エレイソン・コメンツ 第247回 (2012年4月7日)
第二バチカン公会議の恐るべき曖昧性(あいまいせい)に関するいかなる論議についても言えることですが,ヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” が2008年の著書「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” の中で述べられている内容の当否を論じるには長文の学術論文が必要かもしれません.だが,シューラー博士の主な論点はきわめて明快です.第二バチカン公会議をめぐる混迷が続く中,「エレイソン・コメンツ」の読者の皆さまがその内容に接し正しく理解する価値は十分にあると考えます.
物事はたいてい全体と部分から成り立ちますが,その構成の仕組みは例えば一本の樹木(きき)とか積み重ねた硬貨といったように二つの異なる方法に分けて考えることができます.樹木では全体が主要で部分は第2次的です.積み上げた硬貨の場合,部分が主要で全体はさほど重要ではありません.樹木の場合なぜ全体が主要かといえば,枝(えだ)のような部分を切り取っても木はいぜん生き続け新しい枝を生みます.ところが切り取られた枝は生命を失(うしな)い,材木(ざいもく)とか椅子(いす)などといったまったく異なったものに姿(すがた)を変えます.反対に,積み上げた硬貨の中から取り出された個々の硬貨は依然として積み重ねの中にあった硬貨の価値を持ち続けます.何枚も取り出せば,失われるのは硬貨の山であって硬貨の価値そのものではありません.
さて,このことをカトリック教会に当てはめてみます.教会を全体とした場合,それは樹木に当たるのでしょうか,それとも積み上げた硬貨の山にあたるのでしょうか? カトリック教会は三つのもの,すなわち信仰,諸々の秘蹟,ローマの階層(かいそう,=階級)制度によって結ばれた人たちが構成する特別な社会です.この三つの生命はいずれも神ご自身がお与えになったものです.信仰は心の超自然的な徳であり,神だけが与えうるものです.秘蹟には水や油のような物質的要素を用いますが,それを秘跡たらしめるものはそれに込められた超自然的恩寵(おんちょう) “supernatural grace” であり,これも神だけが与えうるものです.同じように階層は自然界の人間から成り立つものですが,それを成す個々は神の導(みちび)きなしには人の霊魂を天国に導くことなど決してできません.
したがって,カトリック教会は,たとえ金貨であっても積み上げた硬貨というより生きている樹木に例(たと)えるべきものです.なぜなら,生命を宿(やど)すあらゆる有機体(ゆうきたい)がそれに存在を与える生命の原理を自らの中に持ち備えているように,カトリック教会は先(ま)ず第1義的に神ご自身を持ち,第2義的に神から与えられた階層を持つことによってその存在と結束(けっそく)を保っているからです.教会の部分を構成するものが分裂により階層から離れたり,異端により信仰から離れたりすれば,その部分はカトリックでなくなり,分離派のギリシア正教や異端のプロテスタント教のように別物(べつもの)になってしまいます.ギリシア正教の信者たちが有効な秘蹟を保持してきたのは事実かもしれませんが,ローマにおける神の代理人 “Christ's Vicar in Rome” との結びつきを絶っている以上,正しい心の持ち主なら誰でも彼らをカトリック教徒とは呼ばないでしょう.
本題の第二バチカン公会議に触れます.同公会議は上述(じょうじゅつ)の比喩(ひゆ)によれば,教会の見方を樹木もしくは葡萄(ぶどう)の木(私たちの主ご自身が用〈もち〉いられた比喩:(新約聖書)ヨハネによる聖福音書・第15章1-6節)から積み上げた金貨に変えました.教会を現代世界に開放したいとの願望から,公会議派の聖職者たちは先ず手始めにカトリック教の境界線を曖昧にしました( L.G. 8 ).そうすることで,彼らはカトリック教会の目に見える境界線の外にも,例えば山積みから取り出された金貨のようなカトリック教会的要素が存在すると振舞(ふるま)うようになりました( U.R. 3 ).そして彼らはさらに,金貨は取り出されても金貨なのだからとの論法(ろんぽう)から,カトリック教会内の救いの要素 “elements of salvation” は教会の外にあっても変わらないと取り繕(つくろ)うようになりました( U.R. 3 ).無数の人々がこの考え方から引き出した当然の結論は「私は天国にたどり着くためにカトリック信者で居続(いつづ)ける必要はない」というものです.これこそが,第二バチカン公会議のいうエキュメニズム(世界教会主義)から生まれる災難(さいなん)です.
私たちは,教皇ベネディクト16世が教会を二分(にぶん)するエキュメニズムと教会を統一するカトリック教理とを結び付けようと努力されていることに話を転(てん)じる前に,上に触れた第二バチカン公会議の諸文書をもう少し詳(くわ)しく検討(けんとう)する必要があります.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第5パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章1-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 1-6 (XV, 1-27)
ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.
*²私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.
あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』
まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』
世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』
(注釈)
ぶどうの木と枝(15・1-11)
*¹ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる.
おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).
*² 霊的な命の泉はイエズスである.
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.
*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).
*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.
まことの愛(15・12-17)
世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).
*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.
*⁷ 詩篇25・19参照.
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