2010年4月26日月曜日

道徳の枠組み

エレイソン・コメンツ 第145回 (2010年4月24日)

その総体的な簡潔さと神授の掟として公布されたという点において,神の十戒(旧約聖書・第二法の書:第5章6-21)は,万人が生来有する良心を通して認識する自然法の極めて優れた提示です.人がこの自然法を否認し違反する場合には,自分に危険が及ぶことを覚悟すべきものです.先週の「エレイソン・コメンツ」で,私はこの自然法が近代芸術の病弊の診断を容易にすると述べました.実際には,この自然法は多くの現代的な問題について診断を下しています.今週はこの(自然法たる)十戒の組み立てについて,聖トマス・アクィナスがその著書「神学大全」第1部第2章100・第6項及び7項でどう分析しているか見てみましょう.

法とは,指導者による社会の秩序化を意味するものです.自然法とは,神による人間社会の秩序化を意味します. ここでの秩序化には二通りあり,ひとつは人間社会を神御自身のおきてに従って秩序立てる(=規律する)こと(訳注・すなわち「人と人との関係=人間関係」…人同士〈横〉の関係を神のおきてのもとに従わせること.),もうひとつは神御自身と人間との間における親しい交わりの関係を秩序立てること(訳注・すなわち「神と個人との間で結ばれる直接的・個人的な相互関係」…主従〈縦〉の関係のもとに人を置くこと.)です(注釈後記).人間社会の中心的な存在かつその主たる目的は神御自身です.したがって,「自然法の表」のうち第一の表が示すのは,神に対する人間の義務(第一戒…偶像崇拝の禁止,第二戒…神に対する冒とくの禁止,第三戒…安息日の順守)であり,それに続き第二の表(第四戒-第十戒)で人間の同胞(隣人)に対する義務が詳細に説かれています.

初めの三つのおきては忠誠,尊重,奉仕の義務を重要な順に示しています.聖トマスの言うところによれば,軍隊における一兵卒の場合,将官に対する不忠義あるいは謀反は無礼よりも悪く,無礼は将官に仕えるのを怠るより悪いとされています.したがって,神と人間との関係では,まず第一に,神以外の神々(訳注・すなわち偶像)を礼拝してはなりません(第一戒).第二に,決して神あるいは神の御名を侮辱(=冒涜(ぼうとく))してはならず(第二戒),第三には,神が要求される礼拝を神に捧げなければなりません(第三戒).

同胞(隣人)に対する人の義務(第四戒-第十戒)についていえば,最も大切なのは自分に命を与えてくれた父と母との関係です.したがって,自然法の第二の表はまず父母を敬う義務から始まります(第四戒).この父母に対する敬意は人間社会の基本ですから,これが欠けると社会はバラバラに崩れてしまいます.それはまさに私たちが「西洋文明」(「西洋崩壊」と呼んだほうがよいでしょう)のいたるところで起きているのを目にしているのと同じ状態です.

十戒のうち残る六つについて,聖トマスは重要な順に分析を続けます.隣人に対する行為による害悪(第五-第六戒)は,単に言葉だけによる害悪(第八戒)よりも悪く,言葉だけによる害悪は思いだけによる害悪よりも悪いのです(第九-十戒).行為による害悪に関していえば,隣人の身体に対する害悪(第五戒,殺すな)は身内に対する害悪(第六戒,姦通を犯すな)より重大であり,身内に対する姦通の害悪は単なる財産に対する害悪(第七戒,盗むな)より重大です.言葉による諸々の害悪(第八戒,偽りの証言をするな)は単に心で思うだけの害悪よりも重大であり,その中では隣人の結婚や家族をうらやむこと(第九戒,隣人の妻を欲しがるな=肉の欲)は,単に彼の財産をうらやむ(第十戒,隣人のものをむさぼるな=目の欲)よりも重大です.

しかし,十戒のいずれの戒律を破ることにも人間の高慢さが関わっています.古代ギリシャ人はそれを「フブリス“hubris”」(訳注・=“arrogance” 思い上がり・不遜・傲慢・自信過剰)と呼びました.高慢さゆえに私は(=人間は)神の命令すなわち神に逆らって立ち上がるのです.ギリシャ人にとって「フブリス」は人の転落のもとでした.今日の私たちにとっては,万人に共通する高慢が現代世界の恐るべき諸問題のもととなっており,その解決は神がおられなければ,つまり神の御顕現(訳注・“Incarnation”.神の御言葉=神の御子イエズス・キリストが人の子として地上にお生まれになった(=肉体を身にまとわれた神=三位一体の神の第二の位格)ということを意味する.)以来,私たちの主イエズス・キリストが仲介されることなしには不可能なのです.イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちをお救いください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *


(第二パラグラフの注釈)

-日本における国家の基礎法「日本国憲法」に見る「自然法(神による人間社会の秩序化)」の実例-

神の支配=法の支配 “Rule of Law” =自然法 “Natural Law” の支配(ここでいう「法」とはすなわち「神の法(おきて)」を指す.)…「自然法」によって万物の創造主たる「神」が人間社会を規律する.

人の支配(人の権力による支配)=国家権力…「実定法(=実証法.自然法の反対概念)」すなわち,人によって(人為的に)経験的事実に基づいて定められる法すなわち「法律」(制定法,慣習法,判例法など)によって被造物たる「人間」が人間社会における個人を規律する

→日本国憲法・前文:2項「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した.…われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する.」“We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.…We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.”

→第98条1項「この憲法は国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない.」

→第99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負う.」

・第97条は,日本国憲法が日本国の最高法規であることの実質的な根拠を示す.

→第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって,これらの権利は,過去幾多の試練に堪え,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである.」

→「自由」…憲法でいう「自由」とは,「自然法(神の真理・正義=生命,存在 “being” )に適う自由」を意味する.「道理や自分の分(ぶ)をわきまえずにしたいことを何でもできる」という意味ではない(権利は義務を伴う).

→「侵すことのできない永久の権利」…神の真理・正義は永遠(=永久)の存在であり(=永遠の命 “eternal life” ),そこから(神により)創造された人間一人ひとりの価値は,人間の権力によっては絶対不可侵のものである(→個人の尊重=基本的人権の尊重).

→つまり,97条は「生来の自然権(神の真理・正義)に基づいた個人の自由」対「人間による不当な“時の権力”」という戦いの歴史を経て現在の「基本的人権の保障」にまで至っていることを示している.

・第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない.」

→この「自由(=個人の生来の自然権)」は常に時の権力者による理不尽・恣意的な権力濫用(らんよう)により都合よく曲解され侵害されやすいので,国民は不断の努力によってその保持に努める必要がある.(真の意味の「自由(神の真理・正義に基づいた生来の自然権)」についての知識を学び,社会に生かす義務がある.)

・ここでいう「憲法」は,人による支配(権力)から,国民一人ひとり(の生来の権利(=自然権))を個人として守る(擁護する)ことを理念とする法であるということを意味する(近代立憲主義憲法・法の支配).

・第二パラグラフで述べられる通り,「神と人との関係」に次いで「人と人との関係」も重要な戒めである(→神の十戒で最も重要な戒め:「①あなたは…主なる神を愛せよ.(第一戒-第三戒)②また隣人を自分と同じように愛せよ.(第四戒-第十戒)」(聖ルカ福音書10章25-37参照)).したがって,「個人の人権」は無制限に許されるものではなく,他人に害悪(心の思い・言葉・行い・怠りによる害悪)を加えるほどに(=他人の権利を侵害するほどに)他者に向かって主張したり,社会で押し通したりしてはならない.

・旧約聖書の「十戒」の個所を後日用語集に記載予定.