エレイソン・コメンツ 第267回 (2012年8月25日)
私の好きな諺に 「賢者(けんじゃ)はわが身を責め,愚者(ぐしゃ)は他人を責める」 という中国の諺(ことわざ)があります ( "A favourite proverb of mine comes from China: “The wise man blames himself, the fool blames others.” ).他人にけっして非(ひ)がないという意味でないことは明白です( "Not that others are never to blame, obviously, … " ).だが,私には他人の素行(そこう)を変えさせるなどほとんどというかまったくできませんが,少なくとも理屈(りくつ)の上では自分自身をコントロールできます( "… but that I can usually do little or nothing to change their behaviour, whereas I am at least in theory in command of my own. " ).「キリストにならう」( "Imitation of Christ" ) に書かれているように,私たちは自(みずか)ら犯した罪を考えて得(とく)することはあっても,他人の罪を考えて得することなどまずありません( "As the Imitation of Christ has it, we rarely think with profit on the sins of others, always with profit on our own. " ).(訳注後記)
私がこの古い中国の金言(きんげん)を思いついたのは,「エレイソン・コメンツ」 (第263回) の一読者からいただいた手紙がきっかけです( "This age-old wisdom is called to mind by the letter of a reader of “Eleison Comments” (# 263) …" ).この女性読者は手紙の中で,聖ピオ十世会の司祭たちが一般平(ひら)信徒たちの参列を受けてアメリカ国内各地で執り行い得るトレント(公会議)式ミサ聖祭のやり方がいかに「(第二バチカン)公会議感染症」( "Conciliar infection" )に侵(おか)されているかを指摘し,苦言を呈(てい)しています( "…in which she complains of the “Conciliar infection” that she observes in the way in which Society of St Pius X Tridentine Masses in the USA can be celebrated by the priests and attended by the laity. " ).彼女の悲観的な観察を以下に要約しますが,それは司祭たちや信徒たちをその悲観で困らせるのが目的でなく,私たち一人ひとりがいかに自らの行い(=振る舞い方)を反省すべきかを示唆(しさ)するためです( "If her dark observations are summarized below, it is not in order to overwhelm priests or laity with the darkness, but to suggest how each of us can examine his own behaviour." ).
彼女は手紙全体を通して,「公会議感染症」がここしばらくの間に各地の聖ピオ十世会の教会(=礼拝堂〈聖堂〉,"chapels" )にひそかに忍び込んできたと言っています( "In general she says that the “Conciliar infection” has been creeping into the SSPX chapels for some time." ).状況は悪化の一途(いっと)をたどりもはや絶望的で,すでにその弊害(へいがい)が起きているとさえ極論(きょくろん)しています( "She goes so far as to say that the situation is deteriorating and desperate, and the damage is already done." ).彼女によれば,まるでラテン語が信仰の代わりに最高位を占めるようになっており,ただラテン語でトレント式ミサ聖祭が行われさえすれば,あとはすべてよしといった具合だそうです( "It is as though Latin has taken pride of place over the Faith, as though anything goes if only it is a Tridentine Mass said in Latin." ).一般平信徒は本来のミサ聖祭がどういうものか理解できずに ――ましてそれを心に留(とど)める(=覚え記憶する)こともなく―― ただミサ聖祭に参列するだけで,それが正常だと考えている,と彼女は書いています( "Not having understood – or retained – what the Mass really is, she says, the laity find it normal merely to attend." ).多くの平信徒たちは白昼夢(はくちゅうむ)を見るようにミサに参席し,その後ひどく無礼なやり方( "a very disrespectful way" )で聖体拝領を受けるそうで,それではまるで新教会( "Newchurch" )と同じだというのです( "Many attend Mass daydreaming, and then they receive Holy Communion in a very disrespectful way, just like in the Newchurch. " ).
彼女はカトリック信仰やミサ聖祭についての説明が不十分だと司祭たちを責めています( "She blames the priests for not having sufficiently explained the Faith or the Mass." ).彼らの説教については,自分の話していることを本当に理解しているのか疑わしくなったこともあり,またある司祭の場合には個人的な考えと説教の文脈(ぶんみゃく)が公会議からの受け売りではないかと感じたこともあるそうです( "As for their sermons, she wonders at times whether they understand what they are proclaiming and at times she finds that the personal ideas of the priest and the context of the sermon as a whole come over as Conciliar." ).典礼ルール( "liturgical rules" )は守られず,典礼規定も一貫しておらず,ただミサ典文( "the Canon of the Mass" )だけはてっとり早く読まれる( "Liturgical rules are not respected, rubrics are not consistent, the Canon of the Mass is hurried through." ).手短(てみじか)にいうと彼女は多くの聖ピオ十世会の司祭たちや平(ひら)信徒たち( "layfolk" )が新教会に入るつもりか,あるいはそれどころかむしろ,すでに入ってしまっているとしても驚きではないと言っています( "In brief she is not surprised if a number of SSPX priests and layfolk are ready to join the Newchurch, nay, may even already belong to it." ).
さて,平常心の状態にある者なら,彼女の悲観的な観察が聖ピオ十世会のすべてのミサ聖祭に当てはまるとは言い張らないでしょう.だが,私たちの時代の堕落(だらく)はあまりにもひどいため,彼女が見た事態の劣悪(れつあく)化がごく当たり前に思えるほどです( "Now nobody in his right mind would claim that her dark description fits all SSPX Masses, but such is the corruption of our age that a deterioration of the kind she observes is all too normal." ).堕落は司祭たちや信徒たちに一様(いちよう)に押し寄せています.このことは,同じ堕落が私たちすべてに入り込んでいるのではないかと用心深く観察する必要があることを意味します( "The corruption presses upon priests and laity alike, and it means that all of us need to observe closely how it may be creeping up on ourselves." ).ファティマ(ポルトガル)の修道女,シスター・ルシア(訳注・ "Sister Lucy of Fatima".〈ポルトガル語で "Irmã Lúcia de Fátima"〉 )が1950年代に述べているように,一般信徒は天国へたどり着くのになすべきことすべてを聖職者たち( "the clergy" )に委(ゆだ)ねるなどもはやできなくなっています( "As Sister Lucy of Fatima once said in the 1950’s, the laity can no longer rely on the clergy to do all the work for them of getting them to Heaven." ).実際のところ聖職者たちがそれに応(こた)えられたことはありませんでした( "In fact they never could do so,…" ).だが,怠(なま)けて「従(したが)うこと」( "lazy “obedience” " )は,今日でもいまだにだれもが掻(か)き立てられる共通の衝動(しょうどう)です( "…but a lazy “obedience” is still today a common temptation." ).もし,一般信徒(=平〈ひら〉信徒)の皆さんが自分たちを導(みちび)いてくれる善良な司祭たちを望み,聖ピオ十世会が公会議に走らないよう願うなら,自分たちの家庭がきちんとなるよう ――たとえば,自分自身と自分の家族がどのようなミサ聖祭に参列したらよいかなどについて―― よく観察して決めるようにしてみたらよいのではないでしょうか ( "If layfolk want good priests to lead them, and if they do not want the SSPX to go Conciliar, then let them observe their own household to put it in order – for instance, how do I myself and my family attend Mass ? " )?
私たち司祭について言えば,預言者エゼキエル( "the prohet Ezechiel" )が牧者たち(訳注・"pastors".=(各教会の)主任司祭たち〈=信者たちを司牧する〉.牧者=羊飼い=主任司祭.羊たち=信徒の群れ)に与えた次のような恐ろしい警告(旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節)を忘れさせないことです( "As for us priests, let us not forget the dire warning of the prophet Ezechiel (III, 17-21) to pastors: " ).すなわち,牧者たちが人々にいかに彼らが罪を犯しているかを告げても彼らが罪を犯しつづけるなら,主なる神は人々を罰(ばっ)し,牧者たちに責任を負わせないだろう( "…if the pastors tell the people how they are sinning, and the people go on sinning, the Lord God will punish the people but he will not hold the pastors responsible." ).反対に,もし人々が罪を犯しているのに,牧者たちがそれを彼らに告げなければ,主たる神は人々が犯した罪を牧者たちの責任とみるだろう( "Contrariwise, if the people sin and the pastors do not tell them how they are sinning, then the Lord God will hold the pastors guilty for the people’s sins." ).「審判は神の家で始まるべき」(ペトロの第一の手紙:第4章17節)( " “Judgment should begin at the house of God” (I Pet. IV, 17)." ).(訳注後記)
というわけで,聖ピオ十世会が「公会議感染症」にかかるのを防(ふせ)ぐには私たちすべてが力(ちから)の及ぶ限りなにをどうするかにかかっています( "Therefore it depends on all of us to do what is in our power to prevent the SSPX from catching the “Conciliar infection”." ).今日の状況では,これは口で言うほど易(やさ)しいことではありません.だが,聖パウロが説いているように(コリント人への第一の手紙:第4章3-5節),私たち一人ひとりが自らの罪に目を向けることです.審判を下すのは神です( "That is today more easily said than done, but as St Paul says (I Cor. IV, 3-5), let each of us look to his own sins. It is God who judges. " ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン
* * *
① 第1パラグラフの訳注:
「キリストにならう」 "Imitation of Christ" について.
『キリストにならう』
"DE IMITATIONE CHRISTI" (LATINE, ラテン語)
バルバロ神父 訳 (ドンボスコ社)
からの引用(最終章):
***
第四巻 聖体拝領への信心の勧めはここにはじまる
第十八章
人間はこの秘跡をみだりに詮索してはならない.むしろ謙遜にイエズスに従い,自分の理性を聖なる信仰に服従させなければならない
1 主
《もしあなたが疑いの淵(ふち)に陥ることを避けたいのなら,この深い神秘をみだりに探ることをやめなければならない.神の威光を探る者は,その光栄に眩惑(げんわく)される.
神は,人間の理解を超えることをおこなわれる.聖なる教えに服従し,教父たちの健全な教義に従って歩もうとする敬虔(けいけん),かつ謙遜な真理探究だけがゆるされる.
2 信仰の素朴さと確かさ
理論のけわしい道を捨て,神の掟の平坦で安全な道をたどろうとする単純な心の者は幸せである.あまりにも高遠なことを探ろうとして,敬虔の念を失った人は多い.あなたに必要なのは,知恵の聡(さと)さでも,神の玄義の会得でもなく,信仰と善意の生活である.あなたは自分が住んでいるこの世のことさえ理解できないのに,あなたを超越することをどうして悟れよう.神に服従しなさい,理性を信仰の次に置きなさい.そうすれば,あなたに有益かつ必要なだけ,知識の光が与えられるであろう.
3 誘惑の役割
ある人は,信仰と秘跡について重大ないざないを受ける.しかしそれは,彼らの責任ではなく,悪魔の仕業である.そうしたいざないに気をとめてはならない.
自分の思いと議論してはならない.また悪魔がそそぎこむ疑問に答えてはならない.むしろ,神のみことばを信じ,聖人たちと預言者たちを信じなさい.そうすれば,悪霊はあなたから逃げ去るであろう.しばしばそうしたことを耐え忍ぶのは,神のしもべにとってためになることである.悪魔は,自分が完全に征服している不信仰者や罪人を誘惑せず,かえって信仰ある人を悩ませ,わずらわせるものである.
4 神はあざむかない!
単純な,堅い信仰をもって進み,謙遜と尊敬とをもって,この秘跡に近づきなさい.そうしてあなたの理解できないことを,安らかに全能の神にゆだねなさい.
神はあざむくことはない.むしろ理性を過信する者が自分をあざむいてしまう.
神は,単純な人々と共に歩み,謙虚な人々にご自分を示してくださる.「小さな人たちに知らせ」(詩編119・130),清い心を照らし,好奇心の強い者と高慢な者に,恵みを隠される.人間の理性は弱く,誤りやすいが,まことの信仰は,あざむかれることも誤ることもない.
5 愛の神秘
人間の思想や探求は,信仰から先走ったり反したりすることなく,信仰に従うべきものである.信仰と愛とは,このもっとも尊い,すべてにまさる秘跡において特にあらわれ,ひそかに行動する.永遠,偏在,全能の神は,天においても地においても,「偉大なことをおこない,その不思議なみ業は人知ではかり得ない」(ヨブ5・9).神のみ業が,人知で容易に悟り得るものなら,不思議とも言語に絶するとも言えないのである.アーメン.》
+
聖体拝領への信心の勧めはここに終わる
* * *
"DE IMITATIONE CHRISTI"
『キリストにならう』
序論
「第二の福音書」,「中世の最高の信心書」と称される “De Imitatione Christi” (『キリストにならう』)は,神秘学派の生んだ美しい花であり,キリスト教的修徳書の逸巻であり,聖書に次いで世界中の人が親しみ読んだ本である.
『キリストにならう』,簡潔で飾り気のない正確な文体が特に賞せられ,中世特有の美しいラテン語で書かれ,神への烈々たるしかも慎み深い愛と敬虔が紙面ににじみ出ている.完徳の道に至るための教訓から書き出したこの本は,人間の究極目的である神に我々を導き,神の恵みに希望を置かせ,欠点の矯正と修徳とを勧め,神の光明のうちに生活を営ませ,観想と神秘の奥地である神との一致に招くのである.
霊魂のこのひそやかな旅は,その内部的変遷に従って全四巻に記されている.そして,完徳への歩みには,浄化の道,照明の道,一致の道,の三段階がある.
『キリストにならう』を深く研究するならば,これが,聖ベネディクトの精神と戒律とに,著しく似通っていることに気づくであろう.中世の神秘書の最高峰であるこの二つの本は,互いに補い合い,ベネディクトの戒律が霊魂を完徳に導けば,『キリストにならう』は,霊的な道の頂(いただき)を指し示すのである.
『キリストにならう』は,元来修道者のために修道者が書いたものであるが,しかし一般の修徳書でもある.この本の作者の深い洞察力と学識は,いかなる人間にも,いかなる身分の者にも応用しうるのである.
教義としてのいささかの不純分子も持たないこの作者は,その当時のさまざまな教えを知っていても,実証神学やスコラ神学の学説に傾かず,あらゆる学派を超えた立場で,常に実際的な教えを述べようとする.作者は観想の高さも神秘的歓喜も知り,それに先立つ苦しい試練も経ているが,それも主として実際的な見地に立って記している.
* * *
『キリストにならう』の作者については,この本が生まれた環境について三世紀位前から盛んに学者たちが議論している.とにかくこの本が作者不詳として出版されたことは確実のようである.その後,色々な作者の名が憶測されたが、(F・M・ブレムによると,挙げられた作者の名前は二百以上もあるという),その内でもパリのゼルソン,オランダ人のトマス・ア・ケンピス,ヴェルチェッリ市のヨハンネス・ジェルセニウスなどが特に多くの支持者を持っている.
これについて論戦は十七世紀にとりわけ盛んになって,その当時,ジェルセニウス党とケンピス党が生まれ,ローマの聖省とフランス議会までが引きこまれたほどであった.
フランスでは学界を代表する人々(デュ・カンズ,レノド,マビヨンなど)の会議が開かれて,ジェルセニウスのほうをとることになり,アルネンシス,ボビエンシス,パルメンシスなどの写本が,ケンピス以前のものであると断定された.同じくド・グレゴリも,一八三〇年にデ・アドゥボカティスという写本を発見して,先と同じく断定した.しかし,ロット・デニフレ,ヘイなどは,ケンピス以前のドイツ人の一人が作者であると言った.前世紀の半ばにフランスでは,この本に計画的な構想がなくて内容も正確な論理的な筋道がなく,くり返しが多く,霊的生活への勧告に緊密性がないという理由を挙げて,この本の作者は一人ではなく,フランドルの神秘学派訓戒集(ラピアリウム)であると唱えて,相当な支持を得た.
ところが,「西暦一四四一年,ズウォッレ付近の聖女アニエスの山にて,トマス・ア・ケンピス修士によって完成す」と最後に記してある写本が,ブリュッセルの王室図書館のケンペジアヌス写本と言われて存在する.また,『キリストにならう』の三百四十九の写本を,科学的に研究したポールの説は,ケンピスのほうに大いに傾いているので,ここから,ケンピスが作者だと断定する者も多い.
しかし,論戦は依然として続いており,先の写本の署名は,トマス・ア・ケンピスが書き写した時の署名であるにすぎないという人もいる.なおまた,その写本は,取り消した個所や,不確実な個所,間違いが多いので,デニフレは,「トマス・ア・ケンピスが作者でないとする証拠は,丁度その署名にある」とさえ言っている.ヴァン・ギンネケンは,トマス・ア・ケンピスの作と言われるものは,『キリストにならう』をはじめその他の小冊もすべて否定し,これらは,ゲルハルト・グローテ(アムステルダム,一四九二年)の作であると言い,I・ユビもその説を支持している.
これを見て,現在も,この論戦に確実な結論は生まれないであろうという学者が相当多い.ところが,ジェルセニウス党に言わせれば,自分たちの説こそ,いつか確定的な勝利を得るであろうと主張してゆずらない.以上挙げた古い写本とヴェルチェッレンシス,ヴィチェンティヌス,パタヴィヌスなどの写本,そして昔の翻訳書については,『キリストにならう』がイタリアで,ジェルセニウスの手によって生まれたもので,またその内容も,ケンピス党には不利であると批判されている.一二二〇年から一二四〇年までの間,ヴェルチェッリ市の聖ステファノ修道院長であったヨハネス・ジェルセニウス作だとする支持者が挙げる根拠は,この本の作者をトマス・ア・ケンピスに断定するために少なからぬ妨げとなるのである.
トマス・ア・ケンピスを作者とする人々は,彼の他の小冊と『キリストにならう』との間に文体上の類似が著しいと言っているが,それも反対者によって,「むしろ対立の方が著しく,両者は両立せず,背反する」と否定されている.
ジェルセニウスをとる人々は以下のように言っている,「ラテン系の神秘神学は,ヨーロッパ北部の神秘学と相当異なる.アシジの聖フランシスコ,聖ボナヴェントゥーラ,シエナの聖女カタリナなどには,北部の神秘家の著書にあまり見うけられない情熱的な愛と礼拝と熱心,脱魂などがある.北部の神秘家には,時として神学的により深遠であるにしても,文体があいまいで,思想が紆余曲折(うよきょくせつ)しており,落ち着いた平静な,しかし抽象的な表現が多い」.これがためにジェルセニウスをとる人々は,素朴な,明確な『キリストにならう』は北部の産ではないと言うのである.
確かにトマス・ア・ケンピスの他の著者は,立派ではあるが,『キリストにならう』に比べれば,不自然で作為的なところがある.『キリストにならう』の用語は,いかにも自然で,単純で,すぐ心に入りこむが,ケンピスの著作には,しばしば修辞的な,演説的な用語がある.『キリストにならう』の作者のほうには,決して講壇のジェスチュアがなく,ただ真理の力をもって人の心をひく,えもいわれぬ謙遜な言葉が,担々と語られている.
当時は,わけても神秘文学の分野において,修道者たちの文体は一般に似通っていた.従って,文体からだけ見た内的批判だけでもって,決定的な結論を出すわけにはいかないのである.しかし,『キリストにならう』の単純素朴な文章は、一種の神感を受けたもののようであり,もっぱら修辞を避けて,ごく自然な調子であり,さながら作者の前でその話を聞いている感がする.この作者は,長い修道生活から教えられたにしても,無限の生命の河から水を汲むべく,主の御心の上に休んだ聖ヨハネのように,神の霊に導かれていたのであろう.
『キリストにならう』は,ミシェレによると,「完全な円熟の境地から生まれたもの」のようであるが,この著作のできたのが西暦一四一五年から一四二七年までの間のことであるから,ケンピス(一三七九 - 一四七一年)はまだ比較的若く,彼の他の小冊のほうが,その円熟時代の作になる.他の小冊が『キリストにならう』と比較されるとき,はるかに劣るものであることは明白であるから,(ケンピスを作者だとすれば)円熟時代の修徳的体験が若年の著作よりも劣るというのは,不審なことだと言わざるを得ない.
『キリストにならう』に,独特のドイツ語的表現があると称する学者もいるが,これに対してジェルセニウス党の人々は,イタリア語独特のいい回しが,それ以上にあると反駁(はんばく)している.
要するに,依然として,いずれかを断定し得ない状態にある.その断定は専門の学者に任せることにするが,この問題は作者の問題から国と国との複雑な問題に移行したのであって,個人の好悪や主観的な要素が非常に深く入りこんできた感がする.
研究と論戦との三世紀も,『キリストにならう』をとりかこむ霧をすっかり散らしていないという悲しむべき結論に至るのであるが,しかしデ・サシは,「神がこの本の作者の名を覆って謙遜を喜び給うた」と語り,ヴォルテールは,《世界に役立つこういう著作を「だれそれのもの」として名指す必要がどこにあろう》と言った.
これほど崇高な本が,一人の名に限られることなく,長きにわたる時代の敬虔の象徴として,人類の観想と修徳の花として,自由に,無名のまま輝きわたっていることについては,きっと何かの理由があることであろう.この本が,一つの国,一つの民に束縛されていないということにも,何かの深い意義があるであろう.
この本こそは,キリストの旗をかかげるすべての国とすべての民の霊的な糧(かて)である.神の父性を礼拝し,観想を重んじた霊魂から生まれたがために,作者は不詳であり,すべての信徒を天へ導く目的であるがために,地上の国をもっていない本だと言うにつきるのである.
この邦訳はおおむね,ポールがブリュッセルの王室の図書館写本にもとついて出版した,批判テキスト(フライブルク,一九四〇年)によった.
一九五三年四月十五日 フェデリコ・バルバロ 神父
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② 第5パラグラフの訳注:
「シスター・ルシア」 "Sister Lucy of Fatima" について.
"Irmã Lúcia de Fátima" (ポルトガル語)
ファティマ(ポルトガル)の修道女.
ファティマはポルトガルの聖地で,中部サンタレン県北西部レイリアの南東約20kmにある村.
1917年5月13日に聖母マリア "Nossa Senhora do Rosário de Fátima" が地元の3人の牧童に出現された.
3人の名前はそれぞれ,ルシア・ドス・サントス (当時,10才)と,その従兄妹(いとこ)フランシスコ・マルト(同,9才)およびジャシンタ・マルト(同,7才)の兄妹("Lúcia de Jesus dos Santos, Francisco Marto e Jacinta Marto).
うちルシアは修道女となり97才まで生きたが(1907年3月22日-2005年2月13日),あとの2人は聖母ご出現から2,3年後に,聖母の預言どおり相次いで病死した.
ファティマはそれから有名になり,1928年に建築が開始された壮麗なバジリカ(大聖堂)と,その側に建てられた複数の黙想のための家や病院に,毎年多数の巡礼者が訪れる.大聖堂の正面には広場があり,これまでに多くの奇跡的な病気の治癒が報告されている.
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③ 第6パラグラフの先の訳注:
旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節について
A/ 旧約聖書:預言者エゼキエルの書:第3章17-21節(太字)(第3章全章を掲載)
B/ PROPHETIA EZECHIELIS III, 17-21 (16-21)
C/ THE PROPHECY OF EZECHIEL III, 17-21 (16-21)
EZECHIEL, whose name signifies the STRENGTH OF GOD; was of the priestly race; and of the number of the captives that were carried away to Babylon with king JOACHIN. He was contemporary with JEREMIAS, and prophesied to the same effect in Babylon, as JEREMIAS did in Jerusalem; and is said to have ended his days in like manner, by martyrdom.
D/ 「エゼキエルの書解説」(用語集に掲載)
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A/ 日本語
エゼキエルの書・第3章1-27節
巻物の幻(2章1節から)
1 主は私に仰せられた,「人の子よ,与えられるものを食べよ,この巻物を食べ,イスラエル人に話しに行け」と.
2 私が口を開くと,巻物を食べさせ,
3 *そして仰せられた,「人の子よ,私の与えるこの巻物で腹を養い,はらわたを満たせ」.私はそれを食べた.口の中は蜜のように甘くなった.
4 それから,私に仰せられた,「人の子よ,イスラエル人のもとに行き,私のことばで彼らに語れ,
5 *おまえは不明なことばと難解な話をする民におくられるのではなく,イスラエルの民に向けられる.
6 意味のわからぬ不明なことば,難解な話をする異国の民におくられるのではない.もしそういう民におくったら,彼らはおまえの言うことを聞くだろう.
7 だが,イスラエルは耳をかさない.彼らは私の言うことを聞くのを好まない.イスラエルの家はみな,*恥知らずで心の固いものである.
8 だが私は,おまえの顔を彼らの顔のように固くし,その額を彼らのように固くする.
9 私はその額をダイヤモンドのように,岩よりも固くした.彼らを恐れることはなく,がっかりすることはない.彼らは反逆の民なのだ」.
10 また,私に仰せられた,「人の子よ,私の言うすべてのことばを注意をこめて聞き,心に納めよ.
11 そして,*おまえの民の流され人のところに行って話せ.彼らに向かって,彼らが聞く聞かぬにかかわらず,主はこう仰せられると語れ」.
12 それから,霊が私をそこから持ちあげた.私はうしろで大きなとどろきを聞いた.そのとき,主の栄光はそこから立ちのぼった.
13 大きなとどろきは,互いにすれ合う生き物たちの,翼の音と輪の音が重なったものだった.
14 *霊はそこから私を持ちあげ,運び去った.私の心は激しく興奮していた.私は悲しく立ち去ったが,そのとき主の御手は,私の上に強くおかれていた.
15こうして,彼らの住んでいるところ,ケバル川に沿う流され人のところ,*テル・アビブに行って,七日間呆然(ぼうぜん)としてとどまった.
イスラエルを守るもの
16 七日過ぎて,主のみことばは私に下った,
17「*人の子よ,私はおまえをイスラエルの家の*見張り人にした.私の口のことばを聞くとき,私の名で彼らを戒めるためである.
18 私が悪人に,〈おまえはきっと死ぬ〉というとき,おまえが,彼が生き長らえるように戒めず,その悪い道を離れさすように話さなかったら,彼はその罪のために死ぬが、私は彼の血の責任をおまえに負わせる.
19 だが悪人を戒めても,彼がその悪と不正な道を改めないなら,彼はその罪のために死んでも,おまえは自分を救うことになる.
20 正しい人が不正を行おうとして正しい道をそれるなら,私は*さまざまな妨げをおき,そして彼は死ぬ.おまえがもし,彼を戒めなかったら,その罪のために死んだ彼の行った正しい行為は忘れられ,その血の責任はおまえに要求される.
21 だが,もし正しい人が罪を犯さぬように戒めたために罪を犯さないなら,彼は戒めを聞いて生き長らえ,おまえは自分の命を救ったことになる」.
エゼキエルは唖(おし)になる
22 ここでまた,主の御手は私の上に下った,「立って平原に行き,そこで語ろう」.
23 私は立って平原にいった.するとケバル川のほとりで見たように主の栄光が現れ,私は地にひれ伏した。
24 だが、霊が私に入って立ちあがらせた.そのとき主は,私に話しかけられた,「いって,自分の家に閉じこもれ.
25 人の子よ,見よ,おまえに*なわがかかり,縛(しば)られるから,彼らのところには行けない.
26 また,おまえの舌が上あごにつくようにしよう.そうすれば*唖(おし)になり,彼らを戒めることもできない.彼らは反逆の民なのだ.
27 だが,私が話すとき,おまえは口を開けて言え,〈主は仰せられる,望む者は聞き,望まぬ者は聞くな.実に,彼らは反逆の民である〉」.
(注釈)
巻物の幻(2・1-3・15)
3 巻物は,神のみことばのかたどりである.預言者はみことばを心に刻(きざ)み,燃える火のような心で人にも伝えねばならない.セラフィム〈熾(し=燃える)天使〉は,イザヤの口に触れ(〈旧約〉イザヤの書6・5-7),主ご自身は,エレミアの口に触れられ,そこにみことばをおかれた(エレミアの書1・9).エゼキエルは,その考え方をいっそう現実的な表現で書き記している.
5 まことの神の示しをうけたイスラエル人は,神のみことばを聞くについて,もっともよい状態をもっているはずだった.しかし彼らは聞こうとしない.
7 原文は「額の固いもの」.
11 神は,ユダヤ人の不正を思い,「ご自分の民」とは呼ばれない.
14 ハバクク(ダニエルの書14章)の場合のように,奇跡的に運び去られたと考える必要はない.
15「テル・アビブ」は「麦の穂の丘」という意味で,ここはエゼキエルの活躍の中心地となった.
イスラエルを守るもの(3・16-21)
17-21節 33章1-9節で,これと同じテーマがもっとくわしく扱われている.
*イザヤの書52・8,56・10,エレミアの書6・17,エゼキエルの書33・2,6・7参照.
20 災いや病気などを指しているらしい.
エゼキエルは唖(おし)になる(3・22-27)
25 象徴的ななわのことらしく,「人の中に出るな」と預言者に命じられる主の御意志を表している.
26 ある時まで人々に話すなという主の命令である.しかしこれについてほかの解釈がある.
* * *
B/ LATINE
EZECHIEL III, 16-21
16 Cum autem pertransissent septem dies, factum est verbum Domini ad me, dicens:
17 Fili hominis speculatorem dedi te domui Israel: et audies de ore meo verbum, et annunciabis eis ex me.
18 Si dicente me ad impium: Morte morieris: non annunciaveris ei, neque locutus fueris ut avertatur a via sua impia, et vivat: ipse impius in iniquitate sua morietur, sanguinem autem eius de manu tua requiram.
19 Si autem tu annunciaveris impio, et ille non fuerit conversus ab impietate sua, et a via sua impia: ipse quidem in iniquitate sua morietur, tu autem animam tuam liberasti.
20 Sed et si conversus iustus a iustitia sua fuerit, et fecerit iniquitatem: ponam offendiculum coram eo, ipse morietur, quia non annunciasti ei: in peccato suo morietur, et non erunt in memoria iustitiæ eius, quas fecit: sanguinem vero eius de manu tua requiram.
21 Si autem tu annunciaveris iusto ut non peccet iustus, et ille non peccaverit: vivens vivet, quia annunciasti ei, et tu animam tuam liberasti.
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C/ ENGLISH
EZECHIEL, 3:16-21
The prophet eats the book, and receives further instructions: the office of a watchman.
16 And at the end of seven days the word of the Lord came to me, saying:
17 Son of man, I have made thee a watchman to the house of Israel: and thou shalt hear the word out of my mouth, and shalt tell it them from me.
18 If, when I say to the wicked, Thou shalt surely die: thou declare it not to him, nor speak to him, that he may be converted from his wicked way, and live: the same wicked man shall die in his iniquity, but I will require his blood at thy hand.
19 But if thou give warning to the wicked, and he be not converted from his wickedness, and from his evil way: he indeed shall die in his iniquity, but thou hast delivered thy soul.
20 Moreover if the just man shall turn away from his justice, and shall commit iniquity: I will lay a stumblingblock before him, he shall die, because thou hast not given him warning: he shall die in his sin, and his justices which he hath done, shall not be remembered: but I will require his blood at thy hand.
21 But if thou warn the just man, that the just may not sin, and he doth not sin: living he shall live, because thou hast warned him, and thou hast delivered thy soul.
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訳注をさらに追加いたします.
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