エレイソン・コメンツ 第198回 (2011年4月30日)
3週間前 (4月9日付エレイソン・コメンツ第195回) に私が前教皇ヨハネ・パウロ2世の 「列福」 “beatification” はただ単に前教皇を 「新しい教会」 “the Newchurch” の 「新しい福者」 “a Newblessed” にするにすぎないと述べたことから,私はいわゆる 「教皇空位主義者」 “a sedevacantist” なのではないかというもっともな質問を受けました.結局のところ,もし私が現教皇ベネディクト16世は 「新しい教皇」 “a Newpope” だと事実上宣言するとすれば,どうして私はそれでもなお現教皇が真の教皇 “a true Pope” であると信じることができましょうか? 実際のところは,私は現教皇が公会議主義下の教会の 「新しい教皇」 であると同時にカトリック教会の真の教皇でもあると信じています.なぜならこの二者のいずれも依然として相手を完全に排除していないからです.したがって私はいわゆる教皇空位主義者ではありません.その論拠の最初の部分を以下に述べます:--
一方で,私は現教皇ベネディクト16世を正当な教皇だと認めています.なぜなら現教皇は2005年に行われたコンクラーベ (訳注・ “conclave” = 教皇選挙 〔秘密〕 会議) で,ローマの教区司祭たち,すなわち枢機卿たちによりローマ司教として正当に選任されておられるからです.仮に多少の隠された不備があって選挙そのものが無効なものだったとしても,カトリック教会の教える通り,結果として全世界のカトリック教会により教皇と認められたことで現教皇の地位は追認されているのです.ということであれば,私は現教皇ベネディクト16世に対しキリストの代理者としてのあらゆる尊敬,崇敬,支持を表すつもりです.
他方で,ローマ教皇としての言動から彼が 「公会議主義を是(ぜ)とする」 教皇 ““Conciliar” Pope” であり,その公会議主義下の教会の長であることは明らかです.単にそれを示す最近の明白な証拠を挙げれば,ひとつは明日行われる第二バチカン公会議の偉大な推進者である前教皇ヨハネ・パウロ2世の「新しい列福」 “Newbeatification” であり,もうひとつは来る10月に予定されているヨハネ・パウロ2世提唱の1986年の惨憺(さんたん)たるアッシジ行事 “disastrous Assisi event of 1986” の記念式典です.これらはいずれも,人間の造り出した公会議主導のキリスト教統一運動 “man's Conciliar ecumenism” の名の下に神の十戒の第一戒律を破るものです.この第一戒律がすべての誤った諸宗教を排除するのに対し (第二法の書(申命)5章7-9節) (訳注後記),第二バチカン公会議は事実上それらすべてを受け入れています ( 「エキュメニズム (教会統一〈一致〉) に関する教令」 “Unitatis Redintegratio” , 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” ).したがって,現教皇ベネディクト16世はキリストの代理者として存在しながら,同時に同胞のカトリック信仰を強め固めるという自分自身の神聖な機能を裏切っているのだと私は考えます (ルカ聖福音22章32節) (訳注後記).ですから私は現教皇をペトロとして十分に尊敬しますが,現教皇がペトロのように振舞わない場合には現教皇に従ったり服従することはしないつもりです (使徒行録5章29節) (訳注後記).これはルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” がなされた区別です.
だが - 少なくとも客観的に見て - 現教皇ベネディクト16世は真の宗教を裏切っていながらも同時にそれに固執していることに注目して下さい! 例えば,第三回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジIII) が第一回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジI) のように諸宗教を一緒くたに混ぜ合わせていると非難されるのを防ぎたいがため,現教皇は諸宗教の代表者たちを集め彼らと合同で公開のアッシジへの巡礼を沈黙のうちに行うことを予定しています.言い換えれば,ベネディクト16世は誤りを推し進める間でさえ真理を見捨てるつもりはないのです! そして彼は常にこのやり方で,2+2は4にも5にもなり得ると主張する算術家に似た存在となっています! 教皇から発しているだけに,このやりかたはカトリック教会を上から下まで混乱させるレシピとなっています.というのも,教皇のこの4か5の「算術」に従う者は誰でも,頭の中で完全な矛盾と混乱に振り回されてしまうことになるからです!
だが算術家としての教皇ベネディクト16世は,自分は2+2=4だと信じていると断固主張されていることに注目して下さい.そして,現教皇のこの主張が誠実である限り,またそれは確かに誠実に見えますが - 神のみぞお知りになることです - ベネディクト16世はカトリック教の真理と定義されるあらゆる真理を故意に否認しておられるわけではないのです.むしろ教皇は,ティシエ司教 “Bishop Tissier” がお示しの通り,現代的思考法の助けを借りてその真理を「生まれ変わらせようとしている」と自ら確信しておられます! このことが公式な異端だとの非難を教皇にあてはめることを難しくしています.たとえ教皇が2+2=5を好みそれを推し進めていても,私自身がまだ教皇空位主義者になっていないのはそのためです.
神の御母よ,上智の座よ,私たちを混乱から守り給え!
(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注:
① (旧約聖書・第二法の書(申命):第5章7-9節) (5節後半-10節を記載)
(十戒)
『神はこう仰せられた,
〈*私はおまえたちの神なる主である.エジプトの地,奴隷の家からおまえたちを連れ出したのは私である.
私以外の神々を礼拝してはならぬ.
上は天にあるものから,下は地にあるもの,地の下の水の中にあるものまで,それらのものに似た形の像を刻むな.おまえたちはそれらの前にひれ伏すことも奉仕することもならぬ.
主なる私は,おまえの神だからである.私を憎む者には,父の罪を子に三代四代の世代までもずっと罰するねたみ深い神であるが,私を愛しておきてを守る者には,千代(ちよ)までも下って慈愛を示す.…』
(注釈)
*十戒は神との契約の土台である(旧約・脱出の書20・6-17).第二法では脱出の書以上に「神への義務と隣人への義務」を主張している.
預言者もイエズスもともに十戒を守ることが永遠の生命への道と教え(新約・マテオ聖福音19・16-19),神と隣人との道を分け得ざるものとして説いている(マテオ22・36-40,ルカ聖福音10・25-37).
* * *
② (新約聖書・ルカ聖福音書:第22章32節(太字下線部分)) (第22章1-38節を記載)
(策略)
『さて,*過ぎ越しと言われている種なしパンの祭りの日は近づいた.司祭長と律法学士たちは,イエズスを亡き者にする方法を探していた.彼らは民衆を恐れていたからである.
ところが,十二人の一人だったイスカリオトと呼ばれるユダにサタン(悪魔)が入ったので,ユダは司祭長たちと番兵のかしらたちのところへ行って,イエズスを渡す方法について相談した.喜んだ彼らは,ユダに金をやろうと約束した.ユダは承知して,群衆が知らぬ間にイエズスを渡す好いおりをうかがっていた.
(注釈)
*ヘブライ人がエジプトを逃げたとき,パンをふくらす暇さえもなかったので,その記念として過ぎ越しの祭りの八日間,パン種のないパンを食べる習慣となった.
(最後の晩餐と聖体)
*¹過ぎ越しのいけにえを供える種なしパンの日が来た.イエズスはペトロとヨハネを遣わすにあたり,「私たちの食事のために過ぎ越しの準備をしに行け」と言われた.彼らが「どこに準備すればよろしいでしょうか」と聞いたので,イエズスは、「市中に入ると水瓶(がめ)を持っている人に出会うから,その人の入る家について行き,家の主人に,〈先生が"弟子たちとともに過ぎ越しの食事をする部屋はどこか"と申されていました〉と言え.すると,主人は席を整えた二階の大広間を見せてくれるから,そこに準備せよ」と言われた.
彼らが行ってみるとイエズスの言われたとおりだったので,過ぎ越しの準備をした.
時刻が来たので,イエズスは使徒たちとともに食卓につかれた.
そして,「私は苦しみの前に,あなたたちとともにこの過ぎ越しの食事をしたいと切に望んでいた.私は言う.神の国でそれが完成するまで,私はもう*²これを食べない」と言われた.
*³そして杯を取り,感謝して「これを取って互いに分けよ.私は言う.神の国が来るまで,これからのち,私はもうぶどうの実の汁を飲まぬ」と言われた.
またパンを取り,感謝して裂き,弟子たちに与え,「これはあなたたちのために与えられる私の体である.私の記念としてこれを行え」と言われた.
食事ののち,杯(さかずき)も同じようにし,「この杯は,あなたたちのために流される私の血による新しい契約である.私を裏切る者は,私とともに手を食卓においている.人の子(イエズス)は,定められたとおりに去る.だがそれを裏切る者は災(わざわ)いである」と言われた.
そんなことをするのは,われわれの中のだれだろうかと弟子たちは尋(たず)ね合っていた.
(注釈)
*¹種なしパンの第一日は,ニサン月の十五日で,その前夜,ユダヤ人は小羊をほふって食べた.しかし,種のあるパンは,十四日の昼までになくしてしまうはずなので,この日(十四日)を種なしパンの日と呼び慣れてきたのである.
*²イエズスはもうこの世で過ぎ越しの祭りを行うことはない.イエズスの過ぎ越しの祭りは,み国の霊的生活の中心である聖体において行われる.そして完成するのは天の国においてである.
*³この聖体制定の記述はパウロ(新約・コリント人への手紙(第一)11・23-25)によく似ている.
(弟子たちへの戒め)
また,彼らの間で,だれがいちばん偉いのだろうかという争いが起こった.
イエズスはこう言われた,「異邦人の国では王がその民を支配し,またその国々で権力を振るう人々は*¹恩人と言われるが,あなたたちはそうであってはならぬ.
あなたたちの中でいちばん偉い者は年下のようになり,支配する者は給仕する者のようにならねばならぬ.食卓につく者と給仕する者とどちらが上だろうか.食卓につく者ではないか.私はあなたたちの間で給仕する者のようである.
私の試みの間あなたたちは絶えず私とともにいたのであるから,父が私のために王国を備えられたように,私もまたあなたたちのために王国を備えよう.あなたたちは私の王国の食卓で飲食し,また王座についてイスラエルの十二族をさばくであろう.
シモン(ペトロ),シモン,サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰がなくならぬようにと(父なる神に)祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟たちの心を固めよ」.
(注釈)
*¹エジプトのプトレマイオ家の王らは,家臣から「恩人」と呼ばれた.
*²(32節)カトリック神学は,ペトロの後継者の教導権と不可謬(ふかびゅう)性を証明するために,このところを挙げる.
(ペトロの否みを預言された)
シモンは「主よ,私はあなたとともに牢獄にも死にも行く覚悟です」と言ったが,イエズスは,「ペトロよ,私はあなたに言う.今日雄鶏(おんどり)が鳴くまでに,あなたは私を知らぬと三度否むだろう」と言われた.
弟子たちには「財布も袋も履物(はきもの)も持たせずにあなたたちを遣わしたとき,不足のものがあったか」と言われた.かれらは「まったくありませんでした」と答えた.
そこでイエズスは,「*¹しかし今財布を持っている者はそれを持ち,袋を持っている者もそうせよ.また剣(つるぎ)を持たぬ者は,服を売って剣を買え.私は言う.*²〈彼は罪人の中に数えられた〉と記されていることは,私において成し遂げられる.私に関することはまさに実現しようとしている」と言われた.
弟子たちは,「主よ,ごらんください.ここに剣が二振り(ふたふ)りあります」と言ったが,主は,「*³もうよい」と答えられた.
(注釈)
*¹今まで彼らはイエズスの弟子としてもてなされたが,これから(聖週間・聖木曜日から)はちがう.そのイエズスの弟子であるために憎まれ,迫害されるであろう.彼らはすべての手段を尽くして,悪人の暴力を防がねばならない.しかしこのことばをそのままにとってはならない.イエズスは暴力に暴力を返せとは言わない.ただ近い迫害の苦しみをあらかじめ教えようとされた.
*²〈旧約〉イザヤの書53・12参照.
*³イエズスは,弟子らが自分の話を理解できなかったのを見て,話を中止し,「もうよい」と言われた.まもなくゲッセマニにおいて,弟子らにもイエズスのことばがわかるであろう.
* * *
③ (使徒行録5章29節(太字部分))(12-42節を記載)
『使徒たちによって,多くの奇跡と不思議が人々の中で行われていた.信者たちはともにソロモンの廊下に集まっていた.*¹ほかの人々はだれ一人として彼らとあえて交わろうとしなかったが,人人は彼らを非常に賞賛していて,*²主を信ずる男女の群衆はますます増えつつあった.人々は病人たちを道に運び出すほどになり,寝台や担架に乗せ,ペトロが通るとき,せめてその影に覆われようとした.*³イェルザレム付近の町々からも群衆が集まり,病人と汚れた霊に悩まされる人々を連れてきた.彼らはみな治された.
すると,大司祭とその一味すなわちサドカイ派の人々は,ねたましさにかられて立ち上がり,使徒たちに手をかけて牢に投じた.
ところが,夜中に主の天使が牢の戸を開き,彼らを外に連れ出して,「行きなさい,神殿に立って*⁴命のことばをすべて人々に語りなさい」と言った.これを聞いた彼らは,夜明けに神殿に入って教え始めた.
さて大司祭とその一味は集まり,衆議員とイスラエルの子らの長老たちを呼び集め,使徒たちを連れてこいと牢に人を送った.番兵たちは行ったが,彼らが牢の中にいないのを知ったので,帰ってきて,「牢が固く閉ざされて,戸の前に番兵が立っているのを見ましたが,開きますと,中にはだれもいませんでした」と知らせた.*⁵これを聞いて神殿守衛長と司祭長たちは何のことだろうと当惑した.
そのときある人が来て,「あなたがたが牢に入れたあの人たちは神殿に立って人々に教えています」と告げた.早速,神殿守衛長は番兵を連れてそこへ行き,暴力を用いずに彼らを連れてきた.*⁶人々に石殺しにされるのを恐れたからである.
彼らを衆議所の中に立たせて,大司祭は尋(たず)ねた,「私たちは*⁷あの名で教えるなと正式に禁じておいた.それなのにあなたたちは,イェルザレム中を自分たちの教えで満たしたではないか.そうして私たちの上にあの人の血を負わせようとするのか」.
ペトロと使徒たちは答えた,「人間よりも神に従わねばなりません.私たちの先祖の神は,あなたたちが木につけて殺したイエズスをよみがえらせたまいました.*⁸神は,痛悔と罪のゆるしをイスラエルに与えるために,右の御手をもって,イエズスをかしらとし救世主として上げられました.私たちはこのことの証人です.そして神がご自分に従う者に与えたもう聖霊もまたその証人です」.彼らはこれを聞いて激しく怒り,殺そうとたくらんだ.
そのとき,一人の人が議場に立ち上がった.それはファリザイ人の律法学士*⁹ガマリエルといい,人々に大いに尊敬されている人であった.
彼は使徒たちをしばらく外に出すように命じ,議員たちに話し始めた,「イスラエルの人々よ,彼らに対してすることについてよく考えてください.前には,傑物と称して*¹⁰テウダスが起(た)ち,四百人くらいの人々を従えましたが,彼は殺され,つき従った人々は散らされて跡形もなくなりました.その後,人口調査のとき,ガリラヤ人のユダがたって人々を誘いましたが,彼も死に,従った人々もみな散らされました.
私は今あなたたちに言いたい.あの人々にかかわりなさるな.そして,するままにさせておきなさい.彼らの企(くわだ)てあるいは仕業が人間からのものなら,おのずから崩れるでしょうし,反対に神からのものなら,あなたたちはそれを崩すことができません.おそらく神に逆らう者になる危険があります」.
彼らはその意見に従い,使徒たちをふたたび呼び入れて鞭(むち)打ち,イエズスの名によって話すなと禁じて去らせた.
*¹¹使徒たちはみ名のために辱(はずかし)められるに足るものとされたことを喜びながら,衆議所を去った.*¹²そして毎日,神殿と家々で教えを説き,イエズスはキリストであるとのべ続けた.
(注釈)
使徒らの宣教の奇跡 (5・12-16)
*¹「ほかの人々」とは高位の人々を指すようである.
*²「ますます多くの信者が主に加わった.男女の大群衆であった」という訳もある.
*³ 奇跡を行う力は,新しい教えが神からのものであることを示す.
使徒らの二度めの逮捕 (5・17-33)
*⁴ 恩寵の生命を生むイエズスの教えである.宣教の目的は,「救い」(4・12,11・14,15・11),「主のみ名をこいねがう人々」(2・40,47,7,4・12)に約束されている「命」(3・15,11・18,12・7-10,16・25-26)である.
*⁵ 超自然的な事件だと知って当惑した.そのために使徒らの裁判をやり直す時には,どうして牢を出たかを尋ねようとしない.
*⁶ 民は彼らから恵みを受けて非常に尊敬していた.
*⁷ 大司祭は,「イエズス」という名を避けて言わない.
*⁸衆議所はイエズスを亡き者にしようとしたが,神は主とし救い主としてイエズスを立てた.ペトロは,みなを代表して,勇敢にイエズスがメシアであると宣言する.
使徒らの釈放とガマリエル (5・34-42)
*⁹ パウロ(22・3)の師で,有名なラビの一人であった.ある伝えによると,このラビは信者になったといわれる.
*¹⁰ テウダスは,ガリラヤのユダと同様に,ユダヤ人の煽動者,熱狂的愛国者として歴史に名を残した.
*¹¹ 使徒たちは,み名のために苦しみ(21・31,ペトロの手紙(第一)4・14,ヨハネの手紙(第三)7節),み名を宣教する(4・12,17・18,5・28,40).そして,キリスト信者は,み名を希う(9・14,21,22・16).
*¹² メシアたるイエズスを全世界に伝えることは,彼らの生活の唯一の使命であった.
* * *
最終パラグラフの訳注:
「上智の座」 “Seat of Wisdom” ( “Sedes sapiéntiæ” ) について:
カトリック祈祷文「聖マリアの連禱(れんとう)」 “Litaniæ Lauretanæ Beatæ Mariæ Virginis” の中で唱えられる聖マリアの称号の一つ.
・「上智」…〈ギリシア語 “Σοφία (sophiā)” 〉に由来する.真の知恵=神を恐(畏)れること.
・『知識と知恵のすべての宝はキリストに隠されている.』
(使徒パウロのコロサイ人への手紙・第2章3節)
(旧約聖書・格言の書より)
第1章 イスラエルの王,ダビドの子ソロモンの格言,
これは*¹知恵と教養を学ばせ,
深いことばを理解させ,
賢い教えを受けさせ,
正義と公平と方正と,
世慣れない人に世渡りと,
若い人たちに知識と分別を知らせ,
格言とむずかしい警句と,
知恵ある人の金言となぞを理解させる.
知恵ある人もそれを聞いて知識を深め,
賢い人も指導の道を知るだろう.
*²神を恐れることが知識のもとなのに,
愚か者は知恵と教養を軽んじる.
わが子よ,あなたは父のいいつけを聞き,
母の教えをあなどるな.
それはあなたの頭の愛らしい冠となり,
首の飾りとなろう.
わが子よ,悪人があなたを誘惑しても,
それに負けるな.
もし彼らが,
「われわれといっしょにくるがよい,
人の血を流すわなをかけ,
罪のない人に理由なく悪だくみをし,
*³黄泉(よみ)のように,彼らを生きたままのみこみ,
墓に下る人のように,丸のままのみ下そう,
われわれはいろいろ宝物を見つけるだろうから,
分捕ったもので家をいっぱいにしよう,
おまえもわれわれとともにくじ引きし,
みなで一つの財布を持とう」
といったとしても,
わが子よ,彼らといっしょに行かず,
その道から足を遠ざけよ,
*⁴(彼らの足は悪に走り,
血を流そうと急いでいるからだ.)
*⁵翼あるものの目の前で,
網を張ってもむだなことだ.
彼らは自分の命にわなをかけ,
自分がたくらみにひっかかる.
略奪で利をむさぼる人の末路は,みなこのように,
その持ち主を滅ぼしてしまう.
知恵は道で叫び,
広場で大声を上げ,
城壁の上から呼びかけ,
町の門の入口で話しかける.
「*⁶幼い者よ,いつまで幼いことを好むのか.
あざける者は,いつまであざけることを楽しみとし,
愚か者は,いつまで知識を憎むのか.
私の叱責に耳をかすがよい.
私はあなたたちに心をうち明け,
私の考えを知らせたい.
私は呼んだが拒絶され,
腕をのばしたが,だれもそれに気をとめなかった.
あなたたちは私の勧めをあなどり,
叱責を受け入れなかった.
だからいま,私もあなたたちの滅びを見て喜び,
恐怖が襲いかかるとき笑おう.
嵐のように,あなたたちに恐怖が襲い,
つむじ風のように,滅びがくるとき,
*⁷(試練と悩みとがかぶさるとき),
そのとき,彼らは私を呼ぶが,私は答えず,
さがしても見つかるまい.
知識を憎み,
神への恐れを心にとめず,
私の勧めを受け入れず,
叱責をあなどった彼らは,
迷いの実を味わい,
自分の考えで腹を満たすだろう.
無分別な者の迷いは自分を殺し,
愚か者の冷淡は自分を滅ぼすが,
私のいうことを聞けば,平和に生き,
どんな不幸も恐れず,安らかだろう」.
(注釈)
この書の主題と目的 (1・1-7)
*¹ 知恵とは徳をもとにして,生活を正しく送ることである.
*² 神への信心と同じ意味である.これが正しい生活の基盤である.このことばはこの書の主題である.
悪い仲間を避けること (1・8-19)
*³ ヘブライ語のシェオル.死後の霊魂の住みか.
*⁴ この節は,アレクサンドリア写本以外のギリシア語にはない.イザヤ (59・7) による書き入れらしい.
*⁵ 人々の口に伝わっていた格言.鳥は狩人が網を置くのを見ると,それにかからないという意味である.若い人たちにも危険を知らせておけば,それを避けることができる.
知恵の呼びかけ (1・20-33)
*⁶ 年齢が幼いことではない.教育と徳とのない幼稚(ようち)な人のこと.
*⁷ のちの書き入れらしい.
第2章 わが子よ,私のことばを迎え入れ,
戒めを宝のように守り,
*¹知恵に耳を傾け,
真理に心を開き,
また分別を願い,
知識に声をかけ,
銀のようにさがし求め,
宝物のように掘り出せば,
*²あなたは神を恐れることを理解し,
主を知るようになるだろう.
実に,知恵を与えるのは主であり,
知識と分別は主の御口から出る.
神は正しい人に保護を下し,
誠実に歩む人の盾となられる.
神は正義の道を守り,忠実な人の道を保護される.
そうすれば,あなたは正義と厚生と方正と,
つまり幸せに向かう道をすべて理解できるだろう.…
(注釈)
知恵のある人の幸せ (2・1-9)
*¹ 知恵,真理,分別,知識はそれぞれの見方での「徳」のことである.
*² 徳をもつ人だけに,宗教がわかる.悪は理性と心を汚すものである.
第3章 わが子よ,私の教えを忘れず,私の教訓を心にとめよ.
それはあなたの日を長くし,生命と安楽な年月をもたらす.
*¹温良と誠実を失わず,
それを首にかけ,心の板に書き記せ.
そうすれば,あなたは神と人とに,
好意をもたれ,成功するに至る.
心をあげて神を信頼し,
自分の意見に頼るな.
足どりの一歩ごとに神を考えれば,
神はあなたの道をならしてくださる.
自分を知恵ある者だと思わず,
神を恐れ,悪を避けよ.
それは,あなたの体を健康にし,
骨をさわやかにする.
*²自分の財産や
所得の初物をささげて神を尊べば,
あなたの倉には麦が満ち,
酒だるには新しいぶどう酒があふれる.
*³わが子よ,神のこらしめをあなどらず,
神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.
なぜなら,神は愛するものをこらしめ,
いちばん愛する子を苦しめたもうからである.
知恵を見出した人は,
分別をもつ人は幸いである.
彼がそれを得たことは,
銀を手に入れるよりも値打があり,
その収入は純金よりも高価である.
知恵は真珠よりも尊く,
あなたの望む何ものもそれとは比べられぬ.
その右の手には長寿があり,
その左の手には富と名誉がある.
その道には歓喜があり,
その小道は平和である.
知恵は,そこによりかかる人にとっては生命の木であり,
それを握る人は幸せになれる.
*⁴神は知恵をもって大地を築き,
分別をもって天を固め,
その知識によってふちは掘られ,
雲から露がしたたる.
わが子よ,それらのことを見失わず,
慎重と反省を保て.
それはあなたの魂に命を与え,
首の飾りとなる.
そうなれば,あなたは安心して道を歩み,
足はつまずかない.
あなたは休息をとるときに恐れず,
眠るとき,その眠りは安らかだろう.
突如としてくる恐怖を恐れず,
悪人の攻撃も恐れるな.
神があなたの支えとなり,
あなたの足をわなから守って下さるからだ.
できることなら,あなたに物を頼む人の願いを,
拒んではならぬ.
できることがあるなら,*⁵隣人に,
「出直してくれ,明日あげよう」というな,
隣人が,あなたと安心してつきあっているとき,
その人に悪いたくらみをしてはならぬ.
あなたに何の悪事もしない人なら,
その人と理由なく争ってはならぬ.
*⁶暴虐な人をうらやまず,
そのやり方をまねるな.
悪人は神に憎まれ,
神は正しい人と親しくされる.
よこしまな人の家には神ののろいがかかり,
正しい人の住まいには神の祝福がある.
あざける人は神からあざけられ,
へりくだる人は神の恵みを受ける.
知恵ある人は名誉を受け,
愚かな人は不興をかう.
(注釈)
正しい生活の結実 (3・1-10)
*¹ 神と人に対するやさしさ,善良さ.決心するとき,約束するときの誠実さ.
*² 初物をささげることは,神への崇敬の表現である.もちろん,祈ることもすすめてある.
知恵の尊さ (3・11-20)
*³ 神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.
*⁴ 知恵の路とは神である.宇宙の創造にも,秩序にも,神の知恵が現れている.
徳のある人の幸せ (3・21-26)
隣人についての戒め (3・27-35)
*⁵ 元来は,友人,仲間,近所の人など親しいつきあいをしている人のことであるが,この書の中では,「他人」を隣人といっている (6,1,3,29,27・17,25・9).敵を愛するまでに至らねばならぬ愛の教えの第一歩である (マテオ聖福音5・44-48,ルカ聖福音10・25-37).
*⁶ 暴虐な人,よこしまな人,あざける人,愚かな人などはいずれも神の敵である.これらの人々の,表面的な立身出世をユダヤ人はいつもうらやんでいた(24・1,19,詩篇73,エレミア書12・1,ヨブ書21・7).
第4章 子どもたちよ,父の教えを聞き,
真理を知ろうと心がけよ.
私は健全な教訓を授ける.
私の教えをあなどるな.
私も,私の父にとっては子であり,
母の目にはやさしいいとし子であった.
父は私によくこう教えてくれた,
「私のことばを心におさめ,
戒めを守れ,そうすれば生命が得られよう.
知恵をもち,分別をもち,
それを忘れることなく,
私の口のことばを遠ざけるな.
知恵を捨てるな,それがあなたを守ってくれる.
知恵をいとおしめ,それがあなたを保護してくれる.
*¹知恵のもととして,知恵をもつようにせよ.
持ち物をすべてかけても,分別をもつようにせよ.
それを高く評価すれば,それがあなたを高めてくれる.
あなたがそれを抱けば,それはあなたの誇りとなろう.
その知恵はあなたの頭に愛らしい宝冠をおき,
光栄の冠を授けるだろう」.
子よ,私のことばを聞けば,
あなたの生命は長くなる.
私は知恵の道を教え,
まっすぐな小道にあなたを導いた.
*²それを歩けば,足は妨げを受けず,
走ってもつまずかない.
*³教養をしっかりと身につけ,それを手から離さず,
守れ,それはあなたの生命なのだ.
よこしまな人の道に踏みこまず,
悪人の道を歩まず,
その道を避けて,通らず,
その道を遠ざかり,通りすぎよ.
彼らは悪事をしないと寝つかず,他人を陥れないと安眠しない.
*⁴彼らは不正のパンを食べ,
暴力のぶどう酒を飲む.
正しい人の道はあけぼのの光のようであり,
ますます輝きを増して真昼になるが,
悪人の道はやみで,
何につまずくか分からぬ.
わが子よ,私のいうことをよく聞き,
私のことばに耳を傾けよ.
私のことばを見失わず,
心の中にそれを保て.
そのことばは,それを迎え入れる人の生命となり,
その人の体を健やかにする.
*⁵何にもまして,あなたの心を警戒せよ.
その心から,生命の泉があふれ出ているからだ.
偽りの口をもたず,
ごまかしのくちびるを遠ざけ,
目は正面を見つめ,
視線をまっすぐに向けよ.
*⁶どこに足をおくかを見定め,
一歩一歩正しく歩み,
右にも左にも道を迷わず,
足を悪から遠ざけよ.
(注釈)
父の教え (4・1-9)
*¹ 知恵の第一歩は知恵をもつことの必要を知り,それを得ようと決心することである.
まっすぐな道 (4・10-19)
*² 徳をもつ人は,生活の困難をやすやすと越すことができる.
*³ 教養とは,風紀のよいこと,自分に対して厳しい反省を要求する徳の実行のことである.
*⁴この人たちはパンやぶどう酒を飲むのと同じように,不正で身を肥やしている.彼らが食べたり飲んだりするものは,不正と暴力によって得たものである.
人間の努力しなければならぬこと (4・20-27)
*⁵ 人の心は倫理生活のもとであるから,それを清く保つように努力しなければならぬ (マテオ聖福音5・19).
*⁶ 徳を行うに当たっては,熱狂して右に走ることも,なまけて左に曲がることも許されない.
* * *