2014年11月29日土曜日

385 現職教皇 11/29

エレイソン・コメンツ 第385回 (2014年11月29日)

    1949年1月29日,教皇ピオ12世は教皇の重要性について次の様に述べました:(せんきゅうひゃく よんじゅうく ねん いちがつ にじゅうく にち,きょうこう ぴお じゅうにせいは きょうこうの じゅうようせい について つぎの ように のべました:)( "On January 29, 1949, Pope Pius XII made the following remarks about the importance of the Pope: …" )全くの仮説ですが,もし何時の日かローマ(教皇庁)が物理的に崩壊し,勝者カトリック教会の唯一の象徴であるバチカン・バシリカ(バジリカ〈英語読み〉)(聖堂)がその歴史的な宝物や聖なる墓石を廃墟の下に埋めてしまう事になったとしても,教会が解体・分断される事は決してないでしょう(まったくの かせつ ですが,もし いつのひか ろーま〈きょうこう ちょう〉が ぶつりてきに ほうかいし,しょうしゃ かとりっく きょうかいの ゆいいつの しょうちょう である ばちかん・ばしりか(せいどう)が その れきしてきな ほうもつや せいなる ぼせきを はいきょの したに うめて しまう ことに なった としても,きょうかいが かいたい・ぶんだん される ことは けっして ないでしょう)( "If ever one day – speaking purely hypothetically – material Rome were to collapse; if ever this Vatican basilica, symbol of the one and only victorious Catholic Church, were to bury beneath its ruins the historic treasures and sacred tombs which it encloses, even then the Church would be in no way demolished or split. " )キリストがペトロに与えた約束は真実のまま残り,教皇職は教会と同じ様に,その時生存する(現職の)教皇の上に築かれた,唯一つの壊される事のないものとして,永遠に存続するでしょう.(きりすとが ぺとろに あたえた やくそくは しんじつの まま のこり,きょうこう しょくは きょうかいと おなじ ように,そのとき せいぞん する(げんしょくの)きょうこうの うえに きずかれた,ただひとつの こわされる ことの ないもの として,えいえんに そんぞく するでしょう.)( "Christ's promise to Peter would still hold true, the Papacy would last for ever, like the Church, one and indestructible, being founded on the Pope then living.” " )

    この言葉は古くからの教会教理(原文に加えたのは下線「その時生存する(現職の」だけ)であり,現存の通り,確かに私たちの主イエズス・キリスト御自身の御言葉に基づくもの(マテオ聖福音書:第16章16-18節)ですから(この ことばは ふるく からの きょうかい きょうり〈げんぶんに くわえた のは かせん「そのとき せいぞん する〈げんしょくの〉」だけ〉であり,げんぞんの とおり,たしかに わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと ごじしんの みことばに もとづく もの〈まてお せい ふくいんしょ:だい じゅうろく しょう じゅうろく-じゅうはち せつ〉ですから)( "Since these words are classic Church doctrine (only the underlining has been added), resting as they do on Our Lord's own words (Mt. XVI, 16-18), …" ),現職の歴代教皇が公会議派になってしまった1962年以来,数億人のカトリック信徒が同じ様に公会議派,リベラル派になってきたのはさほど驚く事もないでしょう(げんしょくの れきだい きょうこうが こうかいぎはに なって しまった せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねん いらい,すうおくにんの かとりっく しんとが おなじように こうかいぎは,りべらるはに なってきたのは さほど おどろく ことも ないでしょう)( "… then it is small wonder if, ever since 1962 when the living Popes became Conciliar, millions upon millions of Catholics have been driven to becoming likewise Conciliar and liberal." ).教皇空位論者が見る唯一つの問題解決は歴代の公会議派教皇が教皇だった事を否定することでしょう.これは常識に思えるかも知れませんが(きょうこう くうい ろんじゃが みる ただ ひとつの もんだい かいけつは れきだいの こうかいぎは きょうこうが きょうこう だった ことを ひてい する ことでしょう.これは じょうしきに おもえる かも しれませんが)( "The only way out of the problem that sedevacantists can see is to deny that the Conciliar Popes have been Popes at all, which can seem to be common sense, …" ),多くのカトリック信徒にとっては,神により現職の教皇の上に築かれるよう意図された教会は教皇が一人もいなかったら過去半世紀(1962-2014年)の間存在出来なかったはずだと考える方が,より常識的だと言えるでしょう(おおくの かとりっく しんとに とっては,かみにより げんしょくの きょうこうの うえに きずかれる よう いと された きょうかいは きょうこうが ひとりも いなかったら かこ はんせいき〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に - にせん じゅうよねん〉の あいだ そんぞく できなかった はずだ と かんがえる ほうが,より じょうしき てき だと いえる でしょう)( "… but to most Catholics it seems even more to be common sense that the Church designed by God to rest upon the living Pope cannot have existed for the last half century (1962-2014) without one." ).

    中世時代に絶頂を極めたキリスト文明の退潮が歴代の現職教皇たちによってどのようにして現在の堕落へ導かれたかを振り返るのは簡単です(ちゅうせい じだいに ぜっちょうを きわめた きりすと ぶんめいの たいちょうが れきだいの げんしょく きょうこう たちに よって どのように して げんだいの だらくへ みちびかれたかを ふりかえるのは かんたん です)( "It is easy to see how the decline of Christian civilisation since the height of the Middle Ages has led to the present corruption of the living Popes. " ).神がその退潮を罰する為,その驚くべき堕落をお許しになったのであろうと見るのも容易な事です(かみが そのたいちょうを ばっするため,その おどろくべき だらくを おゆるしに なった ので あろうと みる のも よういな こと です)( "It is easy to see how God can have permitted this appalling corruption to punish that appalling decline. " ).だが,容易に理解できないのは,教会の礎である歴代教皇が神への挑戦であるリベラリズム(自由主義)こそがカトリック的だと信じているのに教会が如何に存続できるのか,という点でしょう(だが,よういに りかい できない のは,きょうかいの いしずえ である れきだい きょうこうが かみ への ちょうせん である りべらりずむ こそが かとりっく てき だと しんじて いる のに きょうかいが いかに そんぞく できるのか,という てん でしょう)( "What is less easy to see is how the Church can still live when the living Popes on whom it is founded are convinced that liberalism, war on God, is Catholic. " ).私たちの主の御言葉には 良い木は悪い実を結ばないし悪い木は良い実を結ばない (新約聖書・マテオ聖福音書:第7章18節)とあります(わたくし たちの しゅ いえずす・きりすとの みことば には よい き は わるい み を むすばない し わるい き は よい み を むすばない 〈しんやく せいしょ・まてお せい ふくいん しょ:だい ななしょう じゅうはっせつ〉とあります)( "In Our Lord's own words, A good tree cannot bring forth evil fruit and an evil tree cannot bring forth good fruit (Mt. VII, 18). " ).

    だが,半分良い木,半分悪い木はそれぞれ半分良い実,半分悪い実を結びます(だが,はんぶん よい き,はんぶん わるい き は それぞれ はんぶん よい み,はんぶん わるい み を むすびます)( "But a tree half good, half bad, can produce fruits half good, half bad. " ).全体として見れば,善と悪の混合体は悪ですがぜんたい として みれば,ぜん と あく の こんごう たい は あく ですが)( "Now taken as a whole, a mixture of good and bad is bad, " ),個々に見れば,その混合体の良い部分が悪い分と同じように悪いということではありませんここに みれば,その こんごう たいの よい ぶぶんが わるい ぶぶんと おなじように わるい という ことでは ありません)( "but that does not mean that taken part by part, the mixture's good parts are as bad as its bad parts. " ).肝臓癌は私を殺すでしょうが,それは私が両肺に癌を持っている事を意味しません(かんぞう がん は わたくしを ころす でしょうが,それは わたくしが りょうはいに がんを もっている ことを いみ しません)( "Cancer in the liver will kill me, but that does not mean that I have cancer in the lungs. " ).現職の聖職者たちは,生身の人々と同じ様に,全てが善人あるいは悪人という訳ではありません(げんしょくの せいしょくしゃ たちは,なまみの ひとびとと おなじ ように,すべてが ぜんにん あるいは あくにん という わけ では ありません)( "Now no living churchman, any more than any man alive, is entirely good or entirely bad. " ).私たちは全て死を迎えるまで変わり続ける混合体です(わたくし たちは すべて しを むかえる まで かわり つづける こんごうたい です)( "We are all a fluctuating mixture until the day we die. " ).従って,歴代の教皇の中で,在位期間中に産み出した果実が全く悪だったという教皇が果たしていたでしょうか?(したがって,れきだい きょうこうの なかで,ざいい きかん ちゅうに うみだした かじつが まったく あく だった という きょうこうが はたして いた でしょうか?)( "So can there ever have been a living Pope whose fruits were entirely evil ? " )答えは「ノー」以外 ありません(こたえは「のー」いがいありません).( "The answer can only be, no. " ).その場合,カトリック教会は過去50年の間,公会議派教皇たちが作り出した半分良い果実によって半分だけ存続し(その ばあい,かとりっく きょうかいは かこ ごじゅうねんの あいだ,こうかいぎは きょうこう たちが つくりだした はんぶん よい かじつに よって はんぶん だけ そんぞくし)( "In which case the Catholic Church can have half-lived for the last 50 years on the half-good fruits of the Conciliar Popes, " ),残り半分は教会を浄化すべく神から許されて存続してきた訳です(のこり はんぶんは きょうかいを じょうか すべく かみ から ゆるされて そんぞく してきた わけです)( "with a half-life permitted by God to purify his Church, " ).神は残り半分が教会を潰すことはお許しにならないでしょう(かみは のこり はんぶんが きょうかいを つぶす ことは おゆるしに ならない でしょう)( "but which he would never permit to go so far as to kill his Church. " ).

    これまで,例えば,パウロ6世は聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )(訳注5・1 )を嘆きました(これまで,たとえば,ぱうろ ろくせいは せいしょくしゃの けつぼう〈やくちゅう5・1〉を なげき ました)( "Thus for example Paul VI wept for the lack of vocations." ).ベネディクト16世は伝統を切望しました(べねでぃくと じゅうろくせいは でんとうを せつぼう しました)( "Benedict XVI hankered after Tradition." ).教皇フランシスコでさえ神を人間に引き寄せようとしながらも本気で人間を神に導こうとしています(きょうこう ふらんしすこ でさえ かみを にんげんに ひきよせようと しながらも ほんきで にんげんを かみに みちびこうと しています)( "Even Pope Francis surely means to bring men to God when he drags God down to men." ).歴代公会議派教皇たちの考えは酷く間違っています(れきだいこうかいぎは きょうこう たちの かんがえは ひどく まちがって います)( "So, Conciliar Popes are dreadfully mistaken in their ideas, …" ).彼らは決して曖昧であってはならない信仰について致命的に曖昧です(かれらは けっして あいまいで あっては ならない しんこうに ついて ちめいてきに あいまいです)( "… fatally ambiguous in the Faith where they need to be absolutely unambiguous." ).教会は彼らの下で過去も現在も死にかかっています(きょうかいは かれらの もとで〈したで〉かこも げんざいも しにかかって います)( "The Church has been and is dying beneath them, …" ).だが,彼らの中に依然として残っている良い部分が教会を存続させてきました(だが,かれらの なかに いぜんとして のこっている よい ぶぶんが きょうかいを そんぞく させて きました)( "… but whatever parts in them have still been good have enabled the Church to continue, …" ).ピオ12世が述べたように,彼らは現職の長として現存する教会の本体を存続させる為必要とされてきています(ぴお じゅうにせいが のべたように,かれらは げんしょくの おさとして〈=ちょうとして〉げんぞん する きょうかいの ほんたいを そんぞく させる ため ひつようと されて きています)( "… and they have been needed as living heads to continue the body of the living Church, as Pius XII said." ).そうだとすれば,私たちは彼らが教会を全滅させてしまう等と心配せずに(そうだとすれば,わたくしたちは かれらが きょうかいを ぜんめつ させて しまう などと しんぱい せずに)( "Then let us not fear that they will be allowed to kill off the Church, …" ),彼らのリベラリズムと徹底的に戦い,彼らがカトリックの正道に立ち戻るよう祈願しましょう(かれらの りべらりずむと てってい てきに たたかい,かれらが かとりっくの せいどうに たちもどる よう きがん しましょう)( "… but let us for our part fight their liberalism tooth and nail and pray for their return to Catholic sanity, …" ).何故なら,私たちは教会の命を保つ為彼らを必要としているからです(なぜなら,わたくしたちは きょうかいの いのちを たもつ ため かれらを ひつようと している から です),( "… because we do need them for the life of our Church." ).

    キリエ・エレイソン.


    教会は,如何に悪くても
    現職の教皇たちが必要です.
    (きょうかいは,
    いかに わるく ても
    げんしょくの きょうこうたちが
    ひつよう です.)

    ( "The Church needs living Popes,
     however bad." )


    彼らは,如何に気が狂っても
    教会を全滅させる事は
    ないでしょう.
    (かれらは,
    いかに きが くるっても
    きょうかいを
    ぜんめつ させる
    ことは ないでしょう.)

    ( "Kill off the Church they won't,
     however mad." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




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第5パラグラフの訳注5・1
聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )について:

・vocations
=(教会においては,聖職を)天職(=「職業」・「自分の生涯の使命」)に選ぶことを指す.
「神〈キリスト〉に呼ばれる・召し出される」,「召命を受ける」,等と表現する.

マテオ聖福音書:第4章18-22節(聖福音の御言葉を追って掲載)

(イエズスは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤ北部,異邦人の多いヨルダンのかなたペレアのガリラヤ湖畔で,弟子として漁師ペトロ・アンドレア・ヤコブ・ヨハネを呼ばれた.彼らはすぐ父・舟・網をおいてイエズスに従った.)

・この由来で,公教会では一般にいずれの「職業」" vocations" も「神に呼ばれて従事する天職」を意味し,それぞれの職業に特定の保護の聖人(守護聖人)が置かれている.

・霊魂を持たない動物と異なり,霊魂を持つ人間には,地上に生まれ出でて「単に生計を営み,そして死去する」以上の意義が,人生に課せられている.

・人間は本来,自分がこの世に生まれて来た真の意義・目的を正しく認識し確信して生きるべく,真の創造主・真の神に創造されて存在している.

・あらゆる人間は,真の神の普遍の慈愛・正義・憐み・赦し・信仰・希望に立ち,
この世で自分の存在の真の意義についての正しい確信を保ち,
真の神の御心に適った真実の職業に邁進して生涯を生きて終わることが,
真の幸福の秘訣である.

公教会の主祷文・天使祝詞・栄唱は,真の神の御独り子がお教えになった人間の真の幸福を約束する祈りである.(祈祷文を追記いたします)


・公教要理(カトリック要理)
1.人は何のために,この世に生れて来ましたか.
人がこの世に生れて来たのは,天主(=神)を知り,天主を愛し,天主に仕えて,遂に天国の幸福を得るためであります.」

・人間となり,人間を救うために(天より)下られた真の神の御独り子(=唯一の救世主=キリスト)イエズスの聖福音の御言葉:

新約聖書・マテオ聖福音書:第4章4節,第二法の書:第8章3節
人はパンだけで生きるのではない. 神の口から出るすべてのことばによって生きる.』

・「地上のあらゆる生き物の中で人間のみが霊魂を持つ」
=「神の似姿に創造された地上で唯一の生き物」
→人間は,肉体の他に,霊である神に似せて「霊魂をも併(あわ)せ持った唯一の生き物」として,全能の真の神により地上に創造された.

・霊と真理は世に普遍的な存在である.人種や身分・宗教等の別によらない.

→ヨハネ聖福音書:第4章24節(第1-5章…).

『…イエズスは,「婦人(サマリア人のある女)よ,私の言うことを信じなさい.
*この山でもなくエルサレムでもなく,あなたたちが御父を礼拝する時が来る.
あなたたちは知らないものを拝み,私たちは知っているものを拝んでいる.
救いはユダヤ人から来る.
まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.
御父はそういう礼拝者を望まれる.
神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」と言われた.…』
*シケムに近いガリジムの山

・人間の生命の起源たる神は,人生の真の意味そのものである.

・「神」とは,「大宇宙・自然の摂理」と同意義である.世のあらゆる存在は神のお許しのもとに存在している.

・神はあらゆる事を「慈愛・正義・善」の故に行われるのであり,限界ある人間には,全能の神の存在に対する信仰(見ずして信じる事〈=つまり見えなくても神は唯一の全能者・真実

・善良・正義・慈愛・慈悲・謙遜を愛し,悪を憎まれる方であると信じる事〉)なくして神の御意志(=真理)を理解する事は決して出来ない.


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キリストの代理者たる教皇の天職の意義は永遠に変わらない.

→キリストの御言葉:マテオ聖福音書:第24章35節

天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ.』









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(注:本投稿記事〈第385回エレイソン・コメンツ「現職教皇」 "LIVING POPES" 〉は2015年2月9日22:50時に掲載されました.)