2014年9月20日土曜日

375 事情は変化する 9/20

エレイソン・コメンツ 第375回 (2014年9月20日) 

     私のイタリア人の友人(わたくしの いたりあじんの ゆうじん)(C. C.)は完全に異常な状況下(かんぜんに いじょうな じょうきょうか)での教皇空位論(きょうこう くうい ろん)( "sedevacantism" )は近視眼的な間違い(きんしがん てきな まちがい)に つながりやすいので勧(すす)められないとした上(うえ)で,そうした状況を長期的な視点(ちょうき てきな してん)から考察(こうさつ)しています( "Starting out from arguments against sedevacantism as being a short-sighted error in a wholly abnormal situation, an Italian friend (C.C.) takes a longer view of that situation." ).司祭(しさい)でも神学者(しんがく しゃ)でもない彼(かれ)は,あえて教皇空位論(きょうこう くうい ろん)とは現在の危機(げんざいの きき)を過去の危機(かこの きき)に当(あ)てはめて考(かんが)えようとする教会内の試み(きょうかいの こころみ)のひとつにすぎないと論破(ろんぱ)しています( "Without being a priest or theologian, he ventures the opinion that sedevacantism is merely one of several attempts in the Church to fit the crisis of today into the categories of yesterday." ).カトリック教の神学理論が変わった(かとりっく きょうの しんがく りろんが かわった)ということでなく,その理論を適用(りろんをてきよう)すべき現実の状況(げんじつの じょうきょう)が第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)いらい大きく変わって(おおきく かわって)しまったと言(い)うのです( "There is no question of Catholic theology changing, but the real situation to which that theology has to be applied underwent a sea-change with Vatican II." ).以下は,その変わってしまった現実(げんじつ)について彼が述べた発言(かれが のべた はつげん)の主要な部分(しゅような ぶぶん)です:-- ( "Here is a key paragraph of his on that changed reality:-- " )

     「今日の世界(こんにちの せかい)は神が存在(かみが そんざい)するという客観的現実(きゃっかんてき げんじつ),神の法(かみの ほう)(=モーゼの十戒=律法)に従う必要(したがう ひつよう)があることをいずれも拒(こば)んでいるので正常(せいじょう)ではありません( " “By its refusal of the objective reality of God's existence and of the need to submit to his Law, today's world is not normal, …" ).そして現在(げんざい)見(み)られるカトリック教の結束(けっそく)も神の代わりに人間(かみの かわりに にんげん)を物事の中心に据えて(ものごとの ちゅうしんに すえて)いるので正常(せいじょう)ではありません( "… and the present Catholic unity is not normal either which has put man instead of God at the centre of things." ).教会(きょうかい)( "the Church" )がこのような異常な状況(いじょうな じょうきょう)に辿り着いた(たどり ついた)のはなにも突然起きた(とつぜん おきた)ことではありません( "Nor is it by a sudden swerve that the Church has arrived at this abnormal state of things, …" ).それは,長く複雑なプロセスを経て(ながく ふくざつな ぷろせすを へて)人間が神から離れていった結果(にんげんが かみから はなれて いった けっか)によるもので( "… but following on a long and complex process of moving away from God, …" ),それによる破滅的な効果(はめつてきな こうか)がはっきり表面化(ひょうめんか)したのが第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)です( "… the disruptive effects of which showed up at Vatican II." ).過去数百年(かこ すうひゃく ねん)にわたり崩壊の病原菌(ほうかいの びょうげんきん)が教会内部で育まれて(きょうかい ないぶで はぐくまれて)きたのであり( "For hundreds of years the germs of dissolution have been fostered within the Church, …" ),人間はその病原菌をかくまい続(つづ)け( "… as have the men harbouring these germs, …" ),上(うえ)は聖ペトロ(せい ぺとろ)の座(ざ)(=ローマ教皇聖座=ローマ司教座)( "the See of Peter" )(= Sancta  Sedes〈ラテン語〉)を含(ふく)め教会内支配層(きょうかいない しはいそう)のあらゆる地位を占め(ちいを しめ)るようになってきました.」( "… and they have been allowed to occupy all ranks of the hierarchy, up to and including the See of Peter.” " )

     私の友人(ゆうじん)はさらに続(つづ)けて,もし私たちが現在の教会全体の異常さ(げんざいの きょうかい ぜんたいの いじょうさ)が,かつてないほどひどくなっていることを認識(にんしき)できないとなると,私たちはもはや存在(そんざい)しなくなった現実(げんじつ)を,当(あ)てはまらなくなったことを参考(さんこう)にして解決を図ろう(かいけつを はかろう)とするリスクを冒す(りすくを おかす)ことになるだろうと述(の)べています( "My friend goes on that if one fails to take into consideration this overall abnormality of the present state of the Church, which is unbelievably, yet truly, worse than ever, one runs the risk of dealing with a reality that no longer exists, in terms of reference that no longer apply." ).例(たと)えば教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちは今日の聖職者(こんにちの せいしょくしゃ)たちは賢明(けんめい)にして教育を受けた人(きょういくを うけた ひと)たちなのだから,自分(じぶん)たちが何(なに)をしているのか分(わ)かっているはず)だと思(おも)うでしょうが( "Thus for example the sedevacantists will say that today's churchmen must know what they are doing, because they are intelligent and educated men." ),実(じつ)はそうではないと,C. C.は言(い)います( "Not so, says C.C., …" ).彼らの説教や仕事(せっきょうや しごと)ぶりはもはやカトリック的(かとりっく てき)でなくなっているのに,彼らは自分たちがまったく正統(せいとう)だと確信(かくしん)している( "… their preaching and practice may well no longer be Catholic, but they are convinced that they are wholly orthodox." ).世界全体が狂って(せかい ぜんたいが くるって)しまい,彼らはそれと共に狂った(ともに くるった)だけです( "The whole world has gone mad. They have merely gone mad with it, …" ).理性を失った(りせいを うしなった)ためでなく,理性の活用(りせいの かつよう)を諦めた(あきらめた)ため狂って(くるって)しまったのです( "… not by a loss of reason but by having given up the use of it, …" ).彼らのカトリック教信仰が弱まる(かとりっく きょう しんこう)につれ( "… and as their Catholic faith grows weaker, …" ),信仰の完全な喪失を食い止める(しんこうの かんぜんな しょうしつを くいとめる)べきものがますますなくなってきている( "… so there is less and less to stop them from losing it altogether." ),というのが友人の見方(ゆうじんの みかた)です.

     だが,神が御自らの教会をお見捨てに(かみが おん みずからの きょうかいを おみすてに)なってしまったからに違い(ちがい)ないと反論する人(はんろん する ひと)もいるでしょう( "But then, one might object, God must have abandoned his Church..C. C.は聖書から(せいしょ から)3点の引用を用いてこれに答え(さんてんの いんようを もちいて これに こたえ)ます( "To reply, CC resorts to three quotations from Scripture." ).最初の引用(さいしょの いんよう)は,新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節(しんやくせいしょ・るか せいふくいんしょ:だい じゅうはっしょう はっせつ)です.ここで私たちの主(わたくしたちの しゅ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)は,(再び地上に〈ふたたび ちじょうに〉)自分が戻る頃(じぶんが もどる ころ)に果たして信仰(はたして しんこう)がこの世に残って(このよに のこって)いるかどうかと疑問(ぎもん)を投げ(なげ)かけています( "Firstly, Lk.XVIII, 8, where Our Lord wonders if he will even find the Faith on earth when he comes back." ).この世の終わり(よの おわり)まで教会の不朽性(きょうかいの ふきゅうせい)を保つ(たもつ)には,わずか少数(しょうすう)の司祭(しさい)たちや一般平信徒(いっぱん ひらしんと)(それに数名の司教〈すうめいの しきょう〉)が残(のこ)っていれば十分(じゅうぶん)でしょう(ここで「抵抗運動(ていこう うんどう)」が具体化(ぐたいか)にむけて直面(ちょくめん)している諸々の困難(もろもろの こんなん)のことを考(かんが)えたくなります)( "Obviously a small remainder of priests and laity (with perhaps some bishops) will be enough to ensure the indefectibility of the Church until the end of the world (one thinks of the present difficulties of the “Resistance” in taking shape)." ).同様(どうよう))に,2番目の引用(にばんめの いんよう)は,マテオ聖福音書:第24章11-14節(まてお せいふくいんしょ:だい にじゅうよん しょう じゅういち-じゅう よん せつ)で,この中(なか)で私たちの主イエズス・キリストは,多くの偽預言者が起こって人々を欺き,(不義が増すにつれて)おびただしい人の愛が冷める,と予見しています( "Likewise, secondly, Mt.XXIV, 11-14, where it is foreseen that many false prophets will deceive many souls, and charity will grow cold." ).そして3番目の引用は,ルカによる聖福音書:第22章31-32節で,この中で私たちの主イエズス・キリストはペトロに対し(ぺとろに たいし)自ら改心した後で(みずから かいしん したあとで)兄弟(きょうだい)たちの信仰を堅める(しんこうを かためる)(=堅振〈堅信〉〈けんしん〉する)よう指示(しじ)しています.主(しゅ)はペトロ自身の信仰心(ぺとろ じしんの しんこうしん)が先ず崩れる(まず くずれる)のではないかと強く示唆(つよく しさ)しているわけです( "And thirdly, Lk.XXII, 31-32, where Our Lord instructs Peter to confirm his brethren in the faith after he has converted, strongly suggesting that his faith will first have failed." ).したがって,教会の不朽性(きょうかいの ふきゅうせい)が崩れ(くずれ)なくても,使徒(しと)たちすべてがゲッセマニの園で逃れ去った(げっせまにの そので のがれ さった)ときのように,ペトロをはじめ支配層(しはいそう)のほとんどすべての者(もの)たちの信仰が崩れ得る(しんこうが くずれ うる)のです(マテオ聖福音書:第26章56節)( "So almost the whole hierarchy can fail, including Peter, without the Church ceasing to be indefectible, like when the Apostles all ran away in the Garden of Gethsemane (Mt.XXVI, 56)." ).

     結論(けつろん)として,C. C.が描く明日,明後日の教会(えがく みょうにち,みょうごにちの きょうかい)はカルメル神父(かるめる しんぷ)のそれと次(つぎ)のように著しく似て(いちじるしく にて)います: ( "In conclusion, CC's vision for the Church of tomorrow or the day after strongly resembles that of Fr Calmel: …" )すなわち,私たちはそれぞれの生活状態に応じ(せいかつ じょうたいに おうじ)て各々の義務を果たし(おのおの の ぎむを はたし)( "… let each of us do his duty according to his state of life, …" ),信仰を守る(しんこうを まもる)ための諸々の小さな砦(もろもろの ちいさな とりで)のネットワーク構築に参加(ねっとわーく こうちくに さんか)しましょう( "… let each of us do his duty according to his state of life, and take part in building a network of little forts of the Faith, …" )and take part in building a network of little forts of the Faith, …" ).その砦には諸々の秘跡(ひせき)を確(たし)かなものにしてくれる司祭が一人(しさいが ひとり)いれば( "… each with a priest to ensure the sacraments, …" ),これからは役に立たない(やくに たたない)ような教会の神学理論(きょうかいの しんがく りろん)( "… but with no henceforth inapplicable theology of the Church, …" ),簡単に得られ(かんたんに えられ)ない権威(けんい)ある承認(しょうにん)( "… nor unobtainable canonical approval, …" ),信仰が流れ入って(ながれ はいって)くるかもしれない時代遅れの隔壁(じだいおくれの しょうへき)などなくてもよろしいでしょう( "… nor with any out-dated dividing-walls over the top of which the Faith will have flowed. " ).その砦は真実(しんじつ)により互いに結び(たがいに むすび)つき,慈善(じぜん)(=慈悲・兄弟愛・隣人愛〈=じひ・きょうだい あい・りんじん あい〉) "charity" という相互接触を持つ(そうご せっしょくを もつ)でしょう( "The forts will be united by the Truth and will have mutual contacts of charity." ).それ以上(いじょう)は神の手中(かみの しゅちゅう)にあります ( "The rest is in God's hands.").

     キリエ・エレイソン.

     変化する時代にあっては,
     落ちこぼれにならないよう,  
     (へんかするじだいにあっては  
     おちこぼれにならないよう…)
     ( "In changing times unchanging truths must find
     …" )

     …不変の真実を
     新しい形で活用するように
     しなければなりません.
     (…ふへんのしんじつを
     あたらしいかたちで
     かつようするように
     しなければなりません)
     ( "… New applications, not to be left behind." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注を追補いたします.
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(注:本投稿記事〈第375回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月29日22:30に公開されました.)

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