2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年2月16日日曜日

344 教会の無謬性 II 2/15

エレイソン・コメンツ 第344回 (2014年2月15日)

     教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)については,とくに1870年に出された教皇無謬性(きょうこう むびゅうせい)の定義(ていぎ)から(誤って)生じる錯覚を正す(〈あやまって〉しょうじる さっかくを ただす)ため,もっと多くのことを語る必要(おおおくのことを かたる ひつよう)があります( "Much needs to be said about the Church’s infallibility, especially to correct illusions arising (by mistake) from the Definition of Papal infallibility in 1870." ).たとえば,今日,教皇不在論者(きょうこう ふざい ろんじゃ)たち(=教皇空位論者たち)とリベラル派(=自由主義派)の人たち( "sedevacantists and liberals" )はそれぞれの立場が正反対(たちばが せいはんたい)だと考えて(かんがえて)いますが( "Today for instance sedevacantists and liberals think that their positions are wholly opposed, …" ),しばし立ち止(たちど)まって,実は両者が同じ(じつは りょうしゃが おなじ)ように考えていることに気(き)づくことはないでのしょうか?( "… but do they stop for a moment to see how similarly they think ? " )――多数派の立場(たすうはの たちば):教皇は無謬である( "…Major: Popes are infallible. …" ).少数派の立場(しょうすうはの たちば):公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)はリベラルである( "…Minor: Conciliar Popes are liberal. …" ).リベラル派の結論(けつろん):私たちはリベラルにならなければならない( "…Liberal Conclusion: we must become liberal. …" ).教皇不在論者の結論:歴代公会議派教皇たちは教皇たりえない( "…Sedevacantist Conclusion: they cannot be Popes." ).ここでの誤(あやま)りは論法(ろんぽう)にあるのでもなければ,少数派意見(しょうすう いけん)にあるのでもありません( "The error is neither in the logic, nor in the Minor." ).誤りは多数意見(たすう いけん)の無謬性(むびゅう せい)に関(かん)する両者の誤解(りょうしゃの ごかい)にあるのです( "It can only be in a misunderstanding on both their parts of infallibility in the Major." ).繰り返(くりかえ)して言いますが,現代人(げんだいじん)は真実より権威を優先(しんじつより けんいを ゆうせん)しています( "Once again, modern men put authority above truth." ).(訳注後記1)

     永遠の神(えいえんの かみ)は真理(しんり)(=真実〈しんじつ〉)そのものであり絶対的に無謬(ぜったいてきに むびゅう)です( "Eternal God is Truth itself, absolutely infallible." ).神は創造期(そうぞう き)に,人の姿(=肉体)をとられた自(みずか)らの御独子(おん ひとりご)( "his Incarnate Son" )(=神の御子イエズス・キリスト)を通(とお)して( "In created time, through his Incarnate Son, …" ),人々の霊魂を救う(ひとびとの れいこんを すくう)ための一つの教理(きょうり)とともに御自身の教会(ごじしんの きょうかい)を創設(そうせつ)されました( "… he instituted his Church with a doctrine for the salvation of human souls." )(訳注後記2).この教理(きょうり)は神が与えた(かみが あたえた)ものですから誤(あやま)りなどあり得(え)ないものです( "Coming from him that doctrine could only be inerrant, …" ).だが,神が教理を託(たく)した聖職者(せいしょく しゃ)たちがそれについて誤りを犯さない(あやまりを おかさない)ようにするため( "… but to keep it free from the errors of the human churchmen to whom he would entrust it, …" ),神の御子は聖職者たちに「真理の霊」(しんりの れい)(=真実の霊〈しんじつ〉のれい)( "spirit of truth" )が彼らを「とこしえに」( "for ever" )導(みちび)くと約束(やくそく)しました(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第14章16節)( "… his Son promised them the “spirit of truth” to guide them “for ever” (Jn. XIV, 16)." )(訳注・とこしえ=永遠〈えいえん〉).そのような保証(ほしょう)がなかったとすれば( "For indeed without some such guarantee, …" ),神はどうして人間に対し,地獄に陥れる条件(じごくに おとしいれる じょうけん)を示(しめ)して( "… how could God require of men, on pain of eternal damnation, …" ),(それを避〈さ〉けるためには)神の御子,神の教理また神の教会(かみの おんこ,かみの きょうり また かみの きょうかい)を信じるよう求める(しんじるよう もとめる)ことができたでしょうか(新約聖書・聖マルコによる聖福音書:第16章6節)?( "… to believe in his Son, in his doctrine and in his Church (Mk.XVI, 16) ? " )

     しかも,神は聖職者たちに与えた過ちを犯す自由意思(あやまちを おかす じゆういし)を彼らから取り上(とりあ)げていません( "Yet even from churchmen God will not take away that free-will to err which he gave them." ).そして,神は聖職者たちに対して自ら説く(みずから とく)真理(しんり)が人々(ひとびと)に届(とど)かないようにしない限(かぎ)り,その自由を好きなだけ広げる(じゆうを すきなだけ ひろげる)ことを許(ゆる)しています( "And he will allow that freedom to go as far as they wish, short of their making his Truth inaccessible to men." ).その許容範囲(きょよう はんい)はかなり広(ひろ)く( "That reaches far, …" ),そこには大いに欠陥のある(おおいに けっかんの ある)多数の教皇(たすうの きょうこう)たちも入(はい)ります( "… and it includes a number of highly defective Popes, …" ).だが,人間の邪悪さ(にんげんの じゃあくさ)にもかかわらず,神がお許しになる範囲はさらに広いものです(旧約聖書・預言者イザヤの預言書:第59章1,2節)( "… but God’s reach is still farther, despite the wickedness of men (Isaiah LIX, 1,2)." ).第二バチカン公会議を例(れい)にとるなら( "At Vatican II for instance, …" ),教会が犯した誤り(きょうかいが おかした あやまり)はひどいものでしたが( "… Church error went a long way, …" ),それでも神は自らの無謬(みずからの むびゅう)に基(もと)づく誤りなき真理(あやまりなき しんり)を人々に示す教会の機能(きょうかいの きのう)を完全に(かんぜんに)だめなものにはしませんでした( "… without however God’s allowing his Church to be wholly defectible in its presentation to men of the inerrant Truth coming from his own infallibility." ).公会議派教皇たちでさえ公会議の諸々の誤りとともに多くのカトリック教の真実を説いてきています( "Even the Conciliar Popes have told many Catholic truths alongside their Conciliar errors." ).

     だが,ありふれた人間である私がどうすれば公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの説く真理(しんり)と誤り(あやまり)を見分(みわ)けられるでしょうか?( "But how then can I, a simple soul, tell the difference between their truths and their errors ? " )まず第一(だいいち)に,私(わたくし)が正しい心(ただしい こころ)をもって本当(ほんとう)に神を求めれば(かみを もとめれば)( "Firstly, if I am truly looking for God with an upright heart, …" ),聖書(せいしょ)が多くの箇所(おおくの かしょ)で述(の)べているように,神は私を神の御元に導いてくださる(かみは わたくしを かみの みもとに みちびいてくださる)でしょう( "… he will guide me to him, as the Bible says in many places." ).次(つぎ)に,神の教理(かみの きょうり)は神と同じように不変(かみと おなじように ふへん)ですから( "unchangeable as God" ) ( "And secondly, God’s doctrine being as unchangeable as God, …" ),それは(ほぼ)すべての聖職者(せいしょくしゃ)たちが,(ほぼ)すべての場所(ばしょ)で,(ほぼ)すべての時代(じだい)に説(と)き,伝(つた)えてきた教理(きょうり)であるに違(ちが)いありません( "it must be the doctrine that I find (nearly) all his churchmen to have taught and handed down in (nearly) all places and at (nearly) all times, …" ).それは(真の神から授かった)カトリックの(訳注・=宇宙〈うちゅう〉・地上〈ちじょう〉の万物の存在〈ばんぶつの そんざい〉に普遍〈ふへん〉の)教え(おしえ)の伝統(でんとう)( "Tradition" )として最も広く知られている(もっとも ひろく しられている)ものです( "… best known as Tradition." ).教会の開設(きょうかいの かいせつ)以来(いらい),その教理(きょうり)の宣教の継承(せんきょうの けいしょう)( "… that handing down" )は私たちの主(イエズス・キリスト)自らの教え(みずからの おしえ)の最も確かな試金石(もっとも たしかな しきんせき)でした( "… that handing down has been the surest test of what Our Lord himself taught." ).古来(こらい),誤りのない伝統(あやまりの ない でんとう)は数百万人(すうひゃくまん にん)の聖職者たちが築(きず)いてきたものです( "Down the ages inerrant Tradition has been the work of millions of churchmen." ).それは,無謬の聖霊( "the infallible Holy Ghost" )の導き(むびゅうの せいれいの みちびき)とともに神が,教皇たちだけでなく,教会全体(きょうかい ぜんたい)( "his Church as a whole" )に授(さず)けられたものです( "It has been that for which God endowed his Church as a whole, and not just the Popes, with the guidance of the infallible Holy Ghost." ).

     教会の無謬(きょうかいの むびゅう)をいわばケーキにたとえるなら,諸教皇の無謬性の厳かな諸定義(しょきょうこうの むびゅうせいの おごそかな しょていぎ)は,教会の無謬性の頂(きょうかいの むびゅうせいの いただき)に載(の)っている単なる砂糖衣(たんなる さとうい)( "the icing" )にすぎません( "Here is, so to speak, the cake of Church infallibility upon which the Popes’ solemn Definitions are merely the icing, …" ).それは貴重(きちょう)で必要(ひつよう)なものですが( "… precious and necessary, the peak of the Church’s infallibility, …" ),決してケーキの山の本体(けーきの やまの ほんたい)ではありません( "… but not its mountain bulk." ).まずはじめに,教皇の特別教導権による諸定義(きょうこうの とくべつきょうどうけん による しょていぎ)( "definitions by the Popes' Extraordinary Magisterium" )は1870年からだけでなく教会開設(きょうかい かいせつ)いらい存在(そんざい)してきたこと,それはカトリック教の伝統(でんとう)(以下,「伝統」と記す〈しるす〉)を真実なもの( "true" )にするためでなく,単(たん)に伝統に属することと属しないこと(でんとうに ぞくすること と ぞくしないこと)を間違いをする人々(まちがいをする ひとびと)があやふやにするたびに確かなもの( "certain" )にするために存在してきた(たしかなもの にするために そんざいしてきた)ことに注目(ちゅうもく)してください( "Notice firstly that Definitions by the Popes’ Extraordinary Magisterium existed not only from 1870 but from the beginning of the Church, and they existed not to make Tradition true but merely to make certain what belonged to Tradition and what did not, whenever the erring of men had made that uncertain." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は真実を感じ取り(しんじつを かんじとり),ひどい誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちでなく誤りのない伝統に従う(あやまりの ない でんとうに したがう)という正しい選択(ただしい せんたく)をしました( "Sensing truth, Archbishop Lefebvre rightly preferred inerrant Tradition to gravely erring Popes." ).彼の後継者(こうけいしゃ)たちは,真実に気づかない(しんじつに きづかない)すべての現代(げんだい)リベラル派(りべらるは)の人々と同じようにルフェーブル大司教を決(けっ)して理解(りかい)しようとせず,誤りのない伝統(あやまりのない でんとう)でなく誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを選ぶ道(えらぶ みち)をたどろうとしています( "Never having understood him, like all modern liberals not sensing truth, his successors are in the process of preferring erring Popes to inerrant Tradition." ).教皇不在論者たちは真実を過少評価し(しんじつを かしょう ひょうか し)教皇たちを過大評価(きょうこうたちを かだい ひょうか)して,誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを全面的に否定(ぜんめんてきに ひてい)しています.彼らは教会から完全に離れる(きょうかいから かんぜんに はなれる)気持ち(きもち)になるかもしれません( "Underestimating truth and overestimating the Popes, sedevacantists wholly repudiate the erring Popes and can be tempted to quit the Church altogether. " ).主よ,憐れみたまえ!(しゅよ,あわれみたまえ)( "Lord, have mercy ! " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注と引用された聖書の箇所を追補いたします.

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2014年2月12日水曜日

343 教会の無謬性 - I 2/8

エレイソン・コメンツ 第343回 (2014年2月8日)

     おそらく教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちにとっての主要問題(しゅよう もんだい)は教会の無謬性(きょうかい の むびゅう せい)でしょう(公会議派の教皇(きょうこう)たちはひどく誤(あやま)っているのに,どうして彼らが教皇たりうるのだろうか?〈と,疑(うたが)いたくなるでしょう?〉)( "Probably sedevacantists’ main problem is the Church’s infallibility (Conciliar Popes are horribly fallible, so how can they be Popes ?)." ).しかしながら,無謬性は単(たん)に教皇空位論(きょうこう くうい ろん)をどうしたら弱(よわ)めうるかというだけの視点(してん)から見る必要(みる ひつよう)はありません( "However, infallibility needs to be looked at for more than just to alleviate sedevacantism." ).真実(しんり)より権威(けんい)を重視(じゅうし)する現代(げんだい)の問題(もんだい)のほうが大問題(だい もんだい)です( "The modern problem of preferring authority to truth is vast." ). (訳注・「教皇空位」の意味…ローマ教皇の地位(ちい)は存在(そんざい)するが,空席(くうせき)である(= "vacant" ),ということ.)

     「無謬性(むびゅう せい)」とは誤り(あやまり)を犯(おか)さない,誤りに陥(おちい)らないという意味(いみ)です( " “Infallibility” means inability to err, or to fall into error. " ).第一バチカン公会議は1870年,教皇は4つの条件(よっつの じょうけん)を満(み)たす場合,過ちを犯しえないと定義(ていぎ)づけしました: ( "The First Vatican Council defined in 1870 that the pope cannot err when four conditions are present: …" )その条件によれば教皇は以下の通りにすべきです( "… he must …" ).すなわち,(1) 教皇(きょうこう)として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,また(4) 教会全体(きょうかい ぜんたい)をまとめる明確な意図(めいかくな いと)をもって話(はな)さなければならない,の4点です( "… (1) be speaking as Pope, (2) on a question of Faith or morals, (3) in a definitive fashion, and (4) with the clear intention of binding the whole Church." ).そうした教皇の教えはいずれも彼の持つ「特別( "Extraordinary" )教導権と称(しょう)するものに所属(しょぞく)するものです( "Any such teaching belongs to what is called his “Extraordinary” Magisterium, …" ).なぜなら,教皇は一方(いっぽう)で自(みずか)ら4条件に従事(じゅうじ)することはめったにありませんし( "…because on the one hand Popes rarely engage all four conditions, …" ),他方(たほう)で彼は誤りえない,間違(まちが)いたりえない多くの真実(おおくの しんじつ)を教(おし)えるからです( "…and on the other hand he teaches many other truths which cannot err or be wrong …" ).間違いたりえないというのは,彼が教(おし)える多くの真実とは常(つね)に教会(きょうかい)によって教えられてきたことであり( "… because they have always been taught by the Church, …" ),したがって,それは第一バチカン公会議がいう教会の「通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( "Ordinary Universal Magisterius" )に属(ぞく)するもので( "… and therefore they belong to what Vatican I called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium”, …" ),無謬(むびゅう)のものだからです( "…also infallible." ).ここで問題(もんだい)となるのは、教皇の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)が教会の通常教導権(つうじょう きょうどうけん)とどう関連(かんれん)するか? です( "The question is, how does the Pope’s Extraordinary Magisterium relate to the Church’s Ordinary Magisterium ? " ).

     母なる教会(ははなる きょうかい)( "Mother Church" )は,最後の使徒(さいごの しと)の死去当時(さいごの しとのしきょ とうじ),つまり紀元(きげん)105年には,信仰預託(しんこう よたく)すなわち公式黙示(こうしき もくし)("the Deposit of Faith, or public Revelation")は完全無欠(かんぜん むけつ)だったと教えています( "Mother Church teaches that the Deposit of Faith, or public Revelation, was complete at the death of the last Apostle alive, say, around 105 AD." ).それ以来(いらい),その預託(よたく)すなわち啓示された諸々の真実の集合体(けいじ された もろもろの しんじつ の しゅうごうたい)( "body of revealed truths" )にさらなる真実(しんじつ)は加(くわ)えられてきませんでした.言い換(いいか)えれば,真実の追加(しんじつ の ついか)など不可能(ふかのう)なことでした( "Since then no further truth has been added, or could be added, to that Deposit, or body of revealed truths." ).そうであるなら,「特別(とくべつ)」定義(ていぎ)が預託に加えうる真実(よたく に くわえうる しんじつ)などひとかけらもありません( "Then no “extraordinary” definition can add one iota of truth to that Deposit, …" ).加(くわ)えるものがあるとすれば,預託(よたく)にすでに含(ふく)まれている真実(しんじつ)の一部(いちぶ)に,信徒(しんと)のために,確実性(かくじつ せい)( "certainty" )を与(あた)えることくらいでしょう( "… it only adds, for the sake of believers, certainty to some truth already belonging to the Deposit, …" ).だが,預託に含まれる真実の中身(よたくに ふくまれる しんじつ の なかみ)は前(まえ)もって十分(じゅうぶん)に明確(めいかく)にされていません( "… but whose belonging had not been clear enough beforehand." ).4つの序列(じょれつ)のうち,最初(さいしょ)にくるのは,人心(じんしん)に頼(たよ)らない,客観的事実(=現実)(きゃっかんてき じじつ 〈=げんじつ〉)( "objective REALTY" )です( "In a fourfold order comes firstly, an objective REALITY, independent of any human mind, …" ).たとえば,聖母(せいぼ)は原罪(げんざい)なくして懐胎(かいたい)された( "having been conceived without original sin" )というような歴史的事実(=現実)(れきしてき じじつ〈=げんじつ〉)です( "…such as the historical fact of the Mother of God’s having been conceived without original sin." ).次に来る(つぎに くる)のは,その事実(=現実)に従う(その じじつ〈=げんじつ〉に したがう)心の中の(こころの なかの)真実(しんじつ)( "TRUTH" )です( "Secondly comes TRUTH in any mind conforming itself to that reality." ).ようやく3番目に来るのが,その真実(しんじつ)を定(さだ)めるために教皇が4条件を満たした時(みたした とき)の無謬(むびゅう)の定義づけ(ていぎ づけ)( "infallible DEFINITION" )です( "Only thirdly comes an infallible DEFINITION when a Pope engages all four conditions to define that truth." ).そして,4番目がその真実について信徒(しんと)のために与(あた)えられる確実性(かくじつ せい)( "CERTAINTY" )です( "And fourthly arises from that definition CERTAINTY for believers as to that truth." ).このように,事実(=現実)が真実を生み出す(じじつ〈=げんじつ〉が しんじつを うみだす)のに対(たい)し( "Thus whereas reality generates the truth, …" ),ある特定の一定義づけ(あるとくていの いち ていぎづけ)は単(たん)にその真実(しんじつ)に確実性(かくじつ せい)を与(あた)えるだけにすぎません( "… a Definition merely creates certainty as to that truth." ).

     しかし,事実(=現実)とそこから生まれる真実(じじつ〈=げんじつ〉と そこから うまれる しんじつ)は通常教導権に所属(つうじょうきょうどうけん に  しょぞく)するものです.( "But the reality and its truth already belonged to the Ordinary Magisterium, …" )なぜなら,教皇(きょうこう)が信仰の預託(しんこう の よたく)の枠外(わくがい)にある真実(しんじつ)を誤(あやま)りないと定義(ていぎ)するなど問題(もんだい)にならないからです( "… because there is no question of any Pope defining infallibly a truth outside of the Deposit of Faith." ).したがって,尻尾は犬に(しっぽは いぬに)ついているのであって,犬が尻尾に(いぬが しっぽに)ついているのではないと同(おな)じように特別教導権は通常教導権に対し従(とくべつきょうどうけんは つうじょうきょうどうけんに たいし じゅう)なのです!( "Therefore the Ordinary Magisterium is to the Extraordinary Magisterium as dog is to tail, and not as tail to dog ! " ) 問題は1870年の定義づけ(ていぎづけ)が特別(とくべつ)教導権に権威を持たせた(けんいを もたせた)ため( "The problem is that the Definitiom of 1870 gave such prestige to the Extraordinary Magisterium that the Ordinary Magisterium began to pale in comparison, …" ),結果(けっか)として,通常(つうじょう)教導権の重要性(じゅうようせい)が下がって(さがって)しまい,カトリック信徒たちが神学者(しんがく しゃ)たちも含(ふく)めて,通常教導権の無謬性(つうじょうきょうどうけん の むびゅうせい)は特別教導権の無謬性(とくべつきょうどうけん の むびゅうせい) と同等だと躍起となってでっち上げた(と どうとうだ と やっきとなって でっちあげた)のです( "… even theologians, scratch around to fabricate for it an infallibility like that of the Extraordinary Magisterium." ).だが,これは愚行(ぐこう)です( "But that is foolishness." ).特別教導権(とくべつ きょうどうけん)は通常教導権を前提(ぜんてい)としたものであり( "The Extraordinary presupposes the Ordinary Magisterium, …" ),(2)の通常教導権によってすでに教えられている真実(おしえられている しんじつ)に(4)の確実性を与える(かくじつせいを あたえる)だけのために存在(そんざい)しているにすぎません( "… existing only to give certainty (4) to a truth (2) already taught by the Ordinary Magisterium." ).

     この点(てん)を雪に覆われた山(ゆきに おおわれた やま)を例(れい)にして説明(せつめい)しましょう( "Let the point be illustrated from a snow-capped mountain." ).山は雪がなくても山(やまは ゆきがなくても やま)であり,せいぜい雪があればない時(とき)より目立(めだ)つといった程度(ていど)です( "The mountain in no way depends on the snow, except for it to be made even more visible than it already is." ).これに対(たい)し,雪(ゆき)は山の上(やまの うえ)にとどまるには山に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しなければなりません( "On the contrary the snow depends completely on the mountain to be where it, the snow, is." ).これと同じように,特別教導権(とくべつ きょうどうけん)は通常教導権(つうじょう きょうどうけん)をよりはっきりさせ,確実に見える(かくじつに みえる)ようにすること以上(いじょう)のことをしません( "Similarly the Extraordinary Magisterium does no more for the Ordinary Magisterium than to make it more clearly or certainly visible." ).冬が近(ふゆが ちか)づくにつれ山の雪線(やまの せっせん)は下へ降りて(したへ おりて)きます( "As winter closes in, so the snowline descends." ).現代(げんだい)のように愛( "charity" )が冷める(あいが さめる)につれ( "As charity grows cold in modern times, …" ),特別教導権の定義(とくべつきょうどうけん の ていぎ)を膨(ふく)らませることが必要(ひつよう)になるかもしれません( "… so more definitions of the Extraordinary Magisterium may become necessary, …" ).だが,そのようなことをしても,教会の教導権(きょうかいの きょうどうけん)を完全(かんぜん)なものにすることにはならないでしょう( "… but that does not make them the perfection of the Church’s Magisterium." ).むしろ逆に,定義を増やす(ていぎを ふやす)ことは信徒(しんと)の信仰についての諸々の真実(しんこうに ついての もろもろの しんじつ)に対(たい)する理解の弱さ(りかいの よわさ)を示(しめ)すだけでしょう( "On the contrary, they signal a weakness of believers’ grasp of the truths of their Faith." ).人は健康(けんこう)なほど必要(ひつよう)とする薬(くすり)は少(すく)なくて済(す)みます( "The healthier a man is, the fewer pills he needs." ).来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツでは,今週(こんしゅう)述(の)べたことが教皇空位論(きょうこう くうい ろん)と聖ピオ十世会( "SSPX" )の現在の危機(げんざいの きき)にどう当(あ)てはまるかを考(かんが)えてみます( "Next week, the application both to sedevacantism and to the present crisis of the SSPX." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


     要約 ―

     教会の無謬(むびゅう)な通常教導権(つうじょう きょうどうけん)は,尻尾は犬に(しっぽは いぬに)ついているのであり,犬が尻尾に(いぬが しっぽに)ついているのではないように,教皇の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)に先立(さきだ)つものである.

     ( "Summary –

     The Church’s infallible Ordinary Magisterium is to the Pope’s infallible Extraordinary Magisterium as dog is to tail, and not as tail is to dog." )





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2014年2月3日月曜日

342 教皇空位論の不安 II 2/1

エレイソン・コメンツ 第342回 (2014年2月1日)

     1 信徒(しんと)が6名の公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)をどう見(み)るかについては二通り(ふたとおり)あるでしょう.ひとつは6名全員(ろくめい ぜんいん)を教皇と認める(きょうこうと みとめる)ことです,(リベラル派(は)の信徒たちのように〉- これは神が許(ゆる)しません!).もうひとつは,6名全員を(教皇と認めず〈きょうこうと みとめず〉)拒否する(きょひする)ことです(教皇空位論者〈きょうこうくうい ろんじゃ〉の信徒たちのように) ( " 1 Either one recognizes the Conciliar Popes all the way (like the liberals – God forbid !), or one refuses them all the way (like the sedevacantists). " ).6名のうち一部を認め,一部を認めないのは,かつてルーター( "Luther" )がそうしたように,またあらゆる異教徒(いきょうと)たち( "heretics" )がそうするように (〈異教徒という言葉は〉ギリシア語で「選択者」(せんたくしゃ)( “choosers” )を意味〈いみ〉します),各自(かくじ)が自分(じぶん)の認める教皇を選び出す(えらび だす)ということです ( "To recognize them partly, and partly not, is to pick and choose what one will recognize, as did Luther, as do all heretics (in Greek, “choosers”). " ).      このやりかたは信徒各自(しんと かくじ)が自分の選(えら)んだ教皇を認(みと)めるというなら正確(せいかく)でしょうが,もしルフェーブル大司教がされたように過去(かこ)2千年間(にせん ねんかん)の教会の諸文書(きょうかいの しょぶんしょ)に基(もと)づくカトリック教の伝統(でんとう)を判断基準(はんだん きじゅん)として選(えら)ぶなら当(あ)てはまらなくなります( "That is true if one picks and chooses according to one’s own personal choice, but it is not true if, like Archbishop Lefebvre, one judges in accordance with Catholic Tradition, which can be found in 2000 years’ worth of Church documents." ).後者の場合(こうしゃの ばあい),260名の歴代教皇(れきだい きょうこう)の中(なか)から6名だけについて,その基準(きじゅん)に従い判断(はんだん)するわけですが,それだと6名の教皇の無効性(むこう せい)を証明(しょうめい)することにならないでしょう( "In that case one is judging with 260 Popes against a mere six, but that does not prove the invalidity of these six." ).

     2 だが,公会議派教皇たちはカトリック信仰(しんこう)を毒(どく)し,何百万人(なんびゃく まんにん)もの信徒たちの永遠の救済(えいえんの きゅうさい)を危(あや)うくしてきました ( " 2 But the Conciliar Popes have poisoned the Faith and endangered the eternal salvation of millions upon millions of Catholics. " ).これは教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)に反(はん)することです( " That is contrary to the Church’s indefectibility. " ).      4世紀(よん せいき)のアリウス主義(しゅぎ)をめぐる危機(きき)にあって,教皇リベリウス( "Pope Liberius" )は聖アタナシウス( "St Athanasius" )を糾弾(きゅうだん)し東方(とうほう)のアリウス主義司祭(しさい)たちを支援(しえん)することでカトリック信仰(しんこう)を危険(きけん)にさらしました( "In the Arian crisis of the 4th century, Pope Liberius endangered the Faith by condemning St Athanasius and by backing Arian bishops in the East. " ).当時(とうじ)しばらくの間(あいだ),教会の無謬性(むびゅうせい)を体験(たいけん)したのは教皇リベリウスでなく,彼にとって敵対者(てきたい しゃ)と見えたアタナシウスでした( "For a few moments the Church’s indefectibility went not through the Pope but through his seeming adversary. " ).だが,このことは時の教皇がリベリウスでなくアタナシウスだったことを意味(いみ)しませんでした( "However that meant neither that Liberius was not Pope nor that Athanasius was Pope. " ).同じように,今日の教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)を体験しているのはルフェーブル大司教の路線(ろせん)に従(したが)う忠実な信徒(ちゅうじつな しんと)たちですが( "Similarly the indefectibility of the Church today goes through the faithful followers of the line taken by Archbishop Lefebvre, …" ),だからといってパウロ6世が教皇でなかったことを意味するとは限(かぎ)りません( "… but that need not mean that Paul VI was not Pope. " ).

     3 世界中の司祭(せかいじゅうの しさい)たちが教皇と一体(いったい)となって説(と)くのは教会の通常普遍教導権(つうじょう〈Ordinary〉 ふへん〈Universal〉 きょうどうけん〈Magisterium))( “the Church’s Ordinary Universal Magisterium” )に基(もと)づくもので,これは無謬(むびゅう)のものです ( " 3 What the bishops of the world teach, in union with the Pope, is the Church’s Ordinary Universal Magisterium, which is infallible." ).ところが,過去50年間(かこ ごじゅうねん かん),世界中の司祭たちは公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちと一体となって公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)のナンセンスを説(と)いてきました( "Now for the last 50 years the world’s bishops in union with the Conciliar Popes have taught Conciliar nonsense." ).したがって,これら公会議派教皇たちは真(しん)の教皇たちであるはずがありません( "Therefore these Popes cannot have been true Popes." ).      もし,教会の通常教導権(きょうかいの つうじょう きょうどう けん)が伝統(でんとう)から外(はず)れるなら,それは「通常」でなく極(きわ)めて異常(いじょう)なものです( "If the Church’s Ordinary Magisterium were to go outside Tradition, it would no longer be “Ordinary”, but most extraordinary, …" ).なぜなら,教会の教理は目新(まあたら)しいものを一切(いっさい)認(みと)めていませんし,普遍(ふへん)( “Universal” )は時空に及ぶ(じくうに およぶ)( "in time as well as space" )ものだからです( "… because Church doctrine admits of no novelties, the “Universal” being in time as well as space." ).ところで,公会議派の教理(こうかいぎは の きょうり)は伝統(でんとう)から大(おお)きく外(はず)れています(たとえば,宗教の自由〈しゅうきょうの じゆう〉,世界教会主義〈せかい きょうかい しゅぎ〉〈“religious liberty and ecumenism”〉などです)( "Now Conciliar doctrine goes way outside Tradition (e.g. religious liberty and ecumenism). " ).したがって,公会議固有の教理(こうかいぎ こゆうの きょうり)は通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)に入(はい)るものではありませんし( "Therefore doctrine proper to the Council does not come under the Ordinary Universal Magisterium, …" ),公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちは教皇でないと証明(しょうめい)するのに役立(やくだ)つものでもありません( "…and it cannot serve to prove that the Conciliar Popes were not Popes." ).

     4 モダニズム(近現代主義)(きんげんだい しゅぎ)は「あらゆる異端信仰の統合体(いたんしんこうの そうごうたい)(“the synthesis of all heresies”)」(ピオ10世)です.だが,公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちは全員(ぜんいん)「公然かつ明瞭に(こうぜん かつ めいりょうに)」モダニスト(近現代主義者)です.言い換(いいか)えれば、彼らは聖ロベルト・ベラルミーノ( “St Robert Bellarmine” )が断言(だんげん)したように教会のメンバーたり得(え)ない部類(ぶるい)の異教徒(いきょうと)であり,まして教会の長(ちょう)などではありません( " 4 Modernism is “the synthesis of all heresies”(Pius X). But the Conciliar Popes have all been “public and manifest” modernists, i.e. heretics of such a kind as St Robert Bellarmine declared cannot be members of the Church, let alone its head." ).      先週(せんしゅう)のエレイソン・コメンツをお読みください( " See last week’s “Comments” " ).人々の心(こころ)(訳注・心= "minds and hearts".思考・精神状態・感情〈しこう・せいしんじょうたい・かんじょう〉など)が混乱(こんらん)している今日(こんにち)に比(くら)べるとベラルミーノの時代(じだい)には万事(ばんじ)がはるかにすっきりしていて,「公然かつ明瞭(こうぜん かつ めいりょう)」でした( "Things were much more clear, or “public and manifest”, in Bellarmine’s day, than they are amidst today’s confusion of minds and hearts." ).公会議派教皇たちが言う客観的異端(きゃっかんてき いたん)( “the objective heresy” )は公然かつ明瞭ですが,彼らの主観的(しゅかんてき)もしくは公的異端(こうてき いたん)( "formal heresy" )(すなわち不変〈ふへん〉の〈=変わることがない=変えられない〉カトリック教義(きょうぎ)( "unchangeable Catholic dogma" )を否定〈ひてい〉する彼らの意識的〈いしき てき〉かつ断固〈だんこ〉とした意図〈いと〉)はそうではありません( "The objective heresy of the Concilar Popes (i.e. what they say) is public and manifest, but not their subjective or formal heresy (i.e. their conscious and resolute intention to deny what they know to be unchangeable Catholic dogma)." ).彼らの公的異端を証明(しょうめい)するには教会の教理権威者(きょうり けんいしゃ) ( "doctrinal authority" ), すなわち異端審問(いたん しんもん) ( "the Inquisition" ) もしくは聖務聖省(せいむ せいしょう) ( "the Holy Office" ) と対決(たいけつ)するしか方法(ほうほう)がありません.それを何と呼んでも(なんと よんでも)いいでしょう(シェークスピアは「薔薇〈ばら〉はどんな名前〈なまえ〉で呼〈よ〉んでも甘い香り〈あまい かおり〉がする」と言っています.)( "And to prove their formal heresy could only be done by a confrontation with the Church’s doctrinal authority, e.g. the Inquisition or the Holy Office, call it what one will (“A rose by any name would smell as sweet”, says Shakespeare). " )だが,教皇自身(きょうこう じしん)教会の最高の教理権威者(きょうかいの さいこうの きょうり けんいしゃ)であり( "But the Pope is himself the Church’s highest doctrinal authority, …" ),今日の教理省(きょうり しょう)の最上位に立つ(さいじょういに たつもの)ものです( "… above and behind today’s Congregation for the Doctrine of the Faith." ).だとすれば,彼を教会の長(ちょう)たりえない異教徒だといかにして証明できるでしょうか?( "How then can he be proved to be that kind of heretic that is incapable of being head of the Church ? " )

     5 だが,そのような場合,教会は望みのない混乱におかれます! ( "5 But in that case the Church is in a hopeless mess ! " )      もう一度,先週のエレイソン・コメンツをお読みください( "Again, see last week’s “Comments”." ).人々の心(こころ)(訳注・心= "minds".思考・精神状態・理性・想像力・意志力〈しこう・せいしんじょうたい・りせい・そうぞうりょく・いしりょく〉など)はいたるところでめちゃくちゃになっているため,その混乱(こんらん)を正(ただ)すのは神にしかできません( "Men’s minds are today so universally messed up that God alone can straighten out the mess." ).ここに述べた反論(はんろん)は,混乱を起(お)こした教皇たちが教皇でないこと証明するより,むしろ神が介入(かいにゅう)しなければならない(それも早く〈はやく〉!)ことを立証(りっしょう)するかもしれません( "But this objection may prove rather that he must intervene (and soon !) than that the messed up Popes are not Popes." ).辛抱(しんぼう)(=忍耐〈にんたい〉)しましょう( "Patience." ).神は(時空〈じくう〉の)すべて(の物事〈ものごと〉)に及(およ)ぶ自(みずか)らの権限(けんげん)により私たちに試練(しれん)をお与(あた)えになっているのです( "God is putting us to the trial, as he has every right to do." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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