2009年10月5日月曜日

ミサ聖祭の誤り

エレイソン・コメンツ 第117回 (2009年10月4日)

10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.

勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.

しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.

もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.

司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教