2010年4月19日月曜日

近代芸術

エレイソン・コメンツ 第144回 (2010年4月17日)

なぜ近代芸術は醜いのでしょうか?近代芸術とは醜いものでなくてはならないのでしょうか?今日の芸術家たちは気分転換に何かより良いものを創りだせないものでしょうか?そしてなぜ,いざ彼らが何かより良いものを創りだしたときに,その作品は大抵が芸術としては二流か三流で,感傷的で,なんとも本物でないのでしょうか?こうした疑問は,先週考察した,近代美術への途上にあったヴァン・ゴッホのような画家たちによって繰り返し提起されているものです.これらの疑問に答えることは,もし神と人間の魂が本当に存在するなら簡単にできることです.もし霊的な神と霊的な魂が自己を欺いている人間の作ったフィクション(作り話)であれば合理的な答えは存在し得ません.

もし神が目で見ることはできなくても実在される「全能の神たる父であり,すべての目に見えるもの,目に見えないものの創造主」であるとすれば,神は,あらゆる人間の存在(=生命.訳注後記 1.)を構成するため,目に見える人間の肉体に最も密接に結合した目に見えない人間の魂を,人類創造の起源の当初から創造されたのです.人間は創造された時からこれまでずっとこの構成にしたがって生まれてきておりあるいは今後もずっとそのようであり続ける存在なのです.神が精神的な理性すなわち自由意思を備えた人間を創造された趣旨は,神御自身が所有される付帯的・外因的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光のためです(訳注後記 2.).その栄光は,個々の人間が現世においてその自由意思を神を愛し神に仕えるために使うならば,来世で限りなく神に栄光を帰すことで想像を絶するほどに幸福になるにふさわしい者となり得るほどに,その人間一人ひとり個別に増していくものなのです.

では,人は人生においてどのようにして神を愛し神に仕えるのでしょうか?それは,神のおきてに従うことによってです(新約聖書・聖ヨハネ福音書・第15章10節参照.… “私(キリスト)が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう”).この神のおきては,すべての人間の行為の善悪にかかわる道徳上の枠組み,逆らうことはできても逃げることのできない枠組みを成すものです.もし人類がこの枠組みに逆らうならば,彼らは多かれ少なかれ,神,自分自身また隣人と不調和な関係に陥ります.なぜなら,神はこの枠組みを恣意的に創造されたのではなく,神御自身の性質と神に結ばれている範囲内で行動するように定められた人間の性質とが完全に調和するように創造されたからです.

現在,芸術は最も広い意味で,いろいろな素材(例えば,絵具,言葉,音符等々)のあらゆる形の調合と定義されており,それはすなわち,人が他人に対しその心にあるものを伝達するためにとる特別の労ということです.したがって,もしその心が,いかなる瞬間にも人のあらゆる行為について神がお定めになった道徳的枠組みと程度の差はあれ調和している状態になければならない魂に属しているなら,そのような魂から生まれたどんな芸術作品も,その内にある客観的な調和または不調和な状態を反映するはずです.ここで私たちは最初の疑問に答えることができます.

近代芸術がどれを見ても醜いのは,あらゆる近代の魂が日々深く背教に陥っていくばかりの国際社会に属しているからで,多大かつ影響力のあるこれらの魂は故意にせよ無意識にせよ神と敵対状態にあるからです.このような環境に浸された魂を持つ芸術家たちが作った作品はただ,神,自分自身また隣人と彼らとの間における内的な不調和を反映させ得るのみです.彼らの芸術作品が醜いのはそのためです.彼らの魂にまだ本物の調和がいくらかでも残っていれば,本物の美しい芸術作品が生まれ得ます.故意に「よく見えるようにした」芸術作品は調和を装った不調和な願望から生まれます.その効果はいつもどこかしら欺瞞(ぎまん)的あるいは感傷的であり,本物ではなく芸術としては二流か三流なのです.

一方で,もし神と神から生まれて神に帰依するはずの不滅の魂がともに,単なる作り話にすぎないとするならば,そのときにはなぜ美が醜くくてはならず,醜さが美しくてはならないのかについての理由は何もないということになります.それが近代芸術家の物の見方ですが,私が彼らの醜い芸術作品のどれかを醜いと認識すればその瞬間から,私は彼らが自分たち自身のものではないある他の枠組みに反抗しているのだということを暗にほのめかしているということになるのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(第2パラグラフの訳注)

1. 「あらゆる人間の存在(=生命)」…“every human being”について.

・“every human being”…人類創造当時(初めの人アダムの時)から現在までに世界で生まれた全人類を指す.

・神の名(旧約聖書・脱出の書第3章14節)は「在(いま)すもの」=「ヤベ(「主」.「彼は存在する」という意味.)」= “I am being itself.” (私は“存在”そのものである.) これはヘブライ語動詞の異例の読み方で,過去,現在,未来も含めた言い方である.すなわち,「彼はいた,いる,いるだろう」を含む.(バルバロ神父訳・旧約聖書・解説参照)
「〈おまえたちの先祖の神なる主,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神…〉…これは,永遠なる私(神)の名である.この名をもって,代々にわたって,人々は私にこいねがうであろう.」(同15節)

・神は「無」(何も存在しないところ)から「存在」を創造することができる.この「存在」には,「目に見えるもの」と「目に見えないもの」がある.「人間の生命=人間という存在」“human being”の場合は,「目に見える肉体」という存在と「目に見えない魂」という存在を神が創造され,両者が不可分密接に結合したものという構成をとっているのが「一人の人間」,ということを意味する.

2. 「神御自身が所有される付帯的・外部的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光」“his own extrinsic (not intrinsic) glory” と人間の「自由意思」“free-will” について.

・「神御自身の栄光」とは別に,人間は,神から「目に見えない霊的な魂(=「自由意思」=分別をわきまえ自分で判断し自分で取捨選択することができる能力)」(=「神御自身が所有される付帯的・外因的(内因性ではない=神に内在するものではない)栄光」)を肉体とともに与えられている.したがって,個々の人間は神や他者から強制されてではなく,自分自身の「自由意思」によって,神を愛し神に仕える(すなわち神のおきてを守る)ことを選び取ることができ,そうして神に栄光を帰すことができる.そうすることで,その「神に付帯する外因的な栄光」(=神が人間各人に備えられた栄光)は人間一人ひとり個別に増していき,それぞれ来世で永遠に神に栄光を帰し想像を絶するほどに幸福になるのにふさわしい者となっていくことができる.こうして各人ごとに天国に入っていく,ということを意味している.)