2012年5月20日日曜日

253 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -5- 5/19

エレイソン・コメンツ 第253回 (2012年5月19日) 

長い論議を数回に分ける必要があったため,読者の皆さんはエレイソン・コメンツ(EC)が取り上げてきた「教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)」のこれまでの脈絡(みゃくらく)を見失(みうしな)ってしまったかもしれません。前回までの論議を要約してみましょう:-- 

シリーズ最初のEC 第241回では基本的なポイントを何点か立証しました.すなわち,カトリック教会は有機的統一体( "organic whole" )であり,もしその構成している諸々の信仰信条の一部だけを取り出して選び取る人がいるなら,その人は「選択者」( "a chooser" )であり,あるいは異端者(いたんしゃ)となること.さらに,いったん彼がそのカトリック信仰信条の一つでもカトリック教会の外に持ち出せば,水から電気分解(でんきぶんかい)で取り出した酸素(さんそ)が液体(えきたい)の一部でなくなりガスに変わってしまうように,そのカトリック信仰は同じものにとどまらないこと.第二バチカン公会議の唱(とな)えるエキュメニズムは非カトリック信徒とカトリック信徒が共有する信仰があると想定しているが,実際には「私は神を信じる "I believe in God" 」という一言でさえ,それがプロテスタント教式,あるいはカトリック教式の一信仰信念のシステム,もしくは信条(=教義)などに組み込まれると異(こと)なったものになりかねないことなどです( "…is liable to be quite different when it is incorporated in a Protestant or in a Catholic system of belief, or creed".)

EC第247回では別の比喩(ひゆ)を使って,カトリック教全体の一部分がひとたび全体から取り出されると同じではありえないことを例証しました.金貨は山積みの中から取り出しても金貨のままですが,生木(なまき)から切り落とされた枝(えだ)はまったく違ったもの,枯(か)れた木材(もくざい)になってしまいます.教会は金貨より樹木(きき)に似ています.というのも,私たちの主イエズス・キリストは自(みずか)らの教会を葡萄(ぶどう)の木に例(たと)えられました.事実,主は切り取られた枝は火に投げ入れられ燃やされると言われました(ヨハネ聖福音書15・6参照,興味深いことに,生きている枝で葡萄の枝ほど実を結(むす)ぶものはなく,死んだ木で葡萄の木ほど役に立たないものはありません.)(訳注後記)そういうわけで,カトリック教会から切り離(はな)された部分はカトリックのままにはとどまりません.エキュメニズムは切り離された部分もカトリックのままだと偽(いつわ)っています. 

EC第249回では第二バチカン公会議の諸文書がこのような間違(まちが)ったエキュメニズムの考えをどのように推(お)し進めようとしているかを示すつもりでしたが,その前のEC第248回で,同公会議の諸文書が内容の曖昧(あいまい)さで悪評(あくひょう)なことに予備警告(よびけいこく)を出さざるをえませんでした.そこで同公会議文書のひとつ「神の啓示に関する教義憲章( "Dei Verbum" )」(第8項)を例にあげ,いかにこれがモダニストたち(訳注・ "the modernists",現代(文明)主義者たち)の言う「生きた(カトリック)伝統」( "living Tradition" )といった間違(まちが)った考え方に門戸(もんこ)を開いているかを示しました.そのあと,EC第249回で同公会議諸文書のうちの3点,すなわちモダニストたちのエキュメニズムにとって重要な3点を紹介しました.それは "Dei Verbum" のほかに,「教会憲章」第8項 ( "Lumen Gentium #8" )と「エキュメニズムに関する教令」(第3項)( "Unitatis Redintegratio (#3)" )です. "Lumen Gentium" はキリストの真の教会は「狭(せま)い」カトリック教会の先までたどり着くとしています( "Christ 's "true" Church reaches beyond the "narrow" Catholic Church" ).そして "Unitatis Redintegratio" は先(ま)ずはじめに,(金貨が山積(やまづ)みの中でも外でも同じ金貨であるように)教会はカトリック教会の内(うち)でも外(そと)でも同じように見える「諸要素」( "elements" )すなわち部分( "parts" )で成り立っているとし,つぎに,そうした諸要素はカトリック教会の内外(うちそと)を問わず霊魂(れいこん)を救いうると述べています. 

EC第251回ではついに教皇ベネディクト16世の唱えるエキュメニズムに特に触(ふ)れました.ヴォルフガング・シューラー博士( "Dr. Wolfgang Schüler" )が自著「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」( "Benedict XVI and the Church's View of Itself" )で引用(いんよう)しているヨゼフ・ラッツィンガー神父( "Fr. Joseph Ratzinger" )の言葉を読めば,1960年代に若い神学者だった彼が山積みの中でも外でも金貨は同じという考え方とまったく同じ線で考えていたことが分かります.彼の後年の言葉は,枢機卿(すうききょう)となり教皇となった彼がまさしく山積みの金貨としての教会と有機的(ゆうきてき)統一体としての教会との彼なりのバランスを保(たも)とうと絶(た)えず努(つと)めてきたことを示(しめ)しています.しかし,シューラー博士が異議を唱え論じておられるように,このバランスを取ろうとする教皇の行為自体,彼自身の半身がいまだに教会を山積みの金貨だと信じていることを前提(ぜんてい)としています. 

読者の皆さんがヨゼフ・ラッツィンガー神父の言葉を私が曲解(きょっかい)したり文脈(ぶんみゃく)から外(はず)れて取り上げたりしていないかを証明せよと求めないなら,シリーズ最終の EC は結論として,そこから学(まな)んだレッスンをルフェーブル大司教の創設された聖ピオ十世会( "Archbishop Lefebvre's Society of St Pius X (SSPX)" )の現状に当てはめてみます.一方では聖ピオ十世会は真のカトリック教(=公教)全体,すなわち「唯一(ゆいいつ)の,聖なる,普遍(ふへん,=公)的かつ使徒継承」の神のみ教(おし)え(=カトリック教会〈公教会〉)全体の一部です( "On the one hand the SSPX is part of the true Catholic whole, "one, holy, Catholic and apostolic" " ).他方では聖ピオ十世会は病(やまい)にかかっている(第二バチカン)公会議主義体制の下におかれている教会全体の一部になることは避(さ)けたほうがいいとの考えです( "On the other hand it had better avoid making itself part of the diseased Conciliar whole" ).不健康な公会議の木に接ぎ木(つぎき)された健康な枝はどうしても同公会議の病に罹(かか)ってしまうでしょう.小枝(こえだ)にすぎないもの(訳注・ "a mere branch", =聖ピオ十世会)がその病を治すすべなどありません.

 キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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 第3パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章6節 
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XV, 6 

『私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,
人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.』

 "If any one abide not in me, he shall be cast forth as a branch and shall wither:
and they shall gather him up and cast him into the fire: and he burneth".


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