2014年12月13日土曜日

387 区別は必要 12/13

エレイソン・コメンツ 第387回 (2014年12月13日) 

    私が肺癌に罹っていなくても肝臓癌で死ぬだろうという公理(11月29日付エレイソン・コメンツをご参照ください)は対応が厄介です (わたくしが はいがんに かかって いなくても かんぞうがんで しぬだろう という こうり〈じゅういち がつ にじゅうく にち づけ えれいそん・こめんつを ごさんしょう ください〉は たいおうが やっかいです)( "The principle that cancer of the liver will kill me without my necessarily having lung cancer (cf. the EC of Nov. 29) is annoying, …" ).何故なら,私は癌を一纏めにして非難する訳には行かず,肺癌と肝臓癌を区別する必要があるからです(なぜなら,わたくしは がんを ひとまとめに して ひなんする わけには いかず,はいがんと かんぞうがんを くべつする ひつようが あるから です)( "… because it means that I may need to distinguish instead of indulging myself in blanket condemnations, …" ).だが,物事を区別するというのは常識ですし,現実に即した事です(だが,ものごとをくべつするというのはじょうしきですし,げんじつにそくしたことです)( "… but distinctions are common sense and correspond to reality." ).従って,今日のように世界中が混乱している時(したがって,こんにちの ように せかいじゅうが こんらん している とき)( "So in today's universal confusion, …" ),現実に即したままでいようとすれば,私は善と悪の混合物は全体として悪だが,善の部分を個々に見た場合,それぞれの部分が悪いわけではないし,それは善の部分の良さが全体の良さを意味するわけではないのと同様だと認識しなければならない場合があるでしょう(げんじつに そくした ままで いようと すれば,わたくしは ぜんと あくの こんごうぶつは ぜんたい として あくだが,ぜんの ぶぶんを ここに みた ばあい,それぞれの ぶぶんが わるい わけでは ないし,それは ぜんの ぶぶんの よさが ぜんたいの よさを いみする わけでは ないのと どうようだと にんしきしなければ ならない ばあいが あるでしょう)( "… to stay in touch with reality there are times when I need to recognize that a mixture of good and bad will be bad as a whole, but that does not mean that its good parts, as parts, are bad, any more than that the goodness of the good parts means that the whole is good." ).

    新式ミサ聖祭( "the Novus Ordo Mass" )を例にして考えてみましょう(しんしき みさせいさいを れいに して かんがえて みましょう)( "Take for instance the Novus Ordo Mass." ).新式ミサ聖祭の新式典礼( "The new Rite" )は全体としてカトリック教の本質的真実(=真理)(〈聖体の秘蹟において〉唯一の真の神の御独り子また救世主で我らの主イエズス・キリストに在す三位一体〈=聖父・聖子・聖霊〉の神の実在〈 "the Real Presence" 〉,犠牲の生け贄〈 "the Sacrifice" 〉,犠牲の生け贄を奉献する司祭職〈 "the sacrificing priesthood" 〉など)の表現を著しく弱める為(しんしき みさせいさいの しんしき てんれいは ぜんたいとして かとりっく きょうの ほんしきてき しんじつ〈=しんり〉〈〈せいたいの ひせきに おいて〉 ゆいいつの まことの かみの おんひとりご また きゅうせいしゅで われらの しゅ いえずす・きりすとに まします さんみ いったい〈=ちち・こ・せいれい〉の かみの じつざい,ぎせいの いけにえ,ぎせいの いけにえを ほうけんする しさいしょく など〉の ひょうげんを いちじるしく よわめる ため)( "The new Rite as a whole so diminishes the expression of essential Catholic truths (the Real Presence, the Sacrifice, the sacrificing priesthood, etc. ) " ),全体として見れば良くないので司祭はそれ(=新式典礼)を用いるべきではないですし(ぜんたい として みれば よくないので しさいは それ〈=しんしきてんれい〉を もちいる べき ではない ですし),( "that it is as a whole so bad that no priest should use it," ),カトリック信徒はそれ(=新式ミサ典礼に則ったミサ聖祭)に出席すべきではありません(かとりっく しんとは それ〈=しんしき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〉に しゅっせき すべき では ありません)( "… nor Catholic attend it." ).しかし,そのことは新式ミサ聖祭の一部の形式としてのパンと葡萄酒の聖変化の秘蹟的形式( "the sacramental Form of Consecration" )までもが良くなく,無効だという事を意味しません(しかし,そのことは しんしき みさせいさいの いちぶの けいしき としての ぱんと ぶどうしゅの せいへんかの ひせき てき けいしき までもが よくなく,むこうだ という ことを いみ しません)( "But that does not mean that that part of the Mass which is the sacramental Form of Consecration of the bread and wine is bad or invalid." ).新式ミサ聖祭における新式典礼で用いられる「これは我が体なり」( “This is my Body” )という言い方は間違いなく有効ですし,「これは我が血の杯なり」( “This is the chalice of my Blood” )は極めて有効に近いでしょう(しんしき みさ せいさいに おける しんしき てんれいで もちいられる「これは わが からだ なり」という いいかたは まちがい なく ゆうこう ですし,「これは わが ちの さかずき なり」は きわめて ゆうこうに ちかい でしょう)( " “This is my Body” is certainly valid, “This is the chalice of my Blood” is most likely to be valid, …" ).全体として反カトリック的( "so uncatholic" )である新式典礼だからといって,それが無効になることはありません(ぜんたい として はん かとりっく てき である しんしき てんれい だからと いって,それが むこうに なる ことは ありません)( "… it is certainly not invalidated by the new rite as a whole being so uncatholic." ).したがって,私が新式ミサ聖祭( "the new Mass" )は常に避けなければならないと言う場合( "Therefore if I say that the new Mass must always be avoided, …" ),私は真実を述べていますが( "I am telling the truth, …" ),もし新式ミサ聖祭は常に無効だと言えば,私は真実を語っていないことになり( "… but if I say it is always invalid, I am not telling the truth and …" ),早かれ遅かれ誇張発言の為罰金を払わされる事になるでしょう( "… sooner or later I will pay the penalty for exaggerating." )(したがって,わたくしが しんしき みさ せいさいは つねに さけなければ ならないと いう ばあい,わたくしは しんじつを のべて いますが,もし しんしき みさ せいさいは つねに むこうだ といえば,わたくしは しんじつを かたって いない ことに なり,はやかれ おそかれ こちょう はつげんの ため ばっきんを はらわされる ことに なる でしょう)

    新式典礼( "the new Rite" )の司祭叙階 ( "priestly Ordination" )(訳注3・1 ・第二バチカン公会議以前の旧典礼では「品級」と呼ばれる)についても同じことが言えます(しんしき てんれいの しさい じょかいに ついても おなじ ことが いえます)( "Similarly with the new Rite of priestly Ordination." ).新式典礼は全体としてカトリック教司祭職( "the Catholic priesthood" ),とりわけ犠牲の生け贄を奉献する司祭職( "a sacrificing priesthood" )についての諸諸の本質的真実の表現を著しく減らしているので良くありませんが(しんしき てんれいは ぜんたいとして かとりっく きょう しさい しょく,とりわけ ぎせいの いけにえを ほうけん する しさいしょく に ついての もろもろの ほんしつ てき しんじつの ひょうげんを いちじるしく へらしているので よく ありませんが)( "The new Rite as a whole has severely diminished the expression of essential truths of the Catholic priesthood, especially that it is a sacrificing priesthood, …" ),新ラテン語版では旧ラテン語版に比べ(「ut」の代わりに「et」が使われ)強められているものの,新式典礼の秘蹟の形式( "the sacramental Form" )に合致している部分は有効です(しん らてんご ばん では きゅう らてんご ばんに くらべ〈「う(と)」のかわりに「え(と)」が つかわれ〉つよめられて いる ものの,しんしき てんれいの ひせきの けいしきに がっち している ぶぶんは ゆうこう です)( "… but that part of the new Rite which is the sacramental Form is, at any rate in the new Latin version, if anything stronger (by the “et” instead of “ut”) than the old Latin version." ).したがって,(新式典礼で)叙階の秘跡を授ける司教( "the ordaining bishop" )が真の司教で真の秘蹟的意向( "the true sacramental Intention" )を持つとすれば,新式典礼において叙階の秘跡を受けた司祭は誰も真の司祭であり得ないというのはまったく真実でありません(したがって,〈しんしき てんれいで〉じょかいの ひせきを さずける しきょうが まことの しきょうで まことの ひせき てき いこうを もつと すれば,しんしき てんれいに おいて じょかいの ひせきを うけた しさいは だれも まことの しさいで あり えないと いうのは まったく しんじつで ありません)( "Therefore assuming that the ordaining bishop is a true bishop and had the true sacramental Intention, it is simply not true to say that no priest ordained in the new Rite can be a true priest." ).もし,それが真の司祭でないと言い張る人がいれば,その人は真実から逸脱したとして,早かれ遅かれ何らかの罰を受けるでしょう(もし,それが まことの しさい でないと いいはる ひとが いれば,その ひとは しんじつ から いつだつ した として,はやかれ おそかれ なんらかの ばつを うける でしょう) ( "And if one says it, sooner or later one will pay some penalty for departing from the truth." ).

    この二つの新式典礼( "these two new Rites" )が,全体としては,非カトリック的だ( "the de-catholicisation" )ということから(この ふたつの しんしき てんれいが,ぜんたいとしては,ひ かとりっく てきだ という ことから)( "Now from the de-catholicisation of these two new Rites as wholes, …" ),それらの諸諸の秘蹟的形式 ( "sacramental Forms" ) に合致している部分の有効性は別にして(それらの もろもろの ひせきてき けいしきに がっち している ぶぶんの ゆうこうせいは べつにして)( "… while one may not argue that their sacramental Forms are invalid, …" ),それは司祭や司教の秘蹟的意向( "sacramental Intention" )を結局は台無しにして無効にさせると論ずる者がいるでしょう(それは しさいや しきょうの ひせき てき いこうを けっきょくは だいなし にして むこうに させると ろんずる ものが いる でしょう)( "… one may well argue that in the end they will undermine and invalidate the priest's or bishop's sacramental Intention, …" ).だが,この論議は,白か黒かではなく,悲しいかな,灰色だという意味で違った性格を帯びます(だが,この ぎろんは,しろか くろか では なく,かなしい かな,はいいろだ という いみで ちがった せいかくを おびます)( "… but that is a different argument, no longer in black and white but, alas, in grey." ).この議論は,諸諸の非カトリック的な典礼( "de-catholicised Rites" )を常時使っていると,教会がそれらの諸諸の典礼を通して何を為すか( "what the Church does with those Rites " )についての司祭や司教の考えが次第に変わって(=改変されて)しまい(この ぎろんは,もろもろの ひ かとりっく てきな てんれい をじょうじ つかって いると,きょうかいが それらの しょてんれいを とおして なにを なすか に ついての しさいや しきょうの かんがえが しだいに かわって〈=かいへん されて〉しまい)( "For indeed the argument is that the steady use of de-catholicised Rites will slowly so alter the priest's or bishop's concept of what the Church does with those Rites …" ),最終的には司祭や司教は教会が何を為すかについてのカトリック教的意向( "the Catholic Intention" )(さいしゅうてき には しさいや しきょうは きょうかいが なにを なすかに ついての かとりっくきょう てき いこう)( "… that in the end he will no longer have the Catholic Intention to do what the Church does, …" ),即ちその秘蹟が有効である為に必要不可欠な意向を持たなくなってしまう,というものです(すなわち その ひせきが ゆうこう である ために ひつよう ふかけつな いこうを もたなくなって しまう,というもの です)( "Intention necessary for validity of the sacrament." ).言い換えれば,白は灰色を通して徐々に黒に変わるという訳です(いいかえれば,しろは はいいろを とおして じょじょに くろに かわる という わけです)( "In other words, white will only gradually turn through grey to black." ).だが,全能の神以外に,灰色が黒に変わる事を確実に感知できる者がいるでしょうか?(だが,ぜんのうの かみ いがいに,はいいろが くろに かわる ことを かくじつに かんちできるものがいるでしょうか?)( "But who, other than Almighty God, can know for certain when the grey turns into black ? " )もう一度繰り返します.私は真実を見分け,知ろうと望めば,注意して掛からなければなりません(もういちど くりかえします.わたくしは しんじつを みわけ,しろうと のぞめば,ちゅういして かからなければ なりません)( "Once more, I must take care if I want to discern and know the truth." ).

    この白と黒との間の言葉の遊び(この しろと くろとの あいだの ことばの あそび)( "This playing between white and black, …" ),この曖昧さは(この あいまいさ は)( "… this ambiguity, …" ),まさしく公会議派による諸諸の秘蹟的典礼( "sacramental Rites" )の改革に秘められた魔術的なものです(まさしく こうかいぎは に よる もろもろの ひせきてき てんれいの かいかくに ひめられた まじゅつ てきな もの です)( "… is what is properly diabolical in the Conciliar reform of the sacramental Rites." ).真実を語るとすれば,私は公会議派のミサ聖祭がカトリック教の諸諸の秘跡を壊してしまったとはまだ言いません(しんじつをかたるとすれば,わたくしは こうかいぎは の みさ せいさいが かとりっく きょうの もろもろの ひせきを こわして しまった とは まだ いいません)( "If I wish to tell the truth, I will not yet say that they have destroyed the Catholic sacraments, …" ).だが,それらのミサ聖祭はカトリック教の諸諸の秘跡を確実に台無しにしています(だが,それらの みさ せいさいは かとりっく きょうの もろもろ の ひせきを かくじつに だいなしに して います)( "… but they are certainly undermining them, …" ).したがって,私はカトリック信仰を守り続けようと望むなら,それらのミサ聖祭を全体として確実に避けようとするでしょう(したがって,わたくしは かとりっく しんこうを まもり つづけようと のぞむなら,それらの みさ せいさいを ぜんたいとして かくじつに さけようと する でしょう)( "… and so if I wish to keep the Catholic Faith, I will certainly as a whole avoid them. " ).

    キリエ・エレイソン.
    (きりえ・えれいそん)
    (主よ,憐れみ給え.)
    (しゅよ,あわれみたまえ)
    ( "Kyrie eleison." )

    公会議は
    危険な灰色から始めて
    やがて黒に変えます.
    (こうかいぎは
    きけんな はいいろ から はじめて
    やがて くろに かえます.)

    ( "The Council works
    from dangerous greys to black." )


    カトリック信徒は
    道を踏み外さないよう
    白を追求します.
    (かとりっくしんとは
    みちを ふみはずさない よう
    しろを ようきゅう します.)

    ( "A Catholic seeks out
    white to stay on track." )


    リチャード・ウィリアムソン司教






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(注:本投稿記事〈第387回エレイソン・コメンツ「区別は必要(くべつは ひつよう)」"DISTINCTIONS NECESSARY" 〉は2015年3月7日23:59時に掲載されました.)