エレイソン・コメンツ 第199回 (2011年5月7日)
公会議主義の教皇たちの側に主観的な誠意もしくは善意があれば,彼らが客観的に見てゾッとするような異端の言動をしても教皇の資格を失うことは免(まぬか)れるとした見解を一週間前にエレイソン・コメンツ第198回でご紹介しました (教皇ヨハネ・パウロ2世の世界救済についての教えについてはドルマン教授の “Prof. Doermann for John-Paul II’s teaching of Universal Salvation” ,教皇ベネディクト16世の十字架の空洞化についてはティシエ司教の “Bishop Tissier for Benedict XVI’s emptying out of the Cross” 言葉をそれぞれご参照ください). この見解については必ずしも全ての方が同意なさるわけではないでしょう.反対意見をお持ちの方は教皇たちの異端的言動を身の毛のよだつものと断じ, (#1) とうていキリストの真の代理者(教皇)によって発せられることなどあり得ない,また (#2) 主観的な良い信仰がどれほどあろうと客観的に見た毒性を中和できるものではない,あるいは (#3) 古い神学理論で訓練された公会議主義の教皇たちが主観的な良い信仰を持っているなどというのは論外だ,と反論するでしょう.その反論をひとつずつ冷静に受け止めてみましょう :--
まず第一に,主なる神がどの程度までその代理者たちによる(客観的な)裏切りをお許しになるでしょうか? それはただ神のみがご存知のことです.だが私たちは聖書の記述から (ルカ18,4) キリストが再臨されるとき地上にはもはやカトリック信仰 “the Faith” がほとんど残っていないだろうということを知っています.ただ,2011年の現時点でカトリック信仰はすでにそこまで落ち込んでしまっているでしょうか? そう思わない人もいるかもしれません.だとすれば,神は公会議主義の代理者 (教皇) たち “Conciliar Vicars” がさらにひどいことをしても,代理者の資格を停止することなしにお許しになるかもしれません.聖書はカヤファ “Caiphas” が神に対する罪の中の最たる罪,すなわちキリストに対する司法殺人を策謀していたその瞬間でさえも大司祭であったと断言していないでしょうか (ヨハネ11,55) (訳注後記)?
第二に,世界教会にとって善意の異端者による客観的な異端の方が彼らの主観的な善意よりはるかに重要であることは事実ですし,また多くの客観的な異端者が自分の潔白を主観的に確信していることも事実です.この二つの理由から,母教会が正常であるときには,カトリック教会はそうした実質的な異端者に対しその異端を諦(あきら)めるか本気で異端を続けるかのいずれかの選択を強要するメカニズムを持ちます.そのメカニズムとはカトリック教会の異端審問官 “her Inquisitors” です.彼らはカトリック教理の純正 "the purity of doctrine" を守るため異端を定義したり糾弾(きゅうだん)したりする権限を神から授けられています.だがもし客観的な異端を口にしているのがカトリック教会の最高権威だとするとどうなるでしょうか? 教皇より強い権威をもって教皇の過(あやま)ちを正す者が誰かいるでしょうか? 誰もいません! では神は御自身のカトリック教会をお見捨てになったのでしょうか? そうではありません.ただ神は,熱意に欠けるミサ聖祭で済ませている今日のカトリック信徒たちを当然の報いとして厳しい試練に会わせておられるのです - そして,悲しいかな,カトリック伝統派の信徒たちもこの中に入るのではないでしょうか?
第三に,前教皇ヨハネ・パウロ2世と現教皇ベネディクト16世がともに哲学と神学について公会議以前の訓練を受けたのは事実です.だが彼らが訓練を受けるまでに,すでに一世紀以上にわたりカント派哲学の主観主義とヘーゲル派哲学の進化論の虫が,不変の(=変更不可能な)カトリック教義 “unchangeable Catholic dogma” がよって立つ客観的かつ不変の(=常に変わらない)真理 “unchanging truth” の核心部分を蝕(むしば)んでしまっていたのです.二人の教皇のいずれにも - たとえば人気取りに走ったとか,知的プライドにこだわったとかで - 道義的な落ち度があり,そのために実質的な異端に陥(おちい)ったと論じ得るかもしれません.だが,道義的な落ち度があるということで,二人を実質的な異端者から公式の異端者へと変えるのを目的に権威ある正式の教理上の糾弾 “authoritative doctrinal condemnation” に結び付けることはできないでしょう.
したがって,公式の異端者のみがカトリック教会から排除されること,そして公式の異端者だと立証する唯一かつ確実な方法が二人の教皇の場合には見当たらない以上,公会議主義の教皇問題についての意見は一定の幅を持たせたままにしておくべきです.「教皇空位主義者」 “Sedevacantist” という言葉は「カトリック伝統派」が言うほどの禁句には当たりませんが,一方で教皇空位主義者たちの主張は彼らが願ったり見せかけたりしているほど結論がはっきり出ているわけではありません.結論としては,教皇空位主義者たちは依然としてカトリックでしょうし,カトリック信徒がすべて教皇空位主義者になるよう強制されているわけでもありません.少なくとも私個人としては,公会議主義の教皇はみな有効な教皇だと信じています.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
①(新約聖書・ルカによる聖福音書:第18章4節)(太字部分)(18章1-8節を記載)
『またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,
「*¹ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪(せいじゃ)をつけてください〉と頼みに来た.
彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.
主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*²神が夜昼ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.
とはいえ,人の子の来る時(=キリストの再臨・再来の時),地上に信仰を見い出すだろうか…」と言われた.』
(注釈)
不正な裁判官 (18・1-8)
*¹ 2-8節 このたとえは,特に世の終りの苦しみにあたって不断に祈れと教える.
*² 神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,けっしてそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう.
* * *
①の続きの部分(ルカによる聖福音書・第18章9節-19章27節まで)
第18章9節から
ファリサイ人と税吏
*³自分を義人と信じ,他の人をさげすむ者については,こんなたとえを話された,
「二人の男が祈ろうと神殿に上った.一人はファリザイ人で一人は税吏(ぜいり)だった.
*⁴ファリザイ人のほうは立って心の中でこう祈った,〈神よ,私は他(た)の人のように,食欲な人,不正な人,姦通する者でなく,またこの税吏のような人間でもないことを,あなたに感謝いたします.私は*⁵週に二度断食し,全所得の十分の一をささげています〉と.
税吏は離れて立ち,目を天に向けることさえせず,胸を打ちながら,〈ああ,神よ,罪人の私をおあわれみください〉と祈った.
私は言う.この人は義とされて家に帰ったが,先の人はそうではなかった.高ぶる人は下げられ,へりくだる人は上げられる」.
子どもたち
また,イエズスに触れていただこうとして,人々が子どもを連れてきたので,それを見て弟子たちは彼らをとがめた.
だがイエズスは子どもたちを呼び寄せ,「子どもたちを私のところに来させよ.とめてはならぬ.神の国を受け入れるのはこのような者たちである.まことに私は言う.*⁶子どものように神の国を受け入れぬとそこには入れぬ」と言われた.
若い金持ち
ある重(おも)だった人が,「よい先生,永遠の生命を受けるために私はどうしたらよいのでしょうか?」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「*⁷なぜ私を〈よい〉と言うのか?神御一人のほかよい者はない.あなたは,*⁸〈姦淫するな〉〈殺すな〉〈盗むな〉〈偽証するな〉〈父母を敬え〉という掟(おきて)を知っているだろう」と言われた.
その人が,「私は小さい時からそれをみな守ってきました」と言うと,イエズスは,「あなたに足りないのは一つのことだけだ.あなたは持ち物をみな売って、貧しい人に施(ほどこ)すがよい.そうすれば天に宝を積むだろう.それから私についてくるがよい」と言われた.彼はこれを聞いて悲しんだ.大金持ちだったからである.
それを見てイエズスは言われた,「金持ちが神の国に入るのはなんと難しいことだろう.*⁹金持ちが神の国に入るよりは,駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうがやさしい」.
これを聞いた人々は,「すると救われるのはどんな人ですか?」と尋ねた.イエズスは,「人間にはできぬことも,神にはおできになる」と答えられた.
弟子の受ける報い
ペトロが,「ごらんのとおり,私たちはあなたに従うために,自分の持ち物を捨てました」と言った.
イエズスは答えられた,「まことに私は言う.神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもたちを捨てながら,*¹⁰この世でもっと多くのものを受け,後の世で永遠の生命を受けぬ者はない」.
受難の預言
イエズスは十二人の弟子をそばに呼び,「*¹¹私たちはイエルザレムに上る.人の子(イエズス御自身〈キリスト〉)について預言者たちの書き残したことは,みな実現するだろう.人の子は異邦人にわたされ,あざけられ,侮辱され,つばをかけられるだろう.彼らは人の子をむち打ち,そして殺すだろう.それから三日目に彼はよみがえる」と言われたが,弟子たちにはそれが何一つとしてわからなかった.そのことばは彼らにとってわかりにくく,その意味も理解できなかった.
イエリコの盲人
イエズスがイエリコに近づかれると,道ばたに座って施しを乞う盲人がいた.群衆が通り過ぎるのを聞いた盲人は,何事ですかと尋ねた.「あのナザレ人のイエズスが通られるのだ」という返事があった.
すると,*¹²盲人は,「ダヴィドの子イエズス,私をおあわれみください」と叫び出した.先頭の人たちが叱(しか)って黙(だま)らせようとしたけれど,「ダヴィドの子,私をおあわれみください」とますます叫び立てた.
イエズスは足をと止め,その人を連れてくるように命じ,近づいたときに,「あなたは私に何をしてもらいたいのか」と尋ねられた.盲人は,「主よ,見えるようにしてください」と言った.
イエズスが,「見えよ.あなたの信仰があなたを救った」と言われると,盲人はたちまち見えるようになり,神をたたえながらイエズスについていった.これを見た人々はみな神に賛美をささげた.
(注釈)
ファリサイ人と税吏 (18・9-14)
*³ 祈りの第一条件は謙遜である.
*⁴ ファリサイ人の倣慢(ごうまん)な態度が現れている.「他の人」といっているように,彼は自分だけが義人だと思っているのである.倣慢な人は,他人を軽蔑(けいべつ)するものである.
*⁵ 熱心なユダヤ人はこうしていた.
子どもたち (18・15-17)
*⁶ 小さな子どもは悪を知らず,富を望まず,傲慢も憎悪ももたず,言われることを正しいこととしてそのまま受け入れる.神のみことばに対して,人はこうあらねばならぬ.
若い金持ち(18・18-27)
*⁷ イエズスは,ここでは自分の神性には触れない.青年はイエズスを先生の一人とみて,よい先生と言っている.しかしイエズスは,どんなに完全な人間でも神と比べればよいとは言えないと知らせる.
*⁸ 〈旧約〉脱出の書20・12-16参照.
*⁹ 誇張法の一つである.神の国よりも自分の富に執着する者は,永遠の生命を受けられない.
弟子の受ける報い (18・28-30)
*¹⁰ 完徳に達するために,自己のすべてを神にささげる者は,この世においても,自分の犠牲の報いを受ける.
受難の預言 (18・31-34)
*¹¹ 31―33節 受難の四回めの預言である(9・22,44,17・25).しかし,前よりもはっきりと言われている.その時が次第に近づいているからである(イザヤ53章).
イエリコの盲人(18・35-43)
*¹² この盲人は,ナザレトのイエズスが多くの奇跡を行ったことを知っている.そしてそこから,イエズスこそ来るべきメシアだと悟り,「ダヴィドの子」と叫んだ.
* * *
第19章
ザカイ
イエズスはイエリコに入り,その町を通られた.*¹そこに名をザケオという人がいた.彼は税吏のかしらで金持ちだった.彼はイエズスとはどんな人か見ようとしたが,背は低かったし,群衆の波で見ることができなかった.そこで前に走っていって,イエズスを見ようといちじく桑(ぐわ)の木によじ登った.そこを通られるはずだったからである.
イエズスはそこに来られると目をあげ,「*²ザケオ,早く下りよ.私は今日あなたの家に泊まる」と言われた.彼は喜んで飛び下り,イエズスを迎えた.
これを見ていた人々はみな,「あの人は罪人の家の客になったのか」と非難したが,*³ザケオは毅然(きぜん)として,「主よ,私は財産の半分を貧しい人々に施します.また,私が他人に何かの損害を与えていたら四倍にして返します」と言った.
イエズスは,「今日この家に救いが来た.この人もアブラハムの子である.人の子(=神の御子イエズス)は見失ったものを尋ねて救うために来た」と言われた.
ムナのたとえ
人々がこの話をきいていると,イエズスはまた次のたとえを語られた.それは,*⁴イエズスがイエルザレムに近づいておられたので,人々は神の国がすぐ来るだろうと思っていたからである.
イエズスは言われた,「*⁵ある貴人が王位を受けるために,遠国に行くことになった.そのとき十人のしもべを呼び集め,*⁶十ムナを渡し,〈私が帰るまでこれをうまく使え〉と言った.その地方の人々はこの人を憎んでいたので,あとから使いを送り〈私たちは彼が王になるのを望まぬ〉と言わせた.
その貴人は王位を受けて帰ると,金を渡しておいたしもべたちがめいめい金をどう使ったかを知ろうとして呼んだ.はじめの人は進み出て,〈主よ,あなたの一ムナで十ムナをもうけました〉と言ったので,彼は,〈よろしい,よいしもべだ.あなたは小さな事に忠実だったから,十の町を支配せよ〉と答えた.次の人が来て,〈主よ,あなたの一ムナで五ムナをもうけました〉と言ったので,また彼は,〈あなたは五つの町のかしらになれ〉と答えた.
ほかの一人も来て,〈主よ,私はあなたの一ムナをふくさに包んでしまっておきました.これです.預けなかったものを取り,まかなかったものを刈り取る厳(きび)しいあなたを,私は恐れました〉と言ったので,彼は言った,〈悪いしもべだ.私はあなたのことばに基づいてさばこう.私が預けなかったものを取り,まかなかったものを刈り取る厳しい人間であることを,あなたは知っていた.それなら,なぜ私の金を貯金として預けなかったのか.そうすれば帰ってきたときに,その金と利子を引き出したであろう〉.
そして,そばにいた人々に,〈この者の一ムナを取り上げ,十ムナを持つ者に与えよ〉と言った.彼らが,〈主よ,あの人はもう十ムナ持っています〉と言ったが,主人は答えた,〈私は言う,持っている者には与えられ,持たぬ者からは持っているものさえ取り上げられる.私が王になるのを望まなかったあの敵どもをここに連れてきて,私の前で絞め殺せ〉」.
(注釈)
ザカイ(19・1-10)
*¹ ルカは普通は名を書かないが,ここでは名が記されている.ザケオはのちにイエズスの弟子となり,ルカはザケオを知っていたほかの信者からこの話を聞いたものらしい.
*² イエズスはザケオの名とその善良な心を早くも見抜いておられた.
*³ ザケオは,恩寵に喜んで服従する改心者の模範である.ある伝説によると,ザケオはペトロの弟子どなり,カイザリアの司教になったと言う.
ムナのたとえ(19・11-27)
*⁴ 多くのユダヤ人は,イエズスの奇跡を見て,イエズスこそメシアであると考えたが,しかし彼らは,いつも,黙示録的な光栄のメシアの国が来ることを待ち望んでいた.過ぎ越しの祭りのために,イエズスはイエルザレムに上り,多くの人々を集めておられたので,今こそその国が始まるだろうと考えた.
これに対してイエズスは,キリストの国の到来までに,多くの試練と長い期間があることを教える.
*⁵ 12-27節 王はイエズス,王権を受けに行く遠国は天,しもべらに預けたムナは神の恵み,君臨を望まない悪人どもはユダヤ人,王の帰りは審判を意味する.
人間は与えられた恵みに応じて厳しくさばかれるであろう.
*⁶ マテオ聖福音18・24の注参照.
→(マテオ18・24の注釈)
神殿ではユダヤの貨幣だけが用いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマはニドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四十二・五三三キロに相当する.
ローマの貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.
* * *
②(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第11章55節→49-53節〈太字下線部分〉)(第11章全文を記載)
第11章
ラザロがよみがえる(11・1-46)
さて,ここに一人の病人があった.*¹ベタニアの人ラザロといった.ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった.この*²マリアは主に香油を塗り,自分の髪の毛で御足をぬぐった女で,病人のラザロはその兄弟だった.姉妹はイエズスに人を送り,「主よ,あなたの愛しておられる人が病気です」と言わせた.
これを聞いてイエズスは,「それは死の病ではない.それは神の光栄のため,神の子がそれによって光栄を受けるためのものである」と言われた.イエズスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられたけれども,ラザロが病気だと聞いてからなお二日,*³元の所にとどまられた.
その後,弟子たちに「ユダヤに帰ろう」と言われたので,弟子たちは,「先生,ユダヤ人たちはこの前もあなたを石殺しにしようとしたのに,またあそこにお帰りになるのですか」と言った.イエズスは答えられた,「*⁴昼間は十二時間あるではないか.昼の間に歩く人は,この世の光を見るからつまずきはしない.夜歩けば,光がその人にないからつまずくのだ」.
またその後,「私たちの友人ラザロは眠っている.私は彼を起こしに行く」と言われた.弟子たちは,「主よ,眠っているのなら治るでしょう」と言った.イエズスは彼が死んだと言われたのだが,弟子たちは眠って休んでいることなのだと思った.そこでイエズスははっきりと,「ラザロは死んだ.私があそこにいなかったことを,私はあなたたちのために喜ぶ.*⁵あなたたちが信じるようになるために.では彼のところに行こう」と言われた.ディディモと呼ばれるトマは,「*⁶私たちも一緒に行こう,ともに死のう」と弟子たちに言った.
イエズスが行かれると,ラザロはもう四日前から墓に入っていた.ベタニアはイエルザレムに近く,ほぼ*⁷十五スタディオンばかりの距離にあった.大勢のユダヤ人が,その兄弟のことについて,マルタとマリアを慰めに来ていた.マリアは家に残って座っていたが,マルタはイエズスが着かれたと知って迎えに行き,「主よ,もしあなたがここにましましたら,私の兄弟は死ななかったでしょう.
*⁸けれども今でも私は,あなたが神にお願いになることは,なんでも神が与えてくださることを知っています」と言った.
イエズスは,「あなたの兄弟はよみがえるだろう」と言われた.マルタは,「彼も終わりの日,復活の時によみがえることを知っています」と言った.
イエズスが,「私は復活であり命である.*⁹私を信じる者は死んでも生きる.*¹⁰生きて私を信じる者は永久に死なぬ.あなたはこのことを信じるか」と言われると,
彼女は,「*¹¹そうです,主よ,あなたがこの世に来るべきお方,神の子キリストであることを信じます」と言った.
それから彼女はマリアを呼びに行き,「先生がおいでになって,あなたを呼んでいらっしゃる」と小声で言った.マリアはこれを聞くと,すぐ立ち上ってみもとに行った.イエズスはまだ村に入らず,マルタが出迎えた所におられた.マリアとともに家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは,マリアがすぐ立ち上って出たのを見て,墓に泣きに行くのだろうと思ってついて行った.
マリアはイエズスのところに着き,彼を見るやその足もとにひれ伏し,「主よ,もしあなたがここにおいでになったなら,私の兄弟は死ななかったでしょう」と言った.イエズスは,彼女がすすり泣き,ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し,心を騒がせられ,「彼をどこに納めたのか」と言われた.マリアは,「主よ,来てごらんください」と答えた.イエズスは涙を流された.ユダヤ人たちは,「ほんとに,どんなに彼を愛しておられたことだろう」と言った.その中のある人は,「あの盲人の目をあけた人でも,彼が死なぬようにはできなかったのだろうか」と言った.イエズスはまた感動された.
それから墓に行かれた.墓は洞穴で前に石が置いてあった.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは「主よ,*¹²四日も経っていますから,臭(くさ)くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.
そう言ってのち,*¹³声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗拭(あせふ)きで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.
イエズスの死を謀る(11・47-57)
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリザイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,司祭長たちとファリザイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人々はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの*¹⁴聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちは何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*¹⁵彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである.イエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった.
そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒れ野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からイエルザレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリザイ人たちがイエズスを捕えようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.
(注釈)
ラザロがよみがえる(11・1-46)
*¹ オリーブ山の東側にあり,現在のエル・アザリエにあたる.
*² ルカ(7・38)に登場する罪の女はマリア(マグダラの)と同一人物であると考えてよい.
*³ ヨルダンのかなたのある場所.
*⁴ この世での期間を知っておられたイエズスは,昼歩く人がつまずかないと同様に,人のかけるわなを恐れなかった.
*⁵ ラザロの死は,人々の信仰を強める奇跡の機会となった.
*⁶ トマのことばは,先生と生死をともにしようとする忠実な弟子のことばである.イエズスにとってイエルザレムに行くことは,(ベタニアはイエルザレムに近かったから)非常に危険だと知っていたのである.しかし,行かねばならないなら,死地におもむく師の供をしようと言った.
ディディモはヨハネだけの記しているトマのあだ名である.ディディモ(双生児)は,アラマイ語のトマのギリシア語である.
*⁷ 約2800メートル.
*⁸ マルタはイエズスを信じているが,しかし,死者をよみがえらすような大それた願いをしていいかどうかためらっている.
*⁹ 信仰している人は,すでに死に打ち勝った人である.ラザロのよみがえりはその証明である(3・11以下).
*¹⁰ イエズスの考えは,マルタが考えていたよりも,もっと深いものである.
今話していた復活のもとは,ほかならぬイエズス自身である.
イエズスは復活であるが,それはイエズスが命だからである.信仰によって人々に受けさせ,自然の死によっても滅ぼされない永遠の命は,イエズスである.
*¹¹ マルタは,ラザロのことがどうなっても,イエズスが確かにメシアで,命の分配者で,神の子だと信じていた.
彼女の信仰告白は,ナタナエル(1・48,イエズスの弟子の一人〈バルトロメオ〉のこと)よりも気高いもので,ペトロの信仰告白(6・69)に肩を並べうる.
*¹² このとき,マルタはもう復活の可能性を考えなかった.ただ,腐りかけた死人を見なければならないと考えて恐れた.
しかし,イエズスは,先のマルタの信仰告白の報いを,ここで与えられた.
*¹³ ヤイロの娘(マルコ5・41),ナイン(ナイム)の未亡人の息子(ルカ7・14)のよみがえりのときのように,声高く,威厳をこめて,イエズスは命令された.
イエズスの死を謀る(11・47-57)
*¹⁴ エルサレムか,ユダヤか,あるいは聖なる所,神殿をこう言ったのである.
*¹⁵ カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神のご計画として,イエズスは全人類の救いのために死ぬのである.
* * *