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2013年6月15日土曜日

309 アジア旅行 6/15

エレイソン・コメンツ 第309回 (2013年6月15日)

    多くの読者から私が権限の機能不能について書いた2週間前のエレイソン・コメンツに苦言が呈(てい)せられました( "A number of readers complained at the “Eleison Comments” of two weeks ago on authority being crippled." ).「差し迫った神の懲罰」( " the “imminent Chastisement” " )が起きた後は,正常なカトリック教の土台の上にカトリック教会の修道会を築くことなど不可能だというエレイソン・コメンツの論調から類推して( "From its argument that on this side of the “imminent Chastisement” no further Catholic Congregation can be founded on a normal Catholic basis, …" ),読者の方々は神の介入を待つ以外に一司教ができることなどなにもないと私が考えているのではないかと結論づけました( "… they concluded that I believe there is nothing more for a bishop to do than to wait for God to intervene. " ).だが,もしそうだとすれば,私が2週間のアジア旅行を終え,いまアイルランドに滞在しているのは何故でしょうか( "But in that case why did I just spend two weeks in Asia, and why am I now in Ireland ? " )? 同じように読者の方々は,私が今後司教を聖別することなどないだろうと結論づけています( "Likewise they conclude that I will never consecrate another bishop." ).これに対しては,私は神の思し召し(おぼしめし)であれば(訳注・=それが神の御意志であるならば),そういうことがあるかもしれないので,しばらくお待ちください,と申し上げます(=神の御心・御旨が示される時を待ちましょう)( "Likewise they conclude that I will never consecrate another bishop. I say – God willing – just wait." ).

    実際のところ,聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" = SSPX )本部が依然として同会を公会議派ローマ(教皇庁)の懐へ導き入れるつもりでいる以上,信仰を持ち続けようと努力している人々を訪れ励ましたりするなど,一司教としてなすべきことは多々あります( "In fact there is a great deal for a bishop to do to visit and encourage souls striving to keep the Faith when Headquarters of the Society of St Pius X is obviously still intent upon taking it into the arms of Conciliar Rome." ).昨年6月17日,フェレー司教( "Bishop Fellay" )は当時の教皇ベネディクト16世に書簡を送り,「必要な浄化( "the necessary clarifications" )に到達するため,(ローマとの和解へつながる)この道をたどるあらゆる努力を継続する所存です」と伝えました( "On June 17 Bishop Fellay wrote to Benedict XVI, “I do intend to continue to make every effort to pursue this path (of reconciliation with Rome) in order to arrive at the necessary clarifications”. " ).同書簡で,フェレー司教は「不幸なことに,SSPX の現状では」自分が4月中旬に明らかにした教理宣言に対するローマの6月13日付け対案を「受け入れるわけにはまいりません」と書いています( "And in the same vein, “Unfortunately, in the present situation of the Society” Rome’s counter-proposal of June 13 to his Doctrinal Declaration of mid-April “will not be accepted.” " ).ということは,もし SSPX がローマの示した条件を受け入れていたとすれば幸運だった,ということなのでしょうか?( "Then it would have been fortunate if the Society had accepted Rome’s terms ? " )

    フェレー司教が持ち続ける SSPX 売り渡しの決意を示すこの証拠書類( SSPX 本部が公表したものです!)に対して,私たちは彼がほかの人宛てに書いた書簡からの引用を所持しています( "Against this written evidence (made public by Headquarters !) of Bishop Fellay’s on-going determination to sell out the Archbishop’s Society, …" ).彼は( SSPX の)フランス管区長( "the French District Superior" )に対し,自分が「不幸にして」と書いたのは「教皇だけのため」だったと伝え,一方ベルギーのカルメル女子修道院長( "the Carmelite Mother Superior" )に対しては「ローマとの実務的な合意を求めるつもりは全くない」と伝えています( "… we have quotes of his to the French District Superior that the “unfortunately” he only wrote “for the sake of the Pope”, and to the Carmelite Mother Superior in Belgium that he “never intended to pursue a practical agreement with Rome.” " ). 悲しいかな,フェレー司教は聴衆によって言葉を適宜使い分ける実績のある方ですから,上記の引用で彼に(ルフェーブル)大司教が創設された SSPX を売り渡す意図などないことが証明されたとは決して言えません( "Alas, Bishop Fellay has such a track-record for adapting his words to his audience that quotes like these by no means disprove his intention to sell out the Archbishop’s Society." ).フェレー司教は心の中で自ら備え持つ精神的家具( "the mental furniture" )の位置を移動させる驚くべき能力の持ち主であり,そのことだけを単独でエレイソン・コメンツに取り上げるに値します( "His astonishing ability to move the mental furniture around in his mind deserves an “Eleison Comments” all on its own, …" ).だが,それは別にして,いまや「抵抗運動( "the Resistance" )」と呼ばれるようになってきたものが世界中で高まりつつあるとしたら,皆さんは不思議に思われるでしょうか?( "… but in the meantime is it any wonder if what is coming to be called the “Resistance” is rising independently all over the world ? " )

    私は5月24日から6月6日までシャザール神父( "Fr Chazal" )と共に,彼の指導下にある400人ほどの信徒の多くを訪ね,韓国,フィリピン,シンガポールで50回以上の堅振(=堅信)式ミサ聖祭を執り行いました( "Between May 24 and June 6 I visited with Fr Chazal a good part of his flock of some 400 souls, and I gave over 50 Confirmations in South Korea, the Philippines and Singapore." ).シャザール神父は面白い人物です.素晴らしい洞察力があり,おまけにとてもユーモアに富んだ人です( "Fr Chazal is a character. He has brilliant insights and is very funny into the bargain." ).もしお会いする機会があれば,インド人政治家の物まねをお願いするといいでしょう (彼によるとインド人はタフで,この点は「間違いない」とのことです) ( "If ever you meet him, ask him to do his imitation of an Indian politician ( he says the Indians are tough, and “can take it”)." ).

    韓国では, SSPX の方向転換がとげとげしい内部分裂を引き起こし,その結果, SSPX の最初の聖堂の寄贈者がもう一つ別の聖堂を寄贈しました( "In South Korea the Society’s change of direction caused a harsh split, with the result that the donor of the original chapel merely donated another." ).私はその寄贈者の娘さまの結婚式を執り行う光栄に浴しました( "I had the pleasure of performing the marriage of the donor’s daughter." ).フィリピンでは,私が到着したちょうどその時,数年前に SSPX に加わるため新教会(訳注1後述)を逃れた老齢の司祭が今度は抵抗運動に加わるため新協会( "the Newsociety" )(訳注・「新しい聖ピオ十世会」の意.以下「新協会」と記す.)(訳注2後述)を逃れようとしていました( "In the Philippines, just as I arrived, an older priest who fled the Newchurch years ago to work with the Society was fleeing the Newsociety to work with the Resistance." ).彼はシャザール神父が計画している神学校の設立準備を任されているようで( "He looks like being entrusted with the beginnings of a seminary which Fr Chazal wants to launch, …" ),それに加えて,フィリピン中部各地の諸施設で同神父に代わって大変な仕事を引き受けることになりそうです( "… and he will in addition have his work cut out for him in centres throughout the central Philippines." ).シンガポールは西洋式物質主義の東のショーウィンドウですが,ここでは相変わらず善良な中国系一家とその友人たちが SSPX の新協会への移行を牛耳(ぎゅうじ)っています( "In Singapore, a show-case in the East of Western-style materialism, still a good Chinese family with their friends have a firm grip on the change from the Society to the Newsociety." ).シャザール神父は新協会をExSPX (訳注・=「元(=前は)聖ピオ十世会」の意味合い)と呼んでいますが,これは真実が新教会 "the Newchurch",すなわち新しいミサ聖祭 "the Novus Ordo" を弱体化させつつあるように,やがて真実によって弱体化されるでしょう( "Truth will undermine this ExSPX, as Fr Chazal calls it, just as truth is undermining the Newchurch, or the Novus Ordo." ).(訳注1・「新教会」〈=「新しい教会」〉"the Newchurch",第二バチカン公会議制度下に置かれている諸カトリック教会を指す.)(訳注2・「新協会」 "the Newesociety" =第二バチカン公会議制度下のローマ教皇庁の傘下〈さんか〉に入ることを望む司祭たちで構成される現 SSPX〈 =ExSPX 〉を指す.)

    多数の人々は天国への道に踏(ふ)みとどまっています( "Here are many souls to sustain on their way to Heaven." ).私に司教として聖別してほしいと願う候補者はおられるでしょうか?( "Do I have any candidates offering themselves for consecration as bishops ? " )

    キリエ・エレイソン.

    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



第5パラグラフの訳注:

留意点:

・神の場に人間を置く第二バチカン公会議主義(近代主義・モダニズム)に対する抵抗運動( "resistance" ),神の真実(=カトリック真理)の擁護(ようご)が,ルフェーブル大司教の創設された SSPX(聖ピオ十世会)の活動の本旨(本来の趣旨〈しゅし〉)である.

・人間社会は時とともに変遷(へんせん)するが,真理は永遠に変わらない.永遠の生命にとどまるために,真理にとどまるべきである.

・人間よりも,真理であられる神に服従すべきである.



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2012年5月13日日曜日

252 信仰殺し 5/12

エレイソン・コメンツ 第252回 (2012年5月12日)

だがもしローマ教皇庁が聖ピオ十世会の望むものをすべて提供するとしたら,それでもなお聖ピオ十世会がそれを拒(こば)むべき理由とはなんでしょうか? 聖ピオ十世会の要求をすべて満足させる実務的合意が生まれるならそれを受け入れるべきだとまだ考えているカトリック信徒たちが明らかにいるようです.それなのにどうして拒むべきなのでしょうか? 理由は聖ピオ十世会がルフェーブル大司教によって結成されたのはそれ自体が目的ではなく,第二バチカン公会議によってかつてなかったほどの危険に晒(さら)された真のカトリック信仰を擁護(ようご)するのが目的だったからです.だが,ここでは新教会当局者たち( "Newchurch authorities" )がなぜ聖ピオ十世会が拒まなければならないような実務的合意を求めるのかについて考えてみましょう.

その理由は新教会(訳注・ "Newchurch".=「新しい教会」) が主観論者 "Subjectivist" の集まりであり,いかなる実務的合意も主観主義 "Subjectivism" が真実であると暗示しているからです.第二バチカン公会議の唱える新宗教( "the new Conciliar religion" )によれば,信仰の諸教義( "dogmas of Faith" )は客観的な真実ではなく,主観的なニーズに役立つシンボルにすぎません(回勅パシェンディ "Pascendi", 11-13,21).たとえば,もし私の心理的不安が神が人間になったという信念により鎮(しず)められるなら,その結果御托身( "the Incarnation" )は私にとって真実だということになり,そのことは単なる「真実」という言葉の上で意味を持つだけです.ですからもし伝統主義者たち( "Traditionalists" )が古い宗教( "old religion" )を必要とするなら,それが彼らにとっての真実で,彼らが自らにとっての真実にいかに固執するかは称賛に価するほどでしょう.だが公式には,彼らは第二バチカン公会議の定めた真実をローマ教皇庁当局者たちが持つことを認めざるを得ず,もしそのような妥協を受け入れないとすれば,その結果彼らは我慢がならないほど高慢で許しがたいと言われ,そのような不和など私たちの愛の教会内( "within our Church of luv." )では認められないということになるでしょう.(訳注・ "luv" =「理性や責任(感)を欠いた感覚的愛情」を指している.)

かくして,新近代主義( "Neo-modernist" )のローマにとっては聖ピオ十世会がたとえ暗黙にせよ「自らの」諸真実の普遍性と義務に対する強い主張を諦(あきら)めるような実務的合意ができれば満足でしょう.反対に聖ピオ十世会は20世紀も続いた「自らの」宗教の客観性( "objectivity" )を諸々の言葉以上に雄弁に語るただ一つの行動において否定することになるような合意に満足などできません.事は「自らの」宗教の問題だけに限りません.主観主義者たちと合意に達するには,私は客観性を主張するのを止めなければなりません.そして客観性を主張するためには,私は主観主義者たちが主観主義を捨てない限り,彼らが出すいかなる条件をも受け入れるわけにはいきません.

ローマの当局者たちはそのようなことなどしません.彼らが自分たちの新宗教を推し進めていることを示すもう一つの証拠は,彼らが最近明らかにしたフランスの「良き羊飼い協会への教皇の訪問の結果に関する記録」( "Note on the conclusions of the canonical visit to the Institute of the Good Shepherd" in France" )という形で残っています.エレイソン・コメンツの読者の方々は,この協会がローマ当局の監督下で伝統的なカトリック教が実践できるようにと第二バチカン公会議後に設立されたいくつかの協会の一つだと記憶していることでしょう.ローマはあと数年待ってその包囲網を狭(せば)め,愚かな魚が針にかかるのを確かめるでしょうが,その後は―

上の「記録」は第二バチカン公会議および1992年の新教会要理( "the 1992 Catechism of the Newchurch" )を同協会での学習対象に含めています.協会は「継続性の更新についての解釈学」( "hermeneutic of renewal in cotinuity" )を求めること,さらにトレント式ミサ聖祭( "The Tridentine rite of Mass" ) を「唯一の "exclusive" 」 ミサ聖祭として扱うのを止めることを義務付けられています.協会は「交わりの精神」とともに,公式の教会教区生活に参入する必要があります.別の言い方をすれば,伝統主義の協会は新教会に所属したければあまり伝統的であってはならないのです.協会はこれ以外のなにを期待したでしょうか? 伝統を守るためには協会は新教会の監督下から離れなければならないでしょう.はたしてその機会はあるのでしょうか? 協会は公会議のモンスターに飲み込まれることを望みました.そして今,モンスターは協会を消化している最中です.

そういうわけですから,果たして聖ピオ十世会だけは同じ道をたどらないと言えるでしょうか? 聖ピオ十世会は今回のローマの誘惑を撥(は)ねつけるかもしれません.だが,決して思い違いをしないよう(=幻想を抱かないよう)気をつけましょう.主観主義者たちはなんどでも戻り,また戻り,また戻ってきて,彼らの求める犯罪的ナンセンスを常に戒(いまし)める原動となる客観的真実,客観的信仰( "objective truth and objective Faith" )を一掃(いっそう)しようとするでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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2011年5月17日火曜日

林檎の腐敗

エレイソン・コメンツ 第200回 (2011年5月14日)

ひとつの腐った林檎 (りんご) がふたつの方法で今日の輝きを失ったカトリック教会の暗闇に小さな光を当てるかもしれません.まず第一に,私たちは林檎が隅々まで腐(くさ)るのを待ってから林檎すべてが腐ったと判断するわけではありません.林檎にはまだ腐っていない部分が残っています.だから林檎が腐っているかどうかという問いに答えるとき,私たちは二通りの区別をする必要があります: 全体として,然(しか)り; ある部分について,然り; ほかの部分については,否(いな),という風にです.そして第二に,林檎即(そく)腐敗,腐敗即林檎ではありませんが,腐敗とその元の林檎は切り離すことはできず,林檎なしに腐敗は存在できません.この常識の第一の部分を新しい典礼によるミサ聖祭 ( “the Novus Ordo Mass” ) と (それを考案した公会議に則した) 「公会議主義下の教会」 ( “Conciliar church” ) に,第二の部分を「公会議主義下の教会」とローマ教皇職 ( “the Papacy” ) に当てはめてみましょう.

新しいミサ聖祭について言えば,それは公会議の人間中心主義によるものですから全体として腐ったものです.だがそのある部分 (例えば奉献(文) “the Offertory, offertorium” ) は明らかにカトリック教とは異なるものである反面,ほかの部分 (例えば求憐誦 〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison” ) はカトリック教に則ったものとなっています.新しいミサ聖祭は全体として腐っており徐々にカトリック教徒をプロテスタント教徒へ変えていくものですから,参席するに適したものではありません.だが,聖変化( “Consecration” )にあたる部分はカトリック教に則っており有効だと言えます.したがって新しいミサ聖祭について,有効だから参列できるとも,参列できないのだから無効だとも,いずれも言えないのです.実際には,新しいミサ聖祭の本質的な部分は有効かもしれませんが,それだけでは個人の信仰をこの新しいミサ聖祭全体に参列する危険に曝(さら)すに足る理由とはなりません.(訳注後記)

同じように,今日のカトリック教会は公会議主義がその至るところにまん延している限り全体として腐っているのですが,だからといってカトリック教会のあらゆる(一つ一つの)部分が公会議主義で腐っているわけではありません.したがって,全体が公会議主義だからといってカトリックのまま残っているいずれかの部分を非難するのは間違っていますし,同じようにカトリックのまま残っている部分が多少あるからといって公会議主義全体を許容するのも間違っています.自分の心を現実に合わせるためには,それぞれの異なる部分ごとの間での区別,および全体とそれぞれの異なる部分との間での区別の双方が必要です.

次に今日の教会に腐った林檎との比較の第二の部分を当てはめるなら,二つの教会すなわち「公会議主義下の教会」と「カトリック教会」について話すのが純粋な意味で有意義と言えるでしょう.なぜなら,この二つの教会のそれぞれが純粋な状態だと双方は林檎と腐敗のように互いを排除しますが,現実の世界では公会議主義がカトリック教会の中の至(いた)るところに見出されるからです.だが実生活では,双方は林檎と腐敗あるいは寄生生物と宿主と同じように切り離すことができません.現実の世界において存在する唯一の教会は,カトリック教会のみであり,今日その唯一の教会が公会議主義の腐敗により至るところで苦しめられているのです.

したがって公会議主義の教皇( “a Conciliar Pope” )について言えば,彼は二つの教会の長だとするのが純粋な意味で有意義な言い方でしょう.なぜなら時にはカトリック的な,時には公会議主義的な言動をとることによって彼は常にカトリック教会と公会議主義で腐敗したカトリック教会の両方の長としての立場に自身を置くからです.だからといって彼が現実には別々のものとなっている二つの教会の長だと言うことではありません.いまでは公会議主義の腐敗のため満身創痍(まんしんそうい)となっている唯一真実のカトリック教会の中で,彼がカトリック教義(カトリシズム)と公会議主義の双方の長( “head of both the Catholicism and the Conciliarism” )だということを言っているのです.

それにしても,私たちのカトリック教会指導者たちが神の名にかけて公会議主義の腐敗に夢中になっているのはなぜでしょうか? それは現代社会で人々が自由を渇望するためです ( “Because of the modern longing for liberty.” )(訳注後記).これは今回の話とは別のことです.だがこれとは別にして,私たちは教皇ベネディクト16世がもう一度林檎と腐敗の違いが分かるよう全力を尽くして教皇のために祈らなければなりません!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第6パラグラフの訳注:

「自由」 “liberty” について:

ここでの「自由」とは,「権利(人権)」や「(人が際限なく気まま勝手にしたい欲を縛りつけるような「神の法=自然法〔真理〕」による制約からの)解放」を意味している.

* * *

第2パラグラフの訳注:

〈伝統カトリック教義に則した典礼〉からの解説〉

① 「奉献」 “the Offertory, offertorium” について.

(典礼文)
Orémus. (司祭)
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OFFERTORIUM - 奉献文
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, …
「聖なる父,全能永遠の神,…」
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Lavabo inter inocéntes manus meas : …
「主よ,私は,罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,
(そして主の祭壇のかたわらに立とう.)」
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Súscipe, sancta Trínitas, …
「聖なる三位一体よ…」
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Oráte, fratres : …
「祈れ,兄弟たちよ,…」
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Secreta …
「密誦」

***

(解説)

・オッフェルトリウムOffertorium は,献物をさし出すことであるが,「奉献」ということに対する現代の信者の考えは,昔の信者の考えとは、大分相違がある.
昔の信者は,自分の献物(パン,ぶどう酒,くだもの,花など)を,自分の手で聖堂にもって行った.
これらの物は,自分自身の内的供物の象(かたど)りであった.奉献のときになると,助祭(あるいは司祭)は,その供物をうけるために,信者の方へ下りてきた.
この供物の中から,その日のミサと聖体拝領に必要な分だけをとり,残りの分は,司祭自身あるいは信者の貧しい人々のために用いることになっていた.
こういうことを行っている間に,その日の祝日あるいは奥義をあらわす奉献文の交誦と詩篇とをうたっていた.

・信者から献物をするこの習慣は,中世時代から次第に変化し,司祭のとなえる代願の祈りは,現在,はじめの「オレムス Oremus 」(われらは祈りましょう)だけが残っている.
・それから,司祭は,副助祭あるいは侍者が祭壇(さいだん)にもってくる献物を,神にささげる.カリスの準備は,祭壇上で行われる.水とぶどう酒とを祝福するに当っての祈りは,御降誕の祝日の昔からの祈りで,水とぶどう酒とを交ぜることの象徴を知らせるのである.
最後の晩さんのとき,主は,聖別したぶどう酒に,少しの水をまぜ給うた.

奉献の祈りはすべて,まことに立派な祈りであって,キリスト教的いけにえなる聖変化へと漸次祈りは高潮してゆく.
・もう世俗的な使用に供されないという意味をあらわすために,司祭は,献物のパンとぶどう酒とに撒香する.それから,司祭は,自分の手をきよめて,詩篇二十五からの祈りをとなえる.(Lavabo 洗いましょうの意)
・聖なる三位一体よ,うけ給え(suscipe, sancta Trinitas) という祈りは,いけにえであるこの献物を,キリストの奥義と聖人らの功徳とに結びつける.
・それから司祭は,参列者の祈りと一致するために,「兄弟たちよ,祈れ」(Orate, fratres)とすすめる.信者たちは,それに対して,神の栄光と公教会の善とのために,この献物を嘉(よみ)し給え,と答える.
・すると司祭は,献物に最後の祈り 密誦(Secreta)をとなえ,奉献の式を終る.
密誦を終るとき,司祭は,声を高めて序誦をうたう.
(この後「聖変化」の部の典礼へ続く)

* * *

② 「求憐誦 」〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison, Kýrie, eléison” について.
入祭文を終って後,司祭は祭壇の中央に行き,侍者と交互に求憐誦を唱える.

(典礼文)
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」
|
Christe, eléison. Christe, eléison. Christe, eléison.
「キリスト,あわれみ給え」
|
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」

***

(解説)

・助祭が会衆とともに祈っていた昔の典礼の名残りとして残っている.助祭が会衆とともにとなえていた祈りは,主として聖歌であった.
・キリエ・エレイソンは,ギリシア語で,古代ローマにおける典礼がギリシア語で行われていたことを思い出させる.
・これらの祈願は,主なるキリストに向ってなされる.「キュリオス」( Kyrios )とは,われわれを救い給う光栄の「主」である.

* * *

③ 「聖変化」 “Consecration, Consecrátio” について.

パンとぶどう酒が神の羔(こひつじ,Agnus Dei)たる神の御子キリストのいけにえの御聖体( Corpus Christi )とキリストの流された〈人類の罪の赦しのための〉新しい契約の御血(Sanguis)に変わること)

…“Hæc commíxtio, et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam.” ( Ordo missæ )
…「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.」(聖伝のミサ典礼文より)

***

(解説)

聖体の序誦

元来,序誦は,聖変化の部に属し,この二つは,聖体の荘厳な祈りであった.現在では,三聖頌(Sanctus)が,この二つの間に加わった.
しかし・現在(1955年),序誦が聖変化の部と分離したにしても,なお序誦は,聖変化という重大な行いの序曲である.

序誦(Præfatio)は,ギリシア語から出た言葉で,荘厳な祈りを意味する.
この祈りは,主への感謝であり,聖体の讃歌であって,これによって司祭は,神のこの大なる御業を讃美するのである.また,これは,その日の意義を思い出させる.
司祭は,われわれが深い敬虔をもって,天使とも一致し,聖体をささげうるようにととなえて,この祈りを終る.

聖なるいけにえ

低いこえで聖体への祈り(典文〈カノン,Canon 〉)をつづける司祭に,信者は一致する.司祭は救主の功徳によって,教皇と司教とをかしらとする全公教会と,すべて参列する者のためにささげるこのいけにえをよみし給えと,神に祈る.

こうして,全団体を神の御手にゆだねてのち,地上の教会から天に集る教会へと心を移し,
諸聖人の通功をこい願い(Communicantes 凱旋の公教会の祈念),天の聖人たち,御母聖マリア,使徒,殉教者らの祈りに委託して,司祭は,(Infra actionem)いけにえを行いはじめる.

司祭の先ずすることは,献物の上に両手をひろげることである.これは,会衆を代表して,
えらばれたいけにえの上に掩(按)手する旧約の祭司たちの行いを思い出させる(Hanc igitur さて,これを).
それから司祭は,キリストの民のこのいけにえを嘉(よみ)し給い,全くうけ入れ給うようにと祈る(Quam oblationem この献物を).
それから,このいけにえが、主イエズスのいけにえと合わせられる価値あるものとなるように、神御自身はからい給えと祈る.

公教会は,キリストと同じように,子としての信頼をもっている.キリストと同じく公教会は,御父が常に自分の願いをきき入れ給うことを知っている.(ヨハネ聖福音,11章42節)
これがために,自然に,聖体制定の次第を語るに至る.いま,秘蹟的に話し,最後の晩餐の行いを新たにし給うのは,キリスト御自身である.キリストは,いけにえをくり返し給う.

これは,不敗の勝利者のいけにえである.なぜなら,最後の晩饗のときより,この世の終りの日まで,秘蹟なるこのいけにえは,不滅なるもの(生命=キリスト)の死をくり返しつづけるからである.
キリストの御死去によって,栄光はキリストに帰せられ,十字架によって,自分自身にすべての人間をひきつけるべき御者は,称揚される.これが,奉挙(Elevatio)の象(かたど)りである.
この奉挙の習慣は,大分時代を下ってからのことである.

祈念誦(Anamnesis),「さらば、思い起しつつ」(Unde et memores)という二つの祈りも,救主の偉大なる御業の追想である.そして,あがないの奥義,御受難だけではなく,御復活と御昇天の奥義をも,ここに追想する.

われわれのいけにえは,キリストのいけにえと一つになる.いま,司祭は,アベル,アブラハム,メルキセデクなどのそなえものにはるかにまさる浄く汚れなく聖なる血を献げるのである(Supra quæ これらの献物の上に).
いけにえの天便が,われわれの献物を天の祭壇,神の尊前にもちゆく代りとして,救主なるキリストの御体と御血との宴に,われわれがあずかれるようにと,神にこい願う(Supplices われらひれ伏して).

われわれが,神の宴にあずかることをゆるされるこのいけにえの準備は,もはやととのった.この典礼的ないけにえの功徳は,先ず,つぐのいを果しつつある「苦悩の教会」の霊に応用される.
そして,司祭と,参列の信者のためにも応用されるようにとこい願い,(Nobis quoque われわれにも),このいけにえにあずかり,天の聖人とともになることをも,神の御慈悲によってこい願う.

聖体の行い,すなわち,厳密な意味での典文(カノン)は,終りに近づいた.その終りは,まことに荘重である.
司祭は,オスティアとカリス(祭爵)とを,一緒にもち上げて,三位一体の神に光栄とほまれとをささげる.
そこで参列の信者は、「アメン」ととなえて,司祭の頌歌にこたえ,司祭の聖変化の行為を承諾するのである.この「アメン」は,聖変化の沈黙のはじまりの時から,結晶していた力のほとばしりである.

パンをさくこと

聖体制定のことを物語る福音書によると,主は,聖体のパンを弟子らに与えるに先だち,それを割(さ)いて分けたと記されている.

この行為は,昔から特に重視され,fractio panis(パンをさくこと)は,長らくの間,ミサ聖祭と同義語に用いられてきた.元来,「パンをさくこと」は,実際上の必要からで,信者の聖体拝領のために,大きなパンを分けていたのである.
今はもう実際上のそんな必要はなく,司祭の拝領するオスティアだけをさくことになっている.パンをさくことは,又,昔の習慣の名残りである.聖なるオスティアをさいてから,司祭はオスティアの小片を,カリスに入れる.これはなぜかというに,九世紀ごろまで,ミサののち,聖変化したパンの一片を保存する規則があり(これを Sancta 聖なるものといった),この一片を,次のミサのとき,御血にひたしたのである.それは,公教会のいけにえの,一致性と継続(けいぞく)性とを象(かたど)るならわしであった.

「われらひれ伏して」(Supplices)の祈りがおわれば,いけにえの宴(うたげ)は,もう準備が出来上っている.
典文(カノン)の最後のアメンが終ると,司祭は声をあげて,一同に代り,(Oremus 祈願)と主禱文をとなえる.この祈りは,聖体拝領の直前の準備の祈りとして,ずっと古くから用いられている.
それから司祭は,聖なるオスティアをさくが,これは主の御業のくり返しであり,皆のためにさくこの行いは,救主キリストのみがこの世に与える平安を象るのである.
われわれは主の御死去によって,まことの平安を再び見出した.聖なるパンと聖なるぶどう酒とを混(まぜ)ることは,キリストの復活と不滅性とを意味するのである.「キリストは、もう死に給わない.」(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への手紙,6章9節)

神の羔(こひつじ)に対する神羔誦(しんこうしょう Agnus Dei)は,復活の羔,不滅の糧(かて)となり給うたキリストへの祈りである.

聖体は,本質的にキリスト教的一致,神秘体の生ける一致の秘蹟である.われわれがもし,公教会と一致していないならば,キリストの御体と御血とにもあずかることができない.
また,聖体拝領を否むことは,神秘体から離(はな)れ去ることである.これがために司祭は,キリストにおいてすべてが一致するようにとこい願ってから,助祭を通して,参列の信者に,平安の接吻をおくるのである.現在はもう習慣として残っていないが,この平和の接吻は,その昔は,聖体拝領の唯一つの準備であった.現在は,その精神だけが残されているわけであるから,兄弟への憎(にく)みの念をすて,公教会と兄弟たちに一致する心がなければ,聖体に近づくことはできない.

比較的時代を下ってから,こののち二つの祈りが加えられた.これは,聖体拝領とキリスト教的生活とのつながりを示す祈りである.
実に,キリストと一致することは,キリスト,特に十字架を負(お)い給うたキリストにならうことである.キリスト信者の幸福は,十字架と切り離(はな)せないものである.
こういう神秘的な準備ののち,司祭は,パンとぶどう酒との二つの形色において聖体を拝領し,それから,侍者と一般信者が聖体を受ける.
侍者と信者の聖体拝領は,パンの形色の下に行われる.もちろん,かれらも,古くは二つの形色のもとに聖体をうけていたし,現在でも,東方挙式法による公教会においては,二つの形色の聖体を信者にもさずけている。
しかし,一つの形色でも功徳と効果とは同じである.すべての信者に,聖体は永遠の結実を生むであろう.
昔は,聖体をさずける間に,聖体拝領誦の詩篇をうたう習慣であった.この習慣は,現在の交誦に名残りをとどめているだけで,これを聖体拝領誦(Communio)という.
一般に,聖体拝領誦は,その日の祝日,あるいは奥義に関連した祈りであり,われわれの感謝をあらわしている.
聖器具を始末してのち,司祭は,信者らに挨拶(あいさつ)し,皆に代って,聖体拝領後の祈(Postcommunio)をとなえる.

この祈りによって,聖なるいけにえの拝領は終った.この祈りは,秘蹟的に霊的に聖体を拝領したすべての人に,公教会が何を期待するかをあらわし,この聖なる奥義によってもたらされる至福をも語る.
だが公教会は,この秘蹟を,天の至福の予備としてだけではなく,いまうけた聖寵に対する忠実さによって,いつか決定的にうけるであろう至福の予言とも考えるのである.

***
「毎日のミサ典書」(序論(2)ミサ典書とローマ式ミサ)より引用

* * *

1962年ミサ聖祭通常文の表 
-〈注〉一部の典礼文は省略されています.Partly abbreviated. -


ORDO MISSÆ (1962) (Ordinarium Missæ)
ORDINAIRE DE LA SAINTE MESSE / ORDINARY OF THE MASS

〈灌水式:(洗礼のかたどりの一つ)〉
・交誦(詩篇・第50篇9節) Antiphona … Aspérges me, (主よ,ヒソプもて)

*Aspérges me, Dómine, hyssópo, et mundábor : lavábis me, et super nivem dealbábor.
Ps. 50, 3. Miserére mei, Deus, secúndum magnam misericórdiam tuam.

V/. Glória Patri.

Et repetitur ant. *Aspérges me.

「*主よ,**ヒソプもて私にそそぎ給え,私は浄(きよ)められるであろう.私を洗い給え,私は雪よりも白くなるであろう.
(詩篇・50篇3節)神よ,御慈悲により,私をあわれみ給え.」

司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭(侍者・信者)/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.

「(*主よ,ヒソプもて…をくりかえす)」

(**ヒソプ…ハナハッカの小枝;清めの祭式に用いられた.ヘブライ語で「聖なる薬草」を意味する.)

(御受難の主日と枝の主日とには,栄誦をとなえない)
(復活節(御復活の祝日-聖霊降臨まで)は,次の通り)

*Vidi aquam egrediéntem de templo, a látere dextro, allelúia : et omnes ad quos pervénit aqua ista, salvi facti sunt, et dicent : allelúia, allelúia.
Ps. 117,1. Confitémini Dómino, quóniam bonus : quóniam in sǽculum misercórdia eius.

V/. Glória Patri.

Et repetitur ant. *Vidi aquam.

「私は,神殿の右側からわき出る水を見た,アレルヤ.この水にうるおった人々は,みな救われた.かれらは,アレルヤ,アレルヤとうたう.
(詩篇・117篇1節)主をほめたたえよ,主は善にて在(ましま)す,主の御あわれみは永遠である.」

司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.

「(*私は,神殿の右側から…をくりかえす)」

…(中間略)

・祈願 Oratio … Exáudi nos (われらの祈りをききいれ給え)

Exáudi nos, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus : …
「聖なる主,全能の父,永遠の神よ,…われらの祈りをききいれ給え.」

***

Ⅰ.準備:
MISSA CATECHUMENORUM (Signum crucis – Credo)
MESSE DES CATECHUMENES / MASS OF THE CATECHUMENS
(洗礼志願者のミサ)

A. 準備の祈り(祭壇の足元で)

・十字架のしるし … Signum cruces

In nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti. Amen.

V/. Introíbo ad altáre Dei.
R/. Ad Deum, qui lætíficat iuventútem meam.

「聖父(ちち)と,聖子(こ)と,聖霊との御名によりて.アメン.」

司祭/「私は,神の祭壇に上ろう.」
助祭/「私の若さを喜びで満たし給う神の方へ.」
…

・信仰,神への委託,信頼,謙遜 … Iúdica me, Deus, (神よ,私を弁護し給え)(詩篇42編)

・痛悔と心の清さ … Confíteor (告白の祈り)

Confíteor Deo omnipoténti, beátæ Maríæ semper Vírgini, beáto Michaéli Archángelo, beáto Ioánni Baptístæ, sanctis Apóstolis Petro et Páulo, ómnibus Sanctis, et vobis, fratres : quia peccávi nimis cogitatióne, verbo, et ópere :
(Percutit sibi pectus ter, dicens :)
mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa.
Ideo precor beátam Maríam semper Virginem, beátum Michaélem Archángelum, beátum Ioánnem Baptístam, sanctos Apóstolos Petrum et Páulum, omnes Sanctos, et vos, fratres, oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.

「全能の天主,終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちにむかいて,われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白したてまつる.
(三度胸を打ちながら言う.)
これわがあやまちなり,わがあやまちなり,わがいと大いなるあやまちなり.
これによりて終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちに,わがためにわれらの主なる天主に祈られんことを願いたてまつる.」

Misereátur tui omnípotens Deus, et dimissis peccátis tuis, perdúcat te ad vitam ætérnam.
助祭/.「願わくは,全能の神があなたを憐れみ,あなたの罪をゆるして,永遠の生命に導き給わんことを.」

Amen.
司祭/.「アメン.」

B. 入祭文から奉献まで

・はじめの聖歌 … Introitus (入祭文)

(司式司祭はすぐ祭壇に上らず,祭壇の下で準備の祈りをとなえる.
聖歌隊が,入祭文を終るまでに,司祭は祭壇に上がり,祭壇に接吻し,撒香する.)

(祭壇は特に聖別され,新約の祭壇,いけにえ・大司祭であるキリストを意味する.
また密接にキリストとむすびつくために,祭壇には,聖なる殉教者の遺物の一部が納められている.)

(司祭が祭壇に接吻するのは,これから,奥義を新たにするに当って,キリストの御心と心を一つにすることを,あらわすためである.
祭壇への撒香は,礼拝と尊敬をあらわすためである.)(ローマ・ミサ典書・日本語版より)


Ⅱ.祈りと教え:

《祈り》

・礼拝と祈願 … Kýrie (求憐誦)

V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.

R/. Christe eléison.
V/. Christe eléison.
R/. Christe eléison.

V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.

(司祭と助祭が交互に三度ずつとなえる)
「主,あわれみ給え.
キリスト,あわれみ給え.
主,あわれみ給え.」

・三位一体の称讃 … Glória (栄光誦)

〔Glória in excélsis Deo et in terra pax homínibus bonæ voluntátis. …
「天においては天主に栄えあれ.地においては善意の人に平和あれ.…」〕

《教え(教理)》

・団体の祈り … Collecta (集祷文)

・第一の朗読 … Epistola (新約聖書の使徒の書簡)

・中間の聖歌 … Graduale (昇階誦)

・Alleluia(アレルヤ誦)あるいは Tractus (詠誦)

・キリストの御言葉の朗読 … Evangelium(福音書)

・キリストとその御言葉への承諾 … 〔Credo (信経)〕


Ⅲ.奉献の部:
MISSA FIDELIUM (Offertorio – Postcommunio)
MESSE DES FIDELES / MASS OF THE FAITHFUL
(信者のミサ)

A. 奉献から序誦まで (奉献)

・奉献の準備 … Offertorium (奉献文)

・御父なる神にパンの奉献 … Súscipe, (うけいれ給え)

Súscipe,sancte Pater, omnípotens ætérne Deus,
「聖なる父,全能永遠の神,…うけいれ給え.…」

・カリスの準備 … Deus, qui (神よ)

・カリスの奉献 … Offérimus tibi, Dómine, (主よ,われらはささげ奉る)

・心の奉献 … In spíritu(心をもって)

In spíritu humilitátis et in ánimo contríto suscipiámur a te, Dómine :
「主よ,深くへりくだり,痛悔の心をもってささげ奉るわれらを受けいれ給え.…」

・奉献するものの上に,聖霊を祈願する … Veni, Sanctificátor, (聖とならしめ給う御者,下り給え)

Veni, Sanctificátor, omnípotens ætérne Deus : …
「聖とならしめ給う全能の御者,永遠の神よ,下り給え.…」

・手を浄める … Lavábo (洗い奉る)

Lavábo inter innocéntes manus meas : et circúmdabo altáre tuum, Dómine.
「主よ,私は罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,そして,主の祭壇のかたわらに立とう.」

・キリストと諸聖人との功徳にもとづく奉献 … Súscipe, sancta Trínitas, (聖なる三位一体よ,受け給え)

・信者は,祈りによって,奉献に一致する … Oráte fratres, (兄弟たちよ,祈れ)Suscipiat (受け給わんことを)

Oráte fratres, ut meum ac vestrum sacrifícium acceptábile fiat apud Deum Patrem omnipoténtem.
「兄弟たちよ,祈れ,私と,あなたたちとのいけにえが,全能の父なる神のみもとによみせられるように.」

R/. Suscípiat Dóminus sacrifícium de mánibus tuis ad láudem et glóriam nóminis sui, ad utilitátem quoque nostram, totiúsque Ecclésiæ suæ sanctæ.
助祭/.「主が,御名のほまれと栄光のため,更に,われらの利益のため,御自分の聖なる全教会のために,あなたの手から,このいけにえを受け給わんことを.」

・奉献するものの前で,祈る … Secreta (密誦)

B. 序誦から主禱文まで (聖変化の部)

Ⅳ.聖体の序誦:

・荘厳な感謝の祈り … Praefatio (序誦)

・讃美 … Sanctus (三聖頌)

ミサ聖祭典文( CANON MISSÆ )

Ⅴ.聖なるいけにえ: (聖変化)

・奉献するものを考える … Te ígitur (さて,汝を…)

Te ígitur, clementíssime Pater, per Iesum Christum, Fílium tuum, Dóminum nostrum, súpplices te rogámus ac pétimus, uti accépta hábeas, et benedícas, hæc + dona, hæc + múnera, hæc + sacrifícia illibáta,…

「いと寛仁なる父よ,われらは深くへりくだって祈り奉る.願わくは御子イエズス・キリストによって,この+賜物,この+ささげ物,この+けがれなく聖なるいけにえを受入れ,祝し給わんことを.」

・戦闘(せんとう)の公教会の祈念 … In primis (先ず,…)

…in primis, quæ tibi offérimus pro Ecclésia tua sancta cathólica :
quam pacificáre, custodíre, adunáre, et régere dignéris toto orbe terrárum :
una cum fámulo tuo Papa nostro Benedictus XVI., et Antístite nostro N.,
et ómnibus orthodóxis, atque cathólicæ, et apostólicæ fídei cultóribus.

(両手をひろげ,普遍教会のために祈る)
…先ず,われらは,主の聖なるカトリック教会〔公教会〕のために,これをささげ奉る.
願わくは,教会に平和を与え,それを保護し,一致を固めさせ,
主の下僕なる〔われらの〕教皇ベネディクト16世,われらの司教〔名〕,
および正統な教えと使徒伝承のカトリック信仰とを守る人々と共に,
全世界において,治め,導き給え.」

・特定人の記憶
(生きる人々の記念 Commemoratio pro vivis)… Meménto, Dómine,(主よ,記憶し給え)

・凱旋(がいせん)の公教会の祈念 … Communicántes (聖なる一致において…)

(注)「コムニカンテス」は,われわれが,ここに名の記されている聖人たちだけでなく,罪深い性質においてわれわれと似た人間であったその他の無数の聖人たちのとりなしによってもまた天に招かれていることを知る喜びを与えられる.
殉教者の元后・聖マリアの御名は御子キリストのいけにえ(犠牲)から切り離すことはできない.聖マリアは神の羔(こひつじ)とともにわれわれ自身を祭壇の足元でささげるようお教えになる.聖ヨゼフは普遍教会の保護者として祈願される.(英語のミサ典書の解説より)

Communicántes, et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genitrícis Dei et Dómini nostri Iesu Christi :
Sed et beáti Ioseph, eiúsdem Vírginis Sponsi, et beatórum Apostolórum ac Mártyrum tuórum, …et ómnium Sanctórum tuórum ;
quorum méritis precibúsque concédas, ut in ómnibus protectiónis tuæ muniámur auxilio.
Per eúndem Christum Dóminum nostrum. Amen.

「聖なる一致において,われらは,先ず,わが神なる主,イエズス・キリストの御母,終生童貞なる光栄のマリアの記念を,つつしんで行い奉る.
また,その浄配聖ヨゼフ,主の聖なる使徒,殉教者,… およびすべて主の聖人らの記念を行い奉る.
願わくは彼らの功徳ととりなしとによって,われらに,御保護の助力を与え給わんことを.同じわれらの主,キリストによりて.アメン.」

・献物を受入れ給えと祈る … Hanc ígitur (さて,これを…)

・聖変化をこい願う祈り … Quam oblatiónem tu, Deus, (神よ,このささげものを)

Quam oblatiónem tu, Deus, in ómnibus, quǽsumus, bene+díctam, adscríp+tam, ra+tam, rationábilem, acceptabilémque fácere dignéris : ut nobis Cor+pus, et semel super calicem, et San+guis fiat dilectíssimi Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi.

「神よ,願わくは,このささげものを祝+し,嘉+納し,全く+認め,真の価値あるいけにえとなし給え.これが,われらのために,御身の最愛の御子,われらの主イエズス・キリストの御+体,御+血とならんことを.」

・聖体制定の記念 … Qui prídie (御受難の前日…)

Qui prídie quam paterétur, accépit panem in sanctas ac venerábiles manus suas, et elevátis óculis in cælum ad te Deum Patrem suum omnipoténtem, tibi grátias agens, bene+díxit, fregit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et manducáte ex hoc omnes.

「主は,御受難の前日,その聖なる尊い御手にパンをとり,天に在(ましま)す全能の御父なる御身の方に目を上げ,御身に感謝し,それを祝+して,分け,弟子らに与えておおせられた.皆,これを受け,そして食べよ.」

・パンの聖変化 … Hoc est enim corpus … (実にこれは,私の体である)

HOC EST ENIM CORPUS MEUM
「実にこれは,私の体である.」


・聖体を奉挙する

・聖体制定のつづき … Simili modo (同じく…)

Simili modo póstquam cenátum est, accípiens et hunc præclárum cálicem in sanctas ac venerábiles manus suas : tibi grátias agens, bene+díxit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et bíbite ex eo omnes.

「同じく晩餐が終ったとき,主は,その聖なる尊き御手に,この光栄あるカリス(聖杯)を取り,再び,御身に感謝し,これを祝+し,弟子たちに与えて,おおせられた..皆,これをとって飲め.

・ぶどう酒の聖変化 … Hic est enim calix … (実に,これは私の血のカリス(聖杯)で…)

HIC EST ENIM CALIX SÁNGUINIS MEI, NOVI ET ÆTÉRNI TESTAMÉNTI :
MYSTÉRIUM FIDEI :
QUI PRO VOBIS ET PRO MULTIS EFFUNDÉTUR IN REMISSIÓNEM PECCATÓRUM.

「実に,これは、新しく,そして永遠なる契約の,私の血のカリスである.
信仰の奥義,
それは,あなたたちと多くの人々の罪をゆるすために流されるのである.」


Hæc quotiescúmque fecéritis, in mei memóriam faciétis.
「あなたたちがこれを行うごとに,私のかたみとしてこれを行え.」

・カリスを奉挙する

・あがないの玄義を再び記念 … Unde et mémores, Dómine, (主よ,さらば記念して…ささげ奉る)

・キリストのいけにえを受入れ給えと祈る … Supra quæ (この供物に…)

・神なるいけにえとの一致を求める祈 … Supplices (うやうやしく)

・死者の記念 
(死者の記念 Commemoratio pro defunctis)… Meménto étiam, Dómine,(主よ,記憶し給え)

・天の教会との一致を求める祈 … Nobis quoque (われらは…)

・被造物も称讃にあずかる … Per quem (かれによって)

Per quem hæc ómnia, Dómine, semper bona creas, sanctí+ficas, viví+ficas, bene+dícis et præstas nobis.
「主よ,御身は,かれによってこれらすべてをよきものとしてつくり,これを聖+とし,活+かし,祝+し,そしてわれらに与え給う.」

・御子による聖父に対する称讃,聖霊との一致において. … Per Ipsum (かれによって,かれと共に,…)

Per ip+sum, et cum ip+so, et in ip+so,
est tibi Deo Patri + omnipoténti
in unitáte Spíritus + Sancti
omnis honor, et glória.
Per omnia sǽcula sæculórum.
R/. Amen.

「かれ+によって,かれ+と共に,かれ+において,
全能の+父なる神よ,
+聖霊との一致において,
御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う.
世々に至るまで.」

・信者の賛成と称讃 … Amen (アーメン)

ミサ聖祭典文の終わり

C. 主禱文から清めの式まで (聖体拝領)

Ⅵ.パンを割(さ)くこと:

・今日の糧(かて),聖体を求める祈り … Pater noster (主祷文)(われらの父よ)

Pater noster, qui es in cælis :
sanctificétur nomen tuum ; advéniat regnum tuum ; fiat volúntas tua, sicut in cælo, et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hódie ; et dimítte nobis débita nostra, sicut et nos dimíttimus debitóribus nostris ; et ne nos indúcas in tentatiónem.
R/. Sed líbera nos a malo.
Amen.

「天にましますわれらの父よ,願わくは御名の尊まれんことを,御国の来らんことを,御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを.
われらの日用の糧を,今日(こんにち)われらに与え給え.われらが人にゆるすごとく,われらの罪を赦し給え.われらを試みに引き給わざれ.」
助祭/.「われらを悪より救い給え.」
司祭/.(小声で)「アメン.」

・悪から浄化され,予防されることをこい願う … Líbera nos (われらを救い給え)

Líbera nos, quǽsumus Dómine, ab ómnibus malis, prætéritis, præséntibus et futúris :
et intercedénte beáta et gloriósa semper Vírgine Dei Genitríce María, cum beátis Apóstolis tuis Petro et Páulo, atque Andréa, et ómnibus Sanctis, da propítius pacem in diébus nostris :
ut, ope misericórdiæ tuæ adiúti, et a peccáto simus semper líberi et ab omni perturbatióne secúri.
Per eúndem Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum.
Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti Deus.
Per omnia sǽcula sæculórum. R/. Amen.

「主よ,願わくは,過去,現在,未来のすべての悪からわれらを救い給え.
終生童貞なる永福の,聖母マリア,使徒聖ペトロ,パウロ,アンドレア,および諸聖人のとりつぎにより,御慈悲をもって日々われらに平安を与え,
御あわれみを下して,われらを罪よりすくい,われらをまどわすものより解き放ち給え.
その同じわれらの主,イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,御身と共に生きかつ治め給う御子によりて,
世々に至るまで.」助祭/.「アメン」

・パンをさくことと,キリストの平和における一致 … Pax Domini (主の平安)

Pax + Dómini sit + semper vobís+cum.
R/. Et cum spiritu tuo.
「主の+平安,+いつも,あなたたち+とともにあれ.」
助祭/.「また,あなたの霊とともに.」

・聖なるパンを聖なるぶどう酒に加える‐復活と一致との神秘 … Hæc commíxtio (この平和)

Hæc commíxtio et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam. Amen.

(司祭は,御聖体の小片をカリスの中へ入れて小声でとなえる)
「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.アメン.」

・神の羔(こひつじ)にこい願う (神羔誦〈しんこうしょう〉)… Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : dona nobis pacem.

「世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらに平安を与え給え.」

・平安の接吻 … Domine Iesu (主イエズス)

Domine Iesu Christe, qui dixísti Apóstolis tuis : Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis :
ne respícias peccáta mea, sed fidem Ecclésiæ tuæ ;
eámque secúndum voluntátem tuam pacificáre et coadunáre dignéris :
Qui vivis et regnas Deus per ómnia sǽcula sæculórum. Amen.

「あなたたちに私の平安をのこす,私の平安を与えると,使徒らにおおせられた主イエズス・キリストよ,
私の罪をかえりみず,主の教会の信仰をかえりみ給え.
そして教会に平安を下し,聖なる御旨の如く,一致させ給え.
世々に生きかつ治め給う神よ,アメン.」

・聖体拝領の間近き準備 … Domine Iesu (主イエズス)Percéptio (拝領し奉る)

Domine Iesu Christe, Fili Dei vivi, …
「活ける神の御子イエズス・キリストよ…」

Percéptio Córporis tui, Dómine Iesu Christe, quod ego indígnus súmere præsúmo, …
「主イエズス・キリスト,不肖の私は,あえて御体を拝領し奉る.…」

・司祭が,両形色のもとに,聖体を拝領する … Panem cæléstem(天のパンを)Corpus Dómini (主の御体)Quid retríbuam (何をもって主に報いてよかろうか)Sanguis Dómini (主の御血)

Panem cæléstem accípiam, et nomen Dómini invocábo.
「私は,天のパンを受け,主の御名をこい願う.」

Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(司祭は胸を打ちながら,献身的にまたけんそんな心で,小声でとなえる)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」(三度繰り返す)

Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,私の霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」

Quid retríbuam Dómino pro ómnibus quæ retríbuit mihi ?
Cálicem salutáris accípiam, et nomen Dómini invocábo.
Láudans invocábo Dóminum, et ab inimícis meis salvus ero.
「私に与え給うたすべての善に,私は何をもって主に報いてよかろうか.
私は救いのカリスをとり,主の御名をこい願う.
主の讃美をうたいつつ,こい願おう.そうすれば,私は敵の手の中より救い出されるであろう.」

Sanguis Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「願わくは,われらの主イエズス・キリストの御血が,私の霊魂を,永遠の生命に守り給わんことを.アメン.」

・信者の聖体拝領

Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccáta mundi.
「世の罪を除き給う神の小羊を見よ.」

Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(御聖体を受ける者は胸を打ちながら三度となえる.)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」

(各信者は,祭壇の前にひざまずく)

Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam tuam in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は各信者の前に御聖体を示し,御聖体で十字架のしるしをしながらとなえ,授ける.)
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,あなたの霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」

D. 浄めの式から最後の聖福音まで (感謝の部)

・聖器具の始末 … Quod ore súmpsimus, Dómine,(主よ,口で拝領し奉ったものに…)

・司祭は指を洗う … Corpus tuum Dómine, (主よ,御体と)

・聖体拝領の聖歌 … Communio (聖体拝領誦)

・終りの祈り … Postcommunio (聖体拝領後の祈)


Ⅶ.退散と最後の祈:

・ミサの終りを告げる(終祭誦)… Ite, missa est.

Ite, Missa est. または Benedicámus Dómino.
「行け,ミサは終った.」

・信者は神に感謝する(主を讃美しよう) … Deo gratias (神に感謝し奉る)

・いけにえの祭壇を去るに当り,司祭はけんそんに祈る … Pláceat (よみし給え)

Pláceat tibi, sancta Trinitas, obséquium servitútis meæ:
「聖なる三位一体よ,下僕なる私の聖役をよみし給え…」

・最後の祝福 … Benedícat (祝福し給わんことを)

Benedícat vos omnípotens Deus, Pater, et Fílius, + et Spíritus Sanctus. R/. Amen.
「全能の神が,あなたたちを祝福し給わんことを,聖父と+(一同十字架のしるしをする)聖子と,聖霊とによりて.」助祭/「アメン.」

・最後に福音書を読む … In principio (元始に)

V/. Dóminus vobíscum.
R/. Et cum spíritu tuo.

(Et signans signo crucis primum Altare vel librum, deinde se in fronte, ore et pectore, dicit :)
+ Inítium sancti Evangélii secúndum Ioánnem.
R/. Gloria tibi, Domine.

司祭/. 「主は,あなたたちとともに.」(会衆は起立する)
助祭/. 「また,あなたの霊とともに.」

(司祭は,額と口と胸に親指で小さな十字架のしるしをして言う)
+ヨハネによる聖福音の序.
助祭/. 「主に栄光あれ.」

Ioann. 1, 1-14

In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt.

Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine.

Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In propria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui crédunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Genuflectit dicens) : Et Verbum caro factum est, (Et surgens prosequitur) : et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis.


ヨハネによる聖福音・第1章1-14節

元始(はじめ)にみことば(御言葉)があった.御言葉は天主(神)とともにあった.みことばは天主であった.彼(かれ)は,元始に天主とともにあり,万物は彼によって造られた.造られた物の中(うち)に,一つとして彼によらずに造られたものはない.彼に生命があり,生命は人間の光であった.光は闇(やみ)に輝いたが,闇は彼を悟らなかった.

さて,天主から遣(つか)わされた人がいて,その名をヨハネといった.この人は,光を証明するために来た,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は,光ではなく,光を証明するために来た.

すべての人をてらす真(まこと)の光は,まさにこの世に来つつあった.みことばは世にあり,世はみことばによって造られたが,世は彼を知らなかった(みことばを認めなかった).みことばは,ご自分の家に来給うたが,その族(人々)はうけいれ(受け入れ)なかった.しかし,その方をうけいれた人々には,みな,天主の子となれる能力(権利)を授(さず)けた.そのみ名を信じるすべての人たち,それは,血統によらず,肉体の意志によらず,人の意志によらず,ただ天主によって生まれた人々である〈ここで片膝を付く〉.

みことばは肉体となって,〈立ち上がる〉われわれの中(うち)に宿り給うた(住まわれた),我々はその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理とに満ちておられた.

R/. Deo grátias.
助祭/「神に感謝し奉る.」


* * *
(毎日のミサ典書(全ローマ・ミサ典書〈ラテン・仏・英(1962年)・日本(1955年)語訳〉を参照)
* * *

2011年5月4日水曜日

真の教皇か? - その1

エレイソン・コメンツ 第198回 (2011年4月30日)

3週間前 (4月9日付エレイソン・コメンツ第195回) に私が前教皇ヨハネ・パウロ2世の 「列福」 “beatification” はただ単に前教皇を 「新しい教会」 “the Newchurch” の 「新しい福者」 “a Newblessed” にするにすぎないと述べたことから,私はいわゆる 「教皇空位主義者」 “a sedevacantist” なのではないかというもっともな質問を受けました.結局のところ,もし私が現教皇ベネディクト16世は 「新しい教皇」 “a Newpope” だと事実上宣言するとすれば,どうして私はそれでもなお現教皇が真の教皇 “a true Pope” であると信じることができましょうか? 実際のところは,私は現教皇が公会議主義下の教会の 「新しい教皇」 であると同時にカトリック教会の真の教皇でもあると信じています.なぜならこの二者のいずれも依然として相手を完全に排除していないからです.したがって私はいわゆる教皇空位主義者ではありません.その論拠の最初の部分を以下に述べます:--

一方で,私は現教皇ベネディクト16世を正当な教皇だと認めています.なぜなら現教皇は2005年に行われたコンクラーベ (訳注・ “conclave” = 教皇選挙 〔秘密〕 会議) で,ローマの教区司祭たち,すなわち枢機卿たちによりローマ司教として正当に選任されておられるからです.仮に多少の隠された不備があって選挙そのものが無効なものだったとしても,カトリック教会の教える通り,結果として全世界のカトリック教会により教皇と認められたことで現教皇の地位は追認されているのです.ということであれば,私は現教皇ベネディクト16世に対しキリストの代理者としてのあらゆる尊敬,崇敬,支持を表すつもりです.

他方で,ローマ教皇としての言動から彼が 「公会議主義を是(ぜ)とする」 教皇 ““Conciliar” Pope” であり,その公会議主義下の教会の長であることは明らかです.単にそれを示す最近の明白な証拠を挙げれば,ひとつは明日行われる第二バチカン公会議の偉大な推進者である前教皇ヨハネ・パウロ2世の「新しい列福」 “Newbeatification” であり,もうひとつは来る10月に予定されているヨハネ・パウロ2世提唱の1986年の惨憺(さんたん)たるアッシジ行事 “disastrous Assisi event of 1986” の記念式典です.これらはいずれも,人間の造り出した公会議主導のキリスト教統一運動 “man's Conciliar ecumenism” の名の下に神の十戒の第一戒律を破るものです.この第一戒律がすべての誤った諸宗教を排除するのに対し (第二法の書(申命)5章7-9節) (訳注後記),第二バチカン公会議は事実上それらすべてを受け入れています ( 「エキュメニズム (教会統一〈一致〉) に関する教令」 “Unitatis Redintegratio” , 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” ).したがって,現教皇ベネディクト16世はキリストの代理者として存在しながら,同時に同胞のカトリック信仰を強め固めるという自分自身の神聖な機能を裏切っているのだと私は考えます (ルカ聖福音22章32節) (訳注後記).ですから私は現教皇をペトロとして十分に尊敬しますが,現教皇がペトロのように振舞わない場合には現教皇に従ったり服従することはしないつもりです (使徒行録5章29節) (訳注後記).これはルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” がなされた区別です.

だが - 少なくとも客観的に見て - 現教皇ベネディクト16世は真の宗教を裏切っていながらも同時にそれに固執していることに注目して下さい! 例えば,第三回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジIII) が第一回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジI) のように諸宗教を一緒くたに混ぜ合わせていると非難されるのを防ぎたいがため,現教皇は諸宗教の代表者たちを集め彼らと合同で公開のアッシジへの巡礼を沈黙のうちに行うことを予定しています.言い換えれば,ベネディクト16世は誤りを推し進める間でさえ真理を見捨てるつもりはないのです! そして彼は常にこのやり方で,2+2は4にも5にもなり得ると主張する算術家に似た存在となっています! 教皇から発しているだけに,このやりかたはカトリック教会を上から下まで混乱させるレシピとなっています.というのも,教皇のこの4か5の「算術」に従う者は誰でも,頭の中で完全な矛盾と混乱に振り回されてしまうことになるからです!

だが算術家としての教皇ベネディクト16世は,自分は2+2=4だと信じていると断固主張されていることに注目して下さい.そして,現教皇のこの主張が誠実である限り,またそれは確かに誠実に見えますが - 神のみぞお知りになることです - ベネディクト16世はカトリック教の真理と定義されるあらゆる真理を故意に否認しておられるわけではないのです.むしろ教皇は,ティシエ司教 “Bishop Tissier” がお示しの通り,現代的思考法の助けを借りてその真理を「生まれ変わらせようとしている」と自ら確信しておられます! このことが公式な異端だとの非難を教皇にあてはめることを難しくしています.たとえ教皇が2+2=5を好みそれを推し進めていても,私自身がまだ教皇空位主義者になっていないのはそのためです.

神の御母よ,上智の座よ,私たちを混乱から守り給え!
(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフの訳注:

① (旧約聖書・第二法の書(申命):第5章7-9節) (5節後半-10節を記載)
(十戒)
『神はこう仰せられた,
〈*私はおまえたちの神なる主である.エジプトの地,奴隷の家からおまえたちを連れ出したのは私である.
私以外の神々を礼拝してはならぬ.
上は天にあるものから,下は地にあるもの,地の下の水の中にあるものまで,それらのものに似た形の像を刻むな.おまえたちはそれらの前にひれ伏すことも奉仕することもならぬ.
主なる私は,おまえの神だからである.私を憎む者には,父の罪を子に三代四代の世代までもずっと罰するねたみ深い神であるが,私を愛しておきてを守る者には,千代(ちよ)までも下って慈愛を示す.…』

(注釈)
*十戒は神との契約の土台である(旧約・脱出の書20・6-17).第二法では脱出の書以上に「神への義務と隣人への義務」を主張している.
預言者もイエズスもともに十戒を守ることが永遠の生命への道と教え(新約・マテオ聖福音19・16-19),神と隣人との道を分け得ざるものとして説いている(マテオ22・36-40,ルカ聖福音10・25-37).

* * *

② (新約聖書・ルカ聖福音書:第22章32節(太字下線部分)) (第22章1-38節を記載)
(策略)
『さて,*過ぎ越しと言われている種なしパンの祭りの日は近づいた.司祭長と律法学士たちは,イエズスを亡き者にする方法を探していた.彼らは民衆を恐れていたからである.
ところが,十二人の一人だったイスカリオトと呼ばれるユダにサタン(悪魔)が入ったので,ユダは司祭長たちと番兵のかしらたちのところへ行って,イエズスを渡す方法について相談した.喜んだ彼らは,ユダに金をやろうと約束した.ユダは承知して,群衆が知らぬ間にイエズスを渡す好いおりをうかがっていた.

(注釈)
*ヘブライ人がエジプトを逃げたとき,パンをふくらす暇さえもなかったので,その記念として過ぎ越しの祭りの八日間,パン種のないパンを食べる習慣となった.

(最後の晩餐と聖体)
*¹過ぎ越しのいけにえを供える種なしパンの日が来た.イエズスはペトロとヨハネを遣わすにあたり,「私たちの食事のために過ぎ越しの準備をしに行け」と言われた.彼らが「どこに準備すればよろしいでしょうか」と聞いたので,イエズスは、「市中に入ると水瓶(がめ)を持っている人に出会うから,その人の入る家について行き,家の主人に,〈先生が"弟子たちとともに過ぎ越しの食事をする部屋はどこか"と申されていました〉と言え.すると,主人は席を整えた二階の大広間を見せてくれるから,そこに準備せよ」と言われた.
彼らが行ってみるとイエズスの言われたとおりだったので,過ぎ越しの準備をした.

時刻が来たので,イエズスは使徒たちとともに食卓につかれた.
そして,「私は苦しみの前に,あなたたちとともにこの過ぎ越しの食事をしたいと切に望んでいた.私は言う.神の国でそれが完成するまで,私はもう*²これを食べない」と言われた.
*³そして杯を取り,感謝して「これを取って互いに分けよ.私は言う.神の国が来るまで,これからのち,私はもうぶどうの実の汁を飲まぬ」と言われた.
またパンを取り,感謝して裂き,弟子たちに与え,「これはあなたたちのために与えられる私の体である.私の記念としてこれを行え」と言われた.
食事ののち,杯(さかずき)も同じようにし,「この杯は,あなたたちのために流される私の血による新しい契約である
.私を裏切る者は,私とともに手を食卓においている.人の子(イエズス)は,定められたとおりに去る.だがそれを裏切る者は災(わざわ)いである」と言われた.
そんなことをするのは,われわれの中のだれだろうかと弟子たちは尋(たず)ね合っていた.

(注釈)
*¹種なしパンの第一日は,ニサン月の十五日で,その前夜,ユダヤ人は小羊をほふって食べた.しかし,種のあるパンは,十四日の昼までになくしてしまうはずなので,この日(十四日)を種なしパンの日と呼び慣れてきたのである.

*²イエズスはもうこの世で過ぎ越しの祭りを行うことはない.イエズスの過ぎ越しの祭りは,み国の霊的生活の中心である聖体において行われる.そして完成するのは天の国においてである.

*³この聖体制定の記述はパウロ(新約・コリント人への手紙(第一)11・23-25)によく似ている.

(弟子たちへの戒め)
また,彼らの間で,だれがいちばん偉いのだろうかという争いが起こった.
イエズスはこう言われた,「異邦人の国では王がその民を支配し,またその国々で権力を振るう人々は*¹恩人と言われるが,あなたたちはそうであってはならぬ.
あなたたちの中でいちばん偉い者は年下のようになり,支配する者は給仕する者のようにならねばならぬ
.食卓につく者と給仕する者とどちらが上だろうか.食卓につく者ではないか.私はあなたたちの間で給仕する者のようである.
私の試みの間あなたたちは絶えず私とともにいたのであるから,父が私のために王国を備えられたように,私もまたあなたたちのために王国を備えよう.あなたたちは私の王国の食卓で飲食し,また王座についてイスラエルの十二族をさばくであろう.

シモン(ペトロ),シモン,サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰がなくならぬようにと(父なる神に)祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟たちの心を固めよ」.

(注釈)
*¹エジプトのプトレマイオ家の王らは,家臣から「恩人」と呼ばれた.

*²(32節)カトリック神学は,ペトロの後継者の教導権と不可謬(ふかびゅう)性を証明するために,このところを挙げる.

(ペトロの否みを預言された)
シモンは「主よ,私はあなたとともに牢獄にも死にも行く覚悟です」と言ったが,イエズスは,「ペトロよ,私はあなたに言う.今日雄鶏(おんどり)が鳴くまでに,あなたは私を知らぬと三度否むだろう」と言われた.

弟子たちには「財布も袋も履物(はきもの)も持たせずにあなたたちを遣わしたとき,不足のものがあったか」と言われた.かれらは「まったくありませんでした」と答えた.
そこでイエズスは,「*¹しかし今財布を持っている者はそれを持ち,袋を持っている者もそうせよ.また剣(つるぎ)を持たぬ者は,服を売って剣を買え.私は言う.*²〈彼は罪人の中に数えられた〉と記されていることは,私において成し遂げられる.私に関することはまさに実現しようとしている」と言われた.
弟子たちは,「主よ,ごらんください.ここに剣が二振り(ふたふ)りあります」と言ったが,主は,「*³もうよい」と答えられた.

(注釈)
*¹今まで彼らはイエズスの弟子としてもてなされたが,これから(聖週間・聖木曜日から)はちがう.そのイエズスの弟子であるために憎まれ,迫害されるであろう.彼らはすべての手段を尽くして,悪人の暴力を防がねばならない.しかしこのことばをそのままにとってはならない.イエズスは暴力に暴力を返せとは言わない.ただ近い迫害の苦しみをあらかじめ教えようとされた.

*²〈旧約〉イザヤの書53・12参照.

*³イエズスは,弟子らが自分の話を理解できなかったのを見て,話を中止し,「もうよい」と言われた.まもなくゲッセマニにおいて,弟子らにもイエズスのことばがわかるであろう.

* * *

③ (使徒行録5章29節(太字部分))(12-42節を記載)

『使徒たちによって,多くの奇跡と不思議が人々の中で行われていた.信者たちはともにソロモンの廊下に集まっていた.*¹ほかの人々はだれ一人として彼らとあえて交わろうとしなかったが,人人は彼らを非常に賞賛していて,*²主を信ずる男女の群衆はますます増えつつあった.人々は病人たちを道に運び出すほどになり,寝台や担架に乗せ,ペトロが通るとき,せめてその影に覆われようとした.*³イェルザレム付近の町々からも群衆が集まり,病人と汚れた霊に悩まされる人々を連れてきた.彼らはみな治された.

すると,大司祭とその一味すなわちサドカイ派の人々は,ねたましさにかられて立ち上がり,使徒たちに手をかけて牢に投じた.
ところが,夜中に主の天使が牢の戸を開き,彼らを外に連れ出して,「行きなさい,神殿に立って*⁴命のことばをすべて人々に語りなさい」と言った.これを聞いた彼らは,夜明けに神殿に入って教え始めた.
さて大司祭とその一味は集まり,衆議員とイスラエルの子らの長老たちを呼び集め,使徒たちを連れてこいと牢に人を送った.番兵たちは行ったが,彼らが牢の中にいないのを知ったので,帰ってきて,「牢が固く閉ざされて,戸の前に番兵が立っているのを見ましたが,開きますと,中にはだれもいませんでした」と知らせた.*⁵これを聞いて神殿守衛長と司祭長たちは何のことだろうと当惑した.
そのときある人が来て,「あなたがたが牢に入れたあの人たちは神殿に立って人々に教えています」と告げた.早速,神殿守衛長は番兵を連れてそこへ行き,暴力を用いずに彼らを連れてきた.*⁶人々に石殺しにされるのを恐れたからである.

彼らを衆議所の中に立たせて,大司祭は尋(たず)ねた,「私たちは*⁷あの名で教えるなと正式に禁じておいた.それなのにあなたたちは,イェルザレム中を自分たちの教えで満たしたではないか.そうして私たちの上にあの人の血を負わせようとするのか」.
ペトロと使徒たちは答えた,「人間よりも神に従わねばなりません.私たちの先祖の神は,あなたたちが木につけて殺したイエズスをよみがえらせたまいました.*⁸神は,痛悔と罪のゆるしをイスラエルに与えるために,右の御手をもって,イエズスをかしらとし救世主として上げられました.私たちはこのことの証人です.そして神がご自分に従う者に与えたもう聖霊もまたその証人です」.彼らはこれを聞いて激しく怒り,殺そうとたくらんだ.

そのとき,一人の人が議場に立ち上がった.それはファリザイ人の律法学士*⁹ガマリエルといい,人々に大いに尊敬されている人であった.
彼は使徒たちをしばらく外に出すように命じ,議員たちに話し始めた,「イスラエルの人々よ,彼らに対してすることについてよく考えてください.前には,傑物と称して*¹⁰テウダスが起(た)ち,四百人くらいの人々を従えましたが,彼は殺され,つき従った人々は散らされて跡形もなくなりました.その後,人口調査のとき,ガリラヤ人のユダがたって人々を誘いましたが,彼も死に,従った人々もみな散らされました.
私は今あなたたちに言いたい.あの人々にかかわりなさるな.そして,するままにさせておきなさい.彼らの企(くわだ)てあるいは仕業が人間からのものなら,おのずから崩れるでしょうし,反対に神からのものなら,あなたたちはそれを崩すことができません.おそらく神に逆らう者になる危険があります」.
彼らはその意見に従い,使徒たちをふたたび呼び入れて鞭(むち)打ち,イエズスの名によって話すなと禁じて去らせた.

*¹¹使徒たちはみ名のために辱(はずかし)められるに足るものとされたことを喜びながら,衆議所を去った.*¹²そして毎日,神殿と家々で教えを説き,イエズスはキリストであるとのべ続けた.

(注釈)

使徒らの宣教の奇跡 (5・12-16)
*¹「ほかの人々」とは高位の人々を指すようである.

*²「ますます多くの信者が主に加わった.男女の大群衆であった」という訳もある.

*³ 奇跡を行う力は,新しい教えが神からのものであることを示す.

使徒らの二度めの逮捕 (5・17-33)
*⁴ 恩寵の生命を生むイエズスの教えである.宣教の目的は,「救い」(4・12,11・14,15・11),「主のみ名をこいねがう人々」(2・40,47,7,4・12)に約束されている「命」(3・15,11・18,12・7-10,16・25-26)である.

*⁵ 超自然的な事件だと知って当惑した.そのために使徒らの裁判をやり直す時には,どうして牢を出たかを尋ねようとしない.

*⁶ 民は彼らから恵みを受けて非常に尊敬していた.

*⁷ 大司祭は,「イエズス」という名を避けて言わない.

*⁸衆議所はイエズスを亡き者にしようとしたが,神は主とし救い主としてイエズスを立てた.ペトロは,みなを代表して,勇敢にイエズスがメシアであると宣言する.

使徒らの釈放とガマリエル (5・34-42)
*⁹ パウロ(22・3)の師で,有名なラビの一人であった.ある伝えによると,このラビは信者になったといわれる.

*¹⁰ テウダスは,ガリラヤのユダと同様に,ユダヤ人の煽動者,熱狂的愛国者として歴史に名を残した.

*¹¹ 使徒たちは,み名のために苦しみ(21・31,ペトロの手紙(第一)4・14,ヨハネの手紙(第三)7節),み名を宣教する(4・12,17・18,5・28,40).そして,キリスト信者は,み名を希う(9・14,21,22・16).

*¹² メシアたるイエズスを全世界に伝えることは,彼らの生活の唯一の使命であった.

* * *

最終パラグラフの訳注:

「上智の座」 “Seat of Wisdom” ( “Sedes sapiéntiæ” ) について:
カトリック祈祷文「聖マリアの連禱(れんとう)」 “Litaniæ Lauretanæ Beatæ Mariæ Virginis” の中で唱えられる聖マリアの称号の一つ.

・「上智」…〈ギリシア語 “Σοφία (sophiā)” 〉に由来する.真の知恵=神を恐(畏)れること.

・『知識と知恵のすべての宝はキリストに隠されている.』
(使徒パウロのコロサイ人への手紙・第2章3節)


(旧約聖書・格言の書より)

第1章 イスラエルの王,ダビドの子ソロモンの格言,
これは*¹知恵と教養を学ばせ,
深いことばを理解させ,
賢い教えを受けさせ,
正義と公平と方正と,
世慣れない人に世渡りと,
若い人たちに知識と分別を知らせ,
格言とむずかしい警句と,
知恵ある人の金言となぞを理解させる.
知恵ある人もそれを聞いて知識を深め,
賢い人も指導の道を知るだろう.
*²神を恐れることが知識のもとなのに,
愚か者は知恵と教養を軽んじる.
わが子よ,あなたは父のいいつけを聞き,
母の教えをあなどるな.
それはあなたの頭の愛らしい冠となり,
首の飾りとなろう.
わが子よ,悪人があなたを誘惑しても,
それに負けるな.
もし彼らが,
「われわれといっしょにくるがよい,
人の血を流すわなをかけ,
罪のない人に理由なく悪だくみをし,
*³黄泉(よみ)のように,彼らを生きたままのみこみ,
墓に下る人のように,丸のままのみ下そう,
われわれはいろいろ宝物を見つけるだろうから,
分捕ったもので家をいっぱいにしよう,
おまえもわれわれとともにくじ引きし,
みなで一つの財布を持とう」
といったとしても,
わが子よ,彼らといっしょに行かず,
その道から足を遠ざけよ,
*⁴(彼らの足は悪に走り,
血を流そうと急いでいるからだ.)
*⁵翼あるものの目の前で,
網を張ってもむだなことだ.
彼らは自分の命にわなをかけ,
自分がたくらみにひっかかる.
略奪で利をむさぼる人の末路は,みなこのように,
その持ち主を滅ぼしてしまう.
知恵は道で叫び,
広場で大声を上げ,
城壁の上から呼びかけ,
町の門の入口で話しかける.
「*⁶幼い者よ,いつまで幼いことを好むのか.
あざける者は,いつまであざけることを楽しみとし,
愚か者は,いつまで知識を憎むのか
.
私の叱責に耳をかすがよい.
私はあなたたちに心をうち明け,
私の考えを知らせたい.
私は呼んだが拒絶され,
腕をのばしたが,だれもそれに気をとめなかった.
あなたたちは私の勧めをあなどり,
叱責を受け入れなかった.
だからいま,私もあなたたちの滅びを見て喜び,
恐怖が襲いかかるとき笑おう.
嵐のように,あなたたちに恐怖が襲い,
つむじ風のように,滅びがくるとき,
*⁷(試練と悩みとがかぶさるとき),
そのとき,彼らは私を呼ぶが,私は答えず,
さがしても見つかるまい.
知識を憎み,
神への恐れを心にとめず,
私の勧めを受け入れず,
叱責をあなどった彼らは,
迷いの実を味わい,
自分の考えで腹を満たすだろう.
無分別な者の迷いは自分を殺し,
愚か者の冷淡は自分を滅ぼすが,
私のいうことを聞けば,平和に生き,
どんな不幸も恐れず,安らかだろう」.

(注釈)

この書の主題と目的 (1・1-7)
*¹ 知恵とは徳をもとにして,生活を正しく送ることである.

*² 神への信心と同じ意味である.これが正しい生活の基盤である.このことばはこの書の主題である.

悪い仲間を避けること (1・8-19)
*³ ヘブライ語のシェオル.死後の霊魂の住みか.

*⁴ この節は,アレクサンドリア写本以外のギリシア語にはない.イザヤ (59・7) による書き入れらしい.

*⁵ 人々の口に伝わっていた格言.鳥は狩人が網を置くのを見ると,それにかからないという意味である.若い人たちにも危険を知らせておけば,それを避けることができる.

知恵の呼びかけ (1・20-33)
*⁶ 年齢が幼いことではない.教育と徳とのない幼稚(ようち)な人のこと.

*⁷ のちの書き入れらしい.


第2章 わが子よ,私のことばを迎え入れ,
戒めを宝のように守り,
*¹知恵に耳を傾け,
真理に心を開き,
また分別を願い,
知識に声をかけ,
銀のようにさがし求め,
宝物のように掘り出せば,
*²あなたは神を恐れることを理解し,
主を知るようになるだろう.
実に,知恵を与えるのは主であり,
知識と分別は主の御口から出る.
神は正しい人に保護を下し,
誠実に歩む人の盾となられる.
神は正義の道を守り,忠実な人の道を保護される
.
そうすれば,あなたは正義と厚生と方正と,
つまり幸せに向かう道をすべて理解できるだろう.…

(注釈)

知恵のある人の幸せ (2・1-9)
*¹ 知恵,真理,分別,知識はそれぞれの見方での「徳」のことである.

*² 徳をもつ人だけに,宗教がわかる.悪は理性と心を汚すものである.


第3章 わが子よ,私の教えを忘れず,私の教訓を心にとめよ.
それはあなたの日を長くし,生命と安楽な年月をもたらす.
*¹温良と誠実を失わず,
それを首にかけ,心の板に書き記せ.
そうすれば,あなたは神と人とに,
好意をもたれ,成功するに至る.
心をあげて神を信頼し,
自分の意見に頼るな.
足どりの一歩ごとに神を考えれば,
神はあなたの道をならしてくださる.
自分を知恵ある者だと思わず,
神を恐れ,悪を避けよ
.
それは,あなたの体を健康にし,
骨をさわやかにする.
*²自分の財産や
所得の初物をささげて神を尊べば,
あなたの倉には麦が満ち,
酒だるには新しいぶどう酒があふれる
.

*³わが子よ,神のこらしめをあなどらず,
神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.
なぜなら,神は愛するものをこらしめ,
いちばん愛する子を苦しめたもうからである
.
知恵を見出した人は,
分別をもつ人は幸いである.
彼がそれを得たことは,
銀を手に入れるよりも値打があり,
その収入は純金よりも高価である.
知恵は真珠よりも尊く,
あなたの望む何ものもそれとは比べられぬ.
その右の手には長寿があり,
その左の手には富と名誉がある.
その道には歓喜があり,
その小道は平和である.
知恵は,そこによりかかる人にとっては生命の木であり,
それを握る人は幸せになれる.
*⁴神は知恵をもって大地を築き,
分別をもって天を固め,
その知識によってふちは掘られ,
雲から露がしたたる
.

わが子よ,それらのことを見失わず,
慎重と反省を保て.
それはあなたの魂に命を与え,
首の飾りとなる.
そうなれば,あなたは安心して道を歩み,
足はつまずかない.
あなたは休息をとるときに恐れず,
眠るとき,その眠りは安らかだろう.
突如としてくる恐怖を恐れず,
悪人の攻撃も恐れるな.
神があなたの支えとなり,
あなたの足をわなから守って下さるからだ
.

できることなら,あなたに物を頼む人の願いを,
拒んではならぬ.
できることがあるなら,*⁵隣人に,
「出直してくれ,明日あげよう」というな,
隣人が,あなたと安心してつきあっているとき,
その人に悪いたくらみをしてはならぬ.
あなたに何の悪事もしない人なら,
その人と理由なく争ってはならぬ.
*⁶暴虐な人をうらやまず,
そのやり方をまねるな.
悪人は神に憎まれ,
神は正しい人と親しくされる.
よこしまな人の家には神ののろいがかかり,
正しい人の住まいには神の祝福がある.
あざける人は神からあざけられ,
へりくだる人は神の恵みを受ける.
知恵ある人は名誉を受け,
愚かな人は不興をかう.

(注釈)

正しい生活の結実 (3・1-10)
*¹ 神と人に対するやさしさ,善良さ.決心するとき,約束するときの誠実さ.

*² 初物をささげることは,神への崇敬の表現である.もちろん,祈ることもすすめてある.

知恵の尊さ (3・11-20)
*³ 神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.

*⁴ 知恵の路とは神である.宇宙の創造にも,秩序にも,神の知恵が現れている.

徳のある人の幸せ (3・21-26)

隣人についての戒め (3・27-35)

*⁵ 元来は,友人,仲間,近所の人など親しいつきあいをしている人のことであるが,この書の中では,「他人」を隣人といっている (6,1,3,29,27・17,25・9).敵を愛するまでに至らねばならぬ愛の教えの第一歩である (マテオ聖福音5・44-48,ルカ聖福音10・25-37).

*⁶ 暴虐な人,よこしまな人,あざける人,愚かな人などはいずれも神の敵である.これらの人々の,表面的な立身出世をユダヤ人はいつもうらやんでいた(24・1,19,詩篇73,エレミア書12・1,ヨブ書21・7).


第4章 子どもたちよ,父の教えを聞き,
真理を知ろうと心がけよ.
私は健全な教訓を授ける.
私の教えをあなどるな.
私も,私の父にとっては子であり,
母の目にはやさしいいとし子であった.
父は私によくこう教えてくれた,
「私のことばを心におさめ,
戒めを守れ,そうすれば生命が得られよう.
知恵をもち,分別をもち,
それを忘れることなく,
私の口のことばを遠ざけるな.
知恵を捨てるな,それがあなたを守ってくれる.
知恵をいとおしめ,それがあなたを保護してくれる
.
*¹知恵のもととして,知恵をもつようにせよ.
持ち物をすべてかけても,分別をもつようにせよ.
それを高く評価すれば,それがあなたを高めてくれる.
あなたがそれを抱けば,それはあなたの誇りとなろう.
その知恵はあなたの頭に愛らしい宝冠をおき,
光栄の冠を授けるだろう」.

子よ,私のことばを聞けば,
あなたの生命は長くなる.
私は知恵の道を教え,
まっすぐな小道にあなたを導いた.
*²それを歩けば,足は妨げを受けず,
走ってもつまずかない.
*³教養をしっかりと身につけ,それを手から離さず,
守れ,それはあなたの生命なのだ
.
よこしまな人の道に踏みこまず,
悪人の道を歩まず,
その道を避けて,通らず,
その道を遠ざかり,通りすぎよ.
彼らは悪事をしないと寝つかず,他人を陥れないと安眠しない.
*⁴彼らは不正のパンを食べ,
暴力のぶどう酒を飲む.
正しい人の道はあけぼのの光のようであり,
ますます輝きを増して真昼になるが,
悪人の道はやみで,
何につまずくか分からぬ.

わが子よ,私のいうことをよく聞き,
私のことばに耳を傾けよ.
私のことばを見失わず,
心の中にそれを保て.
そのことばは,それを迎え入れる人の生命となり,
その人の体を健やかにする
.
*⁵何にもまして,あなたの心を警戒せよ.
その心から,生命の泉があふれ出ているからだ
.
偽りの口をもたず,
ごまかしのくちびるを遠ざけ,

目は正面を見つめ,
視線をまっすぐに向けよ.
*⁶どこに足をおくかを見定め,
一歩一歩正しく歩み,
右にも左にも道を迷わず,
足を悪から遠ざけよ.

(注釈)

父の教え (4・1-9)
*¹ 知恵の第一歩は知恵をもつことの必要を知り,それを得ようと決心することである.

まっすぐな道 (4・10-19)
*² 徳をもつ人は,生活の困難をやすやすと越すことができる.

*³ 教養とは,風紀のよいこと,自分に対して厳しい反省を要求する徳の実行のことである.

*⁴この人たちはパンやぶどう酒を飲むのと同じように,不正で身を肥やしている.彼らが食べたり飲んだりするものは,不正と暴力によって得たものである.

人間の努力しなければならぬこと (4・20-27)
*⁵ 人の心は倫理生活のもとであるから,それを清く保つように努力しなければならぬ (マテオ聖福音5・19).

*⁶ 徳を行うに当たっては,熱狂して右に走ることも,なまけて左に曲がることも許されない.


* * *

2011年4月21日木曜日

新しい教会,新しい福者

エレイソン・コメンツ 第195回 (2011年4月9日)

5月1日,あと2,3週間ほど(訳注・本コメンツ投稿日現在からは1週間ほど)経つと,ローマのサンピエトロ広場で行われる盛大な祝典の中で,前教皇ヨハネ・パウロ2世が現教皇ベネディクト16世により「福者」 “Blessed” と宣言される予定です.だがカトリックの伝統に固執するカトリック信徒たちはヨハネ・パウロ2世教皇が,公会議主義下の教会の偉大な推進者であった一方で,カトリック教会の事実上の破壊者であったことも知っています.カトリック教会の列聖( “Church canonizations” )が無謬(むびゅう) “infallible” であるならば,前教皇がどうして,聖人となる前の最終段階( “the last step before being canonized” )たる「福者」と呼ばれうるのでしょうか? この疑問に即答すれば,前教皇ヨハネ・パウロ2世はカトリック教会におけるカトリックの列福によりカトリックの福者として列福されるのではなく( “will not be beatified as a Catholic Blessed by a Catholic beatification in the Catholic Church” ),新しい教会における新しい列福による新しい福者として( “as a Newblessed by a Newbeatification in the Newchurch” )列福されることになるということです.そして新しい教会の聖職者たち “Newchurchmen” は,彼らのなすことにつきその目新しさ “novelty” を主張する最初の人たちで,その不謬性 “infallibility” を主張する最後の人たちです.(訳注後記)

ここで,この新しい教会の性格を現代生活から得た比較をもとに例証してみましょう.高純度のガソリンはガソリン特有の匂い,味,機能を持っています.それによって自動車は走ることができます.純粋な水は水特有の匂い,味を持ち,その働きをします.自動車は水では走れません.ごく微量の水を混ぜたガソリンは依然としてガソリンの匂いと味がしますが,ガソリンとしては働かず - それによって自動車は走れません.微量の水がガソリンの可燃性を奪い取ってしまったのです.

純度の高いガソリンは例えていえば純粋なカトリシズム “Catholicism” (=カトリック教義)のようなものです - 極めて燃えやすいのです! この例えでは,純粋な水は何らのカトリシズムの形跡もとどめない純粋な世俗的人本主義( “secular humanism” )あるいは世界主義の宗教( “the religion of globalism” )に似ています.カトリシズムと世俗的人本主義は第二バチカン公会議およびそこで出した16の公文書の中で一緒に混ぜ合わされました.そのため公会議主義すなわち新しいカトリック教義( “Conciliarism, or Newcatholicism” )は,「良いカトリック信徒たち」に公会議による列福はそれ以前のカトリック教会の列福と同様に不謬性へ向かって順調に進んでいるのだと期待させるに十分なカトリシズムの匂いや味を依然として残しているように思えるかもしれません.だが実際には,少量の世俗的人本主義という混ぜ物はカトリシズムの健全な機能を止めるのに十分なのです.ちょうどガソリンの燃焼を止めるのに大量の水が必要でないのと同じです.

そういうわけで,新しい列福 “Newbeatifications” (訳注・公会議主義下の新しい教会の様式〈規定〉に則(のっと)った列福という意味)は,不用心で軽率なカトリック信徒の鼻孔(びこう)にはカトリック教の列福と似た味や匂いがするかもしれません.だが,よく見れば新しい列福が現実のものとは全く同じでないことは明らかです.有名な例を挙げます: 以前ではカトリック教会がある人につき列福を認めるためにはその人に関わる二つの否定し難い奇跡が起きた事実が要求されてきましたが,新しい列福が要求するのはただ一つの奇跡だけです.また列福を認めるための諸規則は他の面でも著(いちじる)しく緩(ゆる)められています.従って,カトリック信徒は新しい列福から生まれるのは新しい福者 “Newblesseds” 以外の何者でもないと考えるべきです.前教皇ヨハネ・パウロ2世はまさしく公会議主義の認めた「福者」なのです.

カトリック信徒を惑(まど)わし欺(あざむ)くのは,公会議主義下の教会に依然としてカトリシズムの諸要素が残っているからです.だがちょうど第二バチカン公会議がカトリシズム(純粋なガソリン)を公会議主義(水の混じったガソリン)に置き換えるべく考案したように,公会議主義はさしずめ世界宗教( “the Global Religion” )(純粋な水)に道を譲(ゆず)るべく考案されたものです.そのたどる行程は「神」から「新しい神」さらに「非神」( “from God to Newgod to Nongod” )へと進みます.今のところ依然として「新しいローマ」 “Newrome” は第二バチカン公会議の「新しい神」とそれに見合う「新しい福者」を推し進めていますが,やがて正真正銘の犯罪者が「非神」の「福者」と認められることでしょう.

だが,真の神は欺かれまいとする羊(=信徒)が欺かれるのをお許しになりません.さらに誰であってもまず自ら神を見捨てない霊魂を決して神がお見捨てになることはない,と聖アウグスティヌスは言い残しています.なんと素晴らしい言葉でしょうか!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第1パラグラフ最後の訳注:
無謬(むびゅう) “infallible” ,不謬性(ふびゅうせい) “infallibility” について.

・「無謬」=理論や判断にまちがいがないこと.

・教皇不謬性 “(papal) infallibility”

教皇が全カトリック教会の最高統治権をもつ司教として,信仰および道徳について正式な決定を下す場合,神の特別な保護によって誤ることがありえないとするローマ・カトリック教会の信条.第一バチカン公会議で信徒の信ずべきこととして定められた.教皇無謬性,不可謬権ともいう.

(ブリタニカ国際大百科事典参照)

2009年12月15日火曜日

混乱収拾に向けて

エレイソン・コメンツ第127回(2009年12月12日)

リエナール枢機卿が臨終の床で行ったとされる証言内容(エレイソン・コメンツ第121回)は,第二バチカン公会議の後で導入された公会議考案の秘跡授与の典礼によってカトリックの諸典礼の有効性がいかに危険にさらされてきたかということと正確に符節が合うので,容易に真実であると受け入れ得るのではないかという点を解明するのにエレイソン・コメンツ3回分を要しました(エレイソン・コメンツ第124,125,126各回).ある親切な批評家は私が公会議式の諸秘跡を過度に擁護していると考えています.しかし私はその無効性,有効性のいずれも誇張したいと考えていません.

真理を愛する理性的な人間であれば誰しも自分の精神を現実に合わせる以外のことをしようとは望まないからです.なぜなら,真理とは「精神と現実との一致」と定義されるからです.もし状況が黒なら私はそれを黒と呼びたいですし,白なら白と呼びたいです.もしそれが中間で色合いが微妙に変わる灰色であれば,私は心の中でその灰色を実際に見えている以上に灰黒色でも灰白色でもなく実際通りの正確な灰色に認識したいと思います.

さて,実生活において執行されたある一つの秘跡が有効もしくは無効たりえたことは事実です.有効と無効との違いは妊娠と不妊の違いとさして変わりません.しかし,もし公会議式の諸秘跡が常に世界中の「新しい教会」全体(訳注・ウィリアムソン司教の言われる「新しい教会」( “Newchurch” )とは,第二バチカン公会議で取り決められた新しい体制に則って運営される新形態の,すなわち1962年以降から今日に至るまで存続している,第二バチカン公会議下の新体制に則った「新しい形態のカトリック教会」を指している.)で執行されると私たちが見なすなら,私たちはただ,その一部は有効で一部は無効だとだけ言えば済むでしょう.しかし,それら公会議式の諸秘跡はどれもすべて神の宗教を人間の宗教に置き換えることを全面的に押し進める公会議考案の諸典礼によって神の秘跡が無効となるようひっそりと滑り込ませられてきたのです.このことがなぜ「新しい教会」が完全に消滅する過程にあるかということの理由であり,聖ピオ十世会が決してそこに吸収されるわけにはいかないことの理由なのです.

だが,たとえば司祭たちが滑り落ちる道筋のどの地点で教会とは何かについての正確な認識を失ってしまい,もはや教会のなすべきことを行う意向を持つこともできないほどに変わってしまったのでしょうか.このことを知るのは神のみです.多分その地点にたどり着くには私がエレイソン・コメンツ第125回でお示ししたより時間がかかるでしょう.親切な批評家が暗に言っているように,さほど時間がかからないかもしれません.いずれにしても,確かなことを知り得るのは神のみなのですから,私が知る必要はないわけです.私が心の中ではっきりと理解する必要があるのは,公会議考案の諸典礼が神の諸秘跡を神から遠ざける方向に運んだということです.かかる(公会議式の)典礼がカトリック教会の破壊を助長しているということ,それどころかむしろカトリック教会を破壊する目的で考案されたとすら言えることがいったん私にはっきりとわかったからには,私はそうした典礼を避けるべきでしょう.

その一方で,あちこちの司祭が,あるいはそれどころか「新しい教会」全体がどれほど滑り落ちているかについては,私は次の聖アウグスティヌスの偉大な原則に従って判断するつもりです.「(私たちの間では)必然確実なことでは一致(結束)を,(必然性につき)疑わしいことにおいては自由を,あらゆることに慈愛( “charity” )を.」そして,たとえば「新しい教会」内部では,既にすべてがカトリックでなくなってしまったわけでもすべてが依然としてカトリックのまま残っているわけでもないといったような確実なことについて,私は,同じカトリック信徒としての同胞である皆さんに対して不確かなものは何かを判断する自由を認めるつもりです.そして皆さんからも私に対して同じ自由を認めてほしいと望んでいます.神の御母よ,カトリック教会を救出する恵みを神に取り次いで下さい!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年11月30日月曜日

比類なき過失=その2

エレイソン・コメンツ 第125回(2009年11月28日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で,第二バチカン公会議が,その巧妙に仕組まれた曖昧さによって長期間のうちに結局は(「50年後に」と,リエナール枢機卿が臨終の床で明かした)聖職者にとって必要不可欠なサクラメンタル・インテンション(秘跡授与に際しての意向)を堕落させてしまうような秘跡授与の典礼を導入することによって教会の諸秘跡を無効にするために考案されたことをお示しするとお約束しました.しかし,第二バチカン公会議についての話は来週まで待たなければならないでしょう.今週は,秘跡授与を執り行う聖職者自身が教会とは何なのか,何をなすべきなのかについて,いかに根本から健全な考えを頭脳に持つ必要があるかを理解するため,私たちは人間の意図のメカニズムについてさらに詳しく考えてみる必要があります.

人が何かをしようと思うとき,あるいは何らかの目標を達成しようと考えるとき,その達成したいと思う目標についての考え(“an idea”)をあらかじめ頭に思い浮かべなければなりません.人は誰でも,実際まず頭に目標についての考えが浮かばない限りその実現に向かって行動することなどできません.言い換えれば,目標の達成についての考えがはっきりしているときだけ,つまり自分の頭で思い浮かべた考え(=目標達成のためのやり方)を通してだけ,人はその達成を目指して行動できるのです.ただし,頭の中の考えが頭の外の現実と一致することもあるでしょうし,しないこともあるでしょう.もし考えが現実に即していれば,人は目標を達成できますが,そうでなければ,考えは達成できても目標は達成できません.

一例を挙げましょう.子供たちを幸せにしたいと思う家庭の父親が,それを実現するアイディアとして家庭内のあらゆる規律を緩めて子供たちを甘やかそうと思いついたとします.悲しいかな,無規律は子どもたちを幸せどころか不幸にします.したがって,その父親が規律を緩めたとき彼は規律緩和というアイディアは達成しても子供たちの幸せという目標達成には至らないのです.彼が自分のアイディアをやり遂げてもその目標を達成できないのは,彼のアイディアが現実に即していないからです.

さて,秘跡が有効なものとなるには,先週説明したとおり,聖職執行者(司教,司祭あるいは一般信徒ないし一般人)が,すべての秘跡上の恩寵の唯一の源泉である神の根源的行為の下にその道具たる行為(訳注・当聖職者は神の道具である)を置くために,「教会のなすべきことを行う」意向をもつ必要があります.したがって,執行者は秘跡授与を執り行う前にまず「教会が何をなすべきなのか」についての考えをあらかじめ持つべきであり,そのことは自ずから教会とは何かについての考えを事前に持つことを要求します.そのとき,もし教会とは何かそして何をなすべきなのかについての彼の考えがカトリック教の本質に合致していなければ,執行者はどうやって真正のカトリック教会がなすべきことを行う意向を持つことができるでしょうか?そしてそれ(真正な意向を持つこと)が出来なければ,どうやって真正な秘跡を執行することができるでしょうか?もし執行者が,教会とは信者同士が互いに愛想のよい社交辞令を交わし合うクラブのようなものだと本心から考えているなら,そこで執行されるミサはその団体のピクニックであり,洗礼式はそこに加わるための入会式にすぎなくなります.その聖職執行者はピクニックと入会式をやり遂げるかもしれませんが,決してカトリックのミサ聖祭あるいは洗礼の秘跡という目標に達することはありません.

ここで,その聖職執行者は「教会がなすべきこと,これまで常になしてきたこと」を執り行う潜在的意向を持っていると反論する方もいらっしゃるでしょう.だが,それでも,そのサクラメンタル・インテンションは不確かなまま残るでしょう.例えば,新しい教会が「聖書解釈学的継続性」を言い出して以来このかた,カトリック教会と新しい教会との間,あるいはミサ聖祭とピクニックとの間に解釈上なんらの断絶もありえず,すべては調和のとれた発展としてのみ解釈すべきだとされています!したがって,ピクニックなしのミサ聖祭を執り行う意向も,ミサ聖祭なしのピクニックを楽しむ意向も,いずれも「マピクニス(原文 “Mapicniss”)」(訳注・→Mass+picnic.つまりミサとピクニックの合成語. )をもたらすための同一の意向を意味することになるというのです!このような「解釈学」によれば,現実には妥協不可能な事柄を何でも一切妥協させてしまうことができてしまうわけです!しかし,このような「解釈学」を念頭に置く者が現実に有効な秘跡を組み立てることなど可能でしょうか?アメリカ人風に言えば「何か変じゃないですか!(“Go figure!” )」と言いたくなります.神のみぞ知るです.

ここに教会中がほとんど絶望的な混乱に陥っている理由があります.どうしたら猫は猫であって犬ではなく,また犬は犬であって猫ではないという正常な認識の持ち方に再び聖職者たちを連れ戻すことができるでしょうか?それは一大異変です!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年11月2日月曜日

正当な司教?

エレイソン・コメンツ 第121回(2009年10月31日)

新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.

その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.

枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?

「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.

新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教