範囲内にあります.誤(あやま)って作動した心は自然理性の面前(めんぜん)にある真理を決して認識することはありません.意志は現実を求めねばなりません.さもないと心が真理を見出(みいだ)すことは決してありません.私たち人間にとっての真理とは私たちの心と現実が適合(てきごう)するかどうかにかかっているからです.
ある人がカトリック信仰の合理性を理解するため,正しい理性と真直ぐな意志で出来るだけのことを一度やってみたが神の賜物(恵み)である超自然的な信仰を得ることができないでいるとします.だが,神が私たちに信じるよう求めておきながら(そうしないと地獄に落とすという条件を付けて-新約聖書・マルコによる福音書:第16章16節を参照)(訳注後記),自身の持ちそなえた自然能力の及ぶ限りの努力を尽くし - 神を欺かず - 信仰の賜物に与(あずか)る準備をする私たちのうちの一人の霊魂に対してすら,その賜物をお与えになるのを拒むことがあるでしょうか? とりわけ,当たり前のことですが,私ができる限りのことを尽くした後で,謙遜な(へりくだった,慎ましい)心で神に祈り信仰の賜物を与えて下さるよう願い求めたとしたらどうでしょうか? 神は高慢な者を認めようとしませんが,謙虚な者には恵みをお与えになります(ヤコボの手紙第4章6節).そして神は真直ぐな心で神を求める人々に対し御自身を現されます(訳注・「心の真直ぐな人は神を見出す」の意)(「第二法の書」第4章29節;「エレミアの書」第29章13節;「(預言者エレミアの)哀歌」第3章25節;その他にも旧約聖書の多くの箇所から引用できます).(訳注後記)
親愛なる友人よ,(訳注・神の御言葉-「聖書」を)読みかつ問うてみてください.努力に応じてあなたはきっとその確信(信仰)を自分のものとすることができるでしょう.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第5パラグラフの訳注)
引用されている聖書の御言葉(バルバロ神父訳聖書)
(新約聖書)
・マルコによる福音書:第16章16節
「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」
・ヤコボの手紙:第4章6節
「神はおごる者に逆らい,へりくだる者に恵まれる.」
(旧約聖書)
・第二法の書:第4章29節
(不信仰のため神の怒りを買って他国に散らされることになるイスラエルの民に対する神の御言葉)
「(その国々の人間の手によってつくられた神々,見ることも聞くことも食べることもかぐこともしない木や石の神々に,おまえたち(イスラエルの民)は仕えることになる.)そこからでも神なる主を探し求め,心と魂を尽くして求めるなら必ず主を見いだす.」
・(預言者)エレミアの書:第29章13節
「私(神)をさがし求めれば,見いだす.心をあげて,私をさがし求めるなら.(私は姿を現し・・・)」
・(預言者エレミアの)哀歌:第3章25節
「主(神)は希望するものに,さがし求める魂に,恵まれる.」
2009年11月23日月曜日
比類なき過失=その1
エレイソン・コメンツ 第124回 (2009年11月21日)
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.
読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.
したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.
他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の主源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通して神から秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.
この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
第二バチカン公会議(1962年-1965年)の犯した過失を再度強調するため,3週間前(10月31日)の「エレイソン・コメンツ」の議論に対するある読者からの妥当な反論に今回と次回の二度にわたってお答えします.問題の重要性を考えれば,2週連続はそれほど長すぎることはないでしょう.10月31日の議論では,第二バチカン公会議を受けて導入された新しい教会の秘跡(“Sacrament” 「サクラメント」)授与の典礼が結局は教会の秘跡を無効にする性格のものだと述べました.理由は新しい教会の典礼が,秘跡の有効な成立に不可欠な聖職者のサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を損なうよう曖昧に考案されているからです.聖職者がこのサクラメンタル・インテンションを正当に有することなしに秘跡は成立し得ません.
読者の反論は,秘跡授与の典礼にかかわる聖職者に信仰が欠けているほどの個人的な欠陥があっても,彼は教会の信仰の名においてその典礼を執行するのだから,教会の信仰が彼の欠陥を埋め合わすという古くからの教会の教え(神学大全・第3部,第64問題第9項-1参照.“cf. Summa Theologiae, 3a, LXIV, 9 ad 1” )(訳注…ラテン語.「スンマ・テオロジエ」略して「スンマ」.邦訳は「神学大全」.教会博士・聖トマス・アクィナス著.第3部・第64問題の表題は「秘跡の原因について」.)に基づくものです.この読者はカトリック信仰を全くもたないユダヤ人でも,教会が洗礼を授けるとき何かすることを知っていて,教会がなすべきそのことを行うつもりがある限り,死にかけている彼の友人に正当に洗礼を授けることができる,という典型例を挙げています.この場合,ユダヤ人は教会のなすべきことを行う自分の意向を,教会の洗礼式用に定められた言葉を口にし,定められた行いを演ずることで示すのです.
したがって,その読者の論理によれば,たとえ新しい教会が聖職者のカトリック信仰を堕落させたとしても,永遠不変の教会が聖職者の信仰の欠如を埋め合わせるから,彼の執り行う秘跡は有効のまま残るというのです.これに対する答えは,もし新しい教会の秘跡のための典礼が聖職者の信仰のみを堕落させたのであれば,この反論は有効に成り立つでしょうが,もし同時に聖職者のサクラメンタル・インテンションをも堕落させるとすれば,秘跡はまったく成立しないということです.
他の典型例を挙げれば論点がより明確になるはずです.金属管を水が流れ落ちる場合,管が金製だろうと鉛製だろうと問題ではありません.だが,水がどちらを流れるにしても,その管が蛇口に繋がれていなければなりません.ここでは,水は秘跡上の恩寵を意味しています.蛇口はその恩寵の主源泉であり,それは神お一人のみです.管は道具,すなわち秘跡の典礼を執り行う聖職者で,その行為を通して神から秘跡の恩寵が流れ出るのです.管が金製か鉛製かは聖職者個人の聖性の有無を意味します.したがって,秘跡の有効性は聖職者個人の信仰の有無によっては決まらなくても,聖職者が秘跡上の恩寵の主源泉たる神に繋がっているかどうかで決まるのです.
この神との繋がりは,教会のなすべきことを行う(ところに則った)秘跡の遂行にあたっての聖職者の意向(インテンション)そのものによって成立するのです.なぜなら,その意向によって,聖職者は神が秘跡の恩寵を注ぐための道具として自身を神の御手に委ねるからです.聖職者にかかるサクラメンタル・インテンションがなければ.彼と彼自身の信仰が金であっても鉛であっても,彼は蛇口から断絶しているのです.第二バチカン公会議がどう考案されたか,いかに聖職者の信仰だけでなく彼が持つべきサクラメンタル・インテンションまでも堕落させがちなのか,次週にお示しすることにします.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
登録:
投稿 (Atom)