エレイソン・コメンツ 第390回 (2015年1月3日)
客観から外れた心は,悪の一途を辿ります.
(きゃっかん から はずれた こころは, あくの いっとを たどり ます.)
( "Unhooked from the object, minds go very bad. " )
教会も 聖ピオ十世会( =SSPX)も 共に狂っています.
(きょうかいも せい ぴお じゅっせい かいも ともに くるって います.)
( "Church and Society have both gone mad. " )
今日の教会当局者に取って,「確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません.全てが進化しているのです.」(こんにちの きょうかい とうきょく しゃ に とって,「かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにもなく,きょうぎも ありません.すべてが しんか している のです.」)( "For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” " )これは(此れは・是は・惟は)ルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお(御)言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照下さい)(これは るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん-せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉が せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに のべられた おことば です〈せんしゅうの えれいそん・こめんつを さんしょう ください〉)( "So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). " ).大司教はその(其の)生涯の終わりに近づいた時期,ご(御)自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで(其れ迄)以上にはっきりと悟りました(だいしきょうは その しょうがいの おわりに ちかづいた じき,ごじぶんが しんこう ようごの ために なにと たたかって きたかを,それまで いじょうに はっきりと さとりました)( "For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith." ).大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は(だいしきょうの しご まもなく せいぴお じゅっせい かいを とうしゅう した りべらる は〈=じゆう しゅぎ は〉〈みずから りべらるはと じか くしていなかった かも しれませんが〉は)( "Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, …" ),それ(其れ)以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま(儘・侭)今日に至っています(それ いらい,だいしきょうが めいかくに した もんだいの じゅうだい せいを りかい しない まま こんにちに いたって います)( "… have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. " ).従って,私は新年に当たり(当り)(したがって,わたくしは しんねんに あたり)( "Therefore let these “Comments” open the New Year …" ),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるか(有るか)をもう一度明確に提起してみたい(見たい)と思います(えれいそん・こめんつを とおして こんにちの きょうかいと せかいが かかえる ちめいしょうが なんで あるかを もう いちど めいかくに ていき して みたいと おもいます)( "… by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world." ).
〔問答 § 1 邦訳/英語原文〕(もんどう だい いっ こう ほうやく/えいご げんぶん)
今日の教会当局者にとって,「確固とした真実(=真理)は何もなく,教義も有りません.全てが進化しているのです.」これはルフェーブル大司教(1905-1991年)が1991年に述べられたお言葉です(先週のエレイソン・コメンツを参照ください).大司教はその生涯の終わりに近づいた時期,ご自分が信仰擁護の為に何と戦って来たかを,それまで以上にはっきりと悟りました.大司教の死後間も無く聖ピオ十世会(SSPX)を踏襲したリベラル派(=自由主義派)(自らリベラル派と自覚していなかったかも知れませんが)は,それ以来,大司教が明確にした問題の重大性を理解しないまま今日に至っています.従って,私は新年に当たり(当り),エレイソン・コメンツを通して今日の教会と世界が抱える致命傷が何であるかをもう一度明確に提起してみたいと思います.
For today's Church authorities “there is no fixed truth, there is no dogma. Everything is evolving.” So said Archbishop Lefebvre (1905-1991) in 1991 (see last week's “Eleison Comments”). For at the end of his life the Archbishop saw more clearly than ever what he had been up against in his heroic defence of the Faith. Since then the liberals (unknown to themselves as such ?) who took over his Society of St Pius X as soon as he was gone, have still not understood the gravity of the problem as identified by the Archbishop. Therefore let these “Comments” open the New Year by attempting once more to lay open the mortal wound of today's Church and world.
イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに(有りの儘〈侭〉に)知る事は出来ないと言う全く間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立した時(いまぬえる・かんとが,にんげんの こころは きゃっかんを ありの ままに しる ことは できない という まったく まちがった かんがえかたに もとづいて にんげんに よる かみの げんじつ きょひを てつがく てきに かくりつ した とき),( "When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, …" ),世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし(撒き散らし)始めました(せかいじゅうの だいがくの てつがくぶが きょうきを まちじゅうに まきちらし はじめ ました)( "… then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, …" ).人々は自由を自分達の神としたい(為たい)と望み,カントが彼等に最高の解放,すなわち(即ち)客観からの心の解放を与えたからです(ひとびとは じゆうを じぶんたちの かみと したいと のぞみ,かんとが かれらに さいこうの かいほう,すなわち きゃっかん からの こころの かいほうを あたえた から です)( "… because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object." ).
〔問答 § 2 邦訳/英語原文〕(もんどう だい に こう ほうやく/えいご げんぶん)
イマヌエル・カント(1724-1804年)が,人間の心は客観をありのままに知ることはできないというまったく間違った考え方に基づいて人間による神の現実拒否を哲学的に確立したとき,世界中の大学の哲学部が狂気を街中にまき散らし始めました.人々は自由を自分たちの神としたいと望み,カントが彼らに最高の解放,すなわち客観からの心の解放を与えたからです.
When Immanuel Kant (1724-1804) erected man's refusal of God's reality into a philosophical system, based on his utterly false proclamation that the human mind cannot know the object as it is in itself, then the philosophy department of universities all over the world began to spill craziness into the streets, because people wanted to make freedom their god and Kant offered them the supreme liberation, that of the mind from its object.
カントの幻想にまだ(未だ)毒されていないカトリック信徒は(かんとの げんそうに まだ どくされて いないかとりっく しんとは),神と神の天国が自分達の小さな心の外に独立した物として存在しており(かみと かみの てんごくが じぶんたちの ちいさな こころの そとに どくりつ した もの として そんざい しており)( "Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, …" ),従って自分達が永遠に幸福で在りたいと願うなら(したがって じぶんたちが えいえんに こうふくで ありたいと ねがう なら),心は主観的な幻想でなく客観的現実と係わって(=関わって)行くべきである事を知っています(こころは しゅかん てきな げんそう でなく きゃっかん てき げんじつと かかわって いくべき である ことを しって います)( "… and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. " ).そのため(其の為),一世紀半の間,神が御与えになった歴代の反リベラル派教皇達は自由主義世界がこれ以上狂い続けない様にしようと立ち上がり(そのため,いっせいき はん の あいだ,かみが おあたえに なった れきだいの はん りべらるは きょうこう たちは じゆうしゅぎ せかいが これ いじょう くるい つづけ ない ように しようと たちあがり)( "Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, …" ),教会を一流で人気を得た主観主義に影響されない様守って(=保護して)来ました(きょうかいを いちりゅうで にんきを えた しゅかん しゅぎに えいきょう されない よう まもって〈=ほごして〉きました)( "… and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism." ).しかし(然し),1950年代になると,教会の枢機卿や司教達の祈りは(しかし,せん きゅうひゃく ごじゅう ねんだいに なると,きょうかいの すうききょう や しきょう たちの いのりは,),信徒達の心( "their minds and hearts" )を教会内部で「モダニズム(近・現代主義)」として知られる様になった狂気から守り続ける程十分に強くなくなってしまい(終い・仕舞い)ました(しんと たちの こころを きょうかい ないぶで「もだにずむ〈きん・げんだい しゅぎ〉」として しられる ように なった きょうき から まもり つづける ほど じゅうぶんに つよく なくなって しまい ました)( "But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, …" ).その為,1958年のコンクラーベ( "the conclave of 1958" )で彼等は自らの意思で「善良」と目された教皇ヨハネ23世を選出しました(そのため,せん きゅうひゃく ごじゅうはち ねんの こんくらーべで かれらは みずからの いしで「ぜんりょう」と もくされた きょうこう よはね にじゅうさん せいを せんしゅつ しました)( "… and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, …" ).彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうか〈如何か〉は神のみぞ知るですが)(かれは りべらるは で〈みずから そう にんしき していた かどうかは かみ のみぞ しる ですが〉),1962年にまさしく(正しく)あの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました(せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねんに まさしく あの はめつ てきな だいに ばちかん こうかいぎを たちあげ ました)( "… a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council. " ).
〔問答 § 3 邦訳/英語原文〕(もんどう だい さん こう ほうやく/えいご げんぶん)
カントの幻想にまだ毒されていないカトリック信徒は,神と神の天国が自分たちの小さな心の外に独立したものとして存在しており,したがって自分達が永遠に幸福でありたいと願うなら,心は主観的な幻想でなく客観的現実とかかわって行くべきであることを知っています.そのため,一世紀半のあいだ,神がお与えになった歴代の反リベラル派教皇たちは自由主義世界がこれ以上狂い続けないようにしようと立ち上がり,教会を一流で人気を得た主観主義に影響されないよう守ってきました.しかし,1950年代になると,教会の枢機卿や司教たちの祈りは,信徒たちの心を教会内部で「モダニズム」として知られるようになった狂気から守り続けるほど十分に強くなくなってしまいました.そのため,1958年のコンクラーベで彼らは自らの意思で「善良」と目されたヨハネ23世を教皇に選出しました.彼はリベラル派で(自らそう認識していたかどうかは神のみぞ知るですが),1962年にまさしくあの破滅的な第二バチカン公会議を立ち上げました.
Now Catholics not yet contaminated by the Kantian fantasy know that God and his Heaven exist quite outside of, and independently of, their little minds, and so if they want to be happy for eternity their minds had better deal in objective reality and not in subjective fantasy. Therefore for a century and a half a God-given series of anti-liberal Popes stood up to the liberal world going constantly more crazy all around, and these protected the Church from the prestigious and popular subjectivism. But by the 1950's the Church's cardinals and bishops were not praying enough to maintain this protection of their minds and hearts from the madness, known within the Church as “modernism”, and so in the conclave of 1958 they elected one of their own, the supposedly “good” John XXIII, a liberal (unknown to himself as such ? God knows), who duly launched in 1962 the disastrous Second Vatican Council.
第二バチカン公会議がなぜ(何故)破滅的だったのでしょうか?(だいに ばちかん こうかいぎが なぜ はめつ てき だった のでしょうか?)( "Why disastrous ? " )それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって(依って)非難される代わりに(それは,しゅかん しゅぎの きょうき〈きゃっかん てき げんじつの きょぜつ〉が きょうかいの さいこう けんりょく しゃに よって ひなん される かわりに),容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが)(ようにんされ〈いと てき か いと てき でないか かみ のみぞ しる ですが〉),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです(きょうかいの きょうり,こうどうの せいしきな きばんに されて しまった から です)( "Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action." ).これ以上深刻な問題は有りません(これ いじょう しんこくな もんだいは ありません)( "The problem could not be graver." ).救済という神の諸諸の客観的真実(=客観的真理)を守るべく任命された神の真の教会の当局者達が(きゅうさい という かみの もろもろの きゃっかん てき しんじつ〈=きゃっかん てき しんり〉を まもる べく にんめい された かみの まことの きょうかいの とうきょくしゃ たちが)( "The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, …" ),この時以降,自らの主観的な心を通してその真実(=真理)をろ過(濾過)する様になったからです(このとき いこう,みずからの しゅかん てきな こころ を とおして その しんじつ〈=しんり〉を ろか する ように なった から です)( "… were henceforth filtering these through their subjectivist minds." ).最良の葡萄酒(ワイン)を蓄えるのに,如何わしいボトル(=洋酒用瓶)しか持てなくなった状態を想像してみて下さい(さいりょうの ぶどうしゅ〈わいん〉を たくわえる のに,いかがわしい ぼとる (ようしゅ よう びん) しか もてなく なった じょうたいを そうぞう してみて ください)( "Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine." ).これでは破滅の一途を辿るだけです(これ では はめつの いっとを たどる だけ です)( "It can only be ruined." ).今日の公会議派教会当局者達は神の真実(=真理)を破滅させるだけです(こんにちの こうかいぎは きょうかい とうきょくしゃ たちは かみの しんじつ〈=しんり〉を はめつ させる だけ です)( "Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth." ).
〔問答 § 4 邦訳/英語原文〕(だい よん こう ほうやく/えいご げんぶん)
第二バチカン公会議がなぜ破滅的だったのでしょうか?それは,主観主義の狂気(客観的現実の拒絶)が教会の最高権力者によって非難される代わりに,容認され(意図的か意図的でないか神のみぞ知るですが),教会の教理,行動の正式な基盤にされてしまったからです.これ以上深刻な問題はありません.救済という神の客観的真実を守るべく任命された神の真の教会の当局者たちが,このとき以降,自らの主観的な心を通してその真実をろ過するようになったからです.最良のワインを蓄えるのに,いかがわしいボトルしか持てなくなった状態を想像してみてください.これでは破滅の一途をたどるだけです.今日の公会議派教会当局者たちは神の真実を破滅させるだけです.
Why disastrous ? Because the madness of subjectivism (the refusal of objective reality), instead of being still utterly condemned by the Church's highest authorities, was now adopted by them and made (consciously or unconsciously ? – God knows) into the official basis of Church doctrine and action. The problem could not be graver. The officials of God's true Church, appointed to proclaim and defend God's objective truths of salvation, were henceforth filtering these through their subjectivist minds. Imagine having nothing other than filthy bottles in which to store the best of wine. It can only be ruined. Today's Conciliar Church officials can only ruin God's truth.
1991年に(せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに)ルフェーブル大司教が以下の様に述べられたのは,正しくこの為です.(るふぇーぶる だいしきょうが いかの ように のべられた のは,まさしく このためです)( "Here is why the Archbishop said in 1991, …" ).「私達は私達と異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の諸諸の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています(わたくし たちは わたくし たちと ことなる てつがくを もち,ことなる ものの みかたを し,きんだいの もろもろの しゅかん てき てつがく しゃに えいきょう されて いる(きょうかい とっぷ の)ひとびとを あいてに して います)( " “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers." ).彼等に取って,確固とした真実(=真理)は何も無く,教義も有りません(かれらに とって,かっこ とした しんじつ〈=しんり〉は なにも なく,きょうぎも あり ません).全てが進化していると言うのです(すべてが しんか して いると いう のです).これは正しく信仰のフリーメーソン的破壊です(これは まさしく しんこうの ふりーめーそん てき はかい です).幸いな事に,私達(伝統派)には頼るべき(真の)伝統が有ります(さいわいな ことに わたくし たち〈でんとうは〉には たよる べき〈まことの〉でんとうが あります).」
〔問答 § 5 邦訳/英語原文〕(だい ご こう ほうやく/えいご げんぶん)
1991年にルフェーブル大司教が以下のように述べられたのは,まさしくこのためです.「私たちは私たちと異なる哲学を持ち,異なる物の見方をし,近代の主観的哲学者に影響されている(教会トップの)人々を相手にしています.彼らにとって,確固とした真実はなにもなく,教義もありません.すべてが進化しているというのです.これはまさしく信仰のフリーメーソン的破壊です.幸いなことに,私たち(伝統派)には頼るべき(真の)伝統があります.」
Here is why the Archbishop said in 1991, “We are dealing with people (at the top of the Church) who have a different philosophy from ours, a different way of seeing, who are influenced by all modern subjectivist philosophers. For them, there is no fixed truth, no fixed dogma. Everything is evolving. This is really the Masonic destruction of the Faith. Fortunately we (Traditionalists) have Tradition to lean on.”
だが,真の伝統を導いてくれる(呉れる)大司教が亡き今,その真の伝統に何が起きているでしょうか?(だが,まことの でんとうを みちびいて くれる だいしきょうが なき いま,その まことの でんとうに なにが おきて いる でしょうか?)( "But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? " )悲しい哉(悲しいかな),40年の間客観的信仰擁護の先頭に立って来た聖ピオ十世会(= SSPX )トップの権力者達は(かなしいかな,よんじゅう ねんの あいだ きゃっかん てき しんこう ようごの せんとうに たって きた せい ぴお じゅっせい かい とっぷの けんりょく しゃ たちは)( "Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, …" ),自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません(みずからの こころが しゅかん しゅぎに おかされる のを ふせぐに じゅうぶんな ほど しんけんに いのりを ささげて いません)( "… cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism." ).彼等もまた(又・復・亦)客観的真実(=真理)の最重要性を見失っており(かれらも また きゃっかん てき しんじつ〈=しんり〉の さい じゅうよう せいを みうしなって おり)( "They too have lost the primacy of objective truth, …" ),漁師にもてあそ(弄)ばれる魚の様にローマ人達によって(依って・因って)弄ばれています(りょうしに もてあそ ばれる うおの ように ろーま じん たちに よって もてあそ ばれて います)( "… and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman." ).ルフェーブル大司教,どうぞ私達の為にお祈り下さい!(るふぇーぶる だい しきょう,どうぞ わたくし たちの ために おいのり ください!)( "Archbishop Lefebvre, pray for us ! " )
〔問答 § 6 邦訳/英語原文〕(だい ろっこう ほうやく/えいご げんぶん)
だが,伝統を導いてくれる大司教が亡きいま,伝統に何が起きているでしょうか? 悲しいかな,40年のあいだ客観的信仰擁護の先頭に立ってきたSSPXトップの権力者たちは,自らの心が主観主義に冒されるのを防ぐに十分なほど真剣に祈りを捧げていません.彼らもまた客観的真実の最重要性を見失っており,漁師にもてあそばれる魚のようにローマ人たちによってもてあそばれています.ルフェーブル大司教,どうぞ私たちのためにお祈りください!
But what has happened to Tradition without the Archbishop to guide it ? Alas, the authorities at the top of his Society of St Pius X, which for some 40 years spearheaded the defence of the objective Faith, cannot have been praying seriously enough to protect their minds and hearts from being in turn infected by subjectivism. They too have lost the primacy of objective truth, and so they are being played by the Romans like a fish is played by a fisherman. Archbishop Lefebvre, pray for us !
キリエ・エレイソン(きりえ・えれいそん)
(主よ憐れみ給え)(しゅよ あわれみ たまえ)
( "Kyrie eleison." ).
リチャード・ウィリアムソン司教
(りちゃーど・うぃりあむそん しきょう)
* * *
* * *
(注:本投稿記事〈第390回エレイソン・コメンツ「大司教のコメント I "ARCHBISHOP COMMENTED – I" 」( 2015年1月3日付)は2015年6月5日14:40に掲載されました.)