2011年9月1日木曜日

「ギリシアの贈り物」 -2-

エレイソン・コメンツ 第215回 (2011年8月27日)

「お言葉を返すようですが,司教閣下 “your Excellency” ,先週のエレイソン・コメンツ(第214回)でなされたように,聖ピオ十世会がカトリック教会主流派から締め出されている状態に終止符を打とうとだけ求めているローマ教皇庁代表の誠意,善意をあなたが問題視されるのはなぜなのでしょうか? あなたは彼らをトロイの木馬を使って意図的にトロイ人を欺(あざむ)いたギリシア人たちに比べられました.しかしローマ教皇庁の代表者たちが望んでいるのはただ長年にわたるカトリック教会内の伝統派と教会権威派の痛ましい分裂状態を打開・克服したい “to overcome the long and hurtful division between Catholics of Tradition and Church Authority” ということだけなのです!」

お答えしましょう.ローマ教皇庁の人たちの誠意,善意を疑う必要などまったくありません.事実は彼らに問題があるだけなのです! プロテスタント主義 “Protestantism” やリベラリズム(自由主義) “liberalism” が興(おこ)ってほぼ500年,私たちの時代はまったく混乱し道理が通らなくなってしまったため,今では(訳注・単に悪人の蔓延〈まんえん〉にとどまらず)正しいことをしていると確信しながら悪事をはたらいている人間までもが世界中に満ちあふれています.こういう人たちは自分が正しいことをしていると確信すればするほど,その及ぼす危険度が強まる可能性があります.なぜなら,彼らは主観的な誠意,善意の力で客観的な悪事に突き進み,他の人たちを道連れにするからです.ローマ教皇庁の人たちが自分たちの「新しい教会」 “Newchurch” の正当性を確信すればするほど,彼らは真のカトリック教会をより効果的に破壊することになるでしょう.

「ですが,司教閣下,彼らの真意を判断されるのは神のみです!」

信仰を守る点については,主観的な意図は相対的にみてさほど重要なことではありません.仮に,ローマ教皇庁の人たちが聖ピオ十世会をカトリック教会主流派に引っ張りこもうと善意で行動するのなら,私は個人的に彼らに好意を持つでしょうが,彼らが犯す間違い(=過〈あやま〉ち)は憎み(=嫌悪し)ます.彼らが真の信仰を壊そうと自ら知りつつ悪意で行動するなら,私は彼らが好きになれませんし,同時に彼らの犯す間違いをことごとく憎みます.彼らの感じが良いかどうか,私が彼らを好きになれるかどうかは,彼らが客観的に教会を破壊する間違いに比べればたいした問題ではありません.

好感のもてる人たちが恐ろしく間違ったことを説く場合,容易に言えることは二つあります.ひとつは,その間違いはそれを説く人みたいに好感が持てると感じることです.その場合,彼らは私たちの心をリベラリズムへ向けさせるでしょう.もうひとつは,彼らは自らが説く間違い同様に恐ろしい連中だと感じることです.この場合,第二バチカン公会議後の教皇たちは私たちを教皇空位主義 “sedevacantism” へと向かわせるでしょう.だが,人類の歴史を通じて,好感のもてる人たちが同時に恐ろしい間違いをするということが今(訳注・私たちが見ている現実) “the reality today” ほど容易に起きたことは過去にありませんでした.それが私たちの時代の実態です.この事態は「反キリスト者」 “the Antichrist” (訳注後記)の下でのみ一段と悪化する可能性がありますが,その先人たちがすでに世界を破滅に推し進めています.

ところで,9月14日に聖ピオ十世会代表団と会う予定のローマ教皇庁代表団は第二バチカン公会議が作り直した「新しい教会」の正当性を確信しているに違いありません.その場合,彼らは大きく間違っています “they are in grave error” .だが,ローマ教皇庁は代表団の編成にあたり,聖ピオ十世会をローマ教皇庁へ引き寄せるのに役立てようと個性的に魅力のある人たちを選ぶかもしれません.そこで親愛なる読者の皆さん,会談で聖ピオ十世会がローマの寛大かつ善意ある申し出をきっぱりと拒絶したように見える結果になったとしても驚かないでください.実態はそういうことではないでしょう.聖ピオ十世会が冷たくはねのけて拒むのはすべての恐ろしい間違いだけです.真のローマ教皇庁万歳!( “Long live true Rome ! ” )最愛なるローマ教皇庁の人々万歳!( “Long live sweet Romans ! ” )だが,彼らの間違いがなくならんことを!( “But perish their errors ! ” )

「司教閣下,彼らの本質的な間違いとは何でしょうか?」

人間を神の場に置いていることです.( “Putting man in the place of God.” )彼らは背教行為に落ち込み “sliding into apostasy” ,無数の人々の霊魂を道連れにしようとしています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第5パラグラフの最後の文章の訳注:
「反キリスト者」 “the Antichrist” の意味について.

単に「“キリスト”に敵対する」という意味だけでなく,「真理」,「真の正義」,「自然法」,「道徳」などの源である「真の神」に敵対する者という意味を含む.

「反キリスト者の行動」… 実生活上の具体例を挙げれば,
・「善人をその善業ゆえにねたみ,憎み,迫害し,排斥し,孤立させるために権力を振るう」こと.
・「弱者を嘲(あざけ)り,その心を傷つけ,生活の場から抹殺しようとし,また抹殺する」こと.
・「自分の利得」のために,公共の善(=神の所有物)を公然と踏みつけにすること.(例えば,社会的弱者への配慮を踏みにじる〈障碍(がい)者や病者のため携帯電話等の電源を切るよう配慮すべき場所で公然と電子通信機器を使用する等〉弱者無視の行為.)

このような利己的な行為を続ければ,それをする者自身の霊魂に自ら深い傷をつけ,心身の健康は悪業により徐々に蝕(むしば)まれ,最終的には自分の内外のあらゆる平和を失い,人生の破滅にまで至ることになる.
命と愛そのものであられるキリストを持たなければ,人は心安らかに,優しい気持ちで生きることはできない.
→『私(キリスト)は道であり,真理であり,命である.私によらずにはだれ一人父(神)のみもとには行けない.私を知れば私の父も知るだろう.…』(ヨハネ聖福音書14章6-7節)

「(社会的)弱者」は「神の光」を人に知らせるために存在している(神の光・命・愛の宣教者である).
すなわち神が弱者をそこに置いており,人々に互いに愛し合うことを学ぶ機会を与えておられるのである.
弱者の中に灯(とも)る光は神の命である.
人間は自分が助けた弱者から感謝を受けようと期待するどころではなく,むしろ共に「重荷・犠牲・苦難・悲哀」を担い合うことを通じて「慈悲・喜び・慰め・平和など」を分かち合える愛徳の機会を与えられたことについて神に感謝をささげるべきである.この「慈愛」がなければ,人間の霊魂は滅びるからである.
弱者に与えた損害を償わなかったり,弱者から搾取(さくしゅ)することは悪魔の仕業に等しい.
神はそれを見逃されず,必ず弱者を助けられ,悪人の悪業を決してお忘れにならず,必ず報復される.

反キリスト者が憎み,敵対しているのは,紛れもなく「天の御父なる神御自身の命」である.なぜなら「永遠の命たる神は御子キリストにより,肉体をとって(人の子として)この世に生まれて来られ,この世で一度死に渡されてもその御体は復活し,今もなお永遠に生きておられる」からである.
反キリスト者は,はかない人間に過ぎない自分だけを崇(あが)め,人間の天の御父であられる永遠の命たる真の神を憎み,そのみ子をも否定し,神から生まれたすべての命をも憎む.
反キリスト者が人間同士で連(つる)むのは,自分の利得のためだけである.

* * *

聖書からの引用:
新約聖書・ヨハネの第一の手紙:第2章15節から

第2章(15節-)

世の危険(2・12-17)
『…世と世にあるものを愛するな.世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごりなどはすべて御父から出るのではなく世から出る.世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる.

反キリスト(2・18-29)
小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの反キリストが現れたこれによって私たちは最後の時が来たことを知る
彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし,彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.

あなたたちは*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.
私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.

*⁵偽り者は誰か.イエズスがキリストであることを否定する者ではないか.御父とみ子を否む者,それこそ反キリストである.*⁶み子を否む者は御父をもたず,み子を宣言する者は父をももっている

あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる.*⁷そして主自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である

私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた.*⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない。その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ.
*⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.

(注釈)

*¹ イエズスの誕生から審判までの期間(〈新約〉ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,〈旧約〉ミカヤ4・1)

異端者と棄教者

公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である

*⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある

*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである

*⁶ ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.

*⁷ ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.

*⁸ 信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する

*⁹ テサロニケ人への手紙(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント人への手紙(第一)15・23参照.

* * *

第3章

神の子ら(3・1-24)
考えよ,神の子と称されるほど,御父から計りがたい愛を受けたことを.*¹私たちは神の子である

この世があなたたちを認めないのは御父を認めないからである.
愛する者たちよ,*²私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,*³それが示されるとき,私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,*⁴神をそのまま見るであろうから.
主が清いお方であるように,主に対するこの希望をもつ者は清くなる
罪を犯す者はそれによって法に背く.罪は*⁵法に背くことである.
あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは*⁶罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.*⁷主にとどまる者は罪を犯さない
罪を犯す者はまだ主を見ず主を知らないのである.

小さな子らよ,人に惑わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は義人である.罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである.
神の子が現れたのは悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.*⁸神の種がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである.
これによって,神の子と悪魔の子を区別することが出来る.正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.

あなたたちが初めから聞いた便りは愛し合うことである.悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.*⁹なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて兄弟の行いが正しかったからである
*¹⁰兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな.*¹¹私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
*¹²兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.

主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ.*¹³世の宝を持ちながら兄弟の乏しさをみてあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか.
子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの*¹⁴心よりも大きく,すべてのことを知りたもう
愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神のおきてを守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて*¹⁵神から受ける.そのおきてとは,神の子イエズス・キリストの*¹⁶み名を信じ,神がおきてを定められたように互いに愛すること,これである
そのおきてを守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る

(注釈)

*¹ ヨハネ聖福音書1・12,17・22参照.

*² ヨハネ聖福音書3・26参照.

*³ 「彼が現れる時」という訳もある.彼とはキリストのこと.

*⁴ 自然にはありえない神の直観(4・12,ヨハネ聖福音書1・18).

*⁵ 神への敵対行為をいう

*⁶ ヨハネ聖福音書1・29参照.

*⁷ キリスト信者は絶対に罪を犯さないのではない(1・8-10,2・10).しかし「神にあればあるほど,罪はなくなる」(アウグスティヌス).
*⁸ 成聖の恩寵(ヨハネ聖福音書4・14).

*⁹ アベル(カインの弟)は義人のかたどりである(マテオ聖福音書23・35,ヘブライ人への手紙11・4).
すでにそのころから,悪人は善人の徳によってとがめられることを忍ばず,ねたみのために善人の迫害者となった(〈旧約〉創世の書4・5).

*¹⁰ ヨハネ15・18-21,マテオ聖福音書24・9参照.

*¹¹ ヨハネ聖福音書5・24参照.

*¹² ヘブライ人への手紙6・1参照.

*¹³ ヤコボの手紙2・16,〈旧約〉第二法の書15・7,〈新約〉ルカ聖福音書10・30-37)参照.

*¹⁴ 良心(ヨハネ聖福音書21・5,17).
ヨハネはここに,いま信仰生活をよく営んでいるが,過去の罪に心がとがめられている信者について語っている

*¹⁵ ヨハネ聖福音書15・7-16参照.

*¹⁶ み名の威光.

* * *

第4章

偽預言者(4・1-6)
『愛する者よ,無差別に*¹霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.
*²次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている

小さな子らよ,あなたたちは神から出た者であって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちに*³ましますのは,この世にいる者より偉大なお方である
*⁴彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊が区別される

(4.7-21)
愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
*⁵私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.私たちが神を愛したのではなく,神が(*⁶先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされたこと,ここに愛がある.
*⁷愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.*⁸だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる

*⁹私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.*¹⁰愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる

愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,*¹¹主と同じ者だからである.
愛には恐れがない.*¹²完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想するからである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.
私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けたおきてである

(注釈)

*¹ 教えの超自然的霊感をいう(コリント人への手紙〈第一〉12・1以下).

*² 2―3節 キリストの神性あるいは人性を否定する異端説がもう出ていた.

*³ ヨハネ聖福音書16・33.時にはそう見えないにしても,キリストはサタン(悪魔)に勝(まさ)る.そのためにいつもキリストの超自然的な力に信頼を置かねばならない

*⁴ヨハネ聖福音書15・19参照.

*⁵ 福音は神の愛の啓示である.「託身,救い,恩寵の奥義」は,人間への神の愛の奥義である

*⁶ 後の書き入れらしい.しかしヨハネの思想をよく表している(19節参照→「私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.」).

*⁷ 神の愛される者に対しては神の愛にならって行わねばならぬ

*⁸ 1・3,ヨハネ聖福音書1・18,6・46,〈旧約〉脱出の書33・20参照.

*⁹ 使徒らのこと(ヨハネ聖福音書1・14).

*¹⁰ 恩寵にとどまることは,愛という基礎的なおきてをどのように実行するかにある

*¹¹ 人間は神の養子とされれば,御父とみ子の愛を受け,それをこの世に現すことができる

*¹² ペトロの手紙〈第一〉1・17,テサロニケ人への手紙〈第二〉3・7,ローマ人への手紙8・15,ティモテオへの手紙〈第二〉1・7,ヤコボの手紙2・13参照.

* * *

第5章

イエズス・キリストへの信仰(5・1-15)
イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方を愛する人々は,また神から生まれた者をも愛する
*²神を愛してそのおきてを行えば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.神への愛は*³そのおきてを守ることにあるが,そのおきてはむずかしいものではない.神から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

*⁴水と血によって来られたのはイエズス・キリストである。ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(*⁵天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは*⁶一致する

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.
神の証明とはそのみ子についてのことである
.「(10節)神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.」

その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ

*⁷私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった
*⁸私たちはみ旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる

罪の種類(5・16-17)
自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.*⁹死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.

悪魔に対して(5・18-21)
神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.*¹⁰神から生まれたお方がその人を守られるから,*¹¹悪者はその人に触れることができない.
私たちが神から出た者であり,*¹²世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.*¹³また神のみ子がすでに来られ,真実のお方を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,*¹⁴偶像を警戒せよ.

(注釈)

*¹ 神の子ら.

神への愛は,隣人愛を伴うはずである

キリスト教徒の試金石は,おきてへの忠実である.(ヨハネ聖福音書14・15,15・10).

*⁴ 洗礼と十字架上の死去

*⁵ このことばは後世の写本にだけある.

*⁶ 「一致する」とは,水と血と霊の三つが証明において一致するという意味である.神秘家であり神学者であるヨハネの思想である.
ヨハネはカルワリオ山でキリストの脇腹から水と血が流れ出るのを見た.そして水と血には,聖霊に導かれる教会において,洗礼の水と聖体の血が行うであろう清めのかたどりがある

(他の解釈として)聖霊,イエズスの洗礼と死は,イエズスがまことの人間であったことを証明する.また,そのとき神が現されたしるし(10節)は,イエズスがまことの神であることを証明する

*⁷ ヨハネ聖福音書1・12,20・31参照.

*⁸ 3・22,マテオ聖福音書7・7,ヨハネ聖福音書3・22,14・13以下参照.

*⁹ イエズスへの信仰を捨てる罪(ヨハネ聖福音書15・6).この罪は神のゆるしを妨げるものであるから,ゆるしがたい

*¹⁰ イエズス・キリスト.

*¹¹ 悪魔のこと.

*¹² ルカ聖福音書4・6参照.

*¹³ 〈旧約〉エレミア24・7,ヨハネ1・2-3,17-3参照.

*¹⁴ 人を「まことの信仰と神への愛」から遠ざけるすべてのものを,偶像と言っているらしい

* * *