2012年5月13日日曜日

252 信仰殺し 5/12

エレイソン・コメンツ 第252回 (2012年5月12日)

だがもしローマ教皇庁が聖ピオ十世会の望むものをすべて提供するとしたら,それでもなお聖ピオ十世会がそれを拒(こば)むべき理由とはなんでしょうか? 聖ピオ十世会の要求をすべて満足させる実務的合意が生まれるならそれを受け入れるべきだとまだ考えているカトリック信徒たちが明らかにいるようです.それなのにどうして拒むべきなのでしょうか? 理由は聖ピオ十世会がルフェーブル大司教によって結成されたのはそれ自体が目的ではなく,第二バチカン公会議によってかつてなかったほどの危険に晒(さら)された真のカトリック信仰を擁護(ようご)するのが目的だったからです.だが,ここでは新教会当局者たち( "Newchurch authorities" )がなぜ聖ピオ十世会が拒まなければならないような実務的合意を求めるのかについて考えてみましょう.

その理由は新教会(訳注・ "Newchurch".=「新しい教会」) が主観論者 "Subjectivist" の集まりであり,いかなる実務的合意も主観主義 "Subjectivism" が真実であると暗示しているからです.第二バチカン公会議の唱える新宗教( "the new Conciliar religion" )によれば,信仰の諸教義( "dogmas of Faith" )は客観的な真実ではなく,主観的なニーズに役立つシンボルにすぎません(回勅パシェンディ "Pascendi", 11-13,21).たとえば,もし私の心理的不安が神が人間になったという信念により鎮(しず)められるなら,その結果御托身( "the Incarnation" )は私にとって真実だということになり,そのことは単なる「真実」という言葉の上で意味を持つだけです.ですからもし伝統主義者たち( "Traditionalists" )が古い宗教( "old religion" )を必要とするなら,それが彼らにとっての真実で,彼らが自らにとっての真実にいかに固執するかは称賛に価するほどでしょう.だが公式には,彼らは第二バチカン公会議の定めた真実をローマ教皇庁当局者たちが持つことを認めざるを得ず,もしそのような妥協を受け入れないとすれば,その結果彼らは我慢がならないほど高慢で許しがたいと言われ,そのような不和など私たちの愛の教会内( "within our Church of luv." )では認められないということになるでしょう.(訳注・ "luv" =「理性や責任(感)を欠いた感覚的愛情」を指している.)

かくして,新近代主義( "Neo-modernist" )のローマにとっては聖ピオ十世会がたとえ暗黙にせよ「自らの」諸真実の普遍性と義務に対する強い主張を諦(あきら)めるような実務的合意ができれば満足でしょう.反対に聖ピオ十世会は20世紀も続いた「自らの」宗教の客観性( "objectivity" )を諸々の言葉以上に雄弁に語るただ一つの行動において否定することになるような合意に満足などできません.事は「自らの」宗教の問題だけに限りません.主観主義者たちと合意に達するには,私は客観性を主張するのを止めなければなりません.そして客観性を主張するためには,私は主観主義者たちが主観主義を捨てない限り,彼らが出すいかなる条件をも受け入れるわけにはいきません.

ローマの当局者たちはそのようなことなどしません.彼らが自分たちの新宗教を推し進めていることを示すもう一つの証拠は,彼らが最近明らかにしたフランスの「良き羊飼い協会への教皇の訪問の結果に関する記録」( "Note on the conclusions of the canonical visit to the Institute of the Good Shepherd" in France" )という形で残っています.エレイソン・コメンツの読者の方々は,この協会がローマ当局の監督下で伝統的なカトリック教が実践できるようにと第二バチカン公会議後に設立されたいくつかの協会の一つだと記憶していることでしょう.ローマはあと数年待ってその包囲網を狭(せば)め,愚かな魚が針にかかるのを確かめるでしょうが,その後は―

上の「記録」は第二バチカン公会議および1992年の新教会要理( "the 1992 Catechism of the Newchurch" )を同協会での学習対象に含めています.協会は「継続性の更新についての解釈学」( "hermeneutic of renewal in cotinuity" )を求めること,さらにトレント式ミサ聖祭( "The Tridentine rite of Mass" ) を「唯一の "exclusive" 」 ミサ聖祭として扱うのを止めることを義務付けられています.協会は「交わりの精神」とともに,公式の教会教区生活に参入する必要があります.別の言い方をすれば,伝統主義の協会は新教会に所属したければあまり伝統的であってはならないのです.協会はこれ以外のなにを期待したでしょうか? 伝統を守るためには協会は新教会の監督下から離れなければならないでしょう.はたしてその機会はあるのでしょうか? 協会は公会議のモンスターに飲み込まれることを望みました.そして今,モンスターは協会を消化している最中です.

そういうわけですから,果たして聖ピオ十世会だけは同じ道をたどらないと言えるでしょうか? 聖ピオ十世会は今回のローマの誘惑を撥(は)ねつけるかもしれません.だが,決して思い違いをしないよう(=幻想を抱かないよう)気をつけましょう.主観主義者たちはなんどでも戻り,また戻り,また戻ってきて,彼らの求める犯罪的ナンセンスを常に戒(いまし)める原動となる客観的真実,客観的信仰( "objective truth and objective Faith" )を一掃(いっそう)しようとするでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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