エレイソン・コメンツ 第251回 (2012年5月4日)
カトリック教会は,自らがイエス・キリストの唯一つ真実の教会( “Jesus Christ’s one and only true Church” )であり,世の終わりに(ルカ聖福音書18・8参照)起こるように,たとえ多数の信者が離れて行っても,そのまとまり( “its unity”,=一致(結束) )が失われることはないと常(つね)に教えてきました(訳注後記).したがって,聖キプリアン(キプリアヌス,“St Cyprian” ) は教会のまとまり( “the unity of the Church” )は天与の諸々の秘跡が織りなしてできる神聖な礎(いしずえ)( “divine foundation” )から生まれるものであり,それが「諸々の反対の意思( “contrary wills” )によってばらばらに裂かれることはない」と言いました.人々が自ら抜(ぬ)けたりやむを得ず離れたりしても,彼らが見捨てた教会は変わらずに存続します.この観点に基づく「教会のまとまり( “Church Unity” )」が意味するところは,離れていった人々がひとりまたひとりと真実の教会に戻ってくるということです.
第二バチカン公会議(訳注・以下「当会議」)の教会のとらえ方はこれとは違います.当公会議はキリストの教会はカトリック教会の中に存立する “subsists” と述べ(当公会議文書 “Lumen Gentium” 第8項),両者は別々のものだとする考えにドアを広く開け,キリストの「真の」“true” 教会は「狭(せま)い」 “narrow” カトリック教会より幅広いものだと見なす立場を取っています.この観点に立てば,キリストの真の教会がいくつもカトリック教会の外に点在し,したがって「教会のまとまり」とはそのばらばらの教会を,信徒を一人ずつ改宗させることなしに元通りに合体させることを意味します.これがまさしく当公会議の若くして優れた神学者だったヨゼフ・ラッツィンガー神父 “Fr. Joseph Ratzinger” の見解であり,彼自身が公会議後に述べた驚くべき言葉にはっきり示されています.ヴォルフガング・シューラー博士( “Dr. Wolfgang Schüler” )が,その言葉を自著「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( “Benedict XVI and How the Church Views Itself” )の中で引用しています.その趣旨を要約すればつぎのようになります.
司教,テーブル,神の御言葉があればどこでも「教会」 “church” は存在する.この真の幅広いキリスト教宗派( “Christian communion” )が数世紀にわたるローマへの権力集中によって著しく狭(せば)められ,結果としてプロテスタントがローマと袂(たもと)を分かつことになった.教理にかかわる諸々の違いは互いにそのまま受け入れるべきものであった.したがって,本来の姿に戻るべきとする( “return-to-the-fold” )エキュメニズムは共存する( “co-existence” )エキュメニズムに後を譲(ゆず)る必要がある.諸々の教会が一つの教会に取って代わらなければならない.カトリック教徒は胸を開かなければならない.改宗はそれを望む個々人に委ねればよい.プロテスタントのした過(あやま)ちはむしろ実質上彼らの権利だといえる.
だが,この一つの教会,諸々の教会という話のなかで(訳注・真の神に対する)信仰( “the Faith” )はどこへ行ってしまったのでしょうか? 教理はどうでしょうか? どこにもないようです.そして,諸カトリック信徒(旧式,昔からの,“old-fashioned” )と諸プロテスタント信徒のそれら(=信念・信条)のようにそれぞれ相いれない信念・信条 “beliefs” を持つ人々の間にどのような一致が存在しうるというのでしょうか? それは当公会議以前にあった教会のまとまりとはまったく異なるもで,新たに生まれる教会とカトリック教会とはまったく別物であるに違いありません.事実,若いころのラッツィンガー神父は新しい教会( “the Newchurch” )設立に向けて活動されました.しかし,その新教会のまとまりが問題となりました.先ず第一に,教会のまとまりとはカトリック教の教義( “a dogma” )の一つです.第二に,枢機卿(すうききょう)および教皇としての,ラッツィンガーは自分よりもっと過激な諸革命派( “Revolutionaries” )(たとえばレオナード・ボフ神父 “Fr. Leonard Boff” )に対し,いたるところに違った形で「存立する」( “subsists” )新教会のまとまりを擁護(ようご)しなければならない立場に置かれました.
そこで,シューラー博士の引用によれば,ラッツィンガー枢機卿はキリストの教会( “the Church of Christ” )はカトリック教会の中に完全な形で実現しているが,ほかの場所にも不完全な形で実現しているものを排除すべきではないと論じます.(だが,もし不完全な形でほかにもあるとすれば,教会のまとまりはどうなるのでしょうか?)同じように,彼はキリストの教会のカトリック教会との同一性( “the identity of the Church of Christ with the Catholic Church” )は相当強いものだが唯一のものではない( “…is substantial but not exclusive” )というのです(同一性とは唯一のもの以外の何なのでしょうか? “but how can identity be anything other than exclusive ?” )繰り返しますが,キリストの教会の完全な姿はカトリック教会の中にあるが,ほかにも不完全な姿で存在するというのです.(だが,ほかにも部分的に存在するものがどうして完全たりうるでしょうか?)( “Again, the complete being of Christ’s Church is in the Catholic Church, but it also has incomplete being elsewhere (but how can a being be complete if part of it is elsewhere ?). ” )同枢機卿による同じような論議はまだ続きます.
簡潔に言えば,ベネディクト16世の目指す新教会はカトリックおよび非カトリックの諸要素( “elements both Catholic and non-Catholic” )を併(あわ)せ持つものです.(だが,たとえ部分的にせよ非カトリックなものは全体としてカトリックではありません.)したがって,ベネディクト16世のいう普遍的(訳注・世界的,エキュメニカル)な新教会( “ecumenical Newchurch” )がそのようなものである限りカトリック教会ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第18章8節(1-8節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE, XVIII, 8 (1-8)
We must pray always.
不正な裁判官
『またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,「ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪(せいじゃ)をつけてください〉と頼みに来た.彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.
主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*¹神が夜昼ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.とはいえ,人の子(人たる聖母マリアの子でもある神の御子イエズス・キリスト御自身を指す)の来る時,地上に信仰を見いだすだろうか……」と言われた.』
“…I say to you that he will quickly revenge them. But yet the Son of man, when he cometh, shall he find, think you, faith on earth?”
(注釈)
不正な裁判官(18・1-8)
2-8節 このたとえは,特に世の終わりの苦しみにあたって不断に祈れと教える.
*¹ 7節 神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,決してそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.
* * *
2012年5月6日日曜日
2009年10月5日月曜日
ミサ聖祭の誤り
エレイソン・コメンツ 第117回 (2009年10月4日)
10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.
勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.
しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.
もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.
司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.
勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.
しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.
もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.
司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教
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