2014年12月27日土曜日

389 大司教の感覚 II 12/27

エレイソン・コメンツ 第389回 (2014年12月27日)

偉大な大司教は真の信仰を貫き通し,確固として,ローマとの話し合いを推し進めました(いだいな だいしきょうは まことの しんこうを つらぬき とおし,かっことして,ろーまとの はなしあいを おしすすめ ました.)
( "Towards Rome a great Archbishop did, yes, push." )

だが,ローマの人々の心がグニャグニャなら,一体何が出来るでしょうか?(だが,ろーまの ひとびとの こころが ぐにゃぐにゃ なら,いったい なにが できる でしょうか?)
( "But what can be done when Romans' minds are mush ? " )

12週間前(2014年10月5日)の「エレイソン・コメンツ」で,1991年上旬にルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が「フィデリテ」 "Fideliter" 誌と行なった最後の公開インタビューからの抜粋を第1回目として紹介しました(じゅうに しゅうかん まえ〈にせん じゅうよ ねん じゅうがつ いつか〉の「えれいそん・こめんつ」で,せん きゅうひゃく きゅうじゅういち ねん さんがつ に るふぇーぶる だいしきょう が「ふぃでりて」し と おこなった さいごの こうかい いんたびゅー からの ばっすい だい いっかいめ として しょうかい しました)( "Twelve weeks ago (Oct. 5) “Eleison Comments” presented a first series of extracts from the last public interview of Archbishop Lefebvre, given to Fideliter magazine in early 1991." ).今回は第2回目として最後の抜粋をご紹介します.多少編集を加えましたが,内容を簡潔かつ分かり易くするためです(こんかいは だい にかいめ として さいごの ばっすいを ごしょうかい します.たしょう へんしゅうを くわえ ましたが,ないようを かんけつ かつ わかり やすく するため です):--( "Here follows a second and last series of extracts, slightly edited but only for the sake of brevity and clarity:-- " )

問い(とい)「フィデリテ」 誌)(〈「ふぃでりて」し〉):  私達は聖ピオ十世会(SSPX)の20年間の存在から何の様な結論を出せば良いでしょうか?(わたくし たちは せいぴお じゅっせい かいの にじゅう ねんかんの そんざいから どの ような けつろんを だせば よい でしょうか?)( "Q: What conclusions can we draw from the Society of St Pius X after 20 years of its existence ? " )

答え(こたえ)(ルフェーブル大司教)(るふぇーぶる だいしきょう):  善良なる主( "The Good Lord" )は(訳注後記 2・1 ),(大宇宙にあまねく〈遍く・普く〉行き渡る唯一の)真の伝統( "Tradition" )を望まれました(ぜんりょう なる しゅ は〈だい うちゅうに あまねく ゆきわたる ゆいいつの〉まことの でんとうを のぞまれ ました)( "A: The Good Lord wanted Catholic Tradition." )(訳注後記 2・2 ).私は聖ピオ十世会( "SSPX" )が真の神( "God" )の望まれた真の信仰( "the Faith" ),真の教会の真実( "the truth of the Church" )を守り続ける為の手段だと深く確信しています(わたくしは せいぴお じゅっせい かいが まことの かみの のぞまれた まことの しんこう,まことの きょうかいの しんじつを まもり つづける ための しゅだん だと ふかく かくしん して います)( "I am deeply convinced that the Society is the means that God wanted to keep and maintain the Faith, the truth of the Church." ).私達は教会の宝を忠実に守り続けなければならず,(わたくしたちは きょうかいの たからを ちゅうじつに まもり つづけなければ ならず),( "We must continue faithfully to keep the treasures of the Church, …" ),それ(其れ)が何時の日かローマ(=羅馬)(訳注後記 2・3)で失われた物を取り戻すだろうと期待しなければなりません(それが いつの ひ か ろーま〈ろーま〈やくちゅう=こだい ろーま・ろーま ていこくを さす かんじ〉〉で うしなわれた ものを とりもどす だろうと きたい しなければ なりません)( "… hoping that one day they may resume the place which they should never have lost in Rome." ).

〔第1問答・邦訳/英語原文〕

問い:  私達は聖ピオ十世会の20年間の存在から何の様な結論を出せば良いでしょうか?

答え:  善良なる主は伝統を望まれました.私は聖ピオ十世会が真の神の望まれた真の信仰,真の教会の真実を守り続ける為の手段だと深く確信しています.私達は教会の宝を忠実に守り続けなければならず,それが何時の日かローマ(=羅馬)で失われた物を取り戻すだろうと期待しなければなりません.

( "Q: What conclusions can we draw from the Society of St Pius X after 20 years of its existence ?

A:  The Good Lord wanted Catholic Tradition. I am deeply convinced that the Society is the means that God wanted to keep and maintain the Faith, the truth of the Church. We must continue faithfully to keep the treasures of the Church, hoping that one day they may resume the place which they should never have lost in Rome." )

問い:  貴方は私達を近代ローマと対峙させるのは典礼( "the liturgy" )より,現在ではむしろ(寧ろ)真の信仰( "the Faith" )だとよく言われます(あなたは わたくしたちを きんだい ろーまと たいじ させる のは てんれい より むしろ まことの しんこう だと よく いわれます)( "Q: You often say that, more than the liturgy, it is now the Faith which opposes us to modern Rome. " ).

答え:  勿論典礼や諸々の秘跡の問題はとても大切です.だが,最も大切な事は真の信仰( "the Faith" )の問題です(もちろん てんれいや もろもろの ひせきの もんだいは とても たいせつ です.だが,もっとも たいせつな ことは まことの しんこうの もんだい です)( "A: Certainly the question of the liturgy and the sacraments is very important, but the most important is the question of the Faith." ).それ(其れ)は私達に取っての問題という訳ではあり(有り)ません(それは わたくしたちに とっての もんだい という わけでは ありません)( "This is not a question for us." ).私達はあらゆる時代の真の信仰( "the Faith of all time" )(訳注後記 3・1 ),トレント公会議当時の信仰,聖ピオ10世の示された公教要理に基づく信仰,バチカン第二公会議以前のあらゆる公会議やあらゆる教皇が説いた信仰を持ち続けています(わたくしたちは あらゆる じだいの まことの しんこう〈=えいえんに ふへん かつ ふかへん=まことの しんこう=あらゆる じだいに てきごう する しんこう〉,とれんと こうかいぎ とうじの しんこう,せいぴお じゅっせいの しめされた こうきょう ようりに もとづく しんこう,ばちかん だいに こうかいぎ いぜんの あらゆる こうかいぎや あらゆる きょうこうが といた しんこうを もち つづけて います)( "We have the Faith of all time, of the Council of Trent, of the Catechism of St. Pius X, of all the Councils and all the Popes before Vatican II." ).これ(此れ・是・之・惟)まで(迄)数年にわたり(亘り)ローマの人達は公会議の全ては伝統に完全に合致するという事を示そうとして来ました(これまで すうねんに わたり ろーまの ひと たちは こうかいぎの すべては でんとうに かんぜんに がっちする ということを しめそうと して きました)( "For years they have tried in Rome to show that everything in the Council was fully consistent with this Tradition. " ).だが今では,彼等は伝えるべき伝統や信仰預託( "Deposit" )等何も無いと言い,その(其の)本性を現し始めています(だが いま では,かれらは つたえる べき でんとうや しんこう よたく など なにも ない といい,その ほんしょうを あらわし はじめて います)( "Now they are showing their true colours by saying there is no longer any Tradition or Deposit to be transmitted." ).教会における(於ける)伝統とは教皇が今日述べられる内容が全てです(きょうかいに おける でんとう とは きょうこうが こんにち のべられる ないようが すべて です.)( "Tradition in the Church is whatever the Pope is saying today." ).貴方方は教皇や諸諸の司教達が今日述べられる事に従わなければなりません(あなたがたは きょうこうや もろもろの しきょう たちが こんにち のべられる ことに したがわなければ なりません.)( "You must submit to what the Pope and the bishops say today." ).これが彼等の言う有名な「生きた伝統」(‘Living Tradition’)で,私達が1988年に第二公会議を非難した唯一の根拠です(これが かれらの いう ゆうめいな「いきた でんとう」で,わたくしたちが せん きゅうひゃく はちじゅう はちねんに だいに こうかいぎを ひなん した ゆいいつの こんきょ です)( "Here is their famous ‘Living Tradition’, which was the only basis for our condemnation in 1988." ).

今や彼等は彼等の言う事が教皇ピオ9世が書き記した内容やトレント公会議が公布した内容と一致していると立証する努力さえ投げ出しています(いまや かれらは かれらの いうことが きょうこう ぴお きゅうせいが かきしるした ないようや とれんと こうかいぎが こうふ した ないようと いっち していると りっしょう する どりょく さえ なげだして います)( "Now they have given up trying to prove that what they say is consistent with what Pius IX wrote or with what the Council of Trent promulgated. " ).そのような(其の様な)事はもう終わった事で,ラツィンガー枢機卿が言う様に時代遅れだと言う訳です(そのような ことは もう おわった ことで,らつぃんがー すうききょうが いうように じだい おくれだ というわけです)( "No, all of that is over; it’s outdated, as Cardinal Ratzinger said. " ).だが,この点ははっきりしており,彼等は以前にも同じ事を言っていたのかも知れません(だが,このてんは はっきり しており,かれらは いぜん にも おなじ ことを いって いたのかも しれません)( "It is clear, and they might have said so earlier. " ).
私達が彼等と話し合い,議論し合っても無意味でした.今や私達は権力の独裁に苦しめられています.何故なら,過去から引き継がれた諸諸の法則が最早何も残っていないからです(わたくし たちが かれらと はなし あい,ぎろん しあっても むいみ でした.いまや わたくし たちは けんりょくの どくさいに くるしめられて います.なぜなら,かこ から ひきつがれた もろもろの ほうそくが もはや なにも のこって いない からです.)( "There was no point in our talking, in our discussing with them. Now we suffer from the tyranny of authority, because there are no longer any rules from the past. " ).

彼等は私達が正しい事を益々強く示しています(かれらは わたくし たちが ただしい ことを ますます つよく しめして います.)( "They are showing more and more that we are right." ).
私達は私達とは違う哲学を持つ人達,物の見方の違う人達,近代の主観論的哲学者の影響を受けた人達を相手にしています(わたくし たちは わたくし たち とは ちがう てつがくを もつ ひと たち,ものの みかたの ちがう ひと たち,きんだいの しゅかん ろん てき てつがく しゃの えいきょうを うけた ひと たちを あいてに して います)( "We are dealing with people who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers." ).彼等には確固たる真理,教義等何も無いのです.あらゆる物は進化すると言うのです(かれら には かっこ たる しんり,きょうぎ など なにも ない のです.あらゆる ものは しんか すると いう のです.)( "For them there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving." ).これは正しくフリーメーソン的な信仰の破壊です(これは まさしく ふりーめーそん てきな しんこうの はかい です.)( "This is really the Masonic destruction of the Faith." ).幸いな事に,私達には拠って立つべき伝統が有ります!(さいわいな ことに,わたくし たち には よって たつ べき でんとうが あります!)( "Fortunately, we have Tradition to lean on !" )

〔第2問答・邦訳/英語原文〕

問い:  貴方は私達を近代ローマと対峙させるのは典礼よりむしろ(寧ろ)真の信仰だとよく言われます

答え:  勿論典礼や諸諸の秘跡の問題はとても大切です.だが,最も大切な事は真の信仰の問題です.それは私達に取っての問題という訳では有りません.私達はあらゆる時代の信仰,トレント公会議当時の信仰,聖ピオ10世の示された公教要理に基づく信仰,バチカン第二公会議以前のあらゆる公会議やあらゆる教皇が説いた信仰を持ち続けています.これまで数年にわたりローマの人達は公会議の全ては伝統に完全に合致すると言う事を示そうとして来ました.だが今では,彼等は伝えるべき伝統や信仰預託など何も無いと言い,その本性を現し始めています.教会における伝統とは教皇が今日述べられる内容が全てです.貴方方は教皇や諸諸の司教達が今日述べられる事に従わなければなりません.これが彼等の言う有名な「生きた伝統」で,私達が1988年に第二公会議を非難した唯一の根拠です.

今や彼等は彼等の言う事が教皇ピオ9世が書き記した内容やトレント公会議が公布した内容と一致していると立証する努力さえ投げ出しています.その様な事はもう終わった事で,ラツィンガー枢機卿が言う様に時代遅れだと言う訳です.だが,この点ははっきりしており,彼等は以前にも同じ事を言っていたのかも知れません.
私達が彼等と話し合い,議論し合っても無意味でした.今や私達は権力の独裁に苦しめられています.何故なら,過去から引き継がれた諸諸の法則が最早何も残っていないからです.

彼等は私達が正しい事を益々強く示しています.私達は私達とは違う哲学を持つ人達,物の見方の違う人達,近代の主観論的哲学者の影響を受けた人達を相手にしています.彼等には確固たる真理,教義など何も無いのです.あらゆる物は進化すると言うのです.是は正しくフリーメーソン的な信仰の破壊です.幸いな事に,私達には拠って立つべき伝統が有ります!

( "Q:  You often say that, more than the liturgy, it is now the Faith which opposes us to modern Rome.

A:  Certainly the question of the liturgy and the sacraments is very important, but the most important is the question of the Faith. This is not a question for us. We have the Faith of all time, of the Council of Trent, of the Catechism of St. Pius X, of all the Councils and all the Popes before Vatican II. For years they have tried in Rome to show that everything in the Council was fully consistent with this Tradition. Now they are showing their true colours by saying there is no longer any Tradition or Deposit to be transmitted. Tradition in the Church is whatever the Pope is saying today. You must submit to what the Pope and the bishops say today. Here is their famous ‘Living Tradition’, which was the only basis for our condemnation in 1988.

Now they have given up trying to prove that what they say is consistent with what Pius IX wrote or with what the Council of Trent promulgated. No, all of that is over; it’s outdated, as Cardinal Ratzinger said. It is clear, and they might have said so earlier. There was no point in our talking, in our discussing with them. Now we suffer from the tyranny of authority, because there are no longer any rules from the past.

They are showing more and more that we are right.
We are dealing with people who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers. For them there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving. This is really the Masonic destruction of the Faith. Fortunately, we have Tradition to lean on! " )

問い: 貴方は聖ピオ十世会がこれまで何度か無くなり掛けたのに存続し続けているのは(あなたは せい ぴお じゅっせい かいが これまで なんどか なくなり かけた のに そんぞく しつづけて いる のは),間違い無く神に祝福されているのだと強調されてきました(まちがい なく かみに しゅくふく されて いる のだと きょうちょう されて きました).( "Q:  You have emphasized that you are sure that the Society is blessed by God, because at several points it could have disappeared." )

答え: 全くその通りです(まったく その とおり です).聖ピオ十世会はこれまで(迄)とてもひどい(迚も酷い)攻撃にさらされ(曝され)て来ました.これはとても苦痛な事です(せい ぴお じゅっせい かいは これ まで とても ひどい こうげきに さらされて きました.これは とても くつうな こと です).だが,それでも私達は守り続けて来た真の信仰や真の伝統( "Faith and Tradition" )の路線が不滅だと信じなければなりません(だが,それ でも わたくし たちは まもり つづけて きた まことの しんこうや まことの でんとうの ろせんが ふめつ だと しんじなければ なり ません).何故なら,神は教会が滅びる事など(等・抔)許されるはず(筈)が無いからです(なぜなら,かみは きょうかいが ほろびる こと など ゆるされる はずが ない から です).( "A:  Indeed. It has kept coming under very difficult attacks. That is very painful, but we must nonetheless believe that the line of Faith and Tradition that we are following, is imperishable, because God cannot allow his Church to perish." )

〔第3問答・邦訳/英語原文〕

問い:  貴方方は 聖ピオ十世会がこれ迄何度か無くなり掛けたのに存続し続けているのは,間違い無く神に祝福されているのだと強調されて来ました

答え:  全くその通りです.聖ピオ十世会はこれまで,とても酷い攻撃に曝されて来ました.これはとても苦痛な事です.だが,それでも私達は守り続けて来た信仰や伝統の路線が不滅だと信じなければなりません.何故なら,神は教会が滅びる事等許される筈が無いからです.

( "Q: You have emphasized that you are sure that the Society is blessed by God, because at several points it could have disappeared.

A:  Indeed. It has kept coming under very difficult attacks. That is very painful, but we must nonetheless believe that the line of Faith and Tradition that we are following, is imperishable, because God cannot allow his Church to perish." )

問い:  貴方はローマとの合意がまとまる(纏まる)可能性に希望を持ち続けている信徒達に何と言われますか(あなたは ろーま との ごういが まとまる かのう せいに きぼうを もち つづけて いる しんと たちに なんと いわれ ますか) ( "Q;  What can you say to those of the faithful who still hope in the possibility of an agreement with Rome? " )

答え:  問題を理解し,私達が真の伝統と真の信仰の細道を真っ直ぐ断固として進み続ける様( "to continue along the straight and firm path of Tradition and the Faith" )正確に助けてくれる(呉れる)本物の信徒達は(もんだいを りかいし,わたくしたちが まことの でんとうと まことの しんこうの ほそみちを まっすぐ だんこ として すすみ つづける よう せいかくに たすけて くれる ほんものの しんと たちは)( "A:  Our true faithful, those who have understood the problem and who have precisely helped us to continue along the straight and firm path of Tradition and the Faith, …" ),私が試みているローマへのアプローチ(=接近)は危険な物であり,時間を浪費しているだけだと助言してくれました(わたくしが こころみて いる ろーまへの あぷろーちは きけんな もの であり,じかんを ろうひ している だけ だと じょげん して くれました)( "… told me that the approaches I was making towards Rome were dangerous and that I was wasting my time." ).だが,私は最後の瞬間まで,ローマには僅かなりとも誠実さを持つ人達が居るだろうと望みを懸けました(だが,わたくしは さいごの しゅんかん まで,ろーま には わずか なりとも せいじつさを もつ ひとたちが いるだろうと のぞみを かけました)( "Yet I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty, …" ).従って,私は最大限の努力をしなかったと非難されることはないでしょう(したがって,わたくしは さいだいげんの どりょくを しなかったと ひなん される ことは ない でしょう)( "… so I cannot be blamed for not having done the maximum." ).だから「ローマと何としても合意しなければ」と言う人達に,私は今でも,ローマとの交渉中に私は必要以上の努力をしたと言えると思います(だから「ろーまと なんとしても ごうい しなければ」という ひとたちに,わたくしは いまでも,ろーまとの こうしょう ちゅうに わたくしは ひつよう いじょうの どりょくを したと いえると おもいます)( "So now too, to those who say to me, “You’ve got to reach an agreement with Rome,” I think I can say that I then went even further than I should have." ).

〔第4問答・邦訳/英語原文〕

問い:  貴方はローマとの合意が纏まる可能性に希望を持ち続けている信徒達に何と言われますか?

答え:  問題を理解し,私達が真の伝統と真の信仰の道を真っ直ぐ断固として進み続ける様正確に助けてくれる本物の信徒達は,私が試みているローマへのアプローチ(接近)は危険な物であり,時間を浪費しているだけだと助言してくれました.だが,私は最後の瞬間まで,ローマには僅かなりとも誠実さを持つ人達が居るだろうと望みを懸けました.従って,私は最大限の努力をしなかったと非難される事は無いでしょう.だから「ローマと何としても合意しなければ」と言う人達に,私は今でも,ローマとの交渉中に私は必要以上の努力をしたと言えると思います

( "Q; What can you say to those of the faithful who still hope in the possibility of an agreement with Rome?

A: Our true faithful, those who have understood the problem and who have precisely helped us to continue along the straight and firm path of Tradition and the Faith, told me that the approaches I was making towards Rome were dangerous and that I was wasting my time. Yet I hoped until the last minute that in Rome we would witness a little bit of loyalty, so I cannot be blamed for not having done the maximum. So now too, to those who say to me, “You’ve got to reach an agreement with Rome,” I think I can say that I then went even further than I should have." )

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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(訳注 2・1 )

「 善良なる主(ぜんりょう なる しゅ)( "The Good Lord" )」

・大宇宙のあらゆる存在を創造された永遠・唯一・真の神,全被造物の真の主であられる(在・有).

・時空を超えて存在され,しかも善良な御方であられる.

→真の神の御名=「在(いま)すもの」(旧約聖書・脱出の書〈出エジプト〉:第3章1-20節〈14節〉を参照.(EXODUS III, 1-20(14) "I AM WHO AM", "HE WHO IS" ).

(訳注 2・2 )

「 真の伝統(まことの でんとう)( "Tradition" )」

・「唯一の真の神」は,大宇宙にあまねくゆきわたる(普く/遍く 行き渡る)(=普遍〈ふへん=公(おおやけ)=カトリック(かとりっく) "Catholic" )唯一の真の伝統(ゆいいつの まことの でんとう)を望まれた.

(訳注 2・3)

・羅馬=「古代ローマ・ローマ帝国」に当てられた漢字.

・ローマ=主として「近現代におけるローマ」を指す.

(訳注 3・1)

「真理・真実は永遠に不変且つ不可変である⇔真の信仰=あらゆる時代に適合する信仰 "unchanging and unchangeable Faith" <完全 "perfect" =神 "God" =慈愛 "charity" 」


・使徒聖パウロによるコリント人への書簡:第13章9,10節を参照

→『私達の知識は不完全であり,私達の預言も不完全である.完全なものが来る時不完全な物は滅びる.』

→ 完全なる神・慈愛>真理・信仰.

・神=完全=慈愛であって,あらゆる真理・真実・事実・信仰に優(まさ)る.
したがって,「あらゆる人間の信仰」は神の完全・神の慈愛に服従してこそ「真の信仰」となる.



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訳注を追補いたします.

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(注:本投稿記事〈第389回エレイソン・コメンツ「大司教の感覚 "ARCHBISHOP'S SENSE - II"」〉は2015年5月20日21:00に掲載されました.)
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