2010年8月1日日曜日

協議の有益性 その2

エレイソン・コメンツ 第159回 (2010年7月31日)

「エレイソン・コメンツ(EC)」の筆者が3週間前(EC第156回で),現在ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で行われている教理上の論議(=協議)を支持するデ・ガラレタ司教の論点を引用したのは,何らかの圧力を受けてのことではないかと案じた読者の方々がおられました.圧力は一切なかったというのがその答えです.ではEC筆者の頭が柔軟に変わったのでしょうか?その答えは,何も変わっていない,ということです.

読者のご不審の理由は当然のことながら,筆者が「EC」の中で,油と水を混ぜることは不可能であることを根拠として,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議が合意に至る望みはほとんどないと再三主張してきたからです.油と水が入った瓶(びん)を激しく振れば,瓶を振り続けている間は混ざり合っていても,振るのを止めたとたんに,両者はまた分離してしまいます.それは水と油が混ざり合わない性質で出来ているからです.油は水より軽いので,必ず水の上に浮いてしまいます.

それと同じ性質上の違いから,真のカトリック教会における神授の教義と新近代主義(=ネオ・モダニズム)による人間中心の教義を混ぜ合わせることはできても,融合させることは不可能です.第二バチカン公会議の「文字」すなわち諸文書は両者を混ぜ合わせましたが,その最高傑作ともいえる,例えば信教の自由に関する「信教の自由に関する宣言」(訳注・ラテン語原文“Dignitatis Humanae”,英語で “Declaration on Religious Freedom” )でさえ,両者を融合させることはできませんでした.公会議後の影響は,その「精神」にしたがって,このことを実証しています.その「公会議精神」は依然としてカトリック教会を分裂させています.教皇ベネディクト16世の「(聖書)解釈学的継続性」とは,両者を激しく,というより決然としてというべきでしょうか,混ぜ合わせ続けるための処方箋なのです.だが神の宗教と人間の宗教は依然として混ぜても溶け合うことはないのです.両者はいつまで経ってもバラバラに飛び散ったままです.

では「EC」の筆者がローマ教皇庁と聖ピオ十世会の協議に賛同するデ・ガラレタ司教を引用したのはなぜでしょうか?二つ理由があります.まず第一に,司教は自らの論議のどの部分においても - 彼の主張を注意深く読んでみてください - 油と水を融合できると期待しても願ってもいません.むしろ逆です.司教は来年の春までに協議が終わることを期待すると述べていますが,このことは,瓶を振り続ければ油と水がいずれは融合するのではないかとの期待を人の心に助長させかねないことに特に配慮し,いつまでも瓶を振り続けるべきではないと明確に示唆(しさ)したものです.第二に,司教の主張は全般にわたって,同協議がもたらすいくつかの副作用に言及しています.これは,協議がもたらす両者間の接触が不凍液の役割を果たすことを言っているのです.すなわち,聖ピオ十世会の凍結を望むローマ教皇庁とローマ教皇庁の凍結を望む聖ピオ十世会の双方のラジエータ(冷却器)が凍結するのを防ぐ不凍液とういう意味です.

エレイソン・コメンツの筆者は,聖ピオ十世会が,明日のローマ教皇庁がカトリック信徒としての良識に復帰してくるだろうその時まで,カトリック信仰の保証を今日のローマ教皇庁から護衛するという神意の使命を怠(おこた)るに至るような問題が起きない限りは,ローマ教皇庁と聖ピオ十世会の接触は普遍教会(訳注後記)にとって有益だという点でデ・ガラレタ司教と一致することを光栄に思います.私たちの主は仰せられます.「天地は過ぎ去るが,しかし私のことばは過ぎ去らぬ」(新約聖書・ルカによる福音書:第21章33節).神は聖ピオ十世会が,神である油と人間である水を混ぜようとするローマ公会議体制に参加することを絶対に禁じておられるのです!

神の御母よ,私たちが使命に忠実であり続けられるようお守りください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(最後のパラグラフの訳注)

「普遍教会」…原英文 “Universal Church”.“Church”(=カトリック教会)と同意義.

神の御子イエズス・キリストは,使徒ペトロを地上におけるキリストの教会の牧者(代理者)として任命し教会の全権を委ねられた.それにより使徒ペトロは初代のローマ司教(=ローマ教皇)となり,いらい歴代のローマ司教によりその座(「ローマ聖座」“Holy See” )は継承され現ローマ教皇ベネディクト16世に至っている.このように,ローマ教皇の権威は「天地の創造主,全能の父である神」(使徒信経より)の御意思に基づいたものである.

“Church” の定義は,①唯一の②聖なる③普遍(公)の④使徒的(使徒継承の)教会( “…unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam”〈ラテン語の使徒信経「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」より抜粋〉)である.

神はこのようにして,神を信じる人々に対し,互いに欠点のある不完全な存在ではあっても,御子イエズス・キリストの愛をもとにして一致するということを命じておられる.(「私(キリスト)は新しいおきてを与える.あなたたちは互いに愛し合え.私があなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛し合え.互いに愛し合うなら,それによって人はみな,あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう.」〈新約聖書・ヨハネによる福音書:第13章34,35節〉)

イエズス・キリストにおける唯一の真の神を信じる信徒たちは本来,キリストの命じられた隣人愛(=キリストのように,人のために自分を犠牲にする愛)のおきてに従い,その愛において上述のようにキリストの代理者たるローマ教皇の下に「一つの群れ」(すなわち一人の牧者と一つの羊の群れ)たるべきであり,かくあるべき信徒たちの総体を “Church” すなわち「カトリック教会」と呼ぶ.