エレイソン・コメンツ 第386回 (2014年12月6日)
最近,貴重な E メールの交換記録が私の机に届きました(さいきん,きちょうな いーめーるの こうかん きろくが わたくしの つくえに とどき ました)( " A precious exchange of e-mails came recently over my desk …" ).これは今日,苦しい境遇に悩む多くの人々にきっとお役に立つと思います(これは こんにち,くるしい きょうぐうに なやむ おおくの ひとびとに きっと おやくに たつと おもいます)( "… which I am sure many souls in their difficult circumstances of today will appreciate." ).E メールでは,信仰を持ちながらも世間に見捨てられたと感じている典型的な21世紀の都会の住人が抱く問題が提起されています(いーめーる では,しんこうを もちながらも せけんに みすてられたと かんじて いる てんけいてきな にじゅういっせいきの とかいの じゅうにんが いだく もんだいが ていき されています)( "The problem comes from a typical 21st century city-dweller who has the Faith but feels abandoned." ).ここでお話しする問題解決は私たちの聖母が7世紀にお与えになった預言に基づくものです!(ここで おはなし する もんだい かいけつは わたくしたちの せいぼが なな せいきに おあたえに なった よげんに もとづく もの です!)( "The solution presented here is based on a prophecy of Our Lady from the 17th century ! " )その前に,提起された問題を以下にご紹介します:(その まえに,ていき された もんだいを いかに ごしょうかい します:…) ( "Firstly, the problem:--" ) .
「私はドイツに住む48歳の女性看護師です(わたくしは どいつに すむ よんじゅう はっさいの じょせい かんごし です)( " “I am a female nurse from Germany, 48 years old." ).12年前,ある女子修道院に入り,そこでの生活が好きになり,私は神との関係を深めようと努めました(じゅうに ねん まえ,ある じょし しゅうどういんに はいり,そこでの せいかつが すきに なり,わたくしは かみ との かんけいを ふかめようと つとめ ました)( "12 years ago I entered a Convent and loved it, trying to deepen my relationship with God, …" ).だが,10年後,私はモダニズム(=近代主義)( "the modernism" )が理由で修道院を出なければならなくなりました(だが,じゅうねんご,わたくしは もだにずむ〈=きんだいしゅぎ〉が りゆうで しゅうどういんを でなければ ならなく なりました) ( "… but after 10 years I had to leave because of the modernism." ).修道院が真理( "the Truth" )からかけ離れていたため私には最後の誓(=最終誓願)を立てる事が出来なくなったのです(しゅうどういんが しんり から かけはなれて いた ため わたくしには さいごの ちかい〈=さいしゅう せいがん〉を たてる ことが できなく なった のです)( "I could not take my final vows because the Community was far from the Truth. " ).私は修道院を去る事で天の御父をお喜ばせし,一種のヒロインになれると思ったのです(わたくしは しゅうどういんを さる ことで てんの おんちちを およろこばせ し,いっしゅの ひろいん に なれると おもった のです)( "I thought that leaving would please my heavenly Father and make me a kind of heroine in his eyes, …" ).だが,私は今とても悲しく,神に見捨てられた思いで,ヒロインのような気になれません.(だが,わたくしは いま とても かなしく,かみに みすてられた おもいで,ひろいんの ような きに なれません)( "… but now I am very sad, and feel abandoned by God, not at all like a heroine. " )」
「2年前,私は修道院へ入る前に働いていた病院で仕事を見つけ,そこへ確かに戻りました(にねん まえ,わたくしは しゅうどういんへ はいる まえに はたらいて いた びょういんで しごとを みつけ,そこへ たしかに もどりました)( " “Two years ago I did get a job back in the hospital where I worked before entering the Convent, …" ).だが,周りの人たちは無知かモダンで,信仰を持つ者はおらず,信仰を持つとしても,その理由を理解していない様で,私はそういう世界へ戻った事を知りました(だが,まわりの ひとたちは むちか もだんで,しんこうを もつ ものは おらず,しんこうを もつ としても,その りゆうを りかい していない ようで,わたくしは そういう せかいへ もどった ことを しりました)( "… but here I am back in the world where the people around me are ignorant or modern, where nobody has any faith, and if they do, they don't know why." ).私は秘跡を身近に感じられる仕事を見つけるには年齢を取り過ぎています(わたくしは ひせきを みぢかに かんじられる しごとを みつける には ねんれいを とりすぎて います)( "I am too old to be able to find a job close to the sacraments." ).交代制勤務のため毎週日曜日(訳注・=主日=主イエズス・キリストの日)のミサ聖祭には与れません.一番近くの伝統的ミサ聖祭の執り行われる聖堂まで出掛けようと思えば車で一時間もかかります.(こうたいせい きんむの ため まいしゅう にちようび〈やくちゅう・=しゅじつ=しゅ いえずす・きりすとの ひ〉の みさ せいさい には あずかれ ません.いちばん ちかくの でんとう てき みさ せいさいの とりおこなわれる せいどう まで でかけようと おもえば くるまで いちじかんも かかります)( "Shift work stops me from getting to Mass every Sunday. The nearest Traditional Mass is an hour's drive away." ).そのような訳で,私は暗闇の中に座り,秘跡に近づけないまま毎日を過ごしています(そのようなわけで,わたくしは くらやみの なかに すわり,ひせきに ちかづけない まま まいにちを すごして います)( "So here I am, sitting in the dark, with little access to the sacraments." ).教会や世間の状況はあまりにも混乱している為,私はどうしたら良いのか分かりません(きょうかいや せけんの じょうきょうは あまりにも こんらん している ため,わたくしは どうしたら よいのか わかりません)( "The situation in Church and world is so confused that I just do not know what to do." ).この暗闇から抜け出す出口は何処に有るのでしょうか?(この くらやみ から ぬけだす でぐちは どこに ある のでしょうか?)( "Where is there a way out of the darkness ? " ) 今の生活を如何すべきか 考えるには,私は何処へ行けば良いのでしょうか?(いまの せいかつを どうすべきか かんがえる には,わたくしは どこへ ゆけば よい のでしょうか?)( "Where do I go to figure out what I am supposed to do with my life ? " )」
さて,問題への答えです(さて,もんだいへの こたえ です)( "And now in answer to the problem, …" ).世界的な背教に耐えようと,いわゆる抵抗を続ける私たちの誰もが心に刻み得る次のアドバイスが答えになるでしょう(せかいてきな はいきょうに たえようと,いわゆる ていこうを つづける わたくし たちの だれもが こころに きざみうる つぎの あどばいすが こたえに なる でしょう):--- ( "… advice which any number of us in the quote-unquote Resistance, seeking to withstand the worldwide apostasy, can take to heart:-- " ).
「親愛なる友よ,1634年エクアドルで私たちの聖母は,この不信心で邪悪な時代に住むという恩寵に恵まれた私たち(恩寵と感じないかもしれませんが)にとって助言となるお言葉をある一人の信心深い修道女にお与えになりました(しんあいなる ともよ,せんろっぴゃく さんじゅうよ ねん えくあどるで わたくしたちの せいぼは,この ふしんじんで じゃあくな じだいに すむ という おんちょうに めぐまれた わたくしたち〈おんちょうと かんじない かも しれませんが〉に とって じょげん となる おことばを ある ひとりの しんじん ぶかい しゅうどうじょに おあたえに なりました)( " “Dear friend, in Ecuador in 1634 Our Lady gave to a holy nun almost direct guidance for us in these unholy times which we are blessed to live in (even though they may not feel like a blessing). " ).聖母は,世界的な背教にも拘らず,信心深く信仰と諸々の善徳の宝を維持し続ける人々が常に居るようにするとお約束になりました(せいぼは,せかいてきな はいきょう にも かかわらず,しんじん ぶかく しんこうと もろもろの ぜんとくの たからを いじし つづける ひとびとが つねに いる ように すると おやくそくに なりました)( "She promised that there would always be, despite the worldwide apostasy, souls that would remain faithful and would preserve the treasure of the Faith and virtues. " ).だが,そのような人々は残酷で言いようのないほど長く続く苦悩(=受難・殉教)を受けるでしょうとも仰せになりました」(だが,そのような ひとびとは ざんこくで いいようのない ほど ながく つづく くのう〈=じゅなん・じゅんきょう〉を うける でしょう とも おおせに なりました)( "But they would suffer a cruel, unspeakable and prolonged martyrdom. " ).聖母は次の様に仰せになりました,『人々を辺り至る所に亘る異端の束縛(=異端への隷属・屈従)から解き放つ為には,私の至聖なる子(救世主=キリスト=メシア)によって信仰回復をもたらすべく選ばれた者たちが強い意志,忠誠,勇気,神への信頼を持つ必要があります…(せいぼは つぎのように おおせに なりました,『ひとびとを あたり いたる ところに わたる いたんの そくばく 〈=いたん への れいぞく・くつじゅう〉から ときはなつ ため には,わたくしの しせいなる こ〈きゅうせいしゅ=キリスト=メシア〉に よって しんこう かいふくを もたらす べく えらばれた ものたちが つよい いし,ちゅうせい,ゆうき,かみへの しんらいを もつ ひつようが あります.… ).( "She said, 'In order to free men from bondage to the heresies all around, the souls chosen by my Most Holy Son to effect the restoration will need great strength of will, constancy, valour and confidence in God.…" )…正しいものへの信仰と信頼を試す為,全てが失われると思える様な場面に直面するでしょう.正しくその時こそが信仰回復の愛でたい始まりなのです.』と(…ただしい ものへの しんこうと しんらいを ためす ため,すべてが うしなわれると おもえる ような ばめんに ちょくめん する でしょう.まさしく そのとき こそが しんこう かいふくの めでたい はじまり なのです.』 と)( "… To test this faith and confidence of the just, there will be occasions where all will seem to be lost. Just then will be the happy beginning of the restoration.' " ).」
「私たちの聖母のメッセージの素晴らしい要約はインターネット上で (わたくしたちの せいぼの めっせーじの すばらしい ようやくは いんたーねっと じょう で)
OUR LADY OF GOOD SUCCESS: prophetic evelations made to Vulnetable Mother Mariana de Jesus Torres へ アクセス すると よめます)( " “There is an excellent summary of this message of Our Lady on the Internet at: OUR LADY OF GOOD SUCCESS: prophetic revelations made to Venerable Mother Mariana de Jesus Torres." ).」
「私たちの多くはあなたと似た様な境遇に置かれています(わたくしたちの おおくは あなたと にた ような きょうぐうに おかれて います)( " “Many of us find ourselves in similar circumstances to yours." ).私たちは私たちを導いてくれる規則と修道院長とともに仲間のカトリック信徒たちに囲まれた社会に住めば得られる助けと力を奪われた状態です(わたくしたちは わたくしたちを みちびいて くれる きそくと しゅうどういんちょうと ともに なかまの かとりっく しんとたちに かこまれた しゃかいに すめば えられる たすけと ちからを うばわれた じょうたい です)( "We are deprived of the help and strength which comes from living in a community surrounded by our fellow Catholics with a rule and Superior to guide us." ) .私はあまり信心深い方ではありませんが,それでも秘跡,司祭たち,仲間のカトリック信徒たちを奪われた状態で,自分の身も心も受け付けないような世界で働き続けなければならないとなると,それは途轍もない苦痛です(わたくしは あまり しんじんぶかい ほう では ありませんが,それでも ひせき,しさいたち,なかまの かとりっく しんとたちを うばわれた じょうたいで,じぶんの みも こころも うけつけない ような せかいで はたらき つづけなければ ならないと なると,それは とてつもない くつうです)( "While I am not a religious, it is still a tremendous suffering for me to be deprived of Sacraments, priests and fellow Catholics, and to find myself having to work in the very world which my heart, mind and soul reject." ) .だが,その苦痛は神が私たちの多くにお与えになっているもので,私たちは正にそのような苦痛をこそ受け入れなければなりません(訳注7・1)(だが,その くつうは かみが わたくしたちの おおくに おあたえになっている もので〈やくちゅう ななのいち〉,わたくしたちは まさに そのような くつうをこそ うけいれなければ なりません)(訳注7・2)( "But this is the suffering God is permitting for many of us and the very suffering we must embrace, …" ).私たちは私たちの一人ひとりに神がお示しになった御意志と結ばれた折(わたくしたちは わたくしたちの ひとりひとりに かみが おしめしになった ごいしと むすばれた おり)( "… being in union with His will for each of us, …" ),その御意志が私たちの諸諸の苦痛と私たちの愛する救世主(=神の御独り子イエズス・キリスト)御自身が(御父なる神より)お受け入れになり私たちの(救霊の)為御父なる神に御奉献になった諸諸の御苦痛(=御苦難)とを結び付けているからです(そのごいしが わたくしたちの もろもろの くつうと わたくしたちの あいする きゅうせいしゅ〈=かみの おんひとりご いえずす・きりすと〉ごじしんが (おんちち なる かみ より)おうけいれになり わたくしたちの〈きゅうれいの〉ため おんちちなるかみに ごほうけんになった ごくつう とを むすびつけて いるから です)( "… uniting our sufferings to those which our beloved Saviour suffered and offered for us." ) .(訳注7・3) 私たちは苦痛に耐えることで,救世主を受け入れ,信じる小さな者たち( "His little ones" )と同じ様に神に引き寄せられます(わたくしたちは くつうに たえる ことで きゅうせいしゅをうけいれ,しんじるちいさなものたち〈 "His little ones" 〉と おなじ ように かみに ひきよせられます)( "By so doing we are drawn to Him like His little ones." ) .救世主はあなたを御忘れになってなどおられません(きゅうせいしゅは あなたを おわすれに なってなど おられません)( "He has not forgotten you." ).それどころか,あなたは全てに耐える事で,救世主(=天地の諸王の王)の聖心(=キリストの聖心)( "His Sacred Heart" )と聖マリア(=天地の女王〈天地の諸諸の后の后〉=私たちの天の御母=Our Lady, Notre Dame, etc. )の汚れなき御心( "the Immaculate Heart of Mary" )が切望しておられる慰めを与える事になり(それどころか,あなたは すべてに たえる ことで,きゅうせいしゅ〈=てんちの しょおうの おう〉の みこころ〈=キリストのみこころ〉と せい まりあ〈てんちの じょおう〈てんちの もろもろの きさきの きさき〉=わたくしたちの てんの おんはは= Our Lady, Notre Dame, etc.〉の けがれなき みこころ が せつぼう しておられる なぐさめを あたえる ことに なり)( "On the contrary, by all you endure, you give to His Sacred Heart and the Immaculate Heart of Mary much needed consolation …" ),それによりあなたは信仰を失った者たちの為に諸諸の恩寵を得る事になるかも知れません(それにより あなたは しんこうを うしなった ものたちの ために もろもろの おんちょうを える ことに なる かもしれません)( "… and may perhaps be obtaining graces for those who have lost the Faith.” " ).」
キリエ・エレイソン.
( "Kyrie eleison." )
(主よ憐れみ給え.)
(しゅよ あわれみ たまえ)
「抵抗」の組織化は
上手く行くかも知れませんし,
行かないかも知れません.
(「ていこう」の そしきかは
うまく いく かも しれませんし,
いかない かも しれません.)
( "The “Resistance”
may or may not organize, " )
だが,苦痛は
抵抗に付き物の特徴であり,
同時にご褒美でもあります.
(だが,くつうは ていこうに
つきもの の とくちょう であり,
どうじに ごほうび でも あります.)
( "But suff'ring will be
its hallmark and its prize." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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第7パラグラフの訳注:
訳注7・1, 3
神は私たちの救霊の為,ある人がある苦痛に遭遇する状況を敢えて御許可になる.
神は超自然界・自然界のあらゆる摂理を支配される.
・救世主(キリスト)イエズスは「世の罪を取り除く神の羔〈こひつじ〉」.
・「神の羔」とは「人間の罪の贖いの為に神に奉献される犠牲(いけにえ)の供え物」.
真の御父であられる神に愛された御独り子の神イエズスは,進んで神の羔となられた.
・真の神の真理と正義は厳しく,人間の犯した罪は人間の死後
その霊魂を完全無欠の神の元に帰さない.
・神の慈愛(=真の憐れみ=救世主の犠牲=神へのなだめの供え物)は
神の正義をなだめる.
・神は愛する御独り子が罪深い人間の救霊の為に犠牲となり
死に渡されることをお許しになった.
・従って,救世主の犠牲を信じて受け入れる者は,
彼を通じた救霊の恩寵として,「信仰による義」と「永遠の命」の賜を授かる.
・真の神の忍耐(神の慈愛の犠牲)を意味する救世主の救霊の御業を信じない者は,
慈愛深い神の忍耐を蔑(ないがし)ろにしたことを意味し,
神の真の御怒りを招き,ひいてはその霊魂の永遠の滅びに至ることになる.
・新約聖書の引用
新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第3章9節-5章全章
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訳注7・2
新約聖書の引用
新約聖書 ・ 使徒聖パウロのローマ人への書簡 : 第8章28節(第8章1-38節全章を掲載)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS VIII, 28
ÉPÎTRE DE SAINT PAUL AUX ROMAINS VIII, 28
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS VIII, 28
聖霊の助力・神の霊とキリストの霊は,父と子が送る同じ霊,聖霊である(8・26)
God predestined us to be conformed to the image of His Son / Prædestinavit nos Deus conformesfieri imagini Filii sui
Le Saint-Esprit prie lui-même en nous. Rien ne
peut nous séparer de l’amour de Dieu en Jésus-Christ
"And we know that to them that love God, all things work together unto good, to such as, according to his purpose, are called to be saints."
"Or nous savons que tout coopère au bien pour ceux qui aiment Dieu, pour ceux qui, selon son décret, sont appelés à être saints."
"Scimus autem quoniam diligentibus Deum omnia cooperantur in bonum, iis, qui secundum propositum vocati sunt sancti."
『8-28 神を愛する人すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,
神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.』
(聖書の引用を追補いたします.)
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(注:本投稿記事〈第386回エレイソン・コメンツ「抵抗の勧め(ていこうの すすめ)」"RESISTANCE ADVICE" 〉は2015年2月21日23:53時に掲載されました.)